視界が赤に染まる、全身にべっとりと何かが貼り付いてくる、鉄錆びた匂いが鼻腔を刺した。
ソレを浴びせられると、目の前で誰かが舞っているのが見えた。クルクルと回らされ、崩れ落ちる。遅れて机や食器が壊れる音がやってきた。
倒れた誰かは、ピクリピクリと不規則に蠕動、ゴボッゴボッと喘鳴もしていた。その度に真っ赤な水たまりが広がっていく、鉄錆の匂いがむせ返るほど充満していった。現実を別世界へと侵食していく。
ソレは人の/よく見知った人間の姿かたちをしていたが、そうとは見えなかった/見ることを拒否していた。意思ある動物が行う運動というよりは、コードに従い決められた動作だけを繰り返す機械の唸りに似ていた。あの仮想世界でもよくみてきた。見せられて気分のいいものではないが、無ければ無いで物足りない、リアリティを育んでくれたもの。
動作は徐々にひどくなっていった、1秒経つ間にドンドンどんどんと。動物から機械へ、単純なモノへと変わっていく。何か大切なものが抜け落ちていった。一度出てしまったらもう、二度と取り戻せない何かが―――。
そしてそのまま、動かなくなった、ピクリともしなくなった。
まるで糸が切れた人形のように、停止した。ヒビが入ってしまったコップから水が染み出てしまうように、とめどなく真っ赤な液体が流れ出しては床に水たまりを作っている。それとともに何か大事なものまで抜け落ちていき、そのまま溶けて消えていくかのように。その中に体を沈めて、横たえたまま。
俺の中の何かもまた、音を立てて壊れていった。
―――先まであんなに生き生きと、喋っていたのに。あんなに真っ直ぐ、力強い笑顔を見せてくれたのに……。
ソコにあるものからは、ソレを汲み取れない。汲み取れなくなっていく……。
あまりにも異常な事態だった。体の芯から戦慄した。どうしてそうなっているのかわからないのに、ガクガクと震えている。そんなこと起こるわけないのに、そんなことあるわけないのに? どうしてこんなものが目の前にあるんだろうか……?
だから、ソレに近づこうした。確かめないといけない。フラリと手を伸ばそうとした寸前、誰かに止められた。触れようとしただけ、これは夢か幻だと確かめたいだけなのに、叱られた。「危険だ、下がれ! 下がってくれ!」と怒鳴りつけてきた。そして、行きたいその場所から引き離してきた。
どうしてそんなことをするのかわからない……。俺はただ確かめたいだけなのに、肩を揺すって起こしてやらないといけないのに……。こんな場所で、しかも床の上なんかで眠るのは寒いし、何よりもはしたない。兄貴として見ていられない。俺は今まで何一つもそれらしいことをしてきた覚えはないけど、今俺以外に言ってやれる奴はいない。また、これからはそうあろうと心に決めていた。ちゃんとした、誇れるとまではいかないが呼んで恥ずかしくないぐらいの兄貴になる。だから、そんな場所で眠っている妹を起こさないと/叱ってやらないといけない。だから、だから、だからだから―――。
「どうして、彼女に……?」
横手から老人の声、隠しきれない怯えを混じらせた驚愕の呟きが聞こえてきた。俺と同じように、目の前に広がっている異常な光景を凝視している。信じられないと言わんばかりに、見開いて。
ソレが何故か目に焼き付いた。そのためだろう、下がらせる腕を唯々諾々と受け入れる。抵抗などできず、ただ手を伸ばすだけ。
頭の中は真っ白だった。何も考えられなかった/考えてもいなかった。だから、言われた通り/されるがままにソコから引き剥がされていく。ズリズリと、彼女から遠ざかっていく。遠ざけられていく―――。
離れていく彼女の姿、異常な光景/あってはならない映像。周りは騒然としているはずなのにやたらと静かな頭の中、耳の中ではキーンと電子音にいた甲高い音が突き刺し続けていた。
その耳が痛くなるような静寂の中で、世界が歪んだ。現実の感覚が遠のいていく。空白な頭の中で今と記憶が混濁する。目の前の惨劇に、過去の最悪が重なり合っていた。
