ある日の夕食後、ルティの部屋でティアと二人炬燵に潜り込んで酒を飲みながら、世間話に興じている最中に、突然ルティが言い出した。
「何でアービィって手慣れてたんだろう? まさか、ティア……」
ルティがティアを睨む。
「ば、莫っ迦じゃないの? 何言ってんのよ、そんなわけないじゃない! あたしだって、まだ命は惜しいわよっ!」
ティアが顔を真っ赤にして言い返す。
「じゃあ、いつの間にか娼館にでも行ってたって言うの?」
負けじとルティも言い返した。
「あんたねぇ、恋人を信じてあげなさいよ。だいたい、二十五歳まで異世界で生きてたんでしょ、アービィは。あっちでそういう経験があったって、何の不思議もないでしょうに」
呆れ顔になったティアが言い捨てた。
「そうよね。……考えてみれば、そうよね。……でも、何か釈然としないわぁ」
もとより、ルティはティアを疑っているわけでも、アービィの娼館通いを疑ったわけでもない。
今まで縁のなかった艶っぽい話ができるようになって、はしゃいでいるだけだ。
「何を二人で顔赤くしてるのよ?」
レイが酒瓶を抱えて入ってきた。
違う家を借り上げていたが、時々こうして遊びに来ている。
レイ自身はまだ酒は飲まないのだが、二人の飲みっぷりを知っているだけに、遊びに来るときはいつも酒瓶持参だった。
「レイ、ランケオラータ様はどうなのよ?」
何の前振りもなしに、ルティがレイに話を振った。
「何のことよ、いきなり?」
状況が把握できていないレイは、自分の茶を注ぎながらも困惑の表情を浮かべる。
「夜の生活のことよ。よ、る、の」
ティアが止める暇もなく、ルティがあからさまに聞いた。
「な、何、急に……だって、私たちまだ結婚してないのよ! そんなこと、あるわけないじゃないの!」
今度はレイが顔を赤く染めた。
「やめなさい。って言うか、はしゃぐんじゃないの、ルティ」
ティアがルティを窘めるが、ルティの暴走は止まりそうもない。
「どうしたのよ、ルティ。ニヤけまくっちゃって。ああ、さては……」
レイが察したところで、ルティが完全に暴走モードに突入した。
ルティは聞かれもしないのに、アービィとの一夜を事細かに話し始めた。
ティアにとっては、別に驚くようなことでもないのだが、レイにはまだかなり刺激が強すぎたらしい。
アービィが酒瓶と干し肉を抱えて入ってきたとき、その姿を見るなりレイの顔がまた真っ赤に染まる。
「不潔よ……不潔よ、アービィっ! 信じらんないっ!」
そう言うなり、レイは部屋を飛び出していった。
「ん? レイ、どうしちゃったの? お風呂は入ってきたんだけどなぁ」
そう言いながら、アービィはルティの横に腰を下ろし、炬燵の上に干し肉を広げ始めた。
「あんたらは、わざわざ狭くしなくてもいいものを……」
ティアは、予定調和とも言うべき二人のバカっプルぶりに、頭を抱え込んでいた。
まあ、幸せそうでいいけどさっ。
翌日、遭難者の証言からロベリア王の崩御とラルンクルスの解任を知らされ、その善後策を練るためにルムの家に主要な面々が集まった。
もちろん、公式の場においていちゃつくような莫迦は、一人もいなかった。
「先王陛下の崩御は、この地にいる者を代表し、心よりお悔やみを申し上げる。さて、ラルンクルス殿の処遇だが。私としては、解任状が届いていない以上、効力を発揮していないと判断する。引き続き、連合軍の指揮を執っていただきたいと考えるが、皆様はいかがか。忌憚なきご意見を伺いたい」
プラボックが自らの考えを述べた。
現実問題として、ニムファ女王により解任状が書かれた時点で、その命令は効力を発揮しており、それが届くまではただの誤差とみなされる。
プラボックの意見は詭弁に過ぎないことは、当人を含めその場にいるもの全てが理解していた。
「消極的賛成、といったところですかな。私は、ニムファ女王からの解任状は届いていないが、効力はあると考える。だが、現実問題として、次期指揮官が到着していない。従って、それまではラルンクルス殿が指揮官で問題ないと思う」
ランケオラータは、詭弁には与しないがラルンクルスの留任は当然だと考えている。
