とある少年と奉仕部 Our Teen Rom Com SNAFU   作:TOAST

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3. 少年vs奉仕部メンバー

「いらっしゃいませ…ありがとうございました」

時刻は夕暮れ時。

夕食の材料の買出しに来た主婦で賑わう駅前のスーパーに少年はいた。

パートの中年女性に紛れながら、彼は馴れた手つきで商品をレジに通し、客と現金の受け渡しを行っていく。

「さーちゃん!けーか、お菓子食べたい…」

「一個だけだよ?」

そんな中、聞こえてきた少女と、その連れ添いの会話。

少女はレジ横の食玩に嬉しそうに手を伸ばすと、それを、買い物籠へ大事そうに入れる。

―――ウチの制服…姉妹なのか

その後、彼が対応するレジに並んだその声の主を横目で一瞬だけ見て、会計が済んだ客へとお辞儀をした。

「いらっしゃいませ。レジ袋はご利用ですか?」

「いえ、いりません」

少年の問いかけに対し、総武高校の制服を着た女子生徒はそう答えると、買い物袋をバッグから取り出した。

サトイモ、にんじん、レンコン、こんにゃく…煮物?

少年は商品のバーコードを機械に通しながら、なんとなく彼女の今晩の献立を想像する。

「…2,652円です…3,052円お預かりします」

現金と共に差し出されたポイントカードを機械で読み取り、つり銭を手渡した。

彼女はペコリと頭を下げると、そのまま小さな妹を連れてレジを後にした。

「次のお客様…あ」

次の客を案内しようとした際に気がつく。

そこにはカルトンに置かれた1枚のプラスチック製のカードがあった。

総武高校2年F組 川崎沙希

カードには先ほどの客の顔写真と共に、そう印字されている。

それは彼の通う学校の学生証だった。

「お客さん!忘れ物!」

彼は先ほど会計を済ませた姉妹を目で追いながら声をかけるが、その声は届かない。

二人は仲良く手を繋ぎながら、ちょうど店を後にしようとしていた。

「すみません、お客様の忘れ物がありました!3番レジヘルプお願いします!」

彼は他の従業員に聞こえるよう、大き目の声でそういい残すと、カードを手にとって走り出した。

「お客さん!…総武高の川崎さん!」

「え!?アタシ?」

少年の何度目かの呼びかけに、ようやく彼女は反応を示して立ち止った。

「ハァハァハァ、やっと追いついた…レジに忘れ物…これ、学生証」

「あ、ありがとうございます…」

少年が学生証を手渡すと、彼女は頭を下げて礼を述べた。

「さーちゃん、忘れ物したの?ちゃんと確認しなきゃダメっていつも言ってるでしょ〜?」

すると、手を繋いでいた小さな少女が得意げな表情でそう言った。

少年は膝を曲げて、少女と目線の高さを合わせる。

そして彼女の頭に手を置いて、優しげに声をかけた。

「ハハ、今日はお姉ちゃんとお買物か?良かったね?」

「うん!お菓子も買ってもらったの!」

彼女は先ほど買ってもらった食玩を自慢げに少年に見せびらかした。

「こ、こら、けーちゃん!…すみません」

さーちゃんと呼ばれた女子生徒は、慌てて申し訳なさそうに再び頭を下げた。

「いや、全然…こっちこそ学生証、勝手に見ちゃってごめん。俺、実は川崎さんと同級生なんだよ」

「え?同級生?」

「うん。俺、総武高校の2年A組」

「う、うちの高校!?…あ、あんたもバイト…してるんだ?」

川崎先は少しだけ顔を赤らめると、嬉しそうにそう口にした。

☆ ☆ ☆ 

同時刻、総武高校奉仕部部室には一人の客人の姿があった。

サッカー部キャプテン、葉山隼人。

彼はつい先日、奉仕部に一つの依頼を持ち込んでいた。

それは彼の友人3名を中傷するチェーンメール事件の解決だった。

彼らの出した結論、それは、後日行われる職場見学の班決めで、あぶれることを恐れた当事者3名のうちの誰かによる犯行、というものだった。

比企谷八幡による人間観察の結果、葉山隼人を3名とは組ませないというやり方で、事件は無事に収束を向かえる。

「にしてもお前、あんな事があったのに、良く奉仕部に依頼する気になったな?幸い、ここのところアイツは部活休んでるけどよ」

「…このまま比企谷や彼を避けながら高校生活を送る方が、よっぽど屈辱だよ」

比企谷八幡は事件解決後、そんな軽口を口にした。

それに対し、葉山隼人は苦笑いを浮かべながら答えた。

比企谷は、そんな彼の言葉から、彼の爽やかな見た目の裏側に、非常に高いプライドがあることを感じ取る。

「そんなもんかね。俺には理解できんな」

「卑屈さの代名詞みたいな貴方には一生理解できないでしょうね」

「うっせ」

横から茶々を入れた雪ノ下雪乃に対し、比企谷は抗議の声を上げる。

「…あの件は、本当に済まなかった。結衣にも怪我を負わせてしまったことを比企谷達から責められて、自分の浅はかさを思い知ったよ…今後、気をつける」

「え!?ヒッキーが!?」

改めて頭を下げながら葉山が口にした謝罪の言葉に反応するように、由比ヶ浜結衣は赤面しながら比企谷の方へ視線を向ける。

「いや、それは俺じゃ…」

「浅はか、という意味ではお互い様ね。奉仕部には"狂犬"が2匹いる、なんて噂が立っている位だもの。全く、迷惑だわ」

比企谷は慌ててそれを否定しようとするが、雪ノ下の嫌味によって再び遮られた。

「…だから俺は違うだろ…狂犬って…」

平和主義者を自称する少年、比企谷八幡は、近頃部活に顔を出していない部員の顔を思い浮かべて深い溜息を吐いた。

☆ ☆ ☆ 

翌週、総武高校は中間テストの準備期間に突入した。

当校は公立校ながら、県内きっての新学校である。

当然、準備期間中の部活動は中止。奉仕部も例外ではなく、各々が授業後の自由時間を過ごしていた。

ある日、比企谷八幡はふと立ち寄ったファミレスで、勉強会を開いていた雪ノ下雪乃、由比ヶ浜結衣、戸塚彩加と出会った。比企谷は自分だけが除者にされていたことに、若干の寂しさを感じるも、戸塚から、一緒に勉強しようと誘われる。

