クーラに慰められながらトドメを刺され、海斗に「勘違い乙でありますッ!!」と大いに笑われるという本日最低の恥ずかしめを……いや、自分が先走ったのが原因なので自業自得なんだけど、触れないでくれても良いじゃないか。
とにかく、傷心状態でトボトボとした感じの速度で歩いて帰宅して、郵便受けに鍵が入っている事を確認した。
此処にあるという事は、伊崎のオッサン達は既に仕事を終えたという事だ。いやまぁ、そもそも車も消えているし。
居ない事にほっとしながらも、鍵を手にとってドアを開け、そのまま洗面台で手を洗ってからキッチンへと向かい、その途中でエアコンのスイッチを入れ、持っていた買い物袋から米やら食材やらを取り出して在るべきところへとチャッチャと置いていく。
冷蔵庫の中身はほぼ空っぽだったし、米びつもほぼスッカラカンだったので、入れるのは容易だった。
手際良く片づけをしていると、
「圭吾、それで私は何をすれば?」
「ソファーに座ってれば良いよ。すぐ呼ぶだろうし」
「いや、大丈夫だ。それよりも何か私も手伝いたい」
「ん? いや大丈夫だけど。習慣化しているし。この後シチュー作るんだろ? その時に交代すれば良いさ」
むぅ……と、何処か不満気な感じの溜息を漏らしたクーラ。気持ちは判らんでもないが、そんなに気を遣わなくても良いんだよ。ゲスト扱いしているわけじゃないし、
まぁ、何かしたいという気持ちがあるなら、こっちがさっさと終わらせんとダメか。といってももう終わるけど。
「というか、終わったのでもう来て良いよ」
座りかけたクーラが、一度腰を下ろしてから勢いをつけて立ち上がった。まぁ、そうやった方が楽だよな。中腰で止まるよりは。
フローリングの床をキビキビとした感じで歩いてきたクーラが、やる気を表すように両手で拳を作りながらも、表情と口調を全く変えずに、
「さぁ、後は私に任せて欲しい。エプロンはどこにある?」
「……いや、うん。取り合えずエプロンもそうなんだけど、着替えようか」
エプロン着けていても制服姿のまま料理とか、万が一にも汁気が飛んだらクリーニングか、もしくはクッソメンドクサイ染み抜きやる事になるし。
俺がそう言うと、ふむ、と顎に手をやって、クーラが意外そうにこちらを見てきた。戸惑いすら感じられる。
ん?何だ?潔癖とか細かいとかそういう風に思われたか?いやでも経験からきてっからなぁ。
メンドクサイから制服のままで料理すっかーと、一人暮らし1日目で挑戦してみたら、盛大に染みが出来て「ざっけんなー!!」と発狂しかけたりした経験もあるし、お金が勿体無いから自宅で染み抜きだー!!とか考えてやろうとして、まー大失敗した経験もあったり。
「意外、だな」
「そうか? 一人暮らししていればこれ位普通だろ」
「ふむ……私はてっきり、制服とエプロンで萌えるとかそういう感じのを想定していたのだが」
「おい待てなんつった今」
「女子高生の制服、プラスエプロン、イコール萌え。とか最高とかではないのか?」
「……何処でそういう発想を仕入れたのか、聞いても良いか?」
「勿論だ」
そう言うと、踵を返してクーラはソファーの横にそっと添えるように置いていた自身の鞄から数冊の本を取り出した。
この距離だと視力1.0では詳細までは良く見えないが、嫌な予感が発生する位には、本当に何となく理解した。
