Double Servant -Poetry of Brimir-   作:ねずみ一家

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第六十八話 タルブの夜

アルビオン巡洋艦が学院から撤退する、その数刻前・・・、タルブ地方の森を二人の男達が気だるげに歩いていた。

 

 

深く生い茂った草薮をかき分けながら、緑髪の青年が溜め息混じりに言葉を漏らす。

 

「・・・何でこんな森を通らなくちゃいけねえんだよ。街道を通れば、こんな苦労・・・」

 

先頭を進む銀髪の青年が草薮から飛び出ていた枝を短剣で切り払った。

 

「少しは頭使って考えろよ、アルビオン軍に見つかったら終わりだろ? それに、もう着くって」

「・・・お前そればっかりじゃねえか。ああ・・・疲れた・・・」

 

その言葉を聞いた銀髪の青年が憮然とした声を上げる。

 

「俺の方が疲れてるに決まってるだろ。なあ、そろそろ代わってくれないか?」

「・・・嫌だね。お前の方が慣れてるだろ・・・」

 

ラ・ロシェールを出発してから今まで、二人はただひたすらに歩き続けていた。

 

今のラ・ロシェールで傭兵に馬を売ってくれる場所なんてもうどこにも存在していなかった。

食料品の値はあっという間に高騰し、それでも何とかかき集めた干し肉の山によって二人の財布の中身は既にすっからかんとなっている。

 

「・・・本当にあるのか? お宝は」

「何だよ、気の滅入ること言わないでくれよ。俺達が同時に見た夢はただの偶然だってのか?」

「・・・有り得ねえ話じゃねえだろ」

「ナーバスになるなってば。あれはお告げだよ。不幸な俺達をきっと救ってくれるさ」

 

「・・・そうなりゃいいがな。ああ・・・本当にツイてねえ・・・」

 

思えば、アルビオンで王党派側についたのが不運の始まりだった。

 

アルビオン王国の軍事力はあのガリア王国に次ぎ、更に空軍の力で言えばハルケギニアにおいて他の追随を許さない。

 

『宙に浮かび続ける大陸』という地の利も相まって、国土は長いこと戦火に巻き込まれることもなく、その肥沃な土地に根差した平民達も一定以上の豊かな生活を送ることが出来ていた。

過去に王族関連のゴタゴタが多少あったとはいえ、貴族達、平民達による王家への忠誠も厚く、古臭いトリステインや不安定なゲルマニア、強権的なガリア王国やロマリア皇国に比べても、アルビオン王国は非常に安定していて、常駐していた傭兵達にとっても住みやすい国だったのだ。

 

だからこそ一部貴族達の離反が発生した時には驚きこそすれ、あっという間に反乱が鎮圧されるのは目に見えていた。

王党派についた自分ら傭兵も、どうせ王国の方が勝つだろうと見込んだ程度の、単なる臨時収入の機会が回ってきたという程度の考えしか持てなかったのだ。

 

しかし、現実は違った。

反乱軍の鎮圧に乗り出した『ロイヤル・ソヴリン』号の離反を皮切りに、あれよあれよという間に大部分の空軍や王軍側の兵士達が次々と寝返りはじめたのだ。

 

『獅子身中の虫』というのはこういう事を言うのだろうか、内部からガタガタになっていった王軍はレキシントンでの戦で呆気なく大敗した。

そんな戦でも何とか生き残ったのはいいものの、いざ王党派の拠点に戻ってみると既にその拠点すらも根こそぎ壊滅していたのだった。

 

王党派に見切りを付け、長い時間をかけてようやくトリステインまで逃げてきたのはいいが、そうしたらまたアルビオンとトリステインの戦が始まった有様である。

 

正に、お先真っ暗だった。

森の中は薄暗さが増し、日が暮れかけている今のこの状況が自分たちの未来を暗示しているようにも思えていた。

 

「ツイてるか、ツイてないかはタルブ村に着いてから考えりゃいいさ。それにさ、あそこは一昨日襲われたばっかりなんだろ? 住んでた奴等もこぞってラ・ロシェールに逃げてきてたみたいだし、たぶん色々残ってるんじゃないか?」

 

もう一度枝を切り払いながら、銀髪の青年は明るい声を出した。

その様子に緑髪の青年はもう一度溜め息を吐く。

 

