狼と少女の物語   作:くらいさおら

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第61話

 ラシアスとの国境の町エッシンフェルゲンは、雨に閉ざされていた。

 この辺りにしては珍しく、車軸を流すような大雨が、もう四日も続いている。

 アービィたちはこの雨のせいで、この街で三度目の朝を迎えていた。

 

 四日前にエッシンフェルゲンに到着した夜は、街に近付くにつれ酷くなる土砂降りの中での強行軍だった。

 さすがに御者一人を雨中に放り出しっぱなしというのは三人の良心が許さず、交代しながらの強行軍になり、街に入ったときには全員が濡れ鼠と化していた。

 

 ラシアス側の国境の町ソロノガルスクからは、ラシアスの駅馬車路線を使うため、御者はここから馬車をベルテロイに持ち帰ることになっている。

 だが、この豪雨の中を一人で戻るにはあまりにも無理があり、駅馬車路線もラシアス王都アルギールまでの道が豪雨で不通になっていたため、四人は同じ宿で無聊を囲っていた。

 

 到着した夜は、ずぶ濡れの身体を風呂と酒で暖める方が優先され、疲労困憊のうちに泥のように寝てしまっていた。

 翌日、町長に挨拶に行ったところ、ヒドラ殺しの英雄来るの報があっと言う間に街中に回り、豪雨で街中が手持ち無沙汰だったことも加え、昼頃からとんでもない規模の宴会となってしまった。さすがに毎日宴会というわけもなく、昨日は平穏な一日だった。ゆったりと過ぎていく時間の中で三人はすることがなく、朝からエールやワインを飲みながら時間を潰す。

 そんな中でもアービィは自分が倒れていなければ、今頃はラシアスの王都アルギールに近い所まで行けていたはずだったと、臍を噛んでいた。

 

 そして、今日も雨。

 昨日よりはまだましだが、それでも外へ出ることを躊躇うような降り方だ。街の古老の話では、風向きからすると明日辺りには、かなり小降りになるだろうという予想を聞いていた。

 焦ったところで不通になっている道が、復旧するというわけでもない。崖崩れや土砂災害ということではなく、河川の増水で沈下橋が完全に水没しているらしい。ならば、雨が上がって、数日もすれば通行可能になるだろう。

 それまでは駅馬車も走らず、走ったところで再度足止めだ。

 

 ルティはエッシンフェルゲンに着いてから、なんとも言えない妙な感覚に捕らわれることが多くなっている。

 この風雨にしても、アービィの焦りを他所に、長く続くわけがないという安心感がある。道が不通になっているという情報を聞いても、地すべりなどの土砂災害ではなく、河川の増水によって道が冠水しているものだという予感があった。当初はアービィを落ち着けるため、都合のいいように思い込みたいだけかと思っていた。

 だが、古老の予想や、駅馬車の事務所からの情報でルティの天候等についての予感は裏付けられていた。

 そのこともあって、焦りを隠せないアービィとティアから見て苛立つほど、ルティは落ち着きを見せている。

 しかし、そのおかげでアービィとティアの焦りが、かなり緩和されていることも事実だった。

 一晩明けて、宿の食堂に集まった三人は、窓の外を見て溜息をつく二人と、明るい表情になった一人に分かれている。

 

「今日も雨かなぁ……」

 アービィが呟く。

 

「まだ足止めのままかぁ……」

 ティアがうなだれて続くが、ルティがそこへ言葉を返した。

 

「大丈夫よ。明日になれば、馬車は走るわ。今日の昼には晴れないまでも、雨は上がりそう。なんとなくだけど、風の匂いが、ね」

 きっと平気。そんな確信があった。

 

「ここんとこ天気の予想が当たりまくりのルティの言うことだから、信じてみようか、アービィ?」

 四日間、ルティが昼からはどうなる、明日はどうなると言っていたのを気休めだと、ティアは思っていた。

 だが、古老の話と一致していたことでルティの感覚を信じることにした。

 

