女王様と犬   作:DICEK

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こうして、二人は新たな関係を始める

 文化祭を翌日に控えた、最後の会合。

 

 決めるべきことは全て決め、準備も既に佳境に入っていた。委員全員が今日集まったのは、文化祭全体の最終確認をするためだ。

 

 準備が滞っている団体はなく、大きな問題も起きていない。素人の高校生が集まって、特に問題もなく物事がなされようとしている、この奇跡的な環境が今日まで続いたのは、陽乃にそれだけの手腕とカリスマがあり、参加した人間がそれに応えようとしたからだった。

 

 全ての確認を終えた学生の長が、会議室を見回す。

 

 文化祭は明日。その熱気は集まった委員の目にも満ちていた。誰も彼もがやる気に溢れている。まさに祭、まさにリア充といった光景を、八幡は聞き流すならぬ、見流していた。陽乃についてここまで来たが、彼らほど情熱的にはなれなかった。これが一人であれば、ノリが悪いと排除されるのだろうが、女王の庇護下に入ってからはそんなこともない。暑苦しい連中の中にあっても、その熱に流されない人間がいることには、それなりの価値があった。

 

 自分にしか見えないものがあり、自分にしかできないことがある。どういう気持ちを持っていようと、それはそれで自由だろう。排除されないと解ると、気持ちにも余裕は出てきた。以前ならば、これだけのリア充の中にいたら、多少の気後れはあっただろうが、今はそれもない。

 

 これも経験の成せる業と陽乃を見ると、ちょうど彼女の方も八幡を見たところだった。

 

 視線が交錯する。

 

 陽乃の目を見て、八幡は直感的に良くないものを感じ取った。こいつは今から良くないことを言う。それが理解できてしまった。

 

 制止の声を挙げようとして、押し黙る。

 

 陽乃の行動を妨げるようなことはできないし、できたとしても予感がしたというだけでは根拠に弱い。二人だけならば通じることでも、ここにはリア充共がいる。目つきの悪い暗い一年が陽乃を妨げでもしたら、それだけで角が立つ。

 

 女王の庇護下にいるというだけで、八幡自身の立場が向上した訳ではなかった。変わらず庇護下にいる限り攻撃されるようなことはなかろうが、無駄にヘイトを貯めることもない。

 

 解ることと、できることは違うのだ。

 

 今の自分にできることはないと、いつも通りの結論に達したところで、諦めて全身の力を抜く。観念した様子の八幡を見て、陽乃は満足そうに微笑んだ。

 

 

 そうして予想の通りに、爆弾を投下する。

 

 

「私は今度、こちらの比企谷八幡くんとお付き合いすることになりました。節度のあるお付き合いをするつもりですが、校内でいちゃついていても『そういうこと』なので、暖かく見守ってくれると嬉しいな、と思います」

 

 陽乃の言葉は、居並ぶ生徒たちの間に浸透するのに、時間がかかった。全員が動きを止めること、約十秒。

 

 会議室は爆発した。

 

 とにかく、混乱の極みである。誰もが驚きの声をあげ一斉に陽乃を見たが、その誰も陽乃に直接問おうとはしなかった。『思います』と控え目な表現をしているが、実質的にそれは命令である。陽乃がそう思うと言えば、それは校内では決定事項だ。聞きたいことは山ほどあるだろうが、見守ってほしいと言った矢先に首を突っ込むだけの勇気のある人間は、この場には一人もいなかった。

 

 実質的に質問を受け付けてはいないが、建前上はそうではない。誰からも質問がないことを改めて確認すると、陽乃は一礼して会議室を出て行った。それに続くのは八幡とめぐりである。

 

「ハルさん、さっきのは本当に?」

 

 会議室で誰もが聞きたかっただろう言葉を、めぐりが問う。めぐりは校内で陽乃に意見できる、数少ない人間である。最初こそ緊張もしてたが、今ではめぐりも陽乃のお気に入りで、意見の交換をすることも目立つようになった。陽乃個人の思惑は知らないが、対外的には次の生徒会長と目されている。このまま行けば、次の生徒会長はめぐりで決まりだろう。

 

「本当だよ。私が嘘をついてると思った?」

「そんなことは……でも、いつから?」

 

 めぐりの疑問には、責めるような調子はなかった。知らされるのがその他大勢と同じタイミングだからといって、めぐりは拗ねたりはしない。陽乃の近くにいることができる自分が、生徒の中では特別と認識しつつも、それで驕ったりはしない。陽乃の周囲にいる人間としては実に珍しい、自己顕示欲のとても少ない存在である。

