女王様と犬   作:DICEK

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二人のために文化祭は始まる

 

 

 左腕に『文化祭実行委員』と書かれた黄色い腕章をつけようとすると、陽乃がその手を掴んで止めた。

 

「右腕につけて」

「……どうしてまた」

「そこは私の」

「了解しました」

 

 改めて右腕に付け直したのを見ると、陽乃は満足そうに頷いて、左腕を抱きかかえた。スタイルの良い陽乃のことであるから当然やわらかい感触が押し付けられる。一年前の自分ならば狂喜しただろうな、と思いながら心中で地味に喜んでいると、当たり前のようにそれを見透かした陽乃が笑っているのが見えた。

 

 感想を言うべきか、少々迷う。何を言ってもからかわれそうであるが、ここで何も言わないと陽乃の機嫌を損ねるような気がした。小考した末に八幡が出した答えは、

 

「ごちそうさまです」

 

 というありきたりなものだった。陽乃は不満そうに唇を尖らせるが、今日この日に文句を言うのも無粋と思ったのだろう。文句を心中に押し込むと左腕に赤い腕章をつけた。今年は陽乃のみが着けることを許される、文化祭実行委員長の腕章である。

 

 腕章でもって、自らの委員長という属性を補強した雪ノ下陽乃が、くるりと振り返る。委員会室とされた会議室には、文化祭実行委員が勢ぞろいしていた。その全員が、陽乃と自分を注視しているのを見て、八幡は自分は関係ないとでも言うように視線を逸らした。視線を浴びて力を得るという八幡には信じられない属性を持つ人間も世にはいるという。間の悪いことに、陽乃がそうだった。

 

 集まった人間の視線を一身に浴びた陽乃は、この世界の主役は自分だとばかりに胸を張り、一同を見回した。これから陽乃が発言する。その意識が浸透すると、ざわついていた会議室がしんと静まり返った。自分の望んだ環境が整ったことに満足し、陽乃は笑みを浮かべる。

 

「さて、文化祭も今日から本番。今までも忙しかったけど、今日明日は更に忙しくなるでしょう。今のところ予定に変更はありません。事前の通達の通り、各自、頑張って文化祭を楽しんでください。それじゃあ一足早く、実行委員長、雪ノ下陽乃が文化祭の開催を宣言します!」

 

 おーっ! と全員で吼えて、担当の場所に散っていく。文化祭実行委員は今、ただ二人を除いて一つになっていた。気合に満ちた様子で会議室を出て行く実行委員たちを見送りながら、八幡は冷めた様子で陽乃に問いかけた。

 

「煽るのが上手ですね」

「言葉だけで働いてくれるんだから、人間って便利だよね。言うだけならタダだし」

 

 邪悪な笑みを浮かべて、陽乃はトランシーバーを取り出す。実行委員の連絡用に、学校から支給されたものだ。学校が保管するにしては高価な上数が揃っているが、大昔に導入し時間をかけて数を揃えたものが、未だ現役であるとのこと。予算の使い方としてどうかとは思うが、既にあるものに文句をつけても仕方がない。聊か型遅れではあるが、委員が連絡のやり取りに使うには十分な代物だ。

 

 流石に委員全員分の数はないが、それはチームを組むことで補っている。1チームに一つという訳だ。トランシーバーの個数の関係で1チームは3~4人で編成され、ほとんどのチームがその例に漏れない。

 

 例外は実行委員が待機するために設置された学内外にある委員会本部と、実行委員長である陽乃のチームだけ。陽乃のチームは委員長である陽乃と、その補佐の八幡。たった二人のチームである。

 

 これを職権乱用と言える人間は、委員会の中に一人もいなかった。陽乃と同じチームになりたいと思ってメンバーになった人間は多い。そういう人間から、八幡はいらないヘイトを集める結果となったが、陽乃は何処吹く風だった。

 