「そうだね、とにかくソロノガルスクに移動して、切符は買っておこうか」

 ティアが言わなくてもそのつもりのアービィは、窓の外を眺めながら返答する。 

 

 馬車ごとの越境は必要ないため、御者は三人を国境まで送り、天候が回復するまでこの宿に滞在することにした。

 宿代自体はパシュース持ちなので、代金の受け取り証明を作ってもらえばよい。

 だが、一般的な庶民を対象とした商店や宿はほぼ日銭商売であったため、一部の貴族相手の商店や宿以外は領収書というものが普及しておらず、泊まっていた宿に説明するのに一苦労していた。

 

 

 一年ほど前にティアが誑かして越えた国境を、今は逆向きに越えようとしている。

 王都であれだけのことがあったのだ。出入国ともビースマック側は、かなり神経質になっている。当然ラシアス側も反乱を起こした者が逃亡してこないかと神経質になっているのだが、それとは別の緊張感も伝わってきた。

 ビースマックからの出国は、拍子抜けするほど問題なく通れた。だが、ラシアスに入国する際に一騒動が待っていた。

 

「申し訳ございませんが、ここで今しばらくお待ちくださいませ、勇者様」

 普段であれば、親切ではあっても威厳を忘れることなどあり得ない近衛師団の標準兵装を着込んだ騎士が、アービィたちに向かって最敬礼で言っている。

 

「えっと、あの、僕たちが何か?」

 戸惑うアービィ。

 まさか、あの摂政がまだ手を伸ばしてきたのかと訝しむ。

 ここで騒動を起こすわけにもいかず、ティアがラミアのティアラを使うかどうか悩んでいるところへ、明らかに周囲の人間とは違うオーラを纏った青年がやってきた。

 

「勇者殿、足止めなどして申し訳ない。私は、第三王子ヘテランテラ・ハイドロトリケ・ネツォフ・グランデュローサ。ベルテロイ教都駐在武官で第二近衛師団長を務めている。以前は、姉が大変な失礼をしたようで、成り代わり謝罪させていただこう」

 ヘテランテラは周囲が何事かと騒ぎ始める前に、アービィたちを第二近衛師団が仮の師団幕舎として接収した宿へと案内した。

 

 

「そういえば、入国審査ってしましたっけ?」

 気になっていたことをアービィが聞いた。

 本来、アービィが属する社会階層の者が、王族に口を聞くなどあり得ないことなのだが、最近ではすっかり慣れてしまった。

 

「私が同行している。これ以上の入国審査はないだろう。それに、勇者殿にそんなものが必要かね?」

 ヘテランテラはあっさりと言い放つ。

 確かにヘテランテラが同行している以上、一介の入国審査官が異議を唱えることなどできるはずもないのだが、後半についてはアービィから「はい」とは返答しにくい言葉だった。

 

「確かに殿下とご一緒させていただいていればそうなのですが。僕は何も聞かなかったことにして良いですか?それで、ここで僕をお待ちになっていらした理由は、お聞かせいただけるのでしょうか?」

 苦笑いしつつ、アービィが答える。

 

「さすが、察しが良いな。まずは、この度のビースマックでの働きについて、礼を言わせていただく。勇者殿たちをお待ちしていた理由だが、私自身の判断もあってのことだが、貴国のパシュース殿下から頼まれてのこと」

 ヘテランテラはそう答えてから、説明を始めた。

 

 

 ヘテランテラ自身がソロノガルスクに来た理由は、ニムファがこの機会にビースマックに向けて兵を起こしたときの抑えのためだった。

 もちろん、ニムファがあからさまな侵略行為をするとは思えない。だが、救援を理由に派兵し、その後ビースマックに対し影響力を行使し、実効支配しようという魂胆であることは、考えずとも想像できていた。

 そして、案の定ビースマックに潜んでいた間諜が王都に走っており、常備軍から抽出された一個大隊を派兵したという情報が、ヘテランテラの元にもたらされている。

 

