「―――― 一瞬でも勝てると思ったか?」
菊地原士郎は苛立っていた。
元々卑屈気味な性格の彼は優秀そうなやつが嫌いで、実際に優秀な者でも天狗になっていたりされるとそれを叩き折りたくなる
しかし今苛立っているのはそれ以上に、自らが――言葉には出さずとも――憧れ、敬っている隊長が
「来いよガキども、遊んでやるぜ! チビの仇を討ってみろ!」
黒い長髪、同じくらい黒い
全身を液体化させることができ、物理攻撃をほぼ無効化。さらには謎の見えない攻撃をも持ち合わせている。だが、
――こいつはここで殺す。
優秀そうだとかそうでないとか、もはやそんな次元の話ではなくなった。
やつが踏み抜いたのは心の奥底に大事にしまっていたもの。こんな下賤な男では触れることすら烏滸がましい大切な……『誇り』。
この戦場で黒トリガー使いを自由にさせた場合の脅威、危険度、その他もろもろの
菊地原の隣にいる
ふだん物腰柔らかな彼とて決して譲れないものがある。自分がどれだけ無様を晒そうと、それをあげつらわれようと、己の失態は素直に受け止める。それが歌川の美点であり強みでもあった。
だが。この近界民は。
敬愛する先輩を、
許すことはできない。許してはならない。――断じて!
敵は
《二人とも退け》
強制送還された作戦室から風間の声が届いても、二人の闘志は消えることなく燃え盛って敵へ鋭い視線を送り続けている。
「《このままじゃ引き下がれないでしょ。ムカつくんですよ、こいつ》」
「《全身が液体化しても伝達脳と供給機関はどこかにあるはずです、それを叩けば……》」
菊地原と歌川がそう言い返すと、通信先でため息が聞こえた。
《……半人前どもめ》
敵のトリガーと風間隊のメイン
そういった戦略眼は二人とて持っている。わかっていて許せないのだ。せめてやつにひと泡吹かせなければこの足を後ろに向けることはできそうにない。
さらに反論しようとした彼らだったが、風間の冷たい声がそれを遮った。
《だがそうじゃない。そこにいると巻き込まれて死ぬぞ。
「《……え?》」
「《……! 歌川、行くよ》」
サイドエフェクトにより風間の真意を悟った菊地原がカメレオンを起動しながら窓から飛び降りた。遅れて歌川も同様に屋外へと身を投げる。
かつて黒トリガー確保のために赴いた際、迅の妨害を受けた時に遠くで聞こえた砲撃音。悲鳴をあげるアスファルトと、牙が打ち鳴らされる音。
――もはやあの黒トリガー使いはひと泡どころではなく血の泡を吹くことになるだろう。
菊地原は先ほどまでの怒りを潜めさせて――いや、むしろ同情すら抱いて呟いた。
「……あーあ、ご愁傷サマ」
虎が、獲物の匂いを嗅ぎつけた音がした。
* * *
アフトクラトルの強襲部隊の一員、黒トリガー『
「あァ!? ……チッ、逃げる頭が残ってやがったとはな」
あれだけ煽ってやったのに尻尾を巻いて逃げるとは。未開の国ではしゃぐ猿のくせに存外戦略を見る目があったらしい。
だがまぁ構わない。そう、
「ブッ殺せるんなら、誰でも――――」
全てを言い終える直前、壁を突き破って何かが目の前に叩きつけられた。
瞠目して見たものは無残にも全壊したラービット。そして何事かと口を開こうとした瞬間――彼がいた建物は
(なんだ、これは――、――まずい、防御を……!)
