番外編の短編です。『アズカバンの囚人』から、ルーピン先生とボガートの授業ですよ。
シリウス・ブラックが脱獄した騒ぎは小康状態となり、学校全体が落ち着きを取り戻した二月。
吹雪くわけでもなく、雪はあくまでも深々と校庭に降り積もる。
じっと窓の外を見つめるミリアの肩を、レナは叩いた。
「寒いねー。凍っちゃいそう」
「静かだね。雪、きれい……」
「あんた、雪は好き?私は寒いしめんどくさいから好きじゃないな」
「雪は……好きだし、嫌いだな」
「おっと、それはそれは?」
「好きなのは、全然違う風景を作るところ。こんなに静かになるのは、雪が降ってる時だけだから」
地上の動物も、空の鳥も、熱を奪う雪が過ぎるのをじっと待つ。皆が皆息をひそめる風景が、神秘的で好きだった。
「ラックスパートも大人しいですかな?」
レナが何もいない空中をくるくる指さして、からかう。ラックスパートなどの空想上の生き物の存在を主張するルーナと、ほぼ同類と思われている。曖昧に笑って、しつこく絡んでくる指先を抑えた。
「でも静かすぎて、ちょっと怖くなる。それが嫌いなとこ」
雪の降る冬を越えられない生き物は、思ったよりもたくさんいる。
雪は美しく、残酷だ。雪はふわふわと軽く舞うが、積もれば重く冷たく押し潰す。
「ふーん、雪合戦やらなんやらではしゃぐガキどもで、逆にうるさくなることもあるよ?」
「それもそうだね」
目で笑い合い、冷気が入ってくる窓際から離れて廊下を進んだ。
今は授業の合間の小休憩だから、ミリアの言うように校庭は静かだ。次の授業は『闇の魔術に対する防衛術』。
*****
今年の『防衛術』の教師、ルーピン先生は、一部を除いて概ね好評だ。去年と違い、まともかつ面白い授業をしてくれるからだ。
それでも不満が出るのは、みすぼらしい身なりだから、それとダンブルドア校長と共通する『グリフィンドール贔屓臭』がにじみ出ているから、らしい。特にハリー・ポッターを贔屓していると、上級生が噂しているのを耳に挟んだ。
確かに、ミリアが上辺だけ覗いてみると、彼はスリザリンに対する不信感を多少持っていた。しかし決して表に出さず、平等に公平に楽しい授業を提供しようとしてくれているので、別に注意を促さなくてもいいと判断した。
「今回はどんな子かな」
「ほんっと動物好きよね」
ルーピン先生の授業は、人に襲い掛かる魔法生物の対処法を中心としたものだ。
「一回聞きたかったんだけど、どうやるの?あんたがいい子いい子すると何でみーんな大人しくなんの?」
「うーんと……」
答えあぐねる。授業では有効な呪文を教わって、本番として魔法生物と実際に相対するのだが、ミリアは正攻法で撃退したことが無い。
(つい痛いことするよ、って言っちゃうんだな~……)
何度も苦手な呪文に翻弄される動物を見かねて、先に忠告してしまうのだ。それを聞いた動物は、一目散に逃げるかミリアに助けを求めるか。授業にならないこともしばしばあった。
「やっぱあれ?動物好きオーラは動物に分かるって。森番先生みたいに」
「そうかな」
そういうことにしておこう。
話がひと段落ついたところで、ちょうどルーピン先生が教室に入ってきた。何やら大きなトランクを抱えて。
「こんにちは、授業を始めるよ」
そう言って、教卓にダンとトランクを置いた。
『ひっ!』
ミリアはかすかな声を聞いた。中に誰かがいる。
「今日はカッパをやる予定だったけど、変更だ。この中にいる」
トランクの上に手を乗せる。
「ボガートだ」
皆一斉にひそひそと情報を交換し合う。ボガートとは何か、なぜ予定変更したのか、そんなことだ。
「ボガートはどんな生物か、知っている人は?」
数秒間沈黙が降り、やがてキースが手を挙げた。名を呼ばれ、立ち上がった。
「形態模写妖怪」
「我々の前に出ると、どんなことをしてくる?」
「目の前の人物が一番恐怖するものに変身します」
「その通り。スリザリンに五点」
彼は少し得意そうな顔をしながら座った。
「このトランクの中に座り込んでいて、目の前に誰もいないボガートは何の姿にもなっていない。――いや、正確にはどんな姿をしているのか誰も知らない、と言ったところかな。しかしトランクから外に出ると、たちまち誰かが恐怖する姿に変身する。この性質は、今の我々がボガートに対し有利に立っていることを意味するのだが、何故か分かるかい?」
レナが周りを見てから、はいっと手を挙げた。
「私たちは人数が多いから、ボガートが何に変身すればいいのか分からないからです」
「お見事。もう五点追加だ」
レナはミリアにウィンクしながら座った。
「多人数を相手にするボガートは、何に変身したらいいものかと徐々に混乱してきて、誰も怖がらなくなると爆発して消滅する。つまり、ボガートを倒す武器は『笑い』なんだ。今回教える呪文は『
ぼわんと蛙チョコに変身した。
「甘くて美味しい蛙チョコに。一度練習を。『リディクラス』!」
素直に全員唱えた。
「よし。みんなイメージするんだ。自分の前に立つと変身する恐ろしいものと、それが恐ろしくなくなる滑稽な姿を」
今度は教室中ざわつきだす。授業初めの教師や授業に対する不安と疑いとは真逆の、積極的に授業に向かう、興味の表出だった。
「あたしはゴキブリかも……アレっだけはどうしてもムリっ!」
「ムリなんて言ってちゃダメだよ。おもしろい姿にしなきゃ」
「……とにかく最も脅威の機動力をもぎ取るところからかしら……」
レナはそれきりブツブツ自分の世界にこもった。
(わたしの怖いものって、なんだろう?)
