Re:SAO √R   作:ツルギ剣

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地獄への招待状

 

 

 

 着替えを終え朝食を済ませると、直葉と共に家を出た。

 

 アスナが保護されている病院は、裕福な家庭の彼女らしく、周囲にはのどかな田園風景と小高い山を背負っている郊外にある。ちょっとした貴族の別荘だ。それでも山奥というわけではないので、家から彼女がいる病院まではそれほどの距離じゃない。自転車を漕いで1時間程度ではあってその手前には結構傾斜がきつい長い坂道があるが、行けない場所ではない。だから、リハビリとトレーニングついでにも、見舞いに行くときは新調したマウンテンバイクを駆って行った。

 でも今日は、直葉も一緒だ。几帳面なのか程度がわからないのか(あるいは俺がラフ過ぎていたのか)、少し気合の入った外行の服装もしている。そんな妹に、ヒイヒイ言いながら汗水たらしてマウバイを立ち漕がせるのは、ちょっとばかし頂けない。そのため、自然とそこまでの交通手段は、電車とバスの乗り継ぎになる。

 マイカーかオートバイでも持っていればそちらなのだろうが、現在の俺は16歳のスッカンピン。2か月前まで眠り続けて、今現在までも重監視状態下に置かれている。だからバイトもしてない、というかできない。親からのお小遣いだけが全財産だ。……体に無理を言わせるのはそんな、懐の寂しさ故のことも、無いことはない。

 そんな事情もあるため、バスも電車もタクシーも使いたくない。別の交通手段を採用することにした。

 

「……お兄ちゃん、どこに行くの? 電車はあっちでしょ?」

「こっちの方が早い」

 

 不思議がる直葉をよそに、その手を引いた。

 自宅が一望できる絶妙な距離の曲がり角、そこに停車している黒塗りの自動車。都市部や雑踏の中なら目立たないのだろうが、ここは住宅街だ、それも平日の昼日中の人通りも少ない路地。どうしても目についてしまう、違和感がある。駐車違反のキップをきられないのも怪しい。……何かある。

 そこまで連れて行くと、閉じられた黒塗りの窓をコンコンとノックした。

 

「ちょ、ちょっとお兄ちゃん!? 何して―――」

「榊さん。病院まで送ってくれませんか?」

 

 外からは見えないが、向こうに座っているのはわかっていた。その相手に要件を告げた。

 

 しばらく無言ではあったが、ジーと音を立てて窓が開いていった。

 そこに現れたのは、どこにでもいるような中年のサラリーマン風の男性。渋谷のスクランブル交差点に小石を投げたら、ぶつけられるような普通さだ。しかし、ただ一つ、能面のような無表情は特徴的だ。

 それは、自制によってなされているものだとわかる。感情の起伏に晒されていない/努めてそうしている。人ごみに混ざれば容易に紛れてしまうであろう希薄な雰囲気、無個性であることを強調している。こちらを見る目にも圧してくるような光がない。だけど、それゆえに緊張せざるを得ない。注意深く集中して捉え続けなければ、すぐに本質を見失ってしまう。

 この人が、俺を監視している集団の一人だということが。

 

「……どこで俺の名前を知った?」

 

 低いがよく通る/鼓膜を直接伝導するような声。口元はそんなに動いていなかったのに、はっきりと聞き取れた。

 自己紹介してもいないのにいきなり名前を呼ばれた。それで警戒をしているが……、それでも顕にはせず、抑制が効き届いた声で尋ねてきた。

 

「すいません。手帳を見させてもらいました」

 

 そう言うと、懐からソレを取り出して見せた。ヒラヒラと弄ぶようにして。

 手のひらサイズの黒革の手帳。IT化が進んでいる現代だというのに、昔ながらの自己証明手段。

 ソレを見せ付けられると、その手が懐のポケットに伸びた。そこにあるはずのソレの感触を確かめようとしたのだろう。……そしてソレは、そこになかった。

 

「……いつの間に」

 

 眉根を顰めながら/始めて感情を露わに、呟いた。

 だけど、それには答えず黙ったまま。味方も力も当然お金も限られているこちらとしては、あまり手の内を晒したくない。……ここは黙っていた方が得策だろう。

 ただ、敵を作るつもりはない。機嫌を損ねればどういう目に遭うか、今足首に嵌められているGPSが物語っていた。―――あのクソメガネにつけられた足枷。

 無骨で頑丈な、アクセサリには到底見えてくれない代物=警察への協力と引き換えに監獄から出された重犯罪に科せられる足枷。どうやっても壊せない/分解もできない。説明通りGPSだけなのかどうかもわからない。もしかしたら、盗聴器かそれに類するモノまで仕込まれているのかもしれない。最悪、スタンガンのような強制手段になるのかも……。それだけでお腹いっぱいだ。

 

「気をつけてくださいね。最近電車の中で、スリに遭う人多いですから、特に通勤ラッシュの時は」

 

 なので、素直に返した。彼の前に盗んだ手帳を差し出した。ソレを取り戻そうとすぐさま彼の手が伸びてきた。だが―――その寸前、引っ込めて躱した。

 ただし、守られるだけ/服従するつもりは毛頭ない。俺がただのガキでないことは証明しないといけない。……彼の手は空を掴んだ。

 

「―――病院まで送ってくれます?」

 

 ニッコリと微笑みながら頼んだ。すると、彼の顔に初めて険悪らしきものがうっすらと浮かんだ。ムッと顔をしかめている。

 こんなあからさまなお預けをしてしまうと、殴り飛ばされる可能性が出てくるだろう。むしろ、そうされない方がおかしい。だけどそこは、彼の職業意識と彼の上司から受けているであろう命令を信じることにした。

 彼はあくまで、俺が世間の目に触れないための監視者&護衛であって、刑務所の看守ではない。暴力と恐怖をもって屈服させるのは最終手段。俺がダダをこねすぎるか切羽詰まりすぎた緊急時だけのはずだ。そうじゃなければ/そうでない今ならこちらの要望も通る……かもしれない。

 

