狼と少女の物語   作:くらいさおら

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第55話

 一夜が明けた。鳥の囀りが清々しい。

 

 いつまでも出てこない二人を不審に思ったティアがアービィの部屋まで行くと、中からルティの罵声が響いてきた。

 慌てて中に入ろうと扉に手を掛けると鍵が開いている。そのまま中に入ると、お座りさせられた巨狼に向かって、罵声を浴びせ続けるルティがいた。

 それだけで、ティアには昨夜二人の間に何があったか、手に取るように解ってしまった。

 

 昨夜、アービィは縋りついてきたルティの髪を撫でながら、暫くは宥めていた。

 ルティがアービィを見上げ目を閉じたとき、自然にキスできた。そして、いい雰囲気になり、二人とも望んでいたことであったし、そのままベッドに倒れこんだ。

 だが、これからというときにアービィの精神が限界突破し、一気に獣化してしまったのだった。

 

 

――呆れてないでルティを止めてよ~、僕だって好きで獣化したんじゃないのに~――

 頭を抱えるティアにアービィの念話が届く。

 溜息をつきつつ、ティアがルティを引き摺って部屋を出ようとする。

 

「離してっ、ティアっ。今日と言う今日は、あのボケをっ!! 『誘惑』掛けちゃってっ!!」

 ルティは混乱の極みか、欲望丸出しの言葉すら吐いていた。

 それどころか、うっすらと涙まで浮かべている。

 

「ちょっと、帰ってきなさい、ルティ。アービィは、もうちょっとしっかりしなさい。早く元に戻って、服着て、朝ごはん食べよ。ね、ルティは落ち着くっ!!」

 ティアが二人を宥め、叱咤し、取り成した。

 

 そのままルティを引き摺り、宿の食堂でアービィを待つ。

 暫く待っていると、目を真っ赤にしたアービィが入ってくる。

 ルティはようやく落ち着いたのか、ティアに言った自分の言葉を恥じたのか、すっかり静かになっていた。

 蒸し返してルティの機嫌がまた悪化しても嫌なので、ティアもアービィも昨夜のことに触れようとはしなかった。

 

 

 御者は、昨夜早い時間のうちに、捕らえた男たちからギーセンハイムにおけるクーデター支援作戦のあらましを尋問し終わっていた。

 もちろん一人が捕らえられただけで全てが露見しないように、一人一人が知る情報は限定されている。だが、リーダー格の男がギーセンハイムにおける中心人物であったため、一部を除いての情報を引き出すことができていた。しかし、ビースマック王国の間諜ではなく、アディポサリ公爵家が雇っている密偵だったため、ビースマックの機密に関した情報は引き出すことはできなかった。

 昨夜の記憶全てを消し去り、再度昏睡状態にしてからフィランサスの密偵に引き渡していた。

 

 フィランサスの密偵は、ほとんど同じような手順で男たちからクーデター支援作戦のあらましを引き出していた。

 自白剤はインダミトだけではなく、ビースマックでも開発されている。職人気質の国柄か、インダミトのものよりさらに強力で、後遺症の残らないものだった。

 どうせ同じ情報を共有することになるのなら、二人の密偵が共同で尋問に当たればよいと思われるが、それぞれ自白剤に付いては国家機密であるため、尋問の場に他国の密偵を入れるわけにはいかなかったのだ。

 

 夜明け前に解放された男たちは、昨夜の記憶が曖昧なまま家路に付く。

 指令を出していた張本人が記憶を消されていては、周囲にそれを怪しいと思う者はおらず、それを怪しいと思える立場の者は情報の統制のため別行動だった。男たちから引き出された情報を元に、ほとんど全てのガーゴイルの配置とクーデターグループの名簿は暴露された。

 急遽呼び寄せられたフィランサス配下の密偵団により、グループの人員たちは昨夜の男たち同様の運命を辿り、急速に支援作戦の能力を奪われていった。

 ガーゴイルを操る役割の者たちからガーゴイル起動のキーワードを聞き出し、町中に隠蔽されたガーゴイルを毎夜起動させては関節等の動きの要の部分を破壊して回る。

 

 アービィたちが王都に到着する頃には、発見したガーゴイル全てが稼動不能になる。

 全てを洗い出せたわけではないと、希望的観測をすることはない密偵たちだが、それでもほとんどの脅威は排除できたと確信していた。

 密偵団に狩られたクーデターグループの人員たちは、尋問を受けた記憶を消されており、クーデター決行日まで予定通りの行動を続けることになる。

 

 

 昼過ぎまで休んだアービィたちは、午後のお茶の時間に合わせてメディを訪ねた。

 この日の朝一番で、メディたち家族はギーセンハイムを統括する貴族が管理する人別事務所に行き、正式に養子縁組を済ませ、新しい戸籍を得ていた。

 メデューサ・ルブロドルッサ。

 これが新しいメディの名前だ。メディは家名を持つことになった。

 

 旅の途中では動きやすい服装が優先されたため、メディがスカートやドレスを着ることなど、ほとんどなかった。

 それが今は、ルブロドルッサ夫妻が選んだドレスを身に纏い、アービィたちを迎えている。金髪がドレスの青に映え、碧眼が見事な調和を見せている。呪詛のせいで16歳で成長が止まったメディは、初々しい雰囲気を漂わせている。

