狼と少女の物語   作:くらいさおら

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第72話

 「どこで、あんな残虐な方法を思い付いたんだ? 異世界の魔法か?」

 二つ目の集落で、不死者の群れを焼き払った後、バードンがアービィに聞いた。

 

 この世界で、偶発的に起きた粉塵爆発の例はあったが、悪魔や悪霊の仕業とされていた。

 アービィが暮らしていた異世界のような大規模食品工場や炭坑はまだ発達しておらず、大量に死者を出すほどの悲惨な事故が起きた例はない。

 そのためか、家庭の台所やパン職人の工房で、不運な偶然の積み重ねから起きてしまった小さな爆発は、死傷者を出すことがあっても原因を深く追求されることもなく、悪魔や悪霊の仕業として片付けられていた。

 

「あ、知ってました? 僕が異世界人だってこと。う~ん、魔法じゃないんですよ。僕のいた世界に、魔法はなかったんですよ。さっきも言いましたけど、粉の一粒ずつが燃えてるだけなんですけど、大量に一気にいくから爆発しちゃうんです。僕が異世界で生まれる百年近く前に、小麦粉を大量に作ってる施設でも、そういう事故がありましたし、炭坑でも今やったことと同じことが起きて、どれもかなりの人が死んでるんですよ」

 この日にやるべきことを片付けて、人間の姿に戻っていたアービィが解説した。

 だが、露天素堀の炭坑しか知らないバードンには、アービィの説明は一部解り難い。

 

 それに気付いたアービィが、異世界での炭坑の歴史から説明し、粉塵爆発の原理と今後の技術発展の途上で予想される事故例を話した。

 異世界の技術や知恵に感心し、この世界が未発達で野蛮な世界であることを恥じているバードンに、アービィは言う。

 

「僕がいた世界も、五、六百年前はここと同じでした。この世界も、あと数百年もすればそうなります。もちろん僕たちは生きてませんけどね。もっとも、僕のいた異世界は、今でも貧困や飢餓、戦争が耐えない野蛮な世界です。僕の国が特別なだけですけどね」

 アービィは、最後にそう付け加えた。

 傍目には和気藹々とこの世界の技術発展について、意見を戦わせているように見える二人を、ルティとティアは遠くから眺めていた。

 このとき、バードンの中では人狼への憎しみより、知的好奇心のほうが勝っていたようだった。

 

 

「おい、狼。あとひとつの集落はどうするんだ? 俺たちが帰ったら、あの袋を自力で投げ込むのか?」

 バードンは、不死者に対して自分が信仰する神の力が通用しないことを知っていた。

 だが、だからといって指をくわえている気などさらさらなく、今回は兵士から精霊による祝福法儀式済みの剣を入手している。

 アービィ一人に戦わせていては、悪魔狩りの名が泣くとバードンは危機感を覚えていた。

 今夜は自ら剣を振るい、悪霊を斬り伏せてやると、意気込みを見せていた。

 

 

「そうですね、せっかくですからご一緒いただきましょうか。ひとりでも多くの人に、魔法陣を見てもらって、形とか特徴を掴んでもらった方がよさそうですもんね」

 そう答えたアービィは、集落を出ようとする。

 

「ねぇ、キマイラとかの死体はどうするの? 最初の集落でも、そのままで来ちゃったけど」

 ティアがアービィを止めた。

 いくら合成魔獣とはいえ、もとは南大陸や北の大地で普通に暮らしていた動物たちだ。

 屍を晒したまま朽ち果てさせるには忍びないと、ティアは思っていた。

 このまま放置して疫病の素にでもなってしまったら、それも中央の民にとって厄介な話だ。

 

「あ、いいの、このままで。ティアなら気配を感じないかな? 僕たちがいなくなるのを待ってる、狼とか、キツネとか、熊とかの気配冬篭もり前だからさ、すぐに食い尽くされちゃうよ」

 アービィには、さっきから焦ったような気配が感じられていた。

 早く消えろ、早く出て行ってくれ、早く喰わせろ、多数の気配はそう語っていた。

 

「そうか、そうね。じゃあ、早く出た方がいいか」

 ティアは、精神を集中して周囲の気配を読んだ。

 食欲と恐怖がない交ぜになった濃厚な気配を、ティアは拾った。

 