「……俺は、お前のための送迎タクシーじゃない」

「行きだけでいいんですよ。今の時間だと電車が混んでて面倒なんです。帰りは自力で戻りますから」

 

 笑い顔を絶やさずに続けた。……本当は送迎してもらいたかったが、さすがにそこまでワガママはできない。

 榊さんの顔がさらにしかめられた。誰でも、一目見ればそうとわかるほどの表情。

 だけど、それにチャンスを見た。あとひと押しだ。

 

「いちいち俺の後を尾けるのも面倒でしょ? 誰かに接触するか・されるかに気を張り続けるなんて、時間と体力の無駄ですよ。俺にもそんなつもりはサラサラないですから。……送ってくれれば楽できますし、俺たちも助かります」

 

 そう言うともう一度、手帳を差し出した。

 今度は素早くそれを掠め取った。こちらが引っ込める隙を与えない早業。そして、取り返したソレを懐に戻した。

 

 するとカチリッ、後部座席の扉の鍵が外される音が鳴った。

 

「―――乗れ」

 

 短く促すと、窓を閉じた。

 

「ありがとうございます! ―――さぁ、直葉も来いよ」

「う、うん……」

 

 オロオロと不安そうにしながら直葉も、車に乗り込んだ。

 

 

 

 

 

 ◆   ◆   ◆

 

 

 

 

 

 車の窓から覗く景色は、都市部の住宅街を離れて郊外の田園風景が混じりあった長閑なモノへと変わっていった。そこは今冬の枯れ果てた寒々とした風景ではあるが、年明け間もないこの時期は透明な朗らかさが漂っていた。まだ祝いの残滓がそこかしこに留まっている。朝日が昇ったばかりの澄んだ空気の今なら、尚更だ。

 

 車の中、タバコの臭いはしなかった。……意外だ。

 偏見ではあるが、刑事とか捜査官という人種の車はタバコ臭い、と思っていた。あとコーヒーとかカップラーメンの臭いとかもブレンドされているのかと。監視中の退屈を紛らすため吸っているのかと思っていた。だけど、車の中は綺麗に掃除されていていた。消臭もされている、そもそも臭いの元となるものがない。置いてある物自体が少なかった/必要最低限のものしかない、交通安全のお守りすらぶら下げていなかった。

 飾り気のない淡白な車内だった。雑然と散らかっているのが、我らの自家用車の内装。そのためもあって、気になってしまう。他人の車の中だということを意識させられる。

 駆動音は小さい、注意しなければ聞き取れないほど。今時の車は大抵こんなものだろうが、家のモノは少しガタがきているのか唸りを上げている、あるいは不平不満か。止まっているときはブンブンと貧乏ゆすりまでする。だけど、ここは違う。穏やかな静謐に包まれている。まるでベルトコンベアーにでも乗せられたみたいだ。滑るように滞りなく運ばれていく、止まっているのか進んでいるのかわからなくなるほどに。

 熟練のドライバーの技だろうか。全てを完璧にコントロールしている、道なりも他の車の動きも信号機ですら計算ずく、急停止も発進もカーブのブレも全くない。外は騒然としていても車内の静謐さは常に保たれている。それを心地よいと思う人間はいるのだろうが、俺は……。交通費をケチったのが、アダになった。

 

 ガクンと車体が揺れた。あの急斜面の坂道に入った。

 いつもはここで立ち漕ぎになって、両足にめいいっぱい力を込めて踏みつけながら最後まで登りきろうと気張る。ギアを軽くすれば事足りるのだけれども、あえて平坦な今までと同じギアで登る。だから当然、途中でギブアップ。進まなくなってよろめきこけそうになってしまう。そうなったら降りて、押しながら歩いて登る。次は登りきると胸の中で目標を再確認した。

 だけど今日は、車だ。困難ないつもの道も、何事でもないかのように登り―――、登りきった。

 

 スゥと、静かに止まった。タイヤの摩擦音を微かにもさせずに、車体も揺らさずに。病院入口前に止まった。

 

「……降りろ」

 

 榊さんが短く即すと、初めて到着したことに気づいた。いつの間にかここまで来た。

 素直に従う。直葉と共に車から降りた。

 パタンッと扉を閉める。その前に、一言だけ感謝と別れの挨拶をした。

 

「ありがとうございました。また明日」

「……明日からは外されるかもしれん」

「そうなったら、榊さんが良いってあのクソメガネに直談判しますよ」

「……そうなったら、尚更だ」

 

 小さく苦笑いを浮かべず、至極真面目なままそう言うと、そのまま元来た道を帰っていった。

 

 彼の上司と午後の継ぎ役の仲間への報告だろう。またあのガキがいらん事をしてくれましたよ、と。その結果、「いつものことだ」と笑って納めてくれれば、何の問題もない。けど、何らかのインスピレーションを受けてしまった場合は最悪だ。「そうだ。これからはソレを日常業務に加えよう」なんて命じてくるかも知れない。

 榊さんならあまり気にならないが、彼以外に送迎なんてやって欲しくない。けど、これからはそんないらんお節介までやってくれる可能性があった。……いや、あの何考えているのかわからないメガネ上司ならば、ご期待に応えてくれるかも知れない。身の安全のためだと面の皮厚くのたまって。……また、打つ手を間違えたかもしれない。

 ため息をついた。そして、胸の中で凝らせた蟠りを全て、ソレとともに吐き出した。

 

(今から心配しても仕方がないな……。そうなったら、そうなったまでだ!)

