お待たせいたしました。
自室から出て、隣の部屋、つまりクーラの部屋のドアを二度、軽くノックした。
三回繰り返しても返事が無かったので「下か」と呟いて俺は降りた。勿論、今度は足音が響くように体重を乗せて。
リビングに入って、さて居るかなとソファー側を見れば、居た。既にあらかた乾いていたのかバスタオルは外れており、金髪が蛍光灯の光を受けて綺麗に輝いている。
さぁ、ここからが正念場だ、と軽く腹に力を込めて、挨拶をしようとして。
ついっとクーが振り向いた。
「おかえり」
いつもの表情で、普通のトーンで言ってきたクーラに何処か違和感を覚えながらも、誤解が解けている可能性があるかもしれない、と縋っていた俺は、違和感を黙殺してこちらも出来るだけ自然に返す事にした。
「あぁ、ただいま。さっぱりした。ええと、で、クー」
「何だ?」
「夏海さんの、その、ええと、誤解? は解けたかな?」
遠慮がちにそう聞いてみると。
「それについて、少し話がある。圭吾、ここに来てくれないか」
「……ええと、横に?」
「そう、真横に」
ポンポンと自身が座っている真隣を叩いているクーラ。
怒ってないんだよな。けど何でだろう、致命的にやらかした気がする。いや、やらかしていない筈だ、そこまでは。というか、誰かに雰囲気が似ているんだ、この状態のクーラ。誰に似ているんだ?
恐る恐る座り、背筋をビシっとさせて俺は、
「ええと、何の話でしょうか」
「何故敬語になる」
「え、いや、何となく」
非があるのが自分だから、と素直に言えず、言葉を濁して視線をスイッと逸らした。
「圭吾、普通にしてくれ。別にそんなに怒る気は無いんだ」
「え、あ、あぁ。え、そんなにってやっぱり怒っていたのか」
「怒っているというよりもショックを受けた、が近いな。夏海さんから事情は聞いた」
そっか。義姉弟ごっこを把握してくれたか。と、安心した瞬間。
「昔、夏海さんに告白して盛大に振られたと聞いたが……あぁ、本当のようだな」
死んだ。
俺の精神が即死した。
横倒しになって腕で眼を隠して呻くしかない。
丸投げしたダメージが此処まで高いとは思わなかった。夏海さん、どうしてそれを喋ったんだ。そして海斗、どうしてお前は横で聞いていたのにそれを止めなかったんだ。俺の二大黒歴史だぞ。悪意ある黒歴史代表の癒奈さんに、悪意のない黒歴史代表の夏海さんでワンツーフィニッシュだ。
自分で言っていてわけがわからん。
「いっそ殺せ……誰か俺を殺してくれ……」
「死なれるのは困るし、いきなりそういう事を言うな。それに、誤解を生むような発言をしている夏海さんにも非がある」
「そうだな、その気になりかけた俺も悪いしな」
「良く判っているじゃないか」
くそ、この元チンチクリンめ……さっきの大好き発言の件、根に持っていやがるな。腕を微かにずらしてチラリとクーラの顔を見ても表情は眉根を寄せている位で、他は微動だにしていない。けど、呆れているようにも怒っているようにも見えない。どういう心情なのか良く判らない。
ただ、表面上クールなだけで内心は怒っているとしても理解出来るし、今日の出来事の殆どは回避出来た筈なんだ。
やらかしたのは、俺だ。
目隠ししていた腕を外して起き上がり、神妙な顔で、俺は謝った。
「ごめん」
「何がだ」
「色々考えなし過ぎた。クーが居るのを伏せようとした事や、夏海さんに言った事、全部自分の事しか考えてなかった」
そう言って、俺は頭を下げた。
しょうがないだろ、と言うのは簡単だ。けど、それを言ってしまえば自分は悪くないと言っているのと同じだ。
そんな事は出来ない。俺自身が納得できないし、俺が悪いのは明白だ。それを覆そうなんて絶対に出来ない。
だからといって、殴られてもおかしくない、なんて事も言えない。それは、俺じゃなくてクーラが判断する事だ。
10秒位、経った後、クーラの声が上から聞こえた。
「――圭吾、顔を上げてくれ」
「……うん」
一発位はビンタがくるかもしれないな、と覚悟しながら閉じていた眼を開け、顔を上げる。
ペチン、とも鳴らない位、本当に頬を軽く叩かれ、余りの軽さに眼を瞬かせてしまった俺に、クーラは唇を微かに崩して、
「コレで手打ちだ」
