戸塚の依頼を受けてから数日が過ぎ、俺たちのテニスは第二フェイズへと突入していた。
かっこよく言ったが、要するに基礎訓練を終えて、いよいよボールとラケットを使っての練習に入ったのだ。
俺は現在、戸塚に対してひたすらボール出しをしていた。鬼教官、もとい雪ノ下の指導の下、地獄のスパルタ練習の真っ最中である。
材木座と由比ヶ浜は俺の後ろでボール拾いをしていた。かごいっぱいになると俺の手元に持ってきて、数が少なくなったかごを代わりに持っていく。ひたすらこのルーティンの繰り返しだ。
当の雪の下といえば、木陰に座り文庫本開いている。そして時たま俺に指示を出すのだ。
「比企谷くん、もっとあの辺とかその辺とか厳しいコースに打ちなさい。じゃないと練習にならないわ」
雪ノ下の落ち着いた声とは対照的に、荒い息を吐きながら戸塚はライン傍やネット際の球をさばく。
雪ノ下は本気だった。本気で容赦がなかった。
少し戸塚のことが可哀想になり、ぐっと涙をこらえると、その拍子に手元が狂いずざーっとすっ転ぶ。
「うわ、さいちゃんだいじょぶ!?」
由比ヶ浜の手が止まり、ネット際に駆け寄る。戸塚は擦りむいた足を撫でながら、濡れそぼった瞳でにこりと笑い、無事をアピールした。健気な奴だ。
「大丈夫だから、続けて」
だが、それを聞いて雪ノ下は顔を顰めた。
「まだ、やるつもりなの?」
「うん……、みんな付き合ってくれるから、もう少し頑張りたい」
「……そう。じゃあ、由比ヶ浜さん。後は頼むわね」
そう言ったきり、雪ノ下はくるっと踵を返すとすたすたと校舎のほうへと消えて行ってしまった。それを不安げな表情で見送った戸塚がぽつりと漏らす。
「な、なんか怒らせるようなこと、言っちゃった、かな?」
いや、いつもだいたいあんなもんだろ、あいつは。大方、救急箱でも取りに行ったか。
「もしかしたら、呆れられちゃったの、かな……。いつまでたってもうまくならないし、腕立て伏せ5回しかできないし……」
「うーん、そう言うことじゃないと思うなー。ゆきのん、頼ってくる人を見捨てたりしないもん」
ころころと手の中でボールを転がしながら、由比ヶ浜が言った。
ま、確かにそうだ。由比ヶ浜の料理よりはるかに見込みのある戸塚を見捨てたりはしないだろ。
「………」
木炭クッキーを思い出し、思わず由比ヶ浜をジトーっと見る。
「?なに、ヒッキー?」
が、当然気づくはずもなく、首をかしげる由比ヶ浜。
はあと一つため息をつくと、さらにはてなマークを頭に浮かべる。
そんなアホの子を放っておいて、俺はぽんぽんと戸塚の肩を叩いて励ます。
「うむ。雪ノ下嬢のことはよく知らぬが、我も決してそういうわけではないと思うぞ。そのうち戻ってくるであろう」
片手にボールがぎっしり詰まったカゴを持ちながら、材木座は顎に手を当てて鷹揚に頷く。
「…うん、そうだよね。よしっ、頑張るぞ!」
ふんすと気合を入れて、元気に答えた戸塚は立ち上がる。
それからは弱音の一つも言わず、少しだけレベルを下げた球出しにしっかりついてきた。
「ヒッキー、球拾い飽きちゃった…」
お前な……
両手でカゴを運んできた由比ヶ浜に軽くチョップを入れると、一度戸塚のやる気に満ち溢れた顔を見せてから戻らせる。
ぶーぶーと文句を垂れながらも、由比ヶ浜は黙々と打ち込まれてくるボールを拾っていた。こう言うところはしっかりしてるんだよなぁ…
それぞれの役割をこなしながら、いい感じな雰囲気の中、昼休みは過ぎていく。
「あ、テニスやってんじゃん、テニス!」
しかし、それはきゃぴきゃぴとした声によって終わりを告げた。
少しイラっとしながら振り返ると、葉山と三浦を中心にした一大勢力がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。
ちょうどしゃがみこんでいる材木座の横を過ぎたあたりで、向こうも俺と由比ヶ浜の存在に気がついたらしい。
