『―――それでは最後に、諸君にとってこの世界が唯一の現実であるという証拠を見せよう』
宙に浮いた巨大赤ローブが、おそらくは茅場晶彦が、厳かにも指し示したもの。ほとんど自動的にアイテムストレージを確認し、ソレをタップした。
次の瞬間、アイテムのオブジェクト化同様、きらきらと音と光を立てながらソレが現れた。かざした手のひらにすっぽりと収まる。
【手鏡】―――。その名のとおり、小さな丸い鏡。
一見すると何の変哲もないアイテムだった。だからか、無用心にもソレを覗き込んだ……
映っていた姿を見て、ギョッとさせられた。
「…………オレ?」
そこにあったのは、現実のオレの姿だった。勇者然とした逞しさなどどこにもない、忌避してやまない生身の容姿そのものだった。
なぜこんなものを見せつける? 悪趣味にも程がある……。喉元から出てこようとした寸前、白い光の柱が立ち上った。
周囲、何百はいるであろうプレイヤー全てから、光柱が現れ包まれた。隣にいたクラインからもコウイチからも。ソレを目の端で捉えると、構えるまもなくオレ自身もまた覆い尽くされた。
光は、ほんの2・3秒で消えた。恐る恐るうっすらと目を開けると、視界も元通り、先に見えていた風景が戻ってきた。
【はじまりの街】の大広場、強制的に集められたらプレイヤーたち、まだ皆同じような初期装備のまま。武器や鎧に着られているぎこちなさが見えるも、美男美女あるいは古強者然とした外見の者たち……。いや、厳密には違っていた。
(な、何が起きたんだ……。!?)
慌てて周囲を見渡し、目を丸くした。あまりの変化に一瞬声が出せなかった。
ソレは相手も同じだったのだろう。クラインがいるはずの隣に立っていた見知らぬ誰かが、信じられないと訴えるように震えながら指差してきた。
「え? お、お、おま……、キリト?」
「そういうお前こそ……クライン、なのか?」
そこにいたのは、眉目秀麗な若侍ではなかった。仕官先と戦を求めてあちこち転々としている野武士、あるいは人里離れた山林に跋扈している山賊だった。同じなのは、額に巻かれた悪趣味なバンダナと逆立てた赤い髪、先までは燃え盛る炎のようだったが今は鶏のトサカだ。それでも、ソレがクラインだとわかったのは……勘だ。先にあちらが当ててくれなければ、疑いが優っていたかもしれない。
そしてどうやら、信じたくないことだが、オレにも同じような変化が訪れているようだった。おそらくは【手鏡】に映った姿へと。クラインの驚いた顔が、ソレを如実に物語っていた。
「うむ……。どうやらこの【手鏡】は、リアルの顔に強制変換するアイテムだったみたいだな」
冷静に現状を解説した声。立ち位置からしてコウイチだろう。
恐る恐る、だけど興味もたぶんに、その顔を見た。……見上げた。
「……そんなにジロジロと見ないでもらいたいな。驚かれるのはしょうがいないことだが、気恥ずかしい」
「いやいや、お前の場合は逆だから。あんま変わってないから驚いてるんだよ」
そこにいたのは、エリート公務員とでも呼べるような男だった。実際は30代後半以上の経験を積みながらも、見た目は20代後半といってもいいほど若い、メガネを掛ければまさしくイメージ通りのやり手。だが何も付けてない素の顔は、落ち着いた柔和な顔つきと雰囲気を醸している、将来有望な大学助教授といったところだ。
目元口元鼻の稜線に顎の形おまけに耳まで、どれも先とは別人なのだが、クラインを見たときの驚きには及ばなかった。むしろ、どういうわけか同一人物だと瞬時に理解できた。作られた先の顔と今のリアルの顔、二つを結べるコウイチの元型とでも呼べるものが共有されていた。
「そう……なのか? 随分変えてみたはずだが、実はそうじゃなかったと?」
