とある少年と奉仕部 Our Teen Rom Com SNAFU   作:TOAST

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4. 擦れ違いとホンネ

定期テストが終了し、2年生1学期初の学年イベントとなる職場見学の日がやってきた。

少年はクラスメートの男子2名と共にとある町工場へ向かっていた。3人一組のグループ分けで、適当に組んだ他の2名の生徒が選んだ職場だった。

「やっべー。緊張してきた。この工場、A組は俺達だけだけど、他のクラスから人は来るんかなぁ」

「女子来ねぇかな、女子!」

―――来る訳ないだろ

少年は数歩離れた場所からクラスメートの会話を耳にし、心の中でそう毒づく。

今回彼らが選択した訪問先は、地元の中小製造業者だ。特殊技術を有しているとの触れ込みだが、その実態は同族経営のオンボロ工場と言っていい。これはグループを組んだ2人の男子が、くじ引きで適当に決めた見学先だった。

総武高校の職場見学を受け入れる企業は、地元の零細製造業者やサービス業者が殆どである。一方、同校は県下有数の進学校だ。多くの生徒は大学へ進学し、ホワイトカラーや公務員として人生を歩むことを漠然と目標に掲げている。従って、今回のイベントを自分の将来と結び付けて考えるような学生は殆どいない。

無論、海浜幕張や千葉駅周辺のオフィス街に位置する大企業の支店に運良く受け入れてもらえればその限りではないのだろうが、そういった企業の生徒受け入れ枠には限りがある。自分達の希望職種にマッチする企業を訪問できないのであれば、イベントとして楽しく時を過ごすのに最適な見学先を選ぶまでである。そんな中、女子との出会いを求めるなら、アパレルであったり、カフェであったり、他に賢い選択肢がいくらでもあっただろう。

少年は彼等の会話を耳にして、そんな思考を巡らせていた。

―――ま、どうでもいいけど

彼自身、今回の職場見学は適当にやり過ごすつもりだった。

この見学先に特段反対しなかったのは、夕方からのバイト先に近いから。それだけの理由だった。

「おはようございます!総武高校2年A組の生徒です!」

工場の入り口にて、グループの一人が大きな声で挨拶をしながら敷居を跨いでいく。

少年は冷めた表情を浮かべつつ、それに続いて建物の中へと入っていった。

「…あら、奇遇ね?」

工場には他のクラスから見学に来た3名のグループが待機していた。

そのグループは少年の予想に反して全員女子である。

少年はそのうち一名に声を掛けられ、顔を顰める。目に見えて頬が緩んだ他の2名の男子とは対照的だった。

「…何で女子がこんな工場に?」

少年は工場の職員がいないことを確認した上で、声の主である雪ノ下雪乃に質問した。

「希望先のシンクタンクは申し込みが殺到したせいで、定員オーバーになってしまったのよ。私、クジ運が悪くて…おかげで他の二名に恨まれてしまったわ」

雪ノ下雪乃と少し離れた場所に立っていた2年J組の女子二名が、それに反応するように苦笑いを浮かべつつ「そんなことないよ」等と小声で呟く。しかし、彼女達は目に見えてやる気のない様子だった。

「そっすか」

少年は興味もなさげにそう言った。

あのテストでの勝負以来、少年は態度を軟化させた。約束通り、深夜のバイトも行っていない。

とは言え、施設の後輩達への援助を打ち切るつもりはやはりなく、かと言って、里親の支援をアテにした生活を送るのも未だに躊躇っていた。そうなれば、支出を更に切詰めることで難局を乗切る他方法はない。敗北の要因は自らの努力不足にあると判断した彼は、その苦い経験を自らの戒めとするつもりだった。

しかし、雪ノ下雪乃はそんな少年の意向などお構いなしに、トータルケアと称して、少年の時間と家計の管理を奉仕部で行うべく主張した。少年がプライバシーを理由にそれを断ると、顧問の平塚教諭を通じて圧力をかけてくる始末だ。いつの間にか、彼女が里親からの概ねの送金金額を把握していた時は、流石に少年も衝撃を受けた。

「生徒の自立支援など口先だけ」という、彼女に対する侮辱がここへきて完全に裏目に出てしまった。これだけの送金があればもう少しまともな家に住むことも出来るだろう。そう言って、由比ヶ浜結衣と一緒に、勝手に引っ越し先の物件まで探し出して提案して来たこともあった。その都度、理由をつけて断るのが面倒になる位のお節介ぶりに、彼女への苦手意識を覚える程だった。

その後、特段の会話もなく全員が立ったまま過ごしていると、奥から一名の工員がやってきた。

「あ~総武高校の学生さん?全員で6名だったか?もう揃ってるみたいだな…見学っても狭い工場だし、まぁサクッと敷地内を見て回ってから、実際に作業工程を体験してもらえばいいか。ま、よろしく頼むよ」

やる気の無さそうな表情でそう言った工員に対し、少年と雪ノ下雪乃を含む6名は、不安を覚えつつも、社交辞令としてペコリと頭を下げる。

「そうそう、作業体験は2人一組な。今からチーム分けしてもらえる?」

工員が付け足すように言ったその言葉に、男子二名は嬉しそうな表情を、女子二名はやや困惑した表情を浮かべた。どうせなら男女ペアで参加したいというA組男子の思惑と、知らない男子と組むのは御免被りたいと言う女子の考えが透けて見えた。

「…では私は彼と組みましょう。他は同じクラス同士でいいかしら?」

そんな状況を察した雪ノ下雪乃は、そう言いながら少年の横に立つ。

「え?…ごめんね、雪ノ下さん」

「別に…彼とは部活も同じだから抵抗はないわよ」

雪ノ下雪乃の申し出に対し、J組の女子二名はほっとした表情を浮かべ、目で若干の申し訳なさを示しながらそう言った。対照的にA組の男子2名の顔からは落胆の色が伺われる。他方、少年の方といえば、あからさまに嫌そうな表情を浮かべている。

「何か文句があるのかしら?」

「別に…」

ここまで来て、また彼女に監視されるのか。

そう考えると、少年はゲンナリした。

☆ ☆ ☆ 

午前中、あっという間の敷地見学を終えた後、総武高校の学生6名は作業体験と称した無償労働に駆り出された。そろそろ昼食の時間である。皆が疲労を感じ始めた頃、各々が順次、社員食堂へと案内された。食堂では見学に来た学生達にも社員と同じメニューの昼食が準備されていた。とは言え、トレーに皿や椀を乗せて回ったカウンターで、配給の熟年女性が適当に飯、主菜、汁物をよそってくれるような簡素な食事だ。

少年と雪ノ下雪乃は食事の盛り付けられたトレーを手に、向かい合って空いている席に座った。少し離れた所には、J組の女子二人が座っている。A組の男子二名はトレーを持ちながら、空きスペースを探してウロウロしていた。彼らは、少年と目が合うと、恨めしそうな表情を浮かべた。

―――言ってくれりゃ、いくらでも変わってやるっての

少年はそう考えながらテーブルに備え付けられていたプラスチックの箸に手を伸ばした。

「貴方、仕事には真面目に取り組むのね」

お茶に口をつけて一息入れた所で、雪ノ下雪乃が少年に話しかけた。

「立ち仕事はレジ打ちのバイトとかで慣れてるから…雪ノ下さんは相当疲れてるように見えるけど、大丈夫?」

午前中に割り振られた仕事は単純な製品ラインの仕分け、梱包業務だった。早朝の見学では、プレスや旋盤といった男子が興味を示しそうな工作機械も目にしたが、そうした機会を扱うには専門の技能資格が必要となるため、見学の生徒にアサインされることはなかった。そんな単純作業を文句も言わずに黙々とこなした少年を褒めた雪ノ下雪乃自身は、少年が聞き返した通り、早くも貧血気味である。

「休憩すれば大丈夫よ…とは言え、体力がないのは何をするにしても不便だわ。少し運動したほうがいいのかしら」

「…疑問なんだけどさ。体力ないのに、テニスとかどうやってあんなに上手くなれたの?」

少年は、戸塚の依頼で雪ノ下雪乃がテニスコートに立った時のことを思い出し、ふと沸いた疑問を口にする。普通に考えれば、相当な練習量をこなさなければあれだけの動きは出来ないだろう。そして、そんな練習をこなしたのであれば当然体力が付くはずだ。そう考えてのことだった。

「…才能、かしら。でも結局はそれだけなのよ。どんなスポーツも継続すれば、周りから妬まれて、邪魔をされるから長続きしなかったわ」

「なるほど、そりゃ難儀なことで。となると逆に、料理とか勉強とか、他人に邪魔されない分野じゃ負けないってことか…」

「まだあの勝負のことを根に持っているの?あれは貴方がハンデを背負っていたようなものでしょう?川崎さんから聞いたわよ。貴方、テスト期間中も殆どバイトのシフトで埋めていたようね?どうやって順位を上げたのか不思議なくらいよ」

「…別に根に持ってないし。何でわざわざここで蒸し返すかな…」

少年は雪ノ下雪乃の発言を嫌味と捉え、ムッとした表情でそう答えながら食事に手を付けた。口にした主菜の肉野菜炒めは脂ぎっており味付けも濃い。如何にも体力勝負のブルーカラー向けを意識した食事内容だ。おまけに、飯は一部が焦げて硬くなっていた。

少年が食事に手を付けたのに習って、雪ノ下雪乃も箸を動かすが、一口だけ口にすると眉を顰めて箸をトレーに置いた。その様子を見て、少年は再び口を開いた。

「…雪ノ下さんを見てると、才能に限らず、人は平等じゃないって思い知らされるよ…僻むしかできない人間にはなりたくないけどさ」

「殊勝な心掛けね。時間は公平に有限、だったかしら?反骨心だけでここまで努力する人間は小・中学にはいなかったわ…でも、貴方の言い方にはトゲがあるわね」

「気を悪くした?でも事実でしょ?…一見平等公正に見えるこの世の中も、よく見りゃ明確な階級社会だ…勝ち組と負け組、そこには高い壁がある。比企谷なんかは”人間の社会性"って面でそういうのに敏感なんだろうけど、俺だってそういう壁に阻まれて上を見上げる側の人間だしね」