 誰が何と思おうが、自分のやりたいことを貫いてこそ、雪ノ下陽乃だ。陽乃の振る舞いに思うところがある人間は多いが、そういう陽乃を見ていたいという気持ちがあるのは、決して八幡だけではない。傍若無人な振る舞いまで含めて、雪ノ下陽乃なのだ。

 

「さて、めぐりはどうかな。めぐりー?」

『めぐりです。もうすぐそっちに着きます』

 

 トランシーバーからの応答があってすぐ、会議室のドアが開いた。生徒会室から荷物を抱えてきためぐりは、それを上座の席に置くと、んー、と伸びをする。

 

「生徒会室にあった文化祭の資料はこれで全部になります。トラブルのリストと対応策もリストアップ済みですから、これで何とかなるかと思います」

「上出来だよ。こっちはもう任せても大丈夫?」

「職員室の方に行ってる先輩方も、もうすぐ戻ってくると思いますので、後はハルさんのお好きに」

 

 どうぞー、とめぐりは笑顔で両手を差し出す。学内の委員会本部は、この会議室になる。責任者は二年生の副委員長であるが、めぐりは生徒会代表としてシフトに組み込まれていた。生徒会のメンバーが分散した形になる。本来であれば三人全員でチームを組むのが筋であるが、陽乃のチームは八幡を含めて二人だけである。そこにどういう意図があるのか解らない人間はいなかった。

 

 二人の関係に納得していない人間も多い中で、めぐりは応援側の筆頭である。ハブられたと思うはずもない。二人で行動したいというのなら、めぐりに止める理由はなかった。八幡からすれば、物分りが良すぎて怖いくらいである。

 

「それじゃ、ここは任せたよ。行こう、八幡」

「了解です。城廻、後はよろしく」

「はっちゃん、ちゃんとハルさんにエスコートされるんだよ」

「される側かよ……」

 

 主夫志望としては願ったり叶ったりのポジションであるが、ただ引きずられることを女王である陽乃は許してくれない。陽乃に追従するには、求められることが多いのだ。

 

「エスコートされるんだって」

「まぁ、城廻の言うことですから」

 

 廊下を行きながら、イベント会場である校庭を目指す。開会宣言にはまだ時間があるが、オープン前の最後の準備時間ということもあって、学校内の熱気は際限なく高まっている。そんな中、陽乃が通ると誰もが声をかけてきた。過去最高の盛り上がりを見せている文化祭の最大の功労者が誰か、一年から三年の男女全てが知っている。陽乃は気さくにそれに応じながら、道を行く。

 

 ハーメルンの笛吹きよろしく、手の空いている人間が着いてこようとするが、陽乃が肩越しにちらりと振り返ると、金縛りにあったように足を止めた。視線が口よりも雄弁に『ついてくるな』と語っていたのだ。女王の意向には、誰も逆らうことはできない。着いていくこともできないと悟った生徒たちの一部は、唯一隣を、しかも腕を組んで歩いている八幡に、敵意の篭った視線を向けた。

 

 方々から注がれる視線を肌に感じながら、八幡はしかし、少しも動揺を見せなかった。一年前であれば、それこそ挙動不審になっていただろう。教室の隅っこで生きる人間に、視線というのは毒である。

 

 だがこの程度、陽乃の無言のプレッシャーに比べればどうということはない、決して前向きにではないが、八幡も成長していた。心のどこかで恐れていたリア充のことが、今は全く怖くない。

 

 視線を向けられていることに気づいて、八幡は左を歩く陽乃を見た。ぱっちりとした目が、悪戯っぽく八幡を見つめている。その瞳の中には珍しく、素直に人を褒める色が浮かんでいた。

 

「何かしましたか、俺」

「ううん。相変わらず死んだ魚みたいな目をしてるなぁって思って」

「人間の顔は早々変わるものじゃありませんよ」

「解ってる。でも、中身は変わるものだよ。私が見つけた時より、ほんの少しだけど頼もしくなったんじゃない?」

「陽乃にそう言ってもらえると、何か裏があるんじゃないかと勘ぐりたくなりますね」

 