「……手打ちとはまた……いやうん。そうか。俺はてっきり一発キツイビンタと罵倒とか飛ぶなり、命令一つ聞けと言われるなりすると思っていたんだけどな」
思いのほかアッサリと済んだ事が逆に信じられず、俺はつい素直に感想を述べてしまった。それが軽口みたいに聞こえるのは判っていたけど、微妙に納得がいかなかったのだ。
それに対して、クーラは首を横に振り、指を立て始めた。
「まずキミと私は付き合っていない。次に、キミが誰かを好きになる事は自由だから、あの言葉が姉弟ではなく男女的な意味合いがあったとしても誰にも止める権利はない……今回は違ったようだが」
言われてみれば確かにそうか。けどフェアじゃない。どうしたって待ってくれ、みたいな事を言ったのは俺だ。キチンと話すべきだったのに。
不満そうな顔をしていたのか、口の端を微かに持ち上げたクーラが、
「そんな顔をされると、なら男女の仲という意味で付き合って欲しい、と言いたくもなる」
「あ、いや、まぁ、それはちょっと待ってもらいたい、かな」
「判っているさ。こちらとしても、きちんと私を知って貰って、きちんと好きになって貰いたいからな――」
こういう真っ直ぐな性格は正直好ましいけども、ドストレート過ぎて反応に困る。困る、というよりも何でそこまで好かれているのかが判らない。判らないから不安になる。
どうして良いのか判らなくなり、視線を逸らしながら頬を人差し指で一掻きして誤魔化す。
結局、信じ切れない、というところに落ち着くんだな、と内心で自嘲しながら、ソレも仕方ないか、と諦念混じりの雑多な感情が浮かぶ。
あぁ駄目だ、このままだとネガティブになる一方だ、気持ちを切り替えないと。
とにかく、誤解は解けたようで何よりだ。ここからギスギスするなんて地獄以外のなにものでもない。
そこでふと、視線を戻してみれば、ジッとこっちを見ているクーラと視線が合った。バチッという音がするような、鋭い視線だ。
「ど、どうした?」
「――しかし命令か。そう言われてみて気付いたが、付き合えと命じるかどうかと考えてみると、随分迷えるものだな……」
「迷うのかよ」
「多大な努力と自制心が無ければアウトだった。本当に、アウトだった」
悩ましげに溜息を吐きながら非難めいた口調で言ってくるクーラに、俺は頭痛を感じてきた。そういうの昨日の今日どころか昼の夜で、ついでに再会して初日で本人に言うのはどうかと思う。
素直なのは良い事だが、行き過ぎるとアウトという見本のような幼馴染に溜息をついてから待ったをかけた。
「取り合えずは考えさせてくれよ。こっちの都合で悪いけど、正直誰に告白されたとしても、今はトラウマ抱えているんだ。俺としては告白される自体、何かの詐欺じゃないかと思いたいんだぞ。いや待った違う、そうじゃない、クーを疑ったわけじゃなくてな、誰でもそうだと思う位、トラウマがなっ」
パタパタと手を振って割と必死に弁解する俺。実際疑いたくはないんだ。昔のクーラを知っているし、まだ初日とは言えども大体の人となりは多分把握出来ている。コレで皮を何枚も被っていたとかだったら流石に判らないけど、それはないと思ってもいる。
……それに、面と向かって、眼を視て告白してきたし、好きだと言うアピールも本気だという事は俺でも流石に判る。
一歩踏み出せないのは俺の問題だ。
待って貰う自体、アレなのは承知の上で言っているしな。
「確認するが女性恐怖症、ではないのだな?」
「え? あ、あぁ、そりゃ勿論。そうだとしたらクーが来た時に逃げ出していたと思うよ」
「そうか。それなら良い。それで、本題に入ろうか」
「ん、本題?」
「圭吾。同棲するのだろう。様々な取り決めが必要だと言っていなかったか?」
あ。
しまった、すっかり忘れていた。これは恥ずかしい。
決まり悪そうに謝って、俺は咳払いを一つし、本題を切り出した。
「まず飯の事だが。夜は任せた。その代わり、朝と昼は俺が作るよ。弁当箱は予備のがあるからそれを使えば問題ない筈」
コレでどうだ?と視線を向けると、眼を微かに見開いてこっちを見てくるクーラが居た。
いや何でいきなり驚いてんだ。予想している筈だろ。何でそんなに驚かれなくちゃなんないんだよ。アレか、俺はそんなに何もしない男に見えるのか。
