カタン、コトン。カタン、コトン―――。
のどかな晩秋、麗らかな木漏れ日の中、白木でできた寝椅子が揺れる。俺たちを乗せてゆらゆらと。
カタン、コトン。カタン、コトン―――。
眠りに誘うようなリズムが奏でられる。心地の良い森の香りに微睡む。スヤスヤといつまでも、いつまでも……。
昔はこんなこと、望んでいなかった。
夢にも思っていなかった。一人で生き抜ける力が欲しく、誰よりも強くなりたくて。他人に隙など見せてはいけないと、気を張り続けてきた。
一歩間違えれば死に至る危うい状況下、もはや救援はやってこない。自分たち以外では解決できない。そんなデス・ゲームの中では、誰もが何かしらの狂いを見せていた。俺自身もまた、その一人になっていた。今まで信じられていた常識すべてが、ここでは全くと言っていいほど通用しない。危険だけど、決して飽きない異世界。それだけあれば、それだけを抱えるだけ精一杯だった。
だから人のぬくもりなど、持ってなどいられなかった……。
でも今、隣にいるアスナに教えられた。
そこに/隣に彼女がいてくれることに、例えようもない安心があった。だけど同時に、怖れも。今まで押し込めていたモノが、彼女を通じて蘇っていた。
振り払ってきた全てが、取り返しに押し寄せてくる。返せ返せ返せと、もはや理由すら忘れた/持てなかった復讐の念に急き立てられて。それは俺が払わなければならないのに、彼女にも背負わせてしまう、彼女なら率先してそうしてしまう。その未来が見えてしまい/その時俺は決して彼女の意志を曲げることはできないとわかって……、怖い。例えようもなく、怖い。彼女は俺のせいで終わってしまう。
アスナとともに生きたい、現実の世界で生き抜いてみたい。彼女だけはどんなことがあっても生きて欲しい。それだけが、俺の願いになった。それだけあればあとはどうでもいい。だからもし、彼女がいなくなってしまったのなら、俺は―――……。
コトリ……。
俺の胸に彼女が頭をあずけてきた。そして、栗色の髪がしなだれた。
甘い香りがフワッと舞い上がると、先ほどの震えは収まっていた。
微笑みながらその様子を感じた。
そのままにしてやりたいが、少し不安定な体勢でもある。このままでは膝にまで頭が落ちて起きてしまうかもしれない。まだもう少しだけもう少し……、こうしていたかった。手で支えて、寝やすいように戻してやろうとした。
だけどその手は、空を切った。
触れられなかったことに訝っていると、ぬくもりまで消えた。
驚き彼女がいる場所を見る。だけどそこに―――、彼女はいなかった。
誰もいない。そして視界に映る世界も、変わっていった。
遠くガラガラと、何かが崩れ落ちていた。穏やかだった森が騒然としていた。まるで津波か地震でも予知したかのように、我先に逃げんと騒ぎ立てている。
そしてすぐに、静まり返った。耳が痛くなるような静寂、生き物の気配が消えていた。立ち並ぶ梢のむこう側から、黒い闇が迫って来る。
闇は急激に俺を囲い込んだ。
上下左右すべてからソレが迫って来る。先までの森を喰らい尽くし黒く染め抜きながら。瞬く間に、俺たちの家まで差し迫ってくる。そしてすべてを―――、飲み尽くした。
地面までなくなり、堕ちた。
「―――、―――。――――――ッ!!」
深淵の中に一人、音なき悲鳴をあげながら墜ちていった。
どこまでも深く、深く、深く……。たった一人で、伸ばした腕は何も掴めない。
そんな恐慌状態の中、俺が叫んでいたのは彼女の名前。俺の手から消えてしまった最愛の人の名前。
でもその声は/までも、闇の中に消えた。彼女のもとに届いたのかは、わからない。
届いて欲しいような、だけど届いて欲しくないような、矛盾した感情。彼女に助けてもらいたいが、こんな場所に来て欲しくはなかった。ここにいないこと/ここではない何処かにいることに安堵している。だから……、この声は届かないだろう。
