菊岡さんの言葉が、頭の中で反響した。
アスナを助けられる、アスナを助けられる、アスナを助けられる!
今まで何もできなかった、何をすればいいのかすらわからなかった、ただ足踏みしていただけ。ようやく、道が開けた。迷う必要なんてどこにもない。
だったら―――
喉元まででかかったモノを、ぐっとこらえた。奥歯を噛み締めながら、引き結ぶ。
でも/だからこそここは、引かないといけない。ただその場の勢いだけで頷くこと、重要な交渉では一番やってはいけないことだ。……目の前の相手を、完全には信用できないのなら。
腹の内を完全に隠しきると言った。
「―――あんたと話すことはない。冗談は顔だけにしてください」
言い捨てるとそのまま、立ち去ろうとした。
案の定、菊岡さんの顔に驚きが浮かんでいた。だがすぐに引っ込めると、確かめるように煽ってきた。
「アスナさんを助けたくないのかい?」
「助けたいさ、今すぐにも。でも……、あんたは信用できない」
敵意全開にして睨みつけながら言った。俺にはアンタの腹の内はわかっていると、下らない嘘で騙してくれるなと。
俺の視線に慌てた装いをしながら、真逆の余裕な内心をみせてきた。
「おいおい心外だな。僕が君に一体何をしたって言うんだい? 害なんてこれっぽっちも与えていない、むしろ守ってあげているだけじゃないか」
「だったら、俺の足に嵌っているコレ、今すぐ外してくれますか?」
戯言を無視して、代わりに裾をめくりあげて見せた。彼ならそこにあることはわかっていただろうが、あえて見せつけた。
足枷。俺の保護と称して嵌められた、どうやっても取れない頑丈な枷。今は冬でズボンで隠すことができるので、日常生活にあまり支障はおきないが……、それでも。いつでもどこでも寝ている時でも、見知らぬ誰かに監視されている不愉快さに苛まされる。まるで、知らぬ間に虜囚かモルモットにでもされたかのようで、嫌な気分だ。
「……不便を強いていることは謝るよ。見栄えもよろしくないしね。でもソレは、君を守るために必要なものだ。今取るわけにはいかない」
「ほら、やっぱり信用できない」
真面目な返答に若干驚かされるも、外さないのなら結局同じ。信用できない。
もはや彼に用はない。
「行こうスグ」
「う、うん……」
菊岡さんに向けるのとは正反対に、柔らかく促すと直葉は、恐る恐る後ろに従った。
横を通り抜けようとすると、させじと遮ってきた。
「……話を聞いてもらうだけでもダメかい?」
「知ったら最後、抜け出せなくなるんでしょ? あんたの思惑から」
俺の指摘に眉を上げる菊岡さんは、そのまま無言を返してきた。肯定とも否定とも言わない、そちらのお気に召すままに考えればいいと。……正解だと言っているようなものだ。
そのまま無視しても良かった。わざわざ危険だと教えてくれたのならなおさらだ。でも……、このまま無視すれば引き下がったような気がしてならない。嫌な未来像が見えた。
家に帰っても悶々とこのことを思い出す。せっかくアスナを助けられる方法があるのに、むざむざ否定するなんてどうかしている/そんなに自分の身が可愛いのかと。ソレに耐え切れなくなったら今度は、俺の方から菊岡さんに願うことになる。こちらが間違っていたと/ただのガキの癇癪だったと、頭を下げる……。
その考えと映像が脳裏に浮かんでくると、立ち止まっていた。そして再び、向かい合った。
「俺は、アスナを助けたい。そのために何があろうと、ほんの少しでも可能性があるのならソレに賭ける。俺だけじゃどうにもできないのなら、誰かの手だって借りる、土下座してでもな。でもそれは、アンタのじゃない。
裁くように/突き刺すようにして、言った。
それが、菊岡さんを信用しきれない根源だった。どうでもいいと思っているのにどうにかしようと提案してくる矛盾、俺の「アスナを助けたい思い」を利用しようとするかのような詐術、偶然を装ってアスナが眠っているこの病室で仕掛けたことも怪しい。その嘘に隠れたモノが何なのかハッキリと分かるまで、俺は彼を信用できない。……助けるつもりで追い詰めている。なんていうフザけたことが万が一にも起きないように、主導権を握らなければならない。
