女王様と犬   作:DICEK

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平塚静は口を出さない

 生徒会室にはすぐについた。質問攻めにはされたが、誰もが女王陛下の言葉を優先した。比企谷八幡は雪ノ下陽乃に呼ばれている。それを邪魔するのは陽乃の意思に反することだ。

 

 どちらが上で、どちらが下か。リア充は上下関係には敏感だ。一度格付けが済んでしまうとそれを覆すのは容易ではない。

 

 それはぼっちでもリア充でも変わらないこの世の真理である。

 

 八幡は大きく溜息をついた。

 

 いつまでも、ドアの前で立ち止まっている訳にもいかない。躊躇いがちに、ドアをノックする。

 

「どうぞー」

 

 返ってきたのは今一番聞きたくない声だった。教室に入る時はいつだって憂鬱だったが、それがまだ幸福な部類であったことを八幡は今知った。

 

 この上なく憂鬱な気分で生徒会室のドアを開けると、そこには二人の人間がいた。

 

「やっはろー」

 

 意味不明な挨拶で手を振るのは雪ノ下陽乃。彼女はもう自分の椅子だといわんばかりに、生徒会長の席に堂々と腰を下ろしている。

 

 脇には教師の姿が。体育館で戻れと指示した白衣の教師である。壁に寄りかかったまま、片手を挙げただけで挨拶してくる。教師の割りに斜に構えた姿であるが、眼前の悪魔に比べるとまだ話が通じそうだった。

 

「どうも」

 

 小さく答えて、陽乃の前に立つ。八幡がその位置につくと、白衣の教師はドアの前まで移動した。

 

 逃げ道をふさがれた。それでもここから逃げるとなったらもう窓を蹴破るしか手段は残されていないが、残念ながら生徒会室は三階だった。生き汚さには自信のある八幡だったが、それは身体の頑丈さとは無縁のものである。

 

 退路はふさがれた、と覚悟だけは固めておくことにした。

 

「もう、ノリが悪いなぁー、比企谷くんは。あ、八幡って呼んでも良い?」

「お好きなように。それにノリが悪いのは生まれつきです。先輩と同じように俺がやっても、気持ち悪いだけでしょう?」

「うん、すっごいキモい」

 

 キモい、の部分に妙な力が篭っている。ぼっちの心を的確に抉る、絶妙な語調だ。少し会話をしただけでこれである。来た時以上に帰りたくなっていた八幡だが、陽乃はまだまだ満足した様子はない。女王様は今も平常運転である。

 

「生徒会には引継ぎとかないんですか? 選ばれたとは言え、先代の人たちにもまだやることはあるでしょう」

 

 まだ他のメンバーを決めていない陽乃とは違い、前の生徒会は庶務まで含めて全ての役職が埋まっていた。各々の役職の机にはまだ私物が残っていたが、その主たる彼らの姿はここにはない。

 

 この部屋の主は既に自分であると、陽乃の全身が主張していた。それに異議を挟める人間はもう、この学校にはいないだろう。彼女は雰囲気からして、既に王者だった。何の疑問を差し挟む余地もなく、彼女は学校のカーストの最上位に君臨している。

 

「私が八幡と話があるって明日にさせたの。本当は二人っきりが良かったんだけど、静ちゃんに捕まっちゃって」

 

 ごめんねー、とかわいくウィンク。仕草一つ一つが如才ない。自分の容姿を自覚していて、それをどうすれば最大限に活かせるか、熟知している人間の動きだった。

 

 陽乃の視線の先には白衣の教師がいる。タバコの似合いそうな彼女はじとーっとした陽乃の視線にびくともせず、飄々と肩をすくめて見せた。

 

「お前一人に任せておくと、何をするかわかったもんじゃないからな。男を連れ込んで不純異性交遊と噂されても、面倒だろう?」

「私の人徳で何とかして見せるよ、そのくらい」

「お前の場合、冗談で済まないのが始末に悪い……」

 

 ふぅ、と白衣の教師は目頭を揉んでみせる。

 

「あぁ、私は平塚静だ。担当教科は国語。生活指導も行っている」

「生徒会の顧問ではないんですか?」

「それは違う先生の担当だ。私は陽乃個人の担当でな」

「妙な担当もあったもんですね」

「だろう? だが年功序列というものには逆らえんのだ。教師ならば尚更な」

 

 肩をすくめる仕草には哀愁が漂っていた。この人は悪い人間ではない。八幡はそう直感した。

 

「俺、教師は目指さないことにします」

「目指すまでもなく、八幡には無理だと思うなぁ。そんな目をした先生が、何を教えるの?」

「人生の理不尽さとかなら、熱く語れる自信がありますが……」

「案外、国語の教師とか向いてるかもな。人気者になれるかはまた別の話だろうが」

 

 国語の教師にそう言われると悪い気はしないが、今は浮かれている場合ではない。静と会話していたことで、陽乃の機嫌が僅かに悪くなっている。女王様にとって『無視される』というのは最大の屈辱だろう。それがカースト最下層の人間であるなら尚更だ。

 

 リア充の流儀に付き合うのは業腹だったが、背に腹は変えられない。ここで自分を通したらおそらく、社会的に殺される。ぼっちの感性が、そう囁いていた。

 

「貴女は――」

「私のことは好きに呼んでいいよ?」

 

 割って入った陽乃の言葉には、遊びの色が多分にあった。

 

 これはテストだ。

 

 陽乃から目を逸らさずに、八幡は答える。

 

「雪ノ下さんは、どうして俺を?」

 