どこまで堕ちて、堕ちていく。俺自身が消え去る底まで深く、深く、墜ちていく―――……。
そして、深淵に溶けていった。
◆ ◆ ◆
遠くで、誰かが呼んでいる声が聞こえた。
「―――ッ! ―――ッ!!」
キーンという鋭い音が鳴り響き、その声ははっきりと聞こえない。でも、切迫していることだけはわかった。
起きなきゃいけない。目を覚まさなくちゃいけない……。
そう思い、ぼんやりとしたまま体を動かそうとした。だけど、うまく動かせない。思うようには力が入らない。代わりにジンジンと鈍い痛みが広がっていった、おもに頭から。痛みは形のない重しとなって、動かそうとする意思をくじいてくる。
あまりの不快感に呻く。涙がこぼれそうになった。
痛みがこれほどまでに強いものだとは、思っていなかった。小さく呻き声を漏らしながら、それに耐えていた。
「お兄ちゃん、ごめん、大丈夫ッ!? しっかり、しっかりしてぇッ!!」
今にも泣き出しそうなその声は、妹の直葉の声。先程まで激しい試合を繰り広げていた相手、そして、約2年間かの仮想世界で死線をくぐってきた俺を見事に打倒した強者だ。
でもその彼女は今、悲鳴じみた泣き声をあげていた。
その手は触れるだけ。下手に動かしてはまずいとのことだろうか、壊れ物を扱うように恐る恐る揺すってきた。どうすればいいのか、何ができるのか何をしてあげれるのか何が正しい対処法なのか、わからない。わからなくて怖い。
それで弾みがついた。
痛みをこらえながらもゆっくりと、上体を起こしていった。
「―――くぅぅーッ、いってぇー……」
激痛が走っている頭を撫でながら、起きた。でも、まだ立ち上がることはできない。床に尻餅をつきながら痛みが引くのを待った。
「お兄ちゃん! ……だいじょう、ぶ?」
オロオロと消え入りそうな声で話しかけてきた。……実に直葉らしくない、気弱な態度だ。
こちらを心配してくれてことだろう。ありがたい限りだ。だけど今は、その優しさが気恥ずかしい。強烈で見事な面一本ではあったけど、それで気絶してしまった。なおかつ起きたら心配されているというのは、兄の面子として受け容れがたい。それ以上に男として大事な威厳がない気がする。……せめて立ち続けたかった。
「……いやぁー、参った。やっぱりスグは強いなぁ、綺麗に一本取られたよ」
なので、はっきりと負けを認めた。直葉へ健闘を送った。
言い訳など微塵もできないほどの一本だった。負けてしまったが、あそこまでやられたらいっそ清々しい。
「……本当に大丈夫?」
「なんとかな。……だけど、これで終わりにしようか」
話しているうちに、痛みも引いてきた。
なおも心配そうに見つめてくる妹をよそに、立ち上がった。スクッと、問題ないことをアピールしようと。そして、取りこぼしてしまった竹刀を右手にもちなおすと、大きくバツの字を描くように振った。
シュンシュン……。いつもの癖、刃についている汚れ/穢れを払うため。そんなものあちらでもこちらでもないが、気づいたらいつもやっていた。これで戦いは/血腥い命のやり取りは終わりだと、気持ちを切り替えるための禊でもあった。
振り終えると、背中にそれをしまい込もうとした。だが……、いつのような感覚が無い。
剣が鞘に嵌りながら、同時に導かれるような感覚がなかった。それも当然だ。そこには/背中には、いつもの鞘が吊っていなかったから。
なので、柄から手を離した瞬間、竹刀は後ろに落ちた。
ガタンッ、カラカラ……。落下音が道場中に鳴り響くいた。
俺の背後でコロコロと転がる竹刀。その様子を二人して、呆然と眺めた。
「―――ごめんなさい! 私、そんなことになるなんて、こんな……」
「へ!? ……いや、その、これは―――」
「私、すぐに先生に連絡するから。お兄ちゃんはそこでじっとしてて―――」