 その後シュットガルドからは、アービィたちの状況を含め日々情報は入ってくるが、ラシアス軍が進撃を止めることはなかった。

 今更軍を救援という名目で越境させたところで恥を掻くだけなのだが、ニムファにはその情報が届いていない。アービィたちを足止めしていた集中豪雨は、ラシアス軍だけではなく、王都アルギールへ情報を運ぶ間諜や早馬の足も止めていた。

 軍が最上級指揮官の戦略を前線の判断で変更するわけにも行かず、かといって新たな命令が下されることもなく、アルギールとソロノガルスクのほぼ中間で派遣軍は足止めされている。

 この間、ヘテランテラはアービィたちを待ちつつ、万が一派遣軍が独断専行した場合には実力を以って止めるための準備を進めていた。

 

「雨が上がり王都に情報が行けば、常識的に考えて軍は帰還するはずなのだが、姉上がそれを良しとしないかもしれん。場合によっては、振り上げた拳の落し所を見つけられずに、復興援助とか、逃亡者が国境を越える前に阻止するとか抜かして、軍に国境を越えさせるやも知れんのでな。それでなのだが、このまま勇者殿が駅馬車で北の大地へ向かえば、途中で軍とすれ違うことになる。困ったことに、軍の指揮官があの男なのだよ。勇者殿が叩きのめした、な」

 ヘテランテラが、ここからが話の核心だと言うように、語気を強めた。

 

 ニムファが派遣した軍の指揮官には、以前アービィが決闘で叩きのめしたウェンディロフ子爵が汚名返上とばかりに志願し、宰相コリンボーサの裁可もあってその座に収まっていた。

 この二人が顔を合わせればどうなるか、執念深いウェンディロフの性格から考えて、血を見ずに済ますことなどないことは想像に難くない。

 

「ああ、あの人……悪いことしちゃいましたねぇ、あの時は」

 アービィの認識はその程度だ。

 

 だが、貴族として育ってきたウェンディロフは、負けるとは思っていなかっただろうが、決闘の後生かされていることに限りない屈辱を感じていた。

 ましてや、相手は素手だ。油断がなかったとはいえない。それをウェンディロフは油断を誘う卑怯な駆け引きと決め付けることで、なんとか自尊心の崩壊を防いでいた。

 控え室に運ばれた後に意識を取り戻したウェンディロフは、しばし呆然としていた後、嵐のように怒り狂った。神聖な決闘を、侮辱されたと受け取ったのだった。

 ヘテランテラがそう説明したが、アービィはそれがどうしたという感じで首をかしげていた。

 

「勇者殿、さすがに国内で貴族を殺されては、我が国としても困るのだよ」

 アービィの表情に、言わなきゃ解らんかと言外に含ませて、ヘテランテラは言った。

 

「いやいや、殺し合いをする気はありませんよ、いくらなんでも」

 アービィは手と首を力いっぱい振った。

 

「ところが、だ。あちらは、そう思っておらん。それにだな、これも困ったことなんだが、やはり決闘の後に生かしておくのはいかがなものかと思うのだ」

 ヘテランテラは王侯貴族としての考え方からは、やはり離れることはできない。

 彼等にとっては、名誉は時と場合によって、命より重くなるのだ。

 

 だが、庶民であるアービィは、力比べをして両者のどちらかが死ぬなど、受け入れ難いことだ。

 名誉は、決して命の上位に来るものではない。生きていてこそ、だ。死んでは、その後にいくら褒め称えられようと意味がない。誹られようとも意味はない。自分の死体に鞭打たれたところで、残された人々の想いはともかく、自分は既に何も感じないだろうし、その人々に何かをしてあげられることもできないのだ。

 それ故に、アービィは例え決闘であろうと、相手を殺す気などなかった。

 

