真・恋姫†三國伝~群雄飛翔~   作:椛颪

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二十六話

 兵糧が、とうとう枯渇した。騙し騙し遣り繰りしてきたが、それすらも限界を迎えてしまったのだ。いよいよもって黄巾党は進退窮まり、貧すれば鈍するの言葉通りに、進むべき道はとうとう二つに一つ、というところまで行き詰ってしまった。即ち、降伏か死か、である。

 

「くっ、こうなってしまっては乾坤一擲の勝負に出るしか……」

 

 張梁の顔は苦渋に歪み切っていた。もっと早くに行動を起こしていれば、そもそも許昌に籠城しなければ。様々な後悔が濁流となって押し寄せ、気を保っていなければ腰が砕けてしまいそうになる。元より一人で背負うには勝ちすぎる荷なのだ。無謀な決断の代償は、あまりにも大きかった。

 張梁の小さな躯は様々な恐怖に苛まれ、小刻みに震えていた。こんな時に彼女を抱きしめ、安心させてくれる者はいない。全ての救いの手を跳ね除けた結果、彼女は遂に無謬の闇に閉じ込められてしまったからだ。同士達は彼女の懊悩を知りながらも手を差し伸べられず、姉二人は妹が巧妙に隠したそれに気付くことはない。

 

「どうすれば、いいの……。こんなことになるなら、黄巾党なんて……」

 

 蚊の鳴くような小さな声は、本来であれば誰にも聞かれず闇に溶ける筈だった。

 青白い月光が、政庁の中を照らす。寒々とした光は張梁の心中そのもののように冷たく、そしてその中に染みの如く浮かび上がる人影が一つ。ハッとして振り返った彼女が見たのは、この世ならざるものの姿であった。黄巾を被り、官軍の鎧を身に着けたそれは、絶えず輪郭がぶれ、男なのか女なのか、若者か老人かすらも判然としない。ただ一つ、絶えずぶれ続けるそのいずれもが血にまみれた死者の顔をしていることだけははっきりと理解できた。

 

「な、に……?」

 

『咎を負う時が来たのだ』

 

 ボソリと発せられたはずのそれは、何故かはっきりと張梁の耳に届く。不気味なほどに感情の欠落した、人格というものがまるで感じられない声だった。

 

『我らを誑かし』

 

『無辜の民草を殺め』

 

『帰りを待つ者の希望を奪った』

 

『その咎を負う時が来たのだ』

 

 別々の声が、途切れ途切れに語りかける。怨嗟に満ちていなければおかしいような内容だというのに、全くそれが感じられない。

 

『貴様は易姓の志を偽って立ち』

 

『我らを誑かし、死地へ駆り立てた』

 

『ただその心の裡には、姉達と幸せに暮らしたいという願いのみがあったにも関わらず』

 

『小賢しい計算で以て我らを踊らせ、数多の死を築き上げた』

 

『我らの骸を』

 

『敵と為した官軍の骸を』

 

『無関係な民草の骸を』

 

 気付けば、そこは許昌の政庁ではなくなっていた。無限に広がる荒野。其処に無数の亡骸が打ち捨てられている。見知った顔もあったが、大半は知らないものだった。

 

『名すら知らぬ者を死に駆り立て、勝ち得た束の間の繁栄の味はどうだった』

 

『姉は自らが死地に送った者の名をしっかりと覚えているというのにな』

 

『貴様はその小才子ぶった頭脳でもって何を見た?』

 

『恐ろしかったのだ、貴様は。自分の手で他人を死地に送るのが』

 

『だからこうして自らの殻に篭り、安全な場所で目を背けているのだ。全てからな』

 

「ち、が……」

 

 違う。そう叫ぼうとしたが、まるで喉を潰されたかのように声が出なかった。彼女の内心を的確に抉る言葉のせいだったろうか。じわりと、双眸に涙が溜まる。

 

『貴様には、死という逃げ道すら許されぬ』

 

『天寿を全うするその時まで、その荷を背負って歩き続けるのだ』

 

『殺戮の果てに得たものを全て失って、な』

 

 最後の言葉が、荒野へと響き渡る。その意味するところを理解した張梁が目前の亡霊に食って掛かろうとするよりも早く、彼女の視界が急激に暗転する。夢の終わりがきたのだ。

 内に猛毒を抱えた砂糖菓子の夢は終わり、後には荒涼とした現実だけが残る。彼女はひどく重い枷を負い、裸足でこの茫漠たる砂漠を歩んでいかねばならない。己が身一つで、誰の助けも得られぬままに。

 

 

 

翌日、張梁が顔を出さないことを訝しんだ黄巾党の面々が見たのは、とても人一人の身体から絞り出されたとは思えない量の血に染まった執務室と、震える字で謝罪の言葉が刻まれた竹簡だけだった。如何なる超常の手段によってか張梁という名の少女は許昌から姿を消し、二度と張角達の前に姿を表すことは無かった。

 

――――――――――

 