防具をつけたまま飛び出そうとする妹を、慌てて止めた。
「な、何でもないぞスグ! 気にしすぎた。これはその……、長年の習慣でな」
「でも何かあったら? 頭だから何が起きたってわからないんだよ? あんな思いっきり面を打たれたから、腕に麻痺が―――」
心配を通り越して青ざめている妹に、慌てて訂正した。が……、効果は思った程にもなかった。自分の言葉でさらなる悪循環に堕ちていた。この世の終わりのような絶望感で、頭を抱えている。
「大丈夫、本当に大丈夫だ! 何でもないから、おおごとにしないでくれ」
「でも……」
「ほら見ろ! ピンピンしてるだろ俺、健康そのものだろ? さっきはちょっとだけ失敗しただけなんだ―――」
そう言うとすぐさま、転がった竹刀を拾った。そして、先できなかったことを再現した。
改めて人前でやらされると、非常に間抜けだ。あちらでもこんなこと、やったことはない。だが、これで直葉が落ち着くならいい、なんでもやってやる。
「―――本当は背中に鞘があってそこに入れるんだが、今はないからできないな。これだけで勘弁してくれ。
でもまぁ、見せてやりたかったよ。後ろも見ないでちゃんと入れられるんだぜ。百発百中だったよ。できる奴だって数える程しかいなかった。ミスると恥ずかしいから誰もやらなかったんだろうな。昔の剣豪とか居合いの達人だってあんなことできないんじゃないかと思うね、俺は。こんなことやっている奴アメコミ映画でしか見たことないし。あ! そうすると俺…、けっこうスゲェことしてたんだな。アハッハッハッハッ―――」
テンパりながらもまくし立て、最後は笑ってごまかした。
そんな俺の必死さが伝わったのか、直葉の表情も若干和らいだ。燃え盛る火の海の中に置き去りにしてしまった大事な父親か兄の形見を取りに行こうか逡巡している顔つきから、ソレを止める母親か姉の顔つきまでに。
お互いに冷静さを取り戻すと、一つ息を吐いて言った。
「……頼むよスグ。もう病人扱いはゴメンだ」
「でも、これで何か病気にでもなったら、私―――」
「その時になったら頼むよ、今はまだ平気だ。このぐらいでくたばるほど潔くはないよ、俺は」
そう言うと無理やり会話を打ち切り、防具を外しにかかった。
「……わかった。ごめんなさい」
「謝るのもよしてくれよ。悪いのは俺が弱かった責なんだから」
言いながら、すべて外し終え道場脇に整えておいた。そしてそのまま、外の手洗い場へと向かう。
慌てて直葉の方も防具を外し、ついてきた。
「そんなことないよ! 先の試合、勝ってたのは私じゃなくてお兄ちゃんの方だったよ」
「おいおい、あんなに綺麗な面を決めた奴が言うセリフじゃないぞ。誰が見たって、勝ったのはスグのほうだろ」
「あれはそうだけど……。でもその前に―――」
なおも言い募ろうとする直葉を無視して、蛇口に手をかけた。昔ながらのソレを捻ると、勢いよく水を出てきた。
ザァーと音を立てる流水、台の底にぶつかりピチャピチャとしぶきを上げていた。その中に、叩きのめされた頭をヌッと突っ込んだ。
大丈夫だとはいいつつも、熱を持って腫れているのが触らなくてもわかる。パンパンとはまではいかないが、内側から押されるいるような圧迫感があった。
水で冷やすと、それが幾分か引いていく。パシャパシャと冷たい水がはねて道着の襟元・肩が濡れるが、構わずつけ続けた。
冬真っ盛りにまだ朝日が昇ったばかりの外は、肌寒い事この上ない。シャツ一枚は着ているとはいえ道着だけでは、くしゃみが出てくる。だけど、先の試合の余熱がまだ残っていた。ポカポカと、風呂に浸かったあとのように体中が熱い。冷たい水を浴びても、気持ちがいいと言えるほどだ。
ただそれでも、長居は無用。髪全体がじっとりと濡れそぼると、つけるのをやめて顔を上げた。ポタポタと水が滴り落ちては、背中や腹にツーと冷たいものが流れ落ちてくる。脇にかけておいたタオルで、それを拭き取っていった。
