お待たせ致しました。
「此処が、クーの部屋」
「案外広いな」
12畳程度の、テーブルや机、ダブルベッド等の家具はそのままにされている部屋。ただ、今は誰も住んでいないので、当然ながら化粧台や棚、タンス等の中身は空っぽだし、埃も多少なりともついている。流石に独り暮らしに一軒家となると掃除が追い付かないものだ。そのツケは大体ゴールデンウィークや夏休み、冬休み等で支払っているが。
母さんが生きていた頃は、父さんと一緒の部屋だったから一番広いんだけど、そこまで説明すると何か申し訳なさそうな雰囲気になると思ったので曖昧に微笑んで「そうだな」とだけ言って誤魔化しに走った。海斗がそうだったし。というか気を遣いすぎるんだよ、アイツは。ダブルベッドで何となく察せたとしてもスルーするのが基本だろうに。
さて、件のハウスクリーニングとが来るのが昼過ぎか。
それまでにチャッチャと決める事は決めておこう。
「あー、それじゃクー。此処はあんまし綺麗じゃないので、俺の部屋で少し話そうか」
「判った」
さっさと部屋から出て、隣の自室のドアを開け放ち、エアコンをオートでかけた。5分もすれば肌寒さも消えるだろう。そのまま俺は羽織っていたコートを脱いで、真正面にある足が短い丸テーブルの奥側、つまり俺が座る場所付近へと放り投げた。
去年の誕生日に買って貰った小型冷蔵庫から良く冷えたミネラルウォーターが入ったペットボトルを取り出し、今しがた部屋に入って来たクーラに渡そうして、一瞬考える。
紅茶の次に好きだったのはミネラルウォーター、変わっていない筈だが……
「一応確認しとくけど、水で良いよな?」
「勿論。ありがとう」
ペットボトルの蓋を開けようとしているクーラを尻目に、俺は中央にある丸テーブルのすぐ傍に座布団を2つ敷き、ついでに鞄からプリントを出して隅っこにある勉強机の上にそっと置いた。予定表だけはカレンダーを貼り付けている壁の直ぐ横にピンで留めておく事を忘れない。
カレンダーの横に予定表を留める理由は、行事を後でカレンダーにマーキングする為だ。書かないと覚えないものだし。こうでもしないと中間と期末テストの予習開始日を決めないまま、ズルズルいってしまう。そうなると赤点とまではいかないが、平均点はダダ下がりする。父さんに無理言ってこっちに住まわせて貰っているんだ、コレ位してないとバチが当たる。
「さて、それじゃ話を……何してんの?」
さぁ話し合いだ、と軽く意気込んで振り向いてみれば。
クーラはペットボトル片手に途方に暮れていた。
喉渇いてないわけではないと思うが、何だ?
