狼と少女の物語   作:くらいさおら

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第63話

 「アービィ・バルテリー殿がこちらの隊におられると聞いた。私は、ラシアス王国子爵ウェンディロフ・ラティフォン・ドン・テネサリム。是非、お目通りを願いたい」

 朝のグラース河川敷に、ウェンディロフ子爵の大声が響いた。

 

 

 昨夜、アービィたちがグラース河の河川敷で野営していた頃、増水が収まり沈下橋が水面から顔を出すと同時に、一騎の早馬がソロノガルスク側からアルギール側へと駆け抜けていた。

 

「夜分遅くに恐れ入ります。ウェンディロフ子爵様の隊とお見受けいたします。急ぎ、お耳に入れたいことがございまして、まかりこしました。お取次ぎをお願いいたします」

 商人に姿をやつした間諜が、ウェンディロフの投宿する宿の入り口で口上を述べ立てる。

 

「何事か。ここをウェンディロフ様の幕舎と知っての狼藉であれば、容赦はできんぞ」

 衛兵を務める兵が、間諜の正体を悟ることなく威嚇した。

 

「それ故に、参上した次第。どうかお取次ぎを」

 ここで騒ぎを起こすのは得策ではないと判断した間諜は、身分を申告することなく、辛抱強く兵に訴えかける。

 

 だが、子爵の威を借る兵は、自分が兵として取り立てられるまで同じ階層に属していた姿の者を、完全に見下していた。

 相も変わらず、この喧しい下心の塊をどうやって追い払うか、そればかりを考えていた。おおかた、儲け話や子爵に取り入るために、ここへ来たのだろうと考えている。夜も更け始めた時間に、子爵様にそのような者を取次ぎなどしたら、その場で軍を放逐されかねない。

 それ故、彼は半ば必死になって、この男を追い払おうと無駄な努力を重ねていた。

 

「さようでございますか。では、いた仕方ございませんな。……引っ込んでろ、下っ端」

 間諜は兵に当て身を一発食らわせ、もう一人の衛兵も同じように眠らせ、宿に入って行く。

 そして、大隊の司令部に見知った顔を見つけると、衛兵不在の状況を説明してから子爵への面会の許可を求めた。

 

「相変わらずだな。もうちょっと辛抱強くないと、間諜としては失格なんじゃないのか?」

 

「まぁ、そう言うな。あとな、衛兵は処罰するなよ。結果はどうあれ、正規の衛兵じゃないんだろ、あの二人」

 司令部要員にからかわれ、間諜は頭を掻きながら答える。

 

「解っている。その責はこちらだからな」

 間諜がいつ何を報告に来るかは解らない。

 それに対して今回のようなことばかりでは、情報の伝達に重大な齟齬をきたしてしまう。

 衛兵を務める者には、接触の可能性がある間諜については周知してある。

 だが、ここ数日の足止めで、そのようなことは全くなくなっていたため、全体の士気が緩んでいた。

 

 この夜、衛兵手当てを欲しがった二人の下級兵が、衛兵当番に交代を申し出ていた。

 徹夜での門番はすることがほとんどなく、退屈極まりないものだ。ほとんど立ちっ放しで、一定時間ごとの交代時しか休憩も取れない。交代を持ちかけられた衛兵当番は、バレたら懲戒モノだと最初は断っていたが、名義はそのままで、手当ても三分の二、残りの三分の一はそのまま本来の当番がもらえばいいと言われ、退屈から逃れられるとつい交代してしまっていた。

 間違いなくこの四人は懲罰対象なのだが、それを見落とした者も懲戒の対象となるため、この司令部要員はここで揉み潰すことにした。

 つまり、彼が最終的に責任を取る立場にいたのだった。

 

「子爵様は、どちらにおいでだ? 案内してくれ。急ぎ、お耳に入れなければならんことがある」

 間諜は、子爵が寝てしまう前に、なんとしても伝えなければと焦っていた。

 それから暫くして、幕舎はとんでもない喧騒に包まれた。

 

 

「どうしようと仰るのです、ウェンディロフ様。決着は着いているんです。もう一回あなたと決闘などする必要を、僕は認めません」

 アービィは冷たく言った。

 北の大地へきたら本気で受けてやるというアービィの言葉は、立会人が確保できず不正を防げないと一蹴されていたため、あとは何とか逃げ切るしかないと必死になっていた。

 