「……お兄ちゃん。私に隠れて練習してたの?」
「んー……。まぁ、そんなところだな」
「ひどーい! なんで内緒にしてたのよぉ!」
「『能ある鷹は爪を隠す』てやつだよ。こうやってお前と試合した時に、不意打ちで一本決めようと企んでたんだ。だけど……、結果は惨敗だったな」
ふくれっ面を見せてくる直葉に、肩をすくめながら笑った。……笑ってなんとか誤魔化した。
直葉の剣と違って俺のソレは、
誰かの命を蹴落として切り捨てて、手に入れたものだからだ。それは喜べるような技術では、決してない。
もちろん、本当の血に濡れているわけではない。だけど、切り捨てた命は本物だ。
仮想世界であるあそこでは、流血は細かく赤いライトエフェクトでしかなかった。パラパラと傷口から砂粒のようにこぼれるだけで、刃にも手にも地面にもその跡を残さない。しばらくは染みが残り、《索敵》スキルか特殊なアイテムを用いればもう数時間だけは長く見ることはできるが、数時間もその場に留まっていられない。後には何もなかったかのように、システムが自動的に綺麗に掃除してくれた。でも、それでも『血に濡れている』と表現するしかない。刃で切りつければ、間違いなく対象の命を削り取るからだ。そしてあそこでは、現実と同じように命はたった一つしかなかった。
だから、あの時俺は止めざるを得なかった。アレは剣道の試合とは違うものだった。ルールを破った行動だった。でも俺は、ルール無用/残酷な世界で生きてきた/生き抜いた。そこで磨かれた剣だった。だから、実力が拮抗している/やられるかもしれないと直感させられたあの時、致命傷を捻り出す攻撃を躊躇いなく繰り出してしまった/繰り出せてしまった。
あれはもはや、反射だった。体に染み付いてしまっていた。イメージの世界でのことだけだったのに、ここでも……。あんなもの、直葉には見せたくなかった。
幾度の死闘の末に手に入れた力/剣技の数々。それはこうやって、現実世界でも俺の手の中に残っている。
あの時の超人的な身体能力やシステムアシストは、さすがに再現できてはいない。だけど、刃の振るい方や迫る刃への対処の仕方は再現できた。まだまだ幾分も齟齬は生じているけど、それは現実のこの軟弱な身体の責だ。あのデス・ゲームの中で培ってきたものは、現実の俺の中へ確実に引き継がれていた。
「それじゃあさ、今度は一緒に練習しようよ。二人でやれば早く上達できるしね」
「そう、だな……。もう一回剣道、やってみようかな?」
「本当!」
目をキラキラと輝かせながら言ってきた。……そんな顔を見せられては、否とは言い難い。
(それに、ソードスキルを現実で再現してみるのも、面白そうだし―――)
胸の中で、かつて体験したことを反芻してみた。
あの縦横無尽さと疾走感の記憶を、自分の今の感覚にダウンロードして再現してみた。パワードスーツのような外部からの運動力補助にするか、ナーヴギアのように直接神経に働きかけて強化する形をとるか、はたまたそのハイブリットを……。
想像しただけでも先行きは長く、問題も山済みだった。でも、自分のこれからを賭けるに値する何かであると、訴えてくるものがあった。やってみたい/俺にしかできないことだと。
嫌なことはたくさんあった。見たくないものも見せられた。だけど、それでもあそこで生きてきて良かったとは思えている。嬉しかったり面白かったりしたことも確かにあった。現実では決して味わえなかった冒険ができたことは、一生の宝物だ。当時はこのような悟ったことは思えなかったが、帰還した今ではそう言える。あそこで生きたことを記憶の中だけでなく、何かの形としてこちらに残したいと……。
だけど、それは全て
思い出すと、沈鬱な気持ちが迫り出してくる。目頭が自然と熱くなってきてしまう。