 

 多少自暴自棄ではあるが、考え込んで胃がムカムカするよりかは何倍もマシだ。せっかく彼らを出し抜いてスカッと晴れやかな気分になっているのに、台無しになってしまう。もう少しは、このウキウキを続けていたい。

 

 気分を一新して、隣の直葉に向き直った。「さぁ行くぞ」と言おうとする。

 だけど、いつもと違ってその顔は、不思議なものでも見るような眼差しと共にこちらへ向けていた。

 

「……どうしたんだ直葉、黙り込んで?」

「なんか……凄いな、て思って」

「凄い? 送ってもらったことがか?」

 

 いきなり変なことを聞かれて、驚いた。

 確かにあの技術はすごかった。車に乗っているとは思えないぐらい、気持ち悪くなるぐらい心地よい乗り心地だった。……俺もいつか、あれぐらいの運転技術をもちたい。

 共感をしめそうと口を開くと、ソレはあさっての方向だったとわかった。

 

「うん。お兄ちゃん、2年前とは別人みたいだよ」

 

 何言ってるんだよ……。訝しると、その目に宿っているであろうキラキラに気づいた。羨望と憧れと、ほんの少しの寂しさ。

 他人からそんな目を向けられるのは、初めてのことではなかった。一度、そんな経験はしている。あちらの世界で幼い直葉に似ていた、それよりも幾分か可愛らしい女の子=【シリカ】に。彼女の場合は、混じりけなしの憧れの視線ではあった。あの純粋さに見合うような男であったかどうか/成れているのかいないのか、今をもってもわからない……。

 でも今、そんなものを向けられるとは、思っていなかった。驚かされてしまった。

 

「……そう、なのか? 変わったのかな、俺?」

「うん。普通はあんなこと出来ないよ」

「普通……?」

 

 指摘されて反省してみた。……確かに普通の人は、スリなどはしないだろう。

 

 ソロプレイでは意外と重宝した【盗み】スキル、マスターはしていないがそこそこまで熟練していた。ソレがここ/現実世界でも活用できた。……できてしまった、と言った方がいいのか。

 ドロップアイテムは欲しいけどモンスターを倒すのは面倒、【盗む】でしか獲得できないレアアイテムの奪取、そんな時に重宝した。【体術】スキルと合わせると、【白刃取り】あるいは【無刀取り】と呼ばれる穏便な紛争解決手段を獲得できるのも。

 一人でなんでもこなし集団と拮抗しなければならないソロプレイでは、犯罪行為スレスレのきわどい方法にも目を向けなければならない。つまりは【盗み】に。効率と安全を考えれば、わざわざ敵を倒すよりも財物だけ掠め取ればいい、できる限りは敵を増やしてもダメだ。

 

 初エンカウントで相手がまだ子供/昏睡状態から目覚めたばかりの病み上がりだった、そんな油断もあったのだろう。【盗み】は見事再現できて、榊さんの手帳を獲得することができた。

 出会い頭にこけそうになるのを装いながらぶつかって、その僅かな隙に懐へと人差し指と中指を差し込む。そこにあるであろうモノをしっかりとつまみ上げて、気づかれぬようにスッと抜き取った。滑るように素早く触れたとも感じさせずに自然と。抜き取るとすぐさま、袖口に隠した。―――そしてそれが、巡り巡って車で送ってもらうという報酬へと換金された。

 

 現状に適応しただけだ、と思っていたが、それがおかしいことだったらしい。指摘されて初めて気づかされた。

 

「朝の試合の時も思ったんだけど、肝が据わり過ぎてるよ。まるで、命懸けの修羅場でも乗り越えたみたいに―――」

 

 言いながら気づいた。

 そうだ。正しく()()()()()からだ。

 

「……そう、だよね。乗り越えてきたんだよね、お兄ちゃんは」

「まぁ、な……」

 

 憧れと哀れみを等分に混ぜたような目に、曖昧に返事をした。……それしかできなかった。

 あまり突っ込まれて聞かれたくないので、それ以上答えず。病院の中に入った。

 

 

 

 

 

 自動ドアが空くと、中には奇妙に脱色された清潔すぎるロビーが広がっていた。

 

 ハリウッド映画でよく見る風景。近未来風の、汚れ一つ無い真白すぎる病棟と同じだった。

 天井は全ての5階まで筒抜けの大伽藍で、壁のほぼ全面がガラス張りとなっているために陽の光が淡く降り注いでいる。それでも、生命が醸し出すゴミゴミとした雑味がかき消されている。病院というよりは高級なホテルとでも呼ぶような逸品ぞろいに内装。ではあるが、高級感からくる圧迫感・貧乏人はお呼びじゃない的な排他感はない。建築が醸し出す威厳の空気も脱臭されていた。

 必死に働きすぎる空気清浄装置、働いていることすら漂白し隠している。そのおかげで逆に、居心地が悪くなってしまうのは……、なぜだろうか。

 

 受付で着くと、面会の予約を取った。

 ここ2ヶ月で常連になってしまったのか、受付のお姉さんオバさんたちとは顔見知りになっていた。親しみがこもった表情とともに案内される。「ああ、また君ね」「あの子のお見舞いよね」「いつも偉いわねぇ」―――。

 何でもないいつもの談話をしていると、隣の直葉に目がいった。目を丸くして驚いたような顔つきで、俺と直葉を交互に見てきた。そして、キョロキョロと落ち着きなく、仲間内でパチクリとアイコンタクトによる無言の会話を交わす。

 だけど俺が、「妹です」と紹介すると、何事か納得したのか大きく頷き、慌てながらもいつもの穏やかな顔に戻った。「そうよね! そんなはずはないわよね、君に限って」「やだ、あたしったら変な勘違いしちゃったわ、ゴメンね」「可愛い子ね、目元のあたりとかソックリ」と、恥ずかしそうに何かを取り繕らんと謝ってきた。

 訝しがりながらも、いつものことだと無視して別れた。

 とても気さくで明るい人で、話すだけでも元気がもらえる。けど、他人の話を聞かずに早とちりしてしまうことが多々ある。それで何度か医師や他の看護師・患者とトラブルを引き起こしてしまった経験もある。それでも長年続けていれば、ミスは少なくなった。少なくとも仕事上のことでは。

 そういう人なので、こちらも話半分でちょうどいい。真面目に受け止めすぎると、どちらも転んでしまう。直葉を伴い、アスナがいる病室へと進んだ。

 

「こっちだ直葉。……て、どうしたんだ、そわそわして?」

「な、何でもないよ! 何でもないから!」

 

 顔を真っ赤にしながら慌てて否定してくる直葉に、?が浮かんでしまった。あっちの世界だったらたぶん、頭の上にそれが乗っていたかもしれない。

 

