狼と少女の物語   作:くらいさおら

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第62話

 翌朝、陽が昇る前から幕舎前の庭は、喧噪に包まれ、命令と復唱が飛び交っていた。

 暫くすると重要な任務を前にした緊張感に眦を決した、キビキビした動作の兵たちが走り、報告とそれに対する新たな命令、そして復唱が其処此処から聞こえてくる。

 

 その喧騒の中に、兵士とは違って少々緊張感が足りない表情の三人が近付く。

 その瞬間、場の雰囲気は一変し、兵たちだけでなく将校の動きまでが殺気立つ。将兵にとってみれば、今回の任務は戦ではないものの、第三王子が迎え入れた国賓級人物の護衛だ。

 もし、任務中に失態を犯せばそれはすぐに師団長、つまり第三王子まで報告が上がってしまう。そして、それは出世街道から放り出されることを意味していた。逆に、この人物たちの覚え目出度くなれば、それは出世に直結する。

 もちろん、アービィたちに査定などする気は欠片もないのだが、将兵たちはそのように理解していた。

 

 

 出発までの僅かな間、ルティとティアはアービィの微妙な変化に気付いた。

 

「ねぇ、アービィ。狼、帰ってきたの?」

 ルティが訊ねる。

 

「え? ルティ、気付いたの?」

 不思議そうにティアが聞いた。

 当然、ティアも気付いていたが、ルティがアービィの中に潜む魔獣の気配に気付くとは思っていなかった。

 

「うん、帰ってきた。もう、どこへも行かないよ」

 穏やかな表情でアービィが答えた。

 

 アービィは、ルティの感覚が鋭くなっていることを不思議には思わなかった。

 何故かは解らないが、ルティにも判るだろうと感じていた。

 上手く言葉では説明できないのだが、狼は帰ってきたのではなくアービィと完全に魂が溶け合っていた。器として用意された狼と、異世界から召喚され放り込まれた魂、そしてアービィという魂が完全に一つになっていた。

 おそらく、アービィという個体に対して鋭敏な感覚を有するルティであれば、その漂わせている雰囲気に狼を感じ取ることはできたのだろう。

 

「そう、よかった。……よかったね」

 ルティは安堵の言葉を口にしてから両手を後ろで組み、アービィの胸板に自分の額を付け、狼に意識を向けて言った。

 

 ティアは、アービィの表情が以前より穏やかになっているのを見て、これで良かったんだと納得している。

 人狼に対する、生理的と言っても過言ではない恐怖がなくなったわけではない。この世界から人狼という生物が、いなくなってしまえばいいという感情は残っている。

 だが、アービィが人狼を完全にコントロールできるようになれば、人狼という生物種にとっての朗報だということも理解できる。

 

 生まれてから人格が完全に形成されるまでに、充分な愛情と人間としての教育を受ければ、通常の人となんら変わらない生活を送ることができる。

 アービィがそれを証明できれば、忌み嫌われるだけだった人狼にも、一般社会での生存権を得る可能性が出てくる。

 そして、アービィはそれを証明しつつある。

 

 そういえば、人狼と人の間に不幸にしてできた子供の受け入れ先は、社会は用意していない。

 アービィがストラー王家からもらった家は、風の神殿の管理下で孤児院として活用されることになっている。これと同様に、不幸に行為の結果生を受けた人狼後を引く子供たちを、受け入れることはできないだろうか。誰が主体になって管理するのか、神殿か王家か、国家によって委託された第三の機関か、それについてもまだ何の構想もないが、何れかがやらなければならない事業だろう。

 全てが上手くいくと思うほどティアは楽観主義者ではないが、やってみる価値はありそうだ。

 

 この旅の終わりまでに、アービィやルティとその話をしてみよう。

 それからランケオラータやエンドラーズにも、バードンにも話してみよう。

 私の成すべきことが見つかったかもしれない、ティアはそう考えていた。

 やがて、特編中隊の出発準備が整い、従卒がアービィたちを呼びにきたことでティアの思考は中断された。

 

 

 アービィたちを馬車に迎え入れ、副官が従卒たちを連れて同乗する。

 それを見届けた隊長が列の先頭に立ち号令を掛けると、特編中隊は動き出した。

 