そんな中、彼らの下に再びとある依頼が持ち込まれることとなる。

「あ、お兄ちゃんだ!」

勉強を開始してしばらくすると、ファミレスの入り口から聞き慣れた声がした。

「小町?」

比企谷八幡が名を口にしたセーラー服姿の少女。

それは、彼の妹である、比企谷小町だった。

「八幡の妹さん?初めまして、クラスメートの戸塚彩加です」

隣に座る戸塚は身を乗り出して、彼女に挨拶をする。

「あ、これはご丁寧にどうも!比企谷小町です。うっはー可愛い人ですねぇ。ね、お兄ちゃん」

比企谷小町は、やや興奮気味に嬉しそうな顔で兄にそう言った。

「男だけどな…」

「ははぁ、またまた~……え、ホントに?」

比企谷兄弟のやり取りに対して、戸塚彩加は恥ずかしそうに無言で頷いた。

「…こっちが由比ヶ浜で、そっちが雪ノ下だ」

いつまでも固まっている妹を尻目に、比企谷八幡は他のメンバーを紹介していく。

「…は、初めまして」

由比ヶ浜結衣は、彼の妹から視線を逸らす様にしながら、挨拶をする。

「あ、どうもー初めまし…ん?んん?」

「おい、どうした?」

比企谷小町はそんな彼女の顔を訝しげに眺める。

兄はそんな妹の行動に違和感を感じる。

「…もういいかしら。初めまして、雪ノ下雪乃です。比企谷君とは…誠に遺憾ながら、知り合い?」

しかしながら、雪ノ下雪乃の挨拶により、そんな思考は遮られた。

「おい、その疑問系は何?…で、お前はここで何してんの?」

雪ノ下雪乃に対する平常通りの突込みを口にした後、彼は再び妹に尋ねた。

「実は、友達から相談を受けてて…あ、来た来た!おーい!」

比企谷小町そう説明しながら店舗の入り口に立つ人物を見つけると、手を振って呼びかけた。

彼女が呼び掛けたのは、ちょうど彼女と同じ、中学生位の少年だった。

「この人、川崎大志君で~す」

比企谷小町は、さっそくこちらのテーブルへやって来た少年を皆に紹介する。

「か、川崎大志っす。比企谷さんとは塾が同じで、姉ちゃんが皆さんと同じ総武高の2年っす…名前、川崎沙希っていうんすけど」

「ああ、川崎さんでしょ?ちょっと怖い系っていうか…同じクラスだよ」

少年の自己紹介に反応し、由比ヶ浜結衣がそう答えた。

「お前友達じゃないの?」

無論、クラス内の同級生と殆ど接点のない比企谷八幡は、由比ヶ浜に対してそう尋ねた。

「まあ話したことくらいはあるけど…っていうか女子にそういうこと聞かないでよ!答えづらいし!」

「…川崎さんが誰かと仲良くしているところって見たことないかな」

由比ヶ浜の回答と、戸塚の呟きが示すのは、自分同様、川崎沙希という人物があまり周囲の人間と関わらないタイプであるということだった。

「…それでね、大志君のお姉さんが最近不良化したって言うか…最近帰りも遅くて、どうしたら元のお姉さんに戻ってくれるかって、相談を受けてたんだよ」

比企谷小町は、川崎大志の悩みについて、皆に相談を持ちかけた。

「帰りが遅いって、何時頃くらい?」

「5時くらいっす」

「それ、むしろ朝じゃねぇか…」

由比ヶ浜の問いかけに対する川崎大志の回答に、比企谷は呆れたような反応を示す。

「…いいでしょう」

「おい、何かするつもりか?」

雪ノ下雪乃がそう呟いたのに対して、比企谷八幡は質問する。

「大志君は本校の生徒である川崎沙希さんの弟、ましてや相談内容は彼女自身のこと。奉仕部の仕事の範疇だと私は思うけれど」

ここに再び、奉仕部による依頼の受託宣言が行われた。

☆ ☆ ☆ 

翌日

比企谷八幡は対象の人物、川崎沙希を観察していた。

机に突っ伏して、寝たふりをしながら、聞き耳を立てる。

これは長年、周囲から孤立していた彼の特技の一つだ。

―――朝からやってるが…収穫は無さそうだな

彼女は自分同様、今朝から誰とも口を利いていない。

現在、既に5限目後の短い休憩時間が終わろうとしている。

「何も分からなかった」という報告に対し、奉仕部部長から言われるであろう小言を予想し、溜息を吐きかけたその瞬間、彼女は突如携帯を手にした。

「…うん、分かった。いや、その位別に気にしなくていいから。じゃあ―――、後でA組に顔出すから。うん。また後で」

あっと言う間の通話終了。

携帯を手に取りながら、川崎沙希はフッと微笑むような表情を浮かべていた。

―――おいおい、マジかよ

比企谷は彼女の口から、予想外の人物の名前が出たことに驚きを禁じ得なかった。

その日の授業後、奉仕部にて緊急のミーティングが行われた。

「…今日もアイツは来ないのか?」

「アイツ?」

「…うちの狂犬」

奉仕部の部員が、今回の依頼の当事者と何らかの関係を持っている。

比企谷八幡は、一先ず、その人物の不在を確認した。

「テスト準備期間に入るしばらく前から、平塚先生に欠席の連絡は入れていたようね。そもそも今は本来部活動も休止中なのだし、来られないのであれば別に構わないわよ。彼がどうかしたの?」

