「ただいま」
返事が返ってくるわけでもないのに、玄関で思わずそう口にする。
いや、今は一匹だけ返事をしてくれる相手がいた。
「にゃ〜」
靴を脱ぎ少し寒い廊下を歩く。リビングの扉を開けるととてとてと、足元に白い一匹の猫が近寄ってきた。その姿に思わず顔が綻ぶ。かばんを肩に背負い直すと、両手で抱え上げる。そのままソファに持って行くと荷物と一緒にそっと下ろした。
ブレザーを脱ぐと無造作に放る。
台所で手を洗うとふう、と一息ついた。
不意に綺麗に並べられている皿を見た途端、家庭科室でのことを思い出し、彼の顔が脳裏にちらつく。
それを頭を振って打ち消すと、器具を出して夕食の準備をし始めた。
ものの十数分で料理は完成し、ついでに白猫の餌もボウルの中に入れる。
それをテーブルの足元に置くと白猫が待ってましたと言わんばかりに飛びついた。その姿に苦笑しながら、一人と一匹で静かに食事を取る。
もともとそこまで食べる方ではないので、夕食はすぐに終わった。
丁寧に皿を洗い仕舞うと、餌を食べ終えてあくびをしながら寝転がっている白猫を腕に抱える。
そのまま洗面所に入ると、服を脱ぎ始めた。リボンを外し、スカートの留め金を外す。それを下ろすとシャツを脱ぎ下着姿となった。それも上下両方とも脱ぐ。洗濯機の中にシャツを入れると少し肌寒い浴室の中に入った。
自分の体を洗い終えて、今度は白猫を洗う。目に泡が入ると暴れるのだが、慎重にやれば逆に少し気持ちよさそうに身を委ねてくれた。その姿に思わず頰が緩む。
はっ。いけない、私としたことが。これではいつまでたっても終わらないわ。
これも猫が可愛いからいけないのよ。ええ、そうに違いないわ。
頭の中で謎の問答を繰り返しながら白猫の体を流すと、ぶるぶると全身を震わせた。水飛沫が舞い、思わず手で顔をかばう。目を開けると白猫はにゃ〜と呑気に鳴いてこちらを見ていた。
その姿にまた苦笑し、抱き抱えて湯船に浸かる。
思わずほう、と息が漏れた。
気分が落ち着くと、今日一日の出来事が頭の中を駆け巡る。奉仕部、依頼、由比ヶ浜さん、あだ名…あれは、矯正させたほうがいいのかしら。いえ、今日見た限りだと言っても聞く耳を持たないでしょう。
中断された思考がまた動き始める。
殺戮兵…クッキー。あれは二度と御免だわ。下手をしたら死者が出るもの。
会話、再挑戦。そして、比企谷くんの企み。
「…比企谷くん…」
思わず彼の名を呟いてしまった。その時、白猫が一瞬ピクリとした気がしたが、きっと気のせいだろう。
ここ数日共に奉仕部の仲間として過ごしているが、未だに彼のことはよくわからない。時々わけのわからないことを熱弁し始めることもあれば、意味深な単語を使うこともある。明るいのか根暗なのかわからない。はっきりしてほしいものだわ。
子供っぽく拗ねることもあれば、まるで多くの経験をした大人のような雰囲気も放つ。
見ていて飽きない、それでいてどこか憎たらしい男の子。
「…ふふっ」
また、思わず声を漏らしてしまった。
理由は、家庭科室で自慢げに何かを言おうとして、私がそれを遮った時に見せた微妙な顔が、可愛く感じたから。
なぜ、私はこんなにも彼のことが気になるのかしら?
つい最近出会ったばかりなのに、そばにいると安心する。
一緒に遊んでいると、心が安らぐ。
普通実家に帰ると安心したりするのでしょう。けれど、むしろ私には家の方が息苦しい。
それが、彼と触れ合っていると安心できる。
こここそが私の居場所だと言うように。
ふと、数日前のように何かが脳裏に引っかかる。けれど、やはりそれは何かはわからない。
スッ。
不意に視線を感じて、パッと顔を上げる。ここはマンションの中でも高い階にあるから覗きはありえない。
だとしたら、一体どこから?
不意に下に視線を向ける。すると、そこにはじっとこちらを見据える白猫がいた。
その瞳には知己が宿っているように感じる。まるで、私に問いかけるかのように。
さあ、思い出して?忘れていることがあるはずよ、と。
…私も疲れているようね。のぼせるのも馬鹿らしいし、早く上がりましょう。
そのあとは不思議と何もする気分にもなれなくて、布団に入った私の意識は微睡みの中に落ちていった。
ーーー
ーーー懐かしい記憶を見た。それはもう忘れたと思っていたもの。けれど、ずっと頭の奥底にしまいこんでいただけのもの。それが唐突に、水面に顔を出す。
私は小さい頃から容姿が良かった。頭も良く、何でもこなせたので当然目立った。
そのためか、小学校に入ってからは大半の男の子が私に好意を寄せてきた。どれもこれも可愛いから、や、ずっと前から見ていた、なんて、それで?としか言いようのないものばかりだったけれど。
それが悪いとは言わない。そもそもまだ小学生であるし、むしろそこまで頭が回った私が異常だったのだ。
それでも私は、秀才で何でもできる可愛い少女ではなく、雪ノ下雪乃という内面を見て欲しかった。
子供ながらにそんなことを考えた日からどれだけ経っても中身の薄い告白は続き、それに比例するように女子が敵に回っていく。
家に帰っても姉さんと比較され、いたたまれなくなる。誰でも良い、たった一人だけ、自分を理解してくれる人が欲しかった。
どれだけそう思っても、私には敵しかいなかった。靴隠しや下駄箱汚しなんて当たり前。酷い時は、トイレに入っている時に上から水をかけられたこともあった。
周りの男の子たちがそれを知って怒り、やめろといえばどうしてあいつばかり、とさらに過激になっていく。
私はそれに耐えた。どうせ誰も助けてくれないなら、手は伸ばさない。心は開かない。母さんにも、姉さんにも弱い私は見せない。孤独に強く生きてやる。
けれどそんな私の態度が気に入らなかったのか、虐めはさらにエスカレートした。
やがて、完全に周りと自らを切り離すようになった頃。
それは私が、小学校六年生に上がった時。
クラスの中に、ある一人の男の子を見つけた。
矛盾点や要望があればお願いします。