3か月前の別の場所、ココとは違う異世界/その牢獄を解放するための戦いの場所。誰よりも、自分の命よりも大切な人がいた。そのために戦う/殺し合いを挑んだ。そのはずだったのに、守りたかったその人が身代わりになった。命が消えていく、消え去るあの光景―――。
アスナが俺を守るために、斬られた瞬間。絶対のはずのシステムに逆らい、ヒースクリフの止めの一撃を防いでくれたあの光景が、今の視界に蘇った。
周囲の風景、周りに屯している人たち、なにより目の前の犠牲者の姿はもちろん違う。ここは、命が脅かされるはずのない安全な現実世界……のはずだった。決してあの、デス・ゲームの中じゃない。あんなことは起こりえないことだった。でも……、同じだった。
同じように俺は、助けられる/守れない。守ろうと意気込んでがむしゃらに戦って突っ走って、でも相手には全く歯が立たない。あと一歩届かなくて悔しくて、もうダメだと諦めていた/よくやったと自己満足に耽り目を閉じようとしたとき、助けられた。守っていたはずの彼女に―――。
―――こんなものもう、見たくなかったはずなのに……。
そのために俺は、ここまで来たのに……。全て瓦解した。積み上げた何もかもが奪い去られていく。
視界が歪む。捻れて捻れて捻れて黒く……、ちぎれそうになっていた。意識も暗転しそうになる。口からは言葉にもならない嗚咽が漏れていた。目からは絞り出すようにして涙が流されていた。手足が凍りついたように、冷たく固まっていた。
再び、あの時の絶望が支配してきた。己のどうしようもない無力に叩きのめされる。体も思考も魂すらフラットに、全ての活動が停止していく―――。
でも、何かが楔となった、ギリギリの崖っぷちで引き止めた。ソレは重しとなって、深淵に逃げることを拒絶させる。今にもちぎれ飛びそうにフワフワしていた俺を、硬い地面に縛り付けてきた。心臓の鼓動。バクバクばくばくと、がなり立てていた。まるで責め立てるように/急き立てるように/吼えるように、俺を体に縫い付ける。
すると、はじめの衝撃が抜け落ちた。全身にトクトクと血が通い始め、麻痺が解けていく。猛烈な何かが腹の底から吹き荒れてきて、痺れを吹き飛ばしていった。
―――あの時と同じじゃダメだ。ここはあそことは違う!
この体は借り物じゃない。自分だけのものだ。俺だけのモノだ―――。
神様気取りの天才科学者でも機械仕掛けの神様でもない、本物の神様からもらったものだ。だから、誰にも支配できない/させやしない、俺自身にすら。どれだけ打ちひしがれても/叩きのめされても、迷いなく生き続けようとする。生き続ける選択を断行してくれる。あの時とは違う、あの時とは違う、変われる! あと一歩、踏み出していける―――。
俺の意思とは別のところからこみ上げてきた力、ソレが俺を動かした。
ソレはまるで、心と体が分離しているようだった。理解不能な現状だった、今まで体験したことがない。目の前の悲惨を受け入れられず迷子になっている心とは違って、俺の体は既に答えを出していた、行動にまで移っている。機能不全を起こしてしまった心に代わって、体が示した目的へ、全てを従え真っ直ぐに―――
(こんなものを見せつけてきた奴は、どこのどいつだ―――)
顔を上げる、砕けてひび割れている窓ガラスに目を向ける、その先の街を・雑踏を・屹立する建物を見る。その中の一点、ひときわ巨大で小高い丘のような建物、その屋上に注意が向く。意識が集中していく―――
かつての世界で培ってきたスキル、視界の一点がズームアップされては映像の粗が補正されまたさらに一点を覗き見ては敵を捉え続ける【索敵】、望遠鏡の視界。ここではソレは、あちら以上に各段階がシームレスに処理されていった。ので、ほぼ一瞬でその場の映像が映された。瞳に大量の血液が流れ込んでいるのか熱く燃えて、今にも破裂しそうだった。だけど、見極めることができた。
どうしてそんなものが見えるのか?
わからない。現代の日本人ではありえないであろう異常な視力、あるいは弁別能力か。どちらにしてもありえないことには変わらない。
なぜそんなことができるのか?