「私は降参などしておらん。まだ充分戦えた。それに、まだ生きている。従って、あのときの決着は着いているとは認めん。もし、受けぬと言うのであれば、卑怯者と喧伝されると思うことだ」

 ウェンディロフは言い返した。

 もう既に一時間以上も、押し問答を続けている。

 

 グラース河に架かる橋の両側に、アービィたちを護衛する特編中隊とウェンディロフ大隊が対峙した。

 両隊から隊旗を携えた騎士が橋上に出て顔を合わせ、それぞれの所属と任務を確認した後、ウェンディロフ大隊が道を譲っていた。

 渡河後、道を譲られたことに対して特編中隊指揮官がウェンディロフに礼口上を述べ、返礼の際にウェンディロフがアービィとの面会を求めたのだった。

 

 副官の後押しを受けた指揮官だったが、ウェンディロフの武勇伝と、子爵と騎士という階級の違いには抗しきれず、腰が引けてしまっていた。

 ヘテランテラの威光を以てすれば、子爵如きが何を言おうとどうということはないのだが、今ここにいない権威と眼前で威嚇する権威に板挟みにされていた。

 結局、副官が尻を叩こうかと思案しているところへ、面倒になったアービィがティアを伴ってやってきたのだった。

 

 アービィは、獲物を見つけた肉食獣の眼になったウェンディロフを一瞥し、指揮官に人払いと陣幕の設置を頼む。

 四方に陣幕を張り巡らせ、誰からも中が見えないようにしてから、アービィとティアが幕を上げてウェンディロフを招き入れた。

 不安げな指揮官に、アービィは眼で安心しろと伝え、副官には完全な人払いを徹底させた。

 

 

 アービィにしてみれば決闘などには全く価値を見いだせないのだが、ウェンディロフにとっては存在を否定されたままなのだった。

 是が非でも一矢報いるか、いっそ殺されてしまわなければ立場がない。それに、御前での決闘の際には、素手で剣に挑むなどという、油断を誘うような卑怯な手を使われた。同じ武器と防具を用い、条件を等しくしなければ優劣を付けることはできない。

 同条件で戦え。それが ウェンディロフの言い分だった。

 

「僕は急ぐんです。それに、ウェンディロフ様はここで死んで任務をどうされるおつもりですか?」

 もういい加減にして欲しいという意識が、アービィに迂闊な一言を言わせてしまった。

 今の言い様では、 ウェンディロフが負けることが前提だ。

 

「聞き捨てならん!! 私に勝ち目など無いと言うか!!」

 ウェンディロフが激高する。

 事実、狼が完全に同化したアービィに対して、彼に勝ち目など万に一つもない。

 

「もう、見ていられませんわ。ウェンディロフ様、どうしてもアービィに殺されたいのでしたら、まずあたしと立ち合ってからにしていただけませんか?」

 いつの間にかラミアのティアラを髪に飾ったティアが、二人の会話に割って入る。

 

「女、身の程知らずもいい加減にしろ。私に――」

 

「あなたは彼女にも勝てません」

 ウェンディロフが吼えようとしたところで、ティアの意図を悟ったアービィが畳みかける。

 

「おのれっ!! この場で決してくれるわ!!」

 ウェンディロフが立ち上がると同時に、ティアの指がウェンディロフの額に触れる。

 このとき、ティアは『誘惑』の詠唱を完了させていた。

 

「あなたは、ここで、することは、何も、無い」

 一言ずつ、区切るようにティアが言う。

 

「……ここ……で……することは……なに……も……な……い」

 ティアの指が触れた途端、ウェンディロフの眼から闘気が失せ、呆けたようなしまりのない顔に豹変した。

 

 ウェンディロフは、ティアの言葉に追随するだけだ。

 ティアの言葉には、『誘惑』を掛けられた男には抗うことなど不可能な強制力が発生する。本来であれば、このまま男の命が尽き果てるまで性交にのめり込ませるのだが、今はそうするつもりはない。

 ティアは一見愛おしそうな仕草でウェンディロフの頬を撫でながら、そのまま命令を続けた。

 

「今すぐ、ここを立ち去りなさい。そして、全てを忘れる。そう、アルギール城でアービィと立ち合ったことも、アービィという名前も」

 そこまで言って、ティアはウェンディロフから手を離した。

 

