陶謙を仁君に書くか下種に書くかで、その人がどの三国志を呼んだかが大体わかるらしいです。尚私は北方三国志版
「……遅い!」
洛陽から北西に二里程の所で、華琳はいらだたしげに何度目とも知れない舌打ちを漏らした。背後に侍している夏侯淵――
「華琳様、苛立つ気持ちも分かりますが、自重なされませ。貴女がどれだけ気を急かしたところで、皇甫崇将軍が早く帰参なされる訳ではないのですから」
「そうは言うけどね、愁。悠華が行方知れずになって、漸く行き先が判ったと思ったら官軍について韓遂の叛乱討伐に向かっていたのよ?身内が危地に進んでいった私の気持ち、貴女なら判っていると思ったのだけれど?」
「判っているからこそ、でございます。判っているからこそ、華琳様に私と同じような醜態を晒して欲しくないと思うのは、失礼で御座いましょうか?」
「――私も愁の言には賛成だ。正直、今の華琳様は、平素では考えられない程に精神の平衡を欠いているように見受けられます」
「……そうね。秋蘭がそう言うのなら、やはり平静たるべきなのでしょうね。愁も、忠告有難う」
とは言ったものの、華琳の表情から苛立ちの色が消える事は無い。流石に身内が危地にあるというのに手出しが出来なかったという歯痒さを覚えるのは初めてなのか、気持を持て余し気味のようである。
「――お、あちらに土煙が見えてきましたね」
「たしかに。後一刻ばかりで此処まで辿り着く……といった感じか」
「……」
目当てのものが目の前に迫っているというのに、華琳の表情は更に険しさを増していた。
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「皇甫嵩将軍、長征ご苦労様でした。相手が悪かったようですが、陛下もお慶びになるでしょう」
「あ、ああ曹しょ、孟徳か。態々出迎えとは、卿らしくも無いことだな」
皇甫嵩は、所謂官僚型の将軍だ。無論、指揮能力に関しても中郎将に実力と人格の清廉さでのし上がっただけあって水準以上だが、それ以上に兵站などの調整能力に長けた将軍であると言っていい。本来なら、鎮圧任務には武辺で知られる朱儁などを充てるべきだったのだろう。
ともかく、皇甫嵩はこうして辛うじて得た引き分けという結果と共に帰還し、いきなり彼女がその果断さと憚りの無さ故に苦手とする曹孟徳――華琳の出迎えを受けてしまう事になったのだ。思わず、彼女の鉄面皮も剥がれかけてしまう。
「で、態々出迎えまでしたんだ。何か聞きたい事もあるのだろう?」
「話が早くて助かります。……私の従妹、曹子孝が貴下の軍に従っていたという噂を耳にしまして。親類として、彼女の安否を確かめておきたいと思いまして」
「――君の従妹が私の軍に?そのような事は聞いていないが」
「何ですって……?」
「ひっ……!だ、大体そんな勝手が官軍で許されると思っているのか?出入りは厳しく管理しているのだから、私の部隊にも董卓の部隊にも、当然陶謙の部隊にだって入り込む余地は無いぞ!」
「本当でしょうね?――
自身の真名で呼ばれ、皇甫嵩――姶良の小柄な体躯がびくりと跳ねる。華琳が自分を真名で呼び始めてからが、彼女にとって真に恐ろしい時間だった。
「ほ、本当だってば。……少なくとも、私の受け持ちと董卓の部隊には、居ないって……!」
「……陶謙の部隊は、その限りではないと?」
「アイツ、嫌いだもん。――職務上一応の確認だけはしてたけど、潜り込むならアイツの部隊が一番やりやすいと思う。金積めば大概の無理は通しちゃうし」
「……陶謙を呼んでくれるわよね?」
「ひぃっ……!?わ、分かったよぅ……」
姶良は目尻に涙を浮かべ、伝令を遣って陶謙を呼び寄せた。
