強烈な爆音が鼓膜を叩く、反響が骨に染み渡り全身を揺さぶった。遅れて反動が、肩に食い込んでくる。
引き金を引いたその瞬間、このミッションの達成を確信した。弾丸は誤たず標的の心臓を粉砕する、その未来が見えていた。気づかれぬように潜伏してきた苦労の全てが、報われる瞬間。
それは決定事項の……はずだった。
「―――ッチ。外した」
スコープ越しに見せられた映像、そのあまりの不出来さに舌打ちした。
標的は生きていた。撃ち抜く寸前に、向かいに座っていた男に気づかれ庇われた。飛び込みながら盾になり、隣の机椅子を巻き込みながら射界から逃れた。銃弾は標的にかすりもしていない、完全に的を外してしまった。
(クソッ! 予測線でも出てたっての?)
予想外の反応の良さに、現実のことながら我が目を疑う。まるで撃つ前に、こちらの位置が把握されていたかのよう、そうとしか考えられない咄嗟の判断だった。なぜ私の居場所がバレたの……。
(それに、あの倒れ方も不自然だった。ココから狙ったのならどうやったって、胸は狙えないのに……)
ちょうど窓枠が邪魔になって、心臓部分が隠れていた。ヘッドショットにすると決めていたので気にはしていなかったが、ソコが穿たれた現状に焦る。震えそうになった。一体どうして何が起きた、何に巻き込まれたのか―――。
でも、すぐさま狙いを定め直した。疑問は全て棚上げ、もつれて倒れた場所に銃口を向ける。今は冷静に、冷静に状況を把握することが優先だ。
ふたたび、舌打ちを漏らした。眉を顰める。
もはや次の銃弾は放てなかった。貫通弾でも抜けない。窓から退避させられ人壁が遮っていた。驚くほど迅速な対応だ。まるで、このような暗殺には慣れているかのような迷いのなさ、身を挺してガードしている。
ほんの数秒、迷った。撃とうか撃つまいか逡巡、人差し指が引き金から離れることを躊躇っていた。どうにかして撃ち抜ける隙間がないかと探ってみた。このまま失敗するのは、どうにも頂けない……。
だけど、どこにも隙はなかった。二度目の狙撃は不可能だった。対象が完全に視界から消えた。
そのことを確認すると、すぐさま撤退の用意にかかった。気持ちを切り替える、切り替えなければならない。
狙撃銃を速やかに解体、偽装のためのバイオリンケースに収納。排出された空薬莢を回収、指紋がつかないように注意しながら空の紙袋の中へ。続いて、指紋を残さないための革手袋と拡張現実を提供してくれるバイザーを取り去り小型の無線イヤホンだけ残す。目立たないようにするための黒のジャンバーとニット帽を脱ぎとってしまう。代わりに、いつも身につけている学生服に着替え落ち着いた色のカーディガンを羽織る。ついでにメガネも。こんなことしそうにない文学少女ないつもの私に変身する。……自分がそこにいた痕跡を跡形もなく消していった。
荷物と身だしなみを整えたあと、ケースの中に閉まっていた大切なモノを取り出した。もしもの時、敵が接近してきた時に使う鋼鉄のお守り/精神安定剤。ズボンの後ろ、上着と背負った時ケースで隠れるような位置に押し込んだ。
支度を終えると、屋上の扉を抜け階下へと早歩き。非常階段をカンカンと音を立てながら降りていく。もう少し慎重に自然な振る舞いをした方がいいのだが、高ぶっていた鼓動を抑えきれない、一刻も早くここから離れたい衝動を抑えきれなかった。こんな狙撃/暗殺作業など何十回とこなしてきたのに、生まれた時から見慣れすぎた風景であるだけで落ち着かなくなる。緊迫感で周りが見えなくなっていた。
目的の階まで駆け下り中への扉に手をかけようとすると、耳元で着信音が鳴った。初期設定のままの簡素な音色。
手を止めて、通話ボタンを押す。誰からかかってきたかは、明白だった。
『おい、シノン! どうなってるんだ!?』
「失敗した」
聞き慣れていた同僚の声に短く、苛立ちを隠しきれずに返答。調子はまだ冷静だっただろうが、余裕がないことはすぐに察せられてしまう。
