声を失った少年【完結】   作:熊0803

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二十六話です


26.声を無くした少年は、色々行動する。 中

「お帰りなさいませ!ご主人様、お嬢様!」

  店に入るとおきまりの挨拶をされ、テーブルに通される。

  由比ヶ浜と雪ノ下はメイド体験とやらに向かい、席についているのは俺と戸塚と材木座だけである。どうやら戸塚はメイド服は恥ずかしかったらしく、遠慮したらしい。

「ご主人様。なんなりとお申し付けください」

  そう言って猫耳カチューシャを付けた赤フレーム眼鏡のお姉さんがメニューを差し出してくる。そこには「おむおむオムライス」だの「ほわいとかりい☆」だの「きゅるるん♪ケーキ」だのやたらめったら丸文字が連発されたお品書きの数々。そうしたデフォルトのメニュー以外にもオプションとして、萌え萌えじゃんけんだのフォトセッションだの総武線ゲームだのいろいろ書いてある。つーか、なんでじゃんけんするだけで金取られんだよ。ここだけバブルかよ。

  まぁ、こういうよくわからんオプション関係は材木座に任せておくとしよう。そう思って横に座る材木座に目を向ける。

  すると、材木座は周囲を見渡してはその体を縮こまらせて、かなりのハイペースで水を飲んでいた。さっきから一言も話さない。え、何、どうしたのお前。

「ど、どうしよう…メイドさんとどうやって話せばいいんだ…」

  完全に素が出てた。こういうところは好きだけどいざ入ると緊張するタイプなのか。

  ぷるぷる震える手でガラスのコップに超振動を与え続けている親友(仮)を見て哀れに思っていると、くいと服の裾が引かれる。振り返ると、戸塚が恥ずかしそうにこちらを見上げていた。

「あ、あの、比企谷くん…さっき、ありがと」

  そう言って戸塚は濡れた瞳で上目遣いをしてくる。可愛いなおい。やっぱ小町に続く天使じゃね?

  そんな風に戸塚とプチラブコメっていると、材木座が呼び鈴を鳴らしたのかメイドさんがこちらにやってくる。

「お待たせいたしました、ご主人様」

「カプチーノ一つお願いします」

  メイドさんがきた途端やたらキリッとした声で材木座が注文する。あ、こいつ仕事モード使いやがった。

  こんなところで無駄に技能を発揮する材木座を尻目に、俺と戸塚も注文した。

「ご主人様がお望みでしたらカプチーノに猫ちゃんなど描きますが、いかがいたしましょうか?」

「いえ、大丈夫です」

  爽やかな笑みで材木座がオプションを断ってもメイドさんは嫌な顔一つせず、「かしこまりました。少々お待ちくださいませね♪」と素敵スマイルを浮かべてくれる。居酒屋風に言うなら「はい喜んで!」という感じだろう。

  さすがはプロである。動きもきびきびはきはきしてして実に小気味良い。

  おそらく、メイドカフェが人気なのは「萌え萌え」とか「ご主人様」とかそういった上っ面のワードに反応しているのではなく、この「何が何でも楽しい時間を過ごしてもらう」というサービス精神が溢れているからなのだろう。じゃんけんもオムライスに絵を描くのも、そうしておもてなしの心の一形態なのだ。

 それが伝わるからこそ、お客はつく。

  と、その中にやけに動きが悪いメイドさんがいる。トレイを支える手はぷるぷると震え、視線は常にカップに注がれているせいで足元もおぼつかない。これ絶対転ぶだろ……と思ったら由比ヶ浜だった。

「お、お待たせしました。……ご、ご主人様」

  その言葉を言うのはよほど恥ずかしいかったのか、由比ヶ浜は真っ赤な顔でカップを置く。

  着ているのはわりとプレーンな主流のメイド服だ。黒と白を基調としたふりふりのレースとかがついていて、スカートが短いくせに胸元が強調されているやつである。

「に、似合うかな?」

  由比ヶ浜はトレイをテーブルに置くと、控えめな速度でくるりと回る。飾りのリボンとフリルがはためいた。

「わぁ、由比ヶ浜さん可愛いね。ね、比企谷くん?」

  戸塚の言葉に頷きながら、パチパチと小さく拍手を送った。いつもの元気な由比ヶ浜に比べて、しおらしくしている態度と少し恥ずかしそうな表情が相まってなかなか良い。

「そっか……よかった……。えへへ、ありがと」

  嬉しそうにはにかむ由比ヶ浜に、少し笑みが漏れる。

「やー、でもさー、メイド服ってスカート短いし、ニーハイきついし、昔の人はこれ着て働いてて大変だったろーねー。これ着て掃除してたらメイド服、ク◯ック◯ワイパーみたいに埃まみれになっちゃいそう」