 思わずアービィは見とれてしまい、ルティに力いっぱい蹴りを入れられる羽目になった。

 

 和やかな雰囲気でお茶の用意されたテーブルを囲み、改めてメディの父となったアギリスから礼の言葉が述べられる。

 アービィたちにしてみれば、改めてこのような形で言われてしまうと照れること頻りなのだが、さすがにお茶らけた雰囲気にすることはできなかった。メディの母となったサリスは、甲斐甲斐しくアービィたちの世話を焼いている。

 メディは、昨夜あれからずっと話し合っていたようで、すっかり落ち着きを取り戻していた。

 

 これからのこと、治癒師として開業する場所は屋敷の一部を改装することなどが話題に上り、アービィはメディの生活に心配のないことを確信していた。

 ビースマックは北の民への偏見が比較的弱い。全くないというわけではないのだが、奴隷として所有していたとしても、重要な働き手として大切に扱われていた。

 もし、ルムとバイアブランカの話し合いが上手くいき、北の民との交易が始まれば、一番最初に北の民が市民権を得るのはビースマックだろうと思われている。

 

 メディはそのことを両親に話していた。

 アギリスは町長の役職でこそないが、ギーセンハイムではそれなりに知れた名家の当主だ。当然領主の貴族とも街の運営に付いて話をする機会もある。今後は北の民の名誉回復と、奴隷解放が課題となることは、彼の目には既に見えている。

 メディを中心にした北の民のコミュニティができるであろうことも、彼らが街の新しい勢力になることも、それをどうコントロールしなければならないかもアギリスの重要な仕事になる。

 

 いきなり奴隷の立場から開放された北の民が、それまでの恨みを晴らすため暴動を起こさないとも限らない。

 いくら大切に扱われていたとはいえ、奴隷は奴隷だ。今からその地均しはしておくべきだろう。メディだけが優遇されていると思わせてもいけない。

 身内びいきは他の嫉妬を呼び込み、余計な亀裂を生じさせるだけだ。さじ加減は難しいが、メディもそれは自覚していた。

 

 晩餐の時間が来ても、使用人がいないルブロドルッサ家ではサリスが準備をしなければ、何もできてはこない。

 町有数の名家であるが、失意の時を過ごす間、使用人には暇を出してしまっていた。

 このため、今日はどこかの店を予約するつもりであったが、メディの提案で共同で晩餐の準備をすることになった。

 

 アービィとルティ、サリスが連れ立って買出しに行く間、メディとティア、アギリスが食堂の設えをする。

 最初はもてなす側が心苦しいといっていたのだが、是非やらせて欲しいというアービィの熱意に負けたのだった。

 アービィたちは、ルブロドルッサ家に心から感謝していた。メディの帰る場所を作ってくれたのだ。

 いくら感謝してもし過ぎということはない。そのせめてものお礼に、今夜の晩餐はもてなされるだけではなく、こちらからも何かできないかと思ったのだった。

 

 

 ビースマックの料理は、ストラーやインダミトのような食材に恵まれた国々とは違い、食材が不足しがちな風土から、それを解消するための工夫が凝らされている。

 農地や牧畜に適した土地が少ないため、ストラーから食料を輸入しているが、輸送中の鮮度の低下が少ないものが多く、食材のバリエーションはそれほど多くない。また鮮度の低下を防ぐため肉類は生きたまま運ぶことになるため、途中の餌料代などで輸送費が嵩み、他国に比べ少々割高で、やはり種類も少ない。同じ食材が続いても、それらを少しでも美味しく、飽きが来ないように食べるための加工技術は進んでいた。

 標高が高く寒冷で痩せた土地でも栽培できるジャガイモに似た芋が、この国では主食になっていた。

 

 芋は主食であるためか、然程料理のバリエーションは多くない。

 主菜の味で食べるため、茹でるか蒸すくらいのものだった。野菜類もキャベツに似た葉野菜の酢漬け、つまりザワークラウトのようなものやピクルスが主流だ。肉類は腸詰にされているものが多く、その種類は豊富だった。また、加工の過程で出る屑肉を、固めて薄く延ばし焼いたものは、労働者の間食として一般的だった。

 食材の種類が少ないためか調味料は発達しており、食材の残りから様々なソースが作られ、顆粒のスープの素こそフリーズドライ製法が開発されていないため見つからないが、ペースト状に煮詰められたものが瓶詰めで売られていた。

 

 アービィは、ビースマックの料理が元いた世界のドイツ料理に似ていることに気付いていた。

 世界は違えど風土が似ると食べる物も似るのかと、妙な感心をしていたところだったので、『本場』のハンバーグを食べてみたいと思っていた。屑肉を薄く焼いたものは、肉と塩、少々の香辛料だけというシンプルさで、どちらかというとタルタルステーキを焼いたようなものだった。

 市場で聞いて歩いたが、肉の繋ぎにパン粉や卵を入れる方法は、まだこの世界ではないようだった。

 

 屑肉とはいえ、痛んだものではあるはずがなく、脂身を適度に含んだ牛と豚の切り落としを買い込む。

 玉ねぎに似た野菜はすぐに見つかり、卵と牛乳、そしてパン粉にするためとはいえ少々上等なパンを仕入れる。ソース用にトマトとニンジンのような野菜と小麦粉、バター、牛の骨、その他セロリやエシャロットのような香味野菜数種類を買い込んだ。そして、デミグラスソース似たソースも買い込む。薄く焼いた肉に掛けて食べるのが普通のようだった。