その答えを導くだけの暇も今はない。見えるのだから見える、見たいものが見えた。だから、その姿を脳みそに刻みつけた。これから先、決して忘れないように刻み込む。それだけわかればいい。
こちらに向かって、金属製の棒状の何かを突き出している誰か、一人。その姿は黒くはっきりと識別できないが、大人の男性ではありえない細身だ。居ることだけし見えない。
だけどその目、こちらに向けてきているその視線だけは、はっきりとわかった。危険な最前線を生き抜いてきた攻略組にも、それと似たものがあった、それ以上の冷たさがあった。攻略組以上の異常集団、自分たちが生き残ることすら度外視して暴力を振るい続けてきたレッドプレイヤーたち、彼らの狂気に似ている。こちらを射殺さんとする、無言の殺気―――。
ゾクリと、背筋が泡だった。急に冷水を浴びせられたように、全身の沸騰が止められた。怒りで我を忘れかけていた分冷静になれた。目が合ったら殺される、そんな直感が降ってきた。だからすぐにでも、目を逸らすべきだったのだろう。
でも口元は、嗤っていた。そんな目をしている奴だったら決して、見間違えることなどない。
(アイツが、俺の―――敵だ!)
ソレを理解した次の瞬間、体を跳ね起こしていた。
ガバッと一気に、その場から立ち上がった。羽交い締めしている誰かを振り払い/抜け出し、駆け出した。同時に、床にこぼれ落ちていた食器を一まとめに鷲掴みながら。俺を隠しながら庇っている誰かを払い除けながら、騒然としていた店内から出ていこうとした。
驚愕と恐怖が入り混じった顔を通り過ぎていく。そんな俺を止めようと伸ばしてくる手をくぐり抜けていく。まだ先ほどの衝撃が抜けきっていないのは彼らも同じなのか、包囲網は雑になっており隙を見つけるのは容易い。制止の網目を縫いながら振り切って、走り抜けていく。
「待て和人君! すでに榊を向かわせている、君はここにいるんだッ!」
背中から、一番先に払い除けた誰かが叫んできたのが聞こえた。だが、知ったことじゃない。止まらず店内から出た。出ようとした。
だが、出入り口の先、階段を降りようとしたその時、鉢合わせた。―――黒のライダージャケットにフルフェイス型のヘルメットに身を包んだ男、長袖のツナギにライダーゴーグルを装着した男二人。
互いに一瞬、息を飲んだ。
まさかそこに誰かが居るとは思っていなかった。だが俺は、先を急いでいる、構わず突き飛ばしてでも外へ。
すぐさまその通りにしようとするも、できなかった。その正体不明の男たちの手に、ナイフが握られていたから―――。
ゾッと、背筋が凍りつく。危険の警鐘が叩き鳴らされ、頭の中かが真っ白になった。金縛りにあったかのように体も強ばっていく。だけど、前衛に位置していたゴーグル男の手が/ナイフがこちらに向かって動かされたのが目に入ると、一気に金縛りが解けた。
同時に/反射的に、踏み込んでいた。
(ここで立ち止まっては死ぬだけ、下がってもすぐに追い詰められる、考える暇はない。だったら―――)
やられる前にやれ! ……SAOで培った戦闘勘が、意識する前に体を動かしていた。
半歩、俺の方が早い―――。相手は武器を持っていたが、出だしは俺の方が早かった、ためらいもない。出会い頭の奇襲のような形となったので、突き出した俺の拳は先に男の顔面に届く。
狙いは誤たず/ナイフが刺さる前、男の顔面を―――殴りつけた。
体重と勢いが乗った、おまけにカウンターで奇襲の一撃。メリッと、頬が弾け顎が傾き顔が歪んだ。その衝撃で男は仰け反った。バク転させられながら、廊下の床に沈んでいく。受身も取れずに倒れた。
顔も知らなければ初対面、だから正当防衛とは言えやしない。だけどおそらく『敵』の一味、降りかかる火の粉は降りかかる前に払わなければならない。
残った後衛のヘルメット男は、目の前の光景に一瞬唖然とするもすぐに行動。握ったナイフを突き出してきた。その間、拳から痛みが伝わって来る刹那。
(コレは躱せない。刺される―――)
心臓を刺し貫かれながら壁に叩きつけられる。反撃しようもなすすべなく、血がドバドバ流れ出てそのまま床へ、先に見た光景と同じように……。そんなデットエンドが見えた。
このままでは殺される。初動でそう見切ると、右手を突き出していた。ナイフの穂先に向かって、躊躇なく―――
ブスリと、手の平に刃が刺さった。そしてすぐに、手の甲から穂先が飛び出してきたのが見えた。