「もし、勇者殿と奴が街道のどこかですれ違って、決闘になってだな。まあ、勇者殿が敗れるとは露ほども思わんのだが、問題はその後なのだ。今度こそ、彼は自決する。さすがに、それでは困るのだよ。ああ見えても、あの男は魔獣討伐では役立つものでな」

 それ以外で役に立った例はないがな、とこれは言葉に出さずに呟く。

 

「そこでだ、我が近衛第二師団から一個中隊を抽出し、ウジェチ・スグタ要塞に急行させる。勇者殿は、その中に紛れていただく。多少のことであれば、強行軍で突っ切って見せよう」

 ヘテランテラは続ける。

 とりあえずウジェチ・スグタ要塞の視察とでも理由をつけて、中隊規模で差し向ける。その軍勢の中にアービィたちを隠してしまえば、万が一すれ違いざまに存在を嗅ぎ付けられても、常備軍と近衛師団の権威の差によってウェンディロフを黙らせることは難しくない。

 文句があるならソロノガルスクにいるヘテランテラ殿下までどうぞ、というわけだ。

 

「そういうことでしたら、お願いいたします、殿下」

 人死がないに越したことはないと、アービィは考えることにした。

 ヘテランテラがアービィの取り込みのために、下手に出ていないとも限らない。

 だが、もしもそうであったときは、近衛師団には悪いが離脱するだけのことだ。

 

 実際のところ、ヘテランテラはアービィを取り込めるなどとは思っていない。

 せいぜい、パシュースに多少でも貸しができればという考えで動いていた。また、個人的に好感より嫌悪感の方が先に来る人物ではあるが、ウェンディロフを殺されてもいろいろと面倒だった。中には彼の武の才を慕っていたり、憧れている者もいたのだった。

 それ以上に、国内で武の才においては右に並ぶ者無しとの誉れ高き貴族が、名も知れぬような庶民に正々堂々たる決闘で一方的に惨敗して殺されるなど、国の威信にも関ってくる。

 

「じゃあ、話は決まりだ。明日の朝、夜明けと共に出るつもりだ。そろそろ河の水も引き始めるだろう。あまり酷ければ、駅で逗留するように指揮官には言ってある。勇者殿に万が一のことがあっては、大変だからな」

 ヘテランテラはそう言うと、第二師団から抽出した特別編成中隊隊長を呼び出す。

 

 

 やがて、四十代後半と思われる、歴戦の下士官という雰囲気を身に纏った体格の良い男性に連れられて、ガチガチに緊張した面持ちの若い男が入室し、二人はヘテランテラに最敬礼する。

 ヘテランテラが軽く答礼を返した後、二人はアービィたちに向き直り、同様の行動を取る。アービィはあまりの丁寧さに呆気に取られ、答礼を返せないうちに若者は姿勢を戻してしまった。

 そのままの姿勢でアービィの答礼を待つ下士官は、微動だにしない。もちろん、最上級指揮官の執務室に入室するのだから、脱帽しているので右手を帽子の鍔に当てる敬礼ではなく、腰を折ってのお辞儀だ。腰を約45度に折り、顔は相手をしっかり見る。答礼を見落としては、さらに失礼だからだ。

 本来であれば目上の者に対して着帽のまま挨拶することは非礼に当たる。

 あたりまえだが、脱帽のうえで腰を折るのが礼儀だ。

 帽子の鍔に右手の指を当てる型の敬礼は、軍事行動中にそんな手間を掛けていられないとして、脱帽を簡略化したものだ。

 

 アービィは、敬礼といえばこの世界でも帽子の鍔に指を揃えて当てることが一般的だったため、二人の行動に着いていけなかった。

 つまり、敬礼という言葉を、たった一つの動作として認識していた。

 ようやく、敬礼ではなく普通のお辞儀として認識したアービィたちが、二人の将兵に深々と頭を下げたことによって、下士官の敬礼は解除された。

 ヘテランテラは、アービィたちが軍の礼を知らないことを察し、若者を咎めることもなく、直立不動の姿勢を保つ二人に楽にするように申しつける。

 