 ジャガイモやベーコンのようなものは、各家庭で常備していると聞いていたので、これはルブロドルッサ家にあるものを拝借することにした。

 

 

 ルブロドルッサ家に帰り、厨房を借りる。既にサリスが塩漬けの豚肉を戻した物を煮込んでいた。

 アイスバインに似た料理だ。他にも牛のレバーを練りこんだ肉団子を煮込んだものや、肉を薄く叩いて塩胡椒で下味を付けたものが用意されている。おそらくそれに塗すのだろう、溶き卵と胡椒を混ぜたパン粉と、ラードが用意されている。

 それぞれ、レバー・クネーデル・ズッペとシュニッツェルに相当する料理だった。

 

 アービィは、玉ねぎを刻み、バターで甘みが出るまで炒め、一度皿に取り粗熱を取る。

 その間にジャガイモを向いてスライスしたものを水に晒す。ニンジンを細長く切り、面取りしたものを砂糖とワイン、水で茹で、沸騰したところで塩とバターを放り込む。別鍋で玉ねぎとセロリ、エシャロットを炒め、トマトを加えた後、デミグラスソースを鍋に開け、赤ワインを加えて煮込んでおく。

 屑肉を叩いて挽肉にし、卵と粗熱を取った玉ネギ、下ろしたてのパン粉と牛乳を加えて粘りが出るまで練りこんだ。

 練ったパテを両手に交互に叩きつけるようにして成型しつつ空気を抜き、真ん中に凹みをつけてパテを完成させた。

 

 水気が減ったニンジンの鍋に別に茹でてあったレンズ豆を加え、グラッセを完成させる。

 フライパン二つを熱し、片方でベーコンを炒めて油を出し、そこにスライスして水に晒したジャガイモを入れ、焼き目が付いたところで蓋をして弱火に落す。もう片方のフライパンを熱し、ラードを敷いてからパテを並べ入れ、両面に強めに焼き色を付けてから弱火にして蓋をする。

 やがて、両方のフライパンの中身に火が通り、ジャーマンポテトとハンバーグステーキが焼きあがった。

 

 食材の種類こそ少ないが、様々な方法で作られた料理がテーブルに並び、六人の晩餐が始まった。

 ルブロドルッサ夫妻は、初めて食べる味に驚き、アービィにどこで習ったのか聞き始めた。もちろん、日本で覚えたとも言えず、いつの間にか思い付いたことにしたが、サリスは作り方を根掘り葉掘り聞き出している。

 アービィは夫妻の作った料理が思い通りの味だったことに感動し、忘れかけていた世界を思い出していた。

 

 料理は、人間の味覚はどこでも一緒だった。

 確かに今まで回った地域によっては、風土によっては苦手な味があったことは否定できない。慣れない食材であれば尚のことだ。だが、それでもどこかで食べたことのある料理がいくつかはあり、そのお陰で極度のホームシックになることはなかった。偶然なのか、必然なのか、前の世界の記憶を失っていたせいか、食を受け入れられたことをアービィは感謝していた。

 これならルティと一緒にこの世界に骨を埋めることに不安はないね。

 

 話は尽きなかったが、翌朝早くに出立するアービィたちを、メディたちは引き止めなかった。

 永の別れではない。

 またすぐに会えるということを言い聞かせるためにも、別れはあっさりとしたものだった。

 

 

 翌朝、御者が操る馬車は、普通では考えられない速度でギーセンハイムの町を出た。

 アービィたちがメディの家に寄るということは、パシュースもフィランサスも承知していた。

 出立時には慌しくて申し出る余裕がなかったのだったが、馬車を通常の三倍のスピードで走らせた結果、一日か二日の余裕ができていた。ギーセンハイムに到着する前に、御者がフィランサスの密偵を通してベルテロイに報告している。ギーセンハイムから土の神殿の町ツェレンドルフまでは、急げば馬車で一日。さらにそこから王都までは、同様に馬車で三日あれば行けそうだった。クーデター決行の二日前には到着できる計算だ。

 黎明のうちに出発できれば、その計算通りになるはずだった。

 

 フィランサスからビースマックの宰相ディアートゥス公爵を訪ねるように言われており、打ち合わせが慌しくならないように一日くらいは余裕が欲しい。

 途中休憩もそこそこに馬車はギーセンハイムを遠ざかり、ツェレンドルフへと急いでいた。

 当然、時間が合わなければ、ツェレンドルフを通過することになる。ノタータスとの旅のお陰で馬の扱いを覚えていた三人は、御者の疲労度を考え適度に手綱を交代する。

 御者が仮眠を取り、ルティが手綱を握っている間、アービィとティアは呪文の混合に付いて話し合っていた。

 

 エンドラーズがやったように、『火球』なり『大炎』に、ティアの持つ『持続』を混ぜられないかということだ。

 元々呪文を維持させるために使われるエンドラーズの『持続』と、性交の継続を目的として肉体と精神に作用するティアの『持続』は、呪文の性質が違う。それをどうやって混合させるか、かなりの難問だった。

