このような深夜ではあるけれど――
ただ連絡先を交換しただけで終えるつもりなど、三葉にはない。
何故なら、離れたくなかったから。
放したくなかったから。
突然自宅前に現れた、この男のコを。
普通に考えれば――彼女はこれでも議員の娘である。ただのストーカーどころでは済まないかもしれない。
だが。
それでも――!
「あ、少しだけ待っててくれる?」
エントランスから先に踏み入ることなく、彼女はバッグからスマートフォンを取り出し耳に当てる。
発信先は同じ建物内。
自分の家。
まだ起きているであろう、中学生の妹に宛てて。
「……もしもし? 今夜はお父さん、帰ってこない……よね……?」
父・俊樹は視察やら根回しのために地方への出張も少なくない。
うろ覚えではあったが、一応確認を入れてみたところ――
「何? また呑み会?」
またって……! 先週末にバイト仲間と呑み明かしたばかりなのに、そう立て続けに大盤振る舞いはできない。
何より、明日は平日で講義もある。徹夜明けで講義を受けるのは心身ともに極めて辛い。
そんな無鉄砲な遊び人と思われるのは癪だが……
「ま、まぁ、そんなとこ……?」
逢ったばかりの男のコと、もう少しだけ傍にいたいから――
そんな理由よりは理解を得やすいといえるだろう。
「お婆ちゃんの方は誤魔化しとくけど……本当に気をつけてね。東京の夜は物騒だから」
言われなくても大丈夫だよ。
だって、世界で一番安心できる人が傍にいてくれるのだし。
そう惚気けたい気持ちを胸にしまい、三葉は年上の顔で取り繕う。
「おまたせ。じゃあ、その……場所、移そうか」
「え、あ、はい」
実のところ、瀧の方はノープランだった。
今を生きる三葉と出逢うことに精一杯で。
既に自分の目的は成就された――瀧はそう認識している。
相手が入れ替わりのことを覚えていないのであれば、時間をかけて思い出してもらうか、
もしくは――新たな関係を築いていくしかない。
少しずつ。
一歩ずつ。
彼女の命は保証された。
もう、急ぐ必要はない。
ゆえに、そのまま帰るつもりだった。
少なくとも、女のコの方から、こんな夜遅くに話し込みたいなどと提案されるとは思いもよらず。
何故なら――瀧は、気づいていない。
三葉の記憶が失われている時点で、すべてを諦めていた。
しかし――
記憶は失っても、残っている想いはある。
立花瀧という少年のことは忘れていても――
今から三年ほど前――まだ糸守が糸守だった頃、
彼女は何故か足繁く東京に通っていた。
しかし、そこに知り合いなどいない。
女子一人で忙しなく、黙々と観光地を巡っていく。
それはあたかも――デートの下見。
彼氏どころか、気になる男子もいなかったのに。
架空の相手を思い浮かべて――何と悲しい人生の無駄遣いだろう。
と、三葉は当時を振り返る。
だが。
それは今日のためだったのかもしれない。
この、立花瀧と名乗る男の子と、素敵な時間を過ごすための。
願わくは、すぐにでも彼と街に繰り出したい。
しかし――
お洒落な喫茶店も、
楽しげな雑貨屋も、
賑やかな遊園地も――
こんな時間では軒並みシャッターを下ろしている。
だが、彼女の空想は、その程度で収まることはない。
暗くなってから来たら綺麗だろうな――
そんな思いを馳せている場所が、三葉にはあった。
都内の電車は日付が変わっても走り続けている。
今からでも充分間に合うだろう。
そんな目論見が彼女の中で駆け巡っていることを、瀧は知らない。
てっきり、駅前のファーストフード店にでも入るのかと思っていたが……その目前で道を逸れ、駅の改札へと向かっていく。
自分をどこに連れて行こうというのか……瀧には、宮水三葉という女性が何を考えているのか、よく分からなくなっていた。
それでも、彼の心の底は三葉と変わらない。
ようやく出逢えた大切な人と、離れたくないと思う気持ちだけは。
***
海にかかる大橋は欄干に沿ってライトアップされており、そこを歩いているだけで幻想的な気分に浸ることができる。
とはいえ……
如何に景観が美しくとも、このまま夜を明かすことは難しい。
すでに、終電は行ってしまっている。
観光地だけに、店が閉まるのはむしろ早い。
何故なら……人々は然るべき宿泊施設に泊まるから。
オフシーズンだけに、部屋探しに苦労することはないだろう。
だが――
三葉にはそれを言い出せない。
初対面の男のコと、いきなり外泊なんて節操がなさすぎる。
二人きりで個室に入って、何もないなんてありえない。
むしろ、三葉自身が耐えられない。
きっと、手を握ってしまうだろう。
肩を寄せ合ってしまうだろう。
そうして温もりを感じていては、唇を求めずにはいられない。
一度柔らかさを交えてしまえば――どこまでも深みに溺れてしまう。
そこに、初めてへの不安や恐怖はない。
何故なら、不思議なことに――
彼女は、そこにあるものを知っていた。
知り得ないはずの異性の身体を。
ちょこんと突き出した小さな乳首も、
強く引き締まった硬いお尻も、
そして何より、完全に異なる自分には存在しないところまで――!
