黄金の虎   作:ぴよぴよひよこ

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第三十六話

 

* * *

 

 

 

「さらばです、玄界の勇士たちよ」

 

 近界民の撃破と同時に開いた空間転移の輪、反応できたのは大河だけであった。戦闘体が破壊された白煙がまだ漂っているなかで、トリオン反応が途絶えた敵の位置を正確に捉えられたのが彼だけだったのだ。

 しかしそれ以前に援護射撃でほとんどトリオンを使い果たした他の隊員には、撤退する近界民を目にしたとて反応は間に合っても追撃はできなかっただろう。

 

「逃がすか!」

 

 閉じゆく次元の狭間に向けて、撃ち出すように爪を伸ばす。左手人差指以外の爪を消すことによってトリオン供給先を限定、半ば暴発させる勢いで刃を(はし)らせた。

 生身に対し、トリガーをもって取り押さえるには安全処理が施された弾トリガーが最も適しているのだが、大河のハイドラにはそんなものは備わっていない。遠征の目的から実装されなかったのに加え、余波だけで肉体など消し飛んでしまう威力のそれに安全処理なんて、どうやっても搭載できるものではなかった。

 ゆえにこうして虎爪による追撃、速さを重視したピンポイントの刺突を繰り出したのだが……

 

「見送りは結構ですよ」

「んなっ……!」

 

 老練の近界民がトリガーホルダーに戻った杖先で軽くブレードの腹を突く。

 それだけ、たったそれだけで必殺の凶刃は無意味と化した。

 小さな点となった転送口から爪を逸らすにはほんの僅かに切っ先をずらすだけで充分であった。そう簡単には言っても、言葉のまま容易くできることではない。杖型のトリガーホルダーがトリオンでできているからといって、それには何も効果もないのだ。そんなもので虎爪を逸らすなんていうのは銃弾を割りばしで弾くような、意味不明な領域の技術である。

 生身に戻ってもやつの剣術の冴えは健在だったらしい。人間が反応できる速さではないはずの爪を、なんとも事も無げに弾いてしまった。人智を超えた絶技、やはりあの老人は底が知れない。

 

「……チッ」

 

 惜しくも近界民を見逃すことになった大河はしかし、怒り狂うでもなく周囲を見回した。己の大爆撃で広く深く窪んだ更地に、生き残った何人かがそれぞれ状況を把握するべく動き始めている。

 どうにか強敵を撃退した合同迎撃部隊であったが、必要だったとはいえ戦線離脱させられた隊員の数も多い。

 二宮隊は隊長以外が、加古隊は黒江が緊急脱出(ベイルアウト)。影浦隊は狙撃班に同行していた絵馬を除いた全員が落とされている。十人以上で挑み、半数以上を落とされた。

 戦力的な消耗がもっとも軽度な三輪隊を含め、残った隊員たちもほとんどトリオンを使い果たしており、これ以上の戦闘はかなり厳しい状況とみえる。

 

「はーあ、なんとかなったか」

 

 ともあれ勝ちは勝ち。ここでの勝利は大きい。被害がいかに大きくともあの近界民を倒せたのは僥倖と言わざるを得ない。奴を自由にさせていたらどれだけの被害をこうむっていたかわかったものではなかった。大河は大きなヤマを越えたことに安堵の息をついたのだった。

 

「……やられた」

 

 そこで、小さな呟きが落ちたのを聞きとがめる。

 その言葉をこぼしたのは空閑だった。黒トリガーを解除され中学の制服に戻った彼は四つん這いの状態で地に転がった何かに視線を落としている。

 

「どうした?」

「…………」

 

 尋ねても返答はない。空閑の近くにいた迅も沈鬱な面持ちで黙り込んでいた。

 よもや(ブラック)トリガーのホルダーを破壊されたわけでもあるまい。もしそうなら空閑はいまごろ息絶えているはずだ。

 

「レプリカ……」

「あ?」

 

 空閑が呼ぶその名は、彼に付随するトリオン兵の名。……そして、視線の先に転がっているのも、空閑の御目付役たるトリオン兵の残骸――の、欠けらであった。

 

「お、おい、それ……」

 

 大河が息を飲んで残骸を指さす。初めて聞く彼の焦ったような声音に、空閑がゆるゆると顔を上げた。

 けれども大河の焦燥は別に空閑のことを慮ってのことではなかった。レプリカの有用性は、彼も、そして本部も認めた非常に重要なもの。保有する情報は遠征数十回ぶんにも及ぶ、ボーダーにとって千金に値するほどの財産(ヽヽ)である。

