仮眠を交代した時点で、すっかり熟睡したルティは呪文の使用回数が完全回復していた。
さすがに八時間近く徹夜で見張りをしていたアービィは疲れたようで、横になるとすぐに寝息を立て始めた。
また夢を見始めたアービィがうなされ始めると、ルティはアービィの頭を抱え、揃えた自分の膝の上に乗せてやる。
アービィの髪を撫でながら、夜が明け切るのを待つ間、ルティは寝る前に考えていたことを再開しようとするが、やはりうまく纏まらない。
考えることを放棄したルティは、アービィの寝顔を眺めながら、こんな時間がずっと続けばいいと思っていた。
陽がまた昇り、アービィが起きる気配を感じたルティは、気恥ずかしさから慌てて膝を抜いた。
「ごぶっ」
「きゃあっ」
悲鳴が交錯し、頭を抱えてのた打ち回るアービィを、慌てたルティが介抱する。
「優しくとは言わないからさぁ、もうちょっと柔らかく起こすとかしてよ」
「起こしても、起きなかったくせに」
アービィはズキズキする頭を抱えルティに文句を言うが、理不尽な嘘で切り返された。
所詮、言ったところでどうなるものでもないという諦めもあり、アービィはそそくさと野営の後片付けを済ませ、森へと歩き始めた。
エクゼスの森に入り、泉への道を見つけた二人は、周囲を警戒しつつ泉の畔まで来た。
獣の気配はまったく無く、ギルドで聞いた話を裏付ける。
「さて、どうやって大蛇を誘き出すかだけど。ルティ、何か良い手はある?」
「これだけ生き物の気配がないとエサもないはずだから、ここにいるだけで出てくるんじゃない?
じゃ、あたしは隠れて見てるね」
アービィは、不承不承水辺に降り、水面に石を蹴り込む。まったく人を何だと思ってるんだ、あ、エサか……
魚の気配も無い水面にV字の細波が起き、尖った方をこちらに向け、一直線に近寄ってくる。
水面を割って姿を現したのは、予想したとおり優美な姿の大蛇だった。
腰の短刀を抜き放ち、逆手に構えたアービィと大蛇が睨み合う。
どちらにも隙が無いため、動くことができない。
ふと、大蛇の全身から緊張が抜け、それにつられてアービィが構えを解こうとした瞬間、大蛇の姿が景色に溶け始めた。
アービィは近くの大木を背にし、背後から襲われる危険性を消した後、周囲の気配を探る。
大蛇が姿を消した辺りに濃厚な気配を感じると、アービィは水辺に近寄り短刀を構え直す。
再び姿を現した大蛇は、さっきとはすっかり見た目が変わっていた。
美しいとしか良い様のない裸の女性の上半身に、ちょうど臍の辺りから下に蛇の下半身が生えている。
「ラミア……」
アービィは呟くと、ニヤリと笑みを浮かべる。
ラミアは少年が浮かべた笑みを虚勢と取ったか、上半身を揺らし、人間には解らない言語で言葉を紡いだ。
「アービィっ!! 『誘惑』の妖術が来るわよっ!!」
ラミアの意図を悟ったルティが木陰から飛び出し、ラミアに向かってナイフを投擲するが、距離がありすぎたためか、近くの水面に波紋を起こしただけだった。
ルティを意に介さず『誘惑』の呪文を詠唱し、見ているだけのアービィを尻目に完成させる。
アービィに向かって指を差し、動かないアービィに妖術が掛かったことを確信してから、ラミアはルティに向き直る。
「さて、久し振りの獲物ね。
おいしそうな男の子と、食いでのありそうな小娘か。
男の子は後の楽しみに取っといて、あなたから喰ってあげる」
凄艶な笑みを浮かべ、静かにルティに近寄る。
「アービィ……」
ルティはアービィを見たが、惚けたような顔でぼーっと突っ立っているだけだ。
この時点でルティが使える呪文は、『回復』のみ。つまり、攻撃の手段は背負っている剣のみだ。
実際問題としてルティは、それほど剣が得意なわけではない。
村を出る際に、持ち出せる武器がそれしかなかった、と言うのが実情だ。
それでも、ただ喰われるわけには行かない。アービィを守らなければ、という意識が、ルティに剣を握らせた。
不安定な構えでラミアに剣を向け、一気に切り掛かるが、ラミアの動きは素早く、剣は空を切る。
今度こそはと切り返すが、素手で軽く弾かれてしまう。
じりじりと詰め寄られ、闘気を恐怖が上回った瞬間、ルティの腰が抜けた。
へなへなと座り込んでしまったルティに、ラミアが尻尾を巻きつけようとしたその時。
空の盥で岩を叩いたような軽い音が響いた。
ラミアが頭を抱えて蹲る後ろで、ニヤニヤしたアービィが短刀の刃を横にして持ち立っていた。
「へ……?」
ラミアとルティが、同時に間抜けな声を出す。
「なんで……平気なの?」
再度、ハモるラミアとルティ。
「そいつは喰わせねぇ。それと、後のお楽しみって何なんだよ?」
一瞬にして膨らませた闘気に、ラミアは人狼の影を見て全てを悟った。そりゃ、あんな化け物に妖術が効くわけないわ。
たじろぎながらも逃げられるように構えたまま、虚勢を張りつつラミアは答える。
「女は追い返すことにしてるの。男は死ぬまで精を搾り取っていたわ」
アービィはうんうんと首肯しながら聞く。
「つまり、だ。あんなことやこんなこととか……?」
アービィの問いにラミアは具体的に言おうかとした瞬間、もうひとつの殺気を感じ、首肯するに留めた。
「ちょっと、話を聞け」