握って、擦る感触までしっかりとこの手に残っている。
見たことすらないはずなのに。
未知どころか、むしろ懐かしく、
取り上げられたものを取り返しただけ。
だからこそ、思う。
今は――路上だからこそ、一線を超えずに済んでいるのだと。
誰が通りがかるか分からないからこそ、踏み留まれているのだと。
ただし、彼から求められれば、拒むことなどできようもない。
こんな場所だし、
誰かが見ているかもしれないし――
一応、そんなことを言ってはみるだろう。
しかし……
橋を下りて、静まり返った観光地を歩きながら、二人は様々な会話に興じてきた。
が、ここ一時間くらい、誰ともすれ違っていない。
これでもし、そこの建物の陰にでも誘われたら、
あっちの生け垣の裏側にでも導かれたら――!
そこでの自分を簡単に想像できてしまう。
むしろ、それを望んでしまう。
だけど――
彼がそれを言い出すことはないだろう。
何しろ、あの幻想的な光の中で――手さえつなごうとしなかったのである。
さらには、交わす言葉に色気もない。
極めて健全な身の上話も興味深くはある。
だが、三葉が本当に知りたいのはそこではない。
恋人はいるのか、
想い人はいるのか、
さもなくば、好みの女性は――
しかし、瀧は自らの恋愛観を一向に口にしようとしない。
それを焦れったく思う一方――
三葉の中に、不可解な期待感が募ってゆく。
彼女が漠然と思い描いていたのは、まさにそんな男のコだった。
行動力はあっても妙に奥手で、本当に切羽詰まらないと動き出そうとしない。
一度その気になれば、あんな時間にだって――偶然立ち寄った、というわけでもないのだろう。きっと、長い間待っていてくれたはずだ。
それなのに、あんな短い邂逅だけで満足してしまっている。
男のコから迫ってくれたら楽だけど、
迫ってこないからこそ惹かれてしまう。
この人こそが、そこはかとなく感じていた、
糸守と共に失ってしまった、大切な想いに繋がっているのだと。
そんな淡い感覚に――三葉は知らず知らずのうちに惹かれていく。
二人きりになりたい。
それも、良い雰囲気を感じられるような空間で。
既に、語るべきことは語り尽くしている。
三葉が忘れてしまった、これまでの瀧のことを。
瀧が知らない、それからの三葉のことを。
だからこそ、望んでいるのは、これからのこと。
しかし――それを伝えるのは言葉ではない。
男として、女を求め、
女として、男を受け入れる――
黙って傍に寄り添っていては、湧き起こる胸の疼きも収まらない。
いつの間にか、夜を彩る眩い装飾は遥か彼方へ。
観光名所と呼ばれる場所から離れてしまえば、そこはただの道端にすぎない。
誰が通ることもなく。
誰に見られることもなく。
仮に見られたとしても、恋人たちが集う土地柄なのだから――!
三葉とて、このような時間に来たのは初めてである。
ゆえに、いま、そこがどうなっているかは判らない。
自分と同じように考えているカップルがどれだけいることか……
それでも、足を運んでみるしかない。
かつて、この日を夢見て歩いた道なのだから。
瀧は、三葉に促されるままに、名も知らぬ公園へと連れられてゆく。
中は綺麗に整備されている一方、景観を気遣って残されている緑地も広い。
舗装路を少し外れただけで、照明も届かなくなる。
暗がりの中に潜めば、誰に気づかれることもないだろう。
例えそこで、
どのようなことを、
どのような姿で執り行っていたとしても。
思い描かれるのは――慣れ親しんだ同い年の女子ではない。
今ここで、隣を歩いている大人の女性と――!
不覚にも淫らな妄想を過ぎらせて、瀧は恥じて深く俯く。
まるで叱られた子供のように、彼女の隣に従って。
だが、その小径を抜けきると――
「ほら見て、瀧君」
ここまで足下ばかりを眺めていた彼だが、言われたとおりに顔を上げる。
すると――
「…………!」
しばらく前に渡りきった光の大橋がこんな近くに掲げられている。
とはいえ、辺りはただ芝生が広がっているだけで、水辺とを隔てる柵もない。
ここは案内所で勧めるような観光スポットではなく、いわゆる、穴場と呼ばれる場所なのだろう。
海を臨める公園の芝生の上に、二人は並んで腰を下ろした。
そして……夜空に渡された輝きを見上げるために、つい寝そべってしまう。
時間が時間だけに、油断すれば寝入ってしまいそうだ。
しかし――
三葉は静かにそれを待つ。
遠ざかりそうな意識を必死に縛り付けて。
美しい架け橋を眺めているうちに……瀧の目蓋が一瞬だけ落ちた。
その僅かな間を狙って――
……ちゅ。
イタズラのような軽い触れ合い。
唇の先と、唇の先だけの。
どうしても我慢できなかった。
こんないい雰囲気の中で何もせずに夜を明かすことなど。
だが……
その柔らかさによって“彼女”の瞳は開かれた!
