声を失った少年【完結】   作:熊0803

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二十七話です。
後半はオリジナルです。あざとい後輩登場。


27.声を無くした少年は、色々行動する。 下

 

 

 

翌朝のことである。

 

 

 

 といっても俺は寝ておらず、朝五時過ぎのマックでうとうととしながら二杯目のコーヒーを啜っていた。

 

 既に空は明るくなり、雀が地面に降りては忙しなく啄んでまた空へと戻っていく。

 

  あれからホテル・ロイヤルオークラを後にした俺たちは一度解散して家に戻った。

 

 帰宅してからいくつか小町にお願いをし、俺は再び外出してここで時間を潰していた。

 

  なぜ徹夜なんかしていたかといえば、理由は一つ。

 

  その時、自動ドアが開く後に振り返る。

 

 

 気だるげに靴を引きずって川崎沙希が現れた。

 

「話って何?」

 

  疲れているからか、いつもより一層不機嫌そうに川崎が問う。こちらに手招きをして席に座らせると、落ち着けと伝える。

 

『もうじき全員集まる。少し待ってろ』

「みんな?」

 

  川崎が怪訝な顔をしていると、再び自動ドアの開く音がして、雪ノ下と由比ヶ浜がやって来る。

 

 解散する前に、ここに集合するように頼んでおいたのだ。

 

「またあんたたち?」

 

  うんざりした表情て川崎は深くため息をつく。

 

  俺が苦笑いしていると、三度自動ドアが開き小柄な少女が姿を現した。

 

「あ、いたいた。お義兄ちゃん、連れて来たよー」

 

  そう言ってこちらに寄って来るのは我が義妹、小町。小町は自分の後ろにいた少年を指差す。

 

「大志…あんたこんな時間に何してんの」

 

  川崎が驚きとも怒りともつかない顔で大志くんを睨んだ。だが、大志くんも譲らない。

 

「こんな時間ってそれこっちのセリフだよ、姉ちゃん。こんな時間までなにやってたんだよ」

「あんたには関係ないでしょ……」

 

  突っぱねるようにして、川崎はそこで会話を断ち切ろうとした。

 

 だが、その論法は他人には通じても、家族である大志くんには通じない。

 

 これまでは川崎と大志くん、一対一で話していたからこそ川崎はいくらでも逃げ場があった。一方的に会話を断ち切ったり、それこそその場から立ち去ったり、どうとでもしようがあった。

 

  だが、今はそれができない。

 

 周りにいる俺たちが決して逃がさないし、何より朝、外にいるその現場を押さえられてしまっている。

 

「関係なくねぇよ、家族じゃん」

「……あんたは知らなくていいって言ってんの」

 

  大志くんが食い下がってくると、答える川崎の声は弱々しいものになった。だが、それでも絶対に話すまいという意思がそこにはある。

 

  裏を返せば、それは大志くんにだからこそ話せないということではないのか。

 

『川崎。なんでお前が働いていたか、金が必要だったか教えてやろう』

 

  俺がアプリでそう言うと、川崎が睨みつけて来る。雪ノ下と由比ヶ浜は興味津々の眼差しを向けた。

 

  川崎沙希がバイトを始めた理由。それは明確にはされなかったが、ヒントだったら結構あった。

 

  川崎が不良のようになったのは高校二年生から、と大志くんは言った。確かに、大志くんの視点から見ればそうだろう。

 

 

だが、川崎の視点から言えばそうではない。

 

 

  川崎沙希にとっては、大志くんが中学三年になった時からバイトを始めたのだ。

 

 なら、その理由は大志くんの時間軸にある。

 

『大志くん、君が中三になってから何か変わったことは?』

「え、えっと……塾に通い始めたことくらいっすかね?」

 

  大志くんは他にもいろいろ思い出そうと頭を抱えているが、それだけ聞ければ充分だった。

 

 川崎は既に俺が言おうとしていることを察したのか、悔しそうに唇を噛んでいる。

 

「なるほど、弟さんの学費のために……」

 

  由比ヶ浜が納得したように口にしたが、俺は首を横に振る。そして、俺の仮説を話し始めた。

 

  大志くんが四月から塾に通えている時点で、大志くんの学費はもう解決しているはずだ。入学費も教材費もその時点で払い終えている。

 

 もともと川崎家の中でその出費は織り込み済みなんだろう。逆に言えば、大志くんの学費だけが解決している状態ということだ。

 