  しかしすぐにいつもの由比ヶ浜に戻り、微笑みは苦笑いに変わった。

「由比ヶ浜さん、それはいくらなんでもないでしょう」

  呆れた声がして振り返る。すると、そこには大英帝国時代のメイドさんがいた。

  ロングスカートに長袖。暗色系のモスグリーンに、ワンポイントであしらわれた黒いリボン。重厚なイメージが地味な服装に一種の豪華さを漂わせる。

「うわ、ゆきのん、やばっ!めっちゃ似合ってる。超きれい……」

  はぁーと由比ヶ浜が感嘆のため息をつく。

「………」

「…あれ?ヒッキーどうしたの?」

  右手で顔を隠して横を向く俺を見て由比ヶ浜が不思議そうに覗き込んできた。おそらく俺の横顔は真っ赤になってることだろう。

  いやだって、仕方がないだろ。雪ノ下のメイド服姿だぜ?そこらの店に売ってる宝石なんて目じゃないくらいの価値があるぞ。つまり超絶可愛い。やばい、本当に可愛いしか浮かんでこないんだけど。

  俺の反応を見て雪ノ下も仄かに顔を赤くする。

「こ、この店に川崎さんはいなかったわ」

  恥ずかしげに視線を合わせながら雪ノ下がそう言う。やっぱりちゃんと潜入捜査してたのな。メイド探偵誕生の瞬間である。なにそれちょっとかっこいい。

「今日は休みとかじゃなくて?」

 由比ヶ浜が聞くが、雪ノ下は首を振る。

「シフト表に名前がなかったわ。自宅に電話がかかってきていることから考えても、偽名の線もないと思う」

  となると、俺たちは完全にガセネタに踊らせれてたことになるな…

  横に座る材木座をじろりと睨む。すると、材木座は小首を捻り、うむむと唸り始めた。

「おかしい……、そんなことはあり得ぬのに」

『何がだよ?』

「ふむん……ツンツンした女の子がメイドカフェで働き、『にゃんにゃん♪お帰りなさいませ、ご主人様……ってなんであんたがここにいんのよっ!?』となるのはもはや宿命であろうがぁっ!!」

  いや意味わかんねえよ。

  材木座のせいで無駄に時間を浪費したが……まだ八時か。もう一軒くらいだったら、ギリギリセーフか?

「そうね…なら、行きましょうか」

 俺が聞くと、そう言って雪ノ下は頷いた、

  というわけで、もう一つの店に行くことにした。まあ、雪ノ下のメイド服姿も見れたし、ここも完全に収穫なしってわけじゃなかったけどな。

 

 ーーー

 

  スマホの時計が午後八時四十分を指していた。

  俺は待ち合わせの場所である海浜幕張駅前の何やら尖ったモニュメントに寄りかかる。

  これから向かうのはホテル・ロイヤルオークラの最上階に位置するバーだ。戸塚はさすがに時間がまずいというので帰ってもらった。ついでに材木座に帰り道の付き添いを頼んだから、大丈夫だろう。

  それはともかく、『エンジェル・ラダー天使の階』。千葉市内で朝方まで営業している、エンジェルの名を冠する二つ目の店。こんな洒落たところはほとんど行ったことはない。

  携帯の画面を見ながら、かけている伊達メガネを触る。俺の格好は黒い立ち襟のカラーシャツにジーンズ、足元はロングノーズの革靴。いつもは何もしない髪型を直し、この濁った目を緩和するために伊達メガネもかけている。普段ならあまりしない服装だ。

  行くなら大人しめのしっかりした服装を、と雪ノ下に言われたので、家に帰って〝仕事〟用のスーツを着てきた。俺の…というか、あいつの専門は麻薬密売などの関係者の抹殺だが、時には要人の護衛をする時もあるので用意している。

  大丈夫かな、これ。着慣れないから変なところがあってもわからん。しかも体使ってるのがあいつの時のことは明瞭には覚えていないから、記憶を頼りにもできない。

  …いや、さっきから駅から出てくる人(特に女性)がちらちらこっち見てるってことはやっぱ変なのか?