 試しにアービィが『大炎』を放ち、その火の玉に向かってティアが『持続』を掛けてみたが、精神を持たない火の玉に効果はなかった。

 アービィに直接『持続』を掛けようとしても、人狼が持つ呪文への抗堪性がそれを許さず、効いてしまえば性欲だけが突出し、いきなり獣化する危険性もあったため重ね掛けの実験は控えている。

 あれこれ話していたが、結局は効果の方向性の違う呪文の混合は無理という結論に落ち着いていたが、アービィは時間短縮のためどうしても諦め切れなかった。

 

 

 黎明から走り、陽も傾き始めた頃ツェレンドルフの町を通過しようとしていたが、馬が限界のようだった。

 パシュースが手配した馬車屋で馬を交換し、あと少しだけ走ろうということになった。

 町を出て、暫く走ったところで陽が沈み、周囲を急速に闇が包む。この日はどうやらここまでのようだ。

 野営に適した場所に馬車を止め、火を熾す。レーションで腹を満たし、翌日に備えそれぞれが夜具に包まったとき、突然アービィが馬車から飛び出した。

 

 そのまま『大炎』を発動させ、火の玉を投擲せずに掌の上に維持している。

 魔獣かクーデターグループの襲撃かと、全員が身構えていると、アービィはもう一つの呪文を詠唱し、火の玉を前方に放った。

 地面に落ちた火の玉は、それから暫くの間風に吹かれつつも明るさを維持している。

 

「できたよっ!! できた。『倍力』で火の玉の力を上げてやればよかったんだっ!!」

 アービィははしゃいでいる。

 さらに一発『大炎』を発動させ、『倍力』を足してから宙に放つと、ゆっくり火の玉が下降し周囲を照らしていた。

 

「ほらほら、上手くいった~」

 また『大炎』を放ち、呪文使用回数の限界まで続けようとするアービィを、唖然として見ているだけだったルティが我に帰って殴り飛ばす。 

 

「何、してんのよ、この、ボケぇっ!! 辺り一面火の海にする気!? 地面に落ちてちゃダメでしょうっ!! 馬だって怖くて進めないわよっ!!」

 言われてみればその通りで、アービィから数m離れた位置に八ヶ所の焦げ後ができている。

 

「う~、ごめんよぉ……上手くいくと思ったのにぃ~」

 確かに、『大炎』にしろ、『爆炎』であろうと、効果の継続時間は数瞬だ。

 それがまだ数十秒とはいえ光を発し続けている。

 大変な進歩といえるが、これではただの環境破壊でしかない。

 

 いかに火の玉を空中に留め、数時間単位で継続させるかだが、はやり桁違いの精神力を誇るエンドラーズならではの技だ。

 松明を持って先導する手もあるが、馬が怯える可能性が大であり、馬の足に対して余りにも遅すぎるうえ、体力を消耗し翌日の行程に影響が出かねなかった。

 電気の利用法がまだ確立していないこの世界では、ヘッドライトに相当するものは松明しかなく、火を恐れる馬が引く馬車では使用できなかった。松根油を利用したカンテラはあるが、とても夜道を照らし通すことなどは不可能で、馬の足では危険を察知したときにはもう手遅れになってしまう。まさか、御者がいる前でアービィが獣化して馬車を曳くわけにもいかず、現状では夜間の前進は手詰まりとなっている。

 それでも全員が眠りに就くまで、アービィはぶつぶつと何かを呟いていた。

 

 近くの森から動物たちが動き出す気配がし始める黎明のとき、アービィたちは起き出して馬車を走らせ始める。

 交代で手綱を握り、その間は夜の睡眠不足を取り戻すため、馬車の中ではできるだけ寝るようにしている。それでも不規則な揺れで下から突き動かされていては、満足に眠ることはできなかった。

 その行程も、シュットガルドまであと一泊だ。

 

 

 ディアートゥス公爵は、今までにない焦りを感じている。

 目の前にいるフィランサスからの伝達にあった冒険者たちは、まさに疲労困憊の極にあった。そればかりか、腕利きといわれている御者に扮したパシュース直属の密偵も、同じような有様だ。一つだけ安心できるかもしれない根拠は、自分も見知っているフィランサス配下の密偵までが、同様に疲労困憊に態だということだ。

 よほど急いで来たのであろうことは、想像に難くない。

 だが、今にも崩れ落ちそうなアービィやルティ、ティアの表情は、これから建国以来の国難に立ち向う身にとって、あまりにも頼りないものだった。

 ディアートゥス公爵も当然聞き及んでいるラシアスの一件は、話に尾ひれが就いたものではないかと訝しむのも無理はない。

 

「さて、勇者殿。とにもかくにも、ひと眠りされて疲れを癒されてはいかがか? それでは食事も摂れなかろう。風呂もご用意した」

 ディアートゥス公爵がそう言うと、アービィたちは心底ありがたいという表情で答える。

 

「はい、公爵閣下。立ったままで、本当に失礼で申し訳ありません……申し訳ございませんが、お言葉に甘えさせていただきます」

 それ以上は言葉が出てこない。

 今にも、いや、ソファーを勧められても立ったままのアービィたちは、座った瞬間に眠り込みそうだった。

 

 通常、馬車で四十日以上掛かる行程を、途中馬を代え放題だったとはいえ、十三日で駆け抜けていた。

 途中ギーセンハイムで一泊分の休養を取っているとはいえ、疲労困憊になるのも仕方のないことだった。

 

