「お兄ちゃん! お兄ちゃん!」
小旅行の準備の最終確認をしていた八幡の部屋に、小柄な少女が飛び込んでくる。
妹の小町だ。
誰に似たのか知らないが、兄には絶対に似ていないと誰からも言われる小町はいつものように表情を忙しく変えながら、けれども明らかにいつも通りではない慌て様で八幡の肩を掴む。
「普段言ってるよね! 俺は絶対に悪い女には引っかからないって! 引っかかってる! 絶対に騙されてるよお兄ちゃん!」
その言葉で小町が何を目撃したのか理解した八幡は、落ち着いた様子で全ての荷物をカバンに仕舞うとそれを背負って立ち上がる。
「じゃ、行ってくるからな。無駄に夜更かしとかするんじゃないぞ」
「私の話を聞いてよおにいちゃん!」
無視して通り過ぎようとした八幡の前に、小町は両手を広げて立ちふさがる。キャラがキャラだけにふざけているように見えるが、目は真剣だ。
できることなら説明したいが、どう説明すれば角が立たず、また小町が納得してくれるのか八幡には解らなかった。ありのままを説明したら絶対に引かれる。世に言う青春のほとんどを諦めた八幡であるが、兄の威厳くらいは守りたいのだ。
「八幡、まだー?」
「何か呼び捨てにされてるし! 妹がいるのに親密感をアピールする人は、多分図々しい人だと思うな!」
人当たりの良い小町にしては、妙に評価が厳しい。女っ気のなかった兄を突然女性が訪ねてくれば疑うのも仕方がない。小町も比企谷家の一員なのである。
本当なら反論するべきなのだろう。陽乃は仮にも生徒会長で、総武高校の生徒の代表だ。八幡にとっては上司でもある。文武両道で頭の回転も早い。八幡が今まで出会ったことのある人間の中で文句なく最強の存在が、雪ノ下陽乃である。
だが、小町の評も的を得ていた。自分の好き放題やることについて陽乃は他の追随を許さない。八幡が今まで出会った人間の中で、最も捻じ曲がった性格をしているのもまた、陽乃だった。
人間としては上等な部類に入るのだろう。社会に貢献しているし『友達』も多いし、結果も出せる。実家も裕福だ。本人も有能だから将来は稼ぐに違いない。主夫を目指す八幡としては中々の優良株であると判断せざるを得ないが、文句なしの美人であるという要素を差し引いても、伴侶にしても良いかと言われれば首を捻らざるを得なかった。
どういう関係にしても陽乃と付き合っていくには努力と忍耐が不可欠だ。退屈はしないが、色々な意味で疲れる。高校一年にして人生最大に試練にぶつかっているような気さえした。
「まぁ、なんだ……悪い人ではない」
「心が篭ってないよ!」
納得していない小町をついに無視して、荷物を持って歩く。小町はぶーぶー文句を言いながらも離れようとはしない。知らない女の人についていく危険性を、懇々と説いてくる。こんなに心配してくれるのかと兄として胸が熱くなる八幡だったが、ここで妹を持ち上げてしまうと陽乃に目撃される。
相変わらず陽乃のことは理解できない八幡だったが、人の好みは多少なりとも察することができるようになった。心底からかは判断がつかないものの、小町のような感情のはっきりと出る小動物系は陽乃の好みに多少は合致するようである。
兄としては危険人物の視界に入れることすらできれば遠慮したいのだが……考えがまとまらないうちに八幡は玄関に到着していた。陽乃と、静がいる。学校外であるから二人とも当然私服だ。
学校外で見るのは初めてのことだから随分と新鮮に感じる。比企谷八幡でなければ、心動かされ恋に落ちていただろう。言い知れない輝きを放つサマーワンピース姿の陽乃をなるべく視界に入れないようにしながら、
「お待たせしました」
荷物を床に置き、靴を突っかけていると玄関までついてきた小町がふーっ、と陽乃に牙をむいていた。陽乃を敵と認識したらしいが相手が悪い。陽乃の視線から小町を隠すように移動するが、その動きは読まれていた。小町を眺めていた陽乃の目が僅かに細まる。嗜虐的なそれは明らかに捕食者の笑みだった。
「八幡、妹さんを紹介してもらえるかな?」
「……はい。ほら、小町」
気は引けたがここで抵抗するとよりダメージを負うことになる。妹を生贄に差し出すようで心は痛んだが、小町の方はと言うと足音も高く陽乃の前に足を踏み出した。まるで対決姿勢である。四つ下であるから小町はまだ小学生。高校生の陽乃と比べると大分上背に差がある。頭一つは確実に低い小町は陽乃を見上げていたが、一歩も引くものかという意思はこれでもかというくらいに感じられた。
兄として小町とは結構長い付き合いになるが、これほどまでに闘争心をむき出しにした小町を初めて見た気がする。こういう小町も勇ましく可愛らしいが……捕食者は小町を見下ろすとますます笑みを深くし――
「かわいい!」
臨戦態勢の小町を無視するように抱きしめると、頭をぐりぐりと撫で始める。小町は激しく抗議の声を挙げるが、そんなことはおかまいなしだ。助けを求めるように静に目を向けると、そっと逸らされた。我関せずというように携帯電話を弄りはじめる。こんな早朝に連絡を取り合うような友人がいるとは思えないから、ニュースでも見ているのだろう。
気持ちは良くわかる。陽乃による陽乃空間が展開されている中にぼっち属性の人間が踏み込むには、かなりの勇気と体力が必要だ。あれはリア充のみが踏み込める、リア充のための空間。妹の危機に直面している八幡ですら、踏み込むことは躊躇われるほどである。
静と責任を押し付けあっているうちに、小町の方が大人しくなった。陽乃にされるがままである。うーん、と何だか気持ち良さそうな声を挙げるに至ったところで、八幡はようやく踏み込む決心をし、小町を陽乃から引き剥がした。
「これはウチの妹なんで、その辺りで一つ」
「八幡ずるーい! こんなかわいい妹がいたのにどうして今まで黙ってたの?」
「こういうことになるだろうと思ったから黙ってました。どうですうちの妹はかわいいでしょう」
「そうだね。八幡の妹と思えないくらいにかわいいね」
「私はおにいちゃんの妹ですよう」
小町の口調は随分と砕けていた。敵意はもう感じられない。抱きしめられて心境の変化があったらしい。躾けられた犬のような声音に、これが血の成せる業かと軽く落胆する。兄妹揃って下につかねばならないとは、何の因果だろうか。
「ちなみに私にも妹がいるんだけどね。雪乃ちゃんっていって、凄いかわいいの」
「陽乃の妹なんですからかわいいんでしょうね」
「逃げてなければ別荘にいるはずだから、ついたら紹介してあげるね」
「妹さんには、これから行くということは言ってないんですか?」
「もちろん。言ったら逃げられちゃうでしょ?」
当たり前のように言う陽乃の言葉を受けて、八幡は横の小町を見た。
兄と妹、四歳の年の差。世間一般の兄妹の関係と比べると、随分仲が良く懐かれている気はする。家がこうだから世間もそうなのだ、と勝手に思ってしまうのは人間の悪い習性だろう。声音を聞く限り陽乃の方は妹を嫌ってはいないようだが、妹の方までそうだとは限らない。何でもできる姉を自慢に思っているならば良いが、コンプレックスに感じるような性質ならば、完璧超人の陽乃は見ていて苦痛だろう。
こんな姉がいたら、と考える。会ったことのない雪ノ下雪乃に、同情を禁じえない八幡だった。