「あ……。ユイたちだったんだ……」
三浦の横にいた女子が小声でそう漏らす。
三浦は俺や由比ヶ浜をちらりと見たきり、軽く無視して戸塚に話しかけた。材木座はどうやら完全に気配を遮断していたらしい。
「ね、戸塚ー。あーしらもここで遊んでいい?」
「三浦さん、ぼくは別に、遊んでるわけじゃ、なくて…練習を…」
「え?何?聞こえないんだけど」
戸塚の小さすぎる抗弁が聞き取れなかったのか、三浦の言葉で戸塚は押し黙ってしまう。いや、その見た目でその返し方されたら誰でもビビるわ。
しかし、戸塚はなけなしの勇気をかき集めて再び口を開く。
「れ、練習だから……」
だが、女王はそれを屁とも思わない。
「ふーん、でもさ、部外者混じってるじゃん。ってことは別にテニス部だけでコート使ってるってわけじゃないんでしょ?」
「そ、それは、そう、だけど……」
「じゃ、別にあたしら使っても良くない?ねぇ、どうなの?」
「………だけど、」
そこまで言ってから戸塚が困ったように俺のほうを見る。え、俺かよ。
まあ、俺しかいないよな。雪ノ下はたぶん救急箱取りに行ったまんまだし、由比ヶ浜は気まずげに顔を逸らしてるし、材木座はいつの間にかいなくなってるし。…あの野郎逃げたな。
仕方なく携帯を取り出し、アプリを起動する。
『悪いが、このコートは戸塚が教師に頼み込んで使わせてもらってる。だから他のやつは無理だ』
「は?だから?あんた部外者なのに使ってんじゃん。てか、何そのアプリ」
後半は無視して、素早く反論を打ち込む。
『俺たちは部活の方針上戸塚のテニスを強くしなきゃいけない。だから完全な部外者じゃない。信じられないなら、平塚先生に聞いてこい』
「はぁ?部活?何言ってんのあんた」
ま、聞く耳持たないよな。
仕方がない、あまりこの手は使いたくなかったが……
ギロッ
「ひっ……」
葉山が小さく情けない声をあげて、一歩後ずさる。そんな葉山を見て三浦は首をかしげた。どうやら聞こえていなかったらしい。
「隼人、いきなりどしたん?」
「い、いや、何でもない。そんなことより優美子、比企谷の言うことにも一理ある。だからここはおとなしく引き下がろう」
いきなり反対しだした葉山に、三浦は困惑した顔をする。先ほど小さく呟いた女子も、はてなマークを頭に浮かべた。
「ちょ、隼人大丈夫?汗すごいけど」
葉山の額には尋常じゃない量の汗が浮かんでいる。
よし、計画通り。これで葉山がうまくやれば、三浦たちは退散するだろう。葉山もイケメンの仮面が外れるのは嫌だろうしな。
しかし、俺の目論見は三浦自身によってあえなく失敗した。
「あ、そんじゃさ、こーいうのはどう?練習してるなら、試合するってのは。あーしテニス超得意だから、練習の成果も出て一石二鳥じゃん?」
チッ、普段バカっぽい言動してるくせに、こういう時だけ頭が回るのかよ。
少し面倒になってきたな…。こういうタイプのやつは、一回言ったことは意地でも押し通す。
慌てて葉山が止めようとするが、女王の進行は止まらない。
「んで、勝ったほうが昼休みにコートを使える。あ、どうせならダブルスにしよっか。二人いれば、もしかしたら勝てるかもよ?」
おい、セリフの前半と後半が矛盾してるぞ。自分が勝つの確定してる前提かよ。
誰も三浦を止めることはできず、野次馬根性が出たのか周りの奴らもはやしたてる。
結局、いつの間にか空気になっていた葉山も加えて、三浦&葉山ペア、戸塚&俺ペアでコートの使用権をかけて勝負することになった。
目立ちたくないんだけどなぁ…
ーーー
現在、校庭の端に位置するこのテニスコートには人がひしめき合っていた。
数えてみれば多分二百名を優に超しているだろう。葉山グループはもちろんのこと、どこから話を聞きつけたのかそれ以外の連中も多く押し寄せていた。