「若い方が特編中隊の指揮官、もう一人が副官だ。雑事は副官が担当する。遠慮なく、申し付けられよ」

 ヘテランテラが言った後、自己紹介を互いに済ませ、翌朝の再会を約して顔合わせは終わった。

 

 

 臨時の幕舎として接収した宿には、既にアービィたちの部屋が用意されていた。

 そのうえ、三人にはそれぞれに従卒が付けられている。

 もちろん、ルティとティアには女性の兵だ。

 

「どんな些細なことでも構いません。ご遠慮などなさらす、なんでもご命令下さい」

 従卒たちは三人を部屋に案内し、直立不動の姿勢で言う。

 

「ちょっと、僕たちはそんな扱いをしていただくほどの者では……」

 アービィが慌てて言う。

 

「とんでもございませんっ!! 師団長閣下直々のご命令でありますっ!! それに、あのウェンディロフ様を数秒で倒されたとか。そのような方の従兵を命じられることは、大変な誇りであります!!」

 アービィに付いた若い兵が瞳を輝かせて言う。

 

「そうです。それに、そのアービィ様を片手で捻るルティ様、それをお止めできるティア様も……」

 女性兵が頬を赤らめつつ続けた。

 言うまでもなく、その視線の先にはルティとティアがいたのだが、二人は背筋になんとなく寒気を感じていた。

 

 アービィ対ウェンディロフの決闘の顛末はほぼ正しく、その前の控えの間でのルティによるアービィへの折檻は極めて歪んだ形で、第二近衛師団に流布されていたようだ。

 頭を抱え込んだルティと、照れたり戸惑ったりと忙しいアービィを見て、ティアは苦笑いを漏らしていた。

 

 

 部屋に荷物を置き、翌日まですることがなくなったアービィたちだが、下手に動くと従卒たちがすっ飛んでくるので気を使ってしまい、部屋から出る気がなくなってしまっていた。

いつもであれば、街に繰り出して酒場にでも行くのだが、それにも付いてきそうだったし、一緒に飲むことはできそうもなかった。かといって、部屋で三人で飲もうにも、扉の外に人を控えさせて飲んだくれるのは気が引ける。珍しく三人は顔を合わせることもなく、それぞれの部屋に備え付けの蒸留酒を飲むだけで、早々と寝てしまった。

 もっとも、絵に描いたような庶民育ちのルティとアービィは、別料金だと思って従卒に酒の支払方法を聞きに行ってしまったが。

 

 

 その夜、アービィは夢を見た。

 いつか、ベルテロイでドーンレッドから自分の正体を告げられたときと同じような始まり方をした夢だった。

 

――やぁ、僕――

「え? 狼?」

 

――うん――

「どこ行ってたの? 心配してたんだよ?」

 

――僕は、いらない子なんでしょ?――

「え? え?」

 

 巨狼が泣いていた。

 切れ長の瞳から、涙が溢れている。

 当然会話は、音声を介するものではなく、脳裏に響く念話だった。

 

――僕は、いらな――

「そんなこと、ないっ!!」

 

 アービィは思いっ切り狼の念話を遮った。

 狼が思わす息を呑む。

 

――だって……――

「いなくなっちゃって心配してたんだっ!! いらなくなんてないっ!!」

 アービィは気付いていた。

 異世界人としての自分が完全に同化した今、狼もやはり自分なのだと気付いていた。

 封じ込めたり、分離して消し去ったりする対象ではなく、常に共にあるべき対象だった。

 世界が人狼を恐れている以上、いつでも具現化させるわけにはいかないが、いつか好きなときに獣化できる世の中になって欲しかった。

 

――……――

「僕は、僕の中にいなくちゃダメだ」

 

――でも、みんな僕のこと怖がるし、僕だって隠してるじゃないかっ!!――

「……だけど……」

 そう言われてしまうと、アービィには返す言葉がない。だが、狼を拒絶することは、自己否定になってしまう。

 