 天候が回復した街道は、それを待ち焦がれていた人々で早朝にも拘らず活気に溢れていた。

 その人々や駅馬車を追い抜きながら、中隊は進んでいる。もちろん、中隊の列を邪魔しようという者などいるわけもなく、対向する人々や駅馬車も近衛師団旗が見えると道を譲っていた。

 アービィたちの姿は、馬車の周囲を囲んだ騎士小隊によって隠されていた。当然中からも外は見えず、景色を眺めて暇を潰すこともできない。

 だが、ウェンディロフが率いる軍とどこですれ違うか解らない以上、やむを得ない措置だった。

 

 副官と従卒は、馬車の中では必要最小限の会話しかせず、アービィたちから話しかけない限り三人の会話に入ることもなかった。

 従卒たちは話しかけられると喜色満面なるのだが、副官は表情を変えることもなく対応し続けている。

 最重要人物に自ら言葉をかけるなど無礼と心得ているのか、それともこのような若造共が自分より上の立場であることが気に入らないのか。

 はたまたはしゃぐ従卒たちの態度が気に喰わないのか、終始無表情を保ったまま馬車の中に座っていた。

 

 

「あの、ちょっと質問なんですが、よろしいでしょうか?」

 しばらく続いた沈黙を破り、アービィが副官に訊ねた。

 

「はい、御用でありますか、アービィ様」

 謹厳実直を絵に描いたような副官は、背筋をピンと伸ばしたまま答える。

 

「火の神殿で、二日か三日滞在する余裕は取れますか?」

 アービィは、手持ちの武具に、風だけではなく、火の神殿でも祝福法儀式を施すつもりだった。

 魔法陣からの光は武器で防ぐことはできない。防具の光への耐性は、上げておいて損はないはずだ。できれば全ての精霊神殿で祝福法儀式を施してから北の大地へと行きたいところだったが、さすがにその時間的余裕はなかった。

 全て回っていたら、四十日近く掛かってしまうだろう。

 

「これは、異なことを。この行軍はアービィ様のために行っているものあります。アービィ様のご都合次第で、馬の脚の限界まで急ぐことも、ここで何日逗留しようと意のままであります。ご遠慮などご無用であります」

 表情を変えるどころか、眉一つ動かすことなく副官は答えた。

 

 確かに、言われてみればその通りだ。

 この行軍の目的は、アービィとウェンディロフを会せないことを、最重要としている。極論すれば、ウェンディロフを殺させないために、アービィを隠している。アービィが急ぎたければ急ぐし、留まりたければ留まる。

 それに、考えてみればアルギールよりリジェスト寄りのグラザナイで、ふたりが鉢合わせする危険性はない。

 

「はぁ……では、手持ちの武器防具に祝福法儀式をしていただく間、留まっていただきます」

 アービィはそう頼んだ。

 

 考えてみれば、アルギールを過ぎてしまえば護衛の必要はないのだが、ヘテランテラはリジェストまでの同行を命じている。

 そのうえ旅費も、全て近衛第二師団持ちだ。

 パシュースとの話は付いているのだろうが、報酬は別にもらえることになっている以上、これでは待遇が良すぎるのでアービィはどうしても遠慮がちになってしまっていた。

 

 

 アービィたちがラシアスの王都アルギールに向けて動き出した頃、ランケオラータとレイ、ルムを乗せた馬車は、クシュナックまであと一日の行程だった。

 生活に必要な物資は、後を追うように派遣されたハイグロフィラ公爵軍とカトスタイラス領警備軍から抽出した、総計六百名規模の独立混成大隊が運搬する手はずになっている。

 その大隊は、今頃ベルテロイで祝福を受けているはずだ。

 

 どちらの軍も諸侯軍の編成においては近衛に相当する精鋭たちで、軍律や統率には全く問題はない。

 大隊長が北の大地に残る者たちを含めた総指揮を執ることになっているが、全ての権限はランケオラータに集約させてあり、意識せず理想的なシビリアンコントロールになっていた。

 ストラーを経由するランケオラータに代わり、北の大地までの行程中の全責任を負う大隊長には、インダミトのバイアブランカ王からラシアスの摂政ニムファに宛てた親書が託されている。

 