音すら殺す爆裂の
「……クソッ、なんだったんだありゃあ!?」
吹き飛んだ先で身体を再構成させたエネドラはそう吐き捨てて、己を襲った下手人の姿を探し首をめぐらせる。
果たしてその下手人は自ら姿を現した。
地面を砕いて着地した白黒の衣服を身に纏う
「よお
「てめぇは……」
エネドラが目の前の男と戦闘開始前の記憶を照合する。間違いない、ラービットを殺して回っていた男だ。それだけでなくイルガーの群れを叩き落とした犯人でもある。
隊長ハイレインが唯一警戒していた存在。金の雛鳥より一等危険な、黄金の虎。
暴虐に染まっていたエネドラの思考の片隅で、かろうじて残っていた「目的」というワードが鎌首をもたげる。
こいつさえ捕まえてしまえば一掴みいくらの雛鳥など問題にならない。たとえ脱出機能があろうが、逃げた先まで追って捕獲するだけの価値がある。関わるな、とハイレインは命じていたが、捕獲して帰ればそのいけ好かない鼻を明かせることだろう。それは愉快だ。実に愉快な絵面だ。
「ハッハァ! そっちから来てくれるとはな、『黄金の虎』!」
黒いマントをはためかせ、エネドラは般若のような形相で高笑いを放った。
「あ? なんだそのカッコいいあだ名は」
近界民の匂いを嗅ぎつけ、風間が
それを投げつけ、無理やり任務の範疇に近界民を引き込んだのである。
挨拶代わりに
《隊員を捕獲しに来たみたいだし、兄貴のトリオン能力でも観測してたんじゃないの? エラー起きてなきゃだけど》
「《それで黄金の虎なのか……なかなかいいネーミングセンスじゃねーの》」
《…………》
通信の向こうで呆れかえる妹を無視して、大河は眼前の敵の能力を推し量りにかかる。
気を取り直したミサキも現状把握できている情報を開示していった。
《報告によると全身を液体化させる黒トリガーらしいよ。それだけじゃなくって見えない謎の攻撃もあるみたい……まぁ、兄貴にはもうわかってるかもしれないけど》
風間から本部に送られた情報はすでに全ての隊員へと届けられている。黒トリガーと思しき敵の特異な能力、その危険性。
しかしミサキが言うように、大河のサイドエフェクトはより正確にそれを見極めていた。
「《気体化だな。あいつの周りに、あいつのじゃない匂いも広がってる》」
つまりは黒トリガーのものであろう匂い。漂い続けるそれはある程度の操作もできるらしく、隙あらば大河を飲み込もうと広がってきている。
嗅ぎ取った彼が後ろに跳んで距離を取ると、黒い長髪の近界民が怪訝な顔をして叫んだ。
「あ? 威勢よく来たわりに随分と臆病じゃねぇか。オラどうした、かかってこいよ!」
「《コイツ、頭悪そうなやつだな……》」
《兄貴に言われたらおしまいだね》
「《そりゃどういう意味かな、ミサキちゃん?》」
近界民ではなく実の妹から遠まわしに馬鹿にされた大河が不満そうにもらす。
実際のところ豪快なトリガーと大雑把な性格に隠れがちだが、大河も馬鹿ではない。
学業という面では特に優秀と胸を張れるわけではなかったものの、しっかりと作戦や戦略を練るだけの頭を持っている。でなければ単独遠征など城戸が許さなかっただろう。
それに加え、数多の戦場を潜り抜けてきた今では、雰囲気や予感といった抽象的なものにさえ
《さあね。嗅覚情報の視覚化は……要らないか》
小生意気に返した妹はしかし、見事な手際で情報を整理していった。
戦場で戦うのは大河一人。視覚化させたところで邪魔になるだけだと判断したミサキが
もともと風間隊が交戦していた廃屋は消し飛ばしてしまったため瓦礫の山となっている。敵性近界民が吹っ飛んだ先は一般的な民家が並ぶ住宅街だ。砲撃を行うには跳ぶか敵を撃ちあげるかする必要がある。
《ハイドラは位置が悪いかな。あんまり高い建物がないし》
「《問題ない。切り刻む》」
ミサキの勧告に大河が短く答える。
同時に地を蹴り一瞬で黒い敵影の真後ろに回り込んだ大河は、隙だらけのその身を右の大爪で薙ぎ払い、左の尖爪で断ち割った。
ぐしゃりと崩れるアフトクラトルのトリガー使い。しかし油断はしない、敵の反応は――
「ハッ、玄界の猿が! んな原始的な攻撃でオレがやられっかよ!」
ぼこりと湧き立つように瓦礫の隙間から近界民が復活する。今の煽り文句で気を逸らせたと思ったのか足元からブレードが何条も突き立ってくるが、大河は難なくそれを躱していった。
「こんなもんか、前髪パッツン野郎」
「ンだとテメェ!」
軽く言い返したつもりだったのに、黒髪の近界民は酷くいきり立って憤慨した。煽り耐性が著しく低いと思われる。
そんなどうでもいい情報を頭の隅に追いやりつつ、秘匿通信で敵の能力をまとめていく。