「皆様のご好意はありがたく存じます。解任状の存在が明らかになるまでは、本職に留まるべきと小官は思慮いたします。解任状の存在が認められたなら、小官は職を退き、次席指揮官が指揮を継承すべきであります。もちろん、次期指揮官が到着した時点で、指揮権を移譲することになります。本職に未練があるわけではございません。どうか、理に適ったご判断をお願いいたします」
ラルンクルスは、ニムファへの忠誠心では右に出る者はいない。
ニムファに解任と言われたなら、黙ってその命に従う覚悟はできている。
救助された者の証言では、解任状は次期指揮官ウェンディロフが持っていたという。
その当人と解任状が行方不明とあっては、ラルンクルスとしてはどうしようもない。
間違いなく解任状は書かれたとラルンクルスは信じているが、ないものはどうしようもなかった。
「ラルンクルス様のご意見そのままで良いのではないでしょうか。いずれ、次期指揮官が送り込まれてくるとは思いますが、それまでは現状維持ということでどうでしょうか。ウェンディロフ様の安否が確認され、解任状の行方がはっきりとするか、新たな解任状が届くまではラルンクルス様に指揮を執っていただければ良いと思います」
ティアが意見を述べる。
個魔獣的にはウェンディロフにこの地に来て欲しくはない。
またアービィを付け狙うことは確実だ。何度もあのときのような手が通用するとも思えないし、行軍がすれ違うだけではないので、どこで鉢合わせするかわからない。
人の死を願うほど自分の性根が腐っていると思いたくはないが、救助されたらラシアスに送還されて欲しいと思っていた。
「私もティア様に同意見だ。ラルンクルス殿に指揮を執っていただくことに異議を唱える理由がない。解任状が着てから考えればよいことだ」
ルムがティアの意見を支持する。
当然、ティアが言ったからなどという追従ではなく、ルムが自ら考えての意見だ。
先に正論を言われてしまえば、それを支持するほかないが、プラボックはわざとルムに向かって意地の悪い笑みを向けていた。
「アービィ、ルティ、特に意見はないかね? ない様であれば、ラルンクルス殿の処遇に変更はなし。引き続き指揮をお願いする。ということでよろしいかな?」
プラボックが決を採る。
細かい見解の相違があるとはいえ、結論が異なるわけではない。
反対意見が出るはずもなく、ラルンクルスの指揮権に変化はなかった。ラルンクルスはプラボックが支持してくれているとはいえ、解任状の所在が明らかになった時点で職を辞する決意を固めていた。
だが、どの面下げてニムファが待つアルギール城に戻れば良いか、ラルンクルスには解らない。ニムファの信を失っているのだとしたら、ラシアスに奉公できることはもうない。
いっそ、国を捨て、北の大地で生きるのも良いかと、ラルンクルスは漠然と考え始めていた。
「おい、ヘッテ、お前の姉上は壮大な自爆をしたみたいだな。仕事が増えた。どうしてくれる」
笑いを噛み殺しながらビースマック代表フィランサスが言った。
アルギール城の貴賓室では、ベルテロイ駐在武官たちによる共同統治機構の初会合が執り行われている。
「フィランサス殿、公式の場でそのようなご発言はいかがなものかと存じますが」
やはり、笑いを隠せないストラー代表アルテルナンテが窘めるが、まるで説得力がない。
「それで最初の議題が、連合軍次期指揮官の選定ということなんだ。ヘッテ、こっちで決めて姉上が納得するのか?」
インダミト代表パシュースが聞く。
アルテルナンテが一応睨みつけるが、どこ吹く風といったところだった。
「皆様のご推薦を得て決する指揮官です。女王といえど、それに反対できません。最北の蛮族への対処につきましては、共同統治機構に一任すると、四王の連名でご承諾を得ております故。……なんか言ってきたら張り倒す」
公式の場での発言に終始しようとしたラシアス代表ヘテランテラだが、最後までは我慢できなかった。
ヘテランテラのやるせない表情に、笑いが弾けた。
「ラシアス国の騎士団長を解任する権限は、ニムファ陛下がお持ちです。従いまして、ラルンクルス殿の騎士団長という職は解かれるという点におきましては、何も問題はございませんし、我々は口を挟める立場ではございません。しかしながら、連合軍指揮官の解任という点になりますと、ニムファ陛下にその権限はないと考えますが、いかがでしょうか」