――ほら、やっぱり僕はいらな――

「そんなことないっ!!」

 

――前に自分で言ってたじゃない、ルティと暮らすのには、異世界人の人格と僕が僕から分離しなきゃって――

 

――そうだ。俺は分離しなきゃ還れねぇ。だがな、還る気がなきゃ分離する必要もねぇだろ? おい、狼、お前はどうしたいんだよ? 消えちまっていいのか? ルティと離ればなれになっちまっていいのかよ!?――

 黒髪に黒い瞳を持つ男が、突然闇の中から現れて狼の頭を力一杯叩いてから言った。

 

「そうだよ、ルティと離れなきゃいけなくなっちゃうよ。……って、もう出てこないんじゃなかったの?」

 アービィは驚いて訊ねた。

 

――あぁ、そのつもりだったし、完全に同化したからもう出てこれないと思っていたんだがな。あんまり俺がぐだぐだぬかすんで、苛立ってたら具現化しちまった――

 男は苦笑いしながら言った。

 

 結局、アービィも黒い髪と瞳の男も、狼も、同一人物だ。考えることは一緒。

 狼は、自分の存在を肯定したい。して欲しい。ただそれだけのことで、拗ねているようなものだった。魔法陣の光を受け、大きなダメージを受けて暫くは、野生動物と同じように息を潜めて体力が戻るのを待っていた。

 その間に、この世界の人間としてのアービィが見せた迷いが、狼の言っていることだった。

 

 異世界で二十五歳まで暮らしていた自分から見ると、アービィも狼も自我が形成されてから十年程しか経っていないためか、考え方がかなり幼く感じられる。

 まだ精神年齢が肉体の年齢に追いついていない感じだ。もっとも、二十五歳からの十年は、アービィと狼として成長していたため、異世界人としての成長はなかったので、実年齢であれば三十五歳になっているはずなのにそこまで成熟したという実感もなかったのだが。

 アービィが厳しく言い諭すことは無理そうだったし、狼に至っては拗ねて駄々を捏ねているだけにしか見えない。

 いくら否定しようとも、自殺すらできない不死性を持つ身体では、全てを受け入れて寿命が尽き果てるまで生きていくしかなかった。

 

 

 異世界の自分は、商社勤めだったが、研究開発部門に所属していた。

 継続性が求められた研究は、土日祝祭日など関係ない不規則な勤務シフトを組まざるを得なかった。休みが合わない学生時代の友達や恋人とは、いつしか離れてしまっていた。共同で研究を進める仲間とは四六時中顔を合わせているからだろうか、仕事以外でまで付き合う気は起きなかった。

 たまに飲みに行くことはあっても社外ではほぼ没交渉だった。

 

 営業や総務、企画の者たちは、他社との付き合いのためカレンダー通りの休みを取る必要があり、二週間近く顔すら合わせないことも稀ではなかった。

 そのためだろう、同僚とは名ばかりでこちらとは社内にいるときですら、仕事以外の内容はほとんど話す機会さえない。それなりにやりがいのある仕事だったが、人間関係のあまりの薄さに寂寥感に苛まれることが多かった。

 両親とも縁が薄く、家庭に良い思い出もほとんど無いからか、郷愁を感じることはない。

 既にあの世界に未練を感じることはほとんどなく、この世界に骨を埋める気になっている。

 

 この世界の人間としてのアービィにも、異世界での記憶はかなり戻っていた。

 確かに便利な世の中だった。そして、日本は平和な社会だ。町から町へ移動するだけでも、命の危険と隣り合わせになるこの世界とは大違いだった。

 だが、そこへアービィ・バルテリーとして戻りたいという欲求は、まるでない。

 異世界人としての自分をそこへ戻したいとは思っているが、その自分でさえももう戻りたいとは思わなくなっていた。

 