 ははは、と胡散臭い乾いた笑いで答えるが、冗談めかした物言いであっても、八幡の言葉に嘘は全くない。何か良くないことの前振りと確信した八幡は、何でもないふりをしながらも、陽乃に対する警戒を最大限に高めていた。

 

 そんな八幡の足を、陽乃は笑みを浮かべたまま、思い切り踏み抜く。

 

「……私だって、たまには人を褒めることもあるの。私の言葉は、素直に受け止めなさい」

「申し訳ありません。しかし、俺を褒めるなんて珍しいこともあるもんですね」

「また足を踏まれたい? そっちの性癖に目覚めたっていうなら、試したいことがいくつもあるんだけど?」

「俺は至ってノーマルな性癖をしてるつもりです、ご安心ください」

「残念。私も足元で八幡がうめいてるのを想像したら、ちょっとぞくぞくしてきたところだったの」

 

 くすり、と陽乃は笑う。妖艶な笑みであるが、これも、本気の色合いが濃い。ぞくぞくしたというのは本当だろう。どうみてもドSである陽乃がそういうことを口にすると、ドMになっても良いかな、と思えるから不思議である。事実、陽乃が声をかければ喜んで豚でも犬でもなる男は大勢いるだろうが、自分で宣言した通りノーマルな性癖を持っている八幡は、人生で初めてできた彼女と健全なお付き合いをしたいと思っていた。

 

 そんな決心をあざ笑うかのように、陽乃がより身体を密着させてくる。その感触を楽しむ暇もあればこそ、八幡たちは校舎を抜けて外に出た。

 

 天気は快晴。陽乃の前途が洋々であることを示すように、空には雲一つない。絶好の文化祭日和を見上げながら、陽乃は言った。

 

「さぁ、共同作業の締めくくりをしようか。家の人間の話だと雪乃ちゃんもこっそり来るみたいだから、常に誰かに見られてると思って手を抜かないようにね」

「妹さんが来るんですか?」

 

 八幡の脳裏に、軽井沢で会った雪乃の姿が浮かぶ。陽乃に寒色を足して少し縮めたような少女と話したのは少しだけであるが、どう贔屓目に見ても陽乃とは距離を置いているように見えた。少なくとも、陽乃が通っているからという理由で文化祭を見に来るような間柄には見えない。他の家庭のことだから良く解らないものの、比企谷家の兄妹仲に比べると、大分冷えているように思う。

 

 他人が見て解るくらいなのだから、陽乃自身、妹にどう思われているのか理解しているだろう。

 

 しかし、陽乃はそんな妹のことが愛しくて堪らないといった風に、楽しみ、と口にする。妹からの北風に比して、陽乃から雪乃への熱は太陽もかくやという程である。妹の話は何度も陽乃から聞いたことがあるが、悪口などただの一度も聞いたことがない。自分に似て優秀で、世界一かわいい妹だと言って憚らなかった。

 

(まぁ、世界一かわいいのはうちの小町だけどな)

 

 この話をすると平行線になるので、口にはしない。言い合いになると陽乃も絶対に、世界一かわいいのはうちの雪乃ちゃんだと言って譲らないのだ。陽乃にしては珍しい、意固地な面であるから良く覚えている。

 

 ともあれ、一度だけ顔を見たあの少女に会うのが、八幡も楽しみだった。一応、彼氏と彼女の関係になって、初めて会う陽乃の親類である。あの雰囲気では姉に男ができたところで『そう……』の一言で済ませそうであるが、いずれ本丸に突撃させられる前に、雪ノ下家の感触を確かめておきたかった。

 

 聞けば雪ノ下母は、陽乃をして怪物と言わしめる難物であるという。その前哨戦としては役者不足かもしれないが、あの時の印象を信じるに、決して楽な相手ではない。

 