「初めての場所だから緊張するのはわかるよ。だけど……、遊園地じゃないからな」

「なッ……。そんなこと、わかってるよッ!」

 

 注意すると、プンッとそっぽを向けられた。拗ねてしまった。

 見てないうちに直葉も随分と変わったが、変わらないところもあったのだろう。そんな子供っぽい様子に笑みがこぼれた。

 

「……何ニヤニヤしてるのよ?」

「別に、なんか可愛いな、て思ってさ」

 

 何気なくそう言うと、直葉は一瞬呆然となり、一気に真っ赤になった。

 

「な、な、なッ―――。そ、そんないきなり……、変なこと言わないでよッ!」

 

 慌てふためきながらそう吐き捨てると、そそくさと先に行こうとした。

 

「おい、待てよスグ! お前が先に行ってどうするんだ。アスナの病室何処にあるかわかってんのか?」

「へ? ……あ! あぁ~、そうだった、そうだったね! 

 てか、それじゃなんで私に先行かせるのよ? ちゃんと案内してよ」

「お前が先走ったんだろうが……」

 

 呆れて苦笑が漏れてしまった。……やっぱり直葉は、直葉のままだった。

 

 

 

 

 

 眞白な廊下を進む。途中に看護師や医師とすれ違うが、静かだ。

 アスナがいる病棟は内科。であるためもあって、雰囲気もその他の場所よりどんよりしている。皆病室の中/ベッドの上で臥せっている。床に鳴らす靴の音も控えなくては、とためらわせる暗さだ。

 

 俺も2か月前までは、そんな場所で眠っていた。

 ひどく特殊なケースだった。不慮の事故があっては困る以上に、マスコミなどの取材を防ぐためでもあった。囚われたプレイヤーたちはひっそりとした、重病者を集めている病棟へ移されることになった。……言ってみれば寝たきりか植物状態で、外科の方では患者の好奇心を止めることが難しいこともあった。消去法で内科になった。

 患者としては、その判断に文句は一切ない、世話してくれただけでも頭が上がらないぐらいだ。だけど、こうやって見舞いにくる場合は違ってきてしまう。ただでさえ暗くなりがちな気分を、さらにどんよりと凝らせてくる。ワイワイと騒ぎたいわけでは決してないが、少しぐらい明るくはなりたい/させて欲しい。……不景気な顔して泣いたって、何にもならない。

 そんな場所でもあるため、無言で歩くわけにはいかない。少しばかり無理して話題を振った。

 

「そうだ。交通費も浮いたことだし、昼は街に行ってうまいもんでも食おう。俺のおごりだ」

「え、……いいの?」

「いいよ、好きなもの何でも奢ってやる。二人で出掛けるなんて機会も、滅多にないからな」

「おぉ! 太っ腹だねぇお兄ちゃん」

「おうよ! 可愛い妹のためとなればな」

 

 我ながら調子に乗りながら、言い切った。

 だけど、その効果はあった。直葉も、俺の調子に合わせて笑ってくれた。

 

「……まぁ、臨時収入がなかったら、ファミレスかスタバあたりだったけどな」

「ショボ!」

「それも割り勘で」

「えぇ……、私にも払わせるつもりだったの?」

「当然だろ。俺はまだ病み上がりなんだからな」

 

 上げてすぐさま落とした。それも、直葉の弱点を突く形で。

 そんな俺の悪びれもしない様子に、頬を膨らませて睨んできた。結果としてはプラスだが、心中複雑といったところか。

 自然と顔に、笑みが浮かんできたのがわったか。憂鬱になりそうだった気分が晴れていた。

 

「病人扱いするな、て言ったのは、お兄ちゃんじゃないの?」

「それは体の方。財布の方はまだゲッソリしてるの」

 

 そうは言いつつも、懐の暖かさに心は満たされている。親からのなけなしのお小遣いではどうにも侘しいものがあったが、つい先日臨時収入があって財布の中はホクホクと暖かい。この冬は乗り切れるぐらいの厚みがある。

 そんな俺の様子を直葉が、ジトォーと見つめてきた。

 

「……本当にそう? この前ちらっと財布の中見たとき、福沢諭吉が3枚ぐらい入ってたけど?」

「この泥棒猫、勝手に人の財布見んな!」

「スリのお兄ちゃんには、そんなこと言われたくありませぇん」

 

 思わず、後ろポケットに収まっている財布を押さえた。……油断も隙もない。

 俺から一本取ったことで自慢げな直葉、勝ち誇ったような微笑みまで浮かべていた。たがふと、自分が喋った内容を咀嚼し直した。自分と兄の収入源は同じ。だったらそのお金は、どこから湧いて出てきたものなのか……。

 思い至ると一気に、顔から血の気が引いた。

 

「…………もしかしてなんだけど、そのお金って―――」

「大したことじゃないよ。ちょっとしたイタズラってやつだ」

 

 ニヤリと口の端を歪めながら言った。

 それで直葉は確信に至ったのだろう。顔がさぁーと青ざめた。

 

「すぐに返さないとまずいんじゃないの!?」

「いいんだよ、人様の私生活を覗かせてやってる駄賃だ」

「で、でもそれ……、犯罪じゃない? 訴えられちゃうよ?」

「そんなこと無いない。あっちもこの程度のことで、目くじらなんて立てないだろうよ。なんたってその道のプロなんだしな。『子供にスラれました』なんて情けないセリフ、口が裂けても言えないよ」

「で、でも……」

 

 オロオロと心配してくる直葉に、気軽に自分の身の安全を説明した。

 

 大人でプロで世間には公表できない犯罪行為。ともなれば、こちらのちょっとした犯罪も隠蔽せざるを得ない。そして、それが出来るだけの影響力と強引さを持っている奴ら。……公算は極めて高い。

 ただ、直葉が恐るとおり、そんなことをしでかしたら不評を買うことにはなる。ちょっとしたイタズラと思ってくれればいいが、そうでない場合は困ったことになる。それに、彼らの冷静さと我慢の限界値を俺は知らない。突っ込みすぎれば、足首の枷のようなしっぺ返しが待っている。危険なことには変わらない。