「いや、確かに変わっちゃいたんだけど、何というか……。やっぱりコウイチだなって、ひと目でわかったから。オレやクラインとかと違って」
それでも首をかしげるコウイチにオレは、それ以上何も説明しなかった。できなかった。……これ以上説明すれば、これから先立ち直れないぐらいの敗北感を味わいそうだった。
ソレはクラインも同意見だったのだろう。なおも納得いかないと不満げなコウイチを無視して、その話題から逸らした。
「……てかよぉ。顔は何となくわかるんだが、背丈とか体つきが変化してるとかってのは、どういう仕組みだ?」
「おそらく、【キャリブレーション】だろう。ログイン開始前に、ナーブギアかぶりながら全身触らされたアレだ」
【キャリブレーション】=装着者の体表面感覚を再現するために、「手をどれだけ動かしたら自分の体に触れられるか」の基準値を測る作業。=自分のリアルな体格をナーブギア内にデータ化する。
オレの推測にクラインは、理解したが納得できないと難しそうな顔つきした。なんだってそんなことをするのか? その大元はわからないままだ。
まぁ、それについては茅場が答えてくれるだろう……。そう、赤ローブの言葉を待っていると、コウイチがまるでサイボーグのように自分の体の具合を確かめながら考察を続けてきた。
「骨格や筋肉、内蔵の動きなどは、あらかじめ元型を作っておいたのかもしれないな。性別と年代別に何体か。そこにスキャンした全身の手触りを被せた」
「なるほどね。だから触れてねぇはずの背中とか、たいして触ってねぇはずの足の指とか股間のモノも、ちゃんとついてくれているわけだ」
独り言のような考察にクラインが乗ってきた。そこから漏れ出た単語に、茅場の話に集中しようとしていたオレの意識まで持っていかれた。
ソレは、コウイチも同じだったのだろう。クラインが指摘して初めて気がついたように、悩ましげに眉をひそめた。
「しかし、それならば……どうもおかしいな。自分のものとしか、現実で使っていたものとしか思えないが……」
「あ、俺もソレ思った! すげぇフィットしているというか、生まれてこの方使ってきた相棒そのまんまで、違和感がねぇ。ポジショニングの具合までまんまだし、たぶん形も―――やっぱり!」
クラインは、自分のズボンの中身を確認すると、驚きをそのままに声を上げた。
「うほぉ、なんだよこの再現度は! ありえねぇだろう、ちゃんとホクロまでついてやがるぞ!」
「やめろよクライン! そんな大声出すな―――」
「おおぉ! 確かにこれは……、私のだ!」
オレが必死にクラインの狂行を止めていると、コウイチが同じように確認し顔を輝かせていた。
自分のズボンの中身を覗き込み、子供のようにはしゃぐ二人の男、そんな二人の間で右往左往しているオレ。奇妙すぎる3人組に、周囲の視線は痛いほど突き刺さってくる。そのうち2人はアハ体験の喜びで我を忘れているので、オレだけが居たたまれず沈まされた。
いや注目を浴びての落ち込みが、態度にも現れたのだろう。ようやくオレの不調に気づいたクラインは、しかし見当はずれの仲間意識を向けてきた。
「どしたキリの字、確かめなくていいのか?」
「……やらない」
「不安になんねぇか、大事な自分の分身だぜ? ちゃんとしたのかどうかは―――」
「やらん!」
「キリト、今後の命運にも関わるかもしれん重大事項だぞ? 他人が見ても是非の判断は付けられん。君自身で確かめてもらわないと困るな」
「困れ、大いに困ってろ!」
見事に息のあったタッグ攻撃も、強引に拒絶した。……オレはお前ら変態野郎の仲間じゃない。
ただし、その代償は大きかった。現実でもここまで声を荒らげたことは数少なかったので、叫び終わった後ハァハァと気が高ぶってしまった。周りのプレイヤーたちのことも無視してしまった。