「もしですが、妹さんを見かけたら俺はどうしたら良いんでしょう」

「私の彼氏って紹介してあげる。本当にそうなんだから、不思議じゃないでしょ?」

「そりゃあそうですが……妹さんからご両親におかしな風に伝わったりしませんか?」

「それはないんじゃないかな。そういう告げ口みたいなの、雪乃ちゃんは好きじゃないから」

 

 不器用なんだよねー、と明るい口調で締めくくる。正義感が強いと言えば聞こえは良いが、穿った見かたをすると、それほど陽乃には興味がないと言える。尖った性格をしている陽乃は、合わない人間にはとことん嫌われる。ちらっと見た妹はどうみても陽乃と波長が合いそうには見えなかった。

 

 同じく、姉の彼氏にも興味がないと波風が立たなくて良いのだが、物を引っ掻き回すのが得意で、妹大好きな陽乃が余計なことをしないとは思えない。陽乃を避けているらしい妹と会えるかは運であるが、こういう運任せの勝負で陽乃が負けるとも思えない。同じ会場にいるのならば、いずれ遭遇するだろう。

 

 その時どんな顔をすれば良いのか。陽乃が生まれて初めての恋人である八幡には、その家族の前でどんな顔をすれば良いのか解らなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 人で一杯の通路を、雪乃は一人で歩いていた。

 

 総武高校。『あの』姉が通い生徒会長を務める学校であり、雪乃もいずれ進学する予定の学校である。

 

 姉と同じ学校というのには抵抗があったが、後々の進学を考えるとここにしておくのが都合が良いのだ。姉は色々な意味で目立つ人間である。入学すれば雪ノ下陽乃の妹と比べられるだろう。全てにおいて自分に勝る姉と比べられることは、雪乃にとって苦痛だった。

 

 実際、姉は優秀な人間である。規模こそそれなりではあるが、進学校というだけあって、この高校の文化祭はそれほど盛り上がりはしないという。

 

 ところが生徒会長である姉が実行委員長に就任して盛り上げた文化祭は、全く別のものとして盛りあがりを見せていた。周囲には学生の姿が多いが、近所の住人の姿も見える。まだ文化祭は始まったばかりであるが、これが成功の部類に入るのは誰の目にも明らかだった。

 

 出し物をしている生徒の目にも、活気が溢れている。対外的なイメージアップには、相当な役に立ったことだろう。この文化祭の雰囲気を味わいたいから、とこの学校を目指す中学生も多いに違いない。

 

(私は違うけれどね)

 

 心中で言い訳をしながら、雪乃は一人で歩いている。こういう人が多いところだと軽薄な男にナンパをされることも多いのだが、中学の制服を着て歩く女をナンパする人間は、流石にいないようだった。休日に制服を着ることには抵抗があったが、ナンパ避けになると思えば安いものだ。

 

 更に来客の構成も、ナンパ避けに一役買っていた。

 

 中学の制服を着ている人間が自分一人だけであれば異様に目立ったろうが、他にも制服を来た人間は大勢いた。中学の方からそういう指導があったのだろう。いずれ進学をと考えているのならば、相手に与える印象は良いものの方が良い。制服ならばドレスコードに間違いはないだろう。

 

 さて、と雪乃は周囲を見回す。出店には当然高校の生徒がいるが、それ以外にも生徒の姿は散見された。中でも雪乃の目を引いたのは、腕に腕章をしている人間である。左肩に黄色い腕章。文化祭実行委員とある。制服に黄色い腕章はとても目立つ。全員がこれをつけているのであれば、遠目にも解るだろう。姉との接触をできるだけ避けたい雪乃にとっては、ありがたい情報だった。

 