 でも、構わない。()()()()()やる。

 まず、守られているという立場を是正したい/しなければならない。庇護されるだけでいるには、あまりにも死地を生き抜いてきてしまった。誰かに守られなきゃならないほどヤワではない。そのことに、嫌というほど気づかされていた。自分の身は自分で守れることを証明したい/認めさせたい。

 次に、更なる情報を獲得するため。現状を打開/アスナや他のプレイヤー達を救出するためには、あまりにも何もかもが欠けていた。こちらの意思だけが激しく空回りしてしまっている。監視者たちの位置に登ることができれば、もっと広い視野を得られる/問題に当たることができる。それで解決できるかはわからないが、少なくとも近づくことはできる、今の庇護下の身よりかは。……今の俺にできるあがきは、それだけしかないから。

 

 気負っていないようなフリをしながら、曖昧に仄めかした。

 ソレを察してくれたのかこれ以上は無駄だとわかったのか、それ以上は突っ込まず。ため息一つで話は終わらせ、だけど非難する目は向けて言った。

 

「……もし捕まっても私、弁護しきれないよ」

「大丈夫。ちゃんと共犯にしといてやるから」

「ちょ、ちょっと! やめてよぉー!」

「冗談だ」

 

 本気で驚いている直葉を見て、笑いながら言った。

 

「このぐらいのツケはちゃんと払える。最低限直葉には、火の粉が降りかからないようにはしてるから。―――骨は拾ってくれると、助かるけどな」

 

 ニヤリと笑いながら、最後にいらぬ皮肉を込めて言った。

 

 最悪、そのようになることはわかっていた。

 たった一人で国家権力に属する大集団と喧嘩するのなら、それを考えざるを得ない。元特殊部隊員でも特殊能力をもったヒーローでも、バックに大財閥が控えているわけでもないただの悪ガキである。そんな俺では、そんな末路になってしまうことだろう。それも、早々と初戦あたりで。

 勝てる見込みなど何一つなかった。装備とレベルとスキルと、仲間すら圧倒的に足りない。この戦場での俺は、ログインしたてのレベル1か、そもそもフィールドまでの道のりで足踏みしている迷子だろう。ただ、そうなることなど怖くないだけ。現状に甘んじてただ待っているだけよりかは、何十倍もそちらのほうがマシだ。アスナを救えずにのうのうと生きている今は、死んでいるのと同じだ。だから、死ぬことを怖がることなどない。

 だからソレは、覚悟の表明を含ませてもいた。もしそうなっても怯むことなどもないので、至極気軽に言った/言ってしまった。

 

 不意に直葉が、足を止めた。数歩進んでからそれに気づくと、振り向いた。

 

「……どうしたスグ―――」

「そんなの、そんなのやだよッ!」

 

 うつむきながら、悲鳴じみた泣き声を放ってきた。そして顔を上げると、今にも泣き出しそうな表情を向けて非難してくる。

 その急な切実さに一瞬、呆然としてしまった。どうしてそこまで思い詰めているのか、と。だから気を取り直すと「おいおい冗談だって、なにマジになってるんだよ」と笑い―――飛ばせなかった。

 俺は、鈍感でも無神経でも難聴でもない。人並みには敏感で神経も通っていて察せるとは、自負している。赤の他人なら絶対ではないが、一緒に住んでる妹のことなら自信がある。どうしてなどとは、尋ねる必要はなかった。ソレを見ないようにすることなど、できない。

 

「……悪い。冗談が過ぎたな」

 

 スマン……。後ろ頭を掻きながらも、素直に謝罪した。軽々しくあんなことを言ったことを恥じた。

 

 自分の命を勝手に投げ捨てるには、今の俺はあまりにも直葉に助けてもらいすぎていた。彼女だけでなく両親にも。

 彼らは俺を、2年間も待っていてくれた。俺が帰ってこれる家を守ってくれた。そこに暖かく、迎えてくれた。それまでずっと生かし続けてくれた。……彼らがいなければ俺は、今ここにはいない。

 何か恩返しの一つでもしない限り、死ぬに死ねない。かつてのような身勝手などできない。自暴自棄のまま/自分を憐れみながら/目も耳も心も塞いで、助けの手を振り払って突貫する。そんな我侭な事などできない/してはいけない。彼らのためにも俺は、これから生きて生きて生き抜いて、他の誰かにソレを伝えてその上で死ななければならない。

 ただ……、ジレンマだ。そう感じてしまう、義務と感情が正反対に動いている/全く一致していない。アスナがいない今を/これからを、どうしても「生きている」とは思えない/「生きたい」とも考えられない。

 二つを同時に満たしてくれる選択肢。ソレを俺は、未だ……見つけられていない。

 

「……私の方こそ、ごめん。

 冗談だ、ていうのはわかってた。お兄ちゃんが簡単にそんなことすることない、てことも。けど―――」

 

 最後は言えず、顔を逸らしてまた俯いた。

 俺も何か応えようと口を開くも、言葉が出てこなかった。喉元まででかかっているのに、何を言えばいいのか/言っていいのかすら分からなかった。「絶対にそんなことしない、約束する」とは、言い切ってやれない。……嘘はつきたくない。

 

 彼女が越えなければならない怖れと俺が示さなければならない信頼、その比率を読み解くにはまだ……俺は未熟だった。

 

 

 

 

 

 再び隣り合わせで歩くも、先ほどのように和気あいあいで……とはいかなかった。

 静々と、病棟の廊下を進んでいった。

 

「ここだ」

 

 そして、たどり着いた病室。

 壁にはアスナの本名、『結城明日奈』と立札が貼っていた。

 

 スライド式の扉、スゥーとほぼ無音で開いた。

 紗幕のようなカーテンをサァーと開くと、部屋の中へ入った。―――穏やかな日の光で満ちた病室が、目の前に広がった。

 

「―――おはようアスナ。また来させてもらったよ」

 

 影一つ/ひとつまみの匂いも無い幻想的な雰囲気、香をたき込めた浄室のような病室。その主に挨拶した。

 中央に備え付けられているベッドの上、そこで眠り続けている最愛の人に。

 