 総指揮官が大隊を離れるわけにはいかないため、司令部から主席参謀が大隊とは別ルートで先行してアルギールに向かい、摂政ニムファに謁見を求める手はずになっていた。

 ラシアス内の通過とウジェチ・スグタ要塞での休養の許可を求めるだけでなく、最北の蛮族への戦略を納得させるための重要な任務だ。

 

 伝統的に北の民に対する偏見と差別意識の強いラシアスの為政者たちは、最北の蛮族の驚異が中央の民と平野部の民とを順次押し下げていることなど、北の民の内紛としか見ていない。

 勝手に自滅してしまえ、くらいにしか考えていなかった。

 だが、バイアブランカは、この巨大な市場となる可能性を秘めた大地に、平和をもたらすことを望んでいる。

 

 最北の蛮族に対し軍を進めてはいるが、殲滅戦を行う意志はない。彼らを煽動する勢力を討ち鎮め、北の民同士の講和の仲介をするつもりでいる。

 もちろん、緒戦で全てを片づけられると考えるほど、バイアブランカは楽天家ではない。

 暫くの間は、最北の蛮族と中央の民の勢力圏の境界線に駐留し、最北の蛮族の侵略を撃退しつつ、講和の機会を窺わなければならないだろう。

 

 もちろん、バイアブランカがただのお人よしであったり、平和を希求する善意の王ということではない。

 商業国家であるインダミトは平和の中でしか繁栄できないという戦略の下、巨大な市場を作り上げ国を富ませるという義務感から動いているものだった。

 

 これを手ぬるいというラシアスの閣僚も、当然だがいる。

 だが、ニムファが十四年前に受けた最北の地に魔王が降臨したという神託があるため、彼女の許可は取りやすいと考えられる。

 自らの手を汚さずに脅威を払えるのであれば、利己主義者が多いラシアスの閣僚からの領内通過の許諾も簡単に取れると思われた。

 

 

 クシュナックではランケオラータとルムの護身用の武器に、風の神殿で祝福方儀式を施すため、三日間滞在する予定でいた。

 後を追う兵の武器は、水の精霊の祝福方儀式済みで、こちらは火の神殿で追加の儀式を施す予定だ。兵装によっては、金貨千五百枚近くの莫大な予算が掛かってしまうが、アービィから絶対に必要だと言われていたので、生活雑貨をかなりの量を諦め、こちらに回すことにした。

 もっとも、諦めた生活雑貨は、ルムから見れば贅沢品でしかないのだが。

 

「義父上様が、血の涙を流していたような気がするのですが……」

 

「気にするな。半分は国持ちだ。父上の血涙は、そのせいかもしれんな……」

 レイの呟きに、ランケオラータも顔をひきつらせて答えていた。

 

「楽しみだな、ランキー。どんな苗を、用意してくれてるんだろう。俺たちに扱いきれるのかが、心配なんだが……」

 ルムが期待半分、不安半分に言った。

 

「安心しろ。ついでに期待しておけ、ルム。いろいろあるし、かなり大量だぞ。それからな、技術指導に神官殿を派遣してくださるように、俺が頼んでおいた。もちろん、布教なんぞしないからな」

 ランケオラータが答える。

 

「かなり大量って、どうやって運ぶのです?」

 レイが訊ねた。

 

「それは、神官殿がやって下さる」

 こともなげにランケオラータは答えた。

 

 もとより精霊の神官は布教などしていないので、全く心配はしていない。

 神官としては完全な善意であり、金品や布教といった見返りを求めることなどあり得なかった。

 

 マ教は救済や安寧を求めるための宗教であり、信者を増やすことは迷える子羊たちを救うための主たる活動だ。

 言うまでもなく、寄付という形のカネ集めのためでもあり、活動資金を調達しなければ何も救済などできるはずがない。

 もっとも、裏でどんな汚いとこが行われているか、誰でもカネが集まればどうなるかくらいは知っていた。

 

 だが、精霊神殿は信仰の対象ではあったが、宗教とは微妙に異なるものだった。

 精霊の存在を信じるだけで良く、戒律も教義もほとんどないに等しい。精霊を裏切らない。ただそれだけで、呪文を使えるようになれるという恩恵がある。

 だが、それだけしかない、とも言えた。精霊は、何の救済も、日々や死後の安寧も保証などしてくれない。

 それでも人々は、物理法則を無視した神秘の技を授けてくれる精霊に、深い信仰心を持っている。目に見えない安寧や魂の救済より、目に見える奇跡を、ということだ。

 それ故か、マ教がしゃかりきに信者や寄付金集めに奔走する姿を後目に、精霊神殿には労せずしてそこそこの寄付金が集まっていた。

 