実際戻ってきた当初は、思い出すだけで涙がこぼれ出すのを止められなくなった。自分の無力感が/何もできないのが歯がゆく、運命を呪う。神を気取ったあの男に問いただしたくて/罵倒したくてたまらなくなっていた。
何か方法はないのか=何もない、どうにかしたい=どうにもできない、やらなくちゃならない=俺以外の専門家がどうにかしてくれるだろう……。焦燥感だけが積もり続けて、胸の中を焦がし続けてきた。
でも、あれからもう3ヶ月も経った。……その間、何の進展もない。
彼女は未だ、眠り続けている―――
迫り出してくる涙をグッと堪えた。表情には出さないように、喉元で押し込めることに成功した。……この3ヶ月で手に入れた唯一のものだ。
自分を哀れんでいるみたいだった。一人自室にこもっているとそんな気がしてしまう。それが嫌で堪らなくなり、リハビリに打ち込んだ。
早く自由に動き回りたかった/立ち止まっているとどうにかなってしまいそうだった。それ以上に、心配かけ続けてきた家族を安心させたいとの思いがあった。苦しくても根を上げず毎日欠かさず続けてきた。リハビリが終わると、今度は筋力トレーニングへ。
その頃には、あちらの世界での動きをこちらで再現してみたいとの欲も生まれてはいた。だがそれ以上に、体を痛めつけていたかった。何も考える暇もないほど疲労困憊したかった。一人悶々と考えれば考えるほど、悪いことしか浮かび上がってこない。もしかしたら、彼女はもう戻っては……。
カウンセラーに相談しても、何の助けにもならなかった。助言の全てが問題を素通りしてしまう。だけど、その無為の中でもただ一つ得たものはあった。心が乱れたと思ったら、目を閉じて深呼吸を数回しろ、そうすれば冷静を保てる。そんな、体に備わっている最悪な機能の活用だけだった。
それを全力で駆使して、吹き出る無力感を封じ込めた。日々をやり過ごしていった。
そして今、そんなこと露とも感じていないように、明るく笑いかけた。……そんなこともできるようになった。
「……でも、もう少し筋肉つけてからだな。鍔ぜり合いでスグに押し勝てるぐらいには、ならないとな」
「お兄ちゃんならすぐにできるよ」
「『スグ』だけにか?」
俺がそんな冗談を言うと、直葉はキョトンとした顔で見つめてきた。
だけど直ぐに、俺の言ったことの意味を悟ったのか、両手で自分の体を抱きしめた。
「……ううぅ。なんだか寒くなってきたよぉ」
そう言うと、ブルブルと寒そうに震える真似をした。
その様子に苦笑する。少しだけ、直葉の純真さで重荷が軽くなった気がして、顔がほころんだ。
「おいおい、これ俺のせいなのか? スグが『すぐに』なんて言うからだろ」
「これ以上そんなこと言うと風邪引くよ、お兄ちゃん」
ニコリと笑いかけながら言うと、いそいそと勝手口に向かった。俺もその後について行く。
家の中、台所にはふたり分のサンドイッチが置いてあった。夜に母が作り置きしておいたものだ。その本人は今、2階でぐっすりと睡眠中だ。休日でも早起きの直葉と違って母は、昼近くまで眠り続けるだらし無さだ。ただ、ここ連日の仕事は徹夜続きで、その疲れからのことではあるのだろう。2年前から変わっていないようで、大の男顔負けにバリバリと働き業績を残し続けてきた。そんなパワフルな活力は再会しても健在しているように見えたが……、どこか無理をしている気がしてならない。今日のようなことがあると尚更だ。
2年前までは、そんな母親のぐうたらさには苦笑いを浮かべていた。あまり褒められたものではないと、他人には曖昧にしなくてはいけない私生活の実情のひとつだった。ただ俺自身もその影響を受けたのか、徹夜して昼寝するというふしだらな生活を日常としていたので、貶す方向よりも共犯者がいるという安心感の方が強かった。でも今は、俺自身の見方が変わってしまったのだろうか、母親のそんな姿から老いというものを感じずにはいられない。自然に起きるまで、そっとしておきたい。