「……それは、少しばかり言いすぎだよ。
僕だってアスナさんを助けたいよ。いや、彼女だけじゃない、未だとらわれているプレイヤー全員をね。それは僕の職責でもあるよ」
「嘘だな」
バッサリと切り捨てた。
「その職責とやらは建前だろ。もしアンタらが本気でそう思って行動してくれていたのなら、いまこんな状況にはなっちゃいなかった。アンタらの管理下で公然と、一万人の植物状態の人間を
そして、ハッタリをぶちまけた。劣勢と感じさせられている以上、賭け金は高く積まないといけない/積まれているように見せかけないといけない。
こちらの思惑通り、菊岡さんは眉をしかめた。
「何を言い出すかと思えば……、下手な陰謀論だね。マイナーなオカルト雑誌なら飛びつきそうな言いがかりだ」
「確かにそうですね、そうあって欲しいですよ。家族の面会
俺の指摘に、菊岡さんよりも直葉の方が大きく反応した。その事実に不穏な空気が臭ってきたのだろう、オロオロとしていた顔に別種の不安の色が差し込んでいた。そして、ためらいながらも菊岡さんを見上げた。
その不安を強固なものにするために、さらに煽り立てた。
「死んだ213人。彼らは、あのデス・ゲームの中で殺されたんじゃない、友人や家族の手で殺された。
看病してくれていた。身動きできない俺たちの代わりに体を動かして、こちらの世界ではどうしても出てきてしまう排泄物を処理してくれて、戻って来れるよう毎日声をかけ続けてくれて、延命させ続けてくれた。ただそれだけ。……俺も戻ってきたばかりの頃は、そう思っていた。
でも、よく考えてみたらおかしい。なぜそんな労力をかけなければならないのか、友人でも家族でも知り合いですらない俺たちに。しかも、不幸な事故ではあるが、元を正せば楽しく遊ぶためだった。自己責任と言われればその通りだ、何の弁明もできない/茅場晶彦がいなかったのなら。……手間をかけてもそれ以上の利益がある、そうでなければ2年間も続けてもらえなかったはず。
彼らを責め立てるのは、間違っているだろう。今こうやって俺が生きているのは、彼らの頑張りがあったからだ。でも、ソレとコレとは話は別だ、感謝するのと思惑がなかったと認めてやる/臭いモノを収める蓋になってやることは繋がらない。看病してきた以上の利益を得たのなら、感謝だけし続けなけれならない、なんてことは全くない。卑屈になる必要はない。
そこを突いてくる/俺の言葉足らずな部分が無かったと怒る、と思いきや、しっかりと飲み込んだ。俺の煽りに翻弄されなかった。
そしてひと呼吸置くと、冷静に言った。
「……君が遭遇した不幸な経験上、仕方がないことではあるが……、少しばかり疑り深くなりすぎてないかな? もっと僕らを信用して欲しい」
「その『僕ら』がどういったものかわからないから、信用できないんですよ。こんな、陰謀論じみたことも考えざるを得なくなります」
下手に出られても攻勢は変えずに続けた。態度を一貫し続ける=アンタは信用しない。
俺の頑なな態度に、大きくため息をついた。肩をガックリとおとすようにして。
「……僕らはただ、恥ずかしい限りだけど、茅場晶彦が作ったセキュリティシステムを突破できなかっただけだよ。力不足なだけだったんだ」
「2年間。何の進展もなかったのは、おかしくありませんか? 当時からハードの精度だって上がっているのに?」
騙されんと見据えながら、続けた。
「茅場は天才だったかもしれない、けどたった一人だ。世界中とは言わないが、少なくとも日本中から優秀なエンジニアをかき集めて解決に当たっていれば、セキュリティは破れたはずですよ。物量で押し切るなんて荒業もできた。アンタらが本気になってこの事件にあたっていたのなら、この事件から
俺の指摘にピクリと、眉が動いたのを見逃さなかった。先まではなかった緊張も、顔や全身に走っていた。
証拠はない。ハッタリ/妄想でしかない。でも、そうとしか考えられない。そうでなければ色々と不合理な面が多すぎる/そうであったのなら全てすんなりと理解できる。
疑いの芽はそこかしこにあった。―――株価の値動きを操作された痕跡があった。