そのおおよそ半分が葉山の友人、およびファンである。二年生が主ではあるが、中には一年生も交じっており、ちらほらと三年生の姿も見える。
マジかよこいつ。どんだけ人気あんだよ。政治家も真っ青だぞ。
「HA・YA・TO!フゥ!HA・YA・To!フゥ!」
ギャラリーの葉山コールのあとはウェーブが始まった。まるっきりアイドルのコンサートだ。まぁ、全員が全員葉山のファンというよりは、面白そうだから悪ノリでもしてるんだろう。だよな?そうと信じたい。
『……………』
しかし、人の波の中にいくつか、沈黙を纏っている集団がいた。
そいつらは全員女子で、一年生もいれば二年生もいる。みんな周りを冷めた目で見ながら、なぜかこちらにキラキラとした目を向けていた。
「比企谷くん、頑張ってー!」
「先輩、応援してますよー!」
しかも、数人は俺に向かってエールを送ってくる。え、何で俺の名前知ってんの。
…ああ、あれか。わざと俺を応援して、負けた時に散々笑うっていう新手のいじめか。なるほどなるほど、そういうことならよくわかった。さて、それじゃあいつも通り無視して…
「…!?」
しかし、集団の先頭に見覚えのある亜麻色の髪を持った女がいるのを見て、驚愕に目を見開く。そして、ようやく合点がいった。
あいつ、やらかしてくれたな…くそ、頑張るはめになっちゃったじゃねえか。
はあぁぁ〜と長いため息をつくと、後ろから由比ヶ浜が恐る恐る声をかけてきた。
「ヒッキー、本当に大丈夫?優美子中学の時女テニで、県選抜に選ばれるくらいめっちゃ強いよ?」
ふーん、そんなもんか。
こちとら、生まれつき化け物な、人の形をした何かだって言われたことがあるくらいだ。元テニス部?県選抜に選ばれた?上等だ、俺の状態で出せる全力で、そのプライドごと捻り潰してやるよ。
ニイィィッ
「〜〜〜っ!?」
無意識に獰猛な笑みを由比ヶ浜に向けると、びくびくと怯えている戸塚の背中を押してコートに入る。
既にコートには、準備万端と言わんばかりの表情をした三浦と葉山が待ち構えていた。
ふと、葉山の状態がどうなっているのか気になり、見る。すると、
(ひ、比企谷?手加減してくれるよな?な?)
そんなことを言いたいのが丸わかりな青白い顔をしている葉山に、俺は朗らかに笑い、
ビッ
盛大に親指を地面に向けた。
サアァっと葉山の顔面が白くなっていく。
「!?!?」
葉山コールをしていた連中の顔が引き攣り、
「キャアァァァァァァァァァァ!!!」
それとは正反対に、沈黙を守っていた女子たちが雄叫びをあげた。うおっ、びっくりした。
「え?え?」
わけがわからず混乱している戸塚の頭をぽんぽんと撫でて落ち着かせると、俺はカゴからボールを出して三浦に投げた。
そして、それを危なげなく受け取った三浦に嫌味ったらしい笑みを浮かべると、くいくいと右手の指を動かす。
「……ッ!後悔しても遅いからね」
よほど俺に挑発されたのが気に入らなかったのか、闘志をみなぎらせながら三浦はボールを高く上に投げた。
スパンッと小気味良い音を立てて、鋭いサーブが飛んでくる。それはほぼ中央、サービスコートの端っこでバウンドし、丁度俺と戸塚の真ん中に弾んでくる。見るとスピンもかかっており、初心者や素人では絶対に取れない速度だ。
絶対に返せないと思ったのか、三浦はニヤリと口元を歪める。
シュパッ、ガシャアッ!
しかし、それは次の瞬間には間抜けな面に早変わりした。
三浦たちの背後にあるフェンスの金網にめり込んだボールが、てんてんとこぼれ落ちる。
それを、ありえないと言わんばかりに三浦は凝視した。葉山は既に白目を剥いている。
(ちょっと、今の撮った!?)
(ええ!もしもの時に買っておいた高性能カメラでバッチリ撮影したわ!)
数秒したのち、フリーズから解放された三浦は俺の方をきつく睨んだ。
ふっと余裕の笑みを返すと、俺はもう一度ラケットを構える。
さあ、一方的な蹂躙劇の始まりだ。
矛盾点や要望があればお願いします。