 狼としての自分は、異世界から召喚された自分が、若返らされ、異世界での言葉も含めた記憶ごと封じ込められた器だった。

 欲求の赴くままに原野を駆け、森を潜り抜けていた。

 食欲を満たすため、人の姿になってフォーミット村の入り口に立ったときは、この世界の言葉すら解らなかった。

 

 もし、異世界人の魂が封じ込められていなかったら、そこら辺にいる人狼と同じような性格が形成されていのだろう。

 だが、無意識下に存在していた前の世界での人格と記憶が、この器にされた人狼を殺戮マシーンへと成長させることを拒んでいた。そして、ルティ一家に拾われて人狼として迫害されることもなく、人への憎しみや怨みを持つこともなく、慈しまれながら育てられた。その結果として、今のアービィとしての寛容を絵に描いたような人格や、ほとんどの人に対して敵意というものを持たない性格が作られている。

 狼が自分をいらない子だと感じていることの理由の一つは、時として爆発しそうなくらいの殺意を抱いてしまう性格を、人狼の本性だと思い込んでいることに拠るものだった。

 

 人狼が人間と共生できるはずがないという常識は、この世界では強固なものだ。

 狼としてのアービィ自身、見聞きしてきた話からもそう思う。だが、自分はほとんど問題なく、人間との共生を果たしている。では、他の人狼が今からそうなれるかと言われたなら、それは無理だということも理解していた。矯正などできるとは思ってもいないし、できると思うほど思い上がってもいない。

 このまま人間と暮らし続けることは、他の人狼に反発や嫉妬、妬みといった負の感情を喚起してしまうのではないかという恐れも感じていた。

 

 

 しかし、アービィは気付いていないことがある。

 人狼はそのほとんどが、徹底したインディビジュアリストでエゴイストだ。狼としてのアービィが育った狼の里は、たまたま群れていただけに過ぎない。フォーミット村で暮らすようになったアービィを鍛えていた狼も、血縁者というわけではなく、ただの気紛れからだった。フォーミット村を襲わなかった理由も、アービィがどうされるか見てみたいという欲求からだった。

 もちろん、森に迷い込んだフォーミットの村人が、群れに属していた人狼に襲われ痕跡さえ残さず食い尽くされるということはあった。

 

 アービィが人と暮らすことについても、物好きな奴がいる、という程度にしか他の人狼たちは感じていない。

 利害の衝突があれば、人狼同士の殺し合いすら厭わない生物だ。仮にアービィがバードンと組んで人狼狩りに従事したとしても、それを裏切り行為だと糾弾するような人狼は、ただの一人も存在しないだろう。そして、アービィが人狼救済に走ったとしても、利がないと思えば協力もしないし、害がないと思えば敵対もしない。

 狼としてのアービィが気にするほど、他の人狼たちは別個体の生き方に干渉する気もないし、同胞意識など持ってはいなかった。

 言い換えれば、アービィ自身が気にする必要もないということで、異世界人の自分はそれに気付いていた。

 

 

――いつまでぐだぐだ抜かしてるんだ? いい加減にしろよ。狼、お前は存在を認められたい。俺たちはそれを認めたい。それでいいじゃねぇかっ!!――

 黒い髪と瞳を持つ男が狼を蹴り飛ばし、闇に消えていく。

 今度こそ出てこねぇぞ、と言いながら。

 

――僕は……――

 自分を抱きしめるのは恥ずかしいなと思いながら、アービィは無言で狼の鼻面を抱きしめていた。

 誰がなんと言おうと、最後は自分が自分を肯定しなければ、自我を持ってしまった生物は生きてはいけない。

 

 次の瞬間、狼の姿が朧気になり、アービィの身体に浸透していく。

 それを期に、それまでどこにも感じていなかった狼の気配が、確かに体の中に感じられるようになった。どこにいる、というのではなく、自覚したといってもいいかも知れない感覚だ。

 異世界人としての記憶や、狼としての感覚が自然に溶け合い、一つの魂になっていく。不思議な感覚が全身を包み込み、アービィは再び深い眠りに落ちていった。


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