 

 陽乃ならばそういうこともあるだろうと自然に受け入れることができる。精神的に口うるさい人間でないからこそ、陽乃もめぐりを受け入れる様になったのだ。一時期はやっていけるのかと不安に思ったものだが、このやり取りを見るに、自分よりも仲良く見えるほどである。

 

 犬の役目は終わったと、陰口を叩かれるのも解る光景だった。噂が立つ前でこれなのだから、交際発言が校内に浸透すれば、犬への陰口は余計に強まることだろう。

 

 陰湿ないじめを受けたとしても、八幡はそれを陽乃に告げ口したりなどしないが、する側がそう思うとは限らない。雪ノ下陽乃の名前は、この学校では絶対だ。比企谷八幡がどれだけ気に食わない人間だとしても、目立った行動を自発的に行わない限り、排除されることはないのである。

 

 攻撃されないと思うと気楽ではあるが、それは陽乃がこの学校にいる間だけだ。一歳の年の差はどうすることもできず、陽乃が卒業した後、八幡が卒業するまでの一年に、女王の加護はない。

 

 その時どんな攻撃をされるのか。想像するだけで気分が滅入ってくるが、卒業したところで、女王の権威が消える訳でもない。生活に支障が出ない程度には、虎の威を借りようと、既に心に決めていた。

 

「この前の日曜からだよ。八幡と一緒に出かけた時に、私の方から告白しちゃった」

 

 よほど意外だったのか、めぐりは口をあんぐりと空けて固まってしまった。陽乃から告白というイメージが全く湧かないのだろう。気持ちは痛いほどに理解できるが、それでは比企谷八幡が告白する光景ならば想像できるのかと問いたい気分だった。

 

「あまり言いふらさないようにな。もう無駄だとは思うが……」

 

 陽乃が態々あの場で宣言したのは、校内での拡散を狙ってのものだ。今更めぐり一人が口を噤んだところで焼け石に水だろうが、陽乃に一番近い位置にいる女生徒の発言は、それなりに重い。浸透は止められなくても、尾ひれがつくことくらいはブロックすることができる、『かもしれない』。

 

「大丈夫だよ。私は友達を売ったりしないから」

 

 めぐりの言葉は実に頼もしい。その人間性を信頼していない訳ではないが、友達が全くいない八幡と異なり、めぐりにはそれなりに友達がいる。女とは噂話が大好きな生き物で、めぐりは求められたらそれに応じずにはいられないだろう。事実、八幡がじっとめぐりを見つめると、彼女は気まずそうに目を逸らした。

 

 噂を拡散しない自信がないに違いない。実に頼りない反応であるが、友達がいる人間の気持ちは、はっきり言って八幡には解らない。これが普通だと言われればそうな気もする。

 

 いずれにしても、めぐり本人に積極的に拡散する気がないのなら、八幡としてはそれで良い。噂が広まるのは確定しているようなものだ。八幡にできるのは、無駄に噂が拡散しないように、努力することだけである。

 

「ハルさん、ハルさん」

「なぁに?」

「学校でいちゃいちゃするつもりなんですか?」

 

 めぐりはおっかなびっくり問う。やりたいことをやりたい様にやる陽乃が、態々断りを入れるくらいだ。発表を聞いた人間としては、当然の疑問だろう。めぐりの顔を見た陽乃は、しかし、見たことないくらいしおらしい顔をしてみせた。そこだけ見れば可憐な乙女のようであるが、それをやっているのが雪ノ下陽乃であるという事実が全てを台無しにしていた。そんなことがあるはずがないと、心の底から思う。

 

「そこは八幡がOKしてくれないと……ほら、これまでと違って恋人同士になった訳だし、私一人の都合で振り回すのもかっこ悪いじゃない?」

「全く心が篭ってるように聞こえませんよ。素直に好きにする、と言ってくれた方が、俺としては助かります」

 

 八幡がそう言うと乙女は消え、代わりにいつもの陽乃が戻ってくる。乙女を装った作り物ではなく、不敵で底の見えない笑顔である。人間、色々好みはあるのだろうが、八幡はこっちの方がらしくて好きだった。

 

「そう? でも、サプライズって大事だと思わない? マンネリは破局への第一歩って聞くし」

「だからこそ、気が休まるという考えもあります。サプライズばっかりだと気が休まらないと思いますしね。あぁ、でも今日のことを言ってるなら、良かったんじゃないかなと思えるようになってきました。先制パンチでダメージを与えておいた方が、こっちが有利になりそうな気がしないでもありません」