これでも止められない、だが勢いは弱めた。敵も驚きベクトルの修正ができない。その僅かな撓みを使って迫り来るナイフを流す、危機を脱した。
同時に敵の体勢も崩れた。無防備な脇腹が目の前を横切っていく、千載一遇のチャンス―――。膝蹴りを叩き込んでいた。
体をくの字に曲げられながら嘔吐く敵。手加減一切なしの膝蹴りをもろに受けたためか、フラフラ後ろに下がると階段を踏み外した。ゴロゴロとそのまま転がり落ちていく、受身など取れず後頭部を強打しながら。
それで意識まで刈り取られたのだろう。地上の踊り場で止まると、手足を投げ出し動かなくなった。
倒れて気絶している二人を横目に、右手にはナイフが刺さったまま、すぐさま階段を駆け下りた。急いで建物の外へ出る。
その出入り口にまた、見知らぬ男が待ち構えていた。ブカブカなミリタリージャケットと付いているフードを目深に被っている、そして黒の使い捨てマスクをつけた男。中に駆け込もうとし、俺と俺に倒さたヘルメット男とゴーグル男を見て驚愕している。
(コイツも敵か、なら―――)
倒す……。一瞬でそう判断すると、完全に下りきる前に跳んだ。両足を揃えて敵に向ける、ドロップキック―――
驚きその場で固まってしまった敵、異常な光景で釘つけにされたのだろう。その姿を目の端で捉えたすぐ後グニュリと、靴の裏から柔らかな肉の感触が伝わってきた。それが足弓全体にまで広がっていくとそのまま、外に飛び出た。
フート男は蹴り飛ばされたまま歩道にベタンッと、背中から叩きつけられた。その衝撃かその前の蹴りでか、仰向けで車に轢かれたカエルのような有様で気絶、鼻と口から真っ赤な血が吐き出され顔と周囲を汚していた。俺はその横へ、危なげに着地した。
これで邪魔者は全て片付けた、追いかけられる……。そう安堵する間もなく、着地した俺を人影が覆った。目の端で、新たな敵を捉えていた。ヨレヨレのダウンジャケットにつば広の野球帽、同じく使い捨ての白のマスクで顔を隠した大柄な男。
いきなり飛び出てきた俺と蹴り出されて倒された味方にビクンッと、竦んだように縮み上がった。まるで、人里に下りて人間と遭遇してしまった熊のような有様、そのまま腰を抜かしそうな怯え様。
(こいつは、無視しても構わないか……)
そう判断しかけ、横を抜けようと立ち上がろうとすると、男の目の色が変わった。衝撃から覚めて現状と目的を再認識する。揺らぎが消え鋭く固まった、しっかりと俺を見据えてくる。
男の手が腹部に引き戻された。ジャケットの裾で隠れていたズボンのベルト、そこに隠していたリボルバー式の拳銃を抜き出す。慣れた手つきで安全装置を外しながら、その銃口を俺に向けようとした―――
寸前、まだ向けられる手前、右手に刺さったままのナイフを掴んで引き抜いた。そしてそのまま振り上げ、男の手首を切った。
人の皮と肉を切った感触は、なかった。SAOの中にいた時と同じ、豆腐を切ったかのようで手応えが薄い。切った後で切ったことに気づいた。だけどビシャリッと、真っ赤な鮮血が噴き出した。飛沫が頬と額にぶつかる。
ソレが目に飛び込んでくると野球帽男は、くぐもった悲鳴を漏らした。抜き出そうとした拳銃も取りこぼし、地面に落ちていく。痛みのためか反射的に、その傷口に手を当て体を屈めようとした。俺からも意識が外れる。―――致命的な隙。
立ち上がると同時にガラ空きの股間へ、フルスイングの蹴りを叩き込んだ。
コリッと、した柔らかい感触は一瞬だけ。次にゴツッと硬い反響が伝わって来ると男は、飛び上げるように屈めようとした上半身を反り上げた。そして先を倍するような、声にもならない絶叫を吐き出した。
さらなる追撃を加えようと身構えていると、男はそのまま崩れ落ちた。断末魔のような表情で口元から泡を吹きながら、尻を突き出した土下座の格好で倒れていく。そしてそのまま、気絶した。
野球帽男が倒れるとワッと、周囲の人混みが騒いだ。道行く一般人たちが、俺を奇人か犯罪者であるかのように見つめてきた。俺が目を向けるヒッと、怯えを浮かべる。
それに釣られてか、何だ何が起きたと人が群がってきた。中には好奇心ゆえか、携帯のカメラを俺に向けてくる野次馬も見えた。
そんな人ごみが騒ぎ立て始める前に、できかけの人壁を押しのけて進んだ。目的の建物まで一気に、駆け抜けていく―――。
長々とご視聴、ありがとうございました。
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