「…川崎の奴、さっきアイツと連絡してた。それも、なんか嬉しそうに、だ」

「それはどういうことかしら?…以前平塚先生に彼の欠席の理由を尋ねた際、彼は一人暮らしで色々と大変だから、と言っていたけれど」

「ひ、一人暮らし!?…じゃ、じゃあ朝帰りって…まさか!?…そういうこと、なのかな?」

由比ヶ浜結衣は顔を赤らめながら、皆が思い浮かべたやや下世話な想像を、正直に口にする。

「…そうだとすれば、これは由々しき事態ね…比企谷君、平塚先生に彼の住所を聞いてきてもらえるかしら?」

「おい、ひょっとして乗込むつもりか?」

比企谷八幡の問いに対し、雪ノ下雪乃は無言で頷いた。

☆ ☆ ☆ 

「ここがあいつの家?」

「…そのはずだけれど」

3人は町外れに所在する、一軒のアパートの前に立っていた。

住所の書かれたノートの切れ端と、携帯電話に表示された地図を再度突合せる。

GPSに表示された自分達の現在地は、確かにその住所だった。

「…あ、あははは。なんか、歴史がありそうな建物だよね!」

「いや、そんなオブラートに包むまでもなく普通に"ボロい"でいいだろ…にしても今時こんな木造アパート、マジで存在すんのか…昭和か」

比企谷八幡の言う通り、そのアパートの外観は平成の世に現存する住宅物件としては、かなりみずぼらしい部類に入っていた。

地震でも起これば、真っ先に倒壊しそうな具合である。

外から眺めると、カーテンがかかっている部屋も少なく、入居者で部屋が埋まっているようにも見えない。

アパートは静まり返っていた。

「彼の部屋は201号室だそうよ。2階かしら?…行きましょう」

雪ノ下雪乃は、先陣を切ってアパートの敷地に入っていった。

ペンキが禿げ、錆びた金属がむき出しになっているその階段から、カンカンと音が響く。

部屋に忍び込むつもりは毛頭無いが、なぜか3人とも、その音を極力抑えるように、慎重に階段を一歩、また一歩と上っていった。

201号室のドアには表札も掛かっていなかった。

その横には古びた洗濯機が設置されている。

3人は恐る恐る、チャイムを鳴らした。

―――ピンポン

「…ハイ?」

どこか幼さの残る女性の声。返事の主は、彼等の想像していた高校生男子のものではなかった。

「どどど、どうしよう!?家…違うんじゃ」

由比ヶ浜結衣が小声でそう言いながら、慌てふためいていると、中からドアが開かれた。

そこに立つのは、丁度比企谷八幡の妹と同年代くらいのセーラー服姿の少女だった。

「総武高校の制服…ひょっとして、あんちゃんの友達ですか?」

「…あんちゃん? それって、―――の事か? あいつの妹か?」

比企谷八幡は、自分達の制服を見てそう尋ねた少女に聞き返した。

「い、いいえ。妹ではないんですけど…とにかく中へどうぞ…何も無いですけど」

少女はドアを大きく開けて3人を中へ招き入れた。

靴が数足並べられる程度の小さな玄関。

その横手にはタイル張りの床と、歴史を感じさせるガス炊きの給湯器のついた小さなキッチン。

あとは畳数枚が敷かれた狭いスペースが存在していた。

ベッドやテレビといった家具の類は殆ど置かれていない、寒々とした部屋。

部屋の隅にはダンボールが敷かれており、その上には寝袋が一つだけ置かれていた。

―――んっだよこれ、冗談だろ

比企谷八幡は顔を歪めた。

見てはいけないものを見てしまった、そんな気分になった。

そしてふと気がつく。

彼が勉強机として使っているのであろう、本が積み上げられた小さなちゃぶ台のような低い机。

その周辺には、英単語、数式、年号等を殴り書きしたような紙が散らかっており、うち数枚はクシャクシャに丸められて捨てられていた。

「…それで貴女は、親族でもないのに、何故彼の家に?」

無言を打ち破るように、雪ノ下雪乃が少女に尋ねた。

「連絡があったんです…今日は給料日だから、お金を取り来いって…」

「「「は?」」」

彼女の言葉に、3人は声を重ねて聞き返した。

「…皆さんには何も言ってないんですか?」

「…良ければ彼の話を聞かせてもらえないかしら?私達…彼も含めて、学校でボランティアのような活動をしているのだけれど、ここに来るのは今日が始めてで…」

少女は奉仕部の3人を値踏みするような目で見る。

「……わかりました」

少しの間考え込むと、雪ノ下の質問に応じた。

「私、実は児童福祉施設で育てられてるんです…あんちゃんも、何年か前までそこにいたんですけど、中学生の頃、里親に引き取られて県外へ出て行きました。でも、高校入学に合わせて、一人だけ施設のある千葉まで戻ってきたんです」

「「「……」」」

誰も言葉を発せない。

比企谷八幡は、再び渋い表情を浮かべた。

これ以上立ち入るべきじゃない。

心のどこかでそんな警鐘が鳴らされる。

「それで今はバイトをしながら、私たちのような施設の後輩の面倒を見てくれています。私、今中学生3年なんですけど、今回も私の修学旅行と、施設の小学生の野外実習の費用を準備してくれるって…私達は別に行かなくてもいいって言ったんですけど…」

そんな比企谷の心境を無視するように、少女の話は進められる。

「それが彼がバイト漬けになってる理由?…それはおかしいわね。修学旅行も野外実習も、学校のカリキュラムなのだから、県や市から補助が出るはずよ」

雪ノ下雪乃は極めて冷静にそう答えた。

「…積立金を払えない世帯に対してはそういう補助もあるんですけど…例えば、給食費を払ってない生徒が学校でどういう扱いを受けるか、ご存知ですか?それに今回の私達の場合だと、班行動の際に必要なお金や、野外活動の準備品であったり…施設からお小遣いも出るんですけど、成長期の子達は服一つとっても、とても我侭は言っていられない状況なので」

「そ、それは…」

全員が言葉に詰まる。

比企谷八幡にとって、淡々と自らの状況を説明するその少女は、同じ年齢である自分の妹、比企谷小町よりも遥かに大人びて見えた。

「…沙耶香、来てるのか?」

次の瞬間、ドアの外から聞き覚えのある声がした。

3人はドアへと目をやった。

由比ヶ浜は再び慌てふためいている。

―――沙耶香ってのは、この子の名前か。そういや自己紹介もしてない…マズイな

比企谷八幡は同じ男子部員に対する言い訳を考え出すが、何も思い浮かばない。

一瞬の思考の間に、立て付けの悪い入り口のドアがギーっと音を立てて開かれた。

「…お、お前ら!?何でここに…」

自室に戻ってきた少年は3人の姿を見て驚きの声を上げる。

「や、ヤッハロー…お邪魔してます」

由比ヶ浜は誤魔化すようにそんな間の抜けた挨拶をした。

「…沙耶香、こいつらに何を話した?」

少年はそんな由比ヶ浜には一瞥もくれずに、少女を問い詰める。

「わ、私たちが施設にいることと、あんちゃんも同じ施設の出だってこと…あと、旅行と合宿のお金の件も…」

少女は恐る恐る、少年に対してそう説明した。

それを聞いて、彼は深い溜息を吐いた。

「…知られたくなかったんだけどな…で、何でウチに?」

後輩の少女を責めた所で仕方が無い。

そんな顔で、彼は3人から用件を聞きだした。

沙耶香と呼ばれた少女は、彼が怒り出さなかったことに安堵の表情を浮かべる。

「…この際だ。隠してもしょうがないだろ?」

比企谷八幡は、雪ノ下雪乃に対して、川崎沙希の件を説明するよう促した。

彼女は今回受けた依頼の内容を淡々と説明していった。

そして、その調査の段階で少年に不純異性交遊の疑いが掛かったことも述べた。

「…それで、俺が川崎さんを連日朝までウチに連れ込んでるって思ったのか?…川崎さんがそんな話聞いたら絶対に怒るぞ」

ひとしきり雪ノ下雪乃の説明を聞いた少年は、呆れ顔でそう口にした。

「残念ながら彼女はただのバイト仲間だよ…彼女、塾に通う学費のために仕事してるんだ。俺も先日、彼女から割のいい働き口を紹介してもらった。何も問題なんて存在しない。そもそもテスト準備期間中に部活はないはずだけど?」