  そこまで話し終えると、雪ノ下は得心がいったように頷く。

 

「そういうことね。確かに、学費が必要なのは弟さんだけではないものね」

『そう、我が総武高校は進学校だ。生徒の大半が大学進学を希望し、また実際に進学する。従って、高校こ二年のこの時期から受験を意識する者も少なくなく、夏期講習について真剣に考える奴もいるんだ』

 

  大学に行くまでも、実際に大学に行くときにもお金はかかるのだ。

 

『大志くんが言ってたろ。姉ちゃんは昔から真面目で優しかったって。つまりそういうことなんだよ』

 

  俺がそう締めくくると、川崎は力なく肩を落とした。

 

「姉ちゃん……お、俺が塾行ってるから……」

「……だから、あんた知らなくていいって言ったじゃん」

 

  川崎は慰めるように、大志くんの頭をぽんと叩いた。

 

  ふむ、どうやらいい感じに感動的なおさまり方になりそうだ。これでめでたしめでたしだといいんだがな。

 

  しかし、俺の予想に反して川崎はきゅっと唇を噛みしめる。

 

「けど、やっぱりバイトはやめられない。あたし、大学行くつもりだし。そのことで親にも大志にも迷惑かけたくないから」

 

  川崎の声音は鋭かった。はっきりとした決意が込められていて、その固い意志に大志は再び黙り込む。

 

「あのー、ちょっといいですかねー?」

 

  その沈黙を破ったのは小町の呑気な声だった。川崎はかったるそうに顔を向ける。

 

「何?」

 

  ぶっきらぼうな口調と相まって半ば喧嘩腰にすら見える。だが、小町はそれをにこにこ笑って受け流した。

 

「やー、うちも昔から両親共働きなんですねー、それで小さい頃の小町、家帰ると誰もいないんですよ。ただいまーって言っても誰も応えてくれないんです」

 

  いや、逆に応えられたら軽いホラーだけどな。

 

「それで、そんな家に帰るのが嫌になっちゃって小町五日間ほど家出をしてたんですよ。そしたら両親じゃなくて凄い泣き顔のお義兄ちゃんが迎えに来て。その時初めてお義兄ちゃんに叩かれたんですよねー。で、それ以来お義兄ちゃんは小町よりも早く帰るようになったんですよー。それでお義兄ちゃんには感謝してるんですねー」

 

  おいちょっと待てコラこのクソガキなに人の恥ずかしい過去バラしてくれちゃってんの?

 

 

 

  あれはまだ俺が比企谷家に迎え入れられて間もない頃のことだった。

 

 

 当時の俺は、新しく出来た大切な家族がいなくなったのが滅茶苦茶不安で、町中駆けずり回って探したのだ。

 

  川崎はどこか俺に親近感にも似た眼差しを向け、由比ヶ浜の瞳は少しうるっとしている。雪ノ下も優しい視線で俺を見ていた。

 

「やっぱり比企谷くんは優しいのね」

 

  やっぱりってなんだ、やっぱりって。ここ最近、こいつの中で自分がどういう存在になってるのかよくわからない。

 

「…で、それで?」

 

  川崎はまだ少し棘のある様子で問いかける。小町は笑みを崩さないまま真正面から向き合う。

 

「まぁ、そんな感じでお義兄ちゃんは小町を不安にさせないようにしてくれてるんですけど…それがとっても嬉しいし助かるんですよ。つまりですね。沙希さんが家族に迷惑かけたくないから色々考えてるのと同じように、大志くんだって沙希さんに迷惑かけたくないから悩んでるんですよ?その辺わかってもらえると下の子的に嬉しいかなーって」

「………」

 

  その沈黙は川崎のものだった。そして、同時に俺の沈黙でもあった。いや、もともと沈黙してるけど。

 

  まさか小町がそんな風に思ってたとは知らなかった。話せないだけでも相当迷惑をかけてるだろうに、あれは完全に恨まれてると思ってた。なんか涙出そう。

 

「……まぁ、俺もそんな感じ」

 

  大志くんがぽそっと付け足すように言った。顔を赤くしながらそっぽを向いて。

 

  川崎は立ち上がるとそっと大志くんの頭を撫でる。いつもの気だるげな表情よりほんのわずか柔らかい笑顔だった。

 

  それでもまだ問題は解決していない。

 

 ただ川崎沙希と川崎大志が失われていたコミュニケーションを取り戻しただけだ。

 