傭兵になってから腐れ縁で行動を共にしているとはいえ、何でこいつはこうも楽観的なんだ。

 

「・・・残ってたら、どうだってんだよ」

「ほら、考えてみなよ。タルブ村だぜ? ワインがたんまりあるだろうし、それを元手に何かの商売始めてみるってのは?」

 

不満をもう一度口にしようとしていた緑髪の青年は、口から出そうになっていた不満の言葉を飲み込んでいた。

確かに、それもいいかもしれない。

 

「・・・ああ、そりゃいいな。ワインを金にしてよ、ゲルマニアにでも行って・・・」

「そうさ。今はなかなか売れないだろうが、トリステインがアルビオンに占領されてから兵士相手に売っぱらえば相当な金になるだろ。

そうだな、ゲルマニアかあ。ゲルマニアはどうせ降伏するだろうし、どさくさに紛れて成り上がりを狙うのもいいかもしれないなあ」

 

がさがさと森の中を歩きながら、彼らは少しばかり未来が明るくなった気がしていた。

 

それに、タルブ村のワインに加えて、もし本当にお宝があったとしたら・・・。

 

「・・・お前は平民の癖に、本当に頭がいいな」

「そうだろ? 商売始めるにしても、貴族崩れのアンタがいてくれりゃ百人力だ」

「・・・その調子で成功する商売の内容も考えといてくれよ」

 

任せとけ、と銀髪の青年が明るい笑い声を上げていると、二人の視界がぽっかりと開いた。

 

「お、着いたかな?」

 

どうやら森と村を繋げるための裏道へと出たらしい。

徐々に暗くなっていく夕暮れの中で二人が歩いていく中、うっすらと空に黒く上がる煙が見え始めた。

 

「・・・燃えてるのかよ。勘弁してくれ」

 

まさかワインも駄目になっているのでは、と緑髪の青年が不安げな表情を浮かべる一方、銀髪の青年はあっけらかんと声を上げる。

 

「まあ、あそこで見てみりゃ分かるだろ。ワインが駄目なら、その時はその時だ」

 

 

 

 

 

二人の傭兵がタルブ村の広場をてくてくと歩いていた。

 

周囲には全く人気がなく、アルビオン軍は村の家々を大雑把に燃やしただけで通り過ぎていたようだ。

広場の向こう側に広がっていたであろう森は、黒々とした木の残骸から今もなお薄い煙を上げ続けている。

 

人の気配の無い廃墟じみた村の頭上で風が吹き、家々の隙間から見える草原からは草の擦れる、ざあっとした音が聞こえてくる。

 

何とも、ぞっとしない光景だった。

 

「・・・こりゃ、ひでえな。死体は無いみてえだが」

 

「ここ、あの広場じゃないか? 夢だと、確かここらへんに」

 

歩いていく二人の目前に、何かが転がっているのが見えた。

日の光が消えかけている薄暗い中で、二人は慎重にその影へと近付いていく。

 

 

「・・・まじかよ。まさか、本当に・・・」

 

 

そこにあったのは、三十サントにも満たない小さな木の箱だった。

その箱の表面は『錬金』で作られたであろう薄い金属に覆われている。

 

正に夢で見た、あの箱だった。

 

 

「おい! やったな! やっぱりあれはお告げだったんだよ!」

 

 

銀髪の青年は心底興奮したように、緑髪の青年の肩をばしばしと叩く。

重厚な木の箱を拾い上げた緑髪の青年も、沸き立つような喜びを確かに感じていた。

 

しかし、まずは箱の中身を確認しなければ素直に喜べないのだった。

 

「・・・こう、暗くちゃな」

「そうだ、そうだな! 鍵かかってるみたいだけどアンタの『錬金』なら何とかなんだろ! まずは焚火だ!」

 

 

二人はそこら中に転がっている木の板やぼろぼろになった木の破片を集め始めた。

しばらくして、森を燃やしていた残り火をそのまま種火として使い、広場に大きめの焚火が出来上がる。

 

その焚火がすっかり暗くなった広場を照らす中で、緑髪の青年が小さく詠唱を行なっていく。

銀髪の青年が傍らでわくわくした表情を浮かべているものの、かなり高レベルの『固定化』がかけてあるらしく、鍵を開けるには相応の時間がかかった。

 

それでもかちゃりと軽い音を立てて、箱の鍵が開いた。

 