少年は自分に掛かった疑いを晴らすべく、そう弁明した。

一方、雪ノ下雪乃は難しい顔をしたままそれに反論する。

「問題なら存在するわ。朝帰り…高校生の深夜10時以降の労働は禁止のはずよ…貴方、ひょっとして川崎さんと一緒になって深夜労働を…」

「…だったら何?」

彼女の言葉を遮るように、少年は低い声でそう尋ねた。

「やめさせるわ。当然よ。奉仕部から犯罪者を出すわけには行かないの」

彼女は淡々とそう口にした。

正義は我に有り、そう言わんばかりの表情を浮かべながら。

「…未成年の深夜労働を禁止するのは、子供の権利を保護するためだ。雪ノ下さん、クッキー作りの試食で、俺に人権なんかないって言ったよね…なら、何も問題ないはずだ」

「!?…それは」

少年は彼女の揚げ足を取るような発言で彼女の主張を斬って捨てる。

雪ノ下雪乃は彼の思わぬ反撃に言葉を詰まらせた。

語気を普段より幾分強めて言葉を押し返すその少年の姿に、比企谷八幡は、サッカー部に乱入した時の情景を思わず脳裏に浮かべた。

「…もういいでしょ?俺、忙しいんだよ。この子に金を渡して、また直ぐにバイトに出なきゃ行けないんだ」

少年は忌々しそうに3人を見ると、話を打ち切るようにそう述べた。

「あんちゃん、どうしてそんなに…生活費が足りないなら私達、やっぱり旅行なんか行かなくても…」

その様子を黙って見ていた少女はそんな懸念を口にした。

「いや、食うには事足りてる。子供がいらん心配すんな。ほら、持ってけ」

そう言いながら、彼は銀行のATMコーナーに備え付けられている封筒を無理矢理彼女に手渡した。

「…でも…遥姉の件でお金がないんじゃ…」

彼女は落としかけた封筒を大事に手に取りながらも、追加で彼に問いかけた。

「…お前には関係ない。さっさと施設に戻れ。遅れるとまた職員に怒られるぞ?」

少年は彼女の問いかけには答えない。

「遥姉?」

由比ヶ浜結衣は、彼等の会話の中に出てきた人物について恐る恐る尋ねた。

「…私の一つ上で今年出所した…16歳の元入所者です」

「おい沙耶香!!話す必要はない!」

少年はとうとう怒りを露にして、少女を怒鳴りつけた。

「だって、こんなのおかしいよ!何でそこまでするの!?」

少女もそれに対して感情的に何かを言い返そうとする。

「うるさい!早く出てけ!お前らもだ!」

少年は、4人を追い出すように玄関へと押しやると、乱暴にドアを閉めた。

「その…遥姉、というのは?」

雪ノ下雪乃はアパートの階段を下りたところで少女にそう尋ねた。

「施設の先輩です…あんちゃんの一つ下で…」

「…じゃあ高校1年生か」

「いえ、高校には通ってません」

「へ?」

会話に合いの手を入れる位の感覚で由比ヶ浜結衣が問いかけた質問は、即座に否定された。

「頑張って勉強したり、自活したり、そういう気力が無いんです。高校にも進学出来なかったので、今年斡旋で就職先を見つけて施設を出ていったんですけど…仕事もいつの間にかやめてしまいました。どこかで男を作って、依存して…先月、それで妊娠したって大騒ぎになったんです…あの人は、その男にフラれるのが怖くて、父親が誰なのかも言わなかったんですけど…あんちゃん、その中絶費用を負担して…」

「…ちゅ、中絶…そんな」

―――そういうの、せめて経済的に自立してからにしたら?万が一身籠ったら、君、ちゃんと母親やる覚悟あんの?

初めて奉仕部を訪れた時に少年から言われた言葉が、由比ヶ浜結衣の脳裏を過ぎった。

彼女は、同時に胃の辺りに感じた強烈な吐き気を必死に押さえ込む。

自分が生活する環境の中に、こんな世界と接点を有する人物がいた事が、おぞましく思えた。

当然、そんなことを口にするのは人として許されない。

だが、彼女はこれまで、そんな裏側を一切自分達に見せずに同じ部活で活動していた少年に対して、ある種の恐怖感を覚えた。

「驚きますよね…でも、生まれて来なければ良かったなんて、皆さんきっと、思ったことすら無いんじゃないですか?」

「「「…」」」

そんな環境で生まれた子供がどうなるのか。

きっとまともな人生を歩むことは出来ない。正に、今の自分達と同じ境遇に置かれて、負の連鎖を繰り返すだけだ。彼女の言葉にはそんな意味が含まれていた。

「…あんちゃんはちょっと特殊でした。昔から勉強もできたし、何より、学校の虐めや他人の心無い言葉にも絶対に負けなかった。私達、本当に尊敬してるんです。きっと、他の施設の子と違って、物心ついた時からあそこにいたのも大きいとは思うんですけど…」

「物心ついた時から施設にいるって、…皆そうじゃねぇのか?」

少女の話に対し、比企谷八幡はふと沸いた疑問を口にする。

「今はあんちゃんみたいな孤児は珍しいんです。大抵、親に捨てられたり、虐待から逃れるために施設に入れられる子の方が多いんですよ。里親が見つかったのも、そういう”余計なしがらみ”がなかったのが大きいんです。でも、その分、自分だけ自由になることに抵抗を感じていたみたいで…それでずっと私たちのことを気にかけてくれてるんです…」

「…そうか…で、どうすんだ、雪ノ下?…正直、これ以上関わるべきじゃないってのが俺の意見だが?」

「そんな、ヒッキー…」

自分の本心と裏腹に思わず口をついて出た、比企谷の態度を咎めるかのような言葉。

由比ヶ浜結衣は、そんな自分が心底浅ましく思えた。

「あんなの、俺達高校生に何ができんだよ?」

「調査は続けるわ。まずは彼と川崎さんが深夜にバイトしてる先を突き止めましょう…私達にどうにも出来ないことが彼にどうにか出来るとは思えない。沙耶香さんには申し訳ないけれど、本来、彼だって関わるべきことではないのでしょう。であれば、今後、こういうことは止めさせるべきよ…」