「…壁?」

「例えば、この昼食一つとってもそうだ。こんな焦げた飯、雪ノ下さん、食ったことないでしょ?」

少年の言葉に、雪ノ下雪乃は顔を上げて気が付く。

同じメニューの食事を嬉しそうにがっつく工場労働者。

特段の感想も無さそうに普通の顔で食べるA組の男子生徒。

雪ノ下雪乃同様、ウンザリした表情を浮かべているJ組の女子生徒。

総武高校の中でも、彼女達が属するJ組は特に偏差値が高い国際教養科と呼ばれる特殊学級、別名お嬢様クラスだ。そう揶揄されているのは何も女子が多いからだけではなく、その生徒の家庭の殆どが裕福だから、と言った背景がある。彼ら、彼女らの食事に対する反応の違いが、正に社会構造における壁の存在を映し出していた。

「固定化された階級は覆えらない。壁は壊したくても壊せない。それなら自分で乗り越えるしかない…その唯一の方法は経済力を手に入れることだ。もちろん、今すぐ自分の力でそれを手に入れるのは不可能だってのは分かってる…普通に考えりゃ、今はバイトに明け暮れるより、里親に頼ってでも学業に集中するのが賢い選択なんだろうけどさ…」

「なら、そうすればいいでしょう?貴方なら十分…」

雪ノ下雪乃は、少年の様子を伺うように、丁寧に言葉を選びながら発言する。

「そのためには捨てなきゃいけないものがあるからね…結局、俺にはそれが捨てられなかった」

「捨てなければならないものって?」

「…焦げた飯…かな」

一瞬だけ自嘲的な笑みを浮かべた後、窓の外をぼんやりと眺めながら少年はそう呟いた。

雪ノ下雪乃は必死に思考を巡らせ、その言葉の意味を探る。そして一つの答えに行き当たった。"焦げた飯"、それはきっと施設の後輩達のことだろう。自分一人が里親の支援を利用して成功しても、後輩達はそれに続くことが出来ない。自分の力だけで成功出来るという実例を示す他、彼らに希望を与える術はない、そう言っているのだと感じた。

「…食べるわよ。そんな遠回りな比喩で私を試しているつもりかしら?」

雪ノ下雪乃はソッポを向きながらそう言うと、再び箸を取り、食事を無理矢理口に詰め込みだした。

「え?いや、無理して食えって意味じゃないよ?…ってかごめん、今のは別に嫌味じゃないから」

少年は、雪ノ下雪乃のその意外な反応に驚きの表情を浮かべた後、ふっと柔らかい笑みを浮かべて言い訳する。

「これが嫌味でなければ何だと言うのかしら…」

雪ノ下雪乃は肉野菜炒めの濃い味付けに胸焼けを覚えながら、少年の言葉を非難した。

「…古いドラマのセリフだよ…ちょっと言ってみたくなっただけだから。ホント、無理に食って仕事中に吐かないでよ?」

「フィクションに自己投影とは、度し難い愚かしさね。悲惨な過去を自慢げに語る比企谷君と同じ位気持ちが悪いわ」

「…久々に出たね、その辛辣な批判…ってか、今は比企谷関係ないじゃん…可哀想な奴」

少年は遠い目でそう呟いた。これまでと違い、少年は彼女のそんな言葉に噛み付くわけでもなく、軽く笑って受け流しながら食事を進める。その様子を黙って見ていた雪ノ下雪乃も、彼に倣って箸を動かした。

「…どうせ、時代遅れで泥臭いサクセスストーリーと言ったところでしょう?」

「え?」

しばらく間を開けた後、雪ノ下雪乃は不意にそんな質問を少年に投げた。突然の問いに、少年は間抜けな声を上げる。

「…そのドラマの話よ」

「時代遅れで泥臭いは余計だよ…俺のバイブルなんだ。施設の職員に隠れて夜中に何回も録画したのを見てたからね」

付け足された言葉でようやく質問の意図を理解した少年はそう言い返した。彼女の推測は正しい。正しいが、その表現は少しだけ癪に触ったので、反論すると同時に、自分にとっては非常に大切なものであることを遠回しに伝える。

「…後でタイトルを教えなさい」

雪ノ下雪乃は、照れ隠しなのか、ソッポを向きながらボソリと呟いた。その頬は少しだけ朱に染まっている。少年はそんな彼女の様子を呆けながら眺めた後、プッと吹き出した。

―――もう少し素直になりゃ、いくらでも人から愛されるんだろうに…嫌な奴だと思ってたけど、案外不器用なだけなのかもな

少年は雪ノ下雪乃について、そんな感想を抱く。一方彼女は、笑みを浮かべるだけで自分の問いには答えない少年に対し、憤慨するような表情を浮かべている。再び口を開けば、出てくるのは相手を責めるような発言ばかりだ。その全てが照れ隠し故の言葉であるとの自覚があるのか、喋れば喋るほどに雪ノ下雪乃の顔は紅潮していった。

少年の入部以降、二人の間に存在し続けていたわだかまり。今日、それが少しだけ解けるのを二人は感じていた。

☆ ☆ ☆ 

同日午後

海浜幕張のオフィスビル出入口にて、由比ヶ浜結衣は一人の男子生徒が見学コースからを待っていた。それは彼女の想い人たる比企谷八幡だ。今日は職場見学終了後、自由解散となる。普段、部活動を除けば一緒に時間を過ごす機会は少ないが、今、クラスメートの大半は早々に見学を切り上げて打上げへと繰り出していた。彼を誘うにはもってこいの建前だ。

「あ、ヒッキー遅いし!もうみんな行っちゃったよ!」

比企谷八幡が遅れて一人見学ブースから出てきたのを目にした彼女は、胸を弾ませながらそう声をかけた。

「ああ、悪い。で、そのみんなはどこに行ったわけ?」

「サイゼだよ」

「ほんと、千葉の高校生はサイゼ好きだな…お前は行かねぇの?」

「え!?…あー…ヒッキーを待ってたっていうか…その、置いてけぼりは可哀そうかなー、なんて」

彼の問いかけに対し、由比ヶ浜結衣は誤魔化すようにそう言った。

「由比ヶ浜は優しいよな」

「へ!?…あ、え!?そ、そんなことないよ!」

突然、表情を柔らかくして呟いた比企谷八幡の言葉に、由比ヶ浜結衣は顔を真っ赤にして答える。想い人に褒められて、急激に鼓動が高鳴るのを感じていた。

「…あのさ、俺のことなら気にする必要はないぞ。お前んちの犬、助けたのは偶然だし」

しかし次の瞬間、彼は諦めたような表情を浮かべてそう吐き捨てた。

テスト期間中、妹の比企谷小町から聞かされた事実。一年前の交通事故の原因となった犬の飼い主が実は由比ヶ浜結衣であったこと。彼はずっとこのことを彼女に伝えるタイミングを窺っていた。突然そんな言葉を投げかけられた由比ヶ浜結衣は思考停止し、息を飲む。体が凍りついたように動かなくなった。

「…ヒ、ヒッキー、覚えてたの?」

何とか口をついて出た言葉。なんと間の抜けた質問なのだろう、本当はもっと言うべき言葉があるはずだ、そう考えるも、彼女はそれを言語化することができなかった。

「いや、覚えてないけど、家にも礼に来てくれたんだってな。小町から聞いた…悪ぃな、ずっと変な気を使わせちまったみたいで」

比企谷八幡は困惑した彼女の先を制するように畳み掛けた。

「まぁ、でもこれからはそんなこと気にしなくていい。入院しようがしまいが、どの道俺はボッチだったし、お前が気に病む必要はねぇよ…気にして優しくしてんなら、そんなのはやめろ」

伝えるべき言葉を口にしながら、比企谷八幡は思わず語気が強まっていくのを感じていた。

「や、やー…なんだろーね。別にそういうんじゃないんだけどな…」

由比ヶ浜結衣は状況を打開すべく釈明しようと足掻くが、出てくるのは言い訳じみた誤魔化しの言葉だけだった。比企谷八幡が勘違いしているのは理解した。それを否定し、もう一度正式に礼を述べ、自らの想いを伝える。それが今、自分がすべきことだと頭では解っている。それでも、自分の気持ちを徹底的に否定された故の惨めさに心が支配され、それが出来なかった。

「…バカ」

最後に出たのは、自分の伝えたい内容とは真逆の、負惜しみ、罵りの言葉だった。由比ヶ浜結衣は涙を零して、その場から逃げるように走り去った。

一人残された比企谷八幡は考える。これで良いい。他人の優しさは自分の心の平穏を掻き乱す。自分に優しい人間は他の人にも優しいのだ。真実は残酷というのなら、きっと嘘は優しいのだろう。だから優しさは嘘だと自分に言い聞かせる。いつだって期待して、いつも勘違いして、いつからか希望を持つのはやめたのだ。

―――だから、いつまでも優しい女の子は嫌いだ

比企谷八幡は、自分に言い聞かせるように、そう心に念じた。

☆ ☆ ☆ 

「比企谷君…貴方、由比ヶ浜さんと何かあったの?」

1週間後、奉仕部の部室にて。

職場見学の後、由比ヶ浜結衣はパタリと部活に来なくなった。ここ一週間、少年は自習、雪ノ下雪乃と比企谷八幡は読書に耽り、部室は嘘のように静かになった。互いに必要最低限の会話しか交わさないこの環境は、3人にとって悪くない居心地ではあった。だが、雪ノ下雪乃は部長として、明確な理由のない欠席者の存在を放置し続ける訳にもいかない。思い切って、由比ヶ浜結衣のクラスメートである比企谷八幡にそう尋ねることにした。