アレ全部、表紙からしてラノベじゃねぇか。
「おいそれって日本のラノベだろ。どうやって買ったんだよ」
「通販サイトだ」
「……誰にそれ布教されたんだよ」
「パパだが?」
「おいアーサーおい」
思わず呼び捨てしてしまった。いやいや、ダメだろうよ、耐えろよ俺。もう少し事情を聞いてから罵倒するか判断しろよ俺。
深呼吸をして意識を切り替えた俺が、ややげんなりとした表情になっているのを自覚しつつも、キリッとした表情にラノベを持っている金髪碧眼美女に問いかけた。
「……アーサーおじさんは、よりにもよって何でラノベを薦めたんだ?」
「ふむ。私がキミを愛しているという事を最初から知っていたようでな」
「ほ、ほほう……あ、愛してるときたか……で?」
「圭吾の心を射止めたいならライトノベルを読めと。日本人は基本的にHENTAIだからな。と言われたのでざっと20冊位購入して学習したのだが」
「おいアーサーおい」
ダメだ、アーサーおじさんを取り合えず張り倒さないとダメだ。第一何だ、その偏見は。幾らなんでも悪意に……いや違った、あの人はマジでそう思っているんだった。
スッシーテンプーラハラキリゲイシャー。フッジサーン大好きー。サイキョーッス。
そんな事を真顔で言っていたし。ドン引きしながら父さんに聞いても疲れた顔で「圭吾、意外に思うかもしれないけど割とグローバルスタンダートなんだよ、この手の誤解はね……」と言われた事を思い出した。
今のご時世にニンジャは存在しませんよ、と言ったら凄い勢いで「そんな事はない、ニンジャは存在する。ケイーゴ、キミもユースケと同じで嘘をついているんだな!? それとも君達がオニワバン・ニンジャーズか!!」とか問い詰められたし。どんだけニンジャに強い憧れ持ってんだよ欧米人、と思ったものだよなぁ。
いやズレた。そうじゃない。
問題はどの層の、もっと言えば昭和か平成、それも前期と後期、どのタイプのラノベを読んだか、だ。昭和のならまだ良い。が、平成後期ならダメだ、徹底して修正しないといけない。
……既に表紙で修正確定な気がしないでもないけれども。
「ちなみにそれ、どんなハナシだ?」
「コレは、オタクの妹とヘタレな兄の擬似恋愛もの。こっちが御嬢様学校へサンプルとして拉致された男子の話。最後のコレは黒歴史を隠す男子学生の話だな」
「……そうか、よりにもよって後期組か……」
色々言いたい事はあったが、ぐっと飲み込んで溜息を吐いた。この分だとメイド喫茶とかそういう知識もあるだろう。厨二病とかそういうのも知っているわけだ。
イェマドの遺産を巡って戦う話とか、ドラゴンも跨いで通る魔術師の話とか、吸血鬼を狩り続ける絶世の美丈夫の話とか、龍が人に転生してハチャメチャな活劇を描いた話とか、そこら辺ならまだ良かったんだが。
そこまで考えて、俺は嫌な予感に囚われた。
「おいクー。まさかとは思うが、そのクールっぽい言動や性格は、ラノベから模倣した結果とか、そういうのじゃないだろうな?」
「いやこれは素だが。ライトノベルを読む前からこうだったぞ」
それはそれで、その困る。まぁ、ラノベ見て性格が変わったとかとんだ厨二病だし、マシって奴かもしれない。
溜息をついて、俺は小揺るぎもしないクーラに視線を向け直した。
「まぁ、とにかく着替え……あぁそうだった、ダンボール運ぶよ。んで自室で着替えてくれ」
