過去から未来、そして久遠に   作:タコのスパイ

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 2020年12月14日改訂済み。


プロローグ
ようこそジャパリパークへ


(目が覚めた時、あなたは忘れてしまうでしょう。共に過ごした日々と、私の事を……)

 

 子供の頃をよく覚えていない。そういう人はさほど珍しくないだろう。

 記憶というものは時間の経過と共に現像が薄れて行き、思い出すのに時間が掛かるようになる。言うなればそれはアルバムを箪笥(たんす)の奥に仕舞い込んだのと同じようなもので、完全に消えることは無くともすぐには取り出せなくなる、というわけだ。

 だが自分の場合それとは違うとはっきり断言出来る。自分には箪笥から取り出すべきアルバムそのものが存在しない。

 文字通り10歳より前の記憶がすっぽりと抜け落ちているのだ。どんな家族とどんな風に暮らしていたのかも、どんな友達とどんな風に過ごしていたのかも、全て。

 

(私は忘れない。あなたの声、あなたの温もり、あなたの優しい心。どれほどの時が流れようと、あなたが例え全てを忘れてしまおうと、私は決してあなたの事を忘れたりはしない)

 

 記憶の始まりは病院のベッド。心電図モニターの規則正しい電子音が響く中、人工呼吸器と無数の点滴管に繋がれていた。

 眩しい視界に映るのは、自分を取り囲み涙を流している4人の男女。うち二人は年配だった。彼らは自分達を両親と兄姉だと言い、看護婦や医師もそう呼んでいた。しかしそれまでの記憶の無い自分にとってはまるで実感が沸かなかったし、むしろ見覚えの無い人間達に親しげにされて困惑すらしていた。今でも本当に実の家族だったのかどうか確信が持てないでいる。

 幸い、日常の生活や復帰した小学校での勉強に支障は無かった。後で本を読んで知った事だが、人間の記憶は物事の知識や意味を司る「意味記憶」と体験や思い出を司る「エピソード記憶」の2つに分かれるのだという。つまり何かしらの理由で後者が丸ごと失われてしまっても、前者には影響は無いという事だ。もしそうでなければ生まれたての赤ん坊同然に言葉を話すことも、二本足で立って歩く事さえままならなかっただろう。

 自分の名を久遠(クオン)だと認識しているのも、そうやって後から得た知識に過ぎない。少なくとも鞄や本などの持ち物(とされている物品)にはそう書いてあって、「家族」や「友達」もそう呼んできたので「クオン」が名前で合っているのだろう。仮に違ったとしても他に名乗る名前など無い。だから他者にはそう名乗っているし、そう呼ばれたら応える。

 だが何年掛けてもとうとう誰の事も、そして自分の事さえも思い出す事が出来なかった。写真を見ても、自分と同じ顔をした子供が見覚えの無い景色を背景に写っているようにしか感じられないのだ。

 そして相手は自分を知っている。しかし自分は相手を知らない。そして自分でも自分の事を知らない。この認識のズレは、恐らく他者が想像する以上のストレスだろう。

 ゆえに面倒事を避けようと何時しか最小限にしか口を開かなくなった。

 

(本当に、ありがとう)

 

 他人同然の相手とのぎくしゃくした生活が数年続き、都会の高校へと進学してからは一人暮らしを始めた。

 学業とペットショップでのアルバイトの両方をこなす生活は決して楽なものではなかったが、どうせ誰のことも分からないのであれば、最初から誰にも知られていない場所に身を置いたほうが良い。それが第一ではあるが、同時に「あの田舎町に居ても自分が求めるものは見つからない」というような切迫感があった。

 何年も面倒を避けて生きて来たはずの自分を突き動かすそれが何なのか、自分でも未だに分からない。

 そういえば何時だったか、同じ講義を受けていた同級生に「お前って何時もぼうっとしてるけど、心の落ち着くようなお気に入りの場所ってないのか」と聞かれた事があった。その時自分は神社、それも初詣などで賑わっているのではない、山林の中に佇む静かな神社だと即答した。