  精神的に充実していればそれで全てが満ち足りるかといえば、そんなことはありえない。形あるものがいつか滅びるからといって形あるものが無価値なわけではない。物も金銭もやはり必要不可欠だ。

 

  金銭の問題は高校生にとってはかなりシビアだろう。なまじアルバイトで小銭を稼げてしまう分、よりリアルにそれを感じると思う。

 

 私立大学の学費、数百万円というのが普通に働いてどれだけ時間があればいいのか、計算できてしまうのだ。

 

  ここでぽーんと三百万くらい渡せればかっこいいのだろうが、いきなりそんなに貯金を使ったら義父さんになぜと問われるだろうし、何より奉仕部の理念に反する。

 

  いつだったか雪ノ下が言っていた。魚を与えるのではなく、魚の捕り方を教えるのだと。

 

  だったら、俺の知識の一端を披露してやろう。

 

 

 

 

 

『川崎。お前、スカラシップって知ってるか?』

 

 

 

 

 

 ーーー

 

  朝方五時半の空気はまだ肌寒い。欠伸混じりに俺は遠ざかる二人の人影を見送っていた。

 

  二人の距離は付かず離れず、片方が追い越してはまた合わせるように歩調を緩め、時折笑い声がさざめくように肩を揺らしている。

 

「姉弟ってああいうものなのかしらね……」

 

 朝靄の中で、雪ノ下はぽつりと漏らした。

 

『どうだろうな。人によりけりじゃねえの。一番近い他人って言い方もできるしな』

 

  ボタンを押しながら、ふと考える。

 

 俺の場合は本当の意味で他人だが、それでも時々似たような仕草をしている時にたとえ血が繋がっていなくても兄妹なんだなと嬉しくなることがある。

 

 感じ方は人それぞれだ。

 

「一番近い、他人……そうね。それはとてもよくわかるわ」

 

  雪ノ下は頷き、そしてそのまま顔を上げない。まだあの人と揉めてんのか……

 

「ゆきのん?」

 

  その様子を怪訝に思ったのか由比ヶ浜がそっと雪ノ下の顔を覗き込んだ。

 

 すると、雪ノ下はすぐにパッと顔を上げて由比ヶ浜に微笑みかける。

 

「さ、私たちも一度帰りましょうか。あと三時間もすれば登校時間だし」

「う、うん……」

 

  雪ノ下の態度に由比ヶ浜は釈然としない表情を浮かべたが、頷いて肩にかけたバッグを背負い直した。俺も自転車の鍵を外す。

 

  そしてマックの前、縁石に座ってうつらうつらとしている小町の肩を優しくゆすると、にゃむにゃむと何事かにゃむりながら小町は瞼をこする。

 

 

  立ち上がると幽鬼の如くふらふらした足取りで俺の自転車の後ろに座った。いつもならまだ寝ている時間だ。

 

 仕方ない、なるべく平坦な道を走って帰ろう。

 

 自転車に跨り、ペダルに足をかける。

 

「ヒッキーまた明日、じゃなくて、また今日学校で」

 

  由比ヶ浜が胸の前で小さく手を振ってくる。それに手を振り返しながら走り出そうとした時、ぽーっと俺たちを見ていた雪ノ下も口を開いた。

 

「…比企谷くん、また放課後に。それと、二人乗りをして、また事故にあったりしないようにね」

 

  こくりと頷いて、ペダルを漕ぎ始める。

 

 

 寝不足の頭はあまり働いておらず、キャパシティの半分以上が対向車の動きと路面状況の把握に割かれていた。

 

 おかげで雪ノ下が言ったことも頭の片隅に追いやられていく。こいつに事故の話したっけ…。

 

 

  国道十四号と交わる直線をゆっくりとした速度で走る。いつも登校時には邪魔をする向かい風も今は追い風になっていた。

 

  二つ目の信号待ちをしていたとき、通り一本挟んだベーカリーから香ばしい匂いが漂ってくる。

 

 後ろからくぎゅーと言う音が聞こえてきた。

 

「………」

 

  背中に押しつけられる小町の頭の温度を感じながら、後ろを見ることはせずに自転車をベーカリーの方向に向けて走らせる。

 

「……お義兄ちゃん、ありがと」

 

  きゅっと、俺の腰に回された腕の力が強くなる。

 

 朝方のひんやりとした風が二人ぶんの体温をゆっくり冷ましていく。背中に感じる暖かみとちょうど良い寒風で、じんわりとした微睡みが広がっていくのがわかった。

 

 いけねえ、ここで家に帰ってから寝たら遅刻しちまう。

 

「…そいやさ。良かったね、ちゃんと会えて」

 

 ん?何のことだ?