 

「・・・さて、ご対面だ」

 

 

ゆっくりと箱の蓋を開けていく。そこにあったのは・・・。

 

 

「・・・何だ、こりゃ」

 

 

二本の古びた木の枝が、箱に敷き詰められた布の上に転がっていた。

 

 

「これだけ、か?」

 

その二本の木の枝を外に出してから、布きれを地面に放り投げた。

そのまま箱を引っくり返したり、くるくる回したりしてみるものの、箱の中身はたったこれだけである。

 

 

「・・・」

 

「・・・」

 

 

気まずい沈黙が二人を包み込んだ。

ぱちぱちと焚火の音だけが広場にこだましていく。

 

「・・・はあ。何が、お告げだ」

 

心底落ち込んだ緑髪の青年に、銀髪の青年は憮然とした表情のまま勢いよく立ち上がった。

 

「お宝は無かった、それだけだ! 俺はワインとツマミをかき集めてくる! こうなりゃヤケ酒だ!!」

 

 

焚火で簡単な松明を作って、銀髪の青年はずんずんと壊れた家の中へと歩いていく。

 

それを横目で見送りながら、緑髪の青年は真っ暗になった夜空をゆっくりと見上げていった。

 

「・・・本当に、ツイてねえ」

 

こんな結果なんだったら、箱なんて無い方がまだマシだった。

ついそんなことを考えながら、一人残った青年は傍らに転がっている二本の木の枝をちらりと見る。

 

焚火の明かりが闇夜を照らしてくれているおかげか、森を歩いていた時に感じていた、じくじくとした不安はすっかりとその勢いを落としていた。

自分のことながら何とも単純なもんだ、とぼんやり考えながら、青年は一本の古びた木の枝をそっと掴み上げた。

 

胸の内にあるのは徒労感だけで別に怒ってなんていない。

ただ何にもしないで焚火の番をしているのもつまらないので、何とはなしに、青年は手に持った木の枝を焚火の中に放り投げた。

 

「・・・ワインは無事みたいだったからな。それを使えばいいだけの話だ」

 

さっき木材をかき集めながら家の中を簡単にチェックしたのだが、家の地下にあるワインセラーは無事のようだった。

 

こぢんまりとしたワインセラーだったが、その家だけでも相当な量のワインが貯蔵されていたのだ。

それなら全ての家の中、そして村のどこかにある貯蔵庫の中には、一体どれだけのワインが眠っているのだろうか。

 

「・・・そうだ。お宝なんて無かった。それだけだ」

 

そう一人で呟きながら、傍らに転がっているもう一本の古びた木の枝を掴みあげる。

先程と同じようにその木の枝も焚火へと投げ入れようとした時、ふと、手に持った枝に何かの感触があるのが気になった。

 

不思議そうな顔でその枝をまじまじと見る。

 

そこには、木の枝に描かれた赤黒い紋章のようなものがあった。

指でこすってみても、それは塗料などではない。

 

 

「・・・ま、まさか。マジックアイテムか!?」

 

 

焦った青年が焚火の中へにじり寄る。

中腰になりながら焚火をくまなく見ようとするも、たかが一本の木の枝を勢いの増している炎の中に見つけるのは到底不可能に思えた。

 

「・・・やっちまった」

 

目の前でばちんと音を立てて、少しずつ勢いを強めていた炎が闇の中に伸び上っていく。

立ち上がろうとしていた腰を下ろし、げんなりとした顔で俯いた青年は自分の安易な行動を後悔していた。

 

とりあえず手に握っていた紋章付きの木の枝を箱へ戻しながら、青年は忌々しげな表情で揺らめく焚火へと視線を向けた。

 

あんなぼろっちい枯れ枝だ。仮にマジックアイテムだとしてももう使い物になるはずがない。

しかし、まさか・・・、本当にお宝だったとは・・・。

 

 

「・・・本当にツイてねえ。アイツになんて説明すりゃ・・・」

 

 

もう一度、ばちんと焚火が音を立てる。

 

 

 

その瞬間。

耳をつんざく爆音と共に焚火が木端微塵に弾け飛んだ。

 

 

 

急に巻き起こった爆風に青年は吹き飛ばされていく。

そのまま地面に転がった緑髪の青年は、周囲に散らばった火と真っ暗闇の中へ、きょろきょろと忙しなく目を向けていく。

 