 腕章をつけている人間は最低二人で行動している。そういうルールで動いているのだろう。しきりに無線を気にしており、外から見ればそれっぽく見えないこともない。頼もしいと見るかは、人それぞれだろう。やっている本人は楽しく、そして真面目にやっているのだろうが、雪乃には滑稽に見えた。

 

 何とも陽乃が好きそうな光景である。滑稽に見えるという部分が、特にだ。自分の感性でそう思うのならば、陽乃は特にそう思っているだろう。ほくそ笑んでいる陽乃の顔が浮かぶようだった。

 

 最重要人物として陽乃の姿を探すようにしながら通りを行き、ついでにクレープを買った。当然、店で買うよりも安っぽい。決して普段口にする味ではないが、祭の雰囲気からか、いつも食べるものよりも美味しく感じた。コーヒーか紅茶か、温かい飲み物が欲しいところである。

 

 そういう出店はないかと探す。出店は軽食が中心で、飲み物を出す店はない。自販機で探すしかないようだった。小さく息を吐き、建物の方を見る――その途中で、見覚えのある顔を見つけた。

 

 もっとも、印象は大分異なっている。死んだ魚のような目は相変わらずだが、髪も服も以前より整っているように見える。身だしなみに気を使うようになったのだ。男性とは言え、高校生ともなれば不思議ではないが、分析するに、彼はそのようなタイプには見えない。

 

 そういう相手でもできたのか。考え、それが一人しかいないことに気づく。あんな人間を制御下におけるとしたら、姉しかいない。

 

 夏休みから随分時間は経っているが、彼の雰囲気を見るにまだ続いているようだった。黄色い腕章が右腕にある。もう一度、確認する。やはり右腕だ。周囲の実行委員を見るが、彼らは全員左腕につけていた。そういう指示があって、統一されているのは間違いない。なのに、彼は右腕につけていた。何者かの意図を感じずにはいられない。

 

 視線を向けていることを気取られないよう、彼から距離をとって物陰に隠れる。不自然でない程度に、人を待っているように振舞う。ちらと視線を向けた。実行委員の仕事中なのか、彼は出店の前から動かない。話を聞いているようには……見えなかった。遠目だが、唇は動いていない。誰か、同道している人間がいるのだろう。雪乃の身体は自然と、物陰に隠れるように動いた。悪い勘は、良く当たるのだ。

 

 現実は、予想の通りに。出店の奥から出てきたのは、姉だった。制服に身を包んだ彼女の左腕には、赤い腕章が巻かれていた。姉も、左腕だ。彼だけが右腕である。その理由を考えてみたが、答えが見つからない。何故、と思考を深めるようにも先に、姉が動いた。

 

 何も巻かれていない、彼の腕を取る。抱きかかえる、というのが正しいだろう。通行人はまるで恋人のように振舞う二人に、色々な感情がない交ぜになった視線を送っているが、姉は全く気にせずに道を行く。反面、彼は居心地悪そうにしていたが、姉の行動が不満という感じではない。単に、悪目立ちをしているのが落ち着かないのだろう。本音を言えば、今すぐにでも逃げ出したいに違いないが、そうはいかないとばかりに姉は彼の腕を取っている。

 

 その顔は、とても楽しそうに見えた。人の全てを見透かすような不快で怜悧な表情でも、自分の全てを覆い隠すような不気味な笑顔でもない。妹で、それなりに付き合いの長い雪乃でも、初めて見る顔だった。まるで普通の少女である。

 

 自分は、今どんな表情をしているのか。見てみたい気がするが、やめておいた。珍しさで言えば、眼前の別の星の生き物の方が勝っているに決まっている。あれを初めて見る人間は、ただ見た目の整った女子高生が、ボーイフレンドと戯れているように見えるのだろう。

 

 だが、姉を知る人間からすれば驚天動地も良いところだ。これではまるで普通の人間だ。雪乃の知る『雪ノ下陽乃』はどこにもいなかった。

 