 乾坤一擲の戦いに無残にも敗れた敗残兵のような佇まいのまま、アービィたちは侍女に連れられ部屋に荷物を下ろす。

 既にそれぞれの部屋には湯が沸かされており、打ち合わせでもしたかのように三人は湯船へと突入した。

 ルティとティアは、侍女に時折眠り込んでいないか見に来て欲しいと頼み、アービィは部屋に置いてあった砂時計を侍女に渡し、三回ひっくり返して出てきていなかったら、助けて、と情けないことを頼んでいた。

 

 

 ルティは湯船に漬かりながら、昨夜のことを思い出していた。

 ゴブリンやコボルド、リザードマンといった雑魚のような魔獣が、五月雨式に襲撃してきていた。それぞれの群れを撃退することは難事ではないのだが、いつまでも続く襲撃に御者を含む四人の神経は紙やすりで削られるかのように消耗させられていた。

 結局徹夜のまま馬車を走らせたが、疲れが嵩みすぎで馬車の中で眠ることもできず、一睡もせずに昼頃ディアートゥス公爵の屋敷に到着したのだった。

 

 御者に聞いても、この辺りに野生動物が出没することはあっても、僅かでも知性を持った魔獣は出ることはない。

 シュットガルドの防備は固く、定期的に魔獣討伐を行っており、知性のある魔獣であれば経験からこの地域の危険性は知っていたはずだ、と言われただけだった。その危険性を知っている魔獣が何故出てきたか。居留地に何かしらの危険が迫ったからではないか。

 その危険は一体何なのか。そこまで考えたとき、遠くで自分を呼ぶ声が聞こえ、目の前に花畑が広がっていることに気付いた。

 

「ぶはぁっ!? 何か見えた!?」

 盛大にむせ返り、鼻水まで垂らして苦しむルティに、扉の外から侍女が心配そうに声を掛けてきた。

 どうやら完全に眠り込み、湯船に沈んでいたらしい。

 

「ルティ様、だいじょうぶでございますかっ!? お気を確かにっ!?」

 まともに言葉を返せず、さらに心配した侍女が扉を開けて入ってくる。

 

「ごめ゛ん゛な゛ざい゛……ね゛ぢゃい゛ま゛じだぁ……」

 なんとか、その後謝り倒して心配する侍女に退出してもらい、後始末をして浴室を後にした。

 冗談じゃないわ、あんな胸が主張してる子なんかに……

 

 

 やはりティアも、昨夜の魔獣の襲撃に付いて考えていた。

 あきらかに何かに怯えていた。破れかぶれに見えた。進むも敵、戻るも敵の状況で、少しでも突破の可能性が高い方に賭けたように見えた。何が彼らをそこまで追い詰めたのかが解らない。他の強大な魔獣だろうか。だが、そのような状況の中で、彼らは危険を回避しながら生きていたはずだ。その嗅覚は人間以上のはず。ティアにも覚えのあることだった。

 ティアは、そのまま思考の海に沈んでいった。

 

「ティア様、ティア様っ!! お返事をなさってくださいっ!! 誰かっ!! 誰かぁ~っ!!」

 扉の開く音と同時に侍女の悲鳴が聞こえ、ティアは目を覚ました。

 どうやら目を開けたまま熟睡し、かなりの時間湯船に沈んでいたらしい。

 蛇属性のティアは、少々水に沈んでいたところで命に影響などないのだが、普通の人間である侍女がそれを知るわけがない。

 水死しているのではと思って、助けを呼んでいたのだった。

 

「あ、ごめんなさい、あたし熟睡しちゃってた?」

 目を覚ましたティアが平然と上体を起こした。

 その瞬間、ただでさえ恐慌状態にあった侍女の精神は限界を超え、その場に崩れ落ちてしまった。

 人が倒れる音に慌てた他の侍女たちが浴室に雪崩れ込んできたとき、ティアは全裸のまま輝くような銀髪から湯を滴らせ、心配そうに倒れた侍女を覗き込んでいた。

 

 

 アービィは昨夜の魔獣たちの恐怖に歪んだ表情を思い返していた。

 自分をみる魔獣たちの目は、自分たちが魔獣を見るものと同じだった。討伐の対象にしなければ自分たちの暮らしが危険に晒されることは解っているが、彼らも人間を倒さなければ安全を確保できない。

 魔獣を庇う気は全くないが、人間だけが一方的に善な訳でもないことは、以前から気付いていた。

 

 昨夜襲い掛かってきたゴブリンたちは、何かに追い立てられていたようだった。

 逃げ道に自分たちがいただけなのだろう。もし違う方向に逃げていたら、あのゴブリンもコボルドも、リザードマンも死ぬことはなかった気がする。刃を向けるということは、命の遣り取りをするという一種の契約であり、どちらかが息絶えるか逃げ切るまでは解除されることはない。その契約に則り、アービィたちも魔獣たちも刃を振りたてた。

 その結果、アービィたちが生き残ったということに過ぎないのだが、どうにもしっくりこないところがあった。

 

 アービィもまた、ルティやティアのように思考の中に沈んでいったが、閉めた扉の向こうから助けを呼ぶ叫び声に現実に引き戻された。

 いそいそと服を着て叫び声の方に行くと、ティアが通された部屋の前で侍女たちが大騒ぎをしている。

 

「どうしました?」

 とりあえず一人落ち着かせて状況を聞く。

 

