昼休みになった。
八幡を昼食に誘おうと思っためぐりが席を立つと、彼はそれを察していたかのように席を立ち、脇目も振らずに教室を出て行った。
教室を出て、右に折れる。行き先はおそらく生徒会室だ。陽乃は基本教室で友達と昼食を取り、静も昼時は職員室にいるから、今から生徒会室に行っても一人だけのはずである。
一人になりたいならばともかく、一人の方が良いというのはめぐりには信じられない感覚ではあったが、八幡はどうも本当にそう思っているらしかった。今まで何度も昼食には誘っているが、その全てを袖にされている。一緒に昼食を取ったのは、陽乃が全員を誘った時だけだった。
その態度に最初は嫌われているかと思っためぐりだったが、仕事をしている間は普通に会話をするし他のクラスメートにも八幡は似たような対応をする。誰でもこうなのだろう。この学校での例外は、陽乃と静の二人だけだった。
「城廻もよくやるよねー」
今日も袖にされてしょぼくれているめぐりの元にクラスメートが寄って来る。見た目はチャラいが中身は真面目という変り種で、テストでも上位に入っているクラスの変わり者である。どういう訳か始業式の日から自分にシンパシーを感じていたらしく、クラスでは一緒につるむようになった。
陽乃目当てで実行委員に立候補したカースト上位者を差し置いて、今まで一人も増員されなかった生徒会への電撃加入を果たしためぐりが、クラスでハブられたりいじめられたりしなかったのは、彼女のおかげである。
「あれだけ関わらないでくれってオーラみたら、普通は諦めない?」
「一緒に食べた方が楽しいに決まってるよ」
それはめぐりのポリシーだった。それが合わない人間がいるというのも理解しているが、一度も試さないのに諦めることはできなかった。仕事中に話してみた限り、八幡は合わないタイプである可能性が非常に高いが、それでも、めぐりは諦めることができなかった。
一緒に働くことになった仲間である。同じ学年で、同じクラスなのだ。仲良くしたいと思うのは、めぐりとしては当然のことだった。
「あれのどこが良い訳?」
「言われるほど悪い人ではないよ? 仕事はちゃんとやるし、はるさんの言うことはしっかり聞くし」
女王様と犬というのは陽乃と八幡を揶揄して言われる言葉だ。最初はただの皮肉や冗談かと思ったが、陽乃の無茶振りと八幡の従順さを見るに、そう的外れでもないような気がした。
ただ、嫌な顔はしながらも八幡は仕事を的確にこなしていく。陽乃の手伝いで文化祭の仕事をしても、陽乃が抜けて滞った分の生徒会の仕事をしても、彼は的確に、無駄なく、てきぱきと自分の仕事をこなしていた。
こと仕事を処理するという点において、八幡は間違いなく優秀である。クラスでぬぼーっとしていてカースト上位の面々から羽虫のように見られている姿からは、想像もできない。
「そりゃあ女王様ならあれも使いこなせるだろうけどさ……いや、私が言ってるのはそういうことじゃなくて、あれが野郎としてどうかってこと」
「……男の子としてどうかってこと?」
「そう、そういうこと」
言われて初めてめぐりは考えた。男の子としてというのは、流石に交際する相手として、ということだろう。めぐりとて女子だ。色恋の話題に興味がない訳ではないし、したくない訳でもない。
その相手として八幡のことを考えためぐりは、苦笑を浮かべて首を横に振った。
「今はまだごめんなさいかな。話が合いそうな感じがしないし」
「それなのにお昼に誘おうとする根性には参るよほんと」
肩を竦める友人を見て、めぐりも溜息を漏らす。
他人から見たら、八幡に懸想しているように見えるのだろうか。悪い人間ではないと思うが、今のところそういう感情はなかった。友人もまさか本当に城廻めぐりが八幡に懸想をしていると思っている訳ではないはずだ。総武高校の大多数の人間は、八幡は陽乃の所有物だと認識している。女王の物に手を出すような不敬な女子生徒は、少なくともこの学校にはいない。
考えられるとすれば陽乃のアンチ派であるが、そのアンチ派にすら八幡は見くびられている節がある。いくら陽乃を攻撃するためと言っても、そのために八幡を篭絡したりはしない。何より女性的な魅力で陽乃に勝てると錯覚できるような女子がいたら、陽乃の対抗馬としてとっくに有名になっている。
容姿において、陽乃は総武高校で独走している。成績でも同様だ。1教科で遅れを取ることはたまにあるが、総合順位において陽乃が一位以外の順位を取ったことはない。おまけに生徒会長で高校の歴史上初めて文化祭実行委員長も兼任した。完全で完璧であるからこその女王なのだ。その性格において敵を作ることはあるが、それを圧倒的に上回る味方がいる。
近くで見ているとより実感する。彼女は天才肌の人間だ。その才能を研鑽し、それを如何なく発揮することができる。主に自分の地位を高めるためであるが、たまに八幡を小突き回すことにも使っていた。早い話が気まぐれな人間なのだ。アンチ派はそれがさらに気に食わないようであるが、多くの人間にはそういうものだと好意的に受け入れられている。才能のある美人は、大抵の行動が許される。それどころか、短所を長所に変えるのだった。
めぐりもその才能に魅了された一人である。学ぶべきところは多くあるし、近くで見ているだけでも非常に楽しい。雲の上の存在という思いを、より強くしためぐりだったが、同時に、陽乃に人間らしさを見ることもあった。