 

「あの近界民に、やられたのか」

 

 いつの間に。

 愕然と問うと、空閑はため息のようにぼそりと答えた。

 

「……うん。全身を斬られたときに、やられた」

 

 そしてトリガー強制解除の白煙に紛れて、機能不全に陥ったレプリカを持ち去ったらしい。あのギリギリの状況でそんなことまでしていたとは、どこまで抜け目のない老人なのか。

 

「ざっけんなよ、オイ」

 

 歯ぎしりした大河の奥歯から怒りを形容するような音がもれる。

 大河にとって妹以外の隊員が――たとえC級であろうがなかろうが――攫われるなどという損害は痛くもかゆくもないものだった。もとよりほとんどの隊員の名前も顔も知らないのだから、情が湧く余地すらないのである。

 けれどもレプリカは別だ。特別顧問に任命されたあのトリオン兵が持つ情報だけは絶対に譲れない。とくに大河にとっては近界各国の情報は意義深いもの。これからレプリカによってもたらされた情報に基づく近界侵攻を企てていたのに、勝手にいなくなられては困る。とても困る。

 

「おいミサキ、他の近界民はどうなってる?」

《ん、狙撃訓練場に三人。単独でうろついてた一人は無力化したみたい》

「そうか。じゃあまだレプリカ取り返せる目途はあるよな」

《さあ? 命令は捕縛だからね~。アタマ(ヽヽヽ)を押さえないと逃げられるかもしんないよ》

 

 先ほど撃退した近界民はアフトクラトルの中でも随一の猛者。おそらく迅の予知の()は超えただろうとみたミサキは気の抜けたような返事をした。

 あの老人を打倒、そして一人を捕縛。大方の予想に、そう遠くないタイミングでアフトクラトルが撤退を開始することは目に見えている。

 しかし大河の瞳には、それを許すまいとする決意がありありと浮かんでいた。

 

「……全員ブッ殺す」

 

 物騒な物言いに、ミサキが呆れたようにストップをかける。

 

《だーから、命令は捕縛だっつってんでしょ。だいたい兄貴に基地内部での戦闘の許可なんて下りるわけないじゃん》

 

 彼の戦闘には前提として広大なフィールドが必要となる。屋内における局所戦は苦手……というよりその『局所』ごと消し飛ばしてしまいかねない。本部基地内部などはもっての他だ。

 

「知るか。このまま指くわえて見てられっかよ」

《はあ……ったく》

 

 下された命令やボーダー本部基地に対し配慮の欠けらも見せない兄に、ミサキは渋々ながらも付き合う様子を見せた。

 そこには半ば諦めめいたものがある。どうせ、こいつは止まらない。だったらトリガーの調整でもなんでもやって、できるだけ被害を最小限に留めるのが己の役割だと嘆息した。

 

「タイガー先輩、悪いけどレプリカのこと、頼むよ」

「んあ? ああ……」

 

 すっかり忘れていた空閑に懇願されて、大河が曖昧に頷く。

 レプリカを取り戻そうとしているのは完全に大河個人の利益のためである。空閑の心情などこれっぽっちも勘定には入れていないが、求める結果が同じなため、いちおうは了承しておいた。

 

「おい、誰か動けるやついるか?」

 

 屋内戦では思うように力を発揮できない。そのため動かせる駒が要る、と周囲に声をかけた大河であったが、即答できる隊員は一人もいなかった。

 少しの間をおいて二宮がゆるゆるとかぶりを振り、否定の意を示す。

 

「悪いが俺と加古隊は狙撃組を連れて市街地の援護だ。ほとんどトリオンも残ってないが、近界民の数だけで言えば向こうのほうが多いしな」

「そうか。んじゃこっちは秀次と……」

 

 ちら、と目を向けられた迅が困ったように頭を掻いた。

 

「ごめん、ちょっとおれもやることがある。メガネくんのとこに行かないと」

「オサムがどうかしたのか?」

「ああ……」

 

 空閑に問われた迅はやはり曖昧に頷いた。何かよくない未来でも視えたのだろうか、難しい表情を浮かべて空閑を見つめ返している。

 

「まあいいか。秀次、おまえはまだ()れるか?」

 