毒づきたくてたまらなかった。この沸いた頭を掻きむしりたい。すぐにも連絡を送るべきだった。こんなことにも気が回らなくなるとは……。でも、そんな動揺は微塵も見せない。
『失敗!? 撃ち漏らしたのか? そいつはどうい―――』
「こっちは撤退する。アナタたちも撤退して」
相手が驚いている隙に指示を押し込んだ。
「何言ってやがる、殺るまで終われな―――」ブチリッと、一方的に通話を切った。一応は忠告した、もう奴に付き合っている暇はない。非常階段を駆け下り続けた。
そして、2階までたどり着くと扉を開けた。―――そこは、人で賑わうクラシックな空間が広がっていた。
天井は通常のビルの4階分はある吹き抜け構造で、外壁はほぼ透明なガラスとなっている。そのため陽の光が満遍なく降り注ぐ明るい室内だが、内装は煌びやかとは縁遠い落ち着いた雰囲気を醸し出している。全体で円形状の大筒を形作っている内壁は、触ってみるとザラザラとしたレンガを一部の隙もなく積み重ねられたもの。床には、どこぞの大図書館にも使われるような落ち着いた色のタイルカーペットがモザイク模様で引き詰められている。上層への階段や通路の手すりには淡香色、黄みの明るい灰黄赤な大理石が使われている。
コンサートホール。それも、アイドルがライブを繰り広げては皆でバカ騒ぎする場所ではなく、荘厳なオーケストラをゆったりとした雰囲気で聴きいる場所。それに相応しい大伽藍、その前庭のエントランス。一人ならその物々しさに圧倒されてしまうのだろうが、今はその空間の大部分は人で埋め尽くされている。ザワザワがやがやと、素晴らしく豪華な夢に期待を膨らませながら、続々と会場へと入っていた。
その人混みに紛れる前、不自然にならないようにして周囲を確認する。
(……周りには怪しい奴はいない。これなら―――)
そこに屯しているのは、この場に相応しいような紳士淑女と随伴の子供、それにチラホラと学生の集団と雑多だ。でも、皆の注意は先にある会場だけ。差し向けてくるであろう追手らしい人物は、どこにも見えない。違う方向に注意を向けている人物は、見えなかった。
小さく安堵の吐息を漏らすと、ニヤリと薄く口元に笑が浮かびそうになった。
安全は確認された、まだ追手は来ていない。私の居場所を特定しきれていないみたいだ。そのことにほんの少しだけ、落胆を隠せない。あれだけの反応を見せた集団なのにこの体たらくとは……、腑に落ちない。どうにもチグハグだ。
でも今は、逃げるほうが先だ。浮かんできた蟠りを解くよりも、自分の安全を確保するほうが先だ。
瞬時に気持ちを切り替えて、人混みに紛れようとした。だけどその寸前―――
―――ドクンッ……。
心臓が跳ね上がった。
首筋がチリチリと総毛立つ。突然舞い降りてきた悪寒に身震いさせられた。
嫌な予感がする……。こういう感覚が起きた時はいつもそうだった。間近にやってくる危機、ソレを感じ取ったレーダーが警告してきた。何か見落としているかもしれない、致命的な何かを、このまま見過ごせば私は……。
不安に駆られて、もう一度周囲を見返した。……見返してしまった。
そこで見たのは、ある一人の男の姿。
肥満でも痩せすぎでも、どこにでもいる中肉中背の中年。顔に傷があったり髪型が乱れていることもない、ノリの効いた服装にも目立つところも乱れもない。清潔にキチンと着こなしている。コレといった特徴のない30代の普通の商社マン。この街のこの時間帯なら、混雑しているインターセクションに小石を投げれば当たるような、どこにでもいるサラリーマン。それは、このエントランスの中でも違和感を感じさせない。
でも、そいつだった。見た瞬間先の感覚が蘇った、さらに強まりゾッとさせられた。悪寒の正体はそこからだった。そいつの何かが、自分の注意を引いた、命の危機だと訴えてくる。
危険だと分かっていながらも目をそらせない。いや、今更逸らしたら怪しまれてしまうからもしれない、身動き取れない……。どうにもできず逡巡していると、ようやく思い出した。
(アイツは確か……、ターゲットの護衛の一人か!?)