しまった、ダンボール運んだ気になっていた。玄関脇に置いてもらってただろうよ俺。
「いや、この位なら手伝ってもらわなくても……」
「俺がやりたいだけだから気にするな。それと、女の子にはあんまり物を持たすなと言われてるからな」
そう言って俺はクーラの脇をすり抜けるようにして抜き去り、手近なダンボールを持った。意外と重いのは化粧品が入っているからか。取り合えずとっとと持って行くべきと判断して、スタスタと早足で階段を登り、左手で器用にダンボールの中心を持って右手でドアを開けて隅っこに置いた。
さて次だと振り向くと。割と危なげなくダンボールを二段積んだ状態で持ってきているクーラがいた。
「……そんないっぺんに持っていかなくとも」
「こういうのは、早く済ませるに限るだろう?」
「重いの2つなんて、怪我したらどうすんだよ」
「1つは下着しか入れてなかったから問題ない」
「した……ッ!?」
俺と同い年なのにどうしてこう、サラっと言えるんだろうか。
それともなんだ、概念が違うのか、羞恥心とかの。
俺の方が赤くなりながらも、
「いや暴露しなくて良いから。恥ずかしくないのか?」
「恥ずかしいが、聞かれたのでな」
……少し眉根を寄せるとか恥ずかしいというアピールをして貰わないと判らないっつーのに。
いや良い。とにかく残ったダンボールを片すとしよう。
5分もしない内に全てを運び終え、鍵のかけ方を教えてクーラの自室から出て、俺は一階に戻り、ソファーに深々と腰掛けた。
全く、変な知識を植え付けてこっちに来さすとは……しかもラノベ。ラノベてお前。教育がなってないんじゃないか、マジで。何で優美さん止めなかったんだよ。大方その方が面白いから、だろうけどさ。
1日の3分の1が終わりかけているとは言え、ここまで疲れた日は無かった。まだ夜というには少し早いと言うのに、眠気が酷い。
仮眠も取りたいけど、早く風呂も入りたい。風呂は良い、命の洗濯ってマジだよなぁ。けど眠い。
そうツラツラと取り留めなく考えていたら、トントンと階段から降りてくる足音がしたので、ひょいと振り向くと。
「早かった、な」
「どうした?」
「いや別に」
そうだよな、今日から自宅が此処なんだよな、クーラにとっては。
ゆったりとした白いロングTシャツと青のホットパンツだけなんて普通だよな。
真っ白でムッチリした太ももときゅっと締まった脹脛とかほっそい足首とか形の良い足とかそこら辺はもう仕方がないのでスルーしておこう。
けどキャミくらい着てくれないか。
透けてるんだが。
水玉ストライプが。
主張激しい高山が。
それとクッキリしていて汗とかが溜まりそうな鎖骨も。
なんて言えるわけもなく。視線を逸らして溜息をつくことで気分転換をした。
まぁ、見慣れてくればドキドキしなくなるだろう、つまり初日から一週間くらい、この動悸と息切れみたいな感じを我慢すれば良いと言う訳だ。
「いや無理通り越して死ぬだろ俺、社会的か身体的かは良く判らんけど」
「うん? 何がだ?」
「いやコッチの話だから気にしないでくれマジで」
人の気も知らんでこの子は本当に。
いや、違う。別にクーラは悪くない。美人でスタイル抜群なのが問題なだけで。ついでに性欲持っている俺が悪いという事にしておこう。実際無茶なのは判るが、何だアレか?押し倒せと?コレってもしかして一種のハニトラって奴?