 魔獣を恐れる必要なくエサにありつける期待に満ち満ちた感情。

 人間と人狼、ラミアへの恐怖。

 冬を目前に控え、今喰わなければ死が待っているという恐怖。

 周囲にいる獣だけでは到底食いきれないほどの食料を前にした歓喜。

 そして、早く出て行ってくれという願望。

 ティアは、獣たちのために、一刻も早くこの集落を出なければと感じていた。

 

 

 アービィたちは宿営地に戻るとすぐに、作り付けのベッドに潜り込んだ。

 特にアービィは徹夜で、合成魔獣と戦っていたため疲労が深い。

 アービィのベッドからはすぐに寝息が聞こえ始め、他の三人もそれぞれに場所を選んで眠りの世界へと落ちていった。

 

 打ち合わせはしていないが、深夜に宿営地を発ち、明け方不死者たちが結界を張った社に潜り込む時間を狙って襲撃をかけるということになっている。

 それまでにこの日の疲れを取り、腹を満たしておかなければならない。

 バードンが同行してくれたお陰で不死者の集落を潰すという任務は、思ったより早く片が付きそうだった。

 

 深夜、アービィたちは行動を開始した。

 獣化したアービィの背に粉末炭を二袋括りつけ、バードン、ルティ、ティアが巨狼に乗って征く。

 だが、ほとんど無風状態とはいえ、狼の疾走に伴って必然的に発生する強風は、三人の体温を容赦なく奪っていた。

 冬間近の夜気は冷え込んでいて、ただ立っているだけでも震えが取り付くほどだった。

 毛皮に守られているうえに疾走によって体温が上昇しているアービィはともかく、背に乗っている三人は堪ったものではない。

 

「このアホ狼、少しゆっくり歩けぇっ!!」

 バードンですら凍えている状況に、ルティがナイフを逆手に持ってアービィの腰の辺りに突き立てる。

 当然、人狼の毛皮は純銀の武器や祝福法儀式済みの武器でしか貫くことは適わない。ルティが突き立てたナイフは、ちょっとした作業用の法儀式を施していない物なので、アービィの毛皮に傷一つ付けることはできない。

 それでもルティが力一杯突き立てたナイフは、巨狼に激痛を感じさせるには充分だった。

 

――ごめんなさぁいっ!!――

 狼から情けない念話が返され、疾走からゆっくりとした歩みに変わった。

 

 

 バードンは人狼の背で揺られながら、深い思考に沈んでいた。

 人狼を恨み、憎悪し、それを殺す技を身に付けるために長い時を過ごしてきた。

 そして、技を身に付けた後は、人狼を殺し、滅し去ることだけに自分の人生を費やしてきた。

 その自分が、人狼に身を委ねている、このうえない皮肉。

 いったい、何がどうしたのか、バードンには解らなかった。

 

 スキルウェテリー卿に命じられ、インダミトに恩を売るためにランケオラータを救出に来て以来、人生の方向性が変わってしまったような気がしていた。

 ランケオラータを南大陸へ連れ戻る際に魔獣の襲撃を受け、絶体絶命の場面をこの人狼に救われている。

 そのときに純銀の剣を噛み潰され、その気になれば自分の喉を噛み裂くことなど造作もないはずだったのに、この人狼はそれをしなかった。

 

 イーバで仮初めの囚われの身として過ごしていたとき、何故かこの人狼が戻ってくることを確信していた。

 自分が殺そうとしていることを承知で、自分を救うために。

 そして、今この人狼は、自分を信頼し切っている。

 

 仮にバードンがその気になれば、人狼に純銀の剣を突き立てることは造作もない。

 この状態でそれを防ぐ術は、人狼にはない。

 だが、バードンは純銀の剣を抜くつもりにはなれなかった。

 

 人狼を憎悪する気持ちに変わりはないはずなのに、今、身を委ねている人狼に対しては憎しみを感じなくなっている。

 狼は器で、中身が異世界から連れ去られた人間だからか。

 そうに違いないと、バードンは思うことにした。

 

 ティアというラミアが言ったことも、否定できない事実だった。

 確かに人狼を狩り尽くすことはできないし、一頭狩っている間にも違う人狼による被害は続いている。

 人狼の寿命は人間と対して変わらないことを考えると、人を喰うことを覚えてしまった人狼を狩ることと、次世代の人狼をまっとうに生きるために教育することは平行してやってみる価値はあるかもしれなかった。

 だが、自分が人狼を、冷静に教育できるとは思えない。

 殺しを生業とする、闇に住む自分が表舞台に立つ資格などありはしないと思っていた。

 