  そんなことを考えていると、コツコツと地面を鳴らしながら由比ヶ浜が歩いてきた。

  由比ヶ浜はきょろきょろ辺りを見渡して携帯電話を取り出す。あ、こっちに気づいてないのか。

  その小さな背中に近づいて、ちょんちょんと肩をつつく。

「わひゃあっ!って、ヒッキーか…」

  一度飛び上がり、振り返った由比ヶ浜は胸を撫で下ろす。そして今一度俺を見上げてぽかんと口を開けた。ついでにわずかに頰が赤く染まる。

『やっぱ変か?』

  アプリを開いて聞くと、はっと我に帰った由比ヶ浜はあわてて否定をし始めた。

「……へっ!?あっ、いやっ、全然違うよ!むしろ超似合ってる!」

  お、おう、そうか。見た目も重視する上位カーストに属している由比ヶ浜から見ても変じゃないなら、多分大丈夫だろう。

  ふと由比ヶ浜の格好を見る。チューブトップにビニール製のブラストラップを右だけ肩にかけ、左は外してある。お気に入りなのか、いつものハートのチャームがついたネックレスが揺れていた。上にはデニム生地の裾の短いジャケットを羽織っている。下には黒いチノに金ボタンがあしらわれたホットパンツ、足元はといえば、蔓みたいのが足首に絡まったややヒールの高いミュールだった。歩くたび、アンクレットがゆらゆら揺れる。

  なんというか、しっかりとした格好ではないな。どっちかっていうと、大人っぽい華やかな女子大生という感じだ。

  うむむと首を傾げながら由比ヶ浜の服装を見ていると、背後に気配を感じた。いや、中二病的な意味ではなくマジで。

「ごめんなさい、遅れたかしら?」

  暗い夜の闇の中にあって、その白いサマードレスは鮮やかだった。下に履いた黒いレギンスが細い脚をしなやかに見せている。小さなミュールはあくまでもシンプル、きゅっと締まった足首にはよく似合う。

  時間を確認しようと掌を上に向けたとき、小ぶりな腕時計のピンクの盤面が白い肌に可愛らしく映える。メタルのベルトはその艶やかな手首に巻かれていると銀細工のように見えた。

「時間通りね」

  雪ノ下雪乃は夜に咲くエーデルワイスの如く、涼しげな魅力を放っていた。きっと俺が話せれば「あ、ああ……」とか言って呆然としていただろう。雪ノ下が何を着ても可愛く見えるのは惚れているが故の贔屓なのだろうか。いや、おそらく誰もが雪ノ下雪乃という少女に見惚れるだろう。それくらい清楚な雰囲気を醸し出す彼女は美しかった。

  雪ノ下は俺を見てふむと頷き、しかしすぐに少しだけ不満そうな顔をする。

(もう…眼鏡のせいで八幡くんのチャームポイントが隠れちゃってるじゃない。まあ、仕方ないことなのだけれど)

  だがすぐに表情を戻すと、由比ヶ浜を見てこめかみに手を当てた。

「由比ヶ浜さん、不合格よ。大人しめな格好で、と言ったはずだけれど」

「大人っぽい、じゃだめなの?」

「これから行くところはそれなりの服装をしていないと入れないの。男性は襟付き、ジャケット着用、女性はそれなりの正装が一般的ね」

  ふーん、そういうもんなのか。今度義母さんがいる時に詳しく聞いてみようかな。

  にしても、よくこんなこと知ってるもんだ。普通の高校生が知ってる店なんてファミレスくらいのもんだろうに。やっぱり『あの』雪ノ下家の次女だからだろうな。

「ふむ…」

  雪ノ下は少し考えるようなそぶりを見せ、やがて顔を上げる。

「そこまで小うるさくは言われないだろうけれど、由比ヶ浜さんは念のためうちで着替えましょうか」

「え、ゆきのんの家、行けるの!?行く行く!……あ、でもこんな時間に迷惑じゃない?」

「気にしなくてもいいわ。私、一人暮らしだから」

「この子、できる子だっ!?」

  由比ヶ浜が大げさに驚く。確かにこの歳で女の一人暮らしはなかなかいないだろう。まあ、実家にはあの人がいるし仕方ないか。

「じゃあ行きましょうか。すぐそこだから」

  雪ノ下が後ろの空をふり仰ぐ。そこにはこの一帯でも特にお高いことで知られるマンションがあった。そのかなり高層階の場所に視線を向けている。

「比企谷くん、その…」

  再びこちらを見た雪ノ下が遠慮がちに声をかけてくる。待っていてほしいということだろう。俺はひらひらと手を振り、気にするなと言外に伝える。どっちにしろこんな時間に一人暮らしの女の子の家に上がりこむわけにもいかないしな。