とピンクと紫が入り混じった思考が駆け巡り始めた自分の頭を抑えながら、溜息をつく。
ダメだ、こんなんじゃ、と呟いてから、キッチンに移動して置いてあったエプロンを手に取り、クーラへ手渡した。
「一応聞いておくが、調味料とか場所わからないと思うし、教えようか?」
「いや、大丈夫だ。そんなに奇天烈な場所に置いているのではないだろう?」
「キテレツってお前……いや、うん、そうだな。じゃあ任せた。なら、悪いけど俺は少し寝るよ、流石に疲れた」
「ソファーでか?」
「あぁ。多分30分位したら起きると思う。トラブルがあったなら起こしてくれ」
そう言って俺は、ソファーに座り、そのまま横倒しになって眼を閉じると、すぐに意識が途切れた。
そうして、きっかり30分後。
パチっと眼を開けて伸びをしようとして。
「……タオルケット?」
自室のタオルケットが掛けられていた事に気付いた。
クーラか、別にこの温度じゃ風邪引かないから大丈夫だってのに。
若干照れくささを感じながら、俺は伸びをして、勢い良く上体を起こしてキッチンへと歩く。
「起きたか」
「あぁ、スッキリした。仮眠は大事だよホント。悪いなクー」
「気にしないで良いさ。眠い時は我慢しない方が良い……寝すぎると眠れなくなるが」
「加減はしているから大丈夫だよ。で、どこまでやれたかなっと」
まぁ、惨状だったらレッドカードだな、と思いながらヒョイと覗き見してみると。
意外というか宣言通りだったというか、焼き色が綺麗につき始めている玉ねぎと牛肉がフライパンの上で踊っていた。それだけではなく、綺麗に面取りされたじゃがいもやマッシュルーム等の野菜関連はもう一つの鍋に入れており、中火で茹でている途中のようだ。
「おぉ……なんと言うか、マトモだ……」
「圭吾、言いたい事は十二分に理解出来るが、重ね重ね言わせて貰う。キミは失礼だ」
「いや、だってその……ぶっちゃけイギリスだぞ?」
「半分は日本だ」
「……そう考えると何となく納得できるな」
凝り性な日本人、合理的なイギリス人のいいとこ取りがクーラ、か?いやまぁ、失礼なのは判っているんだけども、どうしても過去の経験上、そう言いたくなるものだ。
けどまぁ、現時点では俺が謝らなければならないレベルで有る事は間違いない。三角コーナーに捨てられているのを見ると、面取りされた野菜の欠片にニンニクが混じっていたので、多分玉ねぎと肉を焼く時に使ったんだろうな、アレやると風味が段違いだし。
と推測している内に、クーラは次の段階へと移行していた。
両方の火を止めて鍋の中身をザルに移して空いた鍋へ、脇に備え付けていた電気ケトルから熱湯を入れ、冷蔵庫から赤ワインを取り出してサラッと混ぜ、強火でかけ直していた。
あぁ、具材を此処で混ぜるわけか、と思っていたのだが。
冷蔵庫へ赤ワインを戻した後、ローリエを手に取って軽く包丁で切れ目を幾つか入れ、玉ねぎと肉が入っているフライパンに投下して軽く炙るように火を通したのだ。
……あぁ、風味付けの方法も知っているのか。
「風味付けか?」
「勿論。時間が少し足りていないので手順を省略したが、こんなものだろう」
「ちなみに、省略した手順ってのは?」
「肉を赤ワインで漬け込んでいないし、そこから派生する手順は全部省略している。やるべきだと思ったのだが、流石にそれをすると時間が足りない」
「確かに、そうだな」
キチンとやると2時間かかるって事も踏まえてか。あぁ、こりゃ本格的に謝らんといかんかな。
そう思いつつ、俺は最後までクーラの手順にツッコミを入れる事はしなかった。玉ねぎから肉、肉から野菜という手順で同じフライパンで一気にやった方が味が馴染む事を知らないんだろうな、とか、野菜を焼かないなら肉は炙る程度で止めて肉から野菜までは煮汁を使って煮込むと味が上がるとか、ついでに言えば赤ワインの投下タイミングも少し間違っていたりするけど、まぁ、そこら辺は野暮って奴だろう。
そう思考している内に、ふと気付くと、ひと段落ついたのか、ふぅ、と吐息を一つ吐いたクーラが鍋の火を弱火にして調理器具を洗い出していた。
さっさとやるのも好印象だよな、ホント。
「圭吾」
「ん?」
「さっきから見ているが、何かおかしい点でも?」
「あぁ、いや、現時点では及第点って奴かな。指摘しても良いけど、まずは食べてから判定だろうし」
「そうか。指摘できる点があるならして欲しい。拙いものを出すわけにはいかないからな」
「……いや、あれをツタナイモノとか言うわけがないんだけどな」
薄々思っていたが、違和感を感じる位、上昇志向凄い子になってないか。いや、元からそういう気質はあったのかもしれんけども、何かさっきからマイナス発言が多い気がする。
上昇志向じゃないか、半ばネガティブ思考とでも言えば良いのか、何かアレだな、表面上はクールという点では変わりは無いが、妙に卑下というか戦々恐々というか、そんな感じだ。何でだ?
