霧雨魔理沙が逃亡の一手を思案に入れている時、我らが博麗霊夢の胸中に渦巻いていたのは、意外にも人間らしい恐怖感だった。
『死』を具現した極熱の炎。
魔理沙が押し飛ばしてくれなければ、アレは確実に博麗霊夢を呑み込んでいた。
鮮明な死の残り香が、未だ心の中に充満している。
――初めてだったのだ。
――あんなに近く、『死』が接近してきたのは。
これまでにも、危ないと思える場面には何度も直面してきた。
だがいつもは、戦闘に入る直前に誰かの介入があり、何とか戦闘は回避していた。先程の狸妖怪の襲撃のように。
――それ故か、博麗霊夢は本当の意味での『危機』に遭った事は一度たりてない。
だから危機を目の前にしたのはこれが初めてだったのだ。
――トラウマになりそうだと、博麗霊夢は空飛ぶ箒の上、震える身体で魔理沙の背中にしがみつきながら思った。
「霊夢ッ! スピード上げるからもっと強く抱き締めろ!」
「う、うん」
魔理沙の言う通り、より一層強く抱きしめた――その途端、音より疾く、光より遅い速度で部屋の中を駆け回った。
翠色の弾幕から逃げる為に。
「ハハハハハハッ!! ねぇステファニー? ねぇ鬼ごっこ! ねぇ鬼ごっこッ!」
フランドールが甲高い声で言った直後、不規則な動きをする翠色の弾幕は霧散した。それと同時に、炎を帯びる大剣を構えたフランドールは脚に力を入れ――そして、溜めた力を爆発させるように飛び回る魔理沙と博麗霊夢に接近した。
「なっ。はやっ――」
「はははははははっ!!」
この世全ての愉悦を味わっているような表情で、フランドールは音に等しい速度で追い掛け回る。
だが、それでも魔理沙と博麗霊夢には追い付けない――今は、まだ。
じりじりと、少しずつ距離は近づいていく。
このままでは――捕まってしまう。
(全速力なら振り切れるのに――)
吸血鬼は天狗並みの速度を誇ると言われているが、魔理沙とて、それくらい速度は容易く出せる。否、それを圧倒的に越える速さを出す事も可能だ。
だがそれは、全力を出したならの話。
――今は後ろに博麗霊夢がいる。
今以上の速度を出してしまえば、きっと博麗霊夢の身体は風圧に耐えきれない。
一応、博麗霊夢にも対風圧の魔法を掛けている魔理沙ではあるが――魔理沙はまだ魔法使いとして未熟な故か、他者に魔法の効果を付与させる事に慣れていない。掛けられない事は無いが、効果は微々たる物なのだ。
(くそ、どうするべきか……)
「ステファニーっ! お得意の『灰燼旋風烈火閃』はどうしたの!? もうすぐで追いついちゃうよ! ねぇすぐに追いついちゃうってばぁ!」
ハハハハッ! と笑い続けるフランドール。
笑いながら、炎を纏う剣を振るい魔理沙達に火を飛ばした――接近されすぎた為か、魔理沙のスカートの一端に焦げが出来た。
尻目で博麗霊夢に当たっていないか確認したが、見たところ掠ってすらいなかった。
後ろから攻撃されたのに、何故。無事そうで安心した反面、魔理沙は改めて博麗霊夢の常軌を逸した凄まじきラックに戦慄を覚えた。
いや、運だけでは無いか――
「あぁスカートが焼けちゃったじゃないステファニー! もう駄目な子ね。折檻しなきゃ」
「――――」
見たところ、フランドールの眼中に博麗霊夢はいない。
ステファニーという灰燼と化した人形にしか――誤認されて人形扱いされている霧雨魔理沙しか、フランドールの目には映っていない。
ふむ――これならもしや――
「なぁ霊夢」
「な、なによ」
黙り込みながらも、苦しいほど強い力でしがみついている博麗霊夢に言う。
「――すまん」
「なにをよ」
「頭を抱えて、行ってくれ――ッ!」
「えっ――」
魔理沙はしがみつく博麗霊夢を離す為、自分に魔法の電気を流す――静電気よりも僅かに強い、痛くはないが覚悟しても吃驚する衝撃が走るほどの電気。
つい、
博麗霊夢は振り落とされた。
「――ちょっ!」
「わりぃな霊夢。この箒は一人用なんだ」
へへっ、と悪戯な笑みを溢す魔理沙。
――博麗霊夢は勢い良く、部屋にあった大きなベットに頭から突撃した。
どかんと、爆発音に似た音が轟く。
「うわっビックリした。ステファニー、大きいおならするのね!」
「お前んとこのメイドが料理爆発させた音だろ――!」
いつもの冗談を冗談で返すスタイルで言い返した魔理沙――いや、違うか。恐らくフランドールは本気で言ったのだろう。
やはり、フランドールの眼中に博麗霊夢はいなかったようだ――というか博麗霊夢の存在にさえ気付いていないのではないか?
(……確かにこれは、狂っている。思考が直線的すぎるし、自己完結的だ。盲目と言うべきか……なるほど、確かにこれは、監禁させるを得ないな)
だがやはり――魔理沙は、彼女を見捨てて置くことができない。
「あぁ嬉しいわステファニー。嬉しくて嬉しくて嬉しいわ! お人形ごっこしかできないと思っていたのに――鬼ごっこができるなんて初めての事よ! ハハハハッ!!」
「――――」
フランドールは決して、快楽を求め、人を
魔理沙はその事を知っていた。
――そう。
ある者に、知らされたのだ。
パチュリーの秘書――小悪魔に。
『――遠き昔の出来事です。
まだ赤子であったフランドール様はご自身の『破壊』の権能で、父と母を殺害してしまいました。
理由は、おしめを取り替えて欲しかったから、でしょうかね。
――まぁ理由なんて、本当は無いのかもしれませんけどねぇ。だって赤ちゃんですもの。何にも考えてなかったのかもしれません。
ですが――その出来事が、フランドール様の人生を拗らせた。
何と、あろうことか父の死で当主になったレミリア様は、赤子のフランドール様を地下に閉じ込めたのです。
当然と言えば、当然なのかもしれませんね。5歳児のレミリア様でしたが、その判断は恐らく正しい物だったのでしょう。
無論、親を殺されたという私情による判断だったと思いますが、それは決して間違った判断ではない――少なくとも、フランドール様以外の者からしたら、ね。
フランドール様は結局、今日までずっと地下で暮らしています。
生まれてからほぼずっと。
大した教育もされず、知識源は本のみ。
――フランドール様は狂った御方ですが、その狂気の理由は単に『人と接しなかったから』でしょう。言うまでもないと思いますが、この場合の人は人間ではなくレミリア様など屋敷の者達の事を示しています。
まぁつまり、何を言いたいのかといいますと――吸血鬼フランドールは獣に近く、
先天的なサイコパスではなく、後天的なサイコパスなのです。
――皮肉ですよね。
屋敷の者達は彼女のことを『狂っている』と蔑めますが、その原因はその者らにあるのに――あぁ、可哀想なフランドール様。
およよよよ。同情せざるを得ませんよ――
――魔理沙さんも、そう思うでしょ?』
(あぁ。より一層、そう感じたよ――)
フランドールを憐れみ、
胸に溢れんばかりの同情――今もなお、褪せることなく胸を痛ませてしまう。
(さて、じゃあ――精一杯、遊んでやろうじゃないか!)
霧雨魔理沙は心の
その燃料は、ただの水であったと。