 近すぎず、遠すぎず。八幡は無難な呼び方を選んだ。無礼講という言葉は、何をやっても良いという意味ではない。好きにして良いと言われた時こそ、より立場に相応しい振る舞いが求められる。

 

 しかし、好きにして良いという言葉を全く無視するのもいただけない。意に沿わない人間は排除される。雪ノ下陽乃は女王だ。この学校の生徒全員の頂点に立つ女で、溜息一つで比企谷八幡を吹き飛ばすことができる。

 

 今更周囲に溶け込みたいとは思わないが、全力で排斥されるのはご免だった。

 

 雪ノ下さん、という呼称は陽乃の表情を見る限り、ハズレではないようだったが、正解ともまた違うようだった。八幡には、雪ノ下陽乃が全く読めない。今まで出会ったどんなリア充よりも、雪ノ下陽乃は異質だった。

 

「一目惚れって言ったら信じる?」

「そいつは生憎、俺がこの世で最もろくでもないと思ってるものの一つです」

 

 間髪入れないはっきりとした物言いに、後ろで聞いていた静が噴出した。彼女は悪い悪い、と言いながら懐からタバコを取り出し――ここが学内なのだと思い出して、苦笑を浮かべて引っ込めた。

 

 それから両手を軽く前に出し『続けて』と促す。陽乃は小さく肩をすくめて、それに応じた。

 

「見た目で選んだっていうのは本当だよ。君のその死んだ魚みたいな目。私でも一目で解っちゃった。君は絶対に、集団には馴染まない」

「お褒めいただきどうも」

 

 解っていたことではあるが、他人に言われるのは気分の良いものではない。

 

「集団に馴染まない人間が、雪ノ下会長が必要とするとも思えないんですが」

「必要だよ? 私が求めるのは、私に追従『しない』人間だから」

 

 当たり前の様に答えるから、思わず聞き流すところだった。意味を噛み締めると、陽乃の言葉は徐々に腑に落ちた。ここまでカースト上位に立つと、周囲にないものを求めるのだろうか? 八幡には理解できない感性だった。

 

「私の思う通りに皆を動かすのは簡単。それはもう中学で実践したし、高校に入ってからは一年で達成した」

「態々対抗馬を立たせたのが、その証明ですか?」

「立候補前に叩き潰すこともできたんだけどねー。私一人って、何だかかっこ悪いでしょ?」

 

 そんなことを気にするタマにはどうしたって見えないが、八幡は苦りきった顔で黙って頷いた。貴女はどこで何をしていたって様になるなど、この女ならば言われ慣れているだろう。

 

「それで八幡はどうするの?」

 

 答えなど解りきっているくせに、女王様が問うてくる。

 

 断るという選択肢は八幡には存在しない。絶対の権力を持つ女王が、公衆の面前で手を差し伸べた。それを八幡の側から振り払うことは、自身の社会的な死を意味する。陽乃は何も明言していないが、もし断った場合、明日からこの学校で平穏無事に生きていくことはできないだろう。陽乃が何も指示をしなくても彼女の周囲の――彼女の周囲にいると勘違いしている連中が、自発的に手を出してくる。

 

 あるいは、彼女の近くに行きたい上位カーストの連中か。どちらであっても、八幡にとって面白くない展開に違いはない。

 

「俺が雪ノ下さんの期待に応えられるとは思えないんですが」

 

 その質問をしたのは、八幡なりの精一杯の抵抗だった。八幡の言葉を受けて、陽乃は微笑む。

 

「かもねー。でも私の期待を下回ったら、ポイだから」

 

 あっさりと。笑顔のまま陽乃は死刑を予告した。人の言葉を聞いて、呼吸が止まったのは久しぶりだった。息苦しさを解消するために、深呼吸をする。肺に吸い込む空気すら、重く感じる。冷や汗をかいたまま、陽乃を見返す。

 

 陽乃はまだ微笑んでいた。彼女にとって『それ』は、笑顔を崩すほどのことでもないのだ。

 

 この女はやると言ったらやる。

 

 そして自分が興味を失ったものについて、手心を加えるようなことを彼女はしないだろう。女王の庇護を離れた人間がどうなるか、想像するに難くない。

 

「それで、八幡は、どうするの?」

 

 改めて、陽乃は問うてくる。八幡はがっくりと膝を落とし、頭を垂れた。

 

「是非、力にならせてください」

 

 女王に対する全面的な降伏。比企谷八幡が、主義を曲げた瞬間でもあった。

 

 心苦しい選択だが、今ここで抹殺が決定するのはどうしても避けなければならない。同時に、陽乃に追従しながら何か手立てを考えなければならない。彼女に飽きられたら、ここで断るのと結果は同じである。

 

 結局、遅い早いの違いしかないのかもしれないが、今ここで死ぬよりは少しでも先延ばしにした方が大分マシである。

 

 この時から雪ノ下陽乃は、比企谷八幡にとって仰ぎ見るべき存在となり、また同時に、いつか倒すべき宿敵となった。

 

 膝をつき頭をたれながら、いつかその背中を刺してやると決意を燃やす。

 

 そんな八幡を見下ろしながら、陽乃は今までで最も深く、笑みを浮かべた。

 

「私の見込み違いでないことを期待してるよ、八幡。膝をついたお祝いにご褒美を一つ、先払いしてあげる」

 

 笑みを維持したまま、陽乃は顔を寄せてくる。

 

 耳元で、囁くように陽乃は言った。

 

「命令。これからは私のことを、陽乃と呼び捨てなさい」

 

 冷たさの中に、熱を感じる。そんな言葉が八幡の耳朶を打った。

 

 息がかかるような距離で、陽乃を見返す。

 

 彼女は変わらずに微笑んでいた。

 

 


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