「なぁクー」
「何だ?」
「さっきから思ったんだが、何でそんなネガティブなんだ?」
そう聞いてみると、洗い物をしていた手が一瞬だけ止まり、口許にほろ苦い笑みがうっすらと浮かんだ。
何だその、判らんのかと言いたげな表情は。判らんので聞いているんだが、と首を傾げて見せると、もう一つ吐息を零して、クーラは手を止めてじっとコッチを見てきた。
え、何か、俺、責められているのか?
戸惑う俺に対して、クーラが諭すような口調で、微妙に溜息交じりの言葉を呟いた。
「圭吾。キミは鈍感だな」
「は? 何だよいきなり」
「好きな人に不味い料理を出せるわけがない。という事は、失敗は許されないとも言える。しかもインスタントに頼らない手料理を振舞い、前評判は散々ともなると、普通はプレッシャーを感じるものだ」
と、淡々と告げてきたクーラに、俺は絶句していた。この際好きな人とかそういうワードは抜きにしても、そこまで考えて料理を出す事が、俺には予想出来てなかった。単純に、飯作って出して普通の味なら問題ないだろう程度だったんだけども。
「そ、そっか。それは何と言うか……ええっとデリカシーに欠けてた、な。悪い」
「構わない。判定をしてからきちんと謝って貰うさ」
……意外でも何でもないが、こういうところは変わってないのな、根に持つトコとか。
苦笑して、はいよ、と頷くと、クーラは洗い物を再開した。
それをぼんやりと見ながら、俺は思った。
意外と洗剤つけないんだなと。
つけ過ぎると逆に洗いにくくなったり、落としにくかったり、コスパが悪かったりとダメなところが多いんだけど、クーラにはそれが無い。普段から洗い物をしている証拠だ。
しっかし、凄い高性能だなクーラは。顔良し、スタイル良し、料理が出来る、学習能力も多分高い、今日の発言を見る限りスキップも出来るような言い方をしていた気がするのできっと頭も良い。これで運動が出来れば完璧じゃないか?
「圭吾」
「ん? どうした?」
「いや、洗い物で何か指摘があるのかと」
「え。いやいや、何も、全然無いよ? むしろキチンと洗い物をしているんだろうな、と思ったよ。というか良くあっちにいたのに洗剤少なめで洗うコツとか知っているな」
「ママに教えて貰っていたからな。圭吾のとは違うが、ママも日本の洗剤を使っていたのもあって、な」
あぁ、そうだったっけ。そこまで覚えていなかったからそう言われてみれば確かに使っていた気がする、位だが。まぁ、日本の洗剤の使い方を知っているなら出来るか。
「というかな、クー。流石に洗い方で指南も何もないだろ」
「しかし、見られているからな。何か不備でもあったか、と勘ぐるのも仕方ないだろう?」
「……いやぁその考えはどうなんだろうな。俺は何となくクーを見ていただけで、他意は――」
ガチャン、とクーラの手からフライパンが落ち、音の大きさ……というよりも予想外なタイミングで大きな音が出たので、ビックリして言葉を途切れさせてしまった。
洗剤つけ過ぎじゃないのに落とすってまた器用な事をするなオイ、と半ば呆れながら見ていたのだが、視線を合わせてきたクーラの眼に非難がましい光を見つけた。
「……圭吾」
「何だよ」
「わざとだな?」
「は? え、いきなり何言ってんだお前。フライパン落としたのを俺のせいにされても、困る」
「……先程と似た事を言うがな、圭吾。好きな人に『洗い物ではなくキミを見ていた』なんて言われれば普通は動揺するものだ」
……あぁ、え。あぁ、うん。
うん?