 

  背中から聞こえた少しだけ不機嫌そうな声に、ほんの少し後ろに顔を傾ける。

 

「ほら、お菓子の人。会ったなら会ったって言ってくれればいいのに。……ライバルが増えちゃったじゃん」

 

 

 

 へーそうなのか…………………………は!?

 

 

 

  聞き流そうとしたその言葉は、一瞬で俺の思考を停止させた。

 

 最後に呟かれ、聞き取れなかったセリフのこともすとんと頭の中から抜け落ちる。当然足も止まり、ペダルが脛に直撃した。痛ってぇ!

 

 

  慌てて右足で地面を踏んで急停止する。俺の背中に顔をぶつけた小町が文句を言ってくるが、正直言ってそんなことはどうでもよかった。

 

 

  今小町は、何と言った?由比ヶ浜がお菓子の人?

 

  お菓子の人というのはお中元でおなじみの人でも紫のバラの人でもない。俺にとってはそれなりに思い入れのある相手だ。

 

  高校入学初日、犬を散歩していたやつの手からリードが離れ、そこに折悪しく金かかってそうなリムジンが走ってきて、俺は犬を助けるために左腕を犠牲にした。

 

 腕が粉砕骨折した俺は、高校開幕から入学ではなく入院する羽目になったわけだ。

 

 

 

  その犬の飼い主が、小町の言うお菓子の人。つまり、由比ヶ浜。

 

 

 

「お義兄ちゃん、どうしたの?」

 

 

  小町が心配げに覗き込んでくるが、俺は曖昧な笑顔を浮かべることしかできない。……少し、いろんなことを考えてしまった。

 

 

 

 

 

 しかしすぐに微笑みを讃えると、ベーカリーを指差してまたペダルを踏んだ。

 

 

 

 

 

 ーーー

 

 

 

 

 

  試験週間一週間前の全日程を終了し、休みが開けての月曜日。今日は試験結果が全て返される日だ。

 

  授業は答案返却と問題解説のみ。

 

 一つの教科が終わるたびに、由比ヶ浜がわざわざ報告しにくる。

 

「ヒッキー!日本史点数上がったよ!やっば、あの勉強会やばいって」

 

  やや興奮気味で話す由比ヶ浜に優しげな視線を返す。よかったじゃねえか。

 

「やーこれもゆきのんのおかげだよ……ついでに、ヒッキーも」

 

  そう由比ヶ浜は言うが、正直言って俺はそこまで何かしてはいない。

 

  そもそも、あの程度の勉強ですぐに効果が現れるはずがない。あの手のものは基本あまり意味がないのだ。

 

 従って、その点数が取れたのは由比ヶ浜自身が頑張ったからだろう。

 

 

  俺の方の試験結果はといえば、今回は国語が満点で学年一位に輝いたことくらいだ。他は大体九十点台。

 

 ちなみに、数学だけ八十二点だった。漸化式が難しかったな。

 

 

  そして、今日は試験結果の戻しがある日というだけでなく、かねてからの懸案事項であった職場見学の日でもあった。

 

  生徒たちは昼休みを迎えるとめいめいに己の希望した見学に繰り出した。

 

  俺たちが向かうのは海浜幕張駅。

 

 このあたりは結構なオフィス街であり、意外な会社の本社があったりする。と、同時に先日の一件でもわかるように繁華街でもある。

 

 

  幕張新都心の名は伊達ではない。これはもう逆に千葉が首都と言ってもいいくらいだ。

 

  俺は義父さんの会社に戸塚と葉山の三人グループで行く、はずだった。

 

  だが、実際に向かうとわらわらと後ろにいる葉山の周りに人が集まっている。何、大名?

 

 

  騒がしいクラスメイトに顔をしかめながら戸塚を探すと、戸塚は戸塚で女子数名がまとわりついていた。

 

  葉山の周りには葉山とは別グループになったはずの男子三人組に三浦たちもいる。そこには由比ヶ浜の姿も見かけることができた。へえ、こっちに来たのか。

 

  ちらほらと数えてみても五つくらいの班はここへ来ていたようだ。

  義父さんの会社は、様々な企業の本社ビルが立ち並ぶ中でも特に高層ビルの多い区画にあった。

 

 

  入り口にいた顔見知りの警備員に入館証を見せ、見学の旨を伝える。するとゴツい見た目とは裏腹におっちゃんはにこやかな笑みを浮かべて頷いた。

 

  中に入ると、まず最初に人の手と機械の義手が握手をしている大きなオブジェクトが目に入る。確か会社のロゴで、人と機械が手を取り合うって意味だったか?