 

 

 

 

 ◆   ◆   ◆

 

 

 

 

 

 はじめは、いつもの兄と違うことに気づけなかった。

 

 

 

「今日は妹の直葉を連れてきたんだ。―――直葉、この人がアスナだ」

「……はじめまして」

 

 妙に明るい兄に即されて、おずおずと挨拶した。

 

 改めて見た彼女/明日菜さんは、綺麗だった。……綺麗すぎた。

 お姫様、という比喩がピッタリとはまる。テレビに映っているような人気のアイドルや女優さんと比べても、遜色ない。それ以上かも知れないほどの美少女だ。2年間眠り続けている影響は、その手足の細さに現れてしまっている。けど、その顔は全くと言っていいほど美しさが損なわれていない。肌の白さはソレをさらに彩る。物語の中のお姫様とでも呼ぶしかない美しさだ。

 ベッドに横たわるその姿は、今にも動きそうな、恐ろしく精巧に作られた人形。兄のそのような姿を見たときにも、同じような非人間的な美を感じさせた。だが、目の前の彼女はそれ以上だった。触れることすら躊躇わせる何か、自分が触れたら溶けるか崩れてしまうのではないかと怯れさせる儚さがあった。身動きして空気を乱すことすら控えさせる神聖さを帯びていた。

 ここは今までいた病院の中なのか、それとも別の世界に迷い込んでしまったのか……、わからなくなる。そうさせるほど彼女は、異質なものだった。

 

 そんな彼女には似つかわしくない無骨なヘッドギア=【ナーヴギア】。こめかみ辺りにピコピコと、小さなランプが点滅を繰り返している。かつての兄がそうであったように、今尚彼女の魂をその脳から引き出し閉じ込めている証だ。

 そして同時に、まだ彼女が生きている証でもある。……私と同じ、人間であるということも。

 

「いつもは元気一杯の奴なんだけど、初めてで緊張してるんだろう。人見知りとかは全然しないやつだ。リズベットを少し大人しくさせた感じ、て言えばわかるかな? 君とも、すぐに仲良しになれると思う」

 

 ベッドの横に置いてある椅子に座りながら、私のことを紹介した。私にはわからない誰かの名前を出して、説明していた。

 

「今日は一つ面白いことがあってね。直葉と剣道の試合をしてみたんだ。……あ! コイツ、こう見えて全中ベスト4の実力の持ち主なんだ。そうは見えないだろう?」

 

 本当はベスト8なんだけど、とは訂正できなかった。……ちょっとだけでも、見栄は張りたい。

 

 その時になってようやく、兄の様子が変なことに気づいた。

 口を挟んでうかつなことを言ってしまえば、もろく崩れてしまう絶妙な均衡。ソレが保たれていた。現実と幻影の淡い、その細い小道を綱渡りしている。何かを見ないように/気づかないように必死になっていた、必死であることすら隠して……。

 それは私にも、経験があった。

 

「自分じゃ結構いいとこまで行ったと思ったんだけど、まだまだ体が言うことを効かなかったのかな、最後に押し負けたよ。鍔迫り合いからこう……頭に一発、強烈なのもらってね。気絶させられた。スパコーンッ! て一発だ。あれは参った……」

 

 今朝の試合を再現してか、自分の頭を手刀で軽く小突いた。そして、照れ笑いを浮かべながら頭を掻いた。

 

「たぶんコイツ、あのヒースクリフより強いんじゃないかと思うんだ。……妹だからて、贔屓してるわけじゃないからな」

 

 また私の知らない誰かの名前を出して説明すると、訂正を加えた。まるで、彼女に何かを言われたかのように。

 

「試合やってみてわかったんだが、アタックとソードスキルの再現は難しいな。筋力が足りないってのもあるかもしれないけど、システムアシストみたいな外部からの引っ張る力みたいなのがないとどうにもならない。結構あれに頼ってきたんだって、わかったよ。……こっちに戻ってきた時、あれがなくて随分苦労したよ」

 

 コクコクと頷きながら自分の体験を語った。……額や鼻を撫でながら。

 

 リハビリの最中兄は、よくわけのわからないポーズを取ることがあった。それで一瞬固まって、そのまま姿勢を崩し床に倒れる。一歩前に出て踏ん張るや床に手をついて受身を取るなどもせず、そのまま頭から床にコケてしまう。その後、何が起きたのかわからないという顔を浮かべながらも、次には苦笑いを浮かべて何事かを納得した。

 そんなことを何回か繰り返した。何度も床に倒れて頭をぶつける。歩いたり走ったりする最中にも急にソレをするので、顔中擦り傷だらけ鼻血まみれにもなった。あまりにも多発しいつ大怪我が引き起こされるか気が気でなかったので、リハビリをやめさせようともした。……兄は心配を振り切って、リハビリを続けた。

 そのかいあってようやく、その奇妙な癖は消えていった。今でもその名残はあるが、地面に倒れて怪我を負うほどではなくなった。転んでも受け身を取れるようにもなっていた。

 

 ソレは、兄の言う『ソードスキル』というものの責だった。ゲームに囚われていた後遺症の一つだ。

  *【ソードスキル】

  魔法や遠距離攻撃の類がないあの『ソードアートオンライン』における重要なコマンドだ。『初動モーション』なるポーズをとることで、剣道の型に似た動きを自動的に発現させることができる。自分の意思とは違ってゲームシステムが体を動かす。そのために早く強い。だけど、決められた動作しかできないという難点がある。……私の今やっているゲームには、実装されていないシステムだ。

 それは、使えなければ生き残れないほど必須のコマンドだった。使いこなせなければ、ゲーム攻略などできなかった。生活の一部としてソレを常用しなければならなかった。それゆえに兄は、現実でもその癖を抜くことが難しくなっていた。

 

「赤ん坊に戻ったみたいな気分だったよ。歩くだけでも一苦労さ。あっちでの常識が全くきかない、こっちじゃシステムアシストは働かない。そんな当たり前のこと、頭ではわかってるんだけど、体が言うことを聞いてくれないんだ。おかしいだろ? 頭だけしか動かしてなかったはずなのに、寝ていただけの体がそうなってるんだから。