う、うん。
そうだな、言われてみると、普通に俺変な事してたな。
ダメじゃん俺、何してんだよ俺。
「……ええっと、正直そこまで考えてなかった。ごめん」
「いつもキミは不意打ちで私を動揺させてくる。昔からそこは変わらないのだな」
懐かしそうにそう言われても、クモの巣張っている記憶にそんな描写は残っていないのだが。
ただ凄いと思うのは、会話しながら回顧しつつ、それでも洗い物の手が休まっていないクーラ自身のハイスペックさだ。俺なら確実に生返事している状況だぞコレ。
そうこうしている内に洗い物を全て済ませたクーラは取っ手にかけているタオルで手を拭いて、
「終わったよ」
「あとはアク取りか……あー、クー?」
「心遣いだけ受け取っておくよ。最後まで自分でしなければ判定出来ないだろう?」
思考を読むなよ。判りやすいのか俺って。まぁ、クーラがそういうなら全部投げておこう。
「判った。それじゃ俺は風呂を洗ってくるよ」
「ふむ。着いて行っても?」
「え。いや、別に良いけど」
海斗みたいに面白い事をしでかせと言わんばかりの、そんな期待をされているわけでもなく、いやそんな事を期待されても応えられないし、そもそもそういう事を想う奴でもないんだけど、何で?とは思う。アク取りで張り付かなければならないとかそういう事は無いから良いとしても。
首を傾げながらもリビングを出てテクテクと脱衣所へ向かい、扉を開けて気付いた。
説明か。
成る程、二度手間にならんようにか、シッカリしてんなぁ。
「あーそうか。えーっと、クー。右手側の籠に着ているものを脱いでおいてくれ」
「……何?」
「だから、そこの籠に服を置けば良いよ」
「それは、必要なのか?」
「? 当たり前だろ。んで、洗面台の下に入浴剤とか歯ブラシとか洗剤とか予備のシャンプーとかが一緒くたに纏められてるから、後で歯ブラシは自分で取ってくれ。予備の奴で青色があるの、で……何してんの?」
何の気なしに振り向いたら、クーラが自分の服に手をかけていた。
意味が判らずぽかんとした表情で見詰める俺と、眉根を若干寄せてこちらを見ながらシャツを持ち上げているクーラ。真っ白な肌と形の良いおへそが丸見えだ。もう少しでブラとデカイのが見えるんじゃないかなぁ。
って馬鹿か!!そういう事じゃないッ。
お互い致命的な勘違いをしている事に気付いたのは同時。
パッと手を離したクーラと、頭を抱える俺。
「……いや、うん。日本にそんな文化は無いし、今脱げと言ったわけでもなく、ついでに言えば風呂掃除用の服なんてのも無いからな?」
「すまない、正直本当にどうかしていた。日本語は難しいな」
「そうだな、俺も痛感したよ。今の流れで俺が全裸になれと受け取られるとは思ってもみなかったし……ええと、風呂に入るときは右手側の籠に着ていたものを置いてくれ」
「判った」
俺もだが、クーラも相当恥ずかしいようで、微妙に視線が俺から外れていた。というか俺を何だと思っているんだ。
誰とも付き合えないと言っておきながら風呂で脱げと言う男と見られたのか、俺は。とんだ鬼畜野郎じゃないか。
けど、それを指摘するのもアレなので言う事は無い。悪気があったわけじゃないし。
頭を振って溜息を一つ吐き出し、風呂場の扉を開けた。
入って左側の壁に備え付けられている鏡と、その周辺にあるシャンプーやリンスの置き場と隅っこにある風呂掃除用具の置き場を指差し、
「此処に一式纏めて置いてある。風呂掃除はお互い帰宅したらやるって感じで。風呂掃除終わった後は栓をはめておく事にしようか」
「判った」
返事が返って来たのを確認してから、俺は無造作にシャワーを取って湯を出し、浴槽に満遍なく浴びせた。次いで、スポンジを手にとって水気を十分に含ませた後、洗剤を浴槽全体に塗布し、淵に手をかけて倒れないように体を固定して磨き始めた。