 

  後ろでほえーっとしている軍団に振り返って、葉山を通して好きなところを見に行っていいと伝える。

 

 クラスメイトたちはそれぞれの興味のある場所に散らばっていった。

 

 

  葉山と三浦のグループがスクリーンシアターの方へ消えて行ったのを見送り、俺は堂々と職員用のエレベーターに乗る。

 

  迷うことなく最上階のボタンを押して、閉ボタンを押す。

 

 女性の機械的な音声が鳴り響き、エレベーターはゆっくりと上昇し始めた。

 

「………」

 

  何をするでもなく、俺はガラスの外を見ながらここ数日悩んでいることを再び考え始める。

 

 

 しかし同じことを延々と考えても、やはり俺では彼女を傷つけるエンディングにしかならなかった。

 

 

 

『ドアが開きます』

 

 

 

  体感時間で三十秒ほどだろうか、唐突にエレベーター内に異音が響く。

 

 だが俺はそれに気づかず、ひたすら険しい顔を対面のビルに向けていた。

「ふぅ〜……あれ?」

 

  エレベーターに入ってきたその人物は一度息を吐き、そして何かを疑問に思ったのか不思議そうな声を上げる。

 

 多分俺だろうな。制服で来るのは久しぶりだし。

 

 まぁ、いいや。ここの会社の人なら俺が話せないことは知ってるはずだ。

 

 

  俺は思考を続けようとして、しかしちょんちょんと肩をつつかれて深く沈んでいた意識を戻した。

 

  振り返ると、まず最初に女の子特有の甘い匂いが鼻腔をつく。

 

 次に、彼女のトレードマークと言っても過言ではない肩口で切り揃えられた亜麻色の髪が視界に入ってきた。

 

 

 ……げ。

 

「あ、今先輩、げって思いましたね?もう、こっちの先輩は相変わらずですねー」

 

  そう言って彼女ーー俺の仕事仲間であり、心を許せる友人であり、そして総武高校の一年生で後輩である一色いろははやれやれと肩を竦めた。

 

  いっし……わかったよ、名前な。だからそんな睨むな。

 

 いろはは総武高校の制服に身を包み、右手にはバック、左手には黒いアタッシュケースを持っていた。

 

 こんなところで何やってんのお前。

 

「ちょっとライフルの反動でガタが来てたので、調整に出していたスーツを受け取りに来たんですよ。先輩は…ああ、二年生の職場見学ですね」

 

  俺の思ったことがわかっているかのように、いろはは『金眼』を揺らしながら鷹揚に頷く。

 

 いや、実際彼女には『見えている』のだろう。それがこいつの『能力』だ。阻害用のコンタクトもしてないしな。

 

「あれ?でも行き先最上階になってますね。なんでですか?」

 

  せっかく来たんだから義父さんに挨拶しとこうと思ってな。後、ちょっとだけ相談が。

 

「なるほどなるほど……」

 

  頷きながら、いろははじーっと俺の顔を見る。猫のような瞳孔の開いた二つの金眼が俺を視界に捉えて離さない。

 

 

 ーーゾクッ。

 

 

  瞬間、体に怖気が走る。思わずばっとエレベーターの隅に逃げた。こいつ、深層まで覗きやがった!

 

  そんな俺を見て、いろははにやーっと厭らしい笑みを浮かべながら「くふふふふ……」と可笑しそうに笑う。

 

「いやー、先輩もなかなか青春してますねー」

 

  んだよ。別にいいだろ。こちとら結構真剣に悩んでんだからよ……

 

「ふむ…わかりました!では不肖、この私一色いろはも先輩の悩みを解決するのに協力しましょう!」

 

 やだ。お前引っ掻き回すじゃん。

 

「あれ〜?そんなこと言っていいんですかぁ〜?女子の主観も必要だと思いますけどねぇ〜?」

 

  くっ、う、ウザい。だが、それなりに正しいことも言って来るので無碍にもできねぇ。

 

  笑いを深めるいろはにこいつどうしてやろうかと考えていると、ポーンと言う音がエレベーター内に響く。同時に、『F50』と言う文字とともにドアが開き、目の前に両開きのドアが現れた。