 布教は行わない、生活費はほぼ自給自足、神殿を豪奢にするわけでもなく、必要最小限の維持改築のみ。

 では、何にカネを使うかというと、神秘の解明だ。悪霊や悪魔に対抗する祝福方儀式の確立や改善のため、北の大地の呪法を調査したり、マ教だけでなくあらゆる宗教の悪魔払いについて調査研究を怠らない。

 エンドラーズが修めた『持続』の効果も、こうして編み出されていた。

 

 つまり、今回農業技術指導で北の大地へと赴く神官も、この探求のために行く。

 南大陸の国家が後押しするだけでなく、北の民からの招聘だ。こんな機会はまたとない。もちろん、指導の手を抜くつもりなど、彼らは欠片も持ち合わせていない。

 民の安息日や夜を利用しての探求になるのだが、彼らはこれを厭う気持ちもまた、欠片も持ち合わせていなかった。

 

 このとき、風の神殿では、用意された様々な野菜や稲の苗や種を前に、エンドラーズが自分を行かせろと、さんざんに駄々をこねていた。

 派遣予定の神官としてもこの役を譲る気などさらさらなく、さながら子供同士の喧嘩のようだった。

 

 

 クシュナックの風の神殿では、エンドラーズがランケオラータたちの到着を、今や遅しと待ち構えていた。

 既に運搬用の馬車には、アスパラガスやジャガイモ、ダイコンにタマネギ、キャベツやハクサイ、トウモロコシ、他にも様々な野菜の苗や種、そして寒冷な気候に強い種の種籾が運び込まれ整理されていた。幸いなことに、ストラー北部にも大規模な泥炭地帯があり、野菜類の大半はそこに適応したものか、ある程度の耐性を持つものが選ばれていた。これを五台の馬車に積み込み、それぞれに御者と神官が一人ずつ乗り込む。

 この他にエンドラーズの独断で、多くの家畜と家禽が後を追うことになっている。もちろん、飼料の種や苗もつけてだった。

 

 中央部以北の詳細な情報がないため、場合によっては農耕より酪農の方が、その地域に向いているかもしれないという、エンドラーズの判断と配慮だった。

 こちらにも馬車が五台ほど同行するが、風の神殿だけでは人員を賄いきれないため、地水火の神殿に応援を要請していた。

 

 

「暫く振りですな、ランケオラータ殿。ルム殿のご首尾は如何でしたかな?ときに、そちらの可憐な女性は、もしや?」

 エンドラーズは、北の大地へ渡れないという残念さを身体全体に滲ませながら、訊ねた。

 

「エンドラーズ様も、お変わりないようで何よりございます。ルム様のご首尾は上々。さらにエンドラーズ様のご助力で、思った以上の成果で怖いくらいでございます」

 ランケオラータが歓に堪えないという表情で礼を述べる。

 

「この度のご助力、誠にありがとうございます。北の民を代表して礼を申し上げる。そのうえ、指導に当たる方々まで派遣していただけると伺っている。我らにできる恩返しがあれば、何なりとお申し付けいただきたい」

 ルムが続けて頭を下げた。

 

「私はレイテリアス・ヒュデロッティ・ボルビデュスと申します。まだ、ボルビデュス家の者ではございますが、近くハイグロフィラ家に嫁ぐ身でございます」

 レイが自己紹介する。

 

「なんと、ランケオラータ殿も隅には置けませんな。しかし、レイテリアス殿は北の大地へ行かれると。ルム殿を前に失礼極まりないことですが、なんて勇気のある方だ」

 エンドラーズは眉を歪ませて言う。

 

「何、お気になさらぬよう。まさにその通り。治安が良いとは、私からは決して言えぬ地。感謝に堪えませんな」

 ルムは、レイが来てくれることには心底感謝している。

 

 既にレイは北の大地の商品展開を考えている。

 良質な商品を適価で南大陸に供給することが、北の民の地位向上に繋がり、ひいては両大陸の人的交流に繋がっていくことを、レイはこのときまでに理解していた。

 経済による征服であっても、将来血を流すことになってしまうとも気付いている。

 