 この時雪乃が抱いた感情は、表現のし難いものだった。それは落胆であり軽蔑であり、より単純な好奇であり、そして安堵でもあった。全く理解の及ばなかった彼女が、理解の範疇にある。自己分析するに冷静でいられていると思うが、言いようのない興奮もまた同時に雪乃の中にあった。

 

 はぁ、と雪乃の口から小さく息が漏れる。

 

 予定は変更だ。観察を続けても自分の感情が乱れるだけで、得るものはない。彼が一人でいるのならばともかく、あの二人に話しかける訳にもいかない。せっかくきた場所からすぐに出て行くのは心苦しいが、うろうろして彼女に見つかってもコトである。

 

 踵を返した雪乃の顔には、笑みが浮かんでいた。心の奥にあった、姉と同じ高校で良いのかという気持ちは消えうせていた。姉が変わった、変えた原因がここにいる。それだけで十分だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「陽乃、どうしました?」

 

 道の先をじっと見つめる陽乃が気になって、八幡は声をかけた。まさか不審者でもいたのだろうか。目を凝らしてみるが、特に怪しいものはどこにもなかった。

 

 八幡の問いに、陽乃は笑みを浮かべる。好奇心に溢れた、どちらかと言えば係わり合いになるべきではない時の笑みだった。

 

(誰かいたな、これは……)

 

 自分には見つからなかっただけで、誰かいたのだろう。表情を見るに、相当陽乃の興味を引いている。少なくとも総武高校の人間ではない。自分を除けば最も陽乃の興味を引くにはめぐりだが、陽乃にとっては珍しいお気に入りの彼女であっても、ここまで興味は引かないだろう。

 

 自分の知らない人間、と思うと八幡の心も波立ったが、陽乃の笑顔を見て不意に閃くものがあった。

 

「妹さんですか?」

「良く解ったね。そう、雪乃ちゃんがいたの。私達を見て引き返したみたいだけど」

「追わなくて良いんですか?」

「会いたくないって意思表示をされたのに、追いかけて行くのもかっこ悪いでしょ?」

「そういうのを気にしないもんだと思ってました」

「お姉ちゃんだからね。八幡がお兄ちゃんなのと一緒」

「良く理解しました」

 

 と、一応言っておく。自分の兄感と陽乃の姉感は全く一緒ではないと断言できるが、妹を大事に思っているという一点においては一緒だった。しかし――

 

「まぁ、世界一かわいいのはうちの雪乃ちゃんだけど」

「小町以外に誰がいるってんですか」

 

 妹愛が過ぎるあまり、話はいつも平行線になる。ついさっき考えたばかりなのに、陽乃の言葉に対して反射のように八幡の口からは小町を称える言葉が出てきた。理屈や客観性を度外視して、かつ、基本的に陽乃に逆らわない八幡が明確に反逆するのがこの一点。陽乃も犬が自分に突っかかってくるのが面白いらしく、思い出したようにこの話を蒸し返してくる。どちらも一歩も譲らないため、いつも結論の出ない話であるが、陽乃はどこかこの話題を楽しんでいる節があった。

 

 お互いの妹自慢。高校生の恋人がする話題ではないが、一番白熱するのがこの話題である。おかげで一度しか会ったことのない雪乃の情報を、驚くほどに入手してしまっている。雪乃もまさか、自分の知らないところでここまで情報が暴露されているとは思わないだろう。この事実が伝わらないことを祈るばかりであるが、予想を良い意味でも悪い意味でも裏切ってくるのが陽乃である。今はバレていなくても、この情報はその内伝わる。陽乃について悪い予想は当たるのだ。八幡の予想の斜め下をいく形で。

 

「じゃあ私からね。これは先週の話なんだけど、雪乃ちゃんが――」

 

 そうして、今日も雪乃の情報が、姉の陽乃からもたらされる。これが雪乃にバレた時、どういうことになるのだろう。想像しながらも、八幡はこれに対抗できる小町の話題を探した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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