 迅から視線を切った大河が尋ねると、三輪は力なく、しかしたしかに首肯した。

 

「なんとか……。補助に回れば、といったところです」

「ああ、かまわねーよ。っし、じゃあ行くか」

 

 部隊の割り振りを終えた隊員たちがそれぞれ新たな戦場に向かって移動を始める。

 二宮を筆頭とする継続迎撃部隊は東部地区方面へ。迅と空閑はワープトリガーにより基地内部に。

 

 そして大河と三輪は――

 

 

 

 

* * *

 

 

 

 

 外の決着がつく少し前。

 広大な訓練場での攻防で、陣頭指揮をとる東は手をこまねいていた。

 当初は外部と連携して通路を突破する予定だったのが、ここを抜けた近界民の追撃に向かった王子・那須・香取隊が壊滅して外部戦力が大幅に削られてしまったのだ。

 残る部隊はB級下位がほとんど。その中で有力なのは諏訪隊や柿崎隊であるのだが、いまの状況ではいささか力不足が否めない。逆に、下手に突破すると敵の強化トリガーと黒トリガーで大打撃を与えられかねないのが現状だった。

 しかし敵側の戦力が優位であっても、未だここに釘付けの状態なのが少しばかり不可解である。東はそこに一端の光明を探した。

 

(敵の目的は……聞かされていた限りでは黒トリガーの奪還と雨取って子だったはず。あの子がここのC級に紛れ込んでいると勘違いしているのか?)

 

 近界民たちにとってこの場で時間を食う意義は薄い。つまりここにも「狙い」があるはずだ。そしてそれは敵から見て恰好の違いがわからないであろうC級の雨取である可能性が最も高い。無論隊員を捕まえられるだけ捕まえていきたいのもあるだろうが、目標として彼らは、あの子を探している。

 だとすれば、と東は作戦を変更した。

 時間稼ぎに徹する。基地外での戦いが終わればA級部隊が戻ってくる。あいにく基地近辺での戦闘は敵が強力すぎるらしく、余力がほぼ残らないだろうと報告を受けた。そのため多少時間がかかるが、市街地防衛部隊を待つことにする。

 最高戦力たるA級トップチームか、派手に暴れる天羽をサポートしている嵐山・片桐隊ならば充分抗戦できる状態で戻ってこれるはずだ。

 

「《みんな、ここは耐える場面だ。隠岐と俺で隠れながら狙撃をして時間稼ぎしていることを隠す。来たるべきときまでトリオンを温存しておいてくれ》」

「《了解っす。けど、操作盤(コンパネ)は大丈夫なんですか? 地形が解除されるとマズいんじゃ》」

 

 奥寺がそう進言する。いまもコンパネには紅髪の近界民がついており、どの程度かはわからないが解析が進められているはず。巨大な盾として存在している密林が解除されれば戦況は一気に不利になってしまう。

 隊長を信ずるがゆえ不安というよりは単純な疑問として述べられた言葉に、東は微笑を浮かべて返答した。

 

「《大丈夫だ。技術者(エンジニア)に設定をロックしてもらった。コンパネの解析が終わっても地形の変更はできない》」

「《なるほど。わかりました》」

 

 奥寺の姿が見えないまま頷きをひとつ落として、東が移動を開始する。

 時間を稼ぐといってもただ撃つだけでは敵に意識さえさせられない。あたかも解析を邪魔しているかのような嫌らしい攻撃を加えなければ。

 そして彼にはそれが叶う。「最初の狙撃手(スナイパー)」たる東春秋は、ボーダー最高峰の技術を持っている。純粋な精密さでいえば奈良坂や当真が台頭する現在、後進の成長に喜びはしても、ただ抜かされるままでいられる彼ではないのだ。

 

(狙い通りにはいかせないぞ、近界民)

 

 心のうちで嘯いて、スコープを覗き込む。

 

 その僅か数分後に、己もまた狙い通りにはいかない事態になることを、東は予想だにしていなかった。

 

 

 

 

 

 ランバネインが『雷の羽(ケリードーン)』を乱射しながら、その轟音に負けじとがなりたてる。

 

「敵がひとつの通路に集中し始めてしばらく経つが、突っ込んではこないようだ。どうにも動きが読めない」

「ああ。密林からの狙撃も最小限のものだけだ。何かを待っている、か。ヒュースが削ってくれたぶんをどこかから補填しようとしているのかもな。ミラ、そっちはどうだ?」

「いましばらくかかるかと。突破されるほうが早いかもしれません」

 