レナが怖がるような害虫は大丈夫だ。その他一般的にグロテスクな印象の虫や生物もOK。一番怖い体験というと、ある日森の中熊さんに出会ったことだが、ボガートは熊に変身するのだろうか。
(でも、今おんなじ目にあっても、たぶん怖くない)
あの時の熊は、人間にばったり出くわして驚き混乱していた。食べ物としてミリアを狙っていた訳ではなかったから、交渉の余地はあった。
ボガートが何に変身するのかさっぱり分からないまま、時間切れとなった。
「そろそろ考えはまとまったかい?杖だけ出して、机から離れて」
ルーピン先生が杖を振って、椅子と机を端に寄せた。
「じゃあ……ハーパー、前に出て」
にやにやして腕まくりをしている。一番自信満々に見えた生徒を選んだのだろう。
「合図でトランクを開けるよ――三、二、一!」
大きなハサミをジョキジョキ振りかざす、大ガニの姿のボガートが飛び出した。
「『リディクラス』!」
カニはすぅっと小さくなり、シーフードサラダに調理された。
「次、マッコイ!」
そんな風に、次々と姿を変えては撃退されていった。レナのゴキブリは、ひっくり返って泡を吹いて大人しくなった。
「次、セルウィン!」
何が来るか分からないが、とりあえずピンク色の服を着せて躍らせようと決めた。
風船になったタコのボガートの前に立つと、見覚えのある人が現れた。
(お母さん?)
『怖い、怖い!』
母は、心の中でそう言いながら、怯えた顔で叫んだ。
「化け物ッ!」
不思議と、冷静な気持ちになった。ショックなのは確かだが、心が落ち込んで落ち着いた。
(あ、これが怖かったんだ)
最初からずっと、味方であり続けてくれた母に、拒絶されること。
『近づくな!ぼくは化け物だぞ!』
「近づくな!化け物!」
拒絶されるのが怖い、怖いから拒絶する――どちらも、ミリアは持っていた。そして“彼”も。
ミリアは、ゆっくりと歩み寄る。母の仮面をかぶったボガートは、一層怯える。
「来るな、来るな!」
『お願い、来ないで!』
人を怖がらせる妖怪は、誰よりも怖がりだった。
ミリアと一緒だ。森の動物に怖がられていた彼女は、森に近づかないことでその感情から身を守っていた。
「だいじょうぶ」
微笑みを浮かべるミリアは、手を差し伸べた。
「こわくないよ」
『「怖いよ!」』
「うん、じゃあ逃げていいよ」
開けっ放しのトランクに目を向けた。
『「でも、追い払わないと自由になれない」』
「おうちに帰りたいの?」
『「こんなところに、いたくない」』
「そっか」
暗くて狭いところが好きなのではなくて、人がいるからそこに隠れていたのか。
「なら、わたしがお外に連れてってあげる」
『「でも……」』
「こわくないよ。怖くないって、こういう気持ちだよ」
相手の気持ちを読む、それも同じ。もうボガートを怖がっていないミリアの穏やかな心を、“彼”も分かってくれるはずだ。
『こわく、ない……』
笑いが苦手なのは、普段受け取る感情と真逆の方向だから。ボガートの繊細な心が、そのベクトル転換についていけなくなるのだ。
「うん。そんな気持ちだよ」
母の姿がぼやける。
『こわくない。あなたはこわくない』
拒絶の仮面が――外れた。
(雪……)
母がいた空間に、一粒の雪が落ちる。そこに宿る心のように、静かで穏やかな落下だ。
風を起こさないように手を伸ばした。雪が手のひらに落ち――あっという間に融けて無くなった。
穏やかな心も、消えた。
*****
その場で恐怖を克服しても、ボガートは倒せる――そんなしめくくりで、授業は終わった。
レナが何を話しかけても、上の空だった。手のひらに残った一粒の雫を、落とさないように大切に握っていた。
「ちょっと外に!」
「ボガートを逃がすの?やっさしー!」
ボガートとのやり取りを聞いていたレナが茶化した。
吹雪に飛ばされそうになりながら、校庭の真ん中――最も寒い場所を目指す。
(どうしよう、逃がすって約束したのに!)