雪ノ下雪乃の答えは決まっていた。

やや申し訳なさそうにそう述べた彼女の言葉に対し、中学生の少女も頷いて同意を示す。

「そうか…」

「でも、バイト先を突き止めてどうするの?…川崎さんだって、ここまでじゃないにしても似たような事情が…」

「…知るかよ」

比企谷八幡は苛立ちを感じながら、思わずそう口にした。

ボッチだの、リア充だの騒いでいる自分のような世間知らずと比べて、きっとあの男は一歩も二歩も、大人の階段というものを先に上っている。

葉山隼人を正論で追い詰め、雪ノ下雪乃ですら一蹴するような奴だ。

自分が口を挟んだところで、相手にもされないだろう。

―――でもな、気に入らねぇんだよ

ひょっとすると、あるいは、こいつとなら……友達になれるかもしれない。

期待すれば裏切られる。あれほど自分に言い聞かせてきたのに。

少しでもそんな期待を抱いた自分が惨めだった。

こんなのは個人的な言いがかりに過ぎない。

それも分かっている。

それでも彼の心の中には一つだけ、どうしても引っ掛るものがあった。

少年の勉強机の傍に捨てられていた、書き殴り用の紙の束。

それは、材木座義輝が書き上げた小説の原稿だった。

その裏にある事情も頭では理解した。

十中八九、ノート代を節約しているのだろう。

しかし、感情がその行いを認めることを許さなかった。

☆ ☆ ☆ 

後日、ホテルの最上階にあるバーに奉仕部のメンバーはやって来た。

四苦八苦してようやく突き止めた、川崎沙希のバイト先。川崎大志から得た情報によると、彼女は今日もバイトに出ている。ということは、ここでお目にかかれるはずだ。

何日か通えば、恐らくあの男にもここで合える筈だ。

そう考えながら3人は店員の働くカウンターへと近づいていった。

「探したわ、川崎沙希さん」

お目当ての人物を見つけ、雪ノ下雪乃が彼女の名前を口にした。

「あんたJ組の…雪ノ下か」

川崎沙希は驚いたような顔をした。

「ど、ども…」

「そっちは由比ヶ浜か。一瞬分からなかったよ…じゃあそっちの男も?」

「あ、うん。同じクラスのヒッキー…比企谷八幡君」

毎度毎度、同じクラスの、という紹介が痛ましくもあるが、比企谷はそこには敢えて反応しなかった。

「そっか…バレちゃったか…で、何飲むの?」

「ペリエを二つ…この男にはジンジャエールでも」

フッと、残念そうに笑みを漏らした川崎沙希は、表情を作り直して注文をとる。

雪ノ下雪乃は素直に飲み物をオーダーした。

「川崎、お前最近帰りが遅いんだってな?弟が心配してたぞ」

比企谷八幡は早速本題を持ちかける。

「…最近やけに周りが小煩いと思ってたら、アンタ達のせいか…どういう繋がりか知らないけど、もう大志とは関わんないで」

川崎沙希は一転して、不機嫌そうな表情を浮かべるとそう言い放った。

「シンデレラの魔法が解けるのは午前0時だけれど…あなたの魔法はここで解けてしまうわね」

雪ノ下雪乃は、そんな彼女をやや挑発するようにそう話しかけた。

「…魔法が解けたなら、後はハッピーエンドが待ってるだけなんじゃないの?」

「それはどうかしら、人魚姫さん?貴女に待ち構えているのはバットエンドだと思うのだけれど」

ギスギスした雰囲気の中で交わされる、言葉の応酬。

由比ヶ浜結衣は、そんな環境に身をおいて、胃がキリキリと痛むのを感じていた。

「…お待たせ致しました。こちら、ご注文のビールです」

不意に、川崎沙希の横から割って入って来た別のバーテンダーがさっと、3人前にビールの注がれたグラスを並べていく。

「?…ビールなんて誰も注文して…」

川崎沙希に気を取られていた雪ノ下雪乃は、不信に思って顔を上げる。

そこには、奉仕部のもう一人のメンバーの姿があった。

「…まさか川崎さんとシフトが被って…」

―――パシャッ

「ちょ、何でいきなり写真なんか!?」

少年は、雪ノ下雪乃が言葉を言い終える前に、手にしていた携帯電話で3人を写真に収めた。

由比ヶ浜結衣は、それに対して抗議の声を上げる。

「…未成年が午後10時以降、バーに入店の上飲酒っと…思いの外綺麗に撮れてる…ホラ」

少年は得意げな顔で、携帯に移った写真を離れた位置から3人に見せた。

ちょうど、比企谷達3人がバーのカウンターでビールを飲んでいる構図だ。

ご背景には日付と時刻を示す壁掛けのデジタル時計までクッキリ写り込んでいた。

「で、誰が人魚姫だって?雪ノ下さん?」

「あ、アンタもこいつらと知り合いなの?」

突如会話に入ってきた少年に対し、川崎沙希は尋ねた。

「…この3人、俺が無理矢理入れられた部活の部員なんだ。川崎さんにはせっかくいいバイト教えてもらったのに、恩をアダで返すような感じになっちゃって…ごめん」

少年は川崎沙希に対して、謝罪の言葉を述べる。

「そんなでっち上げの写真で私たちを強請ることが出来るとでも思っているの?」

雪ノ下雪乃は、忌々しげに少年に対してそう言った。

「…雪ノ下さんがこれまで通り、奉仕部で自己満足のゴッコ遊びをしてるだけなら俺も傍観してた…けどな、俺も川崎さんも、このバイトには今の生活や将来をかけてんだよ。そこに土足で踏み込んできてメチャクチャにしようってんなら、こっちもお前らの人生をブッ潰してやる…俺にはそういう覚悟がある」

少年は語気を強め、荒い口調でそう言った。

「…自己満足のゴッコ遊びですって?」

それに対し、雪ノ下雪乃は聞き捨てなら無いという表情を浮かべ、そう問いかけた。

「生徒の自立支援、だっけ?…それは結構だ。でも、奉仕部の依頼を通じて自立出来た人間がこれまで何人いた?材木座は小説家志望と言ってたけど、たった一つの作品を皆で寄ってたかって貶めて終了だ。戸塚のテニスの依頼も結局有耶無耶のまま打ち切られた。で、今度は俺達のバイトを無理矢理辞めさせてどうする気だよ?」

「くっ…」

雪ノ下雪乃は少年の指摘に歯噛みする。

自分の打った手が正に悪手であった事に気が付いた。

自分は川崎沙希という人物について詳しくは知らないが、多少口論になっても同年代の女子生徒であれば正論で説き伏せる自信があった。

だが、このタイミングでこの男が出てくるのは想定外だった。

敵意を剥き出しにする"狂犬"は、上から無理矢理押さえつけても服従させる事など出来ない。

昔から自分は犬とつくづく相性が悪い、そう感じた。

「…雪ノ下…確かに俺達の成果なんて、所詮そんなもんだ。今回だって、お前の問題に関しちゃ解決できる気がしない」

比企谷八幡は、悔しそうな表情を浮かべる雪ノ下を一瞬だけ横目で見ると、少年の指摘を全面的に認める発言をした。

「…なら早く帰…」

「けどな」

比企谷八幡は、帰れと口にしかけた少年の言葉を遮る。そして言葉を続けた。

「お前が材木座のことを盾に言い訳してんのだけは気に食わねぇんだよ」

比企谷八幡は珍しく、怒りの表情を浮かべていた。

自分はこの男に体よく利用されたのだ。

それはまだいい。だが、材木座はどうなる。

本来であれば自分も小説家になりたい等という、彼の寝言のような目標に共感を示すようなことはなかった。

だが、あの時学校の渡り廊下でこいつがした提案に、材木座は素直に喜びを示していた。

人と真に友情を育むことなど、不可能だ。俺が青春を謳歌することなどあり得ない。

今だってそう思っている。

だが、あの時、あの瞬間だけは、そんなものが自分の中にも存在するのかもしれないと、そんな淡い期待を抱いたのだ。

クシャクシャに丸められた材木座の原稿は、彼の目には、踏みにじられた自分の心と重なって見えていた。

「…」

少年は比企谷八幡のそんな怒りの表情に戸惑いを覚える。

「…お前の事に口出しする気は毛頭ねぇよ。だが川崎は別だ」

そう言って、彼は川崎沙希を見る。

「え?」

「…スカラシップって知ってるか?」

戸惑いの表情を浮かべた少女に対し、彼は説明した。

世の中には優秀な生徒の進学実績を塾の名声に繋げるため、成績優秀者を無料でレッスンに呼び込む学習塾がある。

本気で勉強に専念したいのであれば、今、家族に心配をかけてまで身を粉にして金を稼ぐ必要はないのだ。

「でも…アタシだけ…」

川崎沙希はその提案を聞き、心を揺らした。

彼女は少年に対して、遠慮がちに視線を送る。

それに気が付いた少年は彼女に対して、笑って答えた。

「川崎さん、俺のことは気にすんなよ。バイト教えてもらっただけで俺は助けられた……それと、さっきの発言は撤回する。比企谷、奉仕部で唯一お前だけはちゃんと実績を残してるのは認める」

少年はそう言って比企谷八幡の目を見る。

「…お前に認められても嬉しかねぇよ」

「そう言うと思った…もう帰ってくれ。俺にはどうしても金が必要なんだ。どうせあいつから色々と聞いたんだろ?」

少年の言葉に、彼らは押し黙る。

それは沈黙による肯定だった。

「なら、黙って見逃してくれると助かる」

「…待ちなさい…悔しいけれど、貴方の言ったことは正しいと認めるわ。それに、貴方と比企谷君が入部してから私が2人に対して浴びせてきた軽率な発言についても謝罪します」

「ゆ、ゆきのん!?」

由比ヶ浜結衣は、いかにもプライドの高そうな自分の友人が頭を下げたことに、驚きの色を隠せなかった。

「いや、本当に謝罪とかいらないから…もういいだろ?」

「そうは行かないわ。自分が信用されていないのは理解したわ。でも…だからこそ私はこのまま引き退る訳には行かないのよ」

「だからそれは雪ノ下さんの都合でしょ?俺には関係ない」

少年は雪ノ下雪乃からの謝罪の言葉を一蹴し、奉仕部のミッションも、自分の知ったことではないと切り捨てた。

「そうね…そう。私の都合かもしれない。でもより具体的に事情を知れば私にも出来ることがあるかもしれない…まずは、聞かせてもらえないかしら。貴方が何故自分を犠牲にして…」