 ミラの悔しそうな顔に気にするなと苦笑を返し、ハイレインは密林を見渡した。

 潜んだ『雛鳥』や兵たちの姿は全く見えない。先ほど試しに余ったトリオン兵を送ってみたが、踏み倒した木々も即座に修復され、鬱蒼と茂る紛い物の植物はトリオンでできていることもあって反応を追いにくいらしく瞬く間に撃破されてしまった。

 やはり手間取った。突破するために策をめぐらせているであろう玄界の兵が乗り込んでくるのも時間の問題だろう。これならヒュースに合流して『泥の王(ボルボロス)』の奪還に注力したほうがいいかもしれない。

 ハイレインがこの戦場に見切りをつけるのと同時、ミラが操作盤解析のために動かしていた手を止めて叫んだ。

 

「ヴィザ翁!?」

「どうした」

「し、少々お待ちを……!」

 

 操作盤ではなく『窓の影(スピラスキア)』を慌ただしく起動する。その様子にハイレインは最悪の事態を想像した。

 おそらくヴィザから通信が来たのだろうが、隊長たるハイレインには何も送られていない。命令系統を無視してまでミラに何かを要請する――そんな事態と言ったら、一つしかない。

 そして、少しの間をおいて想像していた「最悪」を肯定する通信が届いた。

 

《申し訳ありません、突破されました。『星の杖(オルガノン)』は無事ですが……》

「……ああ」

 

 アフトクラトルでも最上位の武力を誇るヴィザの敗北。しかしその報告を受けてもハイレインの動揺は小さなものだった。

 玄界(ミデン)の底力は測り知れない。それは身をもって味わったことだ。

 初めて乗り込んだ日にヴィザが落とされていたらもう少し驚いていたかもしれなかったが、常に最悪(ヽヽ)を考えて行動するハイレインは玄界の戦力がヴィザを打倒する可能性をも念頭に置いていた。

 とはいえやはり想像しがたい。あの最高戦力を相手に玄界の兵はどう立ち回ったのか。

 記録が残っていればヴィザに提出させることを頭の隅で決めて、ハイレインは現状に必要な情報を優先させた。

 

「敵の残存勢力はどの程度だ?」

《斬ったのは九名、うち一人は黒トリガー使いです。狙撃手を除いて残りは七。『黄金の虎』ともう一人の黒トリガー使い以外はほとんどトリオンが残っていないと思われます》

 

 なるほど負けはしたが戦力は大幅に削ってくれたようだ。外にいた兵は最も、とまではいかなくとも精鋭揃いの部隊だった。それをほとんど機能不全にまで追い込めたのなら役目としては上々だ。

 

「そうか、わかった。ヴィザは遠征艇から外の情報を――」

 

 頷いたハイレインはそのまま指示を出そうとし、

 

《お気を付けください、『黄金の虎』がそちらへ向かっています》

 

 わかりきったことを言われて困惑した。

 『黄金の虎』が向かってくる。そんなことは言われずとも予想できた。ヴィザを倒したあとそんな余力があるのには驚いても、動けるのならこちらに向かってくるだろう。

 ここへの転移はもう封じてある。あの火力でならランバネインの突破も容易であることは明白だし、すぐに移動すれば問題はない。

 

「もともとここは捨てる(ヽヽヽ)つもりだ。我々はヒュースと合流して『泥の王(ボルボロス)』を」

 

 ハイレインのセリフを、剣呑な声音がもう一度遮った。

 

真っ直ぐ(ヽヽヽヽ)向かっているのです。退くのならお早めに――》

「――!」

 

 瞬時に理解する。

 アフトクラトルがなんとかすり抜けたあの防壁、いかなる手段でもってしても破壊できそうにない堅固な壁を『黄金の虎』は突破できるのか。……問うまでもない。アレの規格外さはいつだって予想を超えてくる。

 

「ミラ、そこから離れろ!」

「え……?」

 

 再び操作盤の解析に戻っていたミラへ警告する。自分たちが壁抜けしてきたのはこの操作盤の近くだった。その地点を覚えていられたのなら、突破してくるのもここの可能性が高い。

 

「壁から離れ――」

 

 伝えきる前に、いくつもの光刃が閃いた。

 

