Ⅲ 氷解
令呪が宿ったことにより、凛の聖杯戦争への参加は確定した。が、今わかっているのはそれだけだ。そもそも凛は、冬木以外の土地で聖杯戦争が行われているとは知らなかった。聖杯戦争を行うには、世界レベルで屈指の霊脈、数十年に及ぶ準備、サーヴァントを呼び、根源に穴を空ける役目も持つ大聖杯、サーヴァントを召喚に応じさせるための万能の願望器・小聖杯等々、気が遠くなるような準備が必要になる。それができるような主だった霊脈は全て魔術協会が掌握していることを考えると、この聖杯戦争は、少なくとも魔術協会に所属する魔術師のどこかの家系が秘密裏に行ってきた可能性が高い。
と、ここまでは推測できたものの……
「開催地がどこか分からないんじゃ、参加のしようもないよなァ」
士郎がため息をつく。
ここは時計塔・現代魔術学科。自分の知識では悔しいけども憶測のしようがないという理由もあるが、一応他の『信頼できる、立場のある人間』に相談しておくべきではないかという士郎の提案により、躬和をルヴィアゼリッタの家に預けた後、今日はここに来た。
コンコン、と凛はドアをノックする。
「私です。遠坂です」
「はい、どうぞ」
よく通る、しかし気難しそうな男性の返答があった。
「お久しぶりです、エルメロイ先生」
ドアを開けた先には、黒縁眼鏡・長い黒髪・上下黒のスーツ・そして当然のように黒の革靴と、黒づくめの服装の初老の男性がひとり、顔をしかめて座っていた。
ロード・エルメロイⅡ世。時計塔にて凛と士郎が教えを請うた恩師である。階級的には現在鉱物学科の副学長までのし上がり、“
「ちょうどよかった。私も君に用があったのでな。どうぞ、かけたまえ」
「はい、失礼します」
促すままに、凛は目の前のソファに座った。エルメロイも仰々しい教授の椅子から立ち上がる。
ここはエルメロイの教授としての部屋である。主に一般業務を行うための部屋で、本棚にはずらりと魔導書が並んでいるが、その棚も含め、応接用のソファや彼の机など、インテリアはかなりの高級品が使われているものと見て取れた。
もっとも、時計塔の教授の私室というのはたいていどこもこんなもので、特に物珍しいということもない。何なら凛の部屋はこれより少し豪華なほどである。
「……どうした。衛宮君……いや、失礼、今は遠坂君だったな。どちらも苗字が同じだと面倒だな……士郎君。君も掛けたまえ」
「いえ、私は結構です。用件があるのは妻ですから」
「何、遠慮するものではない。君たちは等しく私の元教え子なのだから。よって、君には君の妻の隣に座する権利がある」
「……そういうことでしたら、喜んで」
ひと悶着あって、士郎も席につく。話し方が昔よりも丁寧になっているのは、執事という仕事の賜物であろう。
「連絡を先にとったのは先方だが……こちらから話しても構わないだろうか。君たちと同じほどかは分からないが、かなり急を要する話なのでな」
ソファに静かに座るなりポケットの煙草をごそごそとまさぐりながら、エルメロイは問うた。
「ええ、お願いします」
「うむ、すまない……失礼」
『わざわざ』ライターで火をつけて、エルメロイは自慢の葉巻をふかせ始めた。そして、ふーっ、と一息ついて、凛の目を見据えた。
「単刀直入に言おう。君に、アトラス院から召集がかかっている」
「………………え?」
エルメロイの言葉に、凛は耳を疑った。
アトラス院といえば、魔術協会内の三大部門に数えられるひとつではないか。その歴史はこの時計塔より古く、神代(=紀元前)から続いていると聞く。主に錬金術を取り扱う研究者のみが集まった閉鎖的な研究機関だとかで、凛も詳しい事は知らない。何でも、その秘密は二千年以上守られているとか。
だが、それ以上の問題は、その立地にあった。
「先生……今から、私にエジプトに行けと言うんですか」
アトラス院は、エジプト・アトラス山の地下深くに建設されている。大英博物館の地下にある時計塔とは違って、そこへ行くには天然の要害も多少はある。
だがそんなことはどうでもいい。問題は距離だ。イギリスからエジプトまで。……決して、近いとは言えない。英語圏からも外れているし。
だが、エルメロイは無慈悲に、凛の不安を切り捨てる。
「私が言っているのではない。アトラス院からの命令だ。本来これはメルアステアから伝えられる予定だったのだが、私が君と会うと聞いたあやつは、その伝達を私に任せたというわけだ」
「……学長が……」
ロード・メルアステアは鉱物学科の現在の学長で、凛の直属の上司にあたる。何でも先代の学長の死にこぎつけて要領よく今の地位にのし上がったそうで、そう簡単にはその座を凛に……いや遠坂家に明け渡してくれそうにない。凛が鉱物学科に所属してからというもの、その(社会的な)首を狙い続けている魔術師である。
それはさておき、
「用件は分かっていない。極秘中の極秘事項だそうだ。ゆえに残念だが、同伴者は認められない」
「なんでさ!」
士郎が立ち上がった。
「俺は……俺は、凛を守るって誓ったんだ! 何が何でも、俺はついていくぞ!」
人が変ったように、士郎は熱く叫んだ。本来、彼はこういう人間なのだ。礼儀正しい仕草の裏に、熱いものを秘める男なのだ。
そんな士郎を、エルメロイは制す。
「だめだ。これは絶対の条件らしい。もし同伴者を連れて来た場合、出発前の空港の段階で確実に殺害すると念が押されている」
「そんな……横暴な」
士郎は頭を抱えて座り込んだ。
凛が、それを優しくなだめる。
「あきらめて、士郎。あなたは、ここで躬和を守っていて。……なあに、あたし一人だって大丈夫よ! ひとりには、なれっこだから」
「……凛…………」
士郎は浮かない顔で凛を見上げた。だが、やがてあきらめたように首を振った。
「分かったよ。俺は、しっかりと遠坂の家を守る。安心して、行ってきてくれ」
「……ごめんね。よろしく頼みます」
申し訳なさそうに、凛は士郎に微笑みかけた。
「……そろそろいいかな」
「あっ、すみません」
エルメロイが眉間にしわを寄せて煙を吐いていた。
「それで、出発はいつごろなんですか」
「……そうだったな……これも、非常に言いにくいのだが……
出発は、明日だ」
「「明日ぁ!?」」
士郎と凛は、共に目を丸くした。
「ちょ、ちょっと待って下さい! あたしも、心の整理がつかないっていうか」
「そ、そうですよ! いくらなんでも急すぎませんか!」
「私もそう思ったのだがな……こればかりは仕方がない、先方の指示だ。
費用は全て先方が負担する……というより、先方の所持している飛行機で行くらしい。ホテルなどもすでに先方の所持品を予約済みだそうだ」
「はあ……そうですか……」
もう、この程度の感想しか出てこない。何だ、この急展開は。朝に令呪が現れたと思ったら、今度はエジプトに行けだなんて……。
「以上でこちらの用件は終わりだ。せいぜい急いで準備することだな。……それで、そちらの用事というのは?」
「……そうでしたね。実は、これなんですが」
一拍置いて、意を決したように、凛は手袋をしていた右手をエルメロイの前に差し出し、手袋を外した。
「……これは……」
「ええ、令呪ですわ。加えて、アトラス院からの突然の召集……これでもう、全て氷解しました。
――エジプトで、聖杯戦争が行われる」