 

「ほら先輩、早く早く」

 

  いろはに手を引かれてエレベーターから降りる。すると見計らったかのようにドアが閉まった。

 

  何時来ても慣れないふかふかの床を踏みしめながら歩いていると、先に行っていたいろはがこんこんこんと扉を叩く。

 

「十夜さん、一色と比企谷です。入ってもよろしいでしょうか?」

『いろはちゃん!?それに八幡も!?ちょ、ちょい待ち!今すぐに片付けるから!』

 

  扉の向こう側からドタバタとやかましい足音が聞こえて来る。何だ、書類でも山積みになってるのか。

 

 

  数分後、義父さんから許可が下りる。

 

 扉を開けて入ると、俺の部屋の三倍はでかい社長室があらわになった。大きなガラスに重厚そうなデスク、接客用に向かい合って置かれたソファと、紅茶とお茶受けが置かれた机。

 

「よく来たな。さ、座れ座れ」

 

  義父さんに促されてソファに座る。すると体が沈み込むような感覚を覚えた。要するにすっげぇ柔らかい。

 

「んで、どうした?職場見学の件は聞いてたが……」

「せっかく来たので挨拶しに来たらしいですよ。あと相談があるとか。あ、私はたかりに来ただけです」

 

  いつの間にか紅茶を入れ、ミルクと砂糖を入れながらいろはが答える。

 

 遠慮しねえなこいつ。ていうかたかりに来たって言っちゃったよ。

 

「ほう、相談ね……」

 

  途端、義父さんの目が細められた。これは真剣なことを話す時の義父さんの顔だ。

 

「はい、それがですね」

 

 

 待て、いろは。

 

 

  目の前に手を突き出して止める。俺が自分で話す。でも携帯で打つのは時間がかかるから、仲介役をやってくれるか?

 

「んー、わかりました。それじゃ、私が先輩が思ってることを代弁しますね」

 

  じーっと俺の目を見て、いろははそう答えた。助かる。

 

  それから十数分をかけて、今悩んでいることとここ最近の出来事をいろはを通して義父さんに話した。

 

「ふぅ…」

  俺の話が終わると、義父さんは一つ息を吐き紅茶をすする。いろはも疲れましたー、とか言ってお茶請けの饅頭をもっもっと口に詰め込む。お前はハムスターか。

 

  いろはに呆れた視線を送っていると、かちゃりとコップを置いた義父さんが真剣な表情で俺を見る。自然、こちらも真剣な顔で背筋を伸ばした。

 

「八幡、いつも言うがな…お前は難しく考えすぎだ。気楽に考えろとは言わないが、もうちょい素直になってみろ」

「………」

 

  それは、俺が一番よくわかってる。

 

 だが、どうしても俺のトラウマが人を信じるのを邪魔する。言葉の裏を探らせる。

 

  

 中学時代、あいつの面白くない奴には欠片も興味を示さないという極端すぎる性格のおかげでいくらか「特定の個人に向けての優しさや好意」というものを理解できた。

 

 が、それでもやはり怖い。もし勘違いだったら黒歴史が増えるし、彼女も迷惑だろう。

 

  難しい顔をして悩む俺を見て、紅茶で饅頭を流し込んだいろはが呆れたようなため息をつく。

 

「あのですねぇ…そもそも、そんな事故を起こした相手なんて普通なら逆に近づきたくもないですよ?女ならなおさらです。万人に向けられる優しさなんて、所詮限界があるものなんです。もし無限の優しさを全人類に向けられるとしたら、それは神様だけですね。それなのにまだ先輩に関わろうとしてるんだから、これはもう一択しかないでしょうに」

「いろはちゃんの言うとおりだぞ。もしかしたらお前を好きまであるかもな?」

 

  ぶっ!な、何言ってんだよ義父さん!俺みたいなの、好きになる奴がいるわけ……いたわ。昔確実に一人いたわ。

 

  慌てたり急に冷静になったり、一人百面相をする俺を見て二人は苦笑いする。

 

「ま、アドバイスはやった。あとは自分で頑張れ」

「先輩、ファイトです」

 

  温かい視線で応援してくれる義父と女友達に、ぺこりと頭を下げて床に置いてあったバッグを取って部屋から退室する。

 

  さて、次彼女に会うまでにもう一度考え直そう。

 

 今度は義父さんたちにもらったアドバイスも組み込んで。

 