「お客様がお帰りです。どなたか、送って差し上げて。何もおもてなしできないなんて中隊の名誉に関わりますから、お茶を差し上げてからお願いします」

 ティアが陣幕の外に向かって言った直後、ウェンディロフは踵を返し、自ら陣幕を上げて外へ出た。

 後は両部隊の将兵に任しておけばいい。

 

「お疲れ、ティア。ありがとう。ごめんね、良いエサになりそうだったのに」

 アービィが礼を言う。

 

「そうねぇ。昨夜のうちに来てくれたら、搾り取って帰してあげたのに、ね。その分アービィが――」

 

――冗談はそこまで、ね、ティア!!――

 皆まで言わせずルティの思念が届いた。

 思念だけではなく、火傷しそうな熱まで伴っているようだった。

 いや、間違いなくティアは熱を感じ取っていた。

 

――ちょ、そそそそんにゃ、ここととは……からきゃってうだけなのよっ――

 恐怖したティアは、意識の上であるにも拘わらず発音を噛みながら念話を返す。

 そして、ふとアービィを見ると、蒼い顔から冷や汗を滝のように流していた。

 ん? 何でルティ気付いたの?

 

 

「あちらの隊に伝令をお願いできますか?」

 司令部になっている馬車の中で、ルティが指揮官に言った。

 

「はっ!! 伝達内容を願います。」

 師団長の命令を全うできなかった悔恨を滲ませつつ、指揮官は直立不動の姿勢でルティに返答した。

 

「あの大隊からは、誰もこちらに来ていない。それをあちらの司令部に徹底させてください。」

 ウェンディロフがアービィに面会した事実があってはならない。

 彼が呆けているうちに、大隊司令部にその旨を伝えておかなければ、誰かが蒸し返しかねない。

 いずれ、国元に戻った際にはアービィと立ち合ったことは思い出すだろうが、当面はその心配はない。

 

「はっ!! 誰もこちらには来ていない。彼の大隊に伝令を出します」

 ルティの言葉を復唱し、指揮官は司令部要員に命令を下す。

 

 副官は、ルティの配慮に心の中で最敬礼していた。

 もちろん、ウェンディロフが追いかけてくることを防ぐためなのだが、アービィと彼が面会したという事実はヘテランテラの耳に入れるわけにはいかない。この実直で素直で、このまま戦場に出せば真っ先に突撃して戦死しそうな若者の経歴を傷付けることになる。

 いっそのこと、そうなれば彼を死から遠ざけられるものを、と思いながらも、副官はルティの配慮に感謝せずにはいられなかった。

 

 指揮官から司令部付きの伝令要員に命令が下され、司令部の面々が馬車から出て行く。

 指揮官は隊列の掌握に、副官は参謀たちを引き連れ陣幕の後片付けや、宿場内の慰撫に出掛けていった。

 

「さて、どうしてくれましょうかねぇ、このアホ蛇とボケ狼」

 振り返ったルティが向けた視線の先には、恐怖に顔をひきつらせ、小刻みに身体を震わせるティアとアービィが正座させられていた。

 

 

 やがて、何事もなかったかのように、両部隊は離れ、そして進軍していく。

 特編中隊の後ろから、郵便の早馬を装った間諜たちがアルギールへと急いでいた。そのほとんどはビースマックの政変が、現体制側による鎮圧が成功した情報と、アービィたちの動向を伝えるものだった。

 遠からずウェンディロフ大隊には、帰還命令が出されるはずだ。

 

 今の時期に国境を越えさせる必然性がない。ソロノガルスクではヘテランテラが待ち構えているが、命令系統が違うため帰還までは強制できない。

 だが、国境侵犯という赤っ恥を掻くことは防げよう。その間にアルギールのニムファが賢明な判断を下すことを願うだけだ。

 万が一にもウェンディロフ大隊が独断専行するならば、ヘテランテラ率いる近衛第二師団は国の名誉を守るため、ウェンディロフ大隊を殲滅する腹積もりだった。

 だが、その心配も当面は去ったものと思われた。

 

 

 特編中隊は、グラザナイに逗留することで発生するであろう行程の遅れを、いまのうちに稼いでおくために、グラース河をわたった以降は野営を基本としていた。

 日没時にちょうど宿場に到着できるのであれば宿を取るのだが、わざわざタイミングを合わせるために行軍の速度を調整することはなかった。当面の危険が去ったため、アービィたちが乗る馬車を騎士が取り囲むこともなく、アービィたちが御者台に出る機会もできている。