「いや、何も」

「何もなかったら由比ヶ浜さんは来なくなったりしないと思うけれど。喧嘩でもしたの?」

「いや、してない…と思うが。だいたい喧嘩なんてそれなりに近しい連中がすることだろ?だから喧嘩っつーより…」

「諍い、とか?」

「当たらずとも遠からずって感じか」

「じゃあ戦争?」

「当たってないし遠くなったな」

「なら殲滅戦?」

「話聞いてた?遠くなったよ?」

そんな二人の会話に聞き耳を立てていた少年は、呆れ顔でペンを置いた。

「…言葉遊び?じゃなかったらポンコツ過ぎるでしょ、雪ノ下さん…殲滅戦って…」

「何が言いたいのかしら?」

少年の言う通り、比企谷八幡とのやり取りは言葉遊びのようなものであったため、ポンコツ呼ばわりに反応した訳ではない。だが、雪ノ下雪乃は彼の考えが気になってそう尋ねた。

「そんなの一つしかないよ…比企谷、ちゃんと避妊した?」

「「は?」」

少年の突拍子もない発言に、雪ノ下雪乃も比企谷八幡も凍りついた。

「大方、勢い任せにしでかしたんでしょ?で、後で冷静になったら、やっぱり好きじゃないから、別れてくれ…みたいな。男女のすれ違いで一番多いパターンだな」

パターン、と口にしただけあって、少年は施設でそんな状況を何度も目にしてきた。無論、彼は経済的に自立しない者が、自分で責任を取れない行動を取ることを嫌悪している。だが、ネグレクトやDVを受けて入所してきた子供たちの中には、他者へ極端な依存心を抱く者が少なからず存在し、職員の目を盗んで行為に及ぶ少年少女は後を絶たなかった。そして、愛のないセックスの後に待つのは、崩壊した人間関係だけである。

少年は由比ヶ浜結衣が比企谷八幡に抱く淡い想いに気付いている。そうであれば、通常、交際を申し込まれそれを断った、等といった発想を浮かべそうなものだが、少年は自身の特殊な経歴故か、それをすっ飛ばした極端な状況解釈を口にした。

「な、何言ってんだお前!?んなわけねぇだろ!」

「…なんだ、違うのか」

柄にもなく声を張り上げて否定した比企谷八幡に対し、少年は意外そうな表情を浮かべた。

「下衆もここに極まれりね。最低よ。由比ヶ浜さんがこんな男を好きになるはずがないでしょう?気持ち悪い」

雪ノ下雪乃は嫌悪感を露わにして少年を批判する。過去に比企谷八幡に対する暴言を詫びたにも拘らず、無意識のうちに再び彼女が自分を "こんな男" 扱いしたことに関し、比企谷八幡は引き攣った笑みを浮かべた。

「雪ノ下さんの目は節穴なの?…だから空気読めないって思われるんだよ。行為の有無は別としても、比企谷が由比ヶ浜さんの想いを踏み躙ったってのは、結構良い線行ってると思うけど?」

少年は涼しい顔でそう答えた。比企谷八幡は、"想いを踏み躙った"という言葉にピクリと反応を示す。雪ノ下雪乃はそれを見逃さなかった。

「どういうことかしら、比企谷君?場合によってはタダでは済まさないわよ…」

雪ノ下雪乃は比企谷八幡に鋭い視線を向けて問い質した。

「どうもこうもねぇよ…由比ヶ浜は俺に負い目を感じてた…だから、そんなものを気にしてこれ以上俺に構う必要はないって言っただけだ」

「負い目って?」

少年は話の内容に興味を持ったのか、比企谷八幡に尋ねる。

「…入学式の日にアイツの犬を助けようとして車に轢かれた…もう一年以上前の話だ。由比ヶ浜は概ね、俺がボッチなのは入学直後の友達作りの機会を逸したせいだと思ってるんだろ」

「…それで同情してるなら、そんなのはマッピラってことか…気持ちは分からんでもないけどさ…面倒なことになったな…」

少年はため息を吐きながらそう呟いた。

由比ヶ浜結衣の状況把握能力や問題解決能力は大したレベルではない。しかし、優秀ながらどこか尖った一面を持つ比企谷八幡や雪ノ下雪乃を気遣い、サポートするその姿勢は、奉仕部の戦力として十分にカウントできる。これが原因で彼女に部活を辞められてしまっては、自分の負担が増えるだけだ。そして、元々彼女を奉仕部に誘い、比企谷八幡との関係構築をサポートすると言ったのも彼自身だ。少年は気乗りしないものの、自分には二人の関係の捻じれを修正する義務があると考えた。

「…」

「…どうしたの?雪ノ下さん?」

少年は部長の横顔を見てはたと疑問に思う。先程まで比企谷八幡を問い詰めようとしていた雪ノ下雪乃が、一瞬とは言え、動揺し気まずそうな表情を浮かべた。その後、黙りこくっていることにも違和感を覚えた。

「何でもないわ」

雪ノ下雪乃はすぐに平時の表情を取り戻してそう答える。少年はそんな彼女の態度に一層疑義を深めた。

「…俺、今日はもう帰えるわ」

比企谷八幡は興を削がれたかのような表情を浮かべてそういうと、そそくさと荷物を片付け出した。彼は由比ヶ浜結衣との擦れ違いの原因を二人に探られたことに、若干のバツの悪さを覚えていた。荷物を鞄に詰め終わると、彼はあっという間に部室を後にする。

「…で、何隠してんの?」

比企谷八幡がいなくなったことを確認して、少年は再び口を開いた。

「何も隠してないわよ」

「…それ、もし嘘だったら、もう部長には従わないから」

少年はそう言って雪ノ下雪乃の目を見据える。職場見学の後、少年とのわだかまりは幾分解消されたと思っていたが、彼女は今も尚、彼のこの目が苦手であった。これまで周囲の有象無象に向けられていた単純な妬みとは違う、侮蔑の感情が籠った瞳。全てを見透かされているような感覚。彼女は観念したように深いため息を吐くと、ついに重い口を割った。

「…私、乗っていたのよ。その…比企谷君を轢いた車に」

躊躇うように呟かれたその言葉を耳にして、少年は頭を抱えた。

この部の部員は自分を除き、いずれも事件の関係人で構成されている。比企谷八幡が言ったことが本当であれば、恐らく車道に飛び出したのは彼自身。無論、雪ノ下雪乃が自分で車を運転していた訳ではないだろうから、単純に被害者・加害者として区分できるものではない。しかし、人の感情はそう簡単に割り切れるものではないだろう。

―――平塚先生め…トンデモない部活に放り込んでくれたな

たった今明らかになった奉仕部の部員の意外な繋がり。それは人間関係の火薬庫のようなものだった。少年は心の中で、お節介な恩師に対して毒づいた。

「それ、比企谷は知ってるの?」

「…まだ気付いていないでしょうね、きっと」

雪ノ下雪乃は諦めたような表情でそう言った。

「どうすんのさ?…比企谷だって、雪ノ下さんが悪いとは考えないだろうけど、今まで素知らぬ顔してたのがバレたら流石に心象は最悪だよ。謝る必要があるかは分からないけど、早めに伝えた方がいいんじゃない?あいつまで辞めたら、たぶんこの部活、立ち行かなくなるよ」

「解っているわよ…けれども起きてしまった過去は変えられないわ。謝罪しても、彼からしてみれば謝られる謂われはないと考えるでしょうし。事実だけ伝えられても、それはそれで誠意がないと思うでしょう」

「…まぁ、そりゃ確かにそうなるわな」

雪ノ下雪乃の読みは十中八九正しい。飼い犬を助けてもらった由比ヶ浜結衣が自身に抱く好意を、同情と見るような人間だ。仮に雪ノ下雪乃が謝罪すれば、今度は後ろめたさから、やむを得ず部活に席を置かせてもらっているのだと捉えかねない。

「いっそ、いつもの調子で "あの時轢き殺せば良かったわ、ヒキガエル君?" とか言ってみる?」

「…貴方は私を何だと思っているの?」

八方塞りの状況で軽口を口にした少年に対し、雪ノ下雪乃は極めて不愉快そうな表情を浮かべた。

「…しょうがない…今回は俺が何とかするよ」

少年は深い溜息の後にそう呟いた。

「貴方が自発的に動くなんて、珍しいわね」

「例の勝負、まだ有効でしょ?これは雪ノ下さんから俺への依頼ってことで、解決したら1ポイント計上してもらう」

「勝利したら何を要求する気かしら?下卑たことを考えているのなら、お断りよ」

「そういうの、俺キライだって言ったよね?…要求は部活の負担削減。面倒な依頼を回避する権利にするよ」

「平塚先生が認めるとは思えないわ」

「活動に参加しないとは言わないよ。手間がかかる依頼で、雪ノ下さんが倍働いて、俺の分をカバーしてくれりゃいい」

「…いいわ。1ポイントリードされたところで、最後に私が勝てば問題はないでしょうし。今回の顛末だけは先生に報告しておきましょう」

雪ノ下雪乃は少年の要求を飲んだ。これは少年にとって、奉仕部で初の主導案件となる。失敗すれば今後の自分の負担が増加する。自分が一目置く男、比企谷八幡のように、斬新な解決のアイデアを閃いたわけではない。だが、こういう時は兎にも角にも話し合いだろう。少年は気合を入れて、重たい腰を上げた。

☆ ☆ ☆ 

「…もしもし?」

「あー、由比ヶ浜さん?今時間大丈夫?」

少年は学校を後にすると、すぐさま由比ヶ浜結衣に電話をかけた。

奉仕部で、他の部員全員の連絡先を把握しているのは、少年だけである。別に下心があって番号を入手したわけではない。緊急時の業務連絡用に職場の上司・同僚の連絡先を控えておくのは、彼としては当然に染みついた行動であった。

彼女は遠慮がちな声で通話に応じた。少年の携帯電話のスピーカーからは、けたたましい女性の歌声が鳴り響いている。どうやら由比ヶ浜結衣は、クラスメートとカラオケ中である模様だ。

「…うん。少しなら」

「あのさ、比企谷から話は聞いたよ。由比ヶ浜さんが部活に来難くなった理由も分かった。その件でちょっと相談があるんだ。今から出られないかな?」

「…でも…今は友達もいるし…」

少年は煮え切らない態度の由比ヶ浜結衣に苛立ちを募らせる。だが、それを態度に出せば彼女は益々奉仕部から身を遠ざけることとなるだろう。少年は慎重に言葉を選ぶ。

「差出がましいとは思うけど、由比ヶ浜さんが入部する前に一応約束したからね…それにさ、このまま由比ヶ浜さんが比企谷から距離を取ったら、それこそアイツの言葉が事実だって認めてるようなものだと思うけど?」

「っ!?…あたし、そんなつもりじゃ…」

「だと思ったから連絡してるんだよ」

「…分かった。駅前でいい?」

由比ヶ浜結衣は少年の誘いを受けることにした。待ち合わせ場所は学校最寄の駅前の公共スペースだ。少年は一先ず彼女の同意を取り付けたことに安堵する。通話を終えて駅へと歩き出した。

―――由比ヶ浜さんの件は多分簡単に解決できる。問題は雪ノ下さんとの関係の方だ。比企谷が俺の立場だったらどう考える?