オレの必死な様子を見て、やっと正気に立ち返ってくれたのだろう。コウイチは、知的発見で輝いていた顔をしゅんと曇らせ、目も泳がせためらいがちに尋ねてきた。
「もしかしてだがキリト、君は…………女の子、だったのか?」
「はぁ!? 何でそうなるんだよ?」
予想の遥か斜め上の疑問に、貯められていた怒りが声とともに裏返ってしまった。
脈絡がなさすぎる、なんだってそんな当たり前のことを聞いてくるのか……。そう思っていたのは、オレだけだった。コウイチを援護するように、クラインが続けてきた。
「【手鏡】見ろよ、その面で体格だぜ? 声も微妙なところだ。……わりぃが、外からじゃどっちか判断つかんかったよ」
すまねぇと、決まりの悪そうな顔で謝ってきた。出てきたのが言い訳がましいセリフであったことすら悔いるように、自分の不甲斐なさで苦みばしった顔つきになっていた。
その明後日すぎる方向に、目を真ん丸にして眺めていると、
「おまけに今の恥じらいぶり……。どうやら私は、無神経なことをしてしまったらしいな」
すまなかったと、頭を下げて謝罪してきた。気づくべきことに気づけなかった愚かしさを悔いるように、自分の無知の罪深さを恥じ入るように後頭部を晒していた。
たてつづけの盛大なファールボールで、ようやく現状ここで何が起きているのか理解に至った。一気に沸点を超え、プラズマ化までして飛び出した。
「謝んな! オレは男だ、男だからッ!」
「いや、だけどなぁ―――」
「服装見ろ! こんな格好してる奴が、女なわけないだろうがッ!」
「周りを見てくれ。それだけでは判断できんよ」
そんなこと―――。反射的に跳ね返そうとした言葉はしかし、視界に映った異様な光景で打ちのめされた。
みずぼらしいどこにでもいるような少年少女たち。不安げに帯びているその顔振る舞いは、可愛さや哀れよりも腹立ちの方を強く掻き立ててきてしまう。特に、ピンクっぽい色合いでフリル付きのスカートを履いているふくよかな男たちを見ると。天井の巨大赤ローブや禍々しい空模様を仰ぎ見ていないと、デス・ゲームに囚われた絶望感を保つのは難しい。
言葉や激情よりもなお説得力のある光景に、何も言い返せずぐぬぬっと飲み込まされた。
「コウの字。本人はああ言ってるんだから、今だけは……そういうことにしていいんじゃねぇか?」
「『今だけは』って何だ、『そういうこと』ッて何だよ! ずっとそれでいいよ、そんな目で見るんじゃねぇッ!」
「なるほど! 今後に備えての予防策というわけだな」
ポンとコウイチは、すべて合点がいったと手を叩いた。
そして、あろうことか、怒り狂っているオレに称賛の眼差しを送りながら言った。
「閉塞感からくる絶望が倫理感を削り取ってしまうことは、予想されてしかるべき最悪だ。おまけに凶器は簡単に手に入り誰も咎めないとあれば、なおのこと考えている以上に早く訪れることだろうな。だから、女性であることは必ずしも有利なこととは言えない。男と主張したほうが最悪は免れる。理想は、どちらかわからない中性であることだが……、まぁソレは黙っていれば大丈―――」
「コウイチ、あんたと言えども、それ以上続けたらぶった斬る」
感動のまままくし立てるコウイチを一刀両断するように、もはや冷たくもある声音で告げた。……聞くに耐えない妄言だ。
絶対零度の怒りを突きつけようやく、周囲にもオレの心の中にも平穏な静けさがもどると、ため息を一つこぼした。これでようやく、茅場の話に集中できる―――
そう思って耳をそばだてると、
『―――以上で、ソードアートオンライ正式サービスのチュートリアルを終了する。……プレイヤー諸君、健闘を祈る』
いつの間にか、茅場のチュートリアルは終わっていた。
目を丸くして呆然、何が起きたのか理解できずあぽーんと口を丸く開けていた。まさかまさか……、もうおしまい?