 魔獣とは、全てが人を害する存在だとバードンは信じていた。

 間違いなく、今後ろにいるラミアも、以前は男の精を喰らい尽くし、死に追いやったことはあるはずだ。

 しかし、今更それを咎めようとは思わなくなっている。

 

 それを言い出してしまえば、生きるために他の命を喰らうという点では、人間といえど同じ罪深い存在だからだ。

 精を喰らうことを放棄しているラミアを、狩る理由をバードンは失っていた。

 やがて、巨狼が歩みを止めたとき、バードンはようやく深い思考の闇から現実に引き戻された。

 

 

――バードンさん、これ見てください――

 アービィが吻端で地面を指す。

 そこにはこの世界で目にすることのないルーン文字と梵字に似ている文字のような、記号のようなものが描かれていた。

 

――これが集落を円形に取り囲んでいるんです。六ヶ所に鍵となる記号があって、その中間に補強する記号が書き足されています。中に入ってしまうと、これを書いた者に僕たちの存在が知られてしまいますので、必ず外側から壊さないといけません――

 アービィは、ビースマックの王都シュットガルドで、反乱の首謀者であるプルケール邸に描かれた魔法陣に不用意に入り込み、酷い目に遭ったことを説明した。

 不死性を元々持つアービィだからこそ無事に済んでいたが、普通の人間があの光に包まれてしまえば、即、不死者へと転生させられてしまう。

 

――鍵になる記号は、補強記号を壊してからじゃないと、いくらやっても壊れません。記号を壊せば、これを描いた者に僕たちの存在は知れてしまいますが、鍵記号を壊してしまえば手出しはできなくなります。それまでは決して魔法陣の中に入ってはいけません――

 そう言ってアービィは補助記号の一つを壊し始める。

 

――敵も手を拱いて壊されているわけではなく、そろそろ……――

 補助記号を一つ壊したところでアービィが鼻面を上げ、闇の中を睨み据えた。

 

 バードンがかざしたカンテラに照らされ、四体のキマイラが闇から姿を現した。

 周囲に緊張が走り、巨狼が合成魔獣と対峙する。

 キマイラの背後には、人の背丈の倍はあろうかという一つ目の巨人、三体のサイクロプスが巨大な棍棒を携えて、闇を割って姿を現す。

 

――魔獣は引き受けます。魔法陣の破壊を。不死者が出てくるかもしれませんから、気をつけて――

 そう言うや否や、巨狼の姿が掻き消え、一体のキマイラが倒れ伏す。

 三つの首の根元がもげかけ、そこからは噴水のように血が吹き上がっている。

 

 敵の姿を捉えきれない魔獣が怯んだ隙に、巨狼はサイクロプスの背後に降り立った。

 サイクロプスの肩に前肢を掛けて立ち上がった巨狼の両顎が、巨人の頭を噛み潰した瞬間、巨大な眼球が零れ落ちる。

 水っぽい衝撃音が響き、次いで岩石が砕けるような、腹の底に響く耳障りな音が辺りに充満し、巨人が崩れ落ちた。

 

 仲間の死に激昂した別のサイクロプスが棍棒を振り上げるが、巨狼は突っ込んできたキマイラの三つ首を顎に捕らえ、噛み千切りつつサイクロプスに投げつける。

 魔獣の死体と巨人が絡み合って倒れたとき、巨狼はもう一頭の魔獣の腹を噛み裂いて腸を撒き散らしていた。

 

 魔獣の断末魔に巨人が怯え背を向け逃亡しようとするが、巨狼はその隙を逃さず背中に牙を打ち込んだ。

 もがく巨人を助けようと、投げつけられたキマイラの死体を跳ね除けたサイクロプスが、巨狼に背後から棍棒を打ち下ろす。

 咄嗟に身体を翻し、牙を打ち込んだ巨人を盾に棍棒の一撃を受け止めると、棍棒は巨人の頭を打ち砕いていた。

 

 思わぬ同士討ちに残る巨人がうろたえたとき、巨狼の牙がその巨人の喉を切り裂く。

 最後に残ったキマイラが戦意を喪失し逃亡に掛かるが、巨狼は回り込んで立ち塞がり、正面から巨体同士が激突したかに見えた。

 キマイラは山羊の角を突き立てて突っ込んでいたが、巨狼はそれをかわして三つ首の根元を噛み裂いた。

 瞬転の間に勝敗は決し、周囲に血の匂いが充満する。巨狼の勝利を告げる遠吠えが、辺りの空気を震わせた。

 