「そこまで考えた訳じゃないよ。ただ、八幡の驚く顔が見たかったの。驚いてくれた?」

「十分驚いてますよ。目論見は成功でしたね」

「嬉しかった?」

「まぁ、それなりには」

「ありがと。八幡がそういうなら、嬉しかったってことだね」

 

 ふふ、と嬉しそうに陽乃が微笑む。彼氏彼女になる前には、あまり見なかった顔だから、その笑顔にはまだ耐性ができていない。どういう顔をして良いのか解らず、陽乃から目を逸らすと、その先には唖然とした表情のめぐりがいた。

 

 めぐりは八幡と陽乃を顔を見比べると、大きく溜息をついてみせた。

 

「砂糖を吐きそうな気分って言うのは、こういうのを言うんですね……」

「これくらいいちゃいちゃに入らないよ? 私が本気を出したら凄いんだから」

「ハルさんとはっちゃんが仲良くするのは私としても嬉しいですけど、できれば私のいないところでやってほしいなぁ、なんて思ったりして」

 

 ほら、私は彼氏がいませんし。と、苦笑を浮かべながらめぐりが言う。カップルと一緒に行動する独り身の人間が辛い思いをするというのは、八幡でも解る。めぐりもさぞかし肩身が狭いだろうと思うが、チームなのだから仕方がない。

 

「別に一人じゃないでしょ? 静ちゃんだって彼氏いないんだから、これからはめぐりと静ちゃんでチーム組むと良いと思うな」

「……平塚先生、彼氏いないんですか?」

 

 その問いに、八幡と陽乃の歩みが止まる。顔を見合わせる二人を不思議に思って、めぐりも足を止めた。冗談を言っているような風ではない。めぐりは本当に『平塚静に恋人がいる』と思っていたのだ。

 

 その事実に思い至ると、八幡と陽乃は同時にめぐりの肩を叩いた。

 

「本人の前では、あまりそういうことを言ってやるなよ」

「静ちゃん、あれで結構気にしてるんだから」

「…………もしかして今までずっと彼氏がいなかったとか?」

「……そうなんですか?」

「八幡知らなかったっけ?」

「いた、というようなことは言ってたと思いますが、それが本当かどうかは知りません」

「いたのはほんとじゃない? ヒモを飼ってたなんて嘘、生徒に吐くと思う?」

 

 陽乃の言葉に、めぐりは俯き八幡は天を仰いだ。少し前まで理想と公言して憚らず、今もそうなることを願望として持ち続けているが、実際に養っていたという人間の話は、それが知り合いの女性であるだけに、八幡の心にも来るものがあった。

 

 飼っていたと表現するということは、静が家賃を払う静の部屋に、その男性も一緒に住んでいたのだろう。対外的にはそれでも恋人というのだろうが、その時の自分を振り返ってみて、果たして異性と付き合っていたと言えるのか、疑問に思う。静のように聡明な女性なら尚更だ。それを『これも良い思い出』と昇華できているのならば良いが、まだ人生の汚点としているなら、詳細を聞くのは憚られた。

 

 陽乃が知っている時点でそれ程深刻でないのは解るのだが、年下とは言え同性の陽乃が聞くのと、異性の八幡が聞くのでは意味が全く異なる。興味が湧いたが自分から聞くことはできないし、噂が広まり始めた今となっては口を滑らせることも期待できない。

 

「城廻、何とかその話を先生から聞き出せないか?」

「はっちゃん。世の中にはできることとできないことがあるんだよ?」

「だろうな。無理を言って悪かったな」

「一体、何の話かな?」

 

 噂をすれば。廊下の向こうから白衣を着た女性がやってくる。収まりの悪い髪に、切れ長の目。分類上は間違いなく美人であるが、どこか残念臭の漂うその姿は、平塚静だった。

 

 八幡とめぐりは、その姿に居住まいを正す。彼氏がいない、ヒモがどうしたという話をしていたばかりだけに、顔を直視することができない。常識的な人間が感じて然るべき気まずさを、しかし、陽乃は全くと言って良いほど感じていなかった。いつも通りの気安さで、静に対して一気に踏み込んでいく。

 

「静ちゃんの交際経験について議論をしてたの。ヒモを飼ってたのってほんとだよね?」

「事実には違いないが、あまり吹聴してくれるなよ。かっこいい話でもないからな」

 