「私、先にシャワー浴びてくるね。今日はどうするの?」
「あ…………、今日? 今日は俺、病院に……」
最後まで言えず、言いよどんでしまった。……先までせっかく、堪えてきたというのに。
それは顔色にも現れてしまったのか、察した直葉が尋ねた。
「もしかして……、あの人のお見舞いにいくの?」
「……うん」
うまい言い訳もごまかしもできず、素直に頷いた。
どうしてこんな現状になっているのか……、わからない。
確かに俺は、あの世界で最終ボスたるヒースクリフ=茅場晶彦を打倒した。ゲームをクリアに導いたはずだった。そのあと、アスナと二人して黄昏の空の上に導かれると、崩壊する鋼鉄の浮遊城を見た。ソレを眺めながら茅場本人から皆の開放を告げられた。あの時の奴の言葉に、嘘など微塵もなかった。する必要もないほど満足していて、どこか彼方へと消え去った。
でも現実は、違った。解放されていなかった。―――俺以外の全てのプレイヤーは未だ、現実に帰還を果たしていない。
わからなかった。あの茅場が嘘をついたなど、思えなかった/思いたくもなかった。
HPを全損させていなかった約6千人のプレイヤー達は、現実に帰還できるはずだった。そういうルールを、奴自身が宣言していた。でも、それは裏切られていた。HP全損によって脳が焼かれることはなかったが、ゲームクリアでプレイヤー達を解放することもなかった。未だ皆、ナーブギアを被ったまま。……たった一人、俺を除いて。
その現実を前に俺は、怒りを通り越してやるせなさに支配されてしまった。さらには、俺がその引き金を引いてしまったのではないかとも、考えてしまった。あの男を信じたばかりに、こんな結末を引き寄せてしまった。……そんなことまで考えさせられるほど、恐ろしく重い罪悪感で潰れそうだった。
ただそれでも、アスナは生きている。まだ死んでいない。なんとか救い出せる方法があるはずだ。……それだけが、今の俺の希望だ。
「今の俺には、そんなことしか……、できないから……」
力なく返事した。口に出すとさらに消沈してしまう。
今の俺には、何の力もない。何もできない/彼女を助け出す手立てはない。皆にも家族にも隠れて、もう一度あの世界に入り込もうとナーヴギアを被っても、拒絶されるだけだった。何度やっても結果は同じ。浮遊城への門は閉ざされていた、そもそもあるのかすらわからない。日々無為な時間を過ごすしかなかった……。
「……そっか。―――よかったら、私も行っていいかな?」
「え? ……ああ、別に構わないが……。学校はいいのか?」
「サボる」
トンデモ発言に、しばし言葉を失ってしまった。
「……お前特待生なんだろ。サボったりしたら内定取り消されたりしないか?」
「今まで無遅刻無欠席だったから、何の問題もありません」
「おいおい、だったら尚更最後まで貫けよ」
「中学の内で一回やってみたかったの。いいでしょ?」
グイッと迫りながら言った。
眠っている間でも背丈が伸びたのだろう。2年前は同じぐらいだったが、今では俺のほうが少し高い。そのため、近づいてきた直葉は俺を見上げる形になる。そして同時に俺は、見下ろす形に。
そこには、襟元からこぼれ出るほど立派なものが二つ、せり出しているのが見えた。試合中は全く気にならなかった/道着と防具で見えなかったこともあったが、こうやって間近で見せ付けられるとさすがに気づかされた。2年前とは違う、成長した直葉の現在―――。
顔が赤くなった。思わず、そこから顔を背けた。
「私、まだアスナさんには会ったことがないの。いい機会だから今日、会ってみようと思います」
「……どんな機会だよ?」
「『お兄ちゃんと初めて剣道の試合をやった』記念です!」
わけのわからない理屈に顔をしかめた。……なんだそりゃ?