 

 アービィが魔獣を叩きのめしていた頃、バードンは不死者の群れに剣を振るっていた。

 魔法陣の記号を片っ端から壊すルティとティアに指一本触れさせまいと、人狼を屠るために鍛え抜いた殺しの技術を、遺憾なく発揮していた。

 当初、純銀の剣を使用してみたが、案の定切る側から傷は塞がり、切断したはずの身体すら元に戻ってしまっていた。

 

 咄嗟に祝福法儀式済みの剣に持ち替え、不死者に対して打ち下ろす。

 紙を切り裂くかのような手ごたえのなさに呆気に取られるが、不死者は藁のように打ち倒されていった。

 不死者は、膂力こそ人間を遥かに凌駕するが、動きの鈍さはどうしようもない。

 相手が捕まらなければいかに膂力に優れようと、そんなものは何の役にも立たない。

 バードンは軽やかに不死者の腕をかわし、剣を振るい続けていた。

 

「いくら斬っても、限がない。いったい何人不死者なんか作りやがったんだ」

 バードンが吐き捨てるが、当然どこからも答えはない。

 あまりに隔絶した戦闘力の差に、不死者たちはバードンを敬遠し、ルティとティアに攻撃の照準を絞ってきた。

 

「こっちなら楽勝だと思ってるんでしょうけどね。そうはいかないのっ!!」

 振り向きざまに、ルティは剣を抜き打ちで薙ぎ払う。

 腰の辺りで身体を両断された不死者が崩れ落ち、突っ込んできた他の不死者たちの足が止まる。

 

「効くかなぁ……」

 ラミアのティアラを髪に飾り、『透過』を唱えたティアが呟きながら姿を消した。

 完全に姿と気配を消され、目標を見失ってうろたえる不死者たちの首を、ティアはいとも簡単に切り落としていく。

 

 

――全部は壊さなくてもいいからね――

 それぞれの脳裏に巨狼からの念話が届く。

 既に魔法陣はその四分の三を破壊され、その役を成さなくなっていた。

 

 東の空が白み始め、不死者たちの動きが慌しくなる。

 バードンたちの攻撃を避けるより、陽を浴びる恐怖が先に立ったのか、雪崩を打って結界内にある社へと逃げ去っていく。

 やがて陽が昇り始め、逃げ遅れた数体の不死者が風に吹き払われる埃のように崩れ去った。

 完全に陽が昇り、周囲が明るくなったときには、集落の中に動くものの影は見当たらなくなっていた。

 

――じゃあ、やるよ――

 巨狼と三人が社の前に集まった。

 昨日と同じ手順が繰り返され、盛大な爆発音と共にターバを脅かしていた不死者の集落は潰え去った。

 

 

 アービィたちは宿営地で仮眠を取った後、イーバへの道を辿っていた。

 途中で南大陸からの増援と撤収を知らせる早馬と行き会い、全員の顔に安堵の色が浮かんだ。

 それは役を成さなくなった早馬の伝令将校も同じで、アービィたちが怪我一つなく戻ってきたことに、安堵の表情を浮かべている。

 イーバで一泊し、任務の疲れを癒した一行はパーカホへと戻る前に、山脈の資源調査に出かけて行った。

 

 バードンが滞在していたときには気付かなかったが、哨戒任務に付いている山脈の民からの聞き取り調査で貴金属や鉄鉱石の鉱脈の他、石炭の新しい鉱脈についての情報がもたらされた。

 その他に、人があまり踏み込んでいなかった高山地帯をアービィが走り回り、温泉を見つけて帰ってきた。

 別行動になっていたアービィが、いつまでたっても戻らないことにやきもきしていたルティに問い詰められ、アービィは温泉に浸かっていたことを白状させられ、しこたま拳を振る舞われていた。

 

 

「ちょっと獣化してごらん、アービィ」

 その夜、ルティに言われ、アービィは営舎の一室で獣化した。

 温泉で魔獣の血を洗い清められたアービィの毛皮は、換毛期だったこともあり、艶やかな冬毛に生え変わっていて、見るからに柔らかそうだった。

 

「これよ、これ」

 ティアがルティを差し置いてアービィの腹に顔を埋める。

 脂っ気が抜けたアービィの腹毛は、ふかふかした肌触りで心地よかった。

 