 

「・・・な、な、何だ今のは! 魔法か!? 砲撃か!?」

 

 

そしてそのまま、青年はある一点に目を釘付けにされていた。

弾け飛んだ焚火の火が、何かの大きな影をかすかに照らしている。

 

ごふごふという呼吸音と共に、その大きな影はゆっくりと周囲を見回している。

 

 

「み・・・、み、み・・・」

 

 

震えるその呟きに、大きな影がぐるりとこちらを向いた。

咄嗟に青年は口を両手で押さえる。

 

ずん、と重量のある音を立てながら、その大きな影は青年のいる方向へ歩き出した。

 

青年は息が詰まる程の恐怖を覚えながらも、立ち上がることすら出来ずに、その大きな影をひたすらに凝視していた。

 

 

「おーい! 何だ、今の音!」

 

 

大きな影が歩みを止め、ぐるりと声のした方角へ向き直った。

緑髪の青年は必死にその大きな影から視線を外し、破壊された家の方角を見る。

 

「おい! 焚火が吹っ飛んでるじゃねえか! 敵襲か!? 無事なのか!?」

 

ワインやチーズがぎっしり詰まった籠を放り投げながら、長剣を引き抜いた銀髪の青年が松明を手に駆け寄ってくる。

 

 

そのまま、松明の灯りが大きな影を照らしていく。

 

ごふごふ、ともう一度音がする中、銀髪の青年は照らされていくその大きな影を、ゆっくりと見上げていった。

 

 

「み、み・・・」

 

 

手に持った松明がかたかたと揺れ、震えるその青年を、びっしりと剛毛に包まれている巨大な牛の頭が静かに見下ろしていた。

 

 

 

「ミ、ミノタウロスッ!!!」

 

 

 

銀髪の青年が叫ぶのと同時に、牛頭のミノタウロスは絶叫するかのような雄叫びを上げた。

 

はるか遠くまで届くかのような轟音を受け、銀髪の青年はただ時が止まったかのように、その場で凍り付いていた。

 

ずん、とミノタウロスが一歩前に進み、丸太のような腕を振り上げていく。

 

 

「アースハンド!」

 

 

突然、ミノタウロスの真横から出現した岩の拳がその巨体をわずかに吹き飛ばした。

 

「に、逃げろ・・・! 逃げるぞ!!」

 

緑髪の青年が自身の杖を構えながら叫ぶ。

その声に我に返った銀髪の青年も駆け出そうとしていたが・・・、地面から突き出た岩の手と一緒に、その身体が突然大きく吹き飛ばされた。

 

銀髪の青年は力無く地面をバウンドし、そのまま地面に転がっていく。

 

 

「くっ、そ・・・!」

 

 

緑髪の青年の周囲から生み出された多くの石つぶてがミノタウロスへと襲い掛かる。

 

暗闇に目が慣れ始めていたためそれらは正確にミノタウロスの顔面へと直撃していくが、ミノタウロスは全く気にした様子もなく、地面に横たわる銀髪の青年へゆっくり近付いていく。

 

 

緑髪の青年は貴族崩れであった。

しかし彼は力のあるメイジではなく、ただのラインクラスのメイジだった。

 

それでも彼は、今持てる最大の力を振り絞っていく。

 

 

(お前がいなけりゃ・・・、商売できねえじゃねえか!)

 

 

緑髪の青年は可能な限り精神力を振り絞りながら、自分の持ちうる全力の魔法を解き放った。

 

 

「アースハンド!!」

 

 

ミノタウロスの目前から先程より一回り大きい岩の拳が襲い掛かる。

 

しかし先程とは違い、ミノタウロスはその岩の拳を左右の腕で受け止め・・・、それをそのまま、まるで枯れ木をへし折るかのように、あっという間に破壊していた。

 

ミノタウロスの目がぎょろりと緑髪の青年へと向けられる。

 

そのまま重い音と共に歩いてくるミノタウロスを前にしながら、彼は蛇に睨まれた蛙のごとく、力無く立ちすくんでいた。

 

ずん、とミノタウロスが目の前に立った。

三メイルにも至るその剛毛に覆われた身体には、傷一つとして付いていなかった。

 

彼の魔法は、何一つとして障害にすらなっていなかったのだ。

 

 

「・・・ツイて、ねえ。本当に・・・」

 