 張梁という唯一無二の頭脳を失った黄巾党の面々が採った方策は、夜陰に紛れて新設された集積所を襲い、糊口を凌ぐというものであった。見事なまでの下策ではあったが、窮乏した彼らにとって採用できる策がこれしかないのもまた事実。密かに編成を終えた彼らは夜の闇に紛れて城門を開き、静かに進んでゆく。

 耳に痛いほどの静寂の帳。その合間を縫うように歩き続けた黄巾党の面々は、遂に自らを窮乏の淵から掬い上げてくれるであろう泉に辿り着く。其処は兵糧を蓄えているとは思えぬ程に静かで、まるで彼らが来ることを予期していたかのように見張りの一人すらも立っていない。不気味な静寂に耐えきれなくなった彼等は思い思いに散って倉庫の中を見聞し始める。後に続いたのは歓喜の声ではなく、悲鳴とも怒号ともつかない叫びだった。

 

「管亥様!中はもぬけの殻です!」

 

「こっちも駄目です!何も入ってやしません!」

 

 謀られた。そう悟った管亥達が武器を抜くのと、周囲が煌々と輝く松明に照らされたのはほぼ同時の出来事だった。

 

「やあやあ、黄巾党の諸君。我々官軍が諸君らのために築き上げた墓標はお気に召してくれたかな?」

 

 隠し切れぬ喜悦を溢れさせながら現れたのは、董卓軍きっての勇将である徐栄。彼女は芝居がかった動きで手に持った斧槍を振り回し、勢い良く地面へと突き立てた。同時に立ち上がるのは孫、董の軍旗。弱りきった彼らを圧し包むには過剰ともいえる戦力が揃っていた。

 

「貴様らァ!俺たちを嵌めやがったな!」

 

「いえいえ、嵌めるだなどととんでもない。私たちはただ、貴方達に良い夢を見せてあげようとしただけに過ぎませんよ」

 

 凶悪なまでに、徐栄の表情が歪む。それは正しく契約が成った悪魔そのものであった。

 

「『此処の兵糧があれば、俺達はもっと長く戦える。もしかしたら、官軍すらも倒せるやも』ねえ、良い夢でしょう?――でも、泡沫の夢はもうお終い。あなた達は此処で死に、哀れで卑小な現実へと立ち返るのですから」

 

 悪魔じみた表情は、そのまま黄巾党を喰らう牙となる。恐怖に凍てついた賊徒の横っ腹に斧槍が突き立つのと、周囲から喊声と共に孫策軍、董卓軍が攻め寄せるのはほぼ同時であった。突き出される槍の穂先は過たず黄巾党の命を霧散せしめ、振るわれる戟は逃げる暇すらも与えずに賊徒の首を刈り取ってゆく。いや増してゆく血と臓腑の臭いが辺りに立ち込め始め、彼らを率いてきた管亥すらも呑み込んでゆく。

 

「ふざけやがって!こんな、こんな所で俺は……!」

 

 賊徒の首なぞ手柄にもならぬとばかりに無造作に突き出された槍の穂先は誰のものであったか。黄巾党随一の使い手として名を馳せた男の人生は、呆気ない幕切れを遂げたのであった。

 

 

 

「つまらんな。これなら、本拠攻めに加わった方が良かったか」

 

 軽い地響きを立てて振り下ろされた斧に肘を預けながら、樊稠は溜息を吐いた。気紛れに義勇軍をそちらへと向かわせたが、これならば自分たちが向かった方が良かったのではないだろうか。

 

「無駄な戦力の摩耗を防げただけでも十分だろうよ。中原の動乱の対価は、中原の者に支払わせればいい。そうは思わんかね」

 

 何時の間にか並び立っていたのは韓遂であった。彼女は黎明を迎えつつある地平線を満足げに眺めながら、配下に下知を下してゆく。既に陣払いの準備をしているのだろう、気の早いことだと樊稠は流石に呆れ顔だ。

 

「それはそうだがな。――貴様、何をするつもりだ?」

 

 然程難しい質問では無かった筈だが、思いがけず考え込んでいる韓遂に怪訝な表情を向けてしまう。暫くそうしていた彼女は思い切ったように顔を上げ、樊稠の目をじっと見つめた。その瞳には凄まじいまでの熱量が宿り、樊稠は気圧されたように半歩下がってしまう。

 

「他ならぬ劫になら、言っても構わんかな。……私はな、自分の王国を創るつもりだ。ほかならぬ、西涼の民草のための王国をな」

 

「な……」

 

 世迷言をと言いかけた口は、それ以上動かなかった。野望だとか利益だとか、そういった次元にない一種純粋な輝きが、韓遂の瞳にはあったからだ。

 

「だからな、劫よ。せめて邪魔だけはしてくれるな。私とて、友を手にかけたくはないのだから」

 

 不退転の覚悟が、そこにはあった。それに口を差し挟むことなど、そこまでの熱量を持たぬ樊稠には到底出来そうになかった。




次回、黄巾党動乱編終了。
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