 何でもないような風を装っているが、静は非常に苦い顔をしていた。陽乃の問いが事実なのは間違いがない。自分の恥部を認められる辺り、なるほど、大人なのだなと思うが、知人の女性が男を飼っていたという事実は、一介の男子高校生である八幡にはどう処理したものか解らなかった。

 

「それよりも、校内はお前らの話題で持ちきりだぞ。本当に付き合い始めたのか?」

「嘘なんてつかないって。私たちが恋人になったのは、ほんと」

 

 けらけらと笑う陽乃に、静は小さく息を漏らした。

 

 普段とかわらなすぎるその態度が、陽乃の言葉を事実とは思えなくしていた。宣言こそしたが、特に恋人らしく振舞っていないことも原因だろう。女王と付き合うには不釣合いだ、という周囲の認識もあるに違いない。噂として駆け巡ってこそいるが、それを本当だと現在の時点で信じている人間はそれほど多くはないはずだ。

 

「まぁ、お前が言うのだからそうなのだろうな」

「信じるんですか?」

 

 陽乃の言葉にも態度にも、それが本当だと思わせるものは何もなかったはずだが、静は何の躊躇いもなく陽乃の言葉を信じた。八幡の疑問に、静はくつくつと悪役のような笑みを漏らす。様になっているだけに余計に目立って見える。たまに芝居がかった態度を取りたがるのが、静の悪い癖だ。

 

「こいつは自分の名誉に関わる嘘はつかんだろう? まぁ、それは比企谷の方が良く解っていると思うが。何しろ恋人なのだからな」

「改めて言わないでくださいよ……」

「なに。私が追求しなければ、誰も君には追及せんだろう? 少しくらいは、苦労してもらわないとな。これも青春の一ページと思えば、悪いものでもないだろう?」

「俺はそういうのとは縁遠い生活がしたいんですがね」

 

 だが、それも無理からぬことである。陽乃は内面こそ青春という甘酸っぱい言葉からは最も縁遠い位置にいるが、総武高校の頂点に立つ彼女は色々な意味で、近隣の青春を謳歌する世代の代表だ。その恋人となってしまった以上、有形無形の圧力を受けるのは目に見えている。

 

 生徒会入りした時ですら、比企谷八幡と交流を持とうという人間はいなかった。恋人になったというのはそれ以上のインパクトであるが、それを理由に今更交流を持とうという人間は増えないだろう。

 

 代わりに、排除しようという動きは生まれるかもしれないが、下手に友達面をされるよりも、そちらの方がよほど良い。

 

「ま、節度を保った付き合いをするなら、誰が誰と付き合おうが一向に構わない。私が警察やら産婦人科やらに呼ばれるようなことがないよう、清く正しい交際をするようにな」

「教師なら、苦言くらいは言うものかと思ってましたが」

「交際くらい好きにすれば良いだろう。面倒をかけない限り、私に損も得もない……と言いたいところだが、詳細を求める気配が教師の間からも噴出しそうだ」

「俺、呼び出されたりするんでしょうか?」

「疑わしい事実があるならばまだしも、お前たちはまだ交際を宣言しただけだ。ただそれだけの生徒を呼び出して交際の有無を確認するだけなど、間抜けにも程がある。教師もそこまで暇ではないよ。だが、色々と質問をされるだろう手前、どこまで進んでいるのかくらいは確認しておきたい。正直に答えろ陽乃、どこまで行った?」

「清い交際をしてるって言ったでしょ?」

「個人で度合いの変わる表現でお茶を濁すな」

「静ちゃんも、下世話な話が好きなんだね」

「たまには良いだろうさ。で、どうなんだ?」

「そうだなぁ……」

 

 周囲に人影はあるが、間近にはいない。陽乃は立ち位置を変える。自身と静が影になるように八幡を移動させると、さっと頬にキスをした。

 

「これくらいかな」

 

 唇を離して、にこりと微笑む。静は陽乃の顔をぽかんと見つめていたが、やがて腹を抱えて大笑いした。

 

「あぁ、あぁ。お前もそこまでするのか。解った、確かに清い交際だ。教師の方にはとりなしておくから、お前たちはそのままでいると良い」

「協力ありがとう。八幡友達いないから、男の子紹介するとかできないと思うけど、ごめんね?」

「見くびるなよ。男くらいその内見つけて見せるさ」

「婚活とか言うんだっけ? そういうの早めにしておいた方が良いと思うな。素材は良いのに男ができないとか、すごーくかっこわるいよ?」

「私はまだ若いから大丈夫だ」

 