 良質な商品には、北の大地で産み出されたものだという証明が必要だ。

 そうでなければ、あっと言う間に粗悪な模造品で北の民を貶めようとする者や、そこまではいかなくとも粗悪品で一儲けしようという者が出ることは、考えるまでもない。

 

 例えばだが、バイアブランカ王家を含む四王家やベルテロイのマ教神殿、各地の精霊神殿でもよいので南大陸を代表できる機関が承認し、ルムなりの誰か北の民のリーダー的立場の者が認定する印のような物があれば良い。

 南大陸から北の大地へ売りに行く商品にしても、逆側からの承認と認定をすればよい。

 幸いにも北の大地は、呪法が発達している。

 偽造に対して呪いを発動させることはできなくても、特定の形を指定して、それを特定の染料で描かなければ、溶けて無くなるくらいのことはできよう。

 レイは誰かが苦労して開発した技術なり意匠を勝手に使い、開き直る輩に容赦など必要ないと考えている。

 アービィならどう考えるかしら。レイはそれが気になっていた。

 

 

 アービィたちを護衛する特編中隊は、ソロノガルスクを出てから五日の行程で、とアルギールのほぼ中間まで差し掛かった。

 幸い、河川の増水も収まりつつあり、南から順次渡河できるようになってきていた。中々にきわどいタイミングで、アービィたちが近付くまでは、渡河など思いも寄らないほどの増水状況だったらしい。

 まるで水の精霊の加護を受けているかのようなタイミングだと、周囲の住民や駅馬車路線の宿場の人々から言われていた。

 

 先行させていた偵察小隊からは、北へ行けば行くほど河川の増水の度合いが酷く、大陸最大のグラース河の増水が治まらないことには、そこで足止めになりそうだいという報告が届いている。

 ウェンディロフ率いる大隊もそこで足止めされているため、渡河の際に確実にすれ違ってしまうものと思われた。

 

 この河を渡れないのであれば間道を伝い、ベルテロイからアルギールを結ぶ街道に道を変えるのだが、かなりの遠回りになることを覚悟しなければならなかった。

 さらに間道は細い道が続き、途中にある集落も小規模なものばかりで、大隊規模の軍勢が行軍するには向いていない。

 騎士階級と兵だけで構成された一般の大隊であれば、野営など躊躇うものではなかったが、貴族階級が指揮官とあってはそうもいかないという事情もあった。

 

 また、いっそ橋自体が流されてしまったのであれば、間道を行くしかないのだが、橋は水面下に沈んでいるだけで健在だ。

 なぜなら、増水時でも水流の圧力で橋が破壊されないように、欄干などの水の抵抗が大きくなるような構造物は廃され、かつ通常の水位からさほど高くないところに設置されているからだ。この構造であれば、増水時に橋が流され、その廃材が川をせき止めて洪水を引き起こす可能性も低く、橋が流されたときの再建も低コストで済ませられるメリットがあった。

 雨も上がり、後は水が引けば良いだけなので、ソロノガルスク側に多数の情報を抱えた間諜たちが、アルギール側にウェンディロフ大隊が待機している状況だった。

 

 その状況に特編中隊が乗り込むということは、大量の間諜がいる中で行動することになる。

 それではアービィたちを秘匿するなど、どう考えても無理な相談だ。間諜の中にウェンディロフのシンパがいれば、渡河の許可が下りた途端に注進に走ることは間違いなく、そうなれば橋のどちらかで決闘騒ぎになることは、火を見るより明らかだ。

 そのため、特編中隊は偵察小隊からの報告を受けてから敢えて進軍を止め、グラース河直前の宿場からさらに一つ手前の宿場で待機していた。

 

 

 このとき、グラース河の対岸では、ウェンディロフが焦っていた。

 ビースマックの政変の報に接し、摂政ニムファは果断に救援部隊の派兵を決断した。もちろん、そのままビースマック王都シュットガルドを制圧し、ラシアスに都合の良い傀儡政体を作り上げる腹積もりでいることを、ウェンディロフは理解している。いつぞやの汚名返上とばかりに宰相コリンボーサに近付き、必要以上の熱意と少々の賄賂、そして以後コリンボーサの派閥に入り忠誠を誓うことによって、派遣部隊の指揮官への推挙を勝ち取った。