ラミアの肩を抱え、ルティに聞こえないように、耳元でアービィが囁く。
「僕の想像が正しければだけど……。君は娼館に勤めたらいいと思うんだ。男の精は絞り放題でお金が貰えて、食べたいものも買い放だ――ぷべっ!!」
皆まで言わせず、先ほどラミアを恐怖させた殺気の元がアービィを張り倒す。
ほぼ同時に、ラミアの尻尾がアービィを打ち据える。
「なんてこと言うのよっ!!」
三度ハモるラミアとルティ。
「だって~、無駄に殺生したくないし~。あんなこととか、こんなこととかできるなら人化できるんでしょ? だったら需要と供給の関係が成立するんだから、平和な解決策じゃないか~」
再度アービィを張り倒すルティ。
キャインキャインいいながら逃げるアービィ。
逃げる機会を失って立ち尽くすラミアが、そこにいた。
「いや、ね、それも一度は考えたのよ、娼館。でも、見たところ、あれって、好みじゃない男まで相手にしなきゃいけないでしょ?」
「まあ、そうよね。じゃあ、王都あたりで高級娼婦を目指すなんていかがかしら?」
呆れたルティが提案する。
「あれなら拒否権もあるみたいだもんね~」
いつのまにか側に戻ってきたアービィが同調する。
「そうね、それも、ありか、な。最近、ここ、誰も来てくれないのよ。来ても蛇の姿見ただけで逃げちゃうし。河岸替える頃合いなのかもね」
「じゃあ、これで討伐完了ってことでいいのかな? 証拠はどうしましょうか、アービィ?」
ラミアの答えに満足げなルティの問いに、アービィは考え込む。
通常、討伐の証拠は身体の一部だ。
ギルドは、この証拠品を魔装品やその材料として売却し、利益を上げている。
仲介料程度では、旅から旅へと渡り歩き、住所が確定しない冒険者の人頭税までは賄い切れないからだ。
この場合、口八丁で泉からラミアを追い出したわけだから、一応泉の状況復帰という目的は達せられた。
今回は、魔獣の討伐は手段であって目的ではない。
が、いくらギルドに魔獣がいなくなりました、と言ったところで証拠がなければどうしようもないのだ。
ラミア自身がギルドに出向くなど、論外中の論外。町中がパニックになる。
身体を切り取るのも論外だ。偽者を仕立て上げたり、偽物を作るのも、バレたら二人とも牢屋行きだ。
さて、困ったね、とアービィは考え込んでしまった。
「このティアラじゃだめかな?」
ラミアが髪に着けていたティアラを差し出す。
「これが無いと妖術が使えないのよ。
鑑定士が見ればラミアの持ち物ってことくらいは判るはずよ」
「もう、妖術は使わない、ってこと?」
驚いたルティが聞く。
つまり、魔獣としては生きられない。妖術が使えないラミアはそれほど戦闘力が高くない。
今後、どこかで人を襲えば、あっというまに討伐されてしまう。
人化して、町に溶け込むしか生きる術は無いのだ。
「そう、妖術はいらないわ。
魔獣全てが人に害をなそうと思っているわけじゃないもの」
とりあえず、ラミアのティアラを討伐の証拠としてギルドに提出し、依頼を完了させることにして、フュリアの町に帰ることにした。
ラミアは、王都に向かうつもりだが、女一人で旅させるのは危険じゃないかと言い出し、当面一緒に行動することになった。
ルティは反対したが、危険なのはラミア自身ではなく、途中で襲った男のほうじゃないかとアービィに言われ、渋々承知した。
あなたに言い寄りそうなのが一番嫌なのよ、気付け、ぼけ狼。
「ところで、名前は、ラミア?」
「そーねー、以前人化していたときには、ティアって名乗ってたわ」
人化してたのかい、というルティの突っ込みを無視して、アービィは自己紹介をした。
「じゃ、よろしくね、ティア。僕はアービィで、こっちはルティね」
フュリアの町に向かう途中の野営地で、酔い潰れたルティを寝かし、アービィとティアが不寝番の暇潰しに話している。
これからのこと、人との係わり合い。心配の種は尽きないが、人化の経験が皆無ではないティアなら、なんとか暮らしていけるだろう。
娼婦になれとは、あの場の咄嗟の思い付きでしかなく、アービィとしては自分のように人の間に溶け込んでほしい。
狼の里で感じていた冷たさと、ルティと家族として過ごしていた時期に感じた温かさとの差から、ティアにもそんな温かさを感じ取ってほしいと思っていた。
朝、二日酔いのルティが起き、野営地を引き払って三人が歩き出す。
「あたしね、決めたの」
突然ティアが言い出した。
「王都に行くのも良いんだけど、あなた達に付いて行きたい」
「なんでよ~、あたしは、魔獣使いじゃないんだからっ!!」
ルティが叫ぶ。
「いいじゃない、楽しそうだし」
意に介さないアービィ。彼は純粋に楽しそうだとしか思っていない。
ルティは解っているようね、あたしの狙い。じゃあ、宣戦布告でいいかしら。
「はっきりした態度じゃないと、奪っちゃうからね」
ティアは、ルティを指差し、宣言した後、騒ぐルティを無視してアービィの首に抱きつき、唇を近づける。
もう少しでお互いの唇が触れ合うというところで、ティアは目を閉じた。
数瞬の後、ティアの唇に、明らかに唇とは違う冷たい感触が伝わる。
目を開けたティアが見たものは、きょとんとした表情でお座りをしている、巨大な狼だった。