「あの、ティア様が生き返って……」

 大筋をすっ飛ばした回答が帰ってくる。

 だいたい何があったか理解したアービィは、どう言い繕おうか頭を抱え込んでしまった。

 

「とりあえず、放っておいて大丈夫ですから。あの子、普通の人よりちょっと息が長いんで。皆さんも、どうかお引き取りいただいて。後でキツく言っておきます」

 無茶苦茶な理論でその場を誤魔化し、とりあえず侍女たちに下がってもらった。

 騒ぎを聞きつけたディアートゥス公爵の焦りと不安は、さらに大きく膨れ上がっていた。

 

 

「では、よろしいか、勇者殿」

 夕食前の穏やかな時間が流れる中、ディアートゥス公爵が言う。

 まるでこれから建国以来の国難が、待ち構えているとは思わせない空気だ。

 

「はい、お陰様で生き返りました」

 アービィたちは入浴のあと、公爵が用意してくれた軽食で胃を落ち着けると、夕方までぐっすりと眠らせてもらったのだ。

 

「本当に生き返った者も、いたようじゃな?」

 そう言って公爵は呵々大笑する。

 

 ティアの浴室での話は、あっと言う間に邸内に広まっていた。

 目を見開いたまま湯船に沈んだ美女が、突然起き上がり言葉を発する。死霊狩りを生業とする鋼鉄の神経の持ち主でもなければ、驚くなという方が無理な話だ。

 だが、無類の演劇好きとして社交界に名を知られているディアートゥス公爵は、この一件を劇の鍵として使えないかを既にクリエンティスの劇作家に話していた。

 

 

「それはともかく。フィランサス殿下からは伺っているが、私も立場上念には念を入れねばならんことを理解して欲しい。諸君らの腕前を疑うことも、職務のひとつだと言うことをね。殿下のご推薦する方々を疑うのも心苦しいのじゃが……ひとつ腕試しをさせていただけまいか?」

 初対面以来、アービィたちを信頼し切れない公爵が提案した。

 

 身元は確かだろう。

 インダミトのパシュース殿下のお墨付きのうえ、ベルテロイからはフィランサス殿下の密偵が目を離していないはずだ。

 氏素性に高貴さこそないものの、流れの冒険者風情に家柄を求めるなど、ストラーの中央貴族共に自発的なスラム街の掃除を望むようなものだ。

 

 どうやってアービィたちの腕を試すか。

 武勇伝を聞くくらいで済むなら苦労はしない。ギルドの記録も、ここ久しく受けていないので、ヒドラ殺しの英雄という異名は知ってはいたが、それだけでは心許ない。

 かと言って、家中の腕に覚えのあるものと立ち合わせて、どちらかがクーデター当日、つまり明後日の払暁に使い物にならなくなっていても困る。

 

 公爵は頭を悩ませた末、剣の技術を見ることにした。

 即ち、糸で吊るした紙片を剣で切り裂けるかということだ。公爵自身若かりし頃は、それなりの剣客として名を馳せていた。マグシュタットに定住する前のプテリスから、紙を破らずに剣で切り裂く修練を教えられ、苦心惨憺の末何とかこれをものにした経験がある。

 ただそれだけでは道場剣法とはいえ、充分に実践的な技術だと肌で知っていた。

 

 もう一つ、枠に貼り付けた紙を、こちらも紙を縒り細い棒状にしたもの、つまり紙縒りで突き通せるかというものだ。

 これは気をどれだけ込められるかが要諦で、一瞬の気迫がモノを言い、突き通そうとする速度が遅ければ、紙縒りは簡単に折れ曲がってしまう。公爵は、この技術をついにものにすることができなかった。

 アービィたちにとっては、こちらはプテリスから教わっていない未知の技術だ。

 

 公爵は齢六十に喃々としているが、今でも剣の修練は怠っていない。

 魔獣討伐には先頭に立って剣を振るう。これが貴族としての矜持であり、努めでもあると自覚している人物だった。これらの修練に使う小道具は、改めて作らせるまでもなく作り置きがいくらでもあった。

 公爵は使用人に命じ、それぞれの小道具を三つずつ広間に持ってこさせる。

 

 

 アービィたちが広間に入ると、そこには家中の使用人たちが見物に集まっていた。

 もちろん、今現在作業を抱えている厨房の職人や、ベッドメイクに走り回る侍女たちは来ていないが、庭師や執事といった警護のような荒事も非公式に担当する部署の者は残らず集まっている。

 アービィたちは、周囲からの値踏みをするような視線を感じるが、決して嫌な感じはしていない。

 どの視線もヒドラ殺しの英雄の技を、その眼に収めようと期待に満ちていた。

 三人は順番を相談し、ティア、アービィ、ルティの順で行うことにした。

 やはり、格闘術ではアービィに分があり、変幻な技ではティアに一日の長があるが、剣技に関してはルティが真打だ。

 

 ティアが吊るされた紙片の前に立ち、精神を統一する。

 紙片の揺れが収まった瞬間、小太刀が一閃され、紙片は千切れ飛んだ。糸からは引き千切られることはなかったが、切断面は拉げており満点とは言いがたい。

 だが、公爵は満足げに頷いている。

 