聞き逃してしまった? 冗談だろ……。狂気の天才ならではのブラックジョークかと苦笑いを浮かべると、赤ローブの輪郭がおぼろげになっていった。
「え? うそ……、待てよ、なんで? ご冗談でしょ茅場さん? これで終わりって……、なんでぇ!?」
待ってください、もう一度初めからお願いします! ……と、訴えながら手を伸ばすも、聞き届けられず。掻き消えてしまった。
後には何も残らず、空も元の青さを取り戻していった。
再び呆然と立ちすくむ。頭の中が真っ白になり、抱えた。……誰か嘘だと、時間よ巻き戻ってくれと、神よ私に憐れみをと切に願った。
だが―――、願いは叶わなかった。晴れやかな青い虚空が見下ろしてくるだけ。
終わった……。第一歩を踏み外してしまった。これからのはずなのに、もう致命傷を受けてしまった。こんな状態じゃ100層まで登るなんて、この第一層を突破するのも難しい。
乾いた哂いがこぼれた。もうどうにでもなれと、ヤケクソな気持ちが胸いっぱいに広がった。すると、奇妙な清々しさで胸がすいた。何も解決していないけど気分はいい、肺にたまる空気がおいしい―――。
そして代わりに、その空いた場所からフツフツと、怒りが湧き上がってきた。その感情が頭まで駆け上がるとギラリ、朗らかな顔が般若になった。
「―――どうしてくれるんだよ、テメェら! 聞き逃しちまったじゃねぇかッ!」
元凶の二人に向かって、あらかんぎりの罵倒をぶつけた。
我が事ながら信じられない、人間の所業とは思えなかった……。これから生きる死ぬの命の話をしていたのに/わざわざしてくれていたのに、独善的になりがちなゲーマーたち皆が集中して耳を研ぎ澄ませている中、オレ達はチ○コの話題に夢中だった。タマの存在証明に全力投球だった。意味がわからない。
わんわんガアガアぎゃあぎゃあと、自分でも何を言っているのかわかっていない。そんな癇癪を迸らせていると、うんざりしたような苦笑いを浮かべてコウイチが割り切ってきた。
「別に、大したことは言ってなかっただろう? 一度でもHPが0になったらゲームオーバー、ここだけでなく現実でも。それだけだよ」
「いや、コウの字よぉ。そんな簡単に要約しちまうのもどうかと思うぜ?」
「そうか? 私はもっと、この現状を作り出した仕掛けの種明かしをしてくれるのかと期待していたが、そうではなかった。ただ皆の気分を高揚させただけだった……」
こちらの質問は受け付けてくれなかったし……。残念だと、どこかが見事にズレた感想をため息混じりに漏らしてきた。
あまりにも見当外れすぎて、オレもついつい「そういえば、そうだよな」と頷きそうになった。一方的に言いたいことだけ言って消える、質疑応答は一切受け付けない。これで不満を持たない奴は仏様かキリストの生まれ変わりだ。その手の人たちは現世の色々から解脱してる本物なので、機械仕掛けのインチキ神様の罠なんかにはそもそも引っかからない、いらっしゃるわけがない。
気づけば怒りの矛先がズレていた。もう一度突きつけてやろうと身構えるも、とうにその気分も失われていた。収められる分には吐き出せていたらしい。
スッキリはしないが掻き毟りたくなるほどでもない。つまりはいつも通り/平静さを取り戻すと、すべて洗い流すことに決めた。
「……まぁいい、過ぎたことは仕方がない。コウイチの言うとおり、ここはデス・ゲームになった、てことだけだしな」
「おぉ、立ち直りはえぇなキリの字」
「これからはこうでもないと、生き延びられないだろう?」
悩んで立ち止まっている暇はない……。即決即断、こだわりなんて重荷をもっては、上には駆け上がれない。時間は金より重要だ。
「うむ、さすがキリト。もう心構えはできたんだな」
「コウイチ程じゃないさ。ただ……強がってるだけさ」
「それだけで充分すぎるだろう。私の平静はただ、考えないようにしているだけだよ」