「くッ!?」

「ミラ!」

 

 右腕が落ちた彼女を抱きかかえ跳び退る。直後切れ目の入った分厚い壁が膨れ上がるように押し出され、激しく吹き飛ばされる。重苦しい音を立てて崩れ落ちる防壁だったトリオン塊。改めて見てもその密度と厚さは異常という他ない。

 なのに、まるで砂の城を崩すかのようにそれは現れた。

 

「――てめえら」

「『黄金の虎』……!」

 

 ハイレインが睨みつけた先で、虎模様の隊服を身に纏った男が壁の破片を蹴り飛ばす。

 

「やってくれたな……!」

「……!?」

 

 ひどく(いか)り狂った形相で吼える虎。ハイレインは違和感を覚えて眉根を寄せた。

 こいつは何に(いか)っている? たしかに『雛鳥』を大量に捕らえた。だが数は違えど先日も同じことを(おこな)ってきているのだ。先ほど捕まえた中にこの男の知己でもいたのか。

 逆鱗に触れてしまったとしたら面倒な。しかし――

 

(感情に揺れているなら、チャンスでもある)

 

 知将ハイレインは冷静にそう考えていた。

 厄介なトリオン能力を持っている難敵、しかし真っ直ぐ突っ込んでくるだけならどうとでもなる。ヴィザにより右手は斬りおとされ、まだ敵戦力の追加がない今……前しか見えていないのなら、意識の外から生物弾(アレクトール)をくれてやる。

 

「ミラ、まだ動けるな?」

「問題ありません」

 

 『黄金の虎』と同じく右手を失ったミラだが、彼女のトリガーはたとえ両手がなくなろうとも発動するのになんら支障はない。協力して一気に叩けば、アレを手に入れられる。アフトクラトルに繁栄をもたらす神を――次世代の覇権を。

 

「死ねッ!」

 

 ハイレインの決意が滲む眼差しの向こうで、なんとも物騒な叫びとともに爪が伸ばされた。残った左腕の凶悪なそれが上層の射撃スペースの床すら切り刻んで叩きつけられる。

 

「『卵の冠(アレクトール)』!」

 

 手のひらに浮かぶ卵からハイレインが魚型の弾を生み出して自身とミラを防護。

 敵の攻撃にいかな暴力的な威力が込められていても、トリオンでさえあるのならそれはキューブ化される。叩きつけられた爪が中ほどから分断され、二人の目前で床を切り刻んで粉塵を巻き上げた。

 

「あ゛あッ!? 防いでんじゃねーぞ!!」

 

 理不尽に猛る虎の肩に大砲が構築されていく。

 撃つのか、あの破壊兵器を。この砦の中で――

 

「やめろ、木場!」

 

 大砲を危惧していたのは何もハイレインたちだけではなかったらしい。

 密林の方から制止する大声が響く。やはりあの砲撃は向こうにしてみても脅威に過ぎるようだ。止められた虎が一瞬だけ逡巡するような様子を見せ……

 

「っっっごォああああアアアッッ!!!」

 

 直後に吼えた(ヽヽヽ)

 先ほどまでの比喩でなく、本物の『咆哮』だ。

 

「――ッ!?」

 

 ビリビリと空間を震わせる大音声。やつの怒りを象徴するように左手の爪がまた巨大化して、ついには天井にまで至ってしまった。

 そのさまには通路を抑えていたランバネインも目をとられ、ミラは恐懼に身を竦ませている。

 ハイレインだけが、いち早く気づいた。

 

(あれは……!)

 

 爪が地面に食い込んでいる。いや、飲み込まれている。

 あの虎は怒り狂っているように見せかけて、頭の中は冷静だった。冷徹なまでに、こちらを殺すことだけ考えていた!

 この咆哮と破滅的なまでに巨大化した爪は意識を上に向けさせるための陽動(フェイク)。狙いは下だ。足もとは『卵の冠(アレクトール)』による防御が薄いことを、敵は知っている。

 この状態で狙うのは誰だ? 先ほど爪を防いだ己か、通路を抑えるランバネインか。……違うだろう。潜入だけでなく、撤退するのにも『窓の影(スピラスキア)』の能力が必要だ。我々を捕らえることが目的なら、まず潰すのは――

 

「ミラ!!」

「――――」

 