少年は歩きながら思考する。元より自分は、これまで何か身の回りで問題が起こっても、実力行使で全てを解決してきた人間である。他者の利害関係を上手く調整し、全てを上手く収めるような芸当は、やりたいと思っても直ぐにマネ出来るものではない。そういったことが得意そうな人間の思考をなぞろうと考えるが、それも無駄な試みであった。

―――恐らく今回の件で一番厄介なのは比企谷自身だ…アイツの場合、ネガティブな感情はあまり表に出そうとしないだろうから…読み難いったらない。あのクソ野郎。

少年は再び心の中で毒づく。

そんなおり、ポケットに入れた携帯電話が再び振動するのを感じた。画面を見ると、先程別れた雪ノ下雪乃からの着信だった。

「…もしもし?」

「早速行動を起こしているのかしら?」

「まぁ、解決は早い方がいいだろうし。とりあえず由比ヶ浜さんに会ってみようかなって…」

「短絡的ね。貴方らしいわ」

「あのな…悪口だけなら切るよ?」

少年はムスッとした表情を浮かべて、電話越しにそう言った。反対に、雪ノ下雪乃は涼しい顔でそれを聞き流し、業務連絡を告げる。

「私から貴方への依頼という形で、由比ヶ浜さんを連れ戻し、比企谷君との軋轢を回避すること…平塚先生には伝えたわよ」

「そう。先生は何て言ってた?」

「貴方が実績を挙げられるか、見物だと言っていたわ」

「あの人らしいな」

少年は素直に感想を口にした。これで本件は正式に勝負を賭けた依頼として受理された。だが、そうなれば平塚先生が手を貸してくれる可能性は低いだろう。自分で解決する他ない。少年はその状況に少しだけ緊張感を覚える。

「…それから、一つ考えたのだけれど…6月18日、何の日か知ってる?」

雪ノ下雪乃は、そんな少年の心境などいざ知らず、話を続けた。

「おにぎりの日?」

「は?そのマイナー過ぎる記念日は何かしら?…由比ヶ浜さんの誕生日よ…たぶん」

「たぶんって?」

「彼女のアドレス、0618という数字が入っているでしょう?…だから、誕生日のお祝いをしてあげたいの。例え由比ヶ浜さんが今後奉仕部へ来ないにしても、これまでの感謝はきちんと伝えたいから…」

「成程ね。要は喜ばせて彼女を抱き込もうってことか…そんな消極姿勢でどうすんのさ?やるなら成果を目指して徹底的にやろうよ」

「言葉は悪いけれど…そうね。でも、ただ感謝を伝えたいと言うのも本当よ。こう言う気持ち…本音を話すのは中々難しいけれど、言葉以外の方法で伝えるいい機会だと思うから」

「了解。一先ず、今日は彼女の誕生日が本当に6月18日か、確認しとくよ」

彼女にそう約束し、少年は携帯を再びポケットに戻した。

誕生日会…プレゼント…本音…

先程の会話を振り返りつつ、1人、ブレインストーミングを行う。これは意外と使えるかもしれない。雪ノ下雪乃の提案を受けて、少年はそう考え、ニヤリと笑った。

☆ ☆ ☆ 

「あ、いたいた。いきなり誘い出して悪かったね」

約束の駅前広場で由比ヶ浜結衣を発見した少年はそう声をかけた。

「べ、べつに…」

由比ヶ浜結衣は視線を合わせないようにしながら、そう答えた。

「あのさ、電話でも話したけど、このままフェードアウトしてくってのは流石にまずいんじゃないの?比企谷は去る人間を追うようなタイプじゃないと思うよ」

「…」

何の遠慮も無しに、初っ端からストレートに本題に切り込む少年に対し、由比ヶ浜結衣は言葉を失う。無論、彼女とて、このままで良いとは全く思っていない。だが、擦れ違いを起こした今、どのように彼に話しかければ良いのか、皆目見当もつかなかった。

「一先ず本人に礼だけでも言ったら?犬、助けてもらったんでしょ?それに、そのためのクッキーだったんだよな?…まだ練習続けてる?」

「それは…うん…そうなんだけど」

「…悔しいでしょ、気持ちを踏み躙る様な事言われてさ?アイツが何でああいうこと言ったのか、考えてみた?」

少年からは質問が嵐のように降ってくる。由比ヶ浜結衣は表情を更に暗くして呟いた。

「…考えたけど…良く解らないよ」

「最初にクッキー作った日のこと、思い出してみろよ。男心は簡単に揺れる…そう言ってたでしょ?…あいつ多分、由比ヶ浜さんに揺れたんだろうな」

「え!?いやいやいや!ヒッキーに限ってそんなこと…」

「あるって。由比ヶ浜さん、可愛いし性格も良いから、そりゃ優しくされたら、大抵の男子は舞い上がっちまうよ」

「かわ…そんなことないったら!」

少年が急遽取った褒め殺し作戦に、由比ヶ浜結衣は顔を真っ赤に染め上げて否定する。

「…ポイントは、アイツにはそれで痛い目を見た経験があるってことだ。勘違いして、舞い上がって告白して、翌日にはクラスメートが全員そのことを知っていた…自虐ネタみたいに話してたけど、本人にとっては間違いなくトラウマだろうよ。だから必死に自分に言い聞かせたんだ。由比ヶ浜さんが自分に優しいのには、絶対に裏があるって具合にね」

「…あたし、別にヒッキーに優しくしてたつもりもなかったんだけどな」

由比ヶ浜結衣は少年の言葉に一定の納得感を得たものの、やはり全てが腑に落ちたわけではい。言葉通り、彼女には特別比企谷八幡という男に優しく接しているつもりはなかった。むしろ、極力気持ちを悟られないように、敢えて「キモイ」等、酷い言葉で扱き下ろすこともあったくらいだ。

「クラスで由比ヶ浜さん以外にあいつに話し掛ける奴っているの?」

「い、いるよ! 彩ちゃんとか…あと偶に川崎さん、とか…」

「2人とも奉仕部の元クライアントじゃないか。他には?」

「…」

由比ヶ浜結衣は必死に記憶を辿るが、誰も思い浮かばない。結局彼の交友関係はその程度である。

「ほら…誰にも話しかけられない、集団に馴染めない。由比ヶ浜さんはそんな自分に話しかけてくれる…比企谷にとってはきっとそれだけで十分優しいと感じるんだよ」

「何それ卑屈過ぎだし!?」

由比ヶ浜結衣は少年から聞かされた比企谷八幡のあまりにナイーブな一面について、信じられないとばかりに声を上げた。

「しょうがないじゃん。メシ、外で1人で食うような奴だよ? もっと察してやんなきゃ…由比ヶ浜さん、元々そう言うの得意でしょ?」

由比ヶ浜結衣は、少年の言葉にキョトンとした後、自嘲的な笑みを浮かべた。彼女の雰囲気の変化を感じ取った少年は注意深く次の言葉を待った。

「…でもさ、やっぱり自信ないよ。あたし、卑怯だよね。本当はちゃんとお礼しなきゃいけないって分かってたんだ…クッキー、上手く作れるようになったらその時に、って思ってたんだけど、ヒッキーのこと傷付けちゃった…」

「…由比ヶ浜さんはどうしたいの?」

少年は彼女の目を見て尋ねた。由比ヶ浜結衣は少しだけ考えてから口を開く。

「…お礼がしたい。時間がかかるかもしれないけど、自分で決めたやり方で…ちゃんとしたクッキーを渡して…本当に感謝してるって伝えられるように…」

由比ヶ浜結衣は覚悟を込めるような口調で一言ずつそう言葉を紡ぐ。それを聞いて少年はフと笑みをこぼした。

「…比企谷のこと、どう思ってる?」

「そ、それは本当にまだ分からないよ!…でも、やっぱりサブレを助けてくれた時とか、依頼を解決する時のヒッキーはカッコいいなって…挙動不審な時もあるけど…あたしはもっとヒッキーのこと、知りたい…かな」

由比ヶ浜結衣は少しだけ慌てるようにしてそう言った。勿論彼女は自身が比企谷八幡という少年に惹かれているのを自覚している。だが、羞恥心と生来の奥手さ故にそう答えるのが精一杯だった。

「まぁいっか…よく分かったよ。比企谷のことで何か不安な事とか、知りたいことはある?」

「…ヒッキーは気にするなって言ってたけど、やっぱり入院したこと、心の何処かで恨まれてたらどうしようって思うと怖くて…それにあたし、クラスだと、仲のいいグループの人たちの目が気になって、中々ヒッキーに話しかけられないから…ヒッキーってそうやって周りに合わせる人のこと、やっぱり嫌いなのかな、とか…」