雪ノ下雪乃がそう口にした瞬間、少年の目は再び激しい感情の炎を宿した。

「犠牲!?…俺は犠牲になってるつもりはない。やっぱり雪ノ下さんに俺が理解できるとは思えない…俺は自分の力で生きて行くんだ。これまでもこれからも、誰にも頼らずに…俺たちみたいにクソみたいな環境で育った人間にも、それが出来るってことを証明しなきゃならねぇんだよ」

少年は吐き捨てるようにそう言った。

だが、比企谷八幡は見逃さなかった。

雪ノ下雪乃の言葉に、少年の心は確かに揺れていた。

理解してほしい、誰かに救ってもらいたい、彼の心の底にそんな叫びにも似た思いが燻ぶっていた。

「…雪ノ下、もう止めとけ。他の客にも迷惑がかかる。また出直そう」

「…そうね。私は諦めないわ。この件は貴方の事情を知っている平塚先生にだけ相談するわ。明日、学校で会いましょう」

彼らはそう言い残して、バーを後にした。

☆ ☆ ☆

翌日の昼休み、少年は校内放送で職員室横の応接スペースへの出頭を命じられる。

宣言通り、雪ノ下雪乃は平塚教諭にこの件を報告したのだろう。

奉仕部もきっと同席するはずだ。

少年は重たい気分で廊下を歩いていた。

「…ほらよ」

「比企谷?」

部屋の前まで来て、不意に声を掛けられたことに気が付く。

声の主、比企谷八幡の手には菓子パンが一つ。それを少年に差し出している。

「ったく、どこまでストイックなんだよ、お前…いくら金に困ってるからって、飯まで抜くとか、正気じゃねぇだろ」

「恵んでもらう筋合いは無い」

「…腹減らしたまま先生とやりあうのか?良いから食っとけ。間違って買った余りもんだ。お前が食わんなら捨てる」

仏頂面でそう述べた少年に対し、比企谷八幡は半ば無理矢理、パンを押し付けた。

少年はそれを受け取り、一口噛り付くと、顔を更に曇らせて呟く。

「材木座の件は…悪かったよ。お前を利用した…って言うか奉仕部の活動全般、みんなを利用して適当にやり過ごそうってのが俺の算段だ」

「……ま、良いんじゃねぇの?…俺は暇だし」

比企谷八幡はややぶっきらぼうにそう言った。

「って、食うの早!?」

彼は、一瞬だけ目をそらした隙に、自分が差し出したパンが跡形もなく平らげられていたことに驚いた。

「飯は基本奪い合いだったからな。助かった」

「…じゃあ開けるぞ?」

比企谷八幡はそう確認した上で応接室のドアを開けた。

「さて、少年。何か申し開きはあるかね?」

教師平塚静香は重々しい表情でそう尋ねた。

「…別に。さっさと停学に…いや、いっそ退学にでもしたらどうですか?」

不貞腐れたような表情でそう呟いた少年を、奉仕部の3人は居た堪れない表情で見ている。

「はぁ…つくづく君という奴は…雪ノ下。この少年に関する、私からの奉仕部への依頼は何だったかな?」

「…バイト漬けの彼に、人並みの青春を送らせることです」

「そうだ…付け足すとすれば、”この学校で” 青春を送らせることだ。生憎私は一部の生徒を依怙贔屓をするダメな教師でな。従って、今回の君のバイトの件は揉み消すことにする」

「はぁ!?…もう俺に構うのはいい加減にしてください。俺の為にそんなリスクを取って、先生に何の得があるんですか?…正直、迷惑です」

そう言った少年の表情は複雑だった。

これまで、少年にとって、施設の仲間たちが自分の生活の全てだった。

だが何年か前に、そんな自分にも親が出来た。里親は自分に自由を与えてくれた人格者だ。

だからこそ、そんな人間から一方的に与えられる関係は、いつか自分にとって重荷になると感じていた。

毎月振り込まれてくる仕送りには手を付けず、社会人として真に独立した際に、その全額を返済し、縁を切るつもりでいる。

一人で生きていくこと。そんな目的に執着していた。

なのに、この教師は何なのだろうか。

いつもズケズケと人の心に遠慮もなく入り込んでくる。

少年は、そんな人間とこれ以上関わりを持つことに対し、言い表せない不安を覚えていた。

「バカ者、損得勘定だけで動く人間に教師なんて仕事が務まるか。それに他人のためにリスクを取っているのは君も同じだろう?」

「俺は…そんなつもりは」

少年は答えあぐねた。

「…だが私も教師だ。あまり目に余る行動を黙認し続ける訳にはいかん。君の事情は理解するがね。そこで一つ、提案をしよう」

平塚教諭はニヤリと笑みを浮かべると、そう言った。

そんな教師の言葉に、奉仕部の3人は顔を見合わせる。

「今の生活を続けたいと言うのは君のエゴだ。その生活から君を遠ざけたいと言うのは奉仕部のエゴ。互いのエゴがぶつかるのであれば、勝負で決着を着けねばなるまい?」

「…奉仕部の勝負の件なら、これまでの実績からして比企谷の単独勝利で間違いないでしょ」

少年はぶっきら棒にそう答えた。

その言葉に、雪ノ下雪乃は表情を暗くする。

「それとは別口だよ…今回のテスト、君たちは互いに総合順位を競い合い給え。君が優秀な成績を維持しているのであれば、法令違反はさておき、バイトすること自体については、学校側としても不服はないだろう」

「…学生らしく学業で競い合えってことですか」

「そうだ。学生の本分を疎かにするのは君の本望ではないはずだ」

平塚教諭の提案に対し、少年は納得したような表情を浮かべた。

「分かりました。俺がこの3人よりいい成績を収めれば、今後、バイトの事に口を挟まない…そう約束してくれるんですね?」

少年は念を押すようにそう確認した。

「無論だ。必要ならばハンディキャップもつける。雪ノ下が相手では分が悪いだろう?」

「…俺は欲しいものは自分の実力で掴み取る。邪魔する奴がいれば叩き潰す。今までそうやって生きてきました。これからも、そうやって生きるしかないんですよ。ハンデに甘えるような人間にはなりたくありません」

「…ほ、本当にハンデ無しで勝負を受けるの?」

由比ヶ浜結衣は驚いたようにそう確認する。

雪ノ下雪乃は学年首席生徒だ。彼は、彼女のことをよく知らないのだろうか。どうすれば、そんなに自信に満ち溢れた言葉が出てくるようになるのだろうか。

そんな疑問が沸くと同時に思う。

彼は自分とは、いや、奉仕部の誰と比べても、生き方が根本的に異なっている。

自分も形式上この勝負に巻き込まれたものの、正直、ハンデ無しでは勝敗に関わることは一切ないだろう。

そんな事実に、落胆する以上に安心している自分自身が堪らなく情けなく感じられた。

「では決まりだな。以後、テスト終了まで奉仕部は活動休止だ」

平塚教諭の号令を受け、4人はそれぞれの教室へと戻って行った。

☆ ☆ ☆ 

深夜

車の往来の激しい幹線道路沿いの工事現場に積まれた建築資材の上に、少年は腰掛けていた。

この日は川崎沙希から紹介を受けたバイトのシフトはない。

このご時勢に運よく手に入れた、建設現場の臨時アルバイト。今はその休憩時間だった。

「…It goes without saying that…~は言うまでもない…」

車道を高速で走り抜けていく車のヘッドライトと街燈の光を頼りに、手にした英単語・イディオムの書かれた暗記カードを一人ブツブツと読み上げていく。その姿はさながら、一心不乱に経を読む修行僧のようだ。