「圭吾、恥を忍んで頼みがある」
「……またよくそんな言葉を……まぁ、良いか。はいはい?」
ポケットに手を突っ込んでスタスタと歩み寄った俺に対して、クーラは眉を八の字にしたまま、ついっとペットボトルを差し出した。
「開けられないので開けて欲しい。指が滑る」
「……いや、冗談だろ。開けてみろよ」
「無理だと言ってるのに……」
コツも何も要らない、割と簡単に開く奴だぞそれ。
グッ、と掴み、勢い良く回す為に二の腕に力を込めたクーラだったが、
キュキュッキュキュッキュキュッ。
という音が聞こえそうな位、滑りまくっていた。
「……」
「……」
「…………」
「…………あぁ、うん、判った。俺が悪かった」
何となく責められた気分になった俺は、眼をそらしながら手を差し出した。本当に開けられない奴がいるとは思わなかった。どんだけ不器用なんだよお前は。あっちに居た頃は……あぁ、そうか、アーサーおじさん達か、それとも缶だったからか。
何処と無く、力無く手渡されて、適度な力を込めて蓋を回してみると、パキリパキリと言う音と共に簡単に蓋が開いた。
「凄いな。何度やっても無理だったのに」
「コレ位は普通だろう」
「私から見れば魔法みたいなものだ」
単に握力が無いのか、それとも要領が悪いだけだろ。と呟きかけたが、流石に失礼だと思い直したので、代わりに本題へと移る。
「それで、これからの生活についてだが」
「起床時間とか、家事分担の話だな?」
「うん。まぁ、クーにはアレだな、洗濯物や掃除を頼みたい。俺が飯を作るから」
その言葉に引っかかりを覚えたのか、首を傾げるクーラ。
俺は全力でクーラが飯を作る事を阻止しなければならない。イングランドだけではなく、イギリスのメシマズは世界的に轟いている。そして、俺はそれが誇張表現ではない事も知っている。もっと言うなれば、ロンドンに近付く程、飯がもっともっともっともっと不味くなる事を。
生まれた時から今の今までずっとあっちで暮らしていた彼女が飯を作るだなんてとんでもない。
思い出すだけでも食生活は最悪だった。アーサーおじさんは優美おばさんが作り甲斐が無いと嘆く程、味に無頓着と言うか、味音痴というか。いや、よく言えば合理性……いや無理だ、アレは擁護できない。
優美おばさんも、その、言う程じゃないというか、味音痴まではいかないが、いいとこ中の下ぐらいの味なので、正直俺や父さんが作った料理の方が美味しかった。
故に、これだけは絶対に譲ってはならない、所謂此処が俺のデッドラインなのだ。
ただ、スコーンは美味しかった。スコーンというか、スコーンとそれについているソースと、紅茶。御陰でこっちの紅茶は飲めなくなったんだよなぁ。勿論、缶の。
「私もご飯は作れる。当番制で良いと思うが?」
「いやうんまぁほらアレだアレ。日本のご飯は美味しいし、最近俺料理に嵌っているからな」
勿論嘘だ。料理に嵌った事など人生で一度たりともない。が、メシマズ料理を出される位ならば自分で作った方がマシだろう。
俺はクーラを信用しているし、信頼もしている。
それと同じくらい、イギリス人の味覚音痴と国家クラスの料理下手も信用しているし、信頼している。
故に、これだけは絶対に、絶対に譲ってはならない事も、自覚していた。
大事な事なので自分に向けて二度言った。
僅かな可能性に賭けて胃腸薬のお世話になる、そんなアホなミス、俺は絶対に絶対に絶対にしないのだ。
「圭吾」
「何だよ」
「キミの嘘をつく時の癖はまだ判らないのだが、キミが焦っている事くらいは判る」
「焦ってなんかいないぞ、俺が焦っているとか、いやまさかそんな」
「キミが焦る時は、いつも早口になるんだが、気付いていないのか」
はい、気付いていませんでした。
全然自覚がありませんでした。普通に喋っているとばかり思っていました。
「……いや、そんな事、ないよ? ほら、普通だろ?」
「動揺すると考えながら話すのも、変わらずだな」
……あれ、俺ってもしかして判りやすい系だったのか?
隠し事出来ないタイプ?
い、いやいやいやいやいや、諦めるな俺、頑張るんだ俺、此処で挽回しないとエグイ目に合うのは俺なんだぞ!!