別段、独りで行かなくてはわけではない。一緒に行きたいのなら断る理由もない。ただそれは、今日が休日だったらの話だ。
妹を不品行に誘ってはいけない。今まで兄貴らしいことなどできなかったが、それでも今は、こうやって生きて戻ってきたからにはそう振舞おうと心がけている。出席日数は充分足りて一日程度では内定も揺ぎ無いだろうが、それでもダメなものはダメだ。そんな事をトクトクと言ってやろうとした。
でも、再び見据えた直葉の顔には、真剣味を感じ取れた。どうしても今日行きたいのだと、無言で訴えている。たぶんそれは、俺にはない、父親譲り/祖父の教えでもある頑固さだ。それが垣間見えてしまった。
どうすれば納得させられるかと悩んでいると、直葉の方から妥協してきた。
「……わかった。それじゃぁ譲歩。午後には学校に行くってことで」
「今日は土曜日だ。午後は休みだろ」
全く引く気がない妹に、冷静にツッコミを入れた。だけど、微塵も堪えた様子もなく、頑として真っ直ぐに見据えてくる。
(こいつは……、引下がりそうにないな)
そんな直葉と相対していると、かつての幼子だった彼女の姿がダブった。
祖父の剣道のシゴキに疲れもうこんなこと嫌だとへこたれていた俺、そんな俺の前に現れた直葉。「立て和人、この程度でへこたれるなど許さん! 立って鍛錬を続けろッ!」と怒鳴り続ける祖父の前に、「代わりに私がやる!」と見栄を切ってみせた直葉。「女のお前には剣など不要!」と切って捨てる祖父にも全く動じないで、「教えてくれるまで何度でも邪魔するッ!」と脅しつけてまできた。さすがの祖父も、10歳にも満たないような孫娘を竹刀で叩くわけにはいかず、睨みつけるだけしかできない。ただし、警官やヤクザですら目を背けざるを得ない迫力がこもっている視線で。
そんな無言のやり取りを何回も繰り返した。手を変え品を変え、宣言通り何度でも邪魔し続けた。その末にようやく、直葉は祖父から剣道の教えを受けることを認めさせた。
両の拳をギュッと握り締めながら、キッと真っ直ぐに相手を見据え続ける。絶対にそこから動かないと、徹底抗戦の構え。不退転の決意をまざまざと見せつけてきた。
どうしてそんなに意固地になるのかは、わからない。わからないが……、どちらかが折れるしかない。そして、折れるのは―――
肩を落とすと、ため息を一つついた。
「…………わかった、ついて来いよ」
「本当、やったぁー!」
固く引き締めていた顔が、パァッと一気に明るくなった。
「兄貴としちゃ、こんなこと勧めたくはないんだが―――」
「私、先にシャワー使うね」
言い訳じみたセリフを言うが、最後まで聞かずに直葉は洗面所へと向かっていた。……置いてきぼりを食らってしまった。
「……相変わらず、そそっかしいな」
ポリポリと頭の横を掻きながら、苦笑した。その背を見送った。
(……まぁ、俺の方もいい機会だったのかもしれない)
独りで彼女と向き合っていると、どうしても気分が伏せって暗くなってしまう。見舞いに行くのではなく、自分を痛めつけに/現状の無力さを再確認するだけになっていた。
すぐそばにいて励まして、必ず無事に帰ってくると祈りつづけること。ソレが今の俺にもできる唯一のこと/最も重要なこと。一点の曇もなくソレができないようなら、無意味以上に害悪だ。一番つらいのは俺ではなく彼女なのだから。……直葉の元気を分けてもらえれば、変わるのかもしれない。