「おい、新入り!悪いが休憩切り上げてセメント混ぜてくれ!」

「うっす!」

突如現場リーダーに声を掛けられた少年は、元気良く返事を返すと、ポケットに暗記カードをしまい、資材の上から飛び降りた。

―――あんな奴等に負けてたまるか

比企谷八幡は良い奴なのかもしれない。だが、どんな人間だろうと所詮自分には関係ない。

由比ヶ浜結衣はあの日以来、自分と心理的に距離を置き始めている。結構なことだ。

雪ノ下雪乃がどれ程学業に秀でているかは不明だ。だが、それも知ったことではない。

自分の邪魔をする人間は、すべからく敵である。

これまで通り、全力で叩き潰すまでのこと。

そんな執念にも似た想いを込めながら、彼は無言でセメントを混ぜた。

由比ヶ浜結衣は憂鬱だった。

いつもなら、そろそろベッドに横になる時間だ。

今日はなんとなく勉強机でテキストを広げたものの、テスト対策は全く手につかず、頭には何も入ってこなかった。

少年の家を訪れて以来、奉仕部の空気はピリピリとしていた。

想い人である比企谷八幡も、友人となった雪ノ下雪乃も、難しい表情ばかりを浮かべている。

クッキー作りを依頼したあの日、少年は笑顔で、自分が比企谷八幡と近づけるように協力すると申し出てくれた。あの日の出来事がまるで嘘だったかのような感覚を覚える。

少年の抱える問題を知ったあの時から、自分の浅ましさや弱さを眼前に突きつけられたような嫌な気分が続いていた。

今回の勝負にしても、自分には出る幕もない。実質的に彼と雪ノ下雪乃との一騎打ちだ。

方や、同じように勝敗には直接関わらないであろう比企谷八幡はどうだろう。

彼の奉仕部での実績は少年が認めた程だ。思い返せば、自分の依頼しかり、クラスメートのチェーンメール事件しかり、川崎沙希の件しかり、解決の糸口は全て彼の提案により掴んだものであった。自分はそんな事実さえも、少年が口にするまで意識していなかった。

今の自分では、雪ノ下雪乃の友人として肩を並べて歩くことも、恋人として比企谷八幡の横に立つことも到底かなわない。そう考えると、出るのは溜息ばかりだった。

「ハァ…って、このままじゃ駄目だよね…しっかりしなきゃ」

そう呟くと、自分の頬を両手で強めに叩いて、再びテキストへと目を移した。

雪ノ下雪乃はマンションのベランダで夜風に当たりながら物思いに耽っていた。

自分は高校入学以来、首席の座を維持し続けていた人間だ。

今回の勝負でも、彼が全教科満点でも取らない限り、負けることはまず有り得ない。

だが、そんな勝負に挑む前から、彼女の心には、これまで感じたこともなかったような敗北感が渦巻いていた。

自分は自他共に認める才色兼備な存在だ。自分の考え、行動、その全てにおいて彼女には、実績に裏打ちされた絶対的な自信があった。だがその全てが瓦解してしまった。

あの日、恩師平塚静香に連れてこられた、まるで冴えない、社会性のない問題児、比企谷八幡という人物は、自分には無い視点から次々と問題を解決していった。

そして、同時期にこれまた平塚教諭によって強制入部させられたあの少年には、自分の活動は自己満足のボランティアゴッコであると一蹴された。

当初、取るにも足らない存在であると考えていた二人の男子生徒に、自分が如何に傲慢で、現状に慢心していたかを、嫌というほど思い知らされた。

問題は特にあの少年だ。燃え上がる様な感情が篭められたあの瞳は、最早自分には直視することすら難しかった。

友人と呼べる人物のいない時間を長く過ごした彼女は、自分を孤高の存在として高め続けることで、いつか他者の自己にかかる認識も大きく変わるものと信じ続けてきた。しかしながら、今になってその考えにも疑念が生じる。

果たして孤高とはどういう存在なのだろうか。

少年は「一人で生きる」と断言した。正直、気に入らないことがあれば牙を剥き出しにして他者に嚙み付くような人間が、孤高な存在であるとは思わない。

だが、劣悪な環境に敢えて身を置き、自身の苦労を省みずに、施設の仲間に生き方を示そうとする彼のその姿からは、自分が到底持ち合わせていない、眩しいほどの強さが滲み出ていた。

雪ノ下雪乃はベランダから自室へと戻る。

考えてみれば、自分もあの少年と同じ一人暮らしの身だ。だが、自分が住まうその部屋は、少年が身を置く牢獄のようなボロ家とは天と地ほどの差があった。高級な家具が備え付けられ、常時セントラル空調が効き、広々とした快適な空間。所詮は全て裕福な親から与えら得たものに過ぎない。その事実を認識すると、感じ続けていた敗北感は更に膨らんだ。

「これ以上負けたままではいられないのよ…」

彼女は自分に言い聞かせるように、一人そう呟くと、勉強机へ向かっていった。

この日、比企谷八幡はいつになく勉強に集中していた。

彼は高校入学の初日、交通事故に遭っていた。散歩中の飼い主がリードを手放した隙に車道に向かって走り出した犬を救うため、彼自身が車道に飛び出し、走行中の車とぶつかったのだ。足を骨折し、数週間の入院を強いられた彼は、新たな学校で友人を作る機会を逸してしまった。

だが、それも最早1年以上も前の出来事だ。問題は今日、家に帰るなり妹から告げられた事実だった。

「お兄ちゃん、よかったね。骨折ったおかげで結衣さんみたいな、あんな可愛い人と知り合えて」

妹、比企谷小町との何気ない会話から、犬のリードを放した飼い主が由比ヶ浜由比であったことが判明した。

そのこと自体は別にいい。車に撥ねられたのは道路に飛び出した自分自身の責任であるし、誰が悪いと言えるような事故ではなかった。

だが、その事実を知ったことで一つの考えに思い当たる。

由比ヶ浜結衣という少女は、友人もいない自分に対して、何故こうも明るく接してくれたのだろうか。クッキー作りの日以来、彼女はこれまで関わりの無かった自分と急激に距離を縮めるように、話しかけてくるようになった。優しくされて、つい舞い上がりそうになる自分を必死で抑えてきたが、ようやく彼女のその不可解な行動も腑に落ちた。