さらりと謙遜を混ぜると、オレがどういう意味かと尋ねるまもなく、すぐに建設的な話題へと切り返してきた。
「さて、これからどうすべきか……。地道に安全を確保しつつ、街の周辺でレベルアップを図ったほうがいいかな?」
「いや、すぐに【迷宮区】に向う」
オレの決断に二人共、驚愕した。信じられないと目を丸くしている。まるで自殺志願者でも見ている目だ。
「おいおい、正気かキリの字!? いきなりラスダンに行くつもりかよ?」
「ああ。最低限必要な装備を整えたら、な」
ソレも途中で手に入るだろうから、まっすぐ【迷宮区】へ向かうことには変わらない……。そうは付け足さず、人心地つけるように誤魔化した。
「君にしてはかなり無謀な決断と思うが……、何か考えでもあるのか?」
「特には、考えってほどじゃないよ。
誰もまだ来ていない最前線にこそ、最高の宝がある。この世界のリソースは限られているから、できるだけかき集めていかないと身の安全は図れない」
最強であること、あろうと日々を生き続けている者たちこそ最も安全だ。
傍目からは真逆に見えるが、全体を俯瞰して見れば『強者』たちの方が安全だ、そうであろうと互いに心がけてもいる。だからその一点だけでも、どれだけ気に入らない相手だろうとも手を結べる/協力し合える。そうでない『弱者』たちは、それができずバラけてしまう、個々での奮闘が余儀なくされシステムに喰われてしまう。モンスターたちにも、傍目には見えないが、『プレイヤーを排除する』という一点において協力し合っている/ほぼ決して敵対したりも迷ったりもしない。その透明な悪意への反抗心としても、『戦って生き残る』気合は強化される。
「しかし、それにしてはリスキー過ぎるぞ? 何も迷宮区まで行かなくてもいいはずだ」
「だからこそ、だよ。大半のプレイヤーがそう考えるからこそ、オレたちは行く。ファーストペンギンになるんだ」
波荒れる暗い海を見下ろす海岸、そこは豊かな食べ物の宝庫であると同時に捕食者と危険に満ちた戦場だ。誰もが足踏みする、飛び降りなければならないが足が竦む、機を待っているというがいつ来るのかわからない。指を咥えて見下ろすだけ。そんな中、勇気を振り絞って飛び込むファーストペンギン。失敗すれば死ぬも成功すれば総取り、誰に邪魔されることなくエサを食い放題だ、それを見て飛び込んだ者たちは残りしかない。
たっぷり食い溜めたファーストは、その後子孫を繋ぐことができる。だけど、ただ流れに乗って海に降りた者たちは、同類という新たな旧敵と少ない雑魚を奪い合わなければならない。必然、冬も越せないぐらい衰弱してしまう。……そんな生き方や最後も、惨めなものだろう。
「もちろん、危険なことには変わらない。身の安全だけを考えるならココを起点にして徐々に進んだほうがいいだろう。
でもオレには、βの経験値がある。第一層に出てくる敵は、嫌ってほど倒してきた。種類も攻撃パターンも心得てる。そこで戦って生き延びれば、誰よりも早くレベルアップすることができる、そこに配置してある【トレジャーボックス】から最高のアイテムも手に入る。わざわざ街で高い金を払って装備を買わなくても、揃えることができる」
力強く利を訴えた。できるできるやればできると、自分にも暗示をかけるように。
βの経験値の価値は、0ではないだろう、だがブランド品というわけでもない。あって頼りすぎれば惑わされ、無くて冒険しすぎれば後悔する、整備不調のオートマチックの拳銃といったところ。あって損は無いとしか言えない。だから、それ一つで【迷宮区】を踏破できるとは口が裂けても言えない。
でも、言わなければならない。やらなければならない、ファーストペンギンにならなければならない。嘘は百も承知、今準備できることは自己暗示しかないだけだ。まずは気合を高めて、いつでも泳ぎまわれるように怖れを解しておく。