「ちょっと、待ちなさいって! これは、あたしのっ!!」

 ルティがティアを引き剥がし、アービィの腹に飛び込んだ。

 

「いいもん、こっちをもらうわよ」

 ティアはそのままアービィの尻尾を身体に巻き付ける。

 

 

「何をしてるんだ、お前たちは」

 バードンが酒瓶を持って入ってくる。

 そこでは巨狼が困惑の表情で、女同士の毛皮の奪い合いをなす術もなく眺めているという、異様な光景が繰り広げられていた。

 

「まあ、飲め。とは言っても、その手や口ではグラスは使えんな?」

 バードンは側にあった大皿に蒸留酒を注ぐ。

 一つ余ったグラスは傍らに置き、残りのグラスに蒸留酒を満たし、毛皮に埋もれるルティとティアに手渡す。

 

「とりあえずは、貴様を殺すのは止めだ。異世界から連れ去られ、狼に封じ込められた人間を、人狼として葬り去るのは忍びない。俺の前を、人の姿を借りた狼が歩くのは我慢ならんが、仕方ない」

 そう言って、バードンは憤懣やるかたないという表情でグラスを煽る。

 

――なんか、前にもこんなことがあった気がする……――

 アービィは首を伸ばして、大皿の酒を舐め始めた。

 

 

「今夜は剣を持ってきてないのね」

 バードンが丸腰であることを見て取ったティアは、意外そうに言う。

 ティアは、渡されたグラスを一気に空け、バードンから酒瓶をひったくった。

 

「ああ。今、剣が必要だと思うか?」

 忌々しそうにバードンが答えた。

 

「そうね、いらないわね。ようやく、まともにお話ができそうね」

 ティアの言葉から、刺々しさが抜けていた。

 

 ティアから見たバードンの行動原理は、明快だった。

 人狼狩りは両親の敵討ちを含んでのことだが、他人の幸せや安寧のために自らの命を賭けている。

 北の大地へ来てからの行動も、北の民を思えばこその部分がほとんどで、バイアブランカ王やランケオラータのように南大陸第一の考えでは決してない。

 

 そして、不死者やティアを含めた魔獣への敵愾心も、人々の安寧を思うが故であり、マ教の教義が何にも於いて優先されるなどという原理主義者でもなかった。

 教団内での出世や栄耀栄華にも興味を示さず、マ教の教えが説くところの博愛の精神に則り、北の大地でも南大陸にいるときと何ら変わることなく人々に接している。

 神父としてのバードンの行動原理は、弱者への奉仕であり、正しく聖職者であった。

 

 

 この夜、ティアは人間と人狼の間にできた不幸な子供たちの救済について、再度熱く語った。

 ティアは、それが自分の成すべき仕事であり、使命だと思っている。

 今まで精を食らい尽くし、死に追いやった男たちへの贖罪でもあった。

 

 人狼の救済は、数年単位の短い期間では、到底できるものではない。

 それにはラミアの長い寿命が役に立つ。

 殺されさえしなければ、おそらくティアはあと二、三百年は生きるだろう。

 

 その頃には人間と人狼が自然と並び立ち、愛を育むことが当たり前の世の中になってほしい。

 ちょうど、この目の前でじゃれ合う二人のように。

 ティアは、そう話を締め括り、バードンの反応を窺った。

 

 だが、ついにバードンから賛意を示す言葉は聞かれなかった。

 それでも、数日前のような拒絶の素振りも見られなかった。無言でグラスを空け続けている。

 その表情からは読み取れないが、おそらく心の中では理性と感情が激しく葛藤しているのだろうと、ティアは思っている。

 不死者の集落を潰しに行く前までに見せていた、アービィへの憎悪とも取れる敵愾心は、今は鳴りを潜めていた。

 二人が親しく話をすることはないが、巨狼の前に置かれた大皿が空になれば、バードンは黙って酒を注ぎ足していた。

 

 

 いつの間にか、ルティが巨狼の毛皮に埋もれたまま、寝息を立てていた。

 巨狼はルティを起こさないように身動きひとつせず、器用に舌で蒸留酒を静かに舐め取っている。

 大皿を空にすると小さく鳴いて、バードンにルティの状態を知らせ、目でベッドに連れて行くように訴えた。

 やれやれという表情のバードンが大皿に酒を注ぎ足してからルティを抱え、寝室へ連れて行く。

 ベッドにルティを寝かせ、毛布を被せてから、バードンは飲み直しに戻ってきた。

 