  ありがとう、と言って雪ノ下は由比ヶ浜とともに夜の闇へ消えていった。

  さて、それじゃあ待ってる間に軽く食事でもしておくか。ラーメン食べに行こっと。

 

 ーーー

 

  ラーメンを食べた後、俺は駅から離れホテル・ロイヤルオークラへと向かう。先ほど雪ノ下から待ち合わせはそこでとメールが来たからだ。

  改めてホテルの前に立ってみると、その大きさに少し緊張する。建物を照らす淡い光にまで高級感が漂っていた。明らかに風の学生が入っていい感じじゃない。

  内心ドキドキしながら中に入ると足元の感触がもう違う。敷き詰められた絨毯がもふっと沈み込んだ。すげえなおい。

  ラウンジにいるマダムやダンディもみんな心なしか上品に見える。ちらほらと外国人の姿も見受けられた。あ、ちょっと俺じゃ無理かも。

  仕方なしにさっとポケットから携帯を取り出して一瞬だけ最大音量で音楽を頭に流し込み、オクタを叩き起こして心の一部を委ねる。すると緊張感は消えていった。

  雪ノ下からのメールにあった待ち合わせ場所はエレベーターホール前だ。

  普段俺が見るようなエレベーターとは違い、扉が輝いている。しかもやけにホール広いし。

  こういうところに行く時のルールを意識下でオクタに聞いていると、携帯が鳴った。

『今着いたけど、もういるー??』

  着いたって言っても……と、周囲を見渡してみる。

「お、お待たせ……」

  なんだかいい匂いのする美人のお姉さんに話しかけられた。

  首回りが大きく開けられた真紅のドレスは流麗な線を描き、そのまま人魚のようなフォルムを形作っていた。アップに纏められた髪、覗くうなじの白さに息を飲む。

「な、なんかピアノの発表会みたいになってるんだけど……」

「………」

  ああ、うん。こいつ由比ヶ浜だわ。これで取り澄ましていたらわからなかったかもしれない。

「せめて結婚式くらいのこと言えないの?さすがにこのレベルの服をピアノの発表会と言われると少し複雑なのだけれど……」

  そう言って今度は漆黒のドレスを身に纏った美女が現れる。

  その滑らかな光沢を放つ生地が処女雪のような白い肌の美しさを引き立て、膝丈よりも上のフレアスカートは足の長さを見せつけてくる。そして、そのドレスよりもなお艶やかな極上のシルクじみた長い黒髪。一つにまとめられ、緩やかに巻かれながら、胸元へと垂れたそれは宝飾品のようだった。

  誰かと間違いようなどない、雪ノ下雪乃だ。

「だ、だってこんな服着たの初めてだもん。ていうか、マジでゆきのん何者!?」

「大袈裟ね、たまに機会があるから持っているだけよ」

  普通はその機会自体ないけどな。それにしても、俺は何度雪ノ下の美しさに赤面すればいいんだろうか。そろそろ鼻血が出るかもしれんぞ。おい、うるせえ。誰がタコゾンビだ。

「さぁ、行きましょうか」

  俺がバカなことを考えているうちに、雪ノ下がエレベーターのボタンを押す。ポーンという音と共にランプが灯り、扉が音もなく開いた。

  エレベーターはガラス張りで上へと昇るにつれて、東京湾が見渡せるようになった。航行する船の灯りと湾岸部を走る車のテールランプ、高層ビルの絢爛たる光が幕張の夜景を彩っていた。