場の雰囲気を引き締めるため、アルテルナンテは公式の場に相応しい言葉遣いで発言する。
「元々がラルンクルス騎士団長を連合軍総指揮官に推したのは、我々の決定でした。ニムファ陛下には、それを解任する権限はないと考えて問題ありません。従いまして、ラルンクルス殿の騎士団長解任について、我々が口を挟むことはできませんが、連合軍総指揮官解任は無効であると言って差し支えないと考えます」
さすがにいつまでも砕けたままではいられないことくらい、他の代表たちも理解している。
フィランサスが口調を改め、考えを述べた。
「小官も、フィランサス殿に賛成致します。次期指揮官を選出する必要を、共同統治機構は認めません。ニムファ陛下が新騎士団長を任命し、北の大地へ派遣することに我々は積極的に反対意見を述べることはできませんが、その人物が連合軍次期総指揮官への就任ということは、認める必要はないと考えます。また、ラシアス軍が新たに編成され、これは貴国の国情を鑑みるに、失礼ながらあり得ないことと愚考致しますが、北の大地へ派遣されるという事態が起きた場合、我々としてはそれを制止すべきだとも考えます。どうしても派遣を止められないというのであれば、連合軍の指揮下に入ること。これだけは譲るわけには参りません」
パシュースが言った内容は、再度の悲劇を繰り返させないためではあるが、万が一強行するなら実力を持って追い返すとの牽制を含んでいた。
「小官といたしましても、皆様のご意見に異議はございません。これをもちまして、ラルンクルス殿の騎士団長解任と、連合軍総指揮官留任に付いての討議は終了とさせていただいてよろしいですか?」
莫迦女にどうやって認めさせるか、ヘテランテラは今から気が重い。
どうあっても認めさせるだけなのだが、あの莫迦女が次に何を言い出すか、それが分らない分説得には気を遣いそうだった。
「もう一つ、皆様に諮りたいことがございますが、よろしいでしょうか?」
ヘテランテラが席を立とうとした三人を止めた。
「また、姉上絡み、か?」
パシュースが頭を抱えつつ聞いた。
「ああ、そうなんだ。次から次へと、あの莫迦女は……いや、国家の一大事に、それどころか南大陸全土に関わる問題です」
そう言ってヘテランテラは、宰相コリンボーサがリークした一個師団の急編成と、貴族たちが所持している装飾品やインゴットを無償で供出させ、それを貨幣に鋳造するという命令を説明した。
「それは、拙いなんてもんじゃないぞ」
「一時的には南大陸は好景気ね。でも、そのあとどうなるか。考えたくもないわ」
「最初は、ウチは大儲けだろうが。一瞬だな。一万人分の武具を急に作れというのなら、鉱山や加工場、輸送に関る商人が人を大量に雇い入れる。だが、それで終わりだ。需要が続くわけじゃない。需要がなくなれば鉱山も加工場も輸送業も、要らなくなった労働力は切るだろう。そのうえ、カネがだぶつけば……」
三人がそれぞれに呟く。
「そう。一時的な好景気に南大陸は沸くだろうが、そのあとは失業者の群れに物価高騰。そして貨幣価値の下落。民の生活は立ち行かなくなるな」
へテランテラが三人の呟きを受け取った。
「しかし、貨幣鋳造権は国権だ。これに干渉はできないが……家臣に私財供出を強制する専制を理由に、是正勧告がいいところだろう。しかし、是正勧告を出したところで聞く耳など持たなそうだな」
パシュースが考え込む。
「情報源も秘匿しておかないと、粛正なんてことになりかねないわ。今、コリンボーサ殿がいなくなったら、あなたのお姉様を止める人はいなくなるわね」
アルテルナンテの危惧は正しい。
下手に是正勧告を出せば、どこから情報が漏れたかの犯人探しが行われることは間違いない。
そうなったとき、ニムファが絶対権力に酔いしれた状態で癇癪でも起こせば、コリンボーサや財務卿を始めとした貨幣の増産反対派が、一気に粛正されかねなかった。
南大陸が一丸となって北の民を支え、最北の蛮族と雌雄を決しようというときに、南大陸自体が騒乱を引き起こしていたら、それどころではなくなる。
極力穏便に、ニムファを排除するような過激ではない方法で、事に当たる必要があった。