 今までの言葉で一番力を込めて断言し、静は去っていく。その背中には自信が漲っていたが、その自信が何処からくるのか八幡には良く解らなかった。確かに見た目は良いのだが、モテそうかと言われると首を捻らざるを得ない。選べる立場ではないのは勿論解っているものの、例えば静が彼女になってやると言ってきたとして、それを素直に喜べるかと言われれば、答えは多分NOだ。

 

 勿論、年齢差というのもあるのだろう。

 

 十歳近く年上というのは、恋人として考えた場合、躊躇する大きな理由になる。ならば同年代にはモテるのかと考えてみれば、ヒモを飼っていたとか、今現在恋人がいないという事実が、静の現状を物語っていた。

 

 見た目は良いのだ。陽乃が認めるくらいだから、八幡の勘違いということはなく、客観的に見て平塚静は美人である。

 

 その上で恋人ができないというのは、見た目を相殺してあまりあるほど、内面に問題があるという推論を成り立たせていた。あれほど美人なら選ぶ立場という言い訳もできないこともないが、結婚までの年齢に比較的余裕がある男性と比べて、女性は30という年齢が境界線であると聞く。

 

 それまでにゴールインできれば良いだろう。全ては前振りで、自分はきちんと相手を見つけたと周囲を納得させることがきる。友人として教え子として静には幸せになってほしいのだが、八幡には静が幸せな結婚をできるとは、どうしても思えなかった。

 

「先生の背中に空しさが見えるのはどうしてなんだろうね」

「それはめぐりが幸せな結婚ができるタイプだからじゃないかな」

 

 陽乃の直球は的を得ていると思った。悪い男に騙されそうな気がしないでもないが、それ以上に良い相手を見つけて普通に結婚する可能性が高いように思える。そうですか? と照れるめぐりを見て、これが正しい反応なのだと理解する。間違っても陽乃にはこういう反応はできない。

 

 照れるめぐりを横目に、陽乃を見る。視線が合うと、陽乃は小さく首を傾げた。何が変わった、ということはないはずなのに、一つ一つの仕草が以前よりもずっとかわいらしく見える。こういうのも贔屓目というのだろうか。自問していると、陽乃が近づいてくる。

 

「腕でも組んで歩いてみる?」

「校内でそういうことはやめた方が良いのでは?」

「さっき宣言したから大丈夫。節度ある付き合いの範疇なら、学校も見逃してくれるはずだよ」

「腕を組んで歩くのは、節度ある付き合いの範疇だと思うか? 城廻」

「それを試してみるのも良いんじゃないかなー」

 

 返事には既にやる気がない。いちゃいちゃを見せ付けられたい、と率先して思ってはいないようだった。援軍は期待できない。陽乃を見れば、まだにこにこと笑っている。無言の笑顔だが、何を要求しているのかは良く解った。

 

 ふぅ、と大きく息を吐いて、陽乃の隣に並ぶ。目当ての物が近くに来ると、陽乃は『それ』に飛びついた。

 

「んー、男の子と腕を組むなんて、初めて」

 

 陽乃はご満悦だ。周囲のことなど気にしないのはいつものことであるが、八幡はそうはいかなかった。ここは学校の廊下で、二人は有名人。渦中の二人が腕を組んで歩いていれば、非常に目立つ。

 

 めぐりなど、少し離れて歩くようにして、他人のふりをしている。できることなら八幡もそうしたかったが、腕を組まれていてはそうはいかない。美女とそうしていることに男として嬉しくない訳ではないが、意に反して目立つというのは八幡の胃に多大なストレスを与えていた。陽乃と一緒に行動するようになってそれなりに鍛えられたと思っていたが、人間の本質というのはそう変わらないらしい。

 

 好奇の視線は、生徒会室の扉を潜るまで続いた。流石にこの部屋に、役員以外と静以外の人間は早々入ってこない。自分の席に腰を下ろして、八幡は深く溜息を吐いた。そんな八幡を、陽乃は頬杖をついて眺めている。

 

「楽しい?」

「ええ。退屈はしませんね。陽乃は楽しそうで何よりです」

「うん。普通に面白くてちょっとびっくり。文化祭もこんな風にして回らない?」

 

 陽乃の言葉に、八幡は押し黙った。文化祭実行委員であり、生徒会役員でもあるこの三人に、文化祭を楽しむ時間というのはあまりない。それでもこんな風にしてというのは、こんな風にして仕事をしないか、という提案――ではなく、命令だった。

 