 そういうことか。ハイレインは舌を打ってミラの腕を掴んだ。

 この鼓膜を突き破らんとする咆哮は内部通信すら阻害する爆音。そこまで作戦の内だったのだ。一瞬出遅れたハイレインは死守すべきミラの腕を掴んだはいいが、自らが回避する余力を失ってしまった。

 

「隊長!?」

「……く、ぅ」

 

 ハイレインの予想通り足元から突き立てられた爪が彼の全身を貫く。ミラを守るのに必死で蜥蜴や海月(クラゲ)型を撒くのも間に合わなかった。

 しかし彼は間に合ったとしても防ぐことはできなかっただろうと自らを納得させていた。

 乱立した爪はハイレインを穿ったままさらに高く伸びたのだ。もし生物弾に当たったとしても、それは切っ先のみがキューブ化するにとどまって伸び続ける刃にとっては誤差にすらならなかったろう。

 

「くそっ……」

 

 『卵の冠(アレクトール)』を強制解除されたハイレインが歯噛みする。トリガーなしではヒュースの援護どころか己の身を護ることすらままならない。

 撤退するしか、ない。

 見誤った。敵が怒りに目を濁らせていると思い込み、勝てると誤信した。手に入れられたなら間違いなく栄光が手に入ると目が眩んでしまった。

 

「下がれ隊長!」

 

 悔いたハイレインが撤退命令を口にする前にランバネインがかぶさるように躍り出る。トリガーを解除されたハイレインに対し容赦なく狙撃の弾が迫っていたのだ。

 シールドで防ぎ、『雷の羽(ケリードーン)』で威嚇射撃をばら撒くランバネイン。これで通路は完全に開放された。すぐさま敵の増援が駆け込んでくるだろう。

 そして眼前の脅威はまだ去っていない。この場でもっとも危険な猛獣はまだ、こちらを睨み続けている。

 

「ぬっ!?」

 

 『黄金の虎』の背後から飛来した弾丸を盾で受けたランバネインが驚愕の声をあげた。彼の腹から突き出る三つの重石。これは、あの臙脂色の隊服を纏う少年が使っていた行動阻害を目的とするトリガーだ。

 片膝を突きかけたランバネインはブースターでバランスを取ることによりなんとか体勢を保っている。

 

「ちいっ、猪口才な!」

「こっちだ、デカブツ!」

 

 やはり現れた臙脂色。銃を乱射しながらこちらを挟み込もうと床を蹴る。あのトリガーは厄介だ。『卵の冠(アレクトール)』がない以上、重石を解除する方法がない。だがヴィザの報告によればトリオンはほとんど残っていないはず。あの移動は、おそらく釣りだ。

 

「――――」

 

 ランバネインへ警告しようとしたそこへ、身体が引きずられるかのような感覚。空気があの男に吸い寄せられている。またあの咆哮を放つつもりか。あれを生身でくらえば鼓膜が破れ、最悪気を失う可能性がある。

 ハイレインは最後に残った僅かな時間で命令を下した。

 

「ランバネイン、攪乱しろ! ミラは合わせて撤退を、ッ!?」

「――逃がすかよ」

 

 目の前に狂獣が立ちふさがる。

 巨大な爪を消した『黄金の虎』が目にも止まらぬスピードでハイレインたちに詰め寄っていた。

 もう『卵の冠(アレクトール)』の護りはない。トリオン体であれば問答無用で沈黙させる反則級の黒トリガー……この規格外にさえ通じる手が、彼らには残されていなかった。

 まだ伸ばした爪を叩きつけてくるのなら防ぎようはあったろうに――時が凝縮したような感覚の中、振りかざされた凶悪な爪を見つめながらハイレインは虎の執念に恐怖すら抱いていた。

 ミラの『窓の影(スピラスキア)』は次元を超える異質なトリガーだ。彼女が展開する窓は単純な力では破壊できない。それを壊すには同じく次元を超える何かでなければならないのだ。そこまでの特殊性を持たない虎の「叩きつけ」であればまだ防げたのに、こいつはどこまでも冷徹に迫りくる。弱所だけを攻めたててくる。

 ランバネインは間に合わない。巨大な砲塔を向けるより先に虎の爪が閃くだろう。

 

「隊長っ、――!?」

 

 咄嗟にミラがハイレインを庇うように前へ出ようとし、しかし突き飛ばされて驚愕の表情を浮かべた。突き飛ばしたのは、他でもないハイレイン自身であった。

 

(ミラをやらせるわけには……!)