「やはり、通商制限か。しかし、商人たちの正当な商業活動を、国が規制するわけにもいかん。規制したところで、彼らも生きるためだ。裏で取引を始めるだけだろう。それであれば、経済制裁か」
ビースマックやインダミトは、商業活動が止められたら生きてはいけない。
ビースマックは武具を大量には生産できないが、素材をインダミトに輸出し、インダミトはそれを元に製造販売していた。
フィランサスも考え込んでしまった。
「まずは、是正勧告を出すべきだろう。それもなしにいきなり経済制裁では、いくらなんでも筋が通らん。幸か不幸か、財務卿が辞意を漏らしている。身の安全と引き替えに、そうだな、一時的に北の大地に身を隠しても良い、情報源になってもらうか」
へテランテラは、経済制裁による一時的な不況は甘受するつもりだ。
南大陸全土を巻き込んだ、世界恐慌より数段マシだった。
ニムファの暴走を放置すれば、間違いなく南大陸にはインフレの嵐が吹き荒れる。
一時的な雇用増大や景気の好転は見られるだろうが、その後には悲惨な状況が待っている。好景気が過ぎれば失業者が町に溢れ、市場ではカネがだぶついた結果、物価は上がる。賃金の上昇も追いつけばいいが、失業者たちはカネを得る手段を失っている。その状況に需要のさらなる減少を呼び、さらに失業者が増える。
結果、富が偏り、人々の不満は膨れ上がるだろう。
社会に不満を持った失業者が増大すれば、暴動に発展する恐れもある。
それは、新たな戦乱の引き金となりかねない、危険な状況だ。
「いや、是正勧告はするとしても、今時点では早すぎる。下手にやって、裏に潜られたら目も当てられん。この際、後戻りできないところまで引き出して、叩く。南大陸全土が納得する形で、是正勧告を出そう。財務卿には護衛をつけておくべきだな。ドーンレッド殿の行方は、まだ不明か? 彼に付いていた、リムノくらい腕の立つ者が欲しいんだが」
パシュースは、貴金属の供出まではさせるべきだと主張した。
鋳造が始まってしまえば手遅れだが、貴金属の供出が始まった時点で財務卿に悪役になってもらう。
四人の各国代表は、公式な場であることも忘れ、言葉遣いを改めることなく話し続けていた。
冬も中盤を過ぎ、春の訪れはまだ遠いが、折り返し地点は過ぎていた。
冬の日々を数えるより、春までの日々を数えたほうが少なくなっている。まだ雪は深いが、吹雪が荒れ狂う日数は、確実に減っていた。
だが、積もっている雪の総量はほとんど変わらず、長い時間を過ごすうちに凍りつき、却って雪掻きには手間が掛かっている。
最北の蛮族の侵攻も厚い雪と氷に阻まれて、ターバ以南にはまだ伸びていない。
こちらからの逆侵攻も、当然のごとく山脈に前線を敷いただけで、一歩も前に進んでいなかった。連合軍は、敵の侵攻がない冬季の逆侵攻を計画したが、長年北の大地で生きるものたちですら自然休戦となる厳しい冬は、軍の組織的な行動を諦めさせるに充分だった。
もちろん、ウェンディロフ率いるラシアス師団壊滅の悲劇も、冬季侵攻を諦めさせる原因の一つになっていた。
吹雪の合間を縫って、平野部と山岳地帯の境界に眠るラシアス兵の遺体発掘は進められている。
生存者の証言からあと百人ほどまで行方不明者は減っていたが、いまだウェンディロフを含む師団司令部要員の行方は判っていない。
だが、今の時点で見つかっていないのであれば、死亡と判定するしかなかった。
アービィたちにしてみれば、迷惑以外の何物でもない人物だ。
だが、死者に鞭打つ気はさらさらない。
故国で遺体の帰還を待っているであろう家族の下に、一日でも早くその遺体を返してやりたいと考えていた。
捜索の方法は単純だ。
何人もが一尋間隔の単横陣を組み、長い棒を雪に突き刺し、何かに当たれば近くにいる者総懸かりで、雪を掘り返すというものだった。
「これだけ捜して見つからないなんて、どこかで生きてるのかなぁ」
アービィが汗みずくになりながら呟く。
「そうだといいけどな、もう何日だ、遭難の報告を受けてから。俺の村を出て行ってから、もう二十日だ。おそらく、食糧もあるまい。絶望的だな」
ワラゴが応じた。