雪ノ下陽乃とて、高校生の少女である。世間的にはまだ大人ではなく、子供と言える年齢だ。どれほど洗練された容姿をしていても、どれほど能力を持っていても、少女であることに変わりはない。ふとした時に見せる子供っぽさに、ふとした時に溢れ出る子供のような表情に、気付いている人間がどれだけいるだろうか。
それを見れることは近くで働いている者の特権だ。陽乃は普段仮面を被って振舞っている。完璧で完全な女王の仮面だ。めぐりの前では元より、仲の良い友人である静の前でも、陽乃は決して弱みを見せたりはしない。
だが、八幡の前では違うように思えた。他の人間よりも少しだけ、八幡の前では少女らしく振舞っているような気がする。ほんの些細な違い。近くにいる人間だからこそ気付けるほどの、小さな違いだ。
八幡が気付いているようには思えない。彼は男性だ。陽乃が特別な感情を持っていると少しでも思っていたら、もっと調子に乗るだろう。気付くとすれば女性であるが、陽乃本人は意識しているようには見えなかった。少なくともめぐりの目では、陽乃の心の中までは見通すことはできない。
ならばもう一人。気付いている可能性の高い人間に聞いてみた。陽乃のほとんど唯一の『友人』である静である。
もしかしたら陽乃は八幡を好いているのでは。
直球の質問に、静は爆笑した。自分の推理が否定されたようで気分は良くなかったが、落ち着いた彼女が言った言葉は、
『まぁ、そうだろうな』
という、肯定の言葉だった。そうだとしても新参者に認めると思っていなかっためぐりは、静の言葉に目を丸くした。そんな表情で気を良くしたのか、静は得意そうに語り始める。
『少なくとも、一番好意を持たれているのが比企谷なのは間違いない。それは陽乃本人も、比企谷も自覚してるだろう。陽乃の性格を考えたらそれだけで十分脅威な訳だが、
それだけでは終わらないと私は睨んでいる』
何やら話が桃色になってきた。生徒のゴシップを教師が話して良いものかとめぐりは心配になってきたが、当の静は話したくて仕方がないという顔をしていた。ここで聞かないというのは流石に可哀想に思えた。興味があるという顔ができたか知らないが、できうる限り静の話に乗ったふりをして、めぐりは静の話の続きを待った。
『人間というのは楽をしたがる生き物だ。別にそれは悪いことじゃない。そういう感情が発展を生み出したのだし、何よりだらだら過ごすのは楽しいからな。だが、一度堕落を覚えた人間は、その味を忘れられない。よほど精神の強い人間でない限り、堕落を知る前よりも弱くなるものだ』
それが陽乃や八幡のことを言っているのだということはめぐりにも解ったが、堕落という言葉はあの二人、特に陽乃には縁遠いことのように思えた。雪ノ下陽乃は完全で完璧だ。それがこの学校で陽乃を知る人間の共通見解だろう。陽乃のことをある程度知った今でも、それに異論はない。少女らしい一面はその発露なのだろうが、静が言っているのはもっと深いことのように思えた。
『完全で完璧な女王様が、生まれて初めて他人に頼ることを覚えた。今まで人を使ってきただけの陽乃はおそらく、自分が他人を頼っているということすら理解できないだろう。理解できない内に依存は高まり、やがて完全でも完璧でもなくなり、女王ですらなくなるかもしれない』
何でもないことのように静は言うが、総武高校の人間にとってそれほど驚天動地なこともない。陽乃が女王でなくなるなど、めぐりにも想像できることではなかった。
『人間としてはそれは弱くなったということなんだろう。堕落を覚えて女王でなくなり、ただの雪ノ下陽乃になる。それは今のあいつにとっては喜ぶべきことではないのかもしれないが、一人の友人として、また教師としては、歓迎すべきことではあるな。肩肘張って生きるのは疲れるし、一人や二人くらいは、愚痴を言って弱みを見せられる人間も必要だ。あいつにとってはその初めての人間が、異性の比企谷というのは皮肉な話だが……』
静は満足そうに大きく溜息をついた。この話ができる人間が、静の周りには少ないのだろう。当事者の二人に話せるはずがないし、教師にする話でもない。まして陽乃たちに縁の薄い生徒にはできるはずもない。
『話が回りまわってしまったが、城廻が聞きたかったのはこういうことだろう? 陽乃も比企谷も怪物ではなく人間だ。そう思って接してやってほしい。普通の人間よりも大分難しい連中だが、根は良い奴なんだ。できる限りで構わない。あいつらの友人でいてやってくれないか』
『それは、言われるまでもありませんが……』
『助かるよ。お互いだけってのもロマンがあって良いんだろうが……そういう直球な展開は、あいつらには合わないだろうからな。一人二人は他人がいた方が、ロクでもない展開は防げるだろう』
そういって皮肉気に笑う静は、二十の半ばという年齢よりも大分老成して見えた。これこそ女性に言うべき言葉ではないが、静のそんな顔を見てめぐりは『お母さんみたいだなー』と思ったものだ。
「明日も比企谷お昼に誘うの?」
友人が興味なさそうに聞いてくる。基本、お昼は彼女と一緒だから八幡を誘うとしたら彼女も同席することになる。人見知りする八幡が、同僚の友人の同席を認めるかというのはかなり分の悪い賭けだったが、諦める訳にはいかなかった。
静の話を聞こうと、彼が陽乃の所有物であろうと、八幡と友達になりたいという気持ちに嘘はないのだから。