特徴のないその男は、いつもターゲットを見張っていた男だった。思わず、奥歯を噛み締めた。
この男の責で、ターゲットへの接近が極めて難しくなった。半透明でわかりづらく目を逸らせば消えてしまう幽霊みたいな奴だった。そのくせこちらの敵意を的確に潰してくる、嫌な障害物だった。居るだけでこちらの集中力の大半を持っていかれた。離れたスコープ越しでも、こちらの存在に気づいているのかもしれないと何度も肝を冷やされた。彼がそこにいるだけで、的中の確信を持てなくなってしまう。何としてでも、ターゲットの側から外さなくてはならなかった。
幸運は、思いもよらない形で舞い込んできた。今日の朝、ターゲットが突然彼に接触した。そして、護送などという目立つ行動を取らされた。護衛対象に気づかれてしまい、彼の注意力が損なわれることになる。私への警戒に避けなくなってしまった。
チャンスだった。動揺が持続するであろう今日だけが、警戒態勢に隙ができるはず。あの男の牽制がなければ、このミッションは確実に成功させられる。運営の許可が下りることを祈りながら、今日この時を待っていた―――
その男が今、視界に収まっている。距離にして十数メートルといったところ、間に人混みがなければひと目でバレてしまっていたかもしれない。それだけ緊張が露わになり、全身が硬くなってしまっていた。そしてそれは、彼に向けた視線にまで―――
男の目が突然、こちらに向けられた。
(―――やばい、目があった!)
光も色もない虚のような目が、こちらを見ていた。……捉えられた。
反射的に目を逸らした/逸してしまった。余りにも不自然な行動。やってしまった後で気づき、顔が青ざめた。奥歯を噛み締める。なんて馬鹿な真似を……。
でも、もう遅い。失敗に呻きそうになったが、なんとか耐えた。焦燥を喉元でせき止める。冷静に平静に、普段通りに振舞わせた。そして、すぐさまかここから出口へと向かう。走らないように、でも急ぎ足できびすを返した。
男から離れていく、人混みに紛れていく。このまま外に、安全な逃げ道へと出ていこうとする―――
でも、首筋には嫌な感覚が張り付いている。ピリピリと痺れながらも貼り付いていて、剥がせない。そのおかげで、心音が嫌に鼓膜を打つ。背中と脇から、じっとりと冷たいものが溢れ出てきた。
振り向かなくてもわかった、いやでもそれとわかる/わかってしまう。
(追ってくる……、気づかれたか)
男の気配が、先よりも濃密になっていた。注意がこちらに絞り込まれていく。
まだ私を特定していないのかもしれないが、時間の問題だろう。それもあと数十秒、いや数秒後には必ず悟られる。男が私に追いついた時には、その手が私に触れた時にはもう……終わる。
「どうする、どうする、どうする―――」
焦りから小さく呟いていた。心臓がバクバクと、破裂しそうな勢いで暴れていた。頭が真っ白になり何も考えられない。
どうしてこうなった……。何が間違っていたのか省みる。私は何か、ミスを犯してしまったのか、どこで道を間違えた……。
いや、違う! そんなことはない、今そんなことは関係ないッ!
空転していた思考は放棄、今は必要ないものだ。そんなものに費やす暇はない。やらねばならないのは、今この状況を打開する策。張り付いている追手を振り切るためにすべきこと。今すぐにでもできる、最も効果的な方法。この場を生き延びるために必要なことだ。
考えろ。考え尽くせ。何かあるはず、何か、何か、何か、何かが―――……。誰か何かを―――。
“―――ソレは君の本質だ、拒絶するよりも受け入れることだ”
脳裏に駆け巡った走馬灯の先、思い出されたのは、アノ人の言葉。
『あの事件』の後、迷って壊れそうになっていた私を救ってくれた人、鼓膜を突き破るような銃声とともに告げられた導き……。
すると不意に、指先が何かに触れた。
硬く冷たい何か、手のひらよりも大きい金属製の何か、ズボンの後ろに押し込んでいたもの。今日の狙撃には必要ないものだけど、大事な時にはお守りとしていつも持ち歩いてきているモノ。
その瞬間何かが、流れ込んできた。私を縛り貶め飼い慣らそうとする恐怖を、洗い流していく―――
ソレを握った。強く確かにしっかりと、握り締める。