全ては、彼女が罪悪感、同情心、哀れみを誤魔化す為に行ってきた贖罪だったのだ。

だが、自分にはそんな人間関係は不要だ。そんな薄っぺらい同情によって成り立つ繋がりを自分が求めていると思われていることが、堪らなく不愉快だった。

彼女の心理的な重荷を外してやれば、また、元の何も無い関係に戻るだろう。それがお互いにベストな選択であり、それ以上、それ以外の道はないだろう、そう考えた。

だが、そこでふと今日の自分の行動を振り返る。

昨晩、材木座への裏切り行為を咎めるかのように対峙した少年のために、自分は一つ余計にパンを購入した。何故そんな行動に出たのだろうか。あれは、奴の生活環境を目の当たりにしたことで、自分の中に芽生えた同情心に従っての行動だったのではないだろうか。自分で唾棄すべきものと考えた由比ヶ浜結衣の行動と、自分の今日の行動は何が違うというのだろうか。

「ちっ…数式は暗記するしかねぇか…」

本来、自分は勝負事などに執着するような人間ではない。成績であの男を上回れるかどうかも不明だ。

だがそんなことはどうでもいい。自分は同情なんてしない。それを示すための確証を自身に求めるように、苦手科目である数学の問題集に嚙付いていた。

その日、比企谷八幡は人生で初めて、勉強を続けたまま机で眠りに落ちた。

☆ ☆ ☆ 

後日、テストが終了し、奉仕部の4名は職員室へと集められた。

「さて、結果発表だ。今回は特別に、生徒が採点済の答案を受け取る前に成績一覧を入手した。皆、心の準備はいいか?」

平塚教諭は嬉しそうに笑みを浮かべて4人を見回した。

全員無言で彼女の言葉に頷いた。

「まず、由比ヶ浜…順位は…皆に知らせるのは酷か。だが、赤点科目の数は前回の半分だ。まぁ良くやった。追試に向けて頑張るといい」

「…ア、アハハハハ。やっぱり赤点があったんだ…ハァ」

由比ヶ浜結衣は、力無く笑ってそう呟くと、目に見えて落胆した。

「先生の仰った通り、頑張ったのだから立派よ。勉強を続ければ次は赤点も回避できるでしょう」

雪ノ下雪乃は彼女を気遣うようにそう言った。

そんなやり取りを見て、少年は思う。そんな慰めに何の意味があるのだろうか。自分は負ければ全て失う覚悟でこの勝負に挑んでいる。何の覚悟も無いような奴がこの場に混じっていること自体が不愉快だ。そんな考えを、余程声に出そうかと考えて、彼は口を噤んだ。

「次は比企谷…君も順位を大きく上げている。学年総合成績42位。苦手の数学で初めて平均点を上回ったのが大きいようだ。良く頑張った」

1学年でA〜Jまでの10クラスあるこの学校で、ざっくり上位15%に入る成績だ。

平塚教諭は、心配していた問題児の奮闘に、満足気な表情を浮かべている。

「…そっすか。まぁ今回が最初で最後でしょうけど」

「これを機会に数学を克服して成績を維持しますとは言えんのかね、君は」

比企谷八幡の冷めたような言動に、平塚教諭は頭を抱えた。

「で、俺は何位だったんですか?」

少年は、話が進まないことに若干苛々しながらそう尋ねた。

「そうだな…君は、学年総合成績14位だ。前回から15人近く抜いている。これも快挙と言っていい。本当によく頑張った」

「…で、雪ノ下さんは何位なんですか?」

少年はそれを聞かなければ意味が無いといった表情で、平塚教諭に発表を促した。

「これまでと同じ1位だ」

「…そうですか」

少年は静かにそう呟いた。

比企谷八幡と由比ヶ浜結衣はやはりそうかといった表情を浮かべる。

対して、勝利した雪ノ下雪乃も、決して晴々とした表情を浮かべているわけではなかった。

「…で、どうすんのお前?」

職員室から出た4人。最初に口を開いたのは比企谷八幡だった。

少年に対し、今後のことを尋ねる。

「これまでと同じ1位、か…平塚先生に嵌められたような気がしないでもないけど、ハンデもいらないって言ったのは俺だし…負けは負けだ。深夜バイトはもう止める」

「金は?」

「里親からの仕送りは手を付けずに全額貯金してる。足りなきゃそれを取り崩す。借りるのは嫌だけど、こつこつ貯めていつか必ず全額返済する」

少年は光を失ったような目で淡々とそう口にした。

「…そ、そっか。お金、ホントに無いわけじゃないんだ。よかった…のかな」

由比ヶ浜結衣は遠慮がちにそう呟いた。

奉仕部メンバーによる不法バイトの件はこれで一応の決着が付いた。

だが、今回主張を通したはずの3人も決して明るい表情を浮かべている訳ではない。気まずい雰囲気が全員の間に流れていた。

「…手を開きなさい」

誰も次の言葉を発することを躊躇していると、突如、雪ノ下雪乃が少年にそう命令した。

比企谷八幡も由比ヶ浜結衣も、彼女がいきなりそんなことを言い出したことに戸惑う。

数秒の間を置いて、雪ノ下雪乃は少年の右手を両手で取り、包み込むように握った。

その行動に比企谷八幡も由比ヶ浜結衣も目を見張った。

「そんなに強く握ったら、爪が食い込んでケガをすると言っているのよ」

雪ノ下雪乃は、少年の指を一本一本、慈しむように解いていった。

彼女の言う通り、少年の手の平にクッキリと残った自身の爪痕は、既に赤く滲み出していた。

「…結局私には貴方の邪魔をすることしか出来なかったわね。自己満足のゴッコ遊びとはよく言ったものだわ」

雪ノ下雪乃は少年の手を握ったまま、どこか遠くを見つめてそう呟いた。

その表情からは明確な自己嫌悪や無力感と言ったものが窺われる。

「勝っといてそれかよ…クソ…参ったな…参った…」

少年は俯いて下を見ながら、消えそうな声でそう言った。

「…とにかく、部室に行きましょう。今日から部活動も再開するわ…貴方の事についてもも、もう一度話を聞いて、何か出来ることがないか考えておきたいのよ」

雪ノ下雪乃は活動の再開を宣言する。その言葉に由比ヶ浜結衣は頷く。比企谷八幡もめんどくさそうな表情を浮かべつつも同意した。3人は廊下を歩き出す。

「…来ない、の?」

由比ヶ浜結衣は立ち止まると、その場から動かなかった少年を見つめ、心配そうにそう尋ねた。

「…ちょっとトイレ寄ってく…先行っててよ」

「…だとよ。先行くぞ」

取って付けたような力のない笑みを浮かべてそう言った少年を見て、比企谷八幡は二人の女子に先に部室へ向かうよう促した。二人は若干心配そうな表情を浮かべつつも振り返ると、特別棟へと向かって歩き出した。

 

「…彼、大丈夫かしら」

ふいに、雪ノ下雪乃が廊下で立ち止まり、そう呟いた。

由比ヶ浜結衣も比企谷八幡も無言を貫く。

―――ダァァンッ!!!

 

その時、自分たちが歩いてきた方向から、何かを強く叩きつけるような音が響いた。

「え!?何の音?」 「ひょっとして彼かしら…様子を」

由比ヶ浜結衣と雪ノ下雪乃は驚き、振り返りながらそう口にした。比企谷八幡はそれを制するように二人の前に立ちはだかった。

「…お前ら、挫折を味わった男から、悔しがる自由まで奪うのか?…さっさと部室行くぞ」

比企谷八幡はポケットに手を突っ込んだまま、気だるげないつもの表情で部室へ向かって歩いて行く。

 

雪ノ下雪乃と由比ヶ浜結衣は、無言で彼の丸まった背を追いかけた。

 


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