 バードンが戻ってきたとき、既にティアは微睡みかけていた。

 ルティを運んでいる間に、ティアのグラスに満たされた酒の両が減った形跡はない。

 呆れたような表情のバードンを見上げるティアの両目は、今にも閉じられそうになっている。

 そのままの表情で、バードンは無言で手を差し出した。

 ティアは思いもよらないバードンの行動に一瞬眠気が飛んだのか、閉じかけていた目を見開いた。

 

 ティアは少し考え、差し出されたバードンの手を握り、引き寄せるように腕に縋って立ち上がる。

 二人は黙ったまま部屋を出ようとして、床に伸びている巨狼に視線を送った。

 巨狼は、バードンとティアに視線を送った後、空になった大皿をもう一度舐め、大きく欠伸をしてから丸くなり、安心したように目を閉じた。

 

 

 翌朝、山脈を降りる四人には、気の合うパーティという雰囲気こそないものの、以前のようなよそよそしさや刺々しさはなくなっていた。

 バードンは相変わらず会話に加わることはないが、パーティの中では無口なキャラクターという位置付けに見えている。

 往きの行程では馬車の中で不機嫌そうにしているだけだったが、今は適宜交代で手綱を握っていた。

 

「ねぇ、ティア、昨夜さ、バードンさん喰っちゃったの?」

 バードンが御者台に上がった隙に、ルティが興味津々に聞いた。

 アービィから二人がいい雰囲気だったと聞いて以来、どうしても確かめたかったことだった。

 

「さぁ、ご想像にお任せするわ。アービィ、何余計なこと言ったのよ」

 ティアは、ルティの追求など、どこ吹く風と言った様相だ。

 

 実際の所は、聖職者として振る舞うバードンは、既に正体を失いかけていたティアを、やっとのことでベッドまで引きずっていき、ティアもなんとか途中で崩れ落ちることなくベッドに潜り込んでいたというだけだった。

 マ教は性に関する戒律がそれほど厳しくなく、神父であっても妻帯は認められていたし、独身の神父が娼館に出入りすることは珍しくなかった。

 バードンも必要に応じて女を買っていたが、正体をなくした女に跨る趣味は持ち合わせていなかった。

 だが、ティアは思わせ振りな態度でルティをからかい、バードンには聞こうにも聞ける雰囲気ではなかったので、ルティの妄想は膨らむ一方だった。

 

 

 アービィたちがパーカホに戻り、数日が過ぎた頃から、北の大地には本格的な冬が訪れていた。

 最初のうちは、毎日雪掻きしていれば大した労力を要することはなかったが、次第に一日のうちに雪掻きに割く労力の割合が増えていく。

 それでも軍の移動を容易にするため、兵たちは毎日雪掻きに勤しんでいた。

 結果として、多くの集落や山脈の哨戒拠点の連絡は維持されていたが、それ以上に北の民たちが明るい表情になったことが大きな成果だった。

 

 雪に埋もれ、家の周辺すら歩くこともままならない冬は、セックス以外の楽しみを見出すことは困難で、それが次の夏以降の悲劇を多数生み出していた。

 嬰児を捨て、間引く。

 それ以前に妊娠が判った時点で冷たい水に身を浸し、流産を望む母親が後を絶たなかった。

 

 愛する相手の子種を宿すことは喜びでもあるのだが、それは食料の割り当てが減ることも意味している。

 中には態と妊娠して、食料の割り当てを増やしてから、密かに流産を促すような悪知恵の働く者もいた。

 だが、多くは祝福と非難がない交ぜになっている雰囲気を敏感に察知し、産むか殺すかを選んでいた。

 

 そして、当然のことだが、産むことを選んだ女は、暫くの間労働力には数えることはできない。

 それは、次の冬を乗り越えるための、食料を備蓄するべき労働力の減少を意味している。

 

 本来であれば、この世界でもヒトの妊娠期間を考えると、夏から秋にかけて作物が多い時期に子が産まれるように、農作業や狩猟ができない冬の間は性交に励むことは間違ってはいない。

 もっとも、動物の中では例外的に、一年中発情できるようになったヒトにとって、それはどうでもいい理屈にしか過ぎなかったが。

 

 吹雪が続けば暫くは外に出られない日が続くが、約一万の除雪に携わる人手の存在は大きい。

 その他にも同じ数の補給部隊もいる。さすかに舗装工事は滞っていたが、その分補給任務に振り返られていたので、食糧の不足を来すことはなかった。

 北の大地で初めて、明るい表情で過ごせる冬だった。

 