 

青年の震える声と共に、ミノタウロスが腕を振り上げていく。

 

巨大な牛の頭が目の前の獲物を凝視し、その口からごふごふという呼吸音が漏れていく。

 

 

(俺を喰うなら、せめて、殺してからにしてくれ・・・)

 

 

そうかすかに考えながら、振り下ろされる腕を見つめて・・・。

 

ぶおん、と振り下ろされる腕を、地面に転がった彼は何とか避けることに成功していた。

 

 

「はっ・・・! はあっ・・・!」

 

 

そのまま地面を四つん這いに逃げ惑いながら、背後から聞こえてくるミノタウロスの追ってくる音に耳を澄ませていく。

 

ふと、目の前に小さい重厚な木の箱が転がっていることに気が付いた。

その木の箱を手に取って、ミノタウロスへと投げつける。

 

「く、来るな・・・!」

 

飛んできた木の箱を全く気にも止めずに、ミノタウロスの巨大な影が迫ってくる。

そのままもう一度両腕を振り上げ、地面にへたりこむ青年へと勢いよく振り下ろした。

 

 

咄嗟に、青年は真横へと飛び退いていた。

 

そしてそのまま地面を揺らす轟音に息を飲んだ・・・、その瞬間、青年は何故か周りの時が止まったかのような感覚を覚えていた。

 

 

ミノタウロスが降り下ろした腕は地面を抉り・・・、その近くの空気が、ぐにゃりと歪んだ気がした。

 

何故か自分の肌が次々に粟立ち、得体の知れない恐怖が一瞬の内に全身を包み込んでいく。

 

 

 

そしてかすかな、何かが折れる、乾いた音と共に・・・。

弾けるような爆風がまたしても彼を大きく吹き飛ばしていた。

 

 

 

地面をバウンドして、ごろごろと地面を転がっていく。

何が起きたのか全く分からない青年は、朦朧とする視界をミノタウロスである巨大な影へと向けていった。

 

周囲を揺るがす雄叫びが響きわたる。

 

その音は、先程の雄叫びどころではなかった。

その余りにも巨大な轟音に、思わず青年は両手で耳を塞ぐ。

 

 

ミノタウロスは怒り狂うかのように何度も雄叫びを放っている。

そのミノタウロスの影は、既に青年を追ってなどいなかった。

 

何か、人間程の影を目の前にして、狂ったように雄叫びを上げ続けている。

 

 

その暗がりにはいつの間にか、赤い瞳がいくつも浮かび上がっていた。

 

 

地面を踏みしめるように身を低くしたミノタウロスがその人影達へと襲い掛かる。

先程までは見せていなかった、岩の塊のような肉体を利用した、正に全力の突進であったが・・・。

 

それらの人影は瞬時にミノタウロスへと飛びかかっていた。

 

かすかに光る赤い瞳がミノタウロスの周囲へ次々に纏わりついた瞬間、ミノタウロスはそのまま一歩、二歩と前へと歩き・・・、地面を揺らす音と共に、倒れ伏していった。

 

 

 

 

 

「はっ・・・、はっ・・・」

 

周りから聞こえてくるのは青年の呼吸音だけである。

倒れ伏したミノタウロスはぴくりとも動かず、その周囲には赤い瞳の人影がじっと佇んでいた。

 

青年は身じろぎ一つすることが出来なかった。

 

ミノタウロスを目の前にした時、間違いなく、今までの人生における最大の恐怖を彼は感じていた。

 

しかし、今のこの恐怖は・・・、この粘り気のある、余りにも巨大な殺気は・・・、それすらも遥かに凌駕していた。

 

 

「・・・誰?」

 

 

かすかに、誰かの声が耳に届いた。

その声はその人影達の中から聞こえてきた気がしたが、青年は恐怖のあまり何も口にすることが出来ない。

 

 

「・・・あなた、誰?」

 

 

もう一度、少女のような声が聞こえてくる。

この場にはふさわしくない、幼い女の子の声。

 

青年は、自分が何者かの悪夢の中に迷い込んでしまったかのような、まるで現実味の無い感覚を覚えていた。

 

 

「・・・そうだけど。どういうこと? どこにいるの?」

 

 

青年の心臓はばくばくと高鳴っていたが、その音は既に遠い場所から聞こえてきているようにも思えていた。

ごくりと、青年は苦い味のする唾をゆっくり飲み込んでいく。

 