この事件でVR事業は、当然のこと大打撃を受けたが発展を続けてきた/続けることができた。俺が眠っている間に幾つも、フルダイブゲームが発売され人気を博してきた。そこには、人々の中にあるVRへの憧れが事件に負けないぐらい根強かった、ということも示しているだろう。だけど、それだけでは説明はつかない。VRゲームは遊びや息抜きであるという定義から逃れられない以上、別にVRゲームでなければならない理由はない。どれだけ高解像度を誇ろうが、現実世界には勝てない/肉体の情報量は超えられない、金と時間を費やすだけの利益が見込めない。あの事件があったのなら尚の事。他の/昔からある、遊びや息抜きに食指が動いてしまうのは止められない。―――それでも、VRは発展を続けてきた。
そうあれとの流れは、事件前にできていた。その波をさらに高めんと世にだされたのが、史上初のVRMMORPG=『ソードアート・オンライン』だった。本来は、ソレでできた流行に我さきにと乗っていく予定だったはず。でも……、あの事件が起きた。推進剤が暴発してしまった。見込んでいた津波は、逆に自分たちへ襲いかかってくる、大損害を被ってしまう―――はずだった。
その揺り戻しを
さらに、そこに示されている名前を辿っていくと、面白いことがわかった。
事件直前のこと。彼らの大部分は今まで、茅場が運営していた【アーガス】社を筆頭にVR企業への多額の投資をしてきた。それだけ皆期待していた/未来を夢見れた、莫大な富が唸っているはずだと、そのための先行投資だった。にも関わらず
そしてその後、史上最安値にまで落ち込んだ時を見計らって買い取った=喰らい尽くした。ほぼ全てのVR関連企業を傘下に従えた。
証拠はない。ただの偶然だと言い切られればそれまでだ。あの事件は茅場晶彦の狂気がなした悲劇だった、誰も予想なんてできなかったと。でも……、あまりにも不自然すぎる。なぜ公平であるはずの神様が彼らにだけ肩入れしているのか、納得いく説明がつかない。
目の前の男は、その陰謀に関係している可能性が高い、大いに。現場の指揮官である彼が関わっていないはずがない。
だけど、そもそもそんな陰謀などないかもしれない、俺の言いがかりでしかないのかもしれない。株価の値動きからの推察にしても、まだまだ調査は甘く俺の直感によるところが多々ある。追求すれば簡単に否定される。だから「疑惑がある」以上のことは言えない/今はそれだけでいい、揺さぶれただけで上々。
なので、今度は別方面から攻め込んだ。
「俺が知っている限り、政府とか警察とか軍隊とかに所属している輩は、本気で謝罪なんてしない。自分たちの面子を潰すようなことを大衆に告白することなんて、無い。その面子だけが権力と地位を保証しているから。主要なメディアを抑えているのなら黙っているだけでいい。……もっと上の立場の奴らから、命令されない限りは」
あのデス・ゲームの中で学んだ/学ばされたことの一つだ。【軍】という組織がかかえている/抱えざるを得ない腐った部分。
限られた計算資源を奪い合う弱肉強食であったあそこでは、現実世界よりもソレが顕著に現れた。「弱者救済」「機会平等」「相互補助」を旗印に始められた【軍】は、いつの間にかその真逆のことをしていた。弱者を従え機会を奪い金品を搾取する=支配する、そのために日々尽力していた。大きなキッカケは25階層=クォーターポイントのフロアボス戦での大敗だったのだろうが、ソレはただ元からあった不具合のスイッチを入れただけに過ぎない、そこで敗北してなかったとしてもいずれは腐っていたはず。それだけ【軍】のメンバーたちは自然に、その矛盾を整合させていた=無視して命令に従っていた。
現実世界の軍であっても、ソレは同じだろう。あの世界の【軍】は、現実世界の軍隊を模倣して作ったものだから。そこに所属している目の前の男が、その影響下にないとは言い切れない。
「アンタは誰の命令で俺の前に来た? 誰にそんなことを
俺が今話しているのは誰なのか、信用してくれと頼んでいるのは誰か? 菊岡誠二郎なのか? ―――。虚飾を斬り払い、目の前の男本人に突き込んだ。喉元に鋒を向けるよう睨みつけて。
俺の真剣が伝わったのだろう。小さく息を吐きながら瞑目すると、菊岡さんは、今まで貼り付けていた仮面をとった。