「ハイリスク・ハイリターンか……、私は博才がある方ではないのだが」
「いいや、『ハイリスク』でもないぞ。運もいらない。
誰かが一歩先んじれば、いずれ誰かが踏み出さなければならない目の前にある『先』なら、釣られて後に続く。理性で抑えられるものじゃない。前線で戦うようなプレイヤーなら、多かれ少なかれ同じ考えの持ち主だからな。……彼らの『用心深さ』を満足させるために、無謀であることを引き受ければいい」
損な役回りだが、報酬は約束されている。初めは怖くて無様を晒してしまうが、やっているうちに慣れて嫌でも強くなる。それに、一度でも勇敢さを示せば、自ずと人が集まってくる/助けてくれる。考えられる以上に得は多い。それに、『用心深さ』に酔わせれば、飛び込みの邪魔だてはされず援助を受け持たせられる。……無謀=命知らずのバカ、とは必ずしも言えない。
考えを言い切ると、二人を見た。ぼぉと何も言えず、ただ見つめ返すだけ。そこには嘲りの濁りはなく、眩しいものを見たと言わんばかりに輝いてすらいた。
それを見せられると、決まりが悪くなってしまった、顔を逸らしたくてたまらなくなる。……程度をわきまえず、必要以上に煽ってしまった引け目がにじみ出てきた。
「……オレは、これからそうするつもりだけど、強制はしない。やりたくもない。自分のことだけで手一杯で、責任も取れるわけじゃないからな」
だけど……。続く言葉は、胸の中に閉まっておいた/出せなかった。ソレを口に出せるほどオレは、まだ……自分を信じきれない。
その葛藤のまま、眉を引き結んで顔を背けると、コウイチが呆れた様子で言った。
「水臭いこと言わんでくれ。ここまで来たからには、君とは運命共同体だよ。それに……、私一人でいるよりも、君といたほうが生存率は上がりそうだ」
かけられた了承に、思わず振り返ってしまった。欲しかった言葉、だけどそこには命の重みがある。いやが応にも責任の重荷が肩に食い込んでくる。
ソレを背負いきってやれればオレは、作り上げた仮想の顔のままでいられただろう。あの凛々しげな勇者然とした顔の青年なら、そんなこと笑って成し遂げられるに決まっている。記憶は朧けながらそんな設定を込めて作った。でも今のオレは違う、仮面は剥ぎ取られていた。
「……知り合いとやらは、いいのか?」
「ざっと見渡しただけだが、ここにはいないようだ。別の街にいるかそもそもログインしていなかったのか……、後者であることを願っているがな」
おそらく、そんなことはありえないだろうが……。まだ現実にいる望みがある分、割り切れないが、最悪を考えなければならない。今ここにいるオレたちには、ソレしかできない。オレ達もまた囚われた最悪の中にいると、再確認させられる/そこから目を背けられなくなる。
「もしここにいたとしたら、下手にフロア中を探しまわるより、迷宮区に行ったほうが早く見つかるだろう。現実に戻るためには行かなければならない場所だからな。そこで再会できれば願ってもないことだが、まぁ難しいだろう。だが名は売ることが出来る。人づてに伝えてもらっていけば、いずれ巡り合うこともできるだろう」
だからコレは、自分にとってもマイナスにはならない。目的にかなった行動だ……。このデス・ゲームの中/ほぼ裸一貫の今、そんな長期的な視点で構えられるのは、一体どういう腹持ちなのだろうか。
もしオレが、同じ立場だったのなら、コウイチのようにあれるのだろうか……。考えてみた。すぐに、できそうにないとの答えが叩き出された。自分以外の誰かへの気遣いなど、やれる心の余裕は持てそうにない。
だからフッと、微笑をこぼした。強ばっていた気が解けた。目の前の男は、オレがその責任を持てるほどヤワじゃなかった。むしろ並んで立てるほど、肩をあずけていい相手だった。