山岳地帯の裾野にまで捜索範囲を広げたため、土地鑑のあるワラゴたちにも協力の要請を出していた。
ワラゴたちは、ウェンディロフ師団の態度のせいで投げ遣りになっているわけではない。
厳冬期に北の大地で遭難した者がどうなるか、経験から冷静に言っているだけだった。
「なんで、あんな迷惑掛けるような人のために一所懸命になれるの、アービィは?」
ルティが訊ねた。
アービィの底抜けなお人好し加減は解っているが、それでも聞いてしまう。
ルティが決して薄情ということではないが、ここまでして貴重な食糧と労働力を割く必要が解らなかった。生きている可能性があるならまだしも、ワラゴの村を出てから食糧の補給もせず二十日も経っている。どう考えても生存の可能性など、万に一つ、いや、億に一つもない。
ましてや、遺体を家族の元に返そうなどという理由で、二次遭難の危険性まで冒す気が知れなかった。
「うん、やっぱりさ、自分の目で確かめないと割り切れないと思うんだ。行方不明でした、で終わりじゃ家族は納得できないよ」
アービィも生存の可能性が限りなく零に近いことは、言われなくても解っていた。
犠牲者の家族の内、北の大地までの旅費を工面できる者たちが、三々五々山岳地帯の集落にやってきていた。
もちろん遺体を担いで帰るなど、クーリーを雇い、馬車をチャーターできる裕福層に限られる。
それでも腐敗が進みかねない遺体を持ち帰ろうとする者はなく、集落から燃料を買い、近くで荼毘に付し遺骨を持ち帰るか、住人の許可を取って山岳地帯に埋葬する者がほとんどだった。
ラシアスの国民性を考えれば、北の民に殺されたと決めつけて激昂する者や、山岳地帯の民に危害を加えようとする者が続出するかと思われた。
だが、一家の大黒柱を失った衝撃から、茫然自失となったままここまで来た者が多数を占めていた。そのうえ山岳地帯に駐留している連合軍の将兵から、ラシアス軍の振る舞いを聞かされ、恥入る者も多くいた。
さらには、山岳地帯の民や、平野の民が遺体を丁寧に扱っていたことも、遺族の感情を和らげるのに役立っていた。
一人二人の無謀な冒険者が、制止を振り切って飛び出したなら自業自得と笑われるだけだった。
しかし、万に近いオーダーの死を見せつけられ、それも命令に逆らえずに間接的に殺された者たちとその家族には、さすがに同情を禁じ得なかった。
嘆き悲しむ家族に掛ける言葉も見つからず、山岳の民は宿を貸し、食事の世話を焼き、そして遺体の発見現場に案内した。
パーカホにラルンクルスがいることを承知している者は、山岳の民の犬橇を雇い、パーカホまで足を伸ばす者もいる。いずれも山岳の民は好意的に協力していたが、さすがに無償というわけにもいかず、なにがしかのカネが落とされていった。
既に貨幣経済に馴染みつつあった山岳の民にとっては思わぬ臨時収入となったが、他人の悲しみや弱みに付け込むようで、金銭の受け取りに抵抗を感じる者が多かった。
このようなケースで人を泊め、世話をする経験などなかった山岳や平野の民は、駐留する連合軍将兵に南大陸の金銭的な常識を訊ねていた。
将兵は、泊める側は泊まる側の事情など推し量る必要などないと教え、標準的な一泊の料金や、現状で提供できる食材のレベルを考慮した一食分の値段も教えていた。
今回のことで、営利を求めるという発想がなかった山岳や平野の民は、南大陸の常識からは懸け離れた値段設定をしていた。
だが、遺族たちにしてみれば、世話になりっぱなしと言うわけにもいかず、南大陸で常識的な金額を無理矢理渡していた。
互いに気を遣い合ううちに、極一部を除いた両者の間に、好意的な感情が生まれたことは、自然な流れだった。
最北の蛮族を討ち、返す刀で残る北の民を平定することを手段として、『大陸間の諍いをなくす』というラシアス師団の戦略目的は、皮肉としか言いようのない全く違った形で成し遂げられようとしていた。
汗みずくのアービィが、上半身を裸にして雪を掘る。
アービィだけでなく、同行していたワラゴや山岳の民も、低い気温にも拘わらず、半裸で雪を掘り返していた。
以前アービィがワサビを発見した沢を下った峡谷の一角で、ラシアス師団司令部要員の遺体が発見された。