 彼の武の才は、北の民の進入に際してはかなりの程度有効だったため、ニムファもこれを拒絶するような理由はない。

 

 ウェンディロフはこの戦で戦功を挙げ、未だ相手を決する事のないニムファの婚約者への名乗りを挙げるつもりでいた。

 ニムファの父である現王ロベリア・カーディナリス・ルドウィジア・ネツォフ・グランデュローサは、体調を崩したまま床に伏せり、どう楽観的にみても老い先短いと考えざるを得ない状況だ。現王の崩御の前に婚儀を整え、成婚した上で現王を見送る。国としては最高指導者不在という事態は避けたい。

 そう遠くない未来にニムファの婚儀は、現実的なものとなるはずだった。

 

 その重要な戦を前にして、雨が足を止め、河が行く手を阻んでいる。

 グラース河近くの宿場で最も高級な宿を接収し、臨時に定めた幕舎の一室でウェンディロフは荒れ狂っていた。どいつもこいつも気合が足りない。断じて行えば鬼神もこれを避くというではないか。河川の増水がいかほどのことというのだ。

 雨中の行軍を厭う等、光輝あるラシアス軍、それも武勇の誉れも高いウェンディロフが率いる軍にあるまじき怠慢だと、喚き散らしている。

 

 だが、橋が沈んでいては、どう頑張っても渡河などできるはずもない。

 子爵の権威を以ってすれば、それ以上の爵位を持つ者以外は思い通りに動かせるものと思っていた。

 しかし、自然の力の前では人は無力だということを、嫌というほど知らされていた。

 

 既に王都アルギールを出た直後から降り始めた雨は十日以上も降り続き、一昨日辺りからようやく治まる気配を見せたが、河川は上流域に降り注いだ水を吐き出し切れていない。

 この地に逗留して早五日が過ぎてしまっている。

 いつまでもここで手を拱いていては、ビースマックの政変が現体制、反乱側のどちらにせよ方を付けられてしまうだろう。そうなってはウェンディロフ大隊が国境を越える大儀が失われ、彼の野望もそこで潰えてしまうことは確実だった。如何に不安定な状態にあるとはいえ、王からの救援依頼もない状況で強引に他国の首都に進駐するような暴挙は許されるはずがない。

 現体制にしろ反乱側にしろ、今現在ビースマックの権力を握る者がラシアスに対して戦を仕掛けてくるというのであればともかく、内政に専念するというのであれば、ウェンディロフ大隊の行き場は完全に失われてしまう。

 

 その焦りの中に、翌日には水も引き渡河できる見通しだとの報告が上がってきた。

 彼は、対岸にアービィがいることを、この時点ではまだ知らなかった。

 

 

 夜、アービィたちを含む特編中隊は、いくつかの宿に分散して泊まっている。

 その中で指揮官や副官、参謀たちとアービィたちが泊まっている宿は、司令部として借り上げられていた。

 従業員たちには緘口令を敷き、外出も兵に同行させるという機密保持体制の中、ロビーにはアービィと指揮官、そして副官の三人が集まっていた。

 

「アービィ様、どうやら進退窮まったようであります。どうやってもウェンディロフ様の軍勢をやり過ごすことは適わぬ様子。そこで、中隊はこのまま進み、アービィ様には騎士で構成した一個小隊をお付けいたします故、側道にてご待機願いたくあります」

 指揮官と副官が相談した結果、街道から外れ山岳地帯へ向かう側道にアービィたちを隠し、本隊は堂々と進軍してウェンディロフ大隊とすれ違う作戦を提示してきた。

 万が一ウェンディロフにアービィについての情報が漏れていた場合にも、隊列を改めさせればよい。だが、ヘテランテラ直属の中隊を臨検する度胸のある貴族など、この国にはいるはずがない。

 もし、アービィたちの姿が遠望でもできてしまえば、ウェンディロフは決闘を申し込んでくるかもしれないが、いないものはどうしようもないはずだ。

 

 問い合わせが来たところで、殿下直々のご命令によるウジェチ・スグタ要塞視察と言って、後は知らぬ存ぜぬで通せば良い。

 こちらの指揮官が騎士階級だからと、身分の違いを持ち出したところで、子爵如きが近衛師団をどうこうできるはずはないのだった。

 