そして、俺に負けず、ソレ以上の力を込めて見据えた。
「―――僕の信念と僕に課せられた職責が、そう言わせている。誰かの、君の言う『この事件が解決しないことで儲かろうとしている奴ら』とは、一線を画している。今までも、そしてこれからも、ずっと」
約束しよう―――。無言ながらも、それ以上にない確約を込めて宣言した。
菊岡さんの様変わりぶりに俺は、一瞬驚かされた。だけどすぐに、笑みがこぼれそうになっていた。
やっと本当の顔が見れた。そう思えてしまうほど目の前の男には、嘘の臭みが微塵もなかった。……菊岡さんの評価を改めないといけない。
この彼なら信用できる……。ほぼ9割方そう思えていたが、まだ/だからこそ最後のひと押しが必要だ。
「……貴方の覚悟はわかりました。でも……、だったらなんで、俺の存在を公表しないんですか?」
目覚めてから今まで、引っかかっていたことだ。
なぜあのデスゲームがクリアされた/無事に帰還できた人間がいたと、世間に発表しないのか? 諦めかけていたであろう人々の中に、もう一度喝を入れないのか? それで広く、俺のことを餌にしてでもいいので、能力ある人たちを集めないのか? ……。もしそうしていたのなら、解決の糸口はもっと簡単に見いだせたはず。
俺の根本的な疑問に菊岡さんは、顔を苦らせた。教えるべきか黙っているべきか誤魔化すべきか……、逡巡した。
まっすぐと向かい合い続けていた俺に向かい直ると、ため息を漏らした。そして、観念したように教えてくれた。
「……君があのゲームから脱出したことは、誰も知らない。知らないことになっている。……いや、脱出
君たちプレイヤー全員が、あるいは誰か一人でも、未来永劫脱出できないことに多額の財産を賭けていた輩がいる。賭けることで絶大な富と地位を手に入れた。そんな彼らにとってその事実は、あってはならないことだった。塵一つまみだって許されないことだった、そんなことになれば破産だけでは済まされない。破滅が訪れるから……、文字通りのね。だから彼らは、ソレを
とても危険な状態だ、何をされるかわかったものじゃない。彼らは彼らのためならば人死にすら辞さない、その被害が起きることを考慮に入れている、率先してやることすらも。ソレが許される立場にあるから。だけど、
言い切ると一端、区切った。俺が付いてこれているかどうか確かめた。この、あまりにも途方もない話に。
俺は唖然と驚かされるも、理解できなかったからではなかった。まさか本当にそうだったのかと、認められた妄想に慄いていた。ゴクリと息を呑む。……【彼ら】は本当にいたのか。本当にすべてを謀ったのか、あの茅場すら超えて。そんな相手が敵になるのか―――
そんな俺の動揺を読み取れたのだろうか。大丈夫だろうと菊岡さんは、続けた。
「生き残ったプレイヤーが全員一度に目を覚ましてくれたのなら、公表することを選んだよ。どんな障害があろうとも、その準備もしてきた。日本各地で一斉に
それでも、君に価値があることには変わらない、君が僕らに勝利をもたらす黄金の鍵であることも。彼らにとっては死神であることも。だからもし、公表を強行したのなら―――」
「俺は……、殺されてた」
先取った俺の呟きに、直葉が瞠目した。今まで途方にくれて迷子になっていたが、ソレでハッキリと現状を理解した。
俺は、殺されていたかもしれなかった。【彼ら】の目につくような/目に余るようなことを仕でかしていたら、間違いなく/容赦なく簡単に。そんな『もし』は大いにあった、おそらくは俺が思っている以上に。だけど、俺にソレを防ぐ手段はなかった、自分の体すらまともに動かせていなかった。菊岡さんたちが影で守ってくれていなかったのなら、俺は―――
恥ずかしさに、顔を怒らせた。あまりにも不甲斐ない。
菊岡さんは何も、嘘などついてなかった。彼なりに正直に/できる限り/危険を最小限にとどめられる範囲で、誠意を向けてくれていた。……不信の全てがただ、俺がガキなだけだった。
非礼を詫びようと口を開くと、寸前で止められた。
「残念ながら、僕らの力は弱い。数も少ない。完璧に信頼しきれる仲間はそう多くないんだ。……こうして直接会うだけで、危険になってしまうぐらいにはね」