 

「・・・うん。一応は」

 

 

その言葉と共に、少女はじっと何かを聞いているように黙りこくっている。

しばらくの間、長い時にも感じられた時間が過ぎると、もう一度少女の声がした。

 

 

「・・・よく分からないけど。とにかく、あなたが制御してるんだね」

 

 

かすかな呟きが聞こえ、少女が小さく相槌を打つかのように頷いている中、青年はようやく身体を動かし始めていた。

足を捻ってしまったのか、立ち上がろうとするもバランスを崩して地面へと倒れ込む。

 

 

突然、暗闇に浮かんだ赤い瞳が次々に青年へと向いた。

そしてその多くの人影が、底知れぬ殺気と共に青年へと近付いていく。

 

 

「ひっ・・・、ひいっ・・・」

 

「・・・止まって」

 

 

呟くような声に、それらの人影はびたりと止まった。

 

 

「・・・この人達も同じ?」

 

 

この声は一体誰に向いているのだ。

青年はそんなどうでも良いことを考えていたが、それでも、今自分は身じろぎ一つするべきではない、と朦朧とする頭で考え始めていた。

 

 

「・・・うん、そうして。私もそうした方が良いと思う」

 

 

その呟きとほぼ同時に、青年へと向いていた赤い瞳が暗闇の中を動き始めた。

きょろきょろと辺りを見回したり、自分の身体を見つめたりしている。

 

少女は小さく「分かった」と呟き、きょろきょろしている赤い瞳の集団へと口を開いた。

 

 

「・・・説明するね。あの人が言うには・・・」

 

「・・・いや、説明はいらないよ。僕らにも聞こえていたからね」

 

 

暗闇の中、重厚な鎧を身に包んだ青年がそう告げる。

人影たちは少し離れていた少女へと次々に近付いていった。

 

 

「ふうん。こんな感じなんだな」

 

「そうね。うん、面白いわね。これがモンスターなのね」

 

 

大斧を手にしていた青年と、礼装姿の女性が呑気な声を上げた。

 

先程までの殺気を欠片も感じさせない、その和やかな雰囲気のまま、鎧の青年が口を開いた。

 

「君は、ハワードに・・・、マーガレッタだな。有名人だらけだ」

「なんだ? 俺のこと知ってるのか?」

 

きょとんとした声に、鎧の青年が頷いた。

 

「君はホルグレンの兄弟子だろう? プロンテラの鍛冶屋には世話になってるからね。騎士団の者であれば、君のことを知っている者も多いのではないかな」

「何だ、あいつ今プロンテラで仕事してるのか? あんな下手くそが偉くなったもんだな」

 

馬鹿にしたように笑う大斧の青年を尻目に、礼装姿の女性も口を開く。

 

「騎士団の人なのね。いつもお世話になってます」

 

ぺこりと鎧の青年へ頭を下げた女性に、大斧の青年が豪快に笑った。

 

「こうなっちまったら、お世話になるも何もないだろ? 討伐される側だってのに」

「うるさいわねアンタ。ねえねえ、貴方のお名前は?」

 

礼装姿の女性が傍らに立っていた少女へと近付いていく。

その少女はぼんやりと女性を見上げて、小さく口を開いた。

 

「・・・カトリーヌって名前」

「うん分かった、カトリーヌちゃんね。私はマーガレッタ=ソリンって名前。よろしくね」

 

「・・・君が、カトリーヌ? ウィザードギルドのカトリーヌか?」

 

鎧の青年が驚きの声を上げると、少女は不思議そうな顔で鎧の青年を見つめていた。

少女が何となく気まずそうな雰囲気でもごもごと呟いている中、大斧の青年が面白そうな顔で口を開いた。

 

 

「アンタ、事情通なんだな。じゃああっちのアイツは?」

 

 

大斧の青年の赤い瞳が緑髪の青年へと向いた。

 

正確には、その横に・・・。

 

「ひ・・・」

 

緑髪の青年の傍らには、いつの間にか影のような男が音も無く立っていた。

真っ黒い服に薄汚れた布を身体に巻いた痩せぎすの男が、全く何の気配もなく佇んでいる。

 

また鎧の青年が口を開いた。

 