と、内心で突っ込みを入れまくっていると、恐る恐るという風な口調で、
「――それは、私の分も作ってくれる、という事か?」
「何お前当たり前の事言ってんだよ。晩飯は任せるから朝と昼は俺がやるってだけだぞ?」
「そう、か……ご飯作ってくれるのか……」
「おいこら、ネグレクトされた子みたいに聞こえるからそれはやめれ」
噛み締めるようにして呟いた言葉が予想以上に重く響いているので、眉を顰めて窘めた。実家でも仲が良くないとかだったら流石に怒鳴り込むぞ。いや絶対に無いけど。あの子煩悩がそんな事するはずもない。血の涙を流すのかと思う位、俺にクーラを頼むと言ってきたアーサーおじさんと優美おばさんだぞ。それがガチなら反転でもしたのかと突っ込むわ。
「予想外だったんだ。昼は学食で済ませると思っていたからな」
「いやそっちの方が良いならそうするけ――」
「是非弁当で」
「――ど……うん、判った。から、近い」
肩をガシリと掴んだ上に、妙な迫力を出して間髪入れずに言ってこないでくれ。強い眼力と涼やかな顔立ちも相まって凄い威圧感になってるし。正直ビビる。
何事もストレートに、かつハッキリと言えない典型的な日本人である俺は、やんわりと、けど引き攣った表情なのは自覚しながら呟いた。
「あと、苦手なモノあるなら先に言ってくれよ」
「基本的には無い筈だ」
「……本当かぁ?」
キッパリと言い切ったクーラだが、俺はそれに対して懐疑的にならざるを得ない。こっちの味とあっちの味は全然違う。
雑でした。
とかそういう次元じゃない。味覚からして別次元なのは疑いようも無い事実だし。
けど、その疑念は一瞬にして氷解した。
「パパが和食好きだろう。それで慣れたよ」
「……あーそうか」
言われてみればそうだった。アーサーおじさんの子だった。ソバ・スシ・テンプーラ。三種の神器とかわけわからん事を言う人だったが、確かに和食好きだった。
それなら大丈夫か。
となると、おひたしや干物に煮っ転がしとか、結構献立の幅が広がるな。
「それなら色々作れるな。じゃ、弁当と朝食は任せてくれ。風呂はさっき言ったし、掃除は週末に一気にやれば良いだろうし。普段使っているところは掃除機と雑巾がけまでやるとしてもな」
「ふむ。掃除は分担しないのか?」
「キッチリ決めるよりは適当に合わせた方が後々楽だよ。呼吸が合ってきたら自然と分かれるし」
まぁ、父さんと掃除を分担した時はマニュアル人間な父さんの為に、マッピングした事も有るけど流石にクーラとやる時も同じ事をやるのは正直メンドイ。男2人と男女1組ではやれる事が違う……というよりやった方が良い場所が結構違うだろうし。タンスを動かして掃除なんて任せられないし。
「炊事掃除ときたら、洗濯か。クーには悪いけど一緒に使って貰うよ」
「構わない。分け方は?」
「そうだなぁ……衣類関係とタオル全般は分ける程度で、タオルには余裕があるから2:1の比率でいけると思う」
タオルが多いのは俺が風呂好きだからで、1日2回以上入ることも珍しくないからだったりする。朝早く起きて風呂に浸かる、この楽しみを理解されないのは少し哀しい。というか海斗に熱弁を振るったら「ジジィクセェなぁオイ。年幾つだよ」と笑われて以来、秘密にしている。
「圭吾、もう少し細かく分けて欲しい」
「ん? どういう事?」
「ネットに入れないといけないものが多いから、下着類は分けて欲しい」
「そうなのか」
「そういうものなんだ、女性の下着はな」
そうだったのか。母さん死んだの結構早かったし、俺もそこから家事を覚え始めた身だからどうにもそこら辺が判っていなかった。要勉強だな。
……いや、今後クーラ以外と同居や同棲するケースがあれば、だが。
ともかく、ネットが足りなかったら不味いので100円ショップで買ってくるか。余るなら予備として残せば良いし。
となると、明日だな。
「ネットとか小物は明日買いに行くか。ついでに携帯電話も買っておこう」
「携帯電話は必要になるか判らないが」
「何時かは必要になるだろ。というよりも連絡先がわからないと不便なんだよ。つーかどんだけコミュニティ形成狭くするつもりなんだよ。メールのやり取り位は必須だろ、もう21世紀なんだぞ。あっちでもそんな人種いないだろ」