もう何百回とそうしたため、すぐ手になじんだ。私が今の私となった契機、弱い今までと決別した証、勝利と栄光をもたらす力―――。私を奮い立たせてくれる。
浮き足立っていた心がふと、落ち着いた。荒立っていた鼓動は鎮まり、全身の緊張もほどけてくる。
そしてピタリと、立ち止まった。逃げずにその場に止まる。もう心は決まっていた。
(……やってやるわ。さっきだって出来たんだ。邪魔者は全て、コレで―――)
男の足音だけに集中する。握ったモノを見えないようにして取り出す。確実に当てられる間合いまで踏み込んだら、振り向きざまに仕掛ける―――
チャンスは一度きりだ。接近戦は得意じゃない、VRと違って勝手ができなここではなおさらだ。けど、初エンカウントの先制攻撃ならば勝機はある。それに周りの人ごみ。始末を終えて騒ぎが起こったら、その隙に逃げ出せる余地ができる。他に追手は見えない以上、彼さえ振り落とせば逃げ切れる。
そこまで考えると、苦笑いが零れた。どうしてこんな単純なことに頭を絞らなくてはならなかったのか、迷っていたのがバカバカしい。我が事ながら恥ずかしく可笑しくなってしまう。
タン、タン、タン、タン……。革靴が床を叩く足音が、近づいて来る。背中でソレを感じ取った/それだけに集中していた。もう男は射程内に……、踏み込んだ。
振り返る、持ち上げる、構える。同時に狙いをつける。あとは引き金を引くだけ―――。すべてを滑らかな一連の動作としてつなげる。この男と対峙した時には現れてくれなかった的中の予感が、今はしていた。その確信に従い振り返る。
だがその寸前、横手から伸ばされた手に止められた。肩を掴まれた。
「―――よぉ、遅れちまったかシノ!」
軽薄そうな男が、私と追手の間に割り込んできた。
第一印象とは裏腹に、フォーマルな格好と容姿。この場所に相応しい黒のスーツを、少し着崩しながらオシャレに着こなしていた。外見は、ヒスパニック系の特徴を色濃く持った日本人離れした美形の青年で、どこぞの大企業の御曹司か若きハリウッドスターにも見える。
ただし、それは外見だけというのは正しいだろう。青年が纏う雰囲気、特にその瞳は、富める者特有の落ち着きと呑気さか親の七光りを後ろに背負っている傲慢さは欠片もない。蠱惑的な魅力を兼ね備えてもいるが、底辺から這い上がって奪ってきた者の猜疑心に満ちたほの暗い情念で凝り固まっている。それはニヤケ面と二枚目顔で上手く隠しているが、間近で見るとその偽装が明らかになってしまう。……あまりお近づきになりたくない人物。
当然のことながら、面識などない。今初めて会った人物に声をかけられて、動揺を隠せなかった。
「……誰―――」
「話を合わせろ【シノン】。奴の目を逸らす」
不自然にならないように近づけた耳元で、男が囁くように言った。
どうして……。その言葉に目を見張った。どうしてその名前を知っているのか、現状を把握しているのか……。睨みつけそうになったが、寸前でこらえた。
追手の男が目と鼻の先にいる。もはやこの状況では先の行動は無意味だ、乱入してきた男が邪魔で不可能になってしまった。
不完全燃焼で胸の内側が焦がされるが、ギリギリ理性が上回った。それを表に出すのはダメだ、気づかれてしまう、今はもう堪えるしかない。
全精力を傾けて平静を保った、怒りを封じ込める。出てこようとしていた罵倒を全て飲み込み、代わりに睨みつけた。
「時間通りにきたつもりだったが、相変わらずお前はいつも早いな」
離れるとそこには、先ほどの口元の歪みはなかった。いたって普通な、ほんの少し悪ぶってる美形の青年の笑顔。まるで友人か、それ以上の恋人に話しかけているかのような演技……。
何か言ってやったほうがいいのだろうけど……、黙る。邪魔されたことの怒りを飲み込むことに力を注ぎ続けて/追手が気になりすぎて、それらしいセリフも思いつかない。……無言の責めを演じた。
「さぁ、行こうぜ。コンサート始まっちまう!」
「ちょ、ちょっと何を―――」
「リラックス、リラックスだ。……そんな睨みつけてないで恋人らしく振る舞えよ、シノンちゃん」
馴れ馴れしく肩に手を回してくると、強引に会場へと促してきた。
男は慣れた手つきで余裕の表情。この危険な現状を楽しんでいるフシすら見られる。
……ここは流れに任せるしかない。促されるがままに会場へと歩を進めた。