 

 それでも、良いこと尽くめというわけにはいかない部分もある。

 北の民に対して良い感情を持っていない、ラシアス兵によるトラブルが頻発していた。

 さすがに将官たちは、骨の髄まで叩き込まれた軍人精神で、北の民への蔑視や差別を禁じた命令を尊守している。

 しかし、階級が下がり庶民階級が多くなるに従い、心の底に潜む北の民への感情を隠せない者が増えていた。

 

 目に見えない些細なサボタージュも積み重なれば顕在化し、ラシアス部隊の作業効率は他国の部隊に比べ、明らかに劣っていた。

 それだけでなく、北の民へのあからさまな悪感情を隠そうともせず、駐屯地周辺の住民との諍いを起こす者が後を絶たなくなっていた。

 連合軍司令部は、トラブルを起こした者に対して厳罰を持って臨んでいたが、ラシアス部隊の士気の低下には目を覆わんばかりのものがあった。

 連合軍全体の名誉に関わると判断した司令部は、ランケオラータに諮り、ラシアス部隊の後送を決定し、ウジェチ・スグタ要塞の勤務に限定せざるを得なかった。

 

 ラシアス部隊の傍若無人な振る舞いに眉を顰めることが多かった他国の部隊にも、ラシアス部隊の後送は悪影響をもたらしている。

 ウジェチ・スグタ要塞はラシアス国内の施設であり、そこでの勤務は地元にいることとたいして変わりがない。

 ウジェチ・スグタ要塞勤務内でのローテーションで、容易に故郷に帰省することが可能だった。

 

 北の大地に展開する部隊が減り、ローテーションの間隔が長くなったことによって、当地に滞在する日数が増えていた。

 これによりホームシックにかかる将兵が増え、それに伴う士気の低下が無視できなくなり始めていた。

 特に生まれ育った環境と当地とが大きく違う、南大陸南部出身の兵にその傾向が著しい。

 司令部やランケオラータは、抜本的な対策の必要に迫られていた。

 

 

 その状況下に、衝撃的な報せが飛び込んできた。

 

 

 ターバ陥落。

 

 

 穏やかな晴れた日のことだった。

 その日の雪掻きを終え、汗を拭う兵士たちに温かい湯気を上げる炊き出しが振る舞われようとしていたとき、一騎の早馬がパーカホに飛び込んできた。

 息せき切って司令部に転がり込んだ兵は、イーバからの伝令だった。その兵が知らせた凶報は、ターバが一夜にして壊滅し、周辺の集落も最北の蛮族に恭順を誓ったというものだった。その後何人かの伝令が駆け込み、パーカホからも情報を求める伝令が駆け去る。

 あまりにも衝撃的な報せに情報が錯綜し、正確なことが判らなくなってしまっていた。

 

 最初の伝令が駆け込んだとき晴れていた空は、凶報が連れてきたかのように雪雲が広がり、僅かの間に吹雪へと変わっていった。

 北の大地の冬にありがちな天候の急変だったが、待ち受ける運命の過酷さを思わせ、前途への不安を掻き立てるに充分だった。

 特に情勢が安定し、次の春への希望が満ち溢れていただけに、北の民でも中央の民の落胆振りは、傍で見ていても目を覆わんばかりのものだ。

 

 吹雪のせいで続報が入らなくなり、人々の不安は膨れ上がる一方だ。

 集落に住む古老の天気予想も、ラシアスで垣間見せたルティの天気予想も、当分の間吹雪が続くというもので、情報収集のための斥候を出すことも、生存者の救出部隊を送ることも不可能に成っていた。

 後方のパーカホですらこの混乱振りであり、一気に最前線と化したイーバの混乱振りが忍ばれる。

 

 待つだけではどうしようもないと、吹雪をものともしないアービィが密かに獣化し、ターバへと長躯する。

 そして、以前不死者の集落を叩き潰した際に拠点とした宿営地で、たった一人生き残ってはいたが意識不明になっていたターバの民をイーバまで連れ帰った。

 そこで息を吹き返したターバの民が話した内容は、イーバに詰める兵の背筋を凍らせるには充分すぎるほどの内容だった。

 

 