 君も、こっちに戻ってきたときは気を付けない、と―――…… 」

 

 最後まで言い切れずに、途切れた。

 そこで初めて兄は、明日菜さんと向き合った。今の明日菜さんを見た―――

 

 

 

 均衡が、崩れ去った。

 

 

 

 動かぬ彼女の手を強く握り締めると、俯いた。その手を自分の額に当てると、祈るような格好になった。

 何事かを小さくつぶやいていた。後ろに控えていた私には、兄の顔やかすかなその声も聞き取れない。

 でも、何を言っているのかはわかった。震えながら彼女の手に縋り付いている様子/その背中が、全てを物語っていた。私はソレを知っていた。―――かつての私の姿が、今の兄とダブって見えいた。

 

 いたたまれなくなった。自分がこの場にいることがひどく、不自然な気がした。

 ここは、兄と明日菜さんの聖域だった。余人がおいそれと入ってはいけない場所だった。例え兄から誘われたとしても、自分から行きたいと言っても。

 悟らされたソレに従い、ソっと退出を告げた。決して乱さぬように、細心の注意を払いながら。

 

「……私、外に出てるね」

「いいんだ。そこにいてくれると助かる」

 

 出ようとする私を、兄が引き止めてきた。

 

 顔を上げ向かい直った兄の顔は、いつもと同じ。だけど、暗く沈んだ気持ちが隠しきれていなかった。それに何とか耐えて、耐えていることすら必死に抑え込んでいる。抱え込んで零れないようにして、平常を保っていた。……見た瞬間に、分かってしまうほど。

 兄と明日菜さんの分かちがたい絆の強さが、彼女への想いの強さが……。

 

 止めらるまま立っていると、独り言をつぶやくように尋ねてきた。

 

「直葉。お前も……、こんな気持ちだったのか?」

 

 どんな? ……とは、聞き返さなかった。

 わかっていた。兄が聞こうとしていたことを、察することができていた。私がわかっていることを兄もわかっていた。私たちは、同じ事件に遭い同じもの見て同じ無力感に襲われていたからだ。違うのは、私のは過去で兄のは今ということだけ。

 

「お前は2年間も頑張ったのに、俺は……たったの3か月だ。それだけでもういっぱいいっぱいだよ。……どうやって耐えてきたんだ?」

 

 いつもと違って弱々しい声、懇願するかのように問いかけてきた。

 

 そんな兄の様子を見るのが耐えられず、励ましの言葉が口に出そうになった。「そんなことない頑張れるよ」「ここで諦めちゃダメだよ」など、ごまかしの言葉を。でも……、寸前でやめた。

 聞きたいのはそんな、当たり障りのない言葉ではなかった。そんなことを口に出した後、兄の隣に立ち続けることはできない/したくもない。支えが欲しい彼に追い打ちをかけるようなこと/無視するようなこと/ちっぽけなプライドを守ることなど、してはいけなかった。……大切な何かが、壊れてしまう気がしたから。

 

 こみ上げてくるものを抑え込み、沈思黙考。やり過ごして、何を言えばいいのか考えてみた。兄が今必要としている言葉、私が言わなくちゃならないこと……。

 出てきた答えは、ただ……、誠実であることだけだった。

 

 一つ、大きく息を吐くと、意を決して吐露した。

 

「―――はじめは戸惑って辛かったけど、だんだんと慣れてきたのかな。お母さんとお父さんがいてくれた、てのも大きいけど……やっぱりソレが一番。

 お兄ちゃんは目覚めないのが、いつものことになってたから。悲しいとか寂しいとかどうしてあの時止めなかったんだ、ていう後悔はドンドン小さくなって、代わりにそうなってるのは仕方ないって考えが大きくなってきて……慣れたの。時間が経てば経つほど、辛さは小さくなっていったの。平気になっちゃったの」

 

 言い切ると、胸の中に苦味が広がった。

 

 人は、どんな苦境も悲劇も愛情すらも、慣れることができる。慣れて無関心になってしまう。

 何回も何日も繰り返されれば、全てフラットに均される。どんなに辛かろうと悲しかろうと許せないことであろうとも、ソレを補填するように愉しさが湧いてきてしまう。痛みに慣れて無感覚になって、次には愉快な気分になってくる。何かしらの愉しみを見つけ出してしまう。例えば、「身内に不幸が訪れた悲劇の少女」なんて劇画の中でしかないはずの役を演じる/演じれることなど。誰にも代われない/特別な自分になれた安心感に満たされる、ソレが変えようのない現実の事件であればなおさら、剣道の全中ベスト8など目にもならないほどに。……純粋な怒りと悲しみは、長く保つことができない。

 その事実を実感してしまうと/一端でも脳裏に浮かんできてしまうと、罪悪感がコベリついて離れなくなる。目覚めてくれた兄を見ると、自分の中のやましさが浮かび上がってきて怯える。兄に降りかかった悲劇を楽しんでいたのではないかと、このままずっとそうしてくれれば楽しみは終わらない/好きな人の介護をするのは楽しい、私抜きでは身動きひとつできず生きることもできない=生殺与奪の権利を握っているから―――。

 頭の奥底から声が響いてくる。そんなことはないと否定しても消えない、これから先も消えてくれないだろう。……今も残っている、あの事件の爪痕だ。

 

「私ね、本当は……お兄ちゃんの無事を想い続けては、いなかったよ。目も気持ちも逸らしてきた、全力で向かい合わないようにしたの。そうしないとこっちが潰されちゃう、て怖くなって。このぐらいで充分かなって勝手に計った分だけ、それも少しづつ減らしていくの。

 ただ、お見舞いにいった時はどうしても逸らしきれない、どうしたって考えさせられちゃう。だから、回数も時間も減らしていったの。行くって予定していた日も、自分の都合であっさりなかったことにしちゃったりもした。……あと2ヶ月経って高校入ったら私、お見舞いしなくなってたんじゃないかな」

 