忘れるな、あの地獄を。
クソ苦い上にジャリジャリなグリーンピースを喰わされた時の怒りを。
流動食よりも変なドロドロ加減があって牛に謝れと叫びたかったビーフシチューの嘆きを。
油ギットギトのフィッシュ&チップスをケチャップが切れていたからという理由で塩ドッサリverで出された時の絶望を。
鼻から息を吸い、口から細く息を吐き出す。
この工程を二度繰り返して動揺と思い出し怒りを鎮めた俺は、毅然とした態度で言ってやった。
「ごめんなさい」
「うん、許す」
別に怒らせるつもりは無かったのだが、冷厳そのものの視線でジィィィッと見詰められると、正直ゴメンナサイしたくなる。
正直、予想出来るのだ。その後の展開が。
「それで、私が料理を作ってはならないのは何故か、ハッキリ言って貰おうか」
底冷えするような声でそう告げたクーラに、俺は覚悟を決めるしかなかった。
ただ、一旦覚悟を決めれば、ある意味穏やかな心境になるのは当然だろう。
受け入れる、と言い換えているのも同然なのだから。
「今だから言えるが、お前さん達が作る飯はクソマズイんだよ」
言ってやった。
極めてドストレートに言ってやった。
変化球も何も無い、豪速160kmオーバーで。
流石にムッとした表情で、クーラは反論してくるが、心のブレーキを自ら蹴り折った状態の俺は止まらない。止まったら俺の味覚と胃袋が死ぬからだ。その死にっぷりはオーバーキルと言っても良いだろう。
「美味しく食べていたじゃないか」
「お前俺が焦る時の癖は把握しているのに、そういうトコでわからんとかどうなってんだよ。めっさ不味かったのを我慢して『yum,yum』つってただろうが」
父さんが仕事で夜遅くなる時等で、俺はアーサーおじさん達とよく食事を採っていたのだが、酷かった。
グリーンピースの筈が煮込みすぎて緑色のデロリアンスープになっていた時なんか、出された調味料フルに使ってもきつかった。あっちの調味料も日本人には合わないものばかりで、相当苦労した記憶しかない。三日で美人もブスも美食もゲロマズも慣れると聞くが、絶対嘘だ。アレは慣れる事はないし、慣れたらいけない代物だ。
だが、出されたものは必ず食べるという躾をされてきた俺に、物理的に無理があるとかそういう理由が無い限り、残す事は出来ず。
結局、会話で気を紛らわせながら完食するのがパターンだった。
「だが、ローストビーフは美味しかっただろう?」
「確かに、ローストビーフとステーキはな。それ以外は全滅だ。何だあの野菜と揚げ物系の死にっぷりは。煮込み過ぎーの、揚げ過ぎーので素材の味死滅してたじゃねぇか。あんなの日本で出してみろ、クレーム連打でその日の内に店を閉めることになるぞ」
「……イギリスにも美味しいものはあるんだぞ。ローストビーフ以外にも」
「ふぅん。例えば?」
まぁ、最近のイギリス料理はやや美味しくなって来た気がしないでもない、程度には上がっているらしいけど。
ただ食ってみないと評価出来ないから、一度作らせなければならないのがなぁ。
と思っていたら。
「バーガーキングとマクドナルドは美味しいぞ」
取り合えず、俺はクーラの額にペチンと音がする位の強さで平手を叩き込んだ。
ohとか言ってきたが、そこはスルーして俺はツッコミを入れるべく口を開いた。
「ドヤ顔でインスタント料理を旨いとか言うんじゃない。国を代表する料理がバーガーキングとか悲しくならないのかお前は」
「美味しいものは美味しいだろう。あと昔食べた日本のインスタントラーメンは絶品だった。確かチキンラ――」