 

 

 

 

 

 

 

「…いろはちゃん、良かったのか?」

 

  八幡が消えていった扉を見ながら、比企谷十夜は問いかける。対して一色いろはは楽しげに微笑んだ。

 

「いいんですよ。私別に先輩が好きなわけでもありませんし……ただ、あの人が幸せになれれば、ね」

 

 

 

 

 

 ーーー

 

 

 

 

 

  この後のことを考えながらエントランスに戻ると、例のオブジェクトの前で見知った白衣の女性がいるのに気がついた。

 

『平塚先生、見回りですか?』

「うおっ!?って、比企谷か。まあそうだ。ここは特別人数が多いからな」

 

  一瞬こちらに目を向けると、すぐにオブジェクトに視線を戻して感嘆のため息を吐く。

 

「ここの製品は凄まじいな……私が生きているうちにアイアンマンできるだろうか」

 

  そういや開発部の渡部さんが似たようなものなら出来上がってるって……やめよう。この脳が少年の女教師に伝えたら確実に面倒なことになる。

 

  俺が微妙な顔をしていると、不意に思い出したように平塚先生が口を開く。

 

「ああ、そうだ比企谷。例の勝負のことなんだがな……」

 

  勝負……俺と雪ノ下の間で交わされた、奉仕部の活動を通じてどちらがより多くの人を導けるか、というものだ。

 

 勝った者は負けた者になんでも命令していいことになってる。

 

 話を切り出したものの、先生はどこか言い淀む。

 

 俺は目でその続きを促した。

 

 すると、意を決して先生は言葉を紡ぐ。

 

「不確定要素の介入が大きすぎてな、今の枠組みの中では対処しきれない。そこで、一部仕様を変更しようと思う」

 

  なんだかゲーム会社の言い訳のような言葉を使ったが、要するに先生のキャパをオーバーしたからてんてこ舞いですということらしい。

 

  別に俺は構わない。そもそもこの勝負のルールブックは平塚先生だ。俺が何を言ったところで変わる時は変わる。

 

 そもそも勝敗の基準が平塚先生の独断と偏見なんだし。

 

『具体的には?』

「いや……、一人扱いに困ってる子がいてね」

 

 そう言って平塚先生は頭を掻いた。

 

  扱いに困る、と聞いてふとお団子頭が脳裏によぎった。由比ヶ浜。俺と雪ノ下、二人きりだった奉仕部へ中途入部してきた一人の少女。

 

  イレギュラーな存在といっていい。不確定要素というならこいつがそうだ。当初の構想にはおらず、それでいて奉仕部の一部になっている。

 

  なら、勝負は俺と雪ノ下、そして由比ヶ浜の三者で行われることになるのだろうか。

 

「新たな仕様が決まったら、また改めて連絡する。何、悪いようにはせんさ」

 

  にこっと平塚先生は笑って言うが、俺、そのセリフ悪役からしか聞いたことないんですけど……。

 

 そして、平塚先生はスクリーンシアターの方へ歩いて行った。

 

 

  俺はそれを見送ってから、オブジェクトを見上げる。

 

  思ったより義父さんたちと長く話していたようだ。既に生徒の姿は見えず、ガラス張りの壁から見える空は西の方が色づき始めている。

 

 ふと、誰もいないエントランスの周囲を見回してみた。

 

 

 

  そこで、見覚えのあるお団子を見つけた。見つけてしまった。

 

 

 

  石のベンチに座り込み、膝を抱えてぽちぽちと携帯をいじっている女の子。一瞬、ぎゅっと手の中の携帯を握り込む。

 

 そんなことをしていると、逆にあちらが俺に気がついた。

 

「あ、ヒッキー、遅い!もうみんな行っちゃったよ?」

『すまない。少し義父と話しててな。他の奴らは?』

「サイゼ」

 

  アプリが言葉を吐き終えると同時に即答される。

 

 ほんと千葉の高校生はサイゼ好きだな。いくら千葉県発祥のファミレスとはいえ、贔屓にしすぎじゃね?安くて美味いからしょうがないけどよ。

 

『お前は行かないのか?』

「え!?……あ、やー、なんというかヒッキーを待っていた、というか。その……置いてけぼりはかわいそうかなーとかなんとか」

 

  胸の前で人差し指どうしを突き合わせて、由比ヶ浜はちらりと俺を見る。

 

  そんな姿を見て、俺は思わず微笑んでしまった。

 