「《んー、物理無効ってか? なかなか面倒そうなやつだな》」
《伝達脳と供給機関はどこかにあるはずだけど》
「《だよな。消し飛ばせば早いけどそれじゃあ
ようやく出会えた黒トリガー使いの近界民。大河は換装が解かれた肉体ごと余波で吹き飛ばしてしまうハイドラをあまり使う気がないらしい。
先の「援護射撃」もほとんど爆破の
「《まあ、全身を細切れにしてやればいつかは当たるだろ》」
《……うん、原始的な攻略法だね》
「《はっはっは! ちげーねー!》」
敵の言葉に同調したミサキに笑って返して、大河はまた突進を始めた。
「……チッ、何度やりゃ気が済むんだ? んな攻撃じゃ一生かかってもオレを倒すなんざ不可能だぜ」
何度も何度も細切れにされたエネドラはそう煽りつつも、目の前の敵に妙な圧を感じていた。
あの爪の攻撃は切り裂く範囲が広いため、コアはすでに近場の物陰に隠している。念には念を入れてダミーも複数潜ませ、さらに罠としても分離した一部を地面に潜り込ませているのだ。
その上『黄金の虎』は確実に手に入れたいため、気分を盛り上げる殺し方よりも速やかに抹殺するほうを選んだエネドラは気体化も行い、いつでも敵を殺せる状態にいた。
――否、いたはずだった。
「……ぐっ、この!」
またも爪の一撃を受けて千々に吹き飛ぶ己の身体。だが問題はない。いくら切り刻まれようと『
しかし不可解だ。見えない位置から飛び出すブレードを、見もせずに躱すこの敵。先の三人組の部隊も音だか振動だかで察知していた様子だったが、こいつに至っては
「たりぃなぁ……! 無駄だってのがわかんねーのか!」
全身からブレードを射出して虎を追い込んでいく。盾と爪で弾かれるが構わない。その上から覆うように気体を操作して切り刻めば……。
「ぐおっ!?」
もう少しで王手をかけられるとほくそ笑んだエネドラだったが、虎が放った大砲が上空で炸裂して気体化していた身体の一部が霧散させられてしまった。
厄介な使い手に何度目かの舌打ちをして、されどその回避法をとった敵に対して現状を理解する。
(
間違いなく死角から、無音で攻めたてた手を難なく躱された。どうやらこの敵は先の部隊よりも正確に『
(なんだ……、音はない。形も色もないはずだぞ……)
ましてや匂いなど。トリオンである『
トリオン反応を検知している可能性もあるが、至るところに身体の一部を潜ませているこの戦場であそこまで正確に躱せるはずもない。
「……野生の勘ってか? マジで原始的だなオイ」
未開の地である玄界はトリガー技術が遅れている。遠征艇に同乗していた国宝の担い手ヴィザは発展が目覚ましいと褒めていたが、エネドラにとっては猿が玩具を振り回して遊んでいるようにしか見えなかった。
しかし、この『黄金の虎』は。
切り裂く爪とバカでかい咆哮を放つ大砲。それしか持っていないのに黒トリガーたる己と互角に渡り合っている。姿を消したりするような妙なトリガーもない。猿が知恵を絞るでもなく本当にただ愚直に突撃してくるだけだ。
なのに、殺せない。むしろ押されている気すらする。この、最強の黒トリガーを相手に。
「フザけやがって……!」
歯噛みしたエネドラはまたも突っ込んでくる『黄金の虎』に、
この敵には
……ならば。
(回避もできねぇくらいの一撃で仕留めりゃいい)
「《んー、ぜんぜん当たらん》」
《どっか別の場所に紛れさせてるんじゃないの?》
もう数十回は繰り返したか。漂うトリオンの匂いと濃厚な殺気の中を駆けて敵を切り刻み続けていた大河は、あの本体らしき姿には弱点のコアがないことに気付き始めていた。
ならばどこかに隠しているのか。だが液体・気体化した敵の匂いはそこかしこから漂っていて、さすがの大河も高速で移動しつつ判別するのは難しい。
集中すれば
「《たぶんそうかもな。いろんなところに埋め込まれててちと面倒だが、一か所ずつ潰して……お?》」
そう思っていたところに、周辺の
おそらく全力で攻撃するための下準備だろう。
あの不定形の攻撃は爪で切り払ったりシールドで受け止めても形を変えて追撃してくるため、全力で撃ってくるとなるとまともに受けることができない。回避すればいい話でもあるが、これは好機だ、と大河は足を止めて大きく息を吸った。
「《右の屋内、一階と二階。あいつの後ろの地面。他は
《ん。マーキングした》
位置情報が視界に赤く映し出される。
トリオン供給機関を擁するコアは他よりその匂いが濃く感じられる。しかし隠蔽にはそれなりに気を遣っているのか同程度のものがいくつかあった。その中から三つまでは絞っても、やはり偽装されたものが二つ含まれているだろう。