 そこまで目立つと周囲の目も厳しくなってくるが、実のところ総武高校の校則に男女交際に関する規定は少ない。不純異性交遊に関する記述が少々ある程度で、具体的にどの程度になったらアウトということが明文化されている訳ではない。悪く捕らえれば教師のさじ加減一つということであるが、そこは弁が立つ陽乃である。あちらだけに都合の良い解釈など、許すはずもない。

 

 つまるところ、誰が見てもアウトということをしない限り、外部から取り締まられることはない。それは同時に、誰も陽乃を止めることができないということでもある。総武高校において陽乃は絶対である。それを確認するだけのことだが、明日の地獄が逃れようのないものだと改めて実感すると、気分も重くなった。

 

 考えれば考えるほど滅入ってくる気分を、無理やり切り替える。

 

 美少女と恋人になり、仕事があるとは言え一緒に文化祭を回ることができるのだ。男としてこれほど素晴らしいことはない。世の男は皆、比企谷八幡を羨むことだろう。そこに優越感を感じないでもないが……

 

 また、八幡は溜息を吐いた。

 

 予想はしていたが、文化祭を普通に楽しむというのが難しい。こういうイベントは中学のときにもあったが、高校以前の八幡はリア充とは全く縁のない生活をしていた。彼女がいた経験はなく、異性と二人で出かけたこともない。それを考えれば高校に上がってからの数ヶ月で随分経験値を積んだものだと思う。彼女ができた、というのはその経験の中でも最たるものだ。

 

 だが、彼女ができたからと言って彼氏らしく振舞えるかと言われればそうではない。全く経験のないことを、想像だけで補えるはずもない。こういうものか、というビジョンはあっても、それが空振りするのは目に見えていた。何しろ自分は比企谷八幡だ。そこで正しい行動など、できるはずもない。

 

「難しい顔してる。死んだ魚みたいな目が、更に淀んでるよ」

「恋人って何をすれば良いのか、ちょっと考えてました」

 

 あら、と陽乃は小さく声を漏らすと同時に、めぐりは黙って席を立った。すたすた歩いて外に出て行くめぐりは、砂糖の塊を噛み潰したような顔をしていた。

 

 八幡の言葉に、陽乃は考える。信じられないことだが、陽乃も今まで恋人というものがいたことはない。初恋人、ということでは条件は同じだが、陽乃と八幡では積んできた経験値の量が圧倒的に異なる。進んで腕を組もうとするなど、陽乃には明確なビジョンがあるように思えた。八幡が思っていた以上に、陽乃は恋人という関係を維持することに積極的である。

 

「自信ない?」

「あまり。考えてはいますが、要望に応えるので精一杯かもしれません」

「八幡にしてはかわいいこと言うね。でも、考えてくれてるんだ。それはちょっと嬉しいな」

 

 陽乃が少女のように笑う。打算のなさそうな綺麗な笑顔に見とれていると、陽乃は椅子から立ち上がった。あわせて立ち上がろうとする八幡の方を抑えて、横向きで八幡の膝の上に座る。陽乃の整った顔が、目の前に来る。にこにこと、無邪気に笑う笑顔は相変わらず底が知れない。

 

 誰もが見とれるその笑顔の下で何を考えているのか、これだけ近くにいても見通すことができない。この得体の知れなさが、陽乃の最大の魅力だった。恐怖とも何とも言えない感情が胸の奥に湧くと、八幡の心も次第に穏やかになる。

 

「やりたいようにやろうよ。私はいつもそうしてるよ」

「それは陽乃だからできるんですよ。俺にはそこまで、やりたいことはありません」

「でも、私のことを考えてくれてるでしょ? したいことはないの? 私に」

 

 目を見て、陽乃は問うてくる。本能に任せた答えでもよければ、それこそ湯水のように湧き出てくる。それを口にするのは簡単だ。そして、その願望をおそらく陽乃は叶えてくれるのだろう。

 

 その願望を口にしかけて、八幡は口を噤んだ。

 

 その答えは間違いだ。要望に応えてはくれるだろうが、それだけだ。そんなことを陽乃は望んでいないし、それは比企谷八幡の最大の望みではない。

 

 目は口ほどに物を言うという。目をじっと見ていた陽乃に、その心の動きは筒抜けだった。

 

「よくできました」

 

 微笑んだ陽乃が、顔を寄せてくる。

 

 葛藤の報酬は、口付け一つ。

 

 

 




ここまで間があいたのに文化祭はまだ始まってません。
そして文化祭ではもっといちゃいちゃします。

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