 アービィたちが不死者の集落を叩き潰してから十日ほどが過ぎた、どんよりとした今にも雪が零れ落ちてきそうな曇り空の下、ターバの門を潜った小規模な集団がいた。

 彼らは最北の蛮族であり、不死者への転生を強要されていたが拒絶したため迫害を受けて続け、それに耐えかねて彼らの領地から逃れてきたと言った。

 誰もが疲れ果てた表情を浮かべ、荷物もほとんど持たず、衣服もみすぼらしい物だった。

 その境遇に同情したターバの民は、彼らを温かく迎え入れ、当分の間安心して過ごせるような空き家を提供した。

 周囲の家々では炊き出しが行われ、ほぼ着の身着のままで逃げ出してきた彼らに食を提供している。

 

 そして、その夜、惨劇の幕が上がった。

 逃げてきた集団に提供された家屋の扉が、内側から強烈な爆圧で吹き飛ばされた。

 何事かと集まってきたターバの民が見たものは、長い犬歯を唇から覗かせ、青白い顔色をした不気味な人型の集団が、家屋の扉から湧き出る煙とともにゆっくりと姿を現すところだった。

 

 呆気に取られて立ち尽くすターバの民に襲い掛かった人型の魔獣は、手近に人々の喉笛に長大な犬歯を突き立て、血液を吸い始めた。

 血を吸われる人々の顔色が、見る間に白くなり、纏わり付く魔獣と同じ色合いに変化する。

 周囲の人々が仲間の窮地を救おうと、人方の魔獣に飛びつき引き剥がそうとするが、恐ろしいほどの膂力に人間の力は通用しなかった。

 

 やがて、血を吸われた人々の顔は、元は誰だったのか解らないくらい干乾びたようになり、犬歯も魔獣同様に長く伸びていた。

 次いで周囲の人々に魔獣同様に襲い掛かり、犠牲者の喉に喰らいつき、その血液を吸い始める。

 あとは次々に吸血魔獣が増殖し、扉を閉じて眠りに付いている家々にも雪崩れ込んだ。

 

 朝が訪れ、吸血魔獣は朝日を浴びた者から灰と化し、崩れ去っていく。

 一晩でターバの民の約五分の一が吸血魔獣と化し、そして今灰と化してしまっていた。

 怒り狂ったターバの民が、最北の蛮族が占拠した家屋を取り囲み、口々に出て来い、町から出て行けと罵声を浴びせ始め、投石も始まった。

 

 だが、その家屋の窓には板が張られ、扉も修復されている。

 数人の若者が得物を手に扉をこじ開けて中に突入したが、彼らを待っていたものは灯り一つ燈されていない深い闇と、姿を見ることはできないが多数の吸血魔獣だった。

 次々に血を吸われ、魔獣へと変わり果てていく若者たちの悲鳴が家屋から響き、やがて静かになる。

 そこへ突入しようという勇気を持ち合わせていたものは、皆無だった。

 

 そして、その夜も多くの吸血魔獣が町に這い出した。

 それどころか、灰になったはずの多数の吸血魔獣が月明かりを受けて復活し、これもターバの民を次々に同属へと変えていく。

 わずか二晩でターバの民のほとんどが吸血魔獣へと転生させられ、周囲の集落へのその魔手を伸ばし始めた。

 

 それまで中央を席巻していた不死者と違い、朝までに進んだ所で灰と化しても、月明かりがあれば復活してしまう。

 つまり、行動範囲に制限がなくなったということだった。

 

 不死者に転生していない最北の蛮族が吸血魔獣に付き従い、周囲の集落に対して最北の蛮族への恭順を迫った。

 断った集落は、その夜のうちに皆殺しにされ、その死体が他の集落に投げ込まれる。

 事ここに至り、ターバに従っていた集落は、最北の蛮族の軍門に下り、中央部は最北の蛮族が支配する地になってしまった。

 

 

 やっとのことでここまで話したターバの民は、後を頼むと言い残し息絶える。

 ターバの民を丁重に葬ったアービィは、山脈拠点詰める兵たちに哨戒を厳重にするようにと念を押してから、パーカホへと戻って行った。

 

 ランケオラータやルム、プラボックに連合軍司令部といった、戦の首脳陣を前にアービィが状況を説明した。

 吹雪の中、どうやって情報を得てきたかと訝しむ声もあったが、あまりの緊急事態にそんな些細なことを詮索している余裕はなかった。

 誰もが対最北の蛮族の戦略を立て直さなければならないことは理解していたが、状況の急変に思考が追い付いていない。

 

 北の大地は、混迷の中に叩き込まれていた。


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