そんな打算を思い浮かべると、また苦笑が漏れた。……これでは、兄の威厳など夢のまた夢だ。
◆ ◆ ◆
バタンッ―――。
扉を閉めると、ようやく息つくことができた。そこに背中をあずけて、スルスルと床にヘタリ込む。
そのまま、膝を抱えてうずくまった。
「……大丈夫。今日ならきっと、大丈夫」
自分に言い聞かせるように、呟いた。実際そう言い聞かせた=不安をかき消す。
「いつか向き合わなくちゃいけないんだったら、今日しかない。今日だったらちゃんと……」
できるはず……。溢れ出てきたその言葉で、その時のことを思い出した。
実は兄には言っていなかったが、一度アスナさんの病室に行ったことがあった。眠り続けている彼女の横に、今にも消えそうなほど切ない顔つきをしている兄の姿を見たことがあった。ほんの少し扉を開けて、その様子を盗み見た。
その時の兄の姿が、忘れられない。
眠り続ける彼女の手をとりながら必死に何かに祈り続けている。おそらくは目覚めてくれるようにと、声を聞かせて欲しいと、何でもいいから伝えて欲しいと……。恋慕、魂の片割れを求めるかのような、深い切実な願い。ソレは、剣道一筋であった私にもすぐに理解できた。……理解せざるを得なかった。
それを見ると、思わず扉を閉めてみなかったことにしてしまった。病室からイソイソと立ち去り急いで家に帰った、何も考えないで/全てに蓋をして兄を迎えた。……その時のことを今までずっと、黙っていた。
どうしてそんな騙すようなことをしたのか? ……わからない。いつもの自分では考えられない行動だった、もっとハキハキとして裏表も嘘もないのが自分のはずだった。でも今、何度も何度もそのことを頭の中で反芻する/してしまう。―――そうするうちに、わかってしまった。
(私、お兄ちゃんのことが、ずっと―――)
溢れ出てくるそれを、寸前でせき止めた。その無理矢理に反発するように、不快な苦味が体中に走った。
でも……、耐えた/耐え切った。決してこぼすことのないように、飲み込んだ。
荒く苦しくなっていた呼吸を整えると、ソレを振り切るように立ち上がった。
「よぉし、いけるッ! あなたはちゃんといけるはずよ、直葉ッ!」
重要な試合の前でよくやる自己暗示、自分で自分に喝を入れた。
そしてパシンッと一発、頬を叩いた。
「―――くぅぅ……ッ!!」
その衝撃に呻いた。思った以上に強く叩いてしまったのか、視界にパチパチと小さな閃光が瞬いた。叩いた頬も、ヒリヒリと鈍い痛みをシミ広げている。
でも、それで迷いは晴れた。
弱ってしまった心に点った熱の滾りにまま、いつもならありえないほど乱雑に道着を脱ぎ捨てた。そして、フンフンと鼻息まで鳴らしながら、その火照りすぎた頭にシャワーを浴びせた。
これからのことはわからない。だけど、今は大丈夫。今はまだ大丈夫だ。兄の想いは、アスナさんだけに向かっている、私には決して……。
そうだとわかっても、大丈夫。私は二人を祝福できる。一刻も早くアスナさんに、兄のもとへと戻ってきてほしいと願い続けられる。そう言い切れる―――。
止めどなくにじみ出てくる想いを全て、洗い流していった。
長々とご視聴、ありがとうございました。
感想・批評・誤字脱字のしてき、お待ちしております。