『お前は、優しいよな』

「へ!?あ、え!?そ、そんなことないよっ!!」

 

  顔を真っ赤にして由比ヶ浜はぶんぶんと全力で腕を振る。

 

  なぜ否定するのかわからないが、それでも俺は由比ヶ浜が優しい女の子だと思う。いい奴なんだと思う。

 

 

 だからこそ、確かめなくてはいけない。

 

 

  数十秒かけて長い文章を書き、そして一瞬止まりそうになった指を叱咤してボタンを押す。

 

『…別に俺のことなら気にする必要はない。お前んちの犬を助けたのは偶然だし、それにあの事故がなくても俺は基本一人だった。だから、お前が気にする必要はないんだ』

 

  これは予想ではない。絶対的な未来だ。俺は人に囲まれるような人気者にはなれない。なりたくないしな。

 

「……覚えて、たの?」

 

  由比ヶ浜は大きな目を見開き、驚きに満ちた顔で俺を見つめる。

 

『いや、よく覚えてはいないが、一度うちにお礼に来てくれたみたいだな。小町から聞いた』

「そか……小町ちゃんか……」

 

  たはは、と偽物の笑みを浮かべて由比ヶ浜はそっと顔を伏せた。

 

  俺はまた時間をかけて、彼女のために言葉を書き連ねる。

 

『すまない、変な気を遣わせて。まぁ、これからはもう気にしなくていい。俺が一人なのは俺の問題だから事故は関係ない。負い目に感じる必要も同情する必要もない。だから、気にして優しくしてるなら、やめてくれ』

 

 ボタンを押した指の感覚がない。

 

 怖い。また傷つけるのが。

 

 あの雪のような儚い少女に孤独に負けずに思い続けると誓ったはずなのに。

 

 こんなことで怖がっているようじゃ、まだ俺は彼女にはふさわしくない。

 

「そんなんじゃないっ……あたしは、そんなつもりでヒッキーと……!」

『でも』

 

  怒りの表情で俺を見る由比ヶ浜の言葉を遮って、俺はボタンを押す。まだだ。俺の言いたいことは、まだ終わってない。

 

  由比ヶ浜、お前はいいやつだ。そして、強いやつだ。

 

 だから、多分拒絶されても諦めないんだろう。負い目も後悔も全部飲み込んで、その上で俺と強い関係を望んでくれるのかもしれない。

 

 

  俺は本物の優しさを知っている。義父さんたちに、一色たちに、あいつに。

 

 

そして、雪ノ下に救われたから、知っている。

 

 

  それなら。それなら俺の、比企谷八幡の答えは。

 

『それでも、事故のこと関係なく俺に優しくしてくれるなら。こんな俺に関わってくれるなら。これからも俺を一個人として接してくれるならーー』

 

 

 ーー俺の友達に、なってくれないか。

 

 

  それは、あの屋上の光景とは似て非なるもの。

 

 あの時、雪ノ下は俺に踏み出してくれた。なら、今ここでは俺が由比ヶ浜に踏み出す。

 

  方法は最低だ。一度心ない言葉で傷付けたくせに、それでも自分の友達になってくれるかという、最低のやり方。

 

  …さあ、由比ヶ浜。お前はどっちだ。憤慨して俺を突き放すか。それとも、俺を受け入れてくれるのか?

 

「…うん。うん…!あたしも、あたしもヒッキーと、友達になりたい……!」

 

  由比ヶ浜の答えは、涙に濡れた笑顔だった。

 

 雪ノ下の百合のような儚げで美しい微笑みとは対照的な、向日葵のような明るく美しい笑顔。

 

  そんな彼女を見て、とりあえず俺は新しい友人にハンカチを差し出すのだった。いつまでも女の子が泣き顔じゃダメだろ。

 

「ありがと、ヒッキー……えへへ」

 

  涙を拭いて嬉しそうにはにかむ由比ヶ浜はおもむろにスマホを取り出して、俺の横に並ぶ。

 

 そして俺の腕と自分の腕を組んで、とびっきりの笑顔でシャッターを押した。

 

「これ、友達になった記念ね。あとでヒッキーに送るから!」

 

 

  そう言って、俺から離れた由比ヶ浜はまた嬉しそうに笑う。俺もやれやれとでも言いたげな顔で肩を竦める。

 

 

 

 

 

  とまぁ、こうして、俺と由比ヶ浜は友人になったのだった。

 

 

 

 

 




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