 アービィは御者台から周囲の景色を眺めながら、以前この周辺の山々を獣化して走ったことを思い出していた。

 

 以前この道を通ったとき、アービィは人狼であることに押し潰されそうになっていた。

 それから一年が過ぎ、狼と同化している今は、そのことを辛いと思うことはなかった。

 肩にある『日』型をした痣の謎も異世界への召喚ということで解明され、そのことについても自分の中で決着が着いている。

 

 普通の人であれば、何の前触れもなく異世界に召喚されたなら、言葉や食べ物、風習の違いに発狂しかねない。

 切羽詰まっていたとはいえ、やはり子供の考えることは詰めが甘すぎる。

 もし、あの邪悪な気配を纏う魔導師にして邪神の神官グレシオフィが召喚途中に干渉せずに、そのままニムファの前に現れていたら、僅かな日数でそうなっていた可能性が高い。

 また、狼に封じ込められる際に、日本人としての記憶やアイデンティティ、価値観が残ったままであったら、それでも発狂していたかもしれなかった。

 

 アービィにとっての二つの幸運、グレシオフィにとっては二つの齟齬だったが、そのおかげで生き延びることができたうえに、ルティに巡り会うこともできた。

 楽観的な性格に育ったアービィは、召喚や人狼への転生という点においては、ニムファやグレシオフィを怨むこともなくなっていた。

 

 既にアービィはこの世界の言葉でモノを考え、夢を見ている。

 ドーンレッドに召喚のことを聞かされた夜や、狼が拗ねていた夜に見た夢に出てきた自分は日本語を話していたが、受け答えする自分はこの世界の言葉だった。記憶が戻ってくるに従い、日本語で会話する比率は上がったが、思考はこの世界の言葉のままだった。

 もちろん、今でも日本語でモノを考えることはなく、時折これは日本語ならなんて表現するか、頭の中で翻訳する程度になっている。

 このことは、アービィがこの世界の住人として、完全にアイデンティティを確立したと言って良い。

 

 もう一つ、味覚の点でも狼に封じ込められたことは、幸いだった。

 日本人だった頃、学生時代に貧乏旅行で香港へ行ったときに、海辺にある現地の労働者向けの食堂に入ったことがあった。当然有名な高級料理を食べられるだけのカネなどなく、ローカルな安いものしか頼めなかった。

 そのときに出てきた臓物料理は、味こそ抜群に旨かったものの、口内一杯に広がる内臓の生臭さに閉口したものだった。

 

 この世界において、庶民が最も口にする機会が多い肉料理は、牛や豚、山羊、羊、鶏に相当する動物の内臓を煮込んだものだ。

 これも慣れなければ内臓の生臭さで飲み込めないかもしれなかったが、狼としてだけで生きていた頃に獲物の内臓を生で喰うことに慣れていたため、その臭いにやられることはなかった。

 

 勇者降臨を妨害しようとした行為が、却ってその勇者をこの世界に順応させてしまったという皮肉な結果を招いていたのだった。

 アービィは、召喚されたことは許しがたい暴挙だとは思っているが、そんなに悪い人生ではないと思っていた。

 出発の前のルティによる制裁は、もちろんそれぞれの悪ふざけが過ぎたものであり、険悪な雰囲気など欠片も残していない。

 こんな平和な時間がずっと続けばいいと、アービィは御者台から周囲の景色を眺めつつ、そう思っていた。

 

 

 アルギールを前にして、アービィたちと司令部は頭を悩ませていた。

 何もなければこのまま王都を突っ切り、グラザナイへと向かえばいいが、間違いなく間諜からコリンボーサあるいはニムファにアービィのことは伝わっているはずだ。ニムファがどう出るか判らないし、ここで余計なトラブルに巻き込まれたくはない。ウェンディロフが相手であれば、ヘテランテラの威光や権威でなんとでもなるが、ニムファはそれ以上の威光や権威、そしてなにより権力を握っている。

 騎士階級に属する一介の指揮官など、彼女の前では吹けば飛ぶ綿埃以下の存在でしかない。

 