浴槽の中に入って洗うのが普通なんだけど、今回は取り合えず背中向けたまんまにしておきたかったので、こうしたわけで。今回は勘弁してもらおう。
ちなみに我が家の風呂場は広い。浴槽も広い。足を伸ばせる位広いのは、伊佐美家が風呂と温泉好きだから、というのがあったりする。まぁ、父さん出張ばっかで全然活用できてないし、母さんは鬼籍に入っているので活用出来ないから、実質俺専用なんだけど。
体感かつ何時もと同じなら7分程でゴシゴシキュッキュと全体を磨き終え、シャワーで全部洗い流して栓をし、そこでようやく俺は振り向いた。
クーラが言うような視線を感じて緊張とかは全然無かったんだが、ケースバイケースなのかな、コレって。
「――で、感想とかあるのか?」
「この手の浴槽を初めて見たのだが、想像していたよりもかなり広いな」
「そうだな、一家全員風呂好きだったのもあったからなぁ。アッチでは入れなかったし」
イギリスというよりも欧米ではユニットバスが基本で湯を張る文化が定着しきっていない事もあって入れなかったんだよな。すぐ隣にトイレとか、落ち着かないと思うんだが、そこは生まれた場所の違いって奴だろうし。
最初見た時は硬直したんだよなぁ。正直言えば「え、コレ風呂入っている時に誰かがトイレ行きたくなったら大変じゃないか」とかアホな事を考えていたし。トイレは他にもあるんだよな。
「ま、アレだ。お風呂の順番だけど、先に入って良いからな。俺は後、理由は言わんでもわかるだろ?」
「ん、判った」
「オッケー。後はそうだな……風呂が先の方が良いか? それともご飯を先にするか?」
何の気に無しにそう聞いてみたものの。
眉根を寄せてクーラが非難がましい眼で軽く睨むようにして見てきたので、何か俺はまた地雷を踏んだのかもしれない、と気付いた。
「ええっと、何か、俺、もしかして、また変な事を言ったのか?」
「……日本には『お風呂にする? ご飯にする? それともわ・た・し?』という殺し文句があるそうだな」
「あーえー……っといや違う、そうじゃない、どっちが先かとか普通に聞いただけで、そういう意図は全く無いから」
「いや、判っているし、理解もしている。だが圭吾、キミは天然が過ぎる。まぁ、だからといって改めろと言うわけではないが、さっきからドキドキしっぱなしだ。これでは心臓が持たない」
「……その顔でそんな事を言われても、説得力がまるで無いんだけどな……」
その言葉に、眉根を更に寄せて、俺の手を掴み――
つかみ?
むにゅ。
「――――」
「ドキドキしているだろう? キミが望んだ通りにクールになっても、こういうところは変わらないんだぞ」
やれやれ全くと首をゆるやかに左右に振っているクーラだが、そんな事は問題じゃない。
俺の右手がクーラの心音がトクトクと鳴っている事を確認出来ているのはそのつまり、乳房というモノを今、久しぶりに触れているというわけで。
そういえば微妙にワイヤーや布地が固いんだったんだな、ブラって。
その奥の肉は柔らかいと予想していたけど、そうじゃなかった。固いわけじゃないが、張りが有り過ぎてパッツンパッツンという言葉がシックリ来る。あーなるほどね、こういう時にパッツンパッツンという言葉って使うわけか。
で。
俺は一体何を悠長に判断しているのか。
「――う、うぉわあぁ!?」
これは色々とマズイと思って。離れようと考えて。
反射的に悲鳴をあげながら手を引っ込めた結果。
「あ――」
思いのほか俺の右手は強く掴まれていたようで。
バランスを崩したクーラがそのまま倒れこむ勢いで来たので、これまた反射的に受け止める形を作ってしまい。
結果。
ぽすん、と半ば抱きかかえるような形で、クーラが収まった。
海色よりも明るい蒼色の瞳が、すっきりとした鼻梁が、ぽってりとした唇が、眼の前に在った。
ぽろりは、まだない。