 

 彼女はアフトクラトルの部隊にとって、絶対に失ってはならない命綱。たとえ隊長であるハイレインが換装を解かれたとしても、最優先で守らなければならない対象がミラであることに変わりはない。

 決死の覚悟でもって隊員を庇ったアフトクラトルの隊長は、その代償を自身の血でもって贖うこととなった。

 

「ぐっ、ああッ……!」

 

 二の腕から輪切りにされた右腕が鮮血にまみれて転げ落ちる。苦悶の声をもらしながらも、ハイレインは内心で安堵していた。

 この段階になっても虎は冷徹なまでに盤面を見ていた。向こうもやはりミラを落とすことを重要視しており、そのおかげもあってかこの程度(ヽヽ)の傷で済んだのだ。腕一本。安くない代償だがここで全員が捕縛されるよりはずっといい。

 

「ハイレイン隊長ッ!!」

 

 ミラが叫んでいる。そうではないだろう、とハイレインは叱責してやりたかった。が、声が出ない。

 ずっとトリオン体での訓練ばかりしてきた彼はいかな覚悟をもって戦場に臨んでいても、慣れない痛みには呻き声しか出すことができずにいた。

 まだ敵はそこにいる――いつだって冷静沈着だったはずの彼の右腕(ヽヽ)は、いましがた輪切りにされた本物の右腕のように正体を見失っていた。

 

「ミラ! 兄上を下がらせろ!!」

「ランバネイン……、え、ええ!」

 

 頼もしい弟が『雷の羽(ケリードーン)』を乱射して『黄金の虎』を引きはがしにかかる。兄と違って武官に近い彼はこの状況にも惑わされずに対応してみせた。……いや、少なからず動揺はしているのだろう。あれだけ「隊長と呼べ」と聞かせていたのに、素が出てしまっている。

 それでも彼の奮起はありがたかった。『黄金の虎』は目標を変えた。アフトクラトルを殲滅するのにもっとも邪魔だと認識する相手がミラからランバネインへと移ったようだ。

 

「ミラ……撤退、を」

「は、はい、今すぐに! ――っ!」

 

 ようやく絞り出せた命令。諾々と従うミラを邪魔する狙撃が行われた。辛うじて即死は免れたが、脇腹と肩を抉った傷からトリオンが大量に噴き出て彼女を焦らせる。

 どこまでも容赦がない。未だ姿の見えぬ密林から針のような射撃が飛んできている。通路からは増援が押し寄せてきた。もはや一刻の猶予もない。

 

『――!!』

 

 部隊の危機に上階にいたラービットらが床にひびを入れながらハイレインたちの前に着地した。

 

《ハイレイン殿、お早く!》

「ヴィザ、か。助かっ、た」

 

 どうやら遠征艇から行動プログラムを変更してくれたようだ。巨体が着地する際の衝撃で気を失いかけたことには目を瞑って、ハイレインはどうにか身を起こす。

 

「おおおおおッ!」

 

 ハイレインの護りをトリオン兵にまかせたランバネインがブースターを吹かして宙を駆け『黄金の虎』の気を引く。今のうちに、窓を。

 

「座標固定! 窓を開きます!」

「ああ、ランバネインを、頼む」

「わかっています、隊長、早く!」

 

 半ば押し込まれるようにして遠征艇に転げ落ちたハイレインの全身を激痛が駆け巡る。どうにか耐えて窓の外に視線をやると、ランバネインが凶悪な爪に串刺しにされるのが目に入った。

 

「ランバネインっ!」

「そのまま窓を開いておけッ!」

 

 ミラの悲鳴に叫び返したランバネインは強引にブースターを吹かして爪から逃れる。しかしずたずたにされた下半身からのトリオン漏出は激しく、すぐさま全身にひびが入りはじめた。

 

「うおおおおッ!」

 

 トリガー強制解除の直前、最後の力を振り絞って窓へ向けた全力のブースト。換装が解かれた爆発の中からその慣性のままランバネインが飛び出してくる。

 

 ――――ッッ!!

 

 形容しがたい爆音を最後に、ハイレインの意識は途絶えた。常人には耐えがたい虎の咆哮が、窓を通じて遠征艇にまで及んだのだ。

 これをもっと近くで、生身で受けたランバネインがどうなったのか。彼がそれを知るのはずっと先のことであった。

 

 

 

 


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