「善処するよ」
「お前なんつー日本人らしい言い回しをするんだ……」
「学習したからな」
胸を僅かに張ってそう言い切ったクーラに、そうですか、と苦笑しながら返して、壁にかかっている時計をチラ見した。
そろそろ寝る時間だ。最後に聞いておかなければならない事を聞いて、寝るか。
「なぁ、クー」
「どうした?」
「聞き忘れてたんだけど、結局夏海さんから何処まで聞いたんだ?」
本当に何気なく、俺は聞いた。何処まで話したかで、夏海さんに対する信頼は大きく揺らぐ可能性があるからだ。俺が夏海さんに好意を抱いたのは、癒奈さんの騒動直後に過剰なスキンシップがあったからだ……まぁ、あのスキンシップはどうにかして癒そうと思っていたからだとは後々わかったんだけど、当時の俺は余裕が無かったので気付けなかった。あの流れから傷心している俺が傾くのは多分当然だった筈。それで海斗にこっぴどく怒られていたし。
話を戻そう。
その流れを正確に知っている人は、海斗、石動さん、高山先生、生活指導の菊池先生に夏海さんと父さんだけだ。
そして癒奈さん以外の全員が、口止めの約束を守っている筈。それも、ある部分以外は話して良いが、その部分は絶対に話すなと、念を押して承諾してもらった経緯がある。
それを破っているのなら――
今の俺の表情は真剣ではない。無い筈なのだけど、きちんと座り直してこちらを視たクーラの表情は、何となくだが何時も以上に真剣なものだった。俺の考えすぎ、被害妄想でなければ、だけれども。
「私が聞いたのは、夏海さんがモーションをかけてきたと勘違いしたキミが告白して盛大に振られた事だけだぞ?」
「うんありがとう、心が痛いよ」
「聞いてきたのはキミだろうに」
何処か呆れた様子のクーラに再度倒れてみせた俺は、ソファーに顔を埋めながらほっと一息ついていた。同時に、酷い自己嫌悪も沸き起こる。
コレは、根本的に夏海さんを信用出来ていないという事。夏海さんだけじゃない、多分俺は海斗ですらそういう意味では信用していない。もう病気じゃないのか、これって。
一度心療内科に行った方が良いのかもしれないけど、クーラが居る以上そんな時間が取れる筈も無い。現状維持でいくしかないだろう。
微かに溜息をついて、俺は顔を上げて立ち上がった。
「それじゃ、そろそろ寝る時間だ」
「この時間が就寝か。覚えておこう」
「まぁ、別に起きていても良いけど、明日が辛いだけだぞ。8時間は寝ないといけないし」
「判った。圭吾」
「ん、どうし――」
呼び止められたので振り向いて。
ふわりと良い香りと頬に暖かく、微かに濡れた感触を感じ。鼻に温かいものが触れ。
「おやすみ」
そう言って、クーラは何時もと変わらない足取りで階段を淡々と上って行った。
俺はひたっすら硬直していた。
あっちでは普通だった。
けどこっちでは普通じゃない。
頬に押し当てられた唇の感触が、鼻同士の掠めるような接触が、酷く強く残っている。
「……うあぁ……」
声にならない呻き声を上げて、俺はよろよろとソファーに倒れ込んだ。
触れられた部分だけじゃなくて、頬や鼻どころか全部が熱い。
心臓の音もヤバイ、どれだけ早くできるか勝負してんのか。誰とかまでは判らないけど。
「くっそ、マジくっそ……辛い、これは辛いよぅ……」
半端無い美人になったクーラに告白され、アクシデントがあり、慕っているとハッキリ態度や言葉に出され。
料理は美味しく、夏海さんとのコトも聞かれても揺らがず。
寝る前にあっちでは普通、こっちでは普通じゃない事をやられ。
「早く楽になりたい……いや駄目だ俺これじゃ体目当てみたいなもんだろ、誰でも良いのか俺、違うだろ俺ッ」
のそりと立ち上がって、自室に戻りながらブツブツと独り言を呟いている俺は間違っても誰かに見せられる様子じゃないのは自覚しているけど、自覚していても止まらないものは止まらないんだよ。
自室に戻ってドアを閉め、鍵をかけ、のっそりのっそりと歩いて机に向かう。
日課である日記を書く為だ。
黙々と書き散らして。
そうして書きあがったものを最初から読んで。
「……全ッ部クーラのコトじゃねぇか……」
俺は頭を抱えて呻いた。
取り敢えず、初日終了。
気長にお待ち下さい。