「あぁ、駄目だ、駄目すぎる……」
両手で顔を覆って俺は呻いた。
これで料理に期待するなんて出来るわけが無い。
バーガーキングは確かに美味しいし、マクドナルドはコスパだけで見れば良い感じだとは思う。けどアレは絶品とか至高とかは人として言ってはいけないと思う。
故に、俺は決意した。
「とにかく、料理は俺が作るからなハイコレけってーい」
「圭吾、それは横暴だ。私の料理を食べてから判定して欲しい。幾らイギリス料理が生ゴミに工業油を撒いたような酷いモノだとしても、私が作るものはかなり違うぞ」
「いや俺、そこまで言って、ないんです、けど……」
自国民の自虐ネタが此処までドン引きさせるものだとは思わなかった。
思わず引いた俺を追うように、体勢を前のめりにしながらクーラは熱弁を振るう。何気に膝を崩して胸をテーブルに乗せたのは重いからか。
「それに、私はママから料理を教わっている。日本人であるママの監修の下で作ったイギリス料理は美味しいと言われたんだぞ。そう、まるでイギリス料理じゃないみたいだ、と褒めてくれた」
「……イギリス料理じゃないてお前……いや、良い。誰から言われたんだ?」
「パパもママも美味しいと言ってくれたし、ダグもアランもセドリックもハリソンも美味しいと言ってくれたぞ。ええと他にはジェイミー、ニックス、トニーかな?」
指折り数えてくれているのは良いんだが、女子の名前一個も出てきて無い気がする。ついでに言うと殆どお前を虐めていた奴らじゃねぇか。
どういう流れで食わせたんだよ。
「……出してくれた名前について質問があるんだが」
「どうぞ」
「多分そうだと思うが、何でお前を虐めていた奴の名前ばっか挙がってるんだ?」
「圭吾が帰国して1年位してからから仲直りしたんだ。といっても、あっちが勝手に謝ってきたんだが」
どういう心境の変化があったのかは良く判らんが、まぁ、良い。確かに優美おばさんの腕は少しアレだが、十分食えたものもあるにはあった。例えばタラの塩焼きとか、日本の調味料を取り寄せて作った鍋料理とか。
イギリス料理に関しては、まぁ、アレだったけど。
そう、アレだったけど。
アレだったが故に、不思議で仕方ない。
イギリス料理じゃないみたいだという、有る意味、究極の自虐ネタを挟む程の美味しいものが作れた事に、だ。
「判った判った。一回だけやって貰って、それで美味しかったら、でどうだ?」
「あぁ、それで良い」
「となると、この後はやっぱり買い物か――」
イギリス料理に使う食材は日本にも結構あるから大丈夫だろう、質的にもこちらの方が大体上だし、と検討を付けた俺は、次の話題を出すべく口を開きかけて。
チャイムが鳴った。
ハウスクリーニングか、それとも荷物が届いたのか。
此処で待っててくれと言って、俺は部屋を出て階段を降り、ドアを開けてみると。
両方立っていた。しかも、少し予想はしていたが1人は知っている顔だった。
通りに面している我が家の入り口の右側に白猫印の宅急便のトラックが、入り口の左側に伊崎ハウスクリーニングと印字されたトラックがそれぞれ停車していた。
「宅急便です。ええっと、伊佐美さんのお宅で?」
「はい」
「衣類が4点、割れ物が2点です。入り口に置いても?」
「あ、どうぞ」
妹や姉がいなかったのもあり、引越しで来る荷物の量なんて判らないが、結構な量だ。少なくともダンボール1個以下で現地調達でも良いと思っている俺と比較しても意味が無い位の。
割れ物、というのは多分化粧品の事だろうけど、合計してダンボール6つ分って結構多くないか?