 最上階に着くと、再び扉が開く。

  その先には優しく穏やかな光。ろうそくの灯りのように密やかで、ともすれば暗いとすら感じるバーラウンジが広がっていた。

  おいおい、明らかに一般人が踏み入れちゃいけない空気が流れてるぞ。

  スポットライトで照らし出されたステージ上では白人女性がピアノでジャズを弾いていた。どこの国の人だろうか。

  大丈夫か?と由比ヶ浜にアイコンタクトを送ると、ぶんぶんと凄い勢いで首を横に振ってきた。庶民にはきついものがあるよな。

  …はぁ。すまん、やっぱ俺も無理だわ。ある程度サポート頼むぞ。

 ーーはいはい、了解。

  そうオクタが答えた途端、ひとりでに背筋が伸びる。そして顎を引いて視線が固定された。きょろきょろしてたらみっともないってことだろう。

  俺の左肘を雪ノ下のほっそりとした白い指が掴み、それを真似して由比ヶ浜が右肘に手を添えた。

「では行きましょう」

  言われるがまま、俺…オクタは雪ノ下と由比ヶ浜に歩調を合わせてゆっくり歩き始めた。開け放たれた重厚そうな木製のドアをくぐるとすぐさまギャルソンの男性が脇にやってきて、すっと頭を下げた。

  「何名様ですか?」「お煙草は吸われますか?」なんて一言も聞かれない。そのまま男性は一歩半先行し、一面ガラス張りの窓の前、その中でも端のほうにあるバーカウンターへと俺たちを導く。

  そこにはきゅっきゅっとグラスを磨く、女性のバーテンダーさんがいた。すらりと背が高く、顔立ちは整っている。このほのかな照明が灯る店内では、憂いを秘めた表情と泣きぼくろがとてもよく似合っていた。

 ………ていうか、川崎だった。

  学校で受ける印象とは違い、長い髪はまとめ上げられ、ギャルソンの格好をし、足音も立てずに優雅な動き。気だるげな感じはしない。

  川崎はこちらに気づかず、コースターとナッツを静かに差し出し、そのまま無言で待つ。

『川崎』

  携帯を取り出してアプリで話しかけると、川崎はちょっと困ったような顔をする。

「申し訳ございません、どちら様でしたでしょうか?」

 ああ、これじゃわかんねえか。

  眼鏡を外して濁った目を見せる。すると少し考え込むような仕草をした後、川崎ははっとした表情をした。

「あんた、比企谷…だったっけ?」

『ご名答』

 珍しく名前を間違えられなかったな。

  ボタンを押しながら、もう片方の手で眼鏡をかけ直してスツールに腰掛ける。すると右に雪ノ下、由比ヶ浜が同じように座った。

「捜したわ、川崎沙希さん」

  雪ノ下が話を切り出した途端、川崎の顔色が変わる。

「雪ノ下……」

  その表情はまるで親の仇でも見るようなもので、はっきりとした敵意が込められている。二人の間に接点はないはずだが、校内では有名人の雪ノ下のことだ。その優れた容姿などで色々思う奴もいるんだろう。

「こんばんは」

  川崎の気持ちを知ってか知らずか、雪ノ下は涼しい顔で夜の挨拶をする。

  二人の間で視線が交錯する。光の加減なのか、ばちっと火花が散った気がした。怖い怖い。

  川崎の目がすっと細くなり、由比ヶ浜に注がれる。同じ学校の人間である雪ノ下がいるということは、すわこいつもそうかとばかりに見極めようとする。

「ど、どもー……」

  その迫力に負けたのか、由比ヶ浜は日和ったような挨拶をした。

「由比ヶ浜か……、一瞬わからなかったよ」

  ぎこちない笑みを浮かべながら由比ヶ浜が手を振ると、川崎はふっとどこか諦めたように笑う。

「そっか、ばれちゃったか」

  別段、隠し立てするでもなく、川崎は肩を竦めてみせた。そして、壁にもたれかかり腕を組む。ことの終焉を悟り、全てがどうでもよくなってしまったのかもしれない。

  学校で見せるのと同じ、かったるい空気を醸し出して、短いため息をついてから俺たちに一瞥をくれる。

「……何か飲む?」

「私はペリエを」

「わっ、私も同じものを!?」

  ふむ…なら俺はさっきラーメン食べたし、少し刺激のあるものにしようか。

『辛口のジンジャーエールを』

  川崎は「かしこまりました」と言い、シャンパングラスを三つ用意してそれぞれに慣れた手つきで注ぎ、そっとコースターの上に置いた。

  お互い、なんとなくグラスを合わせてから口をつける。それを見ながら川崎は声を発した。

「それで、何しにきたのさ?まさか、こんな深夜に女二人侍らせてデートじゃないだろうね?」

 ぶふっ!