 アービィも、できればあのねぇちゃんには二度と会いたくないと思っていたので、王都を迂回する方針にはすぐ決した。

 だが、どう迂回するかで、全員が頭を悩ませている。

 城壁の外側を巡らせてある外周路を通るのは、即発見されるので検討するまでもなく却下。最も迂回距離が短いのだが、論外だった。馬車が通れないような獣道も論外。その他にある細い間道も、二百人規模の中隊が隊列を組んで行進するにはあまりにも細すぎ、また途中の集落も小規模で中隊の腹を満たすだけの食糧の備蓄もない。

 さらには中隊規模で野営ができる平地も少なかった。

 

 なぜなら、王都周辺の平地は全て畑として活用されているので、そこに踏み込んで陣を張るなどという暴挙は、如何な近衛師団といえど許される行為ではない。

 アルギールで食料を補充するという、大ボケな進軍計画を立てたのは、何事もそつなくこなすベテラン下士官という評価を得ていた副官だった。

 もっとも、王都で食料調達することの危険性に気付いた者は皆無であったので、誰一人として彼を責める資格のある者もいなかった。

 

「あの、別に中隊が纏まって行動する必要はないんじゃないですか?」

 ティアが遠慮がちに発言する。

 そう、別に必ずしも中隊が全員揃って行動する必要はなかった。必要に応じて分離しても良い。アービィたちを群衆の中に埋もれさせなければ、ということに拘るあまり、発想が硬直化していた。

 なによりも、ウェンディロフから隠す必要は、もうなくなっている。

 

「そうであります。では、小隊ごとに行動するということでよろしいか、諸官」

 副官がティアの発言を受けて続けた。

 

「では、中隊は小隊単位の六隊に別れ、行動するものとする。尚、司令部は第一歩兵小隊に随行するものとする。アービィ様たちも、ご同行ありたく存じます。いかがでしょうか」

 指揮官が訊ねた。

 特編中隊は、定四十名の歩兵小隊が四個小隊、定員二十名の騎士小隊が二個小隊で編成されている。

 騎士小隊に馬車を随伴させることは、騎士の機動性を殺すだけになる。このため、司令部とアービィは歩兵小隊に同行することが望ましかった。

 

「はい。そうさせていただきます」

 ルティが代表して答えた。

 

「了解であります。特編中隊は、アルギールを迂回するため、これより小隊単位の行動に移る。集合は明後日。場所はアルギールからグラザナイへ向かうラシアス街道上の集落、ヤツークとする。足の速い騎士小隊は先行し、ヤツークにおける受け入れ態勢を完了させるものとする。各小隊の行動開始は、明朝日の出とする。途中、野営は農作業の妨げとならない場所を適宜選ぶこと。以上、下達よろしくありますか?」

 副官が指揮官に許可を求め、許可を受けるとそのまま各隊へと伝令を走らせた。

 

 副官の手際の良さは、いつもながら惚れ惚れとするほどだ。

 それでいて上官のメンツを潰すようなマネは、一切していない。おそらく、副官の頭の中では今後の行動指針が既に決まっており、ここまでの行程でも、選択肢のある場面では上官が自発的に考えたと思わせるように仕向けつつ、自分の思い通りに事を運んでいたのだろう。

 そう考えると、アルギールで食料調達の予定を組んでいたことも、いつ若い上官がその危険性に気付くか、試験をしていたのかと考えられなくもなかった。

 

 

 第一歩兵小隊は、アルギールを南に迂回し、へ抜ける間道のうち最も南に離れた韜晦路を取った。

 昨夜行われた韜晦路をどうするかの検討の場では副官は主導を取ることはなく、分隊長以上の下級指揮官を集め、自由に討議させた。指揮官が口を出しそうになれば話題を逸らしてこれを止め、小隊内の討議の方向性がずれてくれば、さり気なく下士官にこれを伝えていた。

 この場は、あくまでも、小隊内から結論を上げなければならない。

 指揮官はその決定に誤謬がないと認められたら、あとはその責任を取るだけということを、副官は無言のうちに教えていた。

 各隊から韜晦路の決定が伝えられ、司令部がそれを調整のうえ了承し、それぞれの進む道が決められた。

 

 翌朝は、夜明け前から出発の準備が進められ、日の出と共に各隊はそれぞれの韜晦路へと散っていく。

 第一歩兵小隊は、全ての小隊が発ったことを確認し、最後に出発の号令が掛けられた。

 アービィたちが乗る馬車の周囲を歩兵ががっちりと固め、どこから魔獣の襲撃があっても全て跳ね返すという意志を漲らせている。

 