そう思いながら、ドアを全開にしてストッパーをかけて通り道を作ってから、俺は見知った顔に話しかけた。
「オッサーン、お久しー」
「おう、4ヶ月ぶりだな坊主。またでっかくなったンだなぁ」
言葉遣いは荒々しいが身長が何分足りていないので少し微笑ましく見える伊崎のオッサンだ。
父さんの古い知り合いで、毎年毎年、年の暮れにこの家の大掃除をやってくれるというか、こちらが頼んでいるからしてくれるというか。まぁ、割引してくれているらしいけど。
流石に6LDKを10万切る値段でやってくれるのはこの人しか居ないんじゃなかろうか。しかも今の状況だと広すぎるから殆ど使ってない状態だし。
余談だが、一度部屋を信用できる人限定で貸すかどうかで話し合った事も有るのだが、中学時代に妙な噂が立ったせいで立ち消えになったりしている。
「まぁ、まだ伸びるよ、多分」
「180も夢じゃないなぁ。全く少しは分けて欲しいもンだ」
オッサンの身長は170無い。ので、本気で羨ましいと言いたげな口振りだった。嫁さんの方が身長が高いのを知っている俺としては、少し笑ってしまうネタである。まぁ、嫁さん曰く「それもまた可愛いトコロ」だそうだが。
「あ、そうそう。圭吾、お前さんにステキなプレゼントだ」
「はい? プレゼント?」
「ええと、コレだコレコレ」
と、手渡されたチケットを見て、俺は顔が引き攣った。
「勇助から聞いたんだけどよ。お前さん、今日から許婚と同棲するんだろぉ? 今からオッサン頑張って掃除してやっから、その間そこで存分に愉しンで来い。な?」
バチコーンという擬音が響くような豪快なウィンクと問題発言をぶっ飛ばしてきたオッサンと、手に持っているチケットで俺は幾重もの衝撃を受け、眩暈を覚えていた。
有体に言えば、ラヴホテルの無料招待券だった。しかも3時間休憩用と宿泊用の二枚ずつ。
これはひどい。
「……オッサン……」
「ん? どした? あぁ~代金は気にするな。しっかり勇助から貰っているからな」
「いや、そうじゃなくて……許婚って何処情報で?」
「そりゃ、勇助からだよ」
思わずスマホを取り出して再度叩き起こそうと思いかけたが、それはとても非常にガキっぽい報復だと言い聞かせて中止した。
いやそれよりもアレだ、訂正せんと。
「許婚じゃなくて、父さんの知り合いの娘さんだよ。留学する為にコッチに来ていてさ、ホームステイとして預かっているだけ。そもそも、アイツとはそういう約束してないし」
「圭吾、お前さんも大概だなぁ、全ッ然判ってないぞ、女心って奴が」
「……何がスか」
「一つ屋根の下で暮らす男女でセックスをしない確率なんぞ何パーセントだと思ってるンだよ。向こうもそれを想定してるに決まってンだろ」
そう言われると、言葉に詰まるしかない。確かに、まぁ、父さんとアーサーおじさん達とクーラが話し合って決めたのなら、つまりはそういう事なんだろう……告白も、されたし。
保留にして貰っているが、いずれ陥落するんじゃないかと言う予感はある。あんな美人な幼馴染だったらさもありなんとは思う。思うが……あの子がちらつく今現在においては、結構厳しいものがある。
「ま、とにかく、だ」
「……え、な、何?」
ニヤニヤと、どっかの誰かを彷彿させるような嫌らし~くて気持ち悪~い笑顔を見せながら、ガッシリと肩を組んで顔を寄せてくるオッサン。
「セックスの感想シクヨロで」
「とっとと仕事しろこんのエロオヤジがッ」
ガンッと弁慶をちょっとだけ強く蹴りつけ、俺は腕を振り解いた。海斗か、アンタは。
ピョンピョン跳ねてるオッサンには見向きもせず、困った顔で「早くハンコ押してくんないかなー」と待っていた宅急便のお兄さんに頭を下げてハンコを押す為に、左の尻ポケットにチケットを突っ込み、右の尻ポケットから財布を取って中身を開け、入れてあった印鑑を取り出した。
「ありがとーございまー」
「ご苦労様です」