「なるほどね。ま、きっと杞憂だと思うよ…ところでさ、6月18日って由比ヶ浜さんの誕生日なの?」

「う、うん…なんで?」

「雪ノ下さんがアドレスから推測したんだ…急に部活に戻るのも気不味いだろうし、取り敢えず誕生日会を口実に、もう一度来てもらおうってね…」

「え!?そ…そんなの…悪いよ…」

「まぁ由比ヶ浜さんと比企谷のすれ違いだけなら俺もそこまで気は回さない。ただ、今回は由比ヶ浜さんだけじゃなく、雪ノ下さんと比企谷の間でも問題が起きる可能性があるから…ぶっちゃけ、由比ヶ浜さんにはその調整を手伝って欲しい」

「え?ゆきのんとヒッキーの問題って?」

これまでの会話流れは打って変わって、頼み事を口にした少年を不思議に思って彼女は思わず聞き返した。

「あいつが轢かれた車、実は雪ノ下さんが乗ってたんだって。んで、比企谷はまだそれを知らない…」

「マジ!? それ大丈夫なの!?」

由比ヶ浜結衣は目をひん剥いて驚きの声を上げる。無論、大丈夫とは思っていないので少年はこうして彼女に頭を下げているのである。

「雪ノ下さんも悩んでるみたいだよ。自分が原因で由比ヶ浜さんが部活から離れ、比企谷もそうなるかも知れない…心中穏やかじゃないだろうね…どうする? それでも放っておく?」

「い、行くよ! ゆきのんには、いつも助けてもらってるし…でもどうしたら…」

「特に意識して何かする必要はないと思うよ。雰囲気がギクシャクしたら、由比ヶ浜さんが比企谷の手を握って上目遣いで ”仲良くして?” って頼めば全解決でしょ?」

「う、うん…って手を握る!? なななな何言ってんの!?」

「…ホントいちいち反応が面白いな…いや、本当に何もしなくていいいんだ。ただ、2人と一緒にいてくれればそれで十分だと思うよ」

「そ、それで良いのかはよく分かんないけど…分かった。じゃあ18日…月曜日に部室に行くね?」

由比ヶ浜結衣はこうして少年と口約束を結んだ。パーティの主役の参加は確保した。あとはそれを盛り上げる者同士の結束を如何に固めるかだ。

少年は、不意に他者のためにここまで骨を折る自分を、"らしくない"と不思議に思う。だが、これは部活で楽をする、ただそれだけのためだと自身に言い聞かせた。

☆ ☆ ☆ 

「雪ノ下さんの読み通り、6月18日は由比ヶ浜さんの誕生日だったよ。週明けの月曜には彼女も部室に来てくれるってさ」

由比ヶ浜結衣と別れた後、少年は再び雪ノ下雪乃へ連絡を入れ、状況の報告を行った。

「…そう。良かったわ。では土曜日にプレゼントを買いに行きましょう。比企谷君への連絡は…」

「俺から誘っとくよ…ところで、もう一回確認したいんだけど、雪ノ下さんは比企谷のこと、どうしたい?」

週末、買出しの約束を取り付けた後、不意に少年は先ほど由比ヶ浜結衣に尋ねたのと同様の質問を彼女にぶつけた。

「どう、と言われても…そうね、本心としては一度謝罪して、それを受け入れて貰えれば一番良いのでしょうけれど…それは責任から逃れて楽になりたいという逃げでもあるわ。安易に謝罪すれば彼もそんな裏を見抜くでしょうし…彼からの責めを負う覚悟はしているつもりよ」

雪ノ下雪乃はゆっくりとした口調で自身の考えと覚悟を口にした。

「そうだな…じゃあ質問を変えるよ…雪ノ下さんは比企谷と、これからも一緒に奉仕部をやっていきたい?」

「そ、それは彼次第よ。私がいる部活に残りたくないのであれば、その自由は…」

少年の二つ目の質問に対し、彼女は少しだけ慌てた声でそう返した。少年は言い訳を続けようとする彼女の声を遮って言葉を発した。

「またそうやって誤魔化す…比企谷のこと…能力とか性格とか、雪ノ下さんはどう評価してるの?」

「…彼の能力は高く評価しているわ。私には無いものを持っている、それは認めるわよ。性格は…そうね、多少捻くれているとは思うけれど、別に悪い人間ではないとは思うわ」

「いつも掛け合い漫才みたいなことしてるけどさ、やっぱり一緒にいて楽しい?」

「い、いい加減になさい。貴方から尋問を受ける謂れはないわ」

「一番大事なポイントだから聞いてるんだけど?友達…とは雪ノ下さんの性格上、言わないのかもしれないけど、同じ空間で同じ時間を過ごす仲間として、あいつのことどう思ってるんだよ?」

少年は再び低い声でそう尋ねる。誤魔化すことは許さない、そんなドスの聞いた電話越しの声に、雪ノ下雪乃はたじろいだ。

「…くっ…た、頼りにしているわよ。彼とのコミュニケーションは嫌いではないし、遠慮無しに言い合える関係もそれなりに心地いい…と思うわ」

「大事な仲間だってこと?」

「そ、そうよ!…もう十分でしょう!?」

「ああ、良くわかったよ。じゃあ土曜日、ららぽーとで会おう」

「ちょっ、どういうつもり!?」

―――ピッ

雪ノ下雪乃が何か言いたげなのを無視して、少年は一方的に通話を終了した。

これで準備は大方整った。少年は不敵な笑みを浮かべて携帯をポケットに入れ、バイト先へと向かった。

☆ ☆ ☆ 

土曜日、由比ヶ浜結衣を除く3人は、市内のショッピングモールへ集合した。

比企谷八幡は当初、少年からの誘いに応じることを渋った。だが少年が、部長が初めて出来た友達に感謝の気持ちを伝えたいと言っている、これに協力して恩を売っておくのは悪い話ではない、と打算を込めた説得を行うと、渋々ながら納得感を示した。

「よし、効率重視で行こう…俺こっち回る」

「では私が反対側を受け持つわ」

全員が集合した直後、比企谷八幡が唐突に提案すると、雪ノ下雪乃は何の疑問も持たずにそれに応じた。

「おい…週末の朝から漫才かましてどうすんのさ。単独行動するなら集合した意味ないよね?少しくらい協力すれば?」

少年は呆れ顔でそう呟いた。

「けれど、それでは回りきれないんじゃないかしら?」

「は?誕生日プレゼントだよ?ある程度イメージがあれば回りきる必要ないでしょ?」

「それがありゃ苦労しないだろ」

「…雪ノ下さんだったらどんなものが欲しい?」

「そうね…パンさ…参考書かしら」

「パンさんね。じゃ、グッズ屋から回るか…」

雪ノ下雪乃は某遊園地のキャラクターを口にしかけて言い直した。少年は彼女が体裁を誤魔化すのを無視しながらそう呟くと、二人の前を歩き出す。二人は無言でそれに従い、少年に着いて行った。

「お前、女子へのプレゼントとか慣れてんの?実はリア充だったとか?」

雪ノ下雪乃は現在、キャラクターグッズ屋でお目当ての商品を物色中である。

暇になった比企谷八幡はポケットに両手を突っ込んで背中を丸めながら、少年に対してそう呟いた。

「まぁ、"兄弟姉妹"は大勢いるから…」

「そっか…そうだよな」

少年がふっと笑みを浮かべてそう呟くと、比企谷八幡は納得したような表情を浮かべた。同時に、雪ノ下雪乃が中々店舗から出てこないことに溜息を吐く。グッズ屋の周辺は女性向けアパレル等が集中しており、男性客が待機するにはやや息苦しい。

「っていうか、カップルばっかだな…店員の視線が痛い。そんなに怪しいのか、俺は」

比企谷八幡はそんな愚痴を溢した。

「自意識過剰じゃない?家族連れとか、男性客も一杯いるよ。そんなにカップルが妬ましいなら、今度から出かける時は由比ヶ浜さんに一緒に来て貰えば?」

少年はニタニタと笑いながらそう言った。

「バッ、おま…だから違うって言ってんだろうが!?」

「何が違うんだよ?あんだけ分り易い女の子は近年稀だろ?」

「…由比ヶ浜が俺に話しかけるのは単なる同情だ。そもそも、俺なんかじゃアイツとは釣り合わねぇよ。そういう憶測は由比ヶ浜に失礼だから止めろ」

比企谷八幡は不愉快そうな表情でそう言った。だが少年は全く意に反す様子もなく、言葉を続ける。

「なんだってそんなに捻れる必要があるんだよ?由比ヶ浜さんは器量も気立ても良いんだから、気持ちが揺いだって全然恥かしいことじゃないだろ?」

「うるせぇよ。罰ゲームの告白とか、女子が代筆した悪戯ラブレターとか、こっちはもう慣れてんだよ。勝手な期待を押し付けたって、由比ヶ浜に迷惑がかかるだけだ」

「は?お前、正真正銘のクズだな。要は由比ヶ浜さんのこと、そういうクソみたいな奴らと同じだって思ってんのか?」

少年は突如として語気を強めてそう言い放った。

「っ!?…」

比企谷八幡は気まずそうに少年から目を逸らして言い淀んだ。

「…ま、本心じゃないのは分ってるけどな。お互い付き合ってる人間の層も違うから、迷惑かかるかもしれないって不安も、理解は出来る。でも…勘違いして失敗してもいいだろ?今のお前の回りに、それを笑う人間がいるのか、もう一回よく考えろよ」

「…俺に興味を持ってる人間はいないから、ネタにされる心配もねぇって言いたいワケ?」

比企谷八幡は不貞腐れたようにそう言った。だが、彼は改めて周囲の人間を思い浮かべて考える。雪ノ下雪乃や目の前の少年、戸塚彩加、材木座義輝、川崎沙希…皆アクが強いものの、確かに中学の同級生と比べて、他人の敏感で繊細な部分をあげつらって笑うような人間はいないような気がする。元々、そういう同級生が嫌で勉学に励み、レベルの高い進学校に入学したのだから、人格的に問題のある人間の比率が低下しているのも当然と言えば当然だ。