  突拍子も無い川崎の発言に、思わずジンジャーエールを吹き出しかける。だがなんとか吞み下すと、ジロッと川崎を睨んだ。

『そんなわけねえだろうが』

  アプリで抗議すると、俺の剣幕に驚いたのかすぐに謝る川崎。ていうか、俺じゃあこいつらと釣り合い取れないっての。ほら、二人とも顔真っ赤にして怒ってるじゃねえか。

(ひ、ヒッキーの彼女…えへへ、なんかちょっと嬉しい、かも)

(例え勘違いでも、そういう風に見られるのは悪い気はしないわね…♪)

『お前、最近帰るの遅いそうだな。弟、心配してたぞ』

  赤面したままフリーズした二人を放って置いて俺がそう言うと、川崎は教室や屋上の時のように不機嫌そうに鼻を鳴らす。

「わざわざそんなこと言いにきたわけ?悪いけど、あんたに何言われようとやめる気ないから」

  まあ、そうだろうな。第三者の、それもほとんど知らない奴にこんなこと言われてはい辞めます、って程度なら普通のバイトするだろうし。

「ーーああ、最近やけにいろんな人から絡まれると思ったらあんたたちの仕業か。大志が何言ったか知らないけど、あたしからちゃんと言っとくから気にしないでいいよ。……だから、もう大志と関わんないでね」

 川崎は強い意志のこもった目で俺を見る。

  関係ないやつはすっこんでろ、と言う意味だろう。しかし、ここには一人そう言われても引き下がらない人間がいる。

「止める理由ならあるわ」

  怒りから復活した雪ノ下は川崎から左手の腕時計へと視線を動かして時間を確認する。

「十時四十分……シンデレラならあと一時間ちょっと猶予があったけれど、あなたの魔法はここで解けたみたいね」

「魔法が解けたなら、あとはハッピーエンドが待ってるだけなんじゃないの?」

「それはどうかしら、人魚姫さん。あなたに待ち構えているのはバッドエンドだと思うけれど」

  バーの雰囲気に合わせたかのような二人の掛け合いは余人の介入を許さない。皮肉とあてこすりを繰り返す、上流階級のお遊びめいたものだった。こいつら本当に初対面だよね?怖いんですけど。

  と考えているところでちょんちょんと肩を叩かれ、耳元に話しかけられる。

「……ねぇ、ヒッキー。あの二人何言ってんの?」

  そうか、由比ヶ浜にはちょっと難しかったか。

  18歳未満が夜十時以降働くのは労働基準法で禁止されているのに、この時間まで働いているということは川崎は年齢詐称と言う魔法を用いているわけだ。そして、それは雪ノ下の手によって解かれてしまった。

  それでも、川崎は相変わらず不機嫌顔を崩さない。

「やめる気は無い、と言うことね」

「さっきそう言ったじゃない。……まぁ、もしやめるにしても他のとこで働けばいいし」

  川崎はクロスで酒瓶を磨きながら、しれっとなんでもないことのように言った。その態度に少しイラついたのか、雪ノ下はペリエを軽く煽る。

  ピリピリした険悪な空気の中、恐々と由比ヶ浜が口を開いた。

「あ、あのさ……川崎さん、なんでここでバイトしてんの?あ、やー、あたしもほら、お金ないときバイトするけど、年齢誤魔化してまで夜働かないし……」

「別に……お金が必要なだけだけど」

  ことり、と小さな音を立てて酒瓶が置かれる。まぁ、そりゃそうだろう。働く理由なんてお金のためにってやつが大体のはずだ。俺たちや材木座のように、何か特別な事情や思惑のやつもいるにはいるが。

『まぁ、その気持ちは分からなくもない』

  俺が何気なくそう書くと、川崎の表情が硬くなる。

「わかるはずないじゃん……あんたみたいに親が社長の人生勝ち組には」

  俺を睨み付ける川崎の目は強かった。邪魔をするなと、そう力強く吠える瞳。おそらく、屋上で見た俺の進路調査希望票のことを言っているのだろう。

  勝ち組、ね…はっ。本職を隠すためのフェイクとはいえ、こんないろんなもんを無くして穴だらけの俺が勝ち組とは中々笑わせてくれる。

  だが、川崎沙希。理解していないという点においてそれはお前にも言えることだ。そうやって意地を張って何もかもを突っぱねる今のお前には心配している弟の気持ちを理解することができていないんじゃないか?