周囲をくまなく捜索し、ほとんどの幕僚と従卒の遺体を回収していた。どの遺体も完全に凍り付き、死の寸前の姿を、そのまま留めている。
おそらくは、ようやく掘った雪洞の中で体力の限界に達し、横たわったまま眠るように死んでいった幕僚と、周囲でそれに殉じた、結果的には美談になりそうだが、現実は上官の死に衝撃を受けたまま眠り込んだ結果だろうと推測される、従卒の姿だった。
中には、何かを追うようにして雪の中で息絶えた姿の者もいるが、それは幻覚を見た者を止めようとしたものなのか、自らが幻覚に惑わされたのか、それを判断することはできなかった。
どうやら司令部は、本隊とはぐれた後山岳地帯に戻ろうとしたらしい。
高い所を求めては、その度に次の峡谷にはまりこみ、そして、ここでついに力尽きたようだった。
その中に、ウェンディロフの姿は、ついに見つからなかった。
「ラルンクルス殿、ラシアスの中枢におられた貴官であれば、貴国の財政についてもある程度の情報をお持ちだろう。他国民の私に全て明かす必要はないが、貴官の判断で教えて欲しい。貴国は、もう一度侵攻するだけの余裕はあるかね?」
ランケオラータは、目下最も気掛かりな事項について、ラルンクルスに訊ねた。
回答によっては、今度こそラルンクルスを総指揮官から外さなければならない。
「ランケオラータ様、過分なお心遣いは我が身に余るもの。どうか、お気遣いなきよう。小官が受けた命は唯一つ。北の大地に安寧をもたらすことであります。最北の蛮族を討つことは、そのための手段であり、目的ではありません。また、新しい命令を受領するまでは、それまでの命令を遂行するため全力を尽くさねばなりません。従いまして、小官は北の大地に安寧をもたらせとの命令を達成するうえで、障害となる勢力があれば万難を排してこれを討つ。例え、それが我が国の、軍であってもであります」
ラルンクルスは決然と答えた。
本来であれば、第三王子より女王の命令が優先されなければ、国も軍も組織が崩壊する。騎士として生活してきた三十余年の月日は、心の中でそう叫んでいた。
しかし、女王からは命令を受けていない以上、第三王子から受けた命令が有効なままというのがラルンクルスの判断だ。
そして、ラルンクルスには、今回のラシアス師団派兵の裏に、女王の邪な心根を見て取れていた。
先王に誓った忠誠は、そのまま現女王への忠誠であることに変わりはない。だが、彼は北の大地に来て以来、王宮生活では見ることのなかった、庶民たちの暮らしや、現実な戦争を目の当たりにして、広い戦略眼を養っていた。
彼には、女王の考えは危険なものにしか見えなくなっている。
「冷静に考えれば、我が国にもう一度北の大地に侵攻する余力はございません。既に此度の後始末で、国庫は払底致しましょう。仮に一個師団として、新たに一万に及ぶ武具を揃え、最低限の軍としての規律を教育するための経費は、貴族階級の財産を洗いざらい供出でもさせない限り、賄うことは適わないでしょう。王室の財産でも放出するのであれば、また可能かも知れませんが、そこまでするとは考えられませぬ」
ラルンクルスは、常識的に考えて答えを出す。
「そのようなことがあっては、南大陸の経済は遠からず破綻する。おそらく、我が国を含む三ヶ国が許すまい。では、再度の侵攻はないと、考えて良い、かな?」
ランケオラータが念を押す。
「いえ、常識的に考えれば、南大陸全土を巻き込むほどの経済への影響を与えてまで、再度の派兵はありえません。ですが、陛下の御心は、最北の蛮族への敵愾心で凝り固まっております。アービィ殿を召喚したのも、最北の地に魔王が降臨したという神託があってのことでした。勇者殿を手中に収められず、最北の地への侵攻が頓挫した今、陛下は再度兵を起こすことに躊躇いはございません。小官は、再度侵攻があると、判断いたします」
ラルンクルスは、ニムファを貶めないように、言葉を選びつつ言った。
「では、侵攻があるとして、いつになると見る?」
ルムが聞く。
最北の蛮族を討つというだけなら良い。
だが、最北の地を平定した後、中央から山脈、平野、山岳地帯と、順繰りに叩きながら凱旋するというニムファの計画は、生存者から伝え聞いていた。