「お気遣い、ありがとうございます。でも、もうバレてると思いますよ。さっき、早馬が出たみたいですし」

 アービィは、せっかくの作戦が実施前から無駄になった偶然を、残念そうに告げた。

 この宿場にも間諜の手が伸びていたのではなく、それはアービィの動向を探るためではなく、宿の都合で偶然居合わせてしまっただけだった。

 それが運悪くウェンディロフのシンパだったので、早速注進に走ったということだった。当然グラース河で足止めなのだが、渡河の迅速さは個人と隊列を組まなければならない軍とでは比べるべくもない。欄干のない橋であるため、通常の隊列ではなく、それ用に組み直す必要があった。ウェンディロフたちは、アルギール側でそれを待っているだけで良い。

 常備軍が近衛師団に道を譲るのは当然で、近衛師団といえど摂政の命を受けた軍を、わざわざこちらが行軍を中断して足止めするわけにはいかないからだ。

 

「では、アービィ様はいかがなさるおつもりでありますか?」

 重大な齟齬を来したにも拘わらず、副官は取り乱す様子も見せず、慌てることなく言った。

 

「いくらなんでも、天下の往来でいきなり決闘なんてする人はいません。立会人やら場所の確保やらの準備も大変でしょうし。改めて場所と時間を設定しようにも、そのせいでただでさえ遅れてる行軍を、そんな理由でさらに遅らせるわけにはいかないでしょうから、何も起きませんよ。せいぜい僕の顔を見に来る程度でしょう。それに、あの人にはもう一回決闘やるような度胸は、ないと思いますよ」

 一悶着くらいはあるだろうとは思っているが、ヘテランテラの心配は杞憂に終わるだろうと、アービィはかなり楽観している。

 

 ウェンディロフの剣の才は、一般人よりは優れているだろうし、アービィがニムファに謁見した場においては、確かに右に出る者はいなかったのかもしれない。

 だが、立ち合ってみて判ったが、彼の剣は道場剣法の域を出ていなかった。構えからして合図がなければできていなかったし、アービィの動きを予測できなかったうえ、目がついていっていない。剣の修練は積んでいるのだろうが、戦場では相手が同じ武器を申し合わせてくれる保証などあるはずもない。

 本気で立ち合えばどうなるかくらい、いくら彼でも判るはずだ。アービィは、そう考えていた。

 

「分かりました。ですが、小官といたしましては、最悪の事態を想定する必要があると思われます。万が一、彼の子爵様がその場で決闘を申し込んできた場合、つまり後日日を改めてと申し込まれた場合であまりす。アービィ様のご意向に沿って行動するよう、師団長閣下からはご命令を受けておりますので、その際のご対応をお決めいただきたくあります」

 ほとんど喋ることのない指揮官に代わり、副官がアービィに問う。

 

 本来であれば、最悪の事態を想定し、その準備をするのは指揮官の役割だ。

 だが、今回指揮官に任じられた騎士階級の若者は、まだ中隊規模の部隊を指揮した経験もなく、血を見る可能性のある作戦に従事したこともなかった。国賓級人物の護衛部隊の隊長としては甚だ心許ない人選であるが、北の民の侵入を撃退した経験を豊富に有する副官を付け、彼の取る行動を通して若者に教育を施そうというヘテランテラの心積もりだった。

 もともと護衛など必要としないアービィたちに敢えて護衛として付けることで、副官とアービィたちの協議は極力血を流さないよう細心の注意を払う内容になるはずだ。

 作戦とは、何が何でも敵を殲滅するということではない。

 戦略に基づいた目的があり、それを達成するための手段が戦術、作戦と呼ばれるものだ。

 

 この作戦の元となる戦略は、アービィたちを、安全且つ迅速にウジェチ・スグタ要塞まで送り届けるということだ。

 そしてそれは、同時に北の民に経済という概念を伝え、その生活を改善することによって南下の意志を減少せしめ、両大陸の融和を図るべく派遣されたランケオラータ・カトスタイラス侯爵の護衛しつつ、最北の蛮族を討ち鎮め、北の大地に安定をもたらすためという、南大陸の大戦略に基づく。

 そのための戦術としては、途中の障害を全て力で取り除く必要はなく、避けられる戦いは避け、その時間を行軍に費やすべきであった。もちろん、全ての戦いから逃げろということではない。近衛師団の名誉も守りつつ、ということもある。