 駅馬車が通っている主要街道周辺は、馬車警備のラシアス国軍によって魔獣は狩り尽くされている。

 だが、間道や主要街道から外れた地域では、王都周辺といえど魔獣が出没することがある。小隊の誰もがアービィの戦闘力を承知してはいるものの、師団長閣下の賓客の手を煩わせるわけにはいかないと、士気は高揚していた。

 ヤツークまでは一本道で迷う心配もなく、ここでもアービィは長閑な景色を眺めて楽しむことに決めていた。

 

 

 アービィたちがアルギールを迂回している頃、ランケオラータに随伴する独立混成大隊の主席参謀は、ラシアス王国の摂政ニムファへの謁見を恙なく終わらせ、ベルテロイまで戻っていた。

 予定通り、インダミト所属の軍がラシアス国内を通過すること、ウジェチ・スグタ要塞で休養を取ることの二点について許可を求めた。

 そして、一部閣僚の反対を無視したニムファから、要求通りの許可を得ていた。

 

 一部閣僚が反対した理由は、アーガスの独走で欠員が出たままのインダミト駐留軍の補充に回すべきだという意見が一点。

 北の大地のインダミトによる独占は認められない、という意見が一点だった。

 

 前者については、この春以降北の民の南下圧が急激に減少していることで、補充の必要性が薄れていたこと。

 秋以降帰国していたストラーとビースマックの駐留軍が、同様の理由でこの春の再派兵を遅らせているが、特に影響がないことで説得力を失っていた。

 ストラーにしろビースマックにしろ、国内情勢がそれどころではないということが本当の理由だが、それは当然伏せている。

 

 後者については、インダミトが北の大地を領有したわけではない。

 従って他の参入を妨げるものは全くなく、ラシアスの意向次第でいくらでも北の大地で商業活動は可能だったが、国内に蔓延する北の民への偏見や蔑視がラシアスの人々に地峡を渡らせないだけだった。

 ごねる閣僚を黙らせたのは、インダミト財務卿ハイグロフィラ公が作成した通行税や関税による莫大な収がラシアスに落ちるという試算表だった。

 

 この試算表を見て黙り込んだ閣僚たちを無視して、主席参謀はニムファに許可を迫った。

 だが、コリンボーサ宰相が通行税の積み上げを言い出し、紛糾し掛けたところで主席参謀は切り札を切った。

 

 最北の蛮族の驚異をここで持ち出し、アーガスの不始末をこれで雪ぐと言ったのだった。

 もちろん、ルムや中央の民との交渉については、伏せたままでだ。ただでさえ、北の民の驚異を間近に感じているラシアスだ。インダミトがその肩代わりをするといっている。それどころか資金の供出も求められず、戦略物資の運搬については通行税と関税を掛けても良く、おまけに不足分はラシアス国内で調達するという。

 少々の戦略眼の持ち主であれば、これほどの好条件には裏があることくらい、すぐに見抜くだろう。

 インダミトが北の大地を独占しようと目論んでいることは明白だ。

 

 だが、真っ先に財務卿が、この提案に飛びついた。

 ラシアスの財政は、北の民を撃退するためもあって、軍事費が占める比率が他国に比べ異様に高い。その軍事費を圧縮できるうえ、国庫への直接収入まで確保できるのだ。

 これを逃す手はないと、財務卿は考えた。

 

 次いで内務卿が賛成に回る。

 北の民の流入は、国内の治安を悪化させる要因だった。もっとも北の民がらみの犯罪の多くは、不法入国を除けば差別や蔑視の行き過ぎで暴力に発展させているラシアス国民によるものがほとんどなのだが、いくら北の民であっても人を殺したり傷付ければ犯罪だ。さらには人売や街娼といった非合法な性産業の取り締まり、それに伴う性病の対策にも、多大な予算が喰われていた。

 内務卿も、ある程度他国に利があったとしても、これは認めるしかなかった。

 

 外務卿は、腹の中では最初から賛成だった。

 インダミトが大陸の盾を買って出るなら、他国に頭を下げて回る屈辱から解放される。戦略物資の輸入も、援助という形を取っている以上、通常の関税どこかあらゆる税を取ることはできなかった。一方的な取り決めを、覆すことができない無力感から解放される。

 これだけで外務卿が賛成するには、充分すぎるほどの理由だった。

 