「どうだろうな。それに、由比ヶ浜さんに失礼だ、とか、迷惑をかける、とか…彼女中心の考え方するのは何でだよ?」

「そりゃアイツにはアイツの居場所ってもんが…」

「それが自分の隣だったら、とか、一切想像しないの?ホモなの?戸塚じゃなきゃダメなの?」

「っ……ハァ…何なんだよ、お前?…そりゃ想像くらいは働ことはあるけど、非現実的な妄想だ…しょうがないだろ?意識しちまったら苦しくなるのが目に見えてんだから」

少年の追及に対して比企谷八幡は溜息を吐くと、諦めたようにそう呟いた。

「なら仮に由比ヶ浜さんの態度が同情じゃないって分ったら、彼女に謝罪くらいはするんだろうな?それから、彼女の為に、逃げずに真剣に苦しむ覚悟をするってわけだ」

「ああ、するよ。前提が有り得なさすぎて鼻で笑っちまうけどな…由比ヶ浜みたいな可愛い女子が俺に振り向くなんてこと、絶対に有り得ねぇよ」

少年はその発言に対して、大層満足げな表情を浮かべた。

「…待たせたわね」

少年と比企谷八幡の会話が途切れたタイミングで、雪ノ下雪乃は荷物を抱えて店舗から出てきた。どうやらお目当てのグッズを大量に買い込んだらしい。

「プレゼント、買えた?」

「…買えなかったわ。どうにも彼女への贈り物としてしっくりくるものがなくて…」

「じゃ、その荷物は何?」

比企谷八幡が呆れ顔で尋ねると、雪ノ下雪乃は少しだけ顔を赤くして、袋を隠すように後ろ手に回した。

「べ、べつにいいでしょう?…自慢ではないけれど、私は一般の女子高生とは離れた価値基準を持っているのよ。普段から使えて、かつ耐久性のあるものを買おうと思っていたのだけれど、由比ヶ浜さんの喜びそうなものは無かったわ…私、由比ヶ浜さんが何か好きとか…全然知らなかったのね」

「…別に知らなくていいだろ。半端な情報だけで知った顔をされたら腹が立つ。千葉県民に向かって落花生を送るようなもんだ」

「腹立つか?俺はそれ、嬉しいけどな。食費浮くし」

「うるせぇよ…分り易く言うとだな、ソムリエに半端な知識でワインを送る、みてぇなことだよ」

「成程…確かに相手の得意分野で争っても勝ち目は薄いものね。勝つためには逆に弱点を突かなければ…」

「弱点を突く?何それ、嫌がらせするつもり?」

少年は雪ノ下雪乃の言葉に呆れ顔でそう呟いた。比企谷八幡は少年の言葉に同調し苦笑いを浮かべつつ、再び口を開いた。

「ま、弱点を突くというか、弱点を補うようなものはアリかな…」

「補う…それなら…」

雪ノ下雪乃はとある店舗を見据えてそう呟くと、一人、そこへと向かって歩いていった。

「…由比ヶ浜さんのこと、よく考えてんじゃん。妬けるね」

「うるせぇよ…人間観察はボッチの基本だ」

雪ノ下雪乃はお目当てのプレゼントを見つけたのか、店舗から顔を出して二人を手招きする。彼女の考えるプレゼント、それはエプロンだった。由比ヶ浜結衣はクッキー作りの練習をしているはず。確かにちょうどいい弱点補強の材料だ。雪ノ下雪乃は一先ず課題をクリアしたことに、安堵の溜息を吐いた。

☆ ☆ ☆ 

その後、少年も比企谷八幡も、それぞれが思いついたプレゼントの購入を済ませて再び広場に集まった。

「…事故のこと、自分で話してみる?その勇気があるなら、少し外すよ?」

少年は小声で雪ノ下雪乃に告げると、彼女は少しだけ考えた後、緊張した面持ちでコクリと頷いた。

「…どうにも行かなくなったら戻ってフォローするから。連絡して」

少年は若干の不安を覚えつつも、買い忘れの品があると口にしてその場を離れていった。

「…今日は、その、付き合ってくれて…」

「あれー?雪乃ちゃん?」

雪ノ下雪乃が一先ず礼を述べ、話を切り出そうとしたタイミングで、不意に女性から声をかけられた。思惑がいきなり頓挫したことに頭痛を覚え、雪ノ下雪乃は額に手を当てる。

「あ、やっぱり雪乃ちゃんだ!」

そう口にした女性はどこか雪ノ下雪乃と似た顔立ちをしていた。

「姉さん…」

「は?姉さん?」

顔は似ていても、彼女とは身に纏う雰囲気が全く異なるため、比企谷八幡は強烈な違和感を覚えてそう呟く。

「どうしたの、こんな所で?…あ、デートか!デートだなっ!このこの!雪乃ちゃんの彼氏?」

「違うわよ」

「まったまたぁ!照れなくてもいいのにっ!…雪乃ちゃんの姉、陽乃です。雪乃ちゃんと仲良くしてあげてね」

雪ノ下陽乃と名乗った女性は、雪ノ下雪乃の腹を数回小突くと、くるりと向きを変えて比企谷八幡に自己紹介した。

「はぁ…比企谷です」

「へぇ」

彼女は値踏みするような目で比企谷八幡の全身を見回す。その様子に、彼は言い様のない緊張感を覚えた。

「…比企谷君ね、うん。よろしく!」

雪ノ下陽乃はそんな態度を急転換させて、にこやかな表情を張り付けてそう挨拶する。

「それで、二人はいつから付き合ってるの?ホレホレ、言っちゃいなよ」

今度は比企谷八幡の頬に指を立てて、極めて軽い態度でそんな質問を繰り返す。

「いや、だから彼氏じゃないんですけど…今日ももう一人男子いるし」

「お、君もムキになっちゃって~」

―――邪魔が入ったわ。申し訳ないけれど、戻ってきてもえるかしら?

雪ノ下雪乃は二人に悟られないように手早くそんなメールを少年に発信した。

「…雪乃ちゃん、繊細な子だから、比企谷君がちゃんと気を付けてあげてね」

「!?」

雪ノ下陽乃が耳元で呟いた言葉に、比企谷八幡はゾクリと毛穴が開くような感覚を覚えてとっさに距離を取った。彼女は、キョトンとした表情を浮かべて比企谷八幡を見据える。

「…私、嫌がられるようなことしちゃったかな?だったらごめんね?」

「あ、いや、そんなんじゃ…その、俺、耳弱いんで…」

「比企谷君、初対面の女性に性引きを晒すのはやめなさい。訴えられても文句は言えないわよ」

「…アハハ!比企谷君、すっごい面白ーい!」

雪ノ下陽乃は、無邪気にはしゃぐようにそう言いながら、比企谷八幡の背中をバンバンと叩いた。彼はひたすら苦笑いを浮かべて嵐が過ぎ去るのを待っていた。

「あれ?知り合い?」

「…戻ったのね」

不意に声を声をかけてきた少年の姿を見て、雪ノ下雪乃は心なしか安堵の表情を浮かべる。

「…ありゃ?もう一人男の子がいるって、本当だったんだ?どーも、雪ノ下陽乃です。雪乃ちゃんの姉で~す」

「あ、どうも。雪ノ下さんには部活でお世話になってます」

少年はぺこりと頭を下げて挨拶をした。実際にお世話になっている等とは微塵も感じていないが、社交辞令は必須の処世術だ。

「もういいかしら?特に用がないなら私たちはもう行くけれど…」

「そっか…じゃあ、二人のどっちかが雪乃ちゃんの彼氏になったらまたお茶しようね!」

雪ノ下陽乃はそう言い残すと、パタパタと走るようにしてその場を去っていった。

「邪魔が入ったって…お姉さんのこと?」

「そうよ…」

比企谷八幡に聞こえないように、少年が小声で尋ねると、雪ノ下雪乃は忌々しげにそう呟く。

「…お前の姉ちゃん、スゲェな…」

走り去った彼女を遠目に見ていた比企谷八幡が不意に呟いた。

「姉に会った人は皆そう言うわね。確かにあれ程完璧な存在もいないでしょう。誰もがあの人を褒め称やす…」

「はぁ?そんなのお前も対して変わらんだろ。遠回しな自慢か?…俺がすげえっつってんのはあの、なに?強化外骨格みてぇな外面のことだよ。人当りが良くて、ずっとニコニコしてて、優しく話しかけてくれる。正に男の理想だわな。でも、理想は理想だ。現実じゃない。だからどこか嘘くさい」

「…驚いたわ…腐った目でも…いえ、腐った目だから見抜けることがあるのね」

「いや、外面が嘘くさいって…愛想よく振舞うのは人間として極めて普通ですよ?君ら、普段から全裸丸腰で人にぶつかりすぎなんじゃないの?」

少年は二人のやり取りに対してそんな軽口を述べた。比企谷八幡は、苦笑いを浮かべながら、なるほど少年の発言にも一理あると考える。だが、自分が言いたかったのは、そういうことではない。雪ノ下陽乃という人間の愛想の裏側にある醜い本質、それが垣間見えた気がしたのだ。彼はそれを言いかけて口を噤んだ。雪ノ下雪乃の目の前で、態々彼女と血の繋がった姉を乏しめるような発言をする必要はないだろうと考えた。

「お前は逆に、キレた時に性格も口調も変わり過ぎだから…何なの?狂犬スイッチでも背中についてんの?」

少年に対してそんな冗談を言い返すことで話題を有耶無耶にした。

「高校入ってから、それに触れたのは葉山と雪ノ下さんだけだよ。俺の”強化外骨格”はまだ有効だと思うけど?」

「…二度と触れないように注意するわ」

雪ノ下雪乃は激昂した少年の眼を思い出すと、ゲンナリとした表情でそう呟いた。

「…さて、そろそろ帰るか。俺、午後からバイトあるし…比企谷、方向同じだろ?途中まで一緒に行こう」

「別にいいけど…」

「あ、あの…」

帰宅を提案した少年に対して、雪ノ下雪乃は不安げな表情を浮かべて引き止めた。

少年はそれに対して無言で軽めの笑顔を浮かべる。先ほど彼女に比企谷八幡と話す機会を与えたのは、彼女の覚悟を試すためだった。勿論、そのまま解決に繋がればそれに越したことは無かったが、今回は自分が仲介役を引き受けたことを忘れた訳ではない。