 随分変わった好みだなと笑われたが、ただふっと口からそう出てきただけで、これまた答えた理由は分からなかった。

 

(私達は何時か必ずまた会えるから。その時はあなたから教えてもらったものを、今度は私があなたに教える番)

 

 近頃は何度となく夢を見る。夢とは無意識に脳内の情報を再生しているのだと言うが、全く覚えのない光景だ。妄想だと言われたほうがまだ納得が行くかも知れない。

 豊かな白毛。此方を見上げる金色の瞳。柔らかな掌と整った爪。細い足首に結わえられた鈴の澄んだ音。記憶に無い神社の境内で彼女(大切な誰か)と居る間、自分は微笑していた。表情筋の凝り固まった今の自分の顔では、到底浮かべられそうに無い、優しい微笑み。

 夢を見た翌朝は何時も胸が痛くなる。その理由もまた分からなかった。

 

(今はさようなら、クオン……)

 

 

「もしもーし、起きてくださーい」

 

 誰かに肩を揺さぶられて、まどろみから意識を浮上させる。

 目を開くと、見知らぬ女性が顔を覗き込んでいた。現在18歳のクオンより2つか3つ年上だろうか。眼鏡をかけていて、黄緑色のロングヘアーを赤いリボンで結わえている。白い半袖のサファリジャケットに身を包み、頭には羽飾りのついた白いピスヘルメット。顔以外に肌の露出は無いが、細身ながらも均整の取れた身体つきだと分かる。

 中学時代の修学旅行で行ったサファリパークのガイドがちょうどこんな格好をしていた気がする。確か高温乾燥のサバンナを散策する為に考案された機能服だったはずだ。

 

「あ、やっと起きましたね。……何か夢を見ていたんですか? 眠りながら泣いていたようでしたけれど」

 

 目元を指で触れると確かに薄らと濡れていた。何でもないと軽く首を振り、改めて辺りに視線を走らせる。

 

「ここは?」

「ジャパリバスの中です。夜行運転になりましたが、只今目的地に到着いたしました」

 

 どうやらバスの座席に座っていたらしい。青いシートはふかふかとしていて中々のの座り心地だ。しかしバスに乗った覚えは無い。高校卒業を機に一人旅にこそ出ていたが、それも電鉄を利用していた筈である。

 だが眠っている間に誘拐された、などというわけでもないようだ。それにしては女性の表情や語調は親しげで、後ろめたい事情があるようには見えない。

 自分の身体を見下ろす。別に縛られたりなどはしていない。自分が最も気に入っているモスグリーンのケープ付きトレンチコートに、足元には小旅行用に買ったバッグ。何も問題は感じない。

 一体どういう事なのだろうか。

 

「バス?」

「ええ。……何だか状況が飲み込めていない、といったお顔ですね。うーん……急な展開でしたから、混乱してしまっているのでしょうか。それとも一晩中バスを走らせていたし、乗り物酔いのせいかしら?」

 

 疑問が表情に出ていたらしい。彼女は少し考え込むようなそぶりを見せた。

 

「ひとまずバスを降りてみましょうか」

 

 言いながらパークガイドの彼女は車内ボタンを叩き、ドアを開く。特に逆らう理由は無いので彼女に従い、昇降口から地面に降り立った。

 視界いっぱいに広がるのは見渡す限りの青空と大平原(サバンナ)。地平線の彼方まで果てなく広がるような大地をまばらに草が覆い、ところどころから伸びたアカシアやバオバブの木が枝葉を茂らせている。遮るものの無い風が二人の服と髪を揺らし、程よく乾燥した空気が心地良かった。

 所々が緑化されただけのモノクロームのビル街に慣れきった現代社会において、一生に一度見られるかどうかも分からない雄大な景色である。

 しかしここは何処なのだろう。先ほど浮かび上がった疑問は解消されるどころか、ますます膨れ上がった。少なくとも日本とは思えない。

 

「ようこそ、超巨大総合動物園(ジャパリパーク)へ!」


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