 主要閣僚五人のうち、三名が賛成に回ったのを見て、宰相コリンボーサも賛成に回る腹を決めた。

 インダミトに借りを作るのは癪だが、ラシアスの国情はのっぴきならないところまで追い詰められていることを、多少なりとも政治感覚を有する宰相は理解していた。

 ニムファに忠誠を誓うことは、カリスマ性を欠片も持たないことを自覚している自分の権勢を保障するためだったが、国自体が傾いては権勢などにどれほどの価値が残るのかくらいは弁えている。

 相変わらず摂政は両隊陸の覇者になることを望んでいるが、そんな夢物語に付き合っている余裕はない。

 如何にして未だ乙女心を捨てきれない摂政を説得するか、宰相は賛成の声を挙げる機会を窺いつつ、頭を捻り続けていた。

 

 当のニムファは、さらに甘い考え方をしていた。

 現王である父が健在ならば、まずもって許されるはずのない甘さだ。

 この世界に植民地という概念はないが、ニムファはインダミトの目論見をそれに近いイメージで捕らえていた。インダミトに北の大地を平定させ、然る後にインダミトを我が物にすれば、北の大地も転がり込んでくる。切り札であるはずの勇者に、簡単に袖にされた以上、それに替わる道具を探し出す必要があった。そこへインダミトからの提案だ。

 彼女は、完全にバイアブランカの掌の上で踊らされていた。

 

 最後まで反対し続けているのは、最近政務に復帰した軍務卿ただ独りだ。

 軍事費の削減は、所謂キックバックの減少に他ならない。既にあまりの無能さに嫡男はウジェチ・スグタ要塞総指揮官を罷免されている。異動ではなく罷免だ。

 息子のメンツなど知ったことではないが、これでウジェチ・スグタ要塞から入るはずだった利権が完全にふいになった。

 

 後釜は謹厳実直の騎士団長ラルンクルスだ。

 この男が金品を私するとは思えず、これから入るはずだった金蔓を叩き切ることは間違いない。

 これ以上入るはずのカネを削られてたまるものかと、軍務卿は強固に反対し続けていた。

 

 結局ニムファは、宰相コリンボーサの思惑通りに動いた。

 軍務卿を黙らせ、如何にも民を思う余り他国の温情に縋らなければならない悲劇の女王を演じているが、その美貌の裏に隠していると当人だけは信じている醜悪さは、口元を隠す扇を通して滲み出てしまっていた。

 ニムファは、労せずして最良の果実を手にできる悦びを隠しきれず、独立混成大隊の参謀長に了承の旨伝えるようにコリンボーサに命じた。

 コリンボーサも、これでインダミトの大動脈を抑えたことを理解し、特に異論なく命令を受領する。

 

 もちろん、バイアブランカ王は、将来ラシアスが北の大地との交易に、巨額の関税や通行税を掛けてくるであろうことは読んでいた。

 そのときはビースマック側の沿岸を通り、船による交易に切り替えればよい。

 フォーミット以南の小群島から砂糖を輸送する際に、船による輸送量が荷馬車に比べて格段に多く、効率が良いことに彼は気付いていた。

 ストラー側には砂浜が多く、寄港に適した港が少ないため、岩礁地帯が続き天然の良港が多いビースマック航路の方が安全と考え、既にパシュースに根回しを命じてあった。

 

 

 参謀長は、ニムファから領内通過及びウジェチ・スグタ要塞での休養の許可を得ると、すぐにベルテロイへと取って返した。

 その際にラシアス街道とラシアス・ストラー街道の分岐点の町ガルーカか、ストラーとの国境の町クルチャトスクで、ランケオラータにこの情報が伝わるように同行していた密偵を派遣している。

 参謀長はアルギールで購入した馬を駆り、ラシアス街道までの間道を一気に駆け抜け、僅か六日間でベルテロイに帰還していた。

 

 参謀長の帰還を待って、独立混成大隊はラシアス街道を北上する。

 先行する偵察小隊は、戦ではないため前方の危険察知を主目的とする必要もなく、先々の宿の手配に走っていた。

 いきなり六百人規模の宿泊客を捌ける宿場町など存在しないことは当たり前で、宿が前もって準備を整える猶予を与えるための当然の措置だった。

 

 北の大地を目指す三つの集団は、着実に歩を進めていた。


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