「陶恭祖、只今参りました。……義真将軍、如何なされましたか?」
陶謙は壮年の境を超えた、くたびれた男性武将だ。風采のあがらない何処にでも居そうな佇まいだが、彼は類稀なる商才と、さらに権謀術数の才覚を以て洛陽における地位を確たるものとしていた。
金で地位を買った、彼はそう誹謗されているが、特に気にした様子も無い。「売官などという仕組みがある以上、それに乗るのは当然ではないか」というのが、彼の思想だった。
「――そちらの曹孟徳が、貴方の事を探していたのでな。手数を掛けて済まないが、彼女の問いに応えてやってはくれないか?」
曹孟徳の名を聞いても、陶謙の表情は変化の色を見せなかった。ただ華琳の方を向き、事務的に問いを投げかけただけだ。
「単刀直入に聞くわ。貴方、私の従妹を部下として使わなかったかしら?」
「曹子孝殿――ですかな?確かに、私に対して従軍を申し出て参りましたな」
「で、あの子は何処に行ったのかしら?」
「――さて。従軍に関しては承諾致しましたが、身の安全に関しては保証の限りでございませなんだからなぁ。……少なくとも、帰ってくる時点では姿を見ませんでしたなぁ」
いけしゃあしゃあと、陶謙は言ってのける。その態度に、華琳は思わず拳を握り締める。それに気付いた王凌が前に出ようとするが、秋蘭が遮るように右腕を出した。
「成る程。現状、曹子孝は往く方知れずという訳ね。それだけ判れば十分だわ。手間をとらせたわね」
「いえいえ。この程度で手を煩わせたとは思われなくて結構でございます」
陶恭祖という人物は、存外傑物なのかもしれない。そのような感想を抱きながら、華琳達は一先ず姶良たちの前を辞去した。
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その後の沙汰は、全ての報告が済んでより一週間の後に発せられた。総司令官の皇甫嵩は中郎将の職を辞して郷里の安定に帰り、董卓は緒戦に於いて韓遂の部隊を退け、更に敵に対して果敢な戦いを挑んだ事を評価されて雍州の刺史を拝命。陶謙は特に兵の損失も無かったが戦功も無かったため、豪族の勢力が強い徐州の刺史を拝命する事となった。厄介払いといったところなのだが、当の陶謙はというと、やはり平然とその任を受けたのであった。
そして、孫家の処遇はというと……
「揚州の刺史に任ずる、ねえ」
「揚州はそこそこ広いけれど、南に山越族が居るし、豪族の勢力も強い地域ですねえ。こいつは厄介払いですよ」
「孫家は出自の不明確な成り上がり者、そういう意見が多かったんだと思うの。そこそこお金も撒いたんだけど……」
全琮は溜息を吐くが、諸葛瑾は存外楽観的なようだった。
「いやいや、これは寧ろ勢力拡大の好機ですよ。確かに今迄本拠としていた琅邪は失う事になりますけど、その代わりに長江以南の広大な土地が手に入るんですからねえ。それに、なんといっても一州の刺史です。これで得られる権益は太守時代とは比べ物になりませんよ」
「まあ、そうも考えられるけど」
「それに、長江を差し挟むということも大きいですね。これから乱が起きたという時、長江が我らを守る盾となってくれますから」
「成る程成る程。……珠蓮、どうしたの?」
珍しく熱心に諸葛瑾の話を聞いていた孫策は、視界の端でうろうろと落ち着きを失って歩き回っている孫皎の姿を見とめた。
「いえ、その、何でも無いというか……」
「その割には、随分落ち着きが無いじゃない」
「えっと、でも、その……」
「どしたのよ、珠蓮らしくもない。言いたい事があるなら、はっきり言っちゃいなさいよ」
孫策の言葉に、孫皎は漸く意を決したように口を開いた。
「……洛陽、観に行きたいなって、思ったんですけど」