「……それでいい」
男は私の様子を流し見ると、口元の笑みを深めた。
そうして自然に/さりげなく、追手の男から離れていった。警戒網から脱する。
その演技が功をなしたのか、追手の注意が私から逸れていくのがわかった。首筋に張り付いていた嫌な感覚も薄まっていく。その視線が別の人へと移っていったのも、目の端で捉えた。……ほっと一息、安堵のため息を漏れた。
遠ざかった先/会場の中、扉を抜けるとそこは、視界に収まりきらないほどの大伽藍。大都会のど真ん中とは思えない巨大なコンサートホールの威容があった。
ガヤガヤざわざわと客たちの声。余りにも雑多であるため分別しきれないが、私と同じ高校生たちのお喋り声がそこかしこで聞こえてくる。……どこの金持ちか知らないが、初めての場所での反応はあまり変わらない。
まだ開演前のはずだが、すでに客席は半分ほど埋まっていた。エントランスの混み具合からも満席近い動員があるのだろう。なんの演目かは忘れてしまったが、このご時世でこれだけ集客できるとは恐れ入る。
「色々と聞き出したいだろうが、今は人の目が多すぎる。安全な場所まで堪えてくれ、マイスウィート」
客席を縫いながら、私を宥めるように言ってきた。淑女をダンスに誘う紳士さながらに、お姫様をエスコートする騎士のように……、最後にウインクまで付けて。
内心げっそりさせられると、周囲の方は違う反応を返した。
一見すると美男子な男。そのスマイルが目に止まると、チラチラとこちらの様子を伺っていた女性たちが、キラキラとした眼差しを向けてきたり黄色い歓声を上げそうになったりしていた。あるいは、そんな女性たちの様子を見てイライラと焦りを募らせている男性たちの負の感情も。様々に渦巻く人ごみを、まるでレッドカーペットの上を歩くかのように、悠然と前に進み続けていった。
その隣にいる私はといえば、皆のご期待に添えるようなゴージャスな美少女ではない。いたたまれない気持ち1:追手の注意が戻ってくるかもとの不安2:隣の男ウザいとの最悪な気分7だった。仕方がないこととは言え、今のところ好みの真逆にいる男と隣り合って歩いている現状に苛立ちが爆発寸前だった。それは、追手から遠ざかれば遠ざかるほど耐え難いモノになってきていた。
そして今、その追手は完全に視界から消えていた。
「それなら、いい場所があるわ―――」
男の手を引く。男が行こうとしていた場所とはま逆の方向に。
「おい、寄り道してる暇はないぜ」
口では注意しながらも面白がっている男を無視して、横手にある重い扉を抜けた。人通りの少ない小道へと出る。
そこから「こっち」と手を引き続け奥に進む。この建物の屋上を狙撃ポイントにすると決めた時、内部の地図はずべて頭に収めていた。
ズンズンと進んだ終点、さらに奥への小部屋と続く岐路の前、壁には青と赤の人型のマークが二つ見えた。男性用トイレと女性用トイレ。その一方、男性用の方へ迷いなく入る。
「……おいおい、こっちは男用だぜ?」
「そうね」
呆れながらも事の顛末を知るために従う男に、素っ気なく答えた。
不幸なことに中には、数人の先客がいた。皆壁に向かってことをなしている最中、あるいは終えようとしていた。だけど私たちが入ってきたのを見て、たぶん特に私を見て、何かを隠すように心のなしか壁に寄りかかり硬直していた。慌てふためいて落ち着きがなくなっている……。
そんな彼らを一望して、ちょっと迷った。彼らを追い出したほうがいいのか否か、後処理を考えるとこれからすることを知られたら……。めんどくさいのでそのまま無視することにした。どうとでもない。
男たちの横を素通りし、奥にある空いている個室の扉を開いた。そして、その中に男を投げ込み私も入った。二人一緒に入ると、後ろ手でカチャリと鍵を閉めた。
窮屈な狭い場所に二人、男は立っていられず洋式の便器を跨いでいた。
私の方はといえば、肩にかけていたバイオリンケースを床に置き背中に手を回した。ズボンの背中に隠し挟んでいるものを取り出すために。重かったので肩をほぐすことも忘れずに。
そして、ソレを取り出すと同時に、男を後ろにポンッと押した。それでよろめいたわけではないが、たまらず便座の上に座る形となった。……蓋が開いているそこへ。