思わぬ邪魔が入ったものの、雪ノ下雪乃の覚悟は定まっているだろうと少年は踏んでいた。そうなれば後は自分が比企谷八幡と話し合うだけである。

☆ ☆ ☆ 

「…プレゼント、選べて良かったじゃん」

帰りの電車の中、しばらく無言を貫いていた比企谷八幡に対し、少年はおもむろに話しかけた。

「ま、これで由比ヶ浜との貸借は無くなるからな」

「…貸借ね…由比ヶ浜さんとの関係が改善するなら何でもいいけど…後は雪ノ下さん、か」

「あん?何のことだ?」

呟くように発せられた少年の言葉に、比企谷八幡は反応した。

「事故の当事者…轢かれたお前と、その原因を作った由比ヶ浜さん以外にもう一人いるんだよ。雪ノ下さん…あの子、実はぶつかった車に乗ってたらしいぞ」

「!?」

一切の遠慮なしに事実を伝える少年の顔を見ながら、比企谷八幡は目を見開いた。

情報を咀嚼し、頭でそれを理解した瞬間、比企谷八幡は自分の心臓の鼓動が急速に高まっていくのを感じた。

「…初耳なんだが…どうやって知ったんだよ?」

少年の意図を伺うように、比企谷八幡は探りを入れる。

「事故の話を聞いた後、様子が変だったから問い詰めたんだ…随分悩んでたよ?」

「…」

「何?やっぱ怒ってんの?」

少年が言葉を付け足すと、比企谷八幡は顔を顰めた。心の底にドス黒い感情が渦巻く。これでは由比ヶ浜のケースと全く同じではないか、そう考えた。常に美しく、嘘をつかず、誠実で寄る辺がなくとも自分の足で立ち続ける。比企谷八幡彼は雪ノ下雪乃という少女に対し、そんな人物像を抱き、憧れていた。

期待の押し付けと勝手な失望。

何度も何度も戒め、対人関係には細心の注意を払ってきたはずだった。それでも結局直っていなかったことを思い知らされた。彼はそんな自分自身を激しく嫌悪した。

「…事故った時ってさ、被害者と加害者を直接合わせると感情のもつれで収拾が付かなくなるケースがあるから、弁護士かませて示談で解決するのは結構普通だよ?それにあの子が運転してた訳でもないし、飛び出したのはお前なんだし…世の中、当たり屋みたいな人間もいるから、彼女の家族が警戒してお前と合わせないようにした可能性だって十分想定出来るでしょ?」

少年は尚も難しい顔をしている比企谷八幡に対し、捲し立てるように自らの見解を述べる。

「…んなこたぁ解ってるよ…入院費も負担してもらって悠々時的な病院生活を送ったくらいだからな。別に事故のこと自体を恨んでる訳じゃない…」

少年の言葉はもっともだ。その言葉通り、比企谷八幡は事故の責任は自分にあると考えている。他者に怒りを感じる理由はないのである。では、この心のモヤモヤは何なのだろうか。彼は今一度、自らの感情を整理し直して言葉を付け加えた。

「…自分に失望しただけだ」

「いやいやいや、何で比企谷が自分に失望するんだよ?」

「…勝手に期待して、理想を押し付けて、理解した気になって…それで勝手に裏切られた気になってりゃ世話ないって話だ」

比企谷八幡は吐き捨てるようにそう言った。

「…期待の押付けか。さっきも言ったけど、別に期待して勘違いしてもいいでしょ。逆に聞くけど、比企谷は雪ノ下さんに何を期待してたわけ?」

少年は目を細めてそう尋ねる。

「そりゃ…」

比企谷八幡は言い淀んだ。

常に正しく、美しく。他人やその場の雰囲気に流されずに、我が道を突き進むその強さ。完璧な存在。それが彼女の魅力であり、自分がシンパシーを感じる要素であった。だが、そんな勝手な印象論を他者に語るのは気が引けた。

「さっき、彼女のお姉さんの話してる時に、”完璧な存在”なのは雪ノ下さんも大して変わらない、とか言ってたな…要するに、完成された人間として尊敬してたってこと?」

少年は今日の会話を振り返りながらそんな憶測を口にした。比企谷八幡はその的確さに舌を巻くと同時に、心の内を見透かされた気分になり、再び眉を顰めた。

「質問ばっかりしやがって…何なのお前?Whyを5回繰り返す、どっかの自動車メーカーかよ…」

「お前が中々本音を言わないからだろ…でも良くわかったよ…俺からすれば、あの穴だらけな部長が、どう見りゃ完璧な人間に見えるのか不思議なんだけど…いいんじゃない?期待し続ければさ」

「お前は雪ノ下に対して容赦なさすぎだろ?あんだけ色んな意味でスゲェ同級生は早々いねぇよ」

「そう思ってんなら、そういう印象を彼女にぶつけりゃいいんだよ。期待されりゃ、その理想に近づこうと努力するのが人の性ってもんだ。期待を寄せるのが、自分が一目置く人間なら尚更ね」

少年が投げかけた言葉を受けて、比企谷八幡は顔を紅潮させた。

雪ノ下雪乃が自分に一目置いている、少年は間違いなくそう言った。

「いや、ないから。どうすりゃアイツが俺を認めてるなんて前提が思い浮かぶんだよ。確かに雪ノ下はスクールカーストのフレームワークからははみ出た人間かもしれんが、それでも、あんな才色兼備な人間が底辺の俺を認めることなんて有りえねぇよ…」

必死に自分を乏しめるような発言をした瞬間、比企谷八幡は体に慣性の力がかかっているのを感じ、バランスを崩しかけた。二人の乗っていた電車が減速し、駅で停車した模様だった。

「俺、ここで降りるわ…そうそう、お前が底辺とか思ってる人間は奉仕部にはいないから。その考えは改めとけよ」

目的地に到着したことを告げて降車した少年は、去り際にそんな言葉を口早に残していった。

「!?…おい、ちょっ……ちっ…調子狂うな」

車内に残された比企谷八幡は、こそば痒さを感じながら、舌打ちする。

比企谷八幡は考える。また、自分を勘違いさせようとする人間がいる。あの少年にも一度裏切られたのだ。自分の見解が間違っているとは思えない。その穿った見方を覆したくても、自分にはそうするだけの人望も、実績もないのだ。誰が信じるものか。彼はそう心に念じた。

☆ ☆ ☆ 

翌週月曜の夜。

由比ヶ浜結衣は、自室の机で羞恥心に喘いでいた。

原因は今日の誕生日会で渡されたプレゼントである。雪ノ下雪乃から送られたエプロン、比企谷八幡から送られたサブレの首輪は素直に嬉しかった。少年と雪ノ下雪乃のおかげで、比企谷八幡との擦れ違いも、なんとなく解消されたような雰囲気だった。問題は少年から渡されたプレゼントである。

「ごめん、俺からのプレゼント開くのは家に帰ってからにしてもらえる?…俺、金銭的な余裕がないからさ。二人のプレゼントと比べてどうしても見劣りしちゃうし…恥ずかしいんだよね」

不可解に思いつつも、そう言われてしまってはその場で開いてしまうことは流石に躊躇われた。自室に戻り、彼から手渡された小さな包みを開くと、そこには小さなメモリーチップが入っていた。不思議に思いながら、PCにそれを差し込み内容を確認すると、そこには音声ファイルが一つ保存されていた。

『由比ヶ浜が俺に話しかけるのは単なる同情だ。そもそも、俺なんかじゃアイツとは釣り合わねぇよ。そういう憶測は由比ヶ浜に失礼だから止めろ』

『由比ヶ浜さんに失礼だ、とか、迷惑をかける、とか…彼女中心の考え方するのは何でだよ?』

『そりゃアイツにはアイツの居場所ってもんが…』

『それが自分の隣だったら、とか、一切想像しないの?』

『そりゃ想像くらいは働ことはあるけど、非現実的な妄想だ…しょうがないだろ?意識しちまったら苦しくなるのが目に見えてんだから』

『なら仮に由比ヶ浜さんの態度が同情じゃないって分ったら、彼女に謝罪くらいはするんだろうな?それから、彼女の為に、逃げずに真剣に苦しむ覚悟をするってわけだ』

『ああ、するよ。前提が有り得なさすぎて鼻で笑っちまうけどな…由比ヶ浜みたいな可愛い女子が俺に振り向くなんてこと、絶対に有り得ねぇよ』

PCのスピーカーから流れる、男子2名の会話を耳にして、彼女は見る見る顔を紅潮させていく。

「なななな…ちょっ…何コレ!?」

『ま、弱点を突くというか、弱点を補うようなものはアリかな…』

『補う…それなら…』

『…由比ヶ浜さんのこと、よく考えてんじゃん。妬けるね』

「ゆ、ゆきのんからのプレゼントも…ヒッキーが考えてくれたんだ…」

友人からのプレゼントを再び手に取る。雪ノ下雪乃からの贈り物は素直に嬉しかった。だが、そのプレゼント選びの背景まで知ってしまった今、受け取った時以上の嬉しさを感じてしまう。エプロンに顔をうずめ、足をバタバタさせながら独り言を呟く自分の姿はさぞ滑稽だろう。だが、そんなことを気にしていられるような状況ではなかった。