 次いでアービィが無造作に短刀を抜き放ち、右斜め上から左下へと振り抜く。

 紙片は斜めに切断され、切断面に拉げも見られないが、糸に残された紙片が揺れ動いている。

 公爵の眉が釣りあがり、かろうじて驚愕の表情になることを抑えていた。

 

 最後にルティが紙片の前に立つ。

 腰に佩いた剣の柄に手を置いたルティの全身から、力が抜けていくのが見ていても解った。数呼吸の後、息を止めたルティが鞘から剣を抜き放つ。流れるような動作で右斜め上から下へ払った剣が、左から右へと水平に振り切られる。その瞬間に紙片に変化は見られないが、ルティが剣を鞘に戻したとき、紙片は四つに切り裂かれ舞い落ち、糸は微動だにもせず垂れ下がっていた。

 広間から大歓声が上がり、公爵は今度こそ驚愕の表情で固まっていた。

 プテリスが若かりし頃に見せた技と寸分違わぬ見事な太刀筋だった。

 

 

 続いて紙を張った木枠が三つ、広間に持ち込まれた。

 障子の桟を大きくしたようなものだ。公式文書を記録するための高級紙より、さらに上質の薄紙が貼られている。その手触りは、ごわごわした羊皮紙よりも和紙に近い。さすが技術の国の面目躍如といったところだろう。アービィはその手触りに、なんともいえない懐かしさを感じていた。

 これもティア、アービィ、ルティの順で挑むことにした。

 

 まずティアが紙縒りを手に木枠の前に立ち、呼吸を止めて一気に突き通そうとするが、これは敢え無く紙縒りが拉げるだけだった。

 次いでアービィが挑むが、紙縒りの先端が紙を貫通する。

 だが、僅かに1、2mm程度貫通したところで、紙縒りの後ろは拉げてしまった。

 それでも公爵は紙縒りが木枠に張った紙に刺さったというだけで、アービィの集中力の片鱗を見て取っていた。

 

 最後にルティが挑む。先程と同様に呼吸を整え、紙縒りを軽く指で挟んで持つ。

 息を吸い込み、一瞬で全てを吐き出すような気合一閃、紙縒りが繰り出される。紙縒りの先端が5mm程度薄紙を貫通し、残りの部分も拉げることなく残されていた。

 紙に対して垂直に突き立てられた紙縒りは、広間を吹きぬけた歓声に伴う風に、僅かに揺れている。

 

 公爵は、これで充分、という表情で三人を見ていた。

 そこへ、一人の少女が挙手し、公爵に発言の許可を求める。

 公爵は少女の意図を察知し、アービィに視線を送った。

 

 

 パーピャ・ゲッコーと名乗る少女は庭師の一人で、公爵家の警護を担当する影の者だった。

 公爵からは剣を交える試合は行わないといわれていたが、あれほどの技を見せられては黙っていられない。自分より遥かに技術の高い若者たちに、殺しの技で挑んでみたいと逸る心を抑えられなくなっていた。

 公爵が発言を許可し、パーピャがアービィたちの前に出る。

 

「この度は誠にお見事な技を拝見させていただき、ありがとうございます。私は、この家の警護を担当しておりますパーピャと申します。剣士としては皆様に敵いようもありませんが、体術に些かの心得がございまして、是非お立会いを願いたいと存じます」

 素直に相手を認め、剣技では敵わないことを口にした。

 相手を侮っていては、勝てる相手にも後れを取ってしまうことを、パーピャは知っていた。

 

「体術ということであれば、僕が」

 隙のない動きからパーピャの実力を見て取ったアービィが、それを受諾する。

 公爵が困り顔で見ているが、パーピャは意に介さない。

 

「いつ始めます?」

 アービィが問う。

 

「既に始まっております」

 パーピャの影が消えた。

 

 

 パーピャの作戦は単純だった。

 アービイの背後に回り、首を取って落す。所謂チョークスリーパーを狙っていた。

 実際の戦いであれば首に巻きつけた左腕で右腕の肘を握り抱え込み、右の掌を後頭部に当て、そのまま左腕で一気に締め上げるとともに、右手で頭を捻り頚骨をへし折るのだが、試合であれば頚動脈を絞めて落すだけだ。

 

 一度体を沈めてアービィの視界から消え、左脇を掻い潜り背後に回る。

 そこで上体を戻しながらアービィの首に自らの左腕を巻き付けようとする。

 

 その瞬間、アービィの右掌底がパーピャの右顎寸前で止められた。

 充分に体重の乗せて撃ち下ろされたカウンターの掌底が、そのまま打ち抜かれるようなことがあれば、パーピャの下顎骨は砕け、頚骨は衝撃を吸収しきれずへし折られていただろう。

 

 一瞬で決まった勝負は、当事者以外にはまったく目が追いついていなかった。

 いや、パーピャ自身も、アービィの殺気に顎を打ち抜かれ、実際にダメージを受けた気がしてしまい失神している。

 パーピャの姿が消えたと思った瞬間に、アービィが身体を捻った。次の瞬間には腰を半ばまで落としたパーピャの顎に、アービィの掌が添えられているように見え、そのあとパーピャが崩れ落ちたのだった。

 失神から醒める気配のないパーピャが運び出されると、公爵はいつの間にか全身を伝う冷や汗を拭ってアービィに向かってようやく口を開いた。

 

「お見事。ヒドラ殺しの英雄。そしてアマニュークの英雄殿」

 