まさか本当に、雪のように体温で融けてしまうなんて!
「ボガートさん、返事してよ!」
手のひらを解くと、雫は吹雪に乗って雪と混じった。
ただの水のように。
「ボガートさん!」
いくら叫んでも、あの暖かな心は、どこにも存在しなかった。
*****
その日の夜、落ち込んで立ち直れないミリアに、大イカが話しかけた。
『くよくよしとるな~、ミィさん』
「イカさん……」
『話しゃあ楽になる。こりゃ不思議だ不思議だ』
「……。あのね――」
ミリアはボガートとの出来事を話した。
「わたし、殺しちゃったんです……近づくなって言われたのに、近づいたせいで」
異様に人間を怖がっていたのは、素のままで触れると死んでしまうから、だったのか。
『う~ん。ワシにゃあそれほど、気に病むこととは思えんがの~』
「でも、死んじゃったんです」
『最期はこわがっとらんかったそうじゃなイカ』
大イカはスーッとどこかまで泳いで、戻って来た。
『人間どの、わしらの感情は、どこから来ると思う?』
「どこって、心?」
『ふせイカい』
「ちょっとだけ、ふざけてます?」
『ミィさんに元気になってほしいからよ。ところで正解は『死』なのだよ』
それは終わりであって、始まりには一番遠い場所にあるモノではないか?
『“死にたくない”、それが感情の始まりと思うんだね、ワシは。『死の恐怖』が悲しみ、怒り、喜び――その他もろもろの根本にある』
ミリアは思い返す。“死にたくない”と思わない生き物は、どんな精神をしていたかを。
『ワシだって死ぬのが怖い。死から遠く外敵がいない、この平和な湖に居られてこの上なく幸福だよ。だがそれも終わりが来る。その時が来る恐怖を誤魔化すために、ワシはミィさんと話してるのかもしれんの~』
触手をのんびりと揺らす大イカが、まさかそんなことを考えていたとは。
『だから、ワシはむしろ羨ましいのう、そのボガートさんが。死の恐怖を克服できたのだから』
じゃあの~、大イカはいつもの通り、のんびりと泳いで行った。恐怖を微塵も感じさせず。
ミリアはベッドのふちに座り、今の会話を反芻する。
(穏やかに死ぬのが羨ましい?そんなの悲し過ぎる。わたしはイカさんが死んだら、悲しいよ。でもそう思うのは生きてる人の勝手?そもそもボガートさんが死んで悲しんでるのは、わたしだけ……?)
頭がぐちゃぐちゃになる。考えれば考えるほどこんがらがり、どう思いたいのかも絡まって、何も分からなくなった。
気づくと、朝になっていた。
寝不足で重い頭を抱え、朝食に向かうと。
(きれい……)
昨日と何も変わらないはずの、深々と雪が降る校庭が、世界一の風景のように感じられた。
(この雪は、どれくらいの生き物を凍らせたんだろう……)
純白の絨毯は、美しさと死の二面性を持っている。
(感情が、死の恐怖から来ているなら)
この風景を美しいと思う心にも、死が潜んでいる?
(違う。隠れているのは、生きててよかったって思う心だ)
生が尊いのは、死があるから。
(ボガートさんは……生き返らない。うまく言葉にできないけど……責任とってわたしが死ぬっていう簡単な話でもない)
一歩一歩、前向きに。
(“死にたくない”が始まりでも、生きればそれだけじゃないんだ)
だから、人は、生き物は、死を超えられる。
ミリアは初めて、雪景色を素直にきれいだと思えた。
スコットランドって緯度のわりに寒くならないんですって。雪どかどかのえっほえっほと思いきや、日本の冬備えで十分だそうです。初めて知りました。
ところで、最終章の3章ですが……いや~、なかなか進まないっす。半分くらいは出来ていますが。どうもすみません。