「…………ッ!?」
昨夜は糸守の自室で布団に入ったはず――瀧の中の三葉は、冷たい背中に驚き戸惑う。
そして何より、目前に迫る二つの瞳は……!?
間近で見つめ合ってしまった今の三葉は慌てて飛び退く。
だが、昔の彼女は事態を把握できていない。
まだ、夢を見ているのかな……?
それにしては、空気が冷たい。
何より、この見慣れた男のコの身体は……紛れもなく、瀧君。
これまで信じなかったわけではない。
瀧が未来の高校生であることを。
しかし、こうなっては信じざるをえない。
そこで申し訳なさそうに項垂れている女の人が、未来の自分であることを。
例え夢であっても、自分以外の相手と、
その……
キスなんてして欲しくない。
だから入れ替わりが起きていて、これは、未来の自分なのだ、と。
そう結論付けることにした。
はっきりしない頭で。
寝起きだということはあるだろう。
しかも、何故だか身体も疲れている。
状況からして……かなり夜更かししているようだ。
ロクに眠らずに、こんな時間まで。
だけど……
どうやら、未来の瀧君は、未来の自分を見つけ出してくれたようだ。
それだけは、嬉しい。
だから、そんな顔をさせたくない。
これは紛れもなく、深夜のデートなのだから。
「ご、ごめんね。その……そういう雰囲気かな、って」
「…………」
彼女の気持ちはよく判る。
三葉は瀧を想いながら……そのような妄想を繰り返してきたのだから。
例えば、デート帰りの終電の中で、ウトウトと油断した彼の唇にイタズラしたら驚くだろうな……などと。
やっぱりこの人は、未来の自分なんだなぁ、と確信を深められたからこそ、
三葉はこの景色をしっかりと記憶に刻み込む。
ここが、自分のファーストキスの舞台になるのだから。
ここに来ることで、ファーストキスは成されるのだろう。
だが、それを実際に執り行ってしまった身には、罪悪感と悔恨が駆け巡っている。
結局、彼の恋愛関係は聞き出せていない。
もしも既に恋人がいたならば、とんでもないことである。
こうなっては、もう腹を括るしかない。
いかに彼が奥手であろうとも――そんな可愛らしい男子を慈しむ時間は自分の手で終わらせてしまった。
このようなことをしてしまった時点で、自分の気持ちは伝えたも同然である。
もう、立ち止まることすら許されない……!
「瀧君って、好きな人とか……いる?」
それを耳にした高校生の三葉の胸をときめかせる。
自分自身からの告白に喜んでいるわけではない。
これはまさに、思い描いていたシチュエーションだったから。
密かに温めてきたパターンの一つ。
瀧君と出逢って、なかなか言い出さない彼に、恐る恐る尋ねる言葉。
だから、その続きはご都合主義。
妄想の中の彼は、
それを、自分が言ってもいいのだろうか。
身体の持ち主に、無断で。
だけど……
他に恋人がいる素振りはなかった。
むしろ、勘違いでなければ、自分に対して好意のようなものも感じていた。
だから……続けたい。
これまで想い続けて来た夢のようなシーンが、いま現実のものとなろうとしているのだから……!
「お……俺が好きなのは、お前だよ……三葉」
突然の口調の変化に、年上の三葉は驚かされる。
ただし、良い意味で。
ずっと縮めたいと願っていた二人の距離。
どうすれば、詰め寄ってくれるのか。
ここまで、手さえ握ってくれなかった。
きっと、長期戦になるだろうな、と覚悟していた。
が、そのすべてを吹き飛ばすような愛の告白。
その後のことは……三葉の中にもなかった。
この時点で嬉しさと恥ずかしさが溢れ出し――それ以上考えられない。
が、これは妄想ではない。
現実である。
否応なしに、続いていく現実。
だというのに……彼女の唇に微かな温もりがよみがえってくる。
それを、もっと求めていい――彼は、そう言っているのだ。
これではもはや、彼女の理性は耐えられない!
「嬉しい……瀧君っ!!」
疲労は歓喜に塗り替えられていく。
思わず抱きつき押し潰し、続けざまに二度目のキスを。
ただしそれは、深く、奥まで入り混じらせるような。
瀧の中の三葉もまた、意識はすっかり覚醒していた。
身体は異性でも心は同性。
しかも、相手は自分自身。
抵抗したい気持ちは少なからずある。
だが、ここで拒むわけにはいかない。
そんなことをしては、未来の自分が傷ついてしまう。
三年後のため――今は瀧の身体で耐えることにした。
これからされること、求められることを覚悟して。
彼女には、それが手に取るように判ってしまう。
何故ならば――
間違いなくそれは、昨日までの自分自身が思い描いてきたことなのだから。
そうそう、期間限定企画『こんな君の名は。の短編を読んでみたい』というリクは引き続き募集中です。書きやすそうなネタを拾っていきたいと思っているので、お気軽にコメントとか下さいな。