やる気が余り見られない……いや、あの会話聞いてればヤッテランネェになるかもしれないが、とにかくそんな感じの挨拶で退散した宅急便のお兄さんを見送って、急いで俺は自室へ戻った。
少し乱暴にドアを開けたせいか、眉を顰めて非難するような視線を向けてくるクーラには構わず、勉強机の引き出しの奥、二重底となっている場所から10万円が入っている封筒を無造作に取り出して7万円程引っ張り出した。ATMいくのがメンドクサイのでこういう事をしているのだが、泥棒に入られたらアウトな気がしないでもない。
「クー、ハウスクリーニングが来たから出かけるぞ。悪いけど着替えは後。ええと、役所には転入届とかそういう奴、届けているんだよな?」
「勿論」
「あぁ、なら携帯電話とか、服とか、化粧品とか色々あるだろ。特に携帯電話は無いと不便だからな。あっちのは持ってきてないんだろ?」
「うん、もってきてない。圭吾のパソコンを借りればネット通話出来るしな」
「じゃあ、そこからだ」
急かしている俺に少しばかりの違和感を感じたのか、鞄を持って立ち上がり、真っ直ぐジッと見詰めてくるクーラ。気持ちは判らんでもないし、今の俺が不自然なのも判る。が、此処は押し通らないとメンドクサイ事になる。俺はからかってくる奴が嫌いなのだ。
よって、俺はコートを手にとって直ぐにクーラの手を握った。
「――!?」
「行くぞ、駆け足……はアレだから早歩きでだ」
発言途中で胸が大きい女の子程、駆け足をすると胸の重さで痛みが発生するというハナシを思い出したので言葉を少しだけ変えて引っ張っていく。
……よーし良いぞ。そのまま黙ってついてきてくれ。
「あ、圭吾、そいつがお前の許婚――」
「――オッサン!! 鍵ィ!! パァッス!!」
「おい、圭吾!?」
不穏当な言葉を最後まで言わせないように無駄にテンションを上げて叫びながらスペアキーを放り投げる以上ブン投げ未満の力で飛ばすと、予想した通りにお手玉をした挙句、取り落とした。その隙に靴を履いて外へと出る。一応クーラもすぐに履ける革靴だったからか、器用に握っている手を使わずに履けたようだ。
俺は靴踏んでる状態なので、後で履き直さないと癖が残るからとっとと距離を離さないとまずい。
「オッサン、終わったらポストの中宜しくッ。クー、少し急ぐぞ」
「判った」
「お、おい圭吾!! あぁくそ逃がしたかッ」
何も言わずについてきてくれる事を感謝しつつ、俺達は早歩きで家を出た。
よし、逃げ切った。海斗は石動さんの家だし、これでからかってくる相手はこの近くにも、これから行く場所にもいない筈だ。
後はまぁ、のんびりと携帯電話を買って、5キロのお米やら食材やらを買って帰るだけだな。いや、オッサンが帰るまで時間を潰すのも考慮に入れるなら、その前にカラオケとかで時間を潰すのもありか。漫画に興味があるなら漫画喫茶も良いな。
そう思いながら、俺は歩幅を元に戻した。
「圭吾」
「ん? どうした?」
「君と私が許婚だったとは知らなかったのだが」
聞かれてたよ。
聞かれちゃってたよ。
判っていたけど。
判っていたけどッ。
「違う全然違う。オッサンの勘違いだから。幼馴染だと説明しただけだから」
「ふむ。何故それが許婚になったんだ?」
「オッサンの奥さんが幼馴染で許婚だったからだろう」
「――ほう」
海斗の事を一切言えないような適当なホラを吹いたら、急にクーラが立ち止まった。どうした?と首を向けると、クーラはキリッとした顔で、
「戻ろう圭吾。あの人に聞きたい事が出来た」
「え」
「幼馴染で許婚。これほど特殊な関係は無い。一体どうしたらそうなれるのか、今後の参考にする為にも是非聞いておきたい」
嘘をつけば被害が拡大する、そんな事を今思い知ることになるとは思わなかった。
というかアレじゃねぇか、俺の噂を流した奴らも石動さんに睨まれて大変な事になりかけていたじゃねぇか。何で他人の振り見て我が振り直せないんだよ。しかもこの場合、自爆過ぎてアウトだ。