「やー、でもさ、話してみないと分からないことってあるじゃない?もしかしたら、何か力になれることもあるかもしれないし……。話すだけで楽になれること、も……」

  由比ヶ浜の声は途中から途切れ途切れになる。川崎の冷え切った視線が由比ヶ浜の言葉を切り裂いていた。

「言ったところであんたたちには絶対わかんないよ。力になる?楽になるかも?そう、それじゃ、あんた、あたしのためにお金用意できるんだ。うちの親が用意できないものをあんた達が肩代わりしてくれるんだ?」

「そ、それは……」

  困ったように顔を俯かせる由比ヶ浜。その横で少し引っかかることがあり、俺は首をひねる。

「そのあたりでやめなさい。それ以上言うのなら……」

  雪ノ下から凍えるような声が出た。途中で言葉を切ったせいでより恐ろしさが増す。……あまり、雪ノ下のこういう声は聞きたくないな。

  川崎も一瞬たじろくが、小さく舌打ちすると雪ノ下に向き直った。

「…ねぇ、あんたの父親さ、県議会議員なんでしょ?そんな余裕がある奴にあたしのこと、わかるはず、ないじゃん……」

  静かに、囁くような口調。それは何かを諦めた声だった。

  川崎がその言葉を口にしたその時、カシャン、とグラスの倒れる音がする。多分雪ノ下の飲んでいたものだろう。

  見ると、雪ノ下は唇を噛み締め、カウンターに視線を落としていた。やはり雪ノ下にとって家の話はタブーなのだろう。昔から色々複雑だからな。

  その一方で俺は、ふつふつと湧き上がってきた怒りを必死に抑えていた。

  …お前もか。お前も、雪ノ下をそういう風に見るのか。そうやって外付けの情報だけで、こいつを判断するのかよ。ふざけんな。

  しかし、それは仕方ないことなのだろう。これは、いろんな事情で雪ノ下のことをよく知っている俺だからこそ考えられることだ。川崎の中の雪ノ下雪乃という少女の人物像と、俺の中の雪ノ下雪乃は違う。

  だから俺は、机の下で静かにオクタが無理矢理操作権を奪いかけた左腕をギリギリと締め上げるのだった。お前、何する気だったんだよ危ねえな。まぁ、気持ちはわかるけど。と考えていると、ダンッとカウンターを叩く音がした。

「ちょっと!ゆきのんの家のことなんて今、関係ないじゃん!」

  珍しく由比ヶ浜は強い語気で川崎を睨んだ。冗談やノリではなく、本気で怒ってくれている。雪ノ下のために。やっぱり、昔側にこいつがいてくれれば、もしかしたら…

  いつものへらへらと笑っている由比ヶ浜とのギャップに驚いたのか、それとも川崎自身、何かまずいことを言ってしまった自覚があるのか、少しばかり声のトーンが落ちた。

「なら、あたしの家のことも関係ないでしょ」

 そう言われてしまえばそれまでだ。

  雪ノ下も由比ヶ浜も、もちろん俺だってなんの関係もありはしない。

  仮に、川崎の行いが法に背くことだったとして、それを咎めるのは教師や両親であり、裁くのは法だろう。友人でもなんでもない俺たちが彼女にしてやれることなんて何一つない。

「そうかもしれないけどそういうことじゃなくて!ゆきのんに」

「由比ヶ浜さん、もういいわ。ただグラスを倒しただけよ。気にしないで」

  カウンターから身を乗り出しかけていた由比ヶ浜の身体を雪ノ下が優しく制する。その声はいつもより落ち着き払っていて、そのぶん冷たく聞こえた。

  今日はここまでだろう。雪ノ下も由比ヶ浜も、そして川崎も冷静に話せるって感じじゃない。

  しかし、さっきの引っかかりもそうだがいくつか分かったこともあるので、あとはこっちでなんとかすればいい。

『そこまでにしとけ。今日はもう帰ったほうがいい』

  操作権が戻った左手で携帯を操作しながら、ジンジャーエールの入っているグラスを傾ける。

「…そうね、今日は帰るわ」

  本人も冷静じゃないことはわかってるのか、素直に従ってくれた。俺は一気にグラスを煽り、伝票も確認せずに財布から数枚の紙幣をカウンターに置いて立ち上がった。由比ヶ浜と雪ノ下も続いて椅子を引く。

  が、カウンターから離れる前にふと思い出したようにアプリを操作して川崎に向ける。

『明日の朝、時間をくれ。大志のことで話したいことがある。五時半に通り沿いのマック。いいか?』

「……分かった」

  了承を得たのを確認してから、俺たちはバーを出ていった。

 




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