 胸の内を告白してみても、何も晴れなかった。むしろ、言って後悔した。人には、特に兄には言いたくなかった秘め事の一つだった。

 でも、だからこそ今、言わなくてはならないことだった。……そうだったと思いたい。

 

 何も言わず静かに、私の告白に耳を貸してくれた兄は、全てを告げ終わるとおもむろに言った。

 

「……そうか」

「うん」

 

 互いに短く言った。

 

 

 

 しばらく黙ったままうつ向き合うと、先に顔を上げた兄が口を開いた。

 

「嫌なこと言わせちまって、ゴメンな」

 

 私の嘘も冷たさも無視して謝ってきた。そんなものあっても感謝してる/何一つ軽蔑することなんてないと、込めて。

 

 言われて驚き、だけどすぐに納得もした。兄ならそう言ってくれると、嫌な顔など微塵も浮かべずに。……そう言うしかないと。

 無理をさせてしまったことに気づかされ、沈んだ。兄の為を思ってのことだったのに、逆に慰められるなんて……。

 でも、この無理には真実がある。嘘の塗り固めではなく、積み上げて出てきたもの。

 だから私も、笑顔を浮かべみせた。

 

「気にしなくていいよ。……このことについては私、お兄ちゃんより先輩ですから!」

 

 腰に手を当て微笑みながらそう言うと、兄は驚いた。

 だけど次には、朗らかな笑顔を浮かべ言った。

 

「そうだったな」

「そうだよ」

 

 再び短く言い合うと、くすくすと忍び笑いを漏らしあった。

 

 先までの沈鬱な空気は、ほんの少しだけど、消え去っていた。

 

 

 

 

 

 ―――トントン。

 

 

 

 気分が少し晴れると、扉をノックする音が聞こえてきた。

 

 黙ったまま二人してそちらに振り向いた。看護師さんの検診時間か何かだろうと予想しての気負わなさであった。

 だけど、予想通りの返事がなかった。来訪者はそのまま、病室へと入ってきた。

 

 その姿を見たとき兄は、目を見開き次には―――睨みつけた。

 

「―――久しぶり和人君。それと、直葉ちゃんも」

 

 現れた中年の男は、気さくに挨拶してきた。

 隙のないスーツ姿で決めている黒縁メガネ。その顔は人懐っこそうで実年齢より若く見える。向けてくる笑顔も穏やかそのもので、どこかの営業マンにも見える。裏も表も害もない呑気な柴犬、おもわず撫でてみたくなるような。

 だけど……違う。彼は、見た目通りの人物では決してなかった。

 

「部下からここにいると聞いてね。いやぁー、すれ違いにならなくてよかったぁ」

「……何しに来たんだ、菊岡さん」

 

 気軽に話しかけてくる男性=菊岡さんとは真逆に、兄は警戒心を隠さずに言った。

 *【菊岡誠二郎】

  SAO対策委員会のまとめ役として総務省から派遣された公務員で、囚われたプレイヤーたちのケアや収容する病院・家族との折衝を一手に引き受けている。被害者家族の一員である私も、よく現状を聞きに彼と彼の部下に話を聞いてきた。何を考えているのかわからないところはあるけど、たかだか中学生でしかない自分相手でも門前払いせずに話を聞いてくれた誠実な人ではあった。人としてはまだわからないが、公務員としては頼れる人ではある。

 そして現在、兄を世間の目から隠すための『保護』。その全責任者でもある。

 

「君たちと少し話がしたくてね」

「あいにく予定が詰まってるんです。今度にしてくれませんか?」

「君の予定はずっとフリーだと思ってたんだけど?」

「残念ながら今日だけは違います。これから直葉とデートするんで」

「ほえ? ……えぇッ!!」

 

 思わず声が裏返ってしまった。菊岡さんも目を丸くしている。

 唖然と口をパクパクさせながら、兄を振り返った。その真意を尋ねようとしたが、その顔は至極真面目だった。

 

「ちょ、ちょっとお兄ちゃ―――」

「だから悪いですね。あんたに構ってる暇は全くないんだ」

 

 私の混乱を遮って、強硬に断り続けた。

 そのまま無理にでも話を終わらせようとする=私を連れて病室から出ようとした。しかし、出入り口を陣取られていたため抜け出そうにもできない。

 邪魔だ/どけよ/シッシッ、との追い払いを込めた視線を向ける、菊岡さんはどこ吹く風と小動きもしない。

 

「なぁに、時間は取らせないよ。なんだったら僕が、色々と街を案内してあげるけど?」

「そんなお節介いらないです」

「そう言わずに、行きつけに美味しいパフェをだすおしゃれな喫茶店があるんだ。僕の話が終わったら、二人で楽しむといい」

 

 無碍に断ろうとする兄をやんわりと、だけど強引に躱しながら言った。その笑顔を崩すことなく。

 

 何が何だかさっぱりわからない。が……、どうやら二人の間には、とてつもない因縁があることはわかった。菊岡さんに向ける兄の視線は、試合で垣間見せたような鋭さに研ぎ澄まされていた、それ以上にノコギリのようにささくれて。……兄がこんなにもむき出しの怒りを向ける相手は、見たことがなかった。

 驚きながら事の成り行きを見守っていると、兄が嫌悪感を強調して告げた。

 

「はっきり言わないとわからないらしいから、言わせてもらいます! あんたと話をすることなんて、金輪際な―――」

 

 

 

 

 

「明日菜さんを助けられるかも、としても?」

 

 

 

 

 

 一瞬、時が止まったかのようだった。息を飲まされた。

 

 その言葉に、兄は瞠目していた。あらん限りに。出そうとしてた言葉も、喉元で掻き消えていた。

 菊岡さんの方も、笑顔を一部はがしたかのようで、その奥から真剣な面持ちを垣間見せてきていた。

 

「君の力が必要だ。……僕の話に付き合ってくれるかい?」

 

 そう言うと再び、笑顔を向けた。……完璧な作り笑いを。

 

 

 




 長々とご視聴、ありがとうございました。

 感想・批評・誤字脱字のしてき、お待ちしております。

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