どういうわけか、無理やりここに連れてこられ閉じ込められたというのに、男はニヤリとしたり顔で笑う。準備を終えて近づく私に、何やらネットリとした視線を這わせてくる。これから起こるであろうことに胸をふくらませて、ギラギラとした感情を隠すことなく向けてきている。
「オオォっと! こいつはちょいっと、いきなりすぎじゃない……か―――」
だけど、鼻の下を伸ばしかけていた男は、その緩みを正した。私が男の額に突きつけた、硬くて冷たい丸い細筒を見て。
男の額に、銃口を貼り付けた。
「―――名前は?」
短く要求を告げた。
だけど男は答えず、寄り目になりながら貼り付けられたものを見つめる。
「……
「威力は充分だけど、試してみる?」
「ココでか? ……冗談だろ?」
「そうかしら―――」
カチャリと、セーフティーを外した。
現代の日本で銃は、恐喝の際に用いる暴力の手段として、あまり馴染みのないものだろう。銃を額か心臓に向けられたとしても、どういった意味を持つのか一瞬迷う、これは現実なのか夢なのか。当たり障りもない妥協点として、テレビ番組のドッキリか映画の撮影か何かだと思ってしまうものだ。この細い鉄筒に、頭蓋骨を粉砕し中の脳みそをグチャグチャに攪拌したあと辺り一面に撒き散らす力があるなど、実感できない。ナイフとかカッターとかホッチキスのような原始的な刃物の方が、まだ実感しやすい。ソレは、銃弾以上のRPG弾やミサイルなどが飛び交う
でも今時のVR技術は、昔に比べるととてつもない進歩がある。ダイブしたそこが現実か作られた夢の中なのかどうか、一瞥では判別できないほど。五感全てを騙してみせる再現度を誇っている。それだけのリアリティを人間に提供できる。現実で起こるであろう物理現象の有様、現実で起こさなくてはならない所定の準備動作を感じさせてくれる。だから、同じく銃の世界を生きているであろう目の前の男なら、コレとこの行為の意味はしっかりと伝わるはず。
あと言うべきことは、理由だけ。なぜ脳みそがぶちまけられなければならないのか? 彼が犯したタブーだけ。それだけ教える。
「私、自分の仕事にケチつけられるのと横槍入れられるのが我慢ならない性なの。それも、『手を貸してやった』とか思ってる恩着せがましい奴は、特にね」
言いながら、額に押し付けた。
男はといえばそんな私を見て、引きつった苦笑いを浮かべていた。驚いたなり呆れるなりビビるなり、ヤバイなコイツと。あるいはこれハッタリかなでも思っているのだろうか。ことこの期に及んでのそのアホ面には、少しだけ感心した。
「……さっきのはヤバかったと思うけど?」
「必要なかったわ。自分で対処できた」
「その黒星でか? そいつは……、『対処できた』とは言えない方法だぜ。下策てやつだな」
「これが一番いい方法よ。特に、お喋りを黙らせるにはね」
でも、ウザったいことには変わらない。私のタブーを破ったことには変わらない。それを思い知らせる/現状を思い出させるように、額の上で銃口をグリグリした。
その主張に男は、笑こそ絶やさなかったが口は閉ざした。
「なんで、私の仕事を邪魔したの?」
「おせっかいを焼いただけだったが、そんなにまずかったか?」
「……もう一度だけ言うわね。なぜ、私の獲物を横取りしたの?」
問い直すと男は、眉を上げて私を見た。私が気づいていたことを察した。―――コイツが先に、ターゲットを狙撃したことを。
目を眇めながら、事の真偽を見定めてきた。本当に気づいたのかブラフなのか、別の意味なのか……。結論を出すと、肩をすくめた。
「お前だけの獲物じゃないだろ? 俺もプレイヤーの一人だ。チャンスがあったからやっただけだよ」
「それにしては、タイミングが被りすぎてたわね」
「お前らの通信を盗み聞きさせてもらったからな、ちょうどいいと思っただけさ」
「だったら、私に任せれば良かったんじゃない?」
「俺の方がいいポイントにいると思ってた。確実にやるなら俺の方がいいともな」
「だったら頭か心臓を狙うべきだったわね。アレじゃたぶん……、生きてるわ」
「ソレも含めて俺のミスだな。ホント、お前に任せれば良かったかもなぁ」
「私がやってたらターゲットは死んでたわ。それじゃ困るんでしょ、運営的には?」
「……なんだって?」