薄く苦笑いを浮かべながら、さらりと言った。事実を知る以上の、悲観にならないように気を配って。
そして、真剣な面持ちに戻すと再度告げた。
「―――正面玄関左手にタクシーを待たせている。ソレに乗ってくれ。行き先は運転手が知っている。……料金は払わなくていいよ」
乗るか乗らないか、決めてくれ……。決断を俺に委ねてきた、俺が来ることを確信しながら。
言いたいことは全て言ったと、踵を返すとそのまま、病室を出て行った。
◆ ◆ ◆
菊岡さんが帰った後、兄の顔つきが変わっていた。
今まで見たことがないほど鋭く研ぎ澄し、何処か彼方を見据えていた。
張り詰めた緊張を纏いながら兄は、私を見ないようにして言った。
「―――スグ。悪いけど、先に帰ってくれないか?」
「行くつもりなの?」
すべてを端折って、直接問うた。目をそらす兄をまっすぐ見定めながら。
「……話を聞くだけだ。日が暮れる前には帰るよ」
短く答えた。私が聞きたい真意をあえて無視しながら、嘘にならない言葉だけ出してきた。
私はソレを追求せず、一つ目を閉じ飲み込んだ。そして、代わりに告げた。
「だったら……、私も一緒に行く―――」
「ダメだッ!!」
いきなり怒鳴りつけると、威嚇するように睨みつけてきた。
感情を露わにする兄、鬼のような形相。ソレはまるで、厳格で頑固な祖父の生き写しのようだった。……そんな姿は、今まで見たことがなかった。
他人が向かい合っていたら縮み上がっていただろうソレは、しかし……私には効かなかった。……私には鬼ではなく、怖がっているだけのキツネリスに見えていたから。
「私も行きたい」
ただ静かに/穏やかに、だけどハッキリと言った。
私の意志が伝わったのか、兄は絶句したかのように口を引き結んだ。吐き出そうとした全てが自分に帰って、暴れていた。
苦味をこらえながら飲み下し、幾分か平常心を取り戻すと、別の切り口から説得を続けてきた。
「……二人共帰るのが遅かったら、母さん心配するだろ?」
「私一人だけ帰っても同じことだよ」
「そこはお前……、なんか言い訳考えてくれよ」
「どんなよ? 私嘘は顔に出るタイプだから、すぐにバレちゃうと思うの。特にお母さん相手だったら、騙し通す自信ないよ」
表面は微笑みながら、不退転を一貫した。
そんな私の態度に兄は弱り、飲み込んだはずの苦味にまた苦しめられた。
ソレを見せられると少し、決心が鈍る。大人しく/何も知らないふりをして=兄が望むように、家で待っているのが一番いいのかと。互いに傷つけあうだけじゃないのかと、取り返しがつかなくなるんじゃないかと……怖い。
だけど、だからといってここは退けない/退くわけにはいかない。
「……話を聞くだけ、でしょ?」
兄の嘘に乗って、トドメを刺した。……部外者だった私にも、
兄は青ざめ絶句すると、搾り出すように/せき止めきれず言った。
「これは……、俺の問題だ。
お前を巻き込みたくない、巻き込むわけにもいかない。お前には関係な―――」
「関係なくないッ!!」
最後まで言わせず/聞けず、叫んだ。
ソレは悲鳴だった。今まで堪えて/抑えてきたモノが、溢れてしまった。……決して、表に出してはいけない想いが。
滲み出そうになった涙を乱暴に拭った。
「……もう、待っているだけなんて嫌。何もできないなんて、そんなのは……嫌なの」
せめて、何もできないかもしれないけど、傍にいたい……。兄に悟られる前に蓋を直すと、仕切り直すように静かに言った。
そんな私を兄は、しばらく黙って見つめた。今にも泣き出しそうに瞳を揺らがせながら何かを、おそらくは私を止める術を模索しつづけながら。必死に考え続ける。
だけど……、目を閉じた。
「―――話を……、聞くだけだ。話を聞いたらそれで……、家に帰る。……一緒にな」
それでいいんだろ? ……。無理やり引き削りながら、降伏した。悲しげな微笑とともに。
私は無言で、頷くだけだった。
一緒に病室を出た時、私は、アスナさんの顔を見られなかった。
長々とご視聴、ありがとうございました。
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