「予算が仮に通ったとして、既に兵を集める布告が出たと仮定しましょう。軍として規律の取れた動きができる訓練に、短くて九十日、本来であれば一年は掛けるものですが。その間に優秀な官僚が戦略物資の調達を行い、最低でも火の神殿で祝福法儀式を行っていれば、百日前後でアルギールから出立できましょう。その後、ウジェチ・スグタ要塞まで二十日、そこからここまでは十日といったところです。早ければ、春から初夏には、次の侵攻軍がパーカホを通過することになります」
ラルンクルスが頭の中で計算し、最短の時間を割り出した。
「その頃には、南大陸は一時的に、好景気で沸き返る。そして、次の冬までに、悲惨な不景気に襲われるわけだ」
「短い好景気に沸いた後は、悲惨な不景気が続くわね」
ランケオラータとティアが似たような内容を同時に呟いた。
「それは、貴官が指揮したらのことだろう? 貴官以外の者がやったら、どれくらいなんだ?」
プラボックが聞いた。
「残された者にも優秀な者はおります故、遅れて数十日、といったところでしょう。もっとも、そのような期間で編成すれば、兵の錬度には目を覆うものがありましょう。その場合、烏合の衆でしかなく、軍としての戦力は、平均的な錬度の一個大隊にすら及ばないものと考えます。逆に慎重な者が指揮を執り、陛下の干渉に耳を貸さなければ、早くて来年の春となります。そして、その場合、一個師団としての戦力は、それなりのものになっているでしょう」
ラルンクルスは、少々の修正を入れ回答する。
「そうか。では、ラシアス軍の再侵攻があった場合、ラルンクルス殿には一時的に指揮官を外れていただく。どう考えても、同胞相討つなど、気分の良いものではないからな。もちろん、それが確定するまでは現状のまま。再侵攻がなければ、何の問題もない。あとは、殿下の手腕に期待しようじゃないか」
何か言いたそうな視線のラルンクルスに目配せし、ランケオラータが断を下す。
口ではそう言ったが、決してラルンクルスの心情を思い量っただけのことではない。
現在、連合軍のなかでラシアスの国籍を持つ者は、ラルンクルスを入れて数名しかいない。それも総司令部要員だけだ。総指揮官が同国人相手に苛烈な作戦を展開できるか、ラルンクルスの人となりを知れば不安はないが、全軍にそれが周知されているわけではない。
総指揮官や司令部の指揮に、不安を感じる者が出ることは避けられない。そのための処置だった。
その二人は、去年の秋に北の大地に移り住んできた。
南大陸の老人と、北の民の少女という、見方によっては蔑まれそうな組み合わせだ。
平野部と山岳地帯の境界にある、パーカホとはあまり交流を持っていない集落に、二人は居を構えていた。
もちろん、カネで住居を買ったのではなく、前の住人が捨てていった空き家を手直しして住み始めていた。
集落の者たちは、南大陸の住人が北の民の少女をカネで買った奴隷としていると見て、最初は近付きもしなかった。
老人と少女も積極的に集落の者と交流を持とうとはせず、小さな畑を耕し、足りない物を物々交換する程度の自給自足の生活を送っていた。
老人の持つ知識は膨大で、黒呪文と白呪文を使いこなす大魔術師でもあった。
ある日狩りに出た者が怪我人を担いで帰ってきたときに老人と行き会い、治癒呪文で怪我を治療されて以来、集落の人々の見る目が変わった。
なるほど言われてみれば、老人が過度の畑仕事をするのは無理であり、少女がその役を負うことは自然だ。
また、両者の間に主従の関係は見られたが、明らかに対等な部分もあり、主人と奴隷という関係に収まらないことも確かだった。
祖父と孫とも違い、主人と奴隷でもない二人に注がれる視線は、日を追うごとに柔らかくなっていった。
二人も集落に病人が出れば北の民の知らない野草の利用法で薬を作って渡したり、魔獣の襲来に際しては戦闘に立って戦うなど、積極的な交流こそ持とうとしないものの、集落の住人としての努めは必要以上に果たしている。
少女の戦闘技能は目を見張るものがあり、老人の呪文と合わせれば無敵かと思うほどだった。
いつしか二人は、風変わりな家族として、集落の人々から認められていた。
ラシアスを追われたドーンレッドとリムノは、政争や諜報とは無縁なこの地で、初めての安寧を手に入れていた。