―――ヒッキーもあたしが隣にいる想像するんだ…想像すると苦しくなるって…あたしと同じってこと?…それってやっぱり…

音声を聞き終えた彼女は、恐る恐る再びファイルを再生する。同時にシークバーを進めて、会話を早送りした。

『…由比ヶ浜みたいな可愛い女子が俺に振り向くなんて…』

『…由比ヶ浜みたいな可愛い女子が俺に振り向くなんて…』

『…由比ヶ浜みたいな可愛い女子が俺に振り向くなんて…』

『…由比ヶ浜みたいな可愛い女子が俺に振り向くなんて…』

「……もう一回だけ…」

少々の罪悪感を覚えつつ、15回ほど再生を繰り返した彼女は、この日、中々寝付くことが出来なかった。

同時刻

雪ノ下雪乃は自宅で携帯電話を握りしめながら、ワナワナと震えていた。

「…あの男…よくもやってくれたわね」

今日の誕生日会は端的に言って成功であった。これで由比ヶ浜結衣は奉仕部に戻ってきてくれる、そんな確かな手応えがあった。だが、問題の比企谷八幡との話し合いは先送りされたままであった。

帰宅し、学校の課題を終えた後も、その事実が気になって夕食を食べる気にはならなかった。入浴を終え、明日からどう行動すべきか考えながら小さなため息を吐くと、携帯電話に一件のメール着信が入っていることに気が付いた。

―――今日はお疲れ様でした。誕生日じゃないけど、雪ノ下さんにもプレゼントします。これ聞いたら、ここに連絡どうぞ:○○○@○○.net

少年からの不可解なメールには、ファイルサーバーへのリンクと、誰かのメールアドレスが添付されていた。躊躇いながらもリンクを開くと、携帯電話から音声が流れ出した。

『事故の当事者…轢かれたお前と、その原因を作った由比ヶ浜さん以外にもう一人いるんだよ。雪ノ下さん…あの子、実はぶつかった車に乗ってたらしいぞ』

『…初耳なんだが…どうやって知ったんだよ?』

流れ出したその会話を耳にして、彼女は硬直した。確かに聞き覚えのある声。会話内容からして、少年と比企谷八幡のものに間違いなかった。自分から言い出す前に比企谷八幡に暴露されてしまったのだ。これは不味いと、彼女は慌てながら、会話の続きに聞き耳を立てる。

『…入院費も負担してもらって悠々時的な病院生活を送ったくらいだからな。別に事故のこと自体を恨んでる訳じゃない…自分に失望しただけだ』

『何で比企谷が自分に失望するんだよ?』

『…勝手に期待して、理想を押し付けて、理解した気になって…それで勝手に裏切られた気になってりゃ世話ないって話だ』

比企谷八幡が発したであろうその声を耳にして、雪ノ下雪乃は胸を締め付けられるような感覚を覚える。

『…期待の押付けか。さっきも言ったけど、別に期待して勘違いしてもいいでしょ。逆に聞くけど、比企谷は雪ノ下さんに何を期待してたわけ?』

『そりゃ…』

『さっき、彼女のお姉さんの話してる時に、”完璧な存在”なのは雪ノ下さんも大して変わらない、とか言ってたな…要するに、完成された人間として尊敬してたってこと?』

そこまで聞いて、彼女は携帯の電源に指をかけた。自分は比企谷八幡に失望されたのだ。これ以上は聞くに堪えない、そう感じた。

『俺からすれば、あの穴だらけな部長が、どう見りゃ完璧な人間に見えるのか不思議なんだけど…いいんじゃない?期待し続ければさ』

端末の電源を切ろうとしていた彼女は、なおも続けられた二人の会話を耳にして思いとどまった。

『お前は雪ノ下に対して容赦なさすぎだろ?あんだけ色んな意味でスゲェ同級生は早々いねぇよ』

『そう思ってんなら、そういう印象を彼女にぶつけりゃいいんだよ。期待されりゃ、その理想に近づこうと努力するのが人の性ってもんだ。期待を寄せるのが、自分が一目置く人間なら尚更ね』

『いや、ないから。どうすりゃアイツが俺を認めてるなんて前提が思い浮かぶんだよ。確かに雪ノ下はスクールカーストのフレームワークからははみ出た人間かもしれんが、それでも、あんな才色兼備な人間が底辺の俺を認めることなんて有りえねぇよ…』

『…お前が底辺とか思ってる人間は奉仕部にはいないから。その考えは改めとけよ』

―――期待に応えろ、と言うことかしら

雪ノ下雪乃は少年の言葉を噛みしめた。同時に、比企谷八幡の発言から、彼の人間性を考察する。彼はブレることのない確固たる意志を持つ人間である。それは短い付き合いながら、薄々感じていた。その意志の方向性が自分とは異なるため、度々苦言を呈したり、乏しめるような発言を繰り返してきたが、本心では彼の持つ、自分にはないモノの見方には感心することも確かに多かった。だが、比企谷八幡という人物は自分が思っている以上に、自己否定的な考え方をする人間であるようだ。

雪ノ下雪乃のような才色兼備な人間が、底辺の自分を認めることはないと、比企谷八幡はそう口にした。自分に無いモノを有する人間が底辺である、ということは、自分はその底辺以下であると言われているようにも受け取れる。才色兼備を気取り、面倒事からは目を背ける器の小さい人間である、そう言われているように感じられた。それは雪ノ下雪乃にとって、断じて容認できないことである。

「…癪に障るわね…ここまでコケにされたのは初めてよ」

少年のメールに添付されていたアドレスは、間違いなく比企谷八幡のものだ。要するに、彼に詫びを入れ、再び向上心を持って日々を過ごすことを宣言しない限り、自分は底辺以下の存在だと、少年に嘲笑われているのである。

思い返せば、彼は先週「比企谷八幡をどう思っているのか」といった不可解な質問を繰り返し自分に投げかけてきた。少年と比企谷八幡の会話が自分の元に送られてきたということは、比企谷八幡の元にも、自分と少年の会話が送られている可能性が高い。

「…本当に、よくもやってくれたわね」

雪ノ下雪乃は再び恨み言を口にする。その晩、彼女は指定されたメールアドレスへ送信するための文章を、何度も推敲する羽目になった。

その頃、比企谷八幡はベッドでのた打ち回っていた。

「明日学校行きたくねぇぇぇ…」

原因は言わずもがなである。由比ヶ浜結衣の誕生日会は上手くいった。全てなかったことにして、お互い水に流すことに成功した。一方、雪ノ下雪乃との間にはしこりが残ってしまった。無論、事故の話を部活の場で蒸し返した訳ではない。ただ、いつものコミュニケーションと比べると、どことなく彼女との会話にぎこちなさを感じる結果となってしまった。

そろそろ潮時だな。

退部を意識したその時、携帯電話にメールの着信が入ったのだ。差出人は少年だった。

―――リア充の比企谷八幡君へ。猛省しろ。

そんな短い文面と共に添えられていたファイルへのリンク。ウィルスを警戒しつつも、つい好奇心が勝って開いてしまったのが運の尽きだった。

『…あたし、別にヒッキーに優しくしてたつもりもなかったんだけどな』

『…でもさ、やっぱり自信ないよ。あたし、卑怯だよね。本当はちゃんとお礼しなきゃいけないって分かってたんだ…クッキー、上手く作れるようになったらその時に、って思ってたんだけど、ヒッキーのこと傷付けちゃった…』

『…お礼がしたい。時間がかかるかもしれないけど、自分で決めたやり方で…ちゃんとしたクッキーを渡して…本当に感謝してるって伝えられるように…』

『…比企谷のこと、どう思ってる?』

『そ、それは本当にまだ分からないよ!…でも、やっぱりサブレを助けてくれた時とか、依頼を解決する時のヒッキーはカッコいいなって…挙動不審な時もあるけど…あたしはもっとヒッキーのこと、知りたい…かな』

『…ヒッキーは気にするなって言ってたけど、やっぱり入院したこと、心の何処かで恨まれてたらどうしようって思うと怖くて…それにあたし、クラスだと、仲のいいグループの人たちの目が気になって、中々ヒッキーに話しかけられないから…ヒッキーってそうやって周りに合わせる人のこと、やっぱり嫌いなのかな、とか…』

『本心としては一度謝罪して、それを受け入れて貰えれば一番良いのでしょうけれど…それは責任から逃れて楽になりたいという逃げでもあるわ。安易に謝罪すれば彼もそんな裏を見抜くでしょうし…彼からの責めを負う覚悟はしているつもりよ』

『…彼の能力は高く評価しているわ。私には無いものを持っている、それは認めるわよ。性格は…そうね、多少捻くれているとは思うけれど、別に悪い人間ではないとは思うわ』

『いつも掛け合い漫才みたいなことしてるけどさ、やっぱり一緒にいて楽しい?』

『…くっ…た、頼りにしているわよ。彼とのコミュニケーションは嫌いではないし、遠慮無しに言い合える関係もそれなりに心地いい…と思うわ』

『大事な仲間だってこと?』

『そ、そうよ!…もう十分でしょう!?』

わだかまりを感じていた女子部員二人の本心を聞かされ、比企谷八幡は顔を紅潮させた。布団に包まり、芋虫の如くウネウネと体を動かして羞恥心に耐える。どこか頬が緩みかけている自分の油断を自制するのに必死となった。

今頃ほくそ笑んでいるであろう少年の姿を想像して、比企谷八幡は怒りを覚えた。これは明確なプライバシーの侵害である。一言文句を言ってやろうと携帯を手にした瞬間、新たに2件のメール着信が入っていることに気が付いた。

―――事故の件、黙っていてごめんなさい。期待に応えられるように私も精進が必要だと認識しました。これからもよろしくお願いします。雪ノ下

―――ヒッキー、サブレのこと本当にありがとう。遅くなってごめんね。これからもよろしくね!

比企谷八幡は、そのメールを目にして全てを悟った。自分が少年に語った、二人に対する思いが、筒抜けとなっている。少年との会話を思い出し、比企谷八幡は体を震わせた。

「あんの野郎!!明日絶対ぶん殴ってやる!」

比企谷八幡は、学校に行きたくないと言った自分が、翌日普段通りに登校するための口実を力の限り叫んだ。その晩、彼は一睡もできなかった。しかし、それはストレスや不安によるものでない。気分は不思議と晴れている。それでも、それをどうしても肯定できない彼は、やはりどうしようもなく捻くれていた。


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