 戦略を全うするための作戦は、朝令暮改では困るが、臨機応変であるべきだ。

 

「そうですね。受ける必要はないですね。あの人に北の大地まで来る度胸があれば、あっちで受けてあげますよ。本気で。ただ、どうしても受けろと言ってくることは、殿下の軍に対して弓を引くということで良いかと、言ってやればよいかと思います」

 アービィは答えた。

 威光や権威というものは、このような時こそ使うべきものだ。

 堂々と進軍し、ウェンディロフ大隊に道を譲らせれば良い。

 

「では、川岸まで進出でありますか? それともこの場で彼らの通過を待ちますか?」

 アービィが、本気で、と言ったときの表情に背筋が寒くなった指揮官が、おずおずと訊ねる。

 

「川岸まで行きましょう。宿は満員でしょうから、河原で野営ということで。幸い、雨も上がって、場所によっては地面も乾いてきてるでしょうから。渡河の許可が下りたら、すぐに橋に出られるように待機しましょう。ここではすれ違うのに狭いですし、宿場や住民に迷惑です。ここより広い、河の向こう岸ですれ違いましょう。それに、近衛第二師団の中隊が道を譲ったとあっては、後々拙いのでは?」

 アービィが断を下す。

 

「承知いたしました」

 副官が我が意を得たりとばかりに、満足げな表情を浮かべ、大きく頷く。

 彼は、これで駆け出しの上司に駆け引きの経験を積ませることができるな、と考えている。

 

 それに、叩き上げの副官としては、もちろん諍いが無いに越したことはないが、近衛は常に堂々とあるべきと考えていた。

 ヘテランテラから、アービィたちを無事ウジェチ・スグタ要塞まで送り届けよ、との厳命を受けているとはいえ、急造の大隊如きに道を譲るなど、末代までの恥晒しと思っていたところだった。

 騎士階級に属する中隊指揮官は、相手の総指揮官が子爵という貴族であることに腰が引けてしまっているが、これは性根を叩き直す良い機会と教育係を兼ねる副官は考え、アービィの配慮に感謝していた。

 

「では、特編中隊は、明朝夜明けを期してこの地を出立。夕刻前までに河原まで前進し、そこで野営。そのように進めてよろしいでしょうか?」

 副官が指揮官に確認するように行程の案を提示し、アービィと指揮官が了承したことで、この夜の軍議は終了した。

 

 

「ちょっと、またこの間みたいな騒動は勘弁してよ。それに殿下のお心遣いを無にするつもり?」

 宿の一室でルティがアービィに喰って掛かる。

 その横では、ティアが黙って考え込んでいた。

 ルティにしてみれば、万が一にも決闘騒ぎになることは、絶対に認められない。

 ヘテランテラの配慮を、踏みにじるような真似はしたくなかった。

 

「そんな気はないよ。大丈夫。聞くところによると、あの人は周囲に、あれは油断だとか、素手に惑わされたとか言ってるらしいじゃない。そんな人が、僕の前に立てるとは思わないよ。意外と目の前にいても、気付かない振りするんじゃないかなぁ……」

 アービィは、まるで意に介していない。

 

「でも、万が一によ、あの人が挑んできたら?」

 ティアもこんなところで足踏みはしたくないし、無駄な人死には避けたい。

 後から遺族に仇と狙われては、割に合わなすぎるからだ。

 

「う~ん……ティアが隠れて『誘惑』掛けちゃって、ラシアスからビースマックに入った時みたいにさ……それか、立ち合うだけはして、さっさと絞め落とすから、その寸前に『誘惑』掛けて記憶飛ばしちゃうとか?」

 アービィも少々不安になったか、消極的な提案をした。

 

「どれも卑怯ね~。でも、いいかもね、それで。せっかくだから絞め落としちゃえば?」

 ルティが同意する。

 

「勇者とか英雄とは思えない発言ね。ま、いいわ。やってあげる。狼が還ってきてから、ちょっと変わった?」

 ティアもそれで無事に済んで、足止めされないのであれば、拒否する理由はない。

 

 アービィは提案が受け入れられてほっとしているが、内心では狼じゃなく『俺』のせいなんだよな、と呟いていた。


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