「ごめん、適当言っただけなんだ。そう、海斗みたいな」
「なら、何故許婚と言っていたんだ?」
「父さんがそう言ったらしいけど、本当かどうかは知らない。確かめる為に電話したいけど、流石に起こすのはな……」
二度目は不味いだろう、と言う風に呟てみると、クーラは確かにと頷く。
この時期特有の、カラッとした寒々しい風がヒューヒューと吹いて、寒いからそろそろコートを着るか、と思った時に気付いた。
クーラが鞄しか持っていない事に。
「あー、クー。寒い……よな?」
「正直、少し寒いな」
「……あぁ、うん、そうだよな。一度戻ろう」
「急いでいるのだろう?」
「いや、良いんだ。急ぐ事が間違いだった」
もう少し回りを良く見ないと駄目だな。流石に自分本位過ぎた。ダンボールを何個か開ければコートが入っている筈だ。イングランドでは必要だったから、まさか持って来ていないわけはないだろうし。
「コレ位の寒さなら、少し歩けば慣れるから大丈夫だぞ?」
「いや、良いから。取り合えず――」
いや、待て。
冷静になれ。あのオッサンが居る状況でダンボール開封したらどうなるか。セクハラ紛いの言葉を沢山頂戴するに決まっている。
クーラの事を考えるなら戻るべきだ。だが、ここは別の方法を採る。
その為に、先ずは服装の確認だ。
俺、黒のロングヒートテック、制服に学校指定のセーターとブレザー、そして手元にはファー付きのコート。
クーラ、制服。
……この際、セーターはどうしたとか、コート着て学校行けよとか、そういう突っ込みはしないでおくとして。
これはもう、貸すしかない。
オッサンがからかってくるようなシチュエーション……というよりも、オッサンに会わないで済むようにしつつ、クーラが風邪を引かないようにする。少しばかりの割を食うのは俺だけ。
おぉう、完璧だ。
「クー、正直に言うと、寒いんだよな?」
「そうだな。だがさっきも言った通り――」
「オッケー」
そう言いざまに、俺は繋いでいた手を解いて、畳んでいたコートを両手で広げ、クーラの背後に回ってそっとコートを掛けてやる。
「寒いなら使えよ。あぁ、俺は大丈夫だぞ。何せ4枚も着ているからな」
クーラの方は向かずに、そう言って俺は歩き出した。似合わない事したなぁ、と自覚しているので、凄い恥ずかしい。
10歩くらい移動した後、小走りで駆け寄ってくるクーラに視線を向けようと首をぐるりと向けようとして。
物理的な意味で衝撃が走った。抱きついてきたと直ぐに判ったのは、きっと背中に当たる山二つと、腕の間からすり抜けるようにして抱きしめてきた腕と良い匂いが少々。
いや少々じゃない、何でだ。
「ありがとう圭吾。物凄く嬉しいぞ」
「いや、コート貸しただけだろ。物凄くとか言われても、あーその、何だ、正直困る」
「何を言う。キミが貸してくれた、それだけで十分嬉しい。それに、寒がっている女の子にコートを貸せるというのも、大きなポイントだぞ」
正直良く判らない。たかがコートだろうに。そもそもオッサンに余計な事を言われたくないが為に、戻らなかったのだから、喜ばれると正直気まずい。
イングランドにいた頃ならあったんじゃないか、とも思ったが、そもそもコイツ虐められっ子だったからそういう経験も無いか。
喜んでくれるなら、それで良い……かもしれないが取り合えずそろそろ言ってやらんと駄目だ。
「クー、そろそろ離れてくれ。これじゃ貸した意味があんまり無い上にアレだ当たってる」
そう言うと、素直に離れてくれた。少し前に話したアレが効いているのだろう。流石に理性飛ばしてどーのこーのにはならないが、やはりドキドキするからなぁ……
「そうそう」
「ん?」
「こういう小さな気遣いが出来なくなると、積もり積もって倦怠期になるそうだ」
「……いや、俺ら付き合ってないから」
外野が外堀を埋め始め。