「そうか、ありがとうコウイチ。……正直言うと期待してた」
「光栄だ。これからもそうあれるよう、努力しよう」
オレもだ……。この優秀な後衛に負けないぐらい、果敢な前衛であらねばならない。胸の内でそう、誓を刻んだ。
「クラインはどうする? ともに征くかな?」
コウイチは短く簡潔に、だけど少し煽るようにして尋ねた。
一連の話を黙って聞いていたクラインは、いきなり話を振られて驚くも、すぐに答えた。
「俺もやることは、ダチと無事に合流することだ。全員今ログインしているはずだから、誰か一人はこの街にもいるはずだろう。まずはそいつを探す。
そのあとは、【黒鉄宮】の掲示板を使って連絡待ちだな。コウの字のダチとは違って、ログインしてることは確かだからな、ほかのゲームでもよくつるんできた仲だ。まずは合流、掲示板使って連絡することを考えてくれるはずだ」
そして一旦、区切った。
その次の言葉が予想できてオレは、残念だと顔に出さないように努めた。本来は一人で行かねばならなかった場所だと、思い出す。
「……てなわけで、かなり手間かけちまうからな、お前らとは一緒には行けねぇ」
はっきりと/さっぱりと、互いに後悔は残らないように言い切った。先に張っていた防衛線がなくとも、動揺せずにいられるほど。
ひと拍ソレを飲み込むと、そうかと/残念だけどと、前に付け足せるように返した。
「何かあったらメッセージを送ってくれ。できる限りだけど、協力するよ」
「おうよ、存分に頼らせてもらうぜ。くだらねぇつぶやきもバンバン送りつけてやるからな」
ほどほどに頼むよ……。一瞬、SNSみたいな書き込み爆撃を想像してしまい、苦笑気味に肩をすくめた。まさかそんなことやるとは思えないが、オレの人を観る目はマスターレベルにはほと遠い/まだまだヒヨコレベルだ。
「お前ぇらも、そうしろよ。何でもいい、どんなアホなことでも「今日は食ってクソして寝た」でも「カネ貸してくれ」でもいい、送って来い。必ず見てやっから」
生存報告しろよ……。一部夾雑物があって濁ったが、言わんとしようとしていることは伝わった。まともに感動に浸らせてくれない男だ。
だけど、ありがたい気持ちは無視できなかった。リアルだったらお節介としか思えなかったセリフでも、今ここでは違って聞こえた。まだ会って間もない他人に、そういうことを言えてしまうクラインにオレは、初めて羨ましいと思えた。
だからだろう。皮肉混じりの感謝を返そうと思っていたが、胸で詰まって答えられなかった。代わりにコウイチが応えた。
「そうさせてもらおう。いずれは君たちとも共に戦う事になるからな、有望株には先行投資しておく必要がある」
「おいおい、そう言ってくれるんだったら、駄文は受け付けられねぇぞ。前線の有力情報を送ってもらわねぇとならねぇなぁ」
「もちろんだ。私たちが死ぬようことがあったら、君たちにこそ受け継いで欲しい」
さらりと/穏やかなままで、今は出してはならない単語を使って言った。
笑い話で終えようとしたであろうクラインは、すぐにおちょくるような笑いを引っ込めた。代わりに/止められた息を押して、答えた。
「……そうならねぇことを祈ってる」
「無駄死にだけはしない。絶対にな」
噛み合いきれていない返答に苦笑をこぼすも、追求はせず。今は/お前はそれでいいと、互の分を認め合う。
そしてそのまま、離れようとするクラインの背に、別れと再会の約束をかけた。
「じゃなクライン、また何処かで会おう」
「ああ、ぜってぇにな。死んでも生き抜けよ」
最後に一つ、わけのわからないトンチを投げ渡してくると、返品不可だと言わんばかりに背を向け去っていった。雑踏と街の中へ、その姿が消えていく。
長々とご視聴、ありがとうございました。
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