「わざと別人を狙い、しかもギリギリ殺さないようにする。そんなデリケートな作業をシロートの私たちに求めるなんて無理、自分たちでやった方が確実。私たちは精々、アナタを逃がすための捨て駒として使うのが無難」
目をパチクリさせると、へぇーと感心したように口の端を歪めた。
私たちは捨て駒だった。もらった『力』に浮かれて舞い上がって、こんなヤバイ仕事に手を染めた脳タリンだった、社会不適合者の集まりだった。だからだろう、それに見合う仕事が用意されていた。
腹の立つ事実だけどしょうがない、私が運営ならば同じようなことをする。後で改めてもらわねばならない評価だけど、今は仕方がない。だから問題は、その理不尽をどう消化してみせるかだ。
「……だとしたらだ。今の俺の、お前を助けた行動の説明は?」
「逃げきれなかっただけでしょ、アイツから? 私を利用して注意を逸らした」
図星だったのだろう、私の指摘にぴくりと眉を動かした。余裕を浮かべていた顔が少し固くなっていた。
勘違いしていた。自分が狙撃犯だと認識していたからつい、追跡者の目を気にし過ぎてしまった/ソレが自分にだけ向けられているとばかり錯覚してしまった。彼はただ、視界に映る全ての人間にその可能性を留保して眺めていた。潜水艦のソナーのようなものだった。だから引っかかってしまった、私も目の前の男も、センサーが過敏になっていたがゆえに囚われてしまった。
そして、ほかの無害な一般人ではなく私を/狙撃の容疑者を選んだ理由は、咄嗟に口裏を合わせられる相手だったからだろう。あるいは、もし追いつかれ捕まりそうになった時の保険、トカゲの尻尾切りのためだろう。……どんなものであれ、ろくな理由ではないはず。
だから、是正する/しなければならない。取り敢えずは対等になる。そのためには、自己紹介は必須だ。
「これが最後よ。アナタの名前は?」
もはや殺る気満々の私を見て男は、固唾を飲んだ。黙らされた。すぐに答えずだんまりを決め込んでいる。
まだ取引の余地がのこっていると思っているのだろうか、あるいは自分の窮状を認識しきれてないのだろうか、逆転の機会が何処かにあると探っているのだろうか、やれるわけがないとタカをくくっているのか……。必死に考えを巡らしていた、確かな何かを掴もうとしている。顔からは完全に余裕の笑みが消えていた。
だがもう、手遅れだった。警告は終わった。……時間切れだ。
「……サヨナラ、どっかの誰かさん―――」
そう言って満面の微笑みを浮かべた。額に押し当てていた銃口を外す。
それで男が気を緩ませるのを見て取ると、今度はソレを下の方に向けた。胸から腹を通ってなお下の足の付け根へ、そこにあるであろう二つの大事なタマへ向けて、こちらのタマを弾き出そうとした。ビリヤードのように弾き飛ばす。
男の顔は初めて、恐怖で引きつった。何をするつもりなのか瞬時に理解した。怖れがないまぜになった懇願の視線を向けてくる。だけど私の心は、穏やかで揺るぎない。決定は覆さず、引き金にかかっていた指に力を込めていく―――
「オーライ、ストップストップ!? 話すからそいつはやめてくれッ!」
男のの悲鳴、救命の懇願。声が裏返っていた。
ギリギリで、引き金を止めた。やっとこちらの真摯な気持ちが伝わったことに、ちょっとだけ安堵した。でも、銃口はそのまま。
「……シット! 兄弟め、ここまでイカれてるなんて聞いてねぇぞ!」
それまで蓮っ葉な言葉使いよりもひどい、下品な様。虚飾が剥がれ落ちたかのようだった、彼自身の本性だろうか。若いヤクザか何かのような獰猛な唸り。ここにはいない何者か/『兄弟』に対して、怒りをぶつけていた。
一通り吐き出すと落ち着いたのか、こちらに向き直った。
「―――ヴァサゴだ。お察しのとおり、運営から今回の汚れ仕事を任されたプレイヤーだよ、このクソ尼」
彼なりの最大限の苛立ちを込めて、言った。優男然としていた美形の顔を歪ませながら/血濡れたナイフのような悪相を露にしながら。
一言多いと、注意してあげようとしたがやめた。私は、そんなことで目くじらを立てるような心の狭い人間ではない、一応は答えてくれた。
セーフティを戻すと、銃口も外した。
長々とご視聴、ありがとうございました。
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