「ああ、彼はアサシンギルドの危険人物だ。そうだろう、エレメス」

「・・・」

 

何も口に出すこともなく、痩せぎすの男は静かに佇んでいる。

 

「口下手なのかしら」

 

「そういや、口下手っぽい恰好してるな」

 

口々に悪口のような言葉が放たれるも、痩せぎすの男は気にした様子もない。

 

 

「ねえ・・・。時間が無いんじゃなかった?」

 

 

身の丈程もある大弓を携えた女性が口を開くと、それぞれの赤い瞳がその女性へと向く。

 

「そうだな・・・」

 

鎧の青年がぽつりと呟く中、礼装姿の女性が口を開いた。

 

「もう少しいいじゃない? 貴方のお名前は?」

「私は、セシルだけど・・・」

「セシルちゃんね、分かった。これからよろしくね」

 

これから、という言葉に少しばかり眉間へ皺を寄せながら、大弓を携えた女性が話は終わりとばかりに少女へ向き直った。

 

それを見た少女は何か思い悩んだ顔をしながら、口を開いた。

 

 

「・・・あの。あなた達に力を貸してほしいの」

 

 

そう告げられた少女の言葉に、各々がきょとんとした顔を浮かべている。

 

「力を貸すも何も・・・。俺達はこのちっこいご主人様に生み出されたんだろ?」

「そうだな。君の事情も僕たちは分かっているから、手足のように使ってくれて構わないよ」

 

「・・・事情、って?」

 

小さく首を傾げた言葉に、礼装姿の女性が答える。

 

「あの子のために、でしょ? あんな訳わかんない人に使われるんじゃなくって、カトリーヌちゃんの理由で使われるのなら別に構わないわ」

「まあ、あの人がカトリーヌさんを制御してるみたいだし、別に悪い人じゃなさそうだけど・・・」

 

大弓の女性が静かに呟き、それに礼装姿の女性が耳元で茶々を入れている。

少し頬を染めながら「タイプとかじゃない」と大弓の女性が否定する中、礼装姿の女性は悪戯そうにお喋りを開始していた。

 

 

 

少し離れた場所で彼らのやり取りを見つめながら、緑髪の青年は訳の分からない光景に頭がパンクしそうだった。

 

彼らは明らかに異常な存在だった。

 

人のような姿をした、正体の分からない何かだった。

 

それにも関わらず、この和やかな雰囲気は一体何だ。

 

この・・・、異様な感覚は・・・。

 

 

それぞれの赤い瞳が、地面に座ったままだった緑髪の青年へと向いた。

 

 

「っ・・・!」

 

 

緑髪の青年が心臓を掴まれたような緊張を感じる中、赤い瞳の一団が静かに近寄ってきていた。

 

「・・・ねえ、教えてほしいことがあるんだけど」

 

目の前でちょこんと腰を降ろした人物は、まだ幼さの残る少女だった。

薄いクリーム色をした短い髪を湛えながら、じっとその真紅の瞳を緑髪の青年へと向けている。

 

「・・・この国の首都は、どっちの方向?」

 

「こ、この国・・・? しゅ、首都は、トリスタニアだ・・・」

 

その震える声に、大斧を背負った青年が静かに睨み付けていた。

 

「さっさと方角を教えろ。時間が無いって言っただろ」

「もう、止めなさいよ。こんなに怯えられるのはショックだけど・・・」

 

大弓を携えた女性が小さく溜め息を吐く中、少女がもう一度口を開いた。

 

「・・・トリスタニアは、どっちにあるの?」

「・・・あ、あっちだ。あっちに、馬で二日くらいの・・・」

 

指差された方角をちらりと見てから、少女はもう一度緑髪の青年へと顔を向けた。

 

 

「・・・うん、分かった。ありがとう」

 

 

その言葉と共に、立ち上がった少女は教えられた方向を見つめる。

 

赤い瞳の一団がそれぞれその方向へと目を向けていくと、彼らの足元に光り輝く魔法陣が浮かび上がった。

 

 

そして次の瞬間には・・・、光に包まれた彼らの姿が、まるで幻であったかのように消えていった。

 

 

「・・・」

 

何も言えず、緑髪の青年は一瞬の内に消えた一団の場所を見つめ続けていた。

 

彼は気絶していた銀髪の青年が声をかけるまで、その場で固まったように座り続けていたのだった。

 

 


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