だが関係ない。まとめて切り刻めばいい。
「くたばれ、玄界の猿が!!」
近界民が叫ぶと同時、津波のような黒い泥の塊が押し寄せてくる。左右と上から包み込もうとしてくる大波は、なるほど速度で回避させない範囲攻撃ということらしい。飲み込まれれば身動きが取れないままミキサーに放り込まれたように体中が切り刻まれるだろう。
大河は内心でほくそ笑みながら、
「っがァあああああッッ!!!」
「な――!?」
張り上げた
「バカな、押し戻され……っ!?」
大河の正面を中心に、津波に大穴が開いて黒渦が吹き飛ばされていく。大砲のものと違い目に見えない爆発はしかし、目前の全てを押しのけ大地と空気を震わせた。
ついには全力だっただろう一撃をトリガーすら使わずにかき消された近界民が言葉もなく突っ立っている様が見えるまでになる。
呆然とした近界民の顔は、今起こったことが信じられない……いや信じたくないといった心情をありありと浮かび上がらせていた。
近界民であろうと常識では考えられないほどの強靭さを誇る強化戦闘体『フェンリル』。
通常呼吸の必要性が薄いトリオン体だが、大河専用のこれはサイドエフェクトを活かすために肺活機能が高められている。さらにトリオン以外で物理的なダメージを受けない戦闘体は強引に外気を取り込むことも可能であり、圧縮された空気の塊は冗談ではなく呼吸だけで人を殺せる殺傷兵器と化すのである。
そしてこの近界民が使う黒トリガーもまた、通常のものより物理的な干渉を受けやすい性質を持っている。瓦礫の
硬質化していたならばともかく、津波のように液体化した状態であれば吹き飛ばすのに武器すら必要ないと大河は判断したらしい。
「そんな、バカなことが――」
「まず一個目」
未だ愕然としている近界民を放置してコアらしき反応があった地点を爪で切り刻む。
手応えなし。ダミー。
続けざまその上階にあった地点にも爪を伸ばす。
手応えなし。ダミー。
「さて……、
「ッ!?」
その言葉にギョッと身体を強張らせた近界民。
ようやくダミーを破壊されたことに気付いたようだ。
……トロすぎる。
「フザけ――――」
「終わり、っと」
ゴパ、とまた泥を湧き出しかけ、しかし掻い潜られた近界民は最後の一つ、伝達脳と供給機関を擁するコアを刻まれてついに沈黙した。
全身が破裂するように膨れ上がり、実際に大きな爆裂音とともに戦闘体が解除される。
トリオン煙が風に流され、あとに残ったのはへたり込んだ丸腰の近界民の姿のみ。
「な、あ……?」
「よお近界民。ようやくお出ましだな?」
出会った時と一言一句同じ言葉が口をついて出る。
そう、大河が用があったのはこの生身。黒トリガーを与えられるだけあって、目の前の近界民からはとても濃い「いい匂い」が漂っている。
――我慢できない。
「はは、くははは……」
弧を描く唇と、ぎちぎちと音を立てて姿を変える爪。何かをくり抜くことに特化させたような形状のそれは、もはやこれから起こる惨劇を言葉より雄弁に語っている。
「てめぇ……」
苦々しく睨みつける近界民。狂喜の声を煽られていると勘違いしているのか。
ボーダーとしては
――我慢できない――
だが大河の思考の中にそんな配慮のようなものは一片たりとも存在していなかった。
だって、「殺していい」のだから。
どうして我慢する必要がある? 最高司令官が「殺していい」と、「殺させてやる」と言ったのだ。それを対価にこの身は首輪を着けられることをよしとした。だから――
いや、違う。破綻していようとそんな"論理的"な言い訳など彼の内にない。
ただいい匂いがするから。
眼前の近界民はトリガーを解除しても馥郁たる匂いを放っている。トリオン能力で言えば上の上、最上級に近い能力を持っているのだろう。木端のトリガー使いなんかじゃありえない、
であれば――そんな獲物を前にして、虎が食事の礼儀作法など守るはずもなかった。
「……あ?」
大河の様子がおかしいことにようやく気付いた近界民。
けれどももう遅すぎた。彼はどれだけ無様だろうと、情けない姿を晒そうとも、なりふり構わず逃げるべきだったのだ。そうすればもう少しだけでも長生きできたかもしれなかった。
長い髪を揺らした近界民が、ゆっくりと近づけられる爪を恐れへたり込んだまま後ずさって壁に背をつける。
「お、おい……」
黒く染まった近界民の眼球は、残酷なまでにくっきりと、輝く爪のシルエットを映し出していた。
「な、まさか……やめ――――」
やがてその瞳は恐怖のみを浮かび上がらせ、
「――――ひゃは」
虎が嗤う。おぞましく、舌なめずりをして。