 食堂には公爵とアービィたちが向かい合い、和やかな雰囲気を取り戻していた。

 食事が運ばれ、アービィたちは凄まじいとしか言いようのない健啖振りを見せていた。

 今一歩で下品になるところをギリギリで踏みとどまっているその姿に、公爵は柔和な笑みを向けている。無理に貴族のしきたりを庶民に当てはめ眉を顰め嘲笑うような下賎な趣味を、公爵は持ち合わせていない。

 それでもルティが時折見せる洗練された所作は、後から習い覚えたものではなく、生来の血がさせるものではないかと公爵は感じ取っていた。

 

「いろいろと手間を取らせて申し訳なかったな、英雄殿。勇者殿と呼ばれることはお嫌であるようだから、こう呼ばせていただこう」

 悪戯っぽい笑みを浮かべた公爵が言った。

 

「はい、それでも大仰過ぎとは思いますが。もう諦めました」

 苦笑いとともにアービィが答える。

 

「では、場所を移していただく。明後日の話もせねばなるまいからの」

 一切の笑みを消し、厳しい表情になった公爵は、アービィたちを伴い執務室へと誘った。

 

 嫌味にならない程度の豪奢な装飾品に囲まれた公爵の執務室は、さぞ気持ちよく仕事が出るであろう環境であり、訪れる人に威圧感を与えることのない趣味の良さだった。

 テーブルに就いたそれぞれに、侍女が食後の酒をサーブする。

 

「ま、軽く嗜みながら。お気楽にな」

 公爵は目だけは笑わせずに、穏やかに打ち合わせを始めた。

 

 テーブルには、ハーミストリアの他、軍務卿と二名の政務参議官の妻の名前が記された紙が置いてある。

 明日の宰相邸でのパーティーの後、アービィたちが連れ出す者の名だ。この名を良く頭に叩き込んでいただきたいと公爵は言った。アービィたちが了解の意を返すと、公爵は紙をすぐに燃やす。

 

「明晩、この屋敷でパーティーを行う。その場には、私を含む閣僚と政務参議官全てが、夫人同伴で訪れることになっておる。英雄殿たちには、パーティー終了時に先程の名簿にあった奥方たちを連れて、この国を出ていただく。おそらく、途中の襲撃ははぐれ魔獣くらいのものと思われるでな。たいしたことはないじゃろうが、充分に気をつけていただきたい。そのままベルテロイでインダミトのパシュース殿下の指揮下に入っていただく。ま、各国まで送り届けろとまでは言わんでな、そこでお役御免になるはずじゃて」

 公爵の言葉は、あまりにも簡単に事を纏めていた。

 

 ビースマック出身の妻たちは、この名簿に名を連ねていない。

 国の恥辱は自らの手で雪がなければならないと考えた各閣僚は、自宅を襲い来るテロリストたちを家族で迎え撃つことにしていた。中には妻子を領地や国外に逃している者もいるが、誰もそれを責めるつもりはない。

 安全の確保に心を砕くことは、決して逃げではないからだ。

 

 アービィたちは、テロリストの掃討に手を貸せないかと申し出るが、それよりも他国から嫁いできた人々を傷付けるわけにはいかないと言う公爵を説得するまでには至らなかった。

 戦乱とは無縁の時代であっても、貴族たる者いつ何時出会っても剣を取る覚悟はできていた。

 そして、剣を取る以上は、剣の下に斃れる覚悟もできている。

 

 

 同時刻、プルケール男爵邸に、キリンドリクス男爵とハラが集まっていた。

 

「いよいよ、明日だな。準備は大丈夫か、お二方」

 プルケールが問う。

 

「ああ、任されよ。既に各方面への手回しも済んでおる。あとは、一気に片を付けるだけだ」

 キリンドリクスが答える。

 

「公爵も驚くだろうな。決起は、明後日の払暁と信じきっているはずだ」

 ハラが歪んだ笑みを見せた。

 

 本来の予定では、決起は明後日の払暁だった。

 各閣僚と政務参議官の屋敷を襲撃し、迅速に掃討を行い、夜明けとともに新政権の樹立と王への謁見を求めるはずだった。

 だが、偶然なのか計画を察知されたのか、昨日になって明晩に宰相邸で殺害対象の人物全てが集まるパーティーがあるという情報が、カネに困っているところを抱き込んだブレヘリー公爵家の使用人からもたらされた。千載一遇のチャンス到来といえる。ついでにアディポサリ公爵も油断し切っているであろうことから、一緒に始末してしまおうということになった。

 急遽町の各所に配してあるガーゴイルの稼動確認に配下の者を走らせたが、どれも時限式ではないため明晩は担当者がキーワードを唱えるだけで済む。

 

 邪魔者となる近衛第一師団も、大隊長一名の他、小隊長クラス数名を抱き込んである。

 いずれも女や博打で首が回らなくなっている者や、家族に病気の者やカネの掛かる者がいるため日常的にカネに困っている者たちだ。

 使者がそれぞれの官舎に走り、明晩の決起を伝え、適宜準備は整えられていった。

 

「それでは、お二方、我らが神に祝杯を捧げようじゃないか。我らが神に栄光を!!」

 プルケールが音頭を取る。

 

「我らが神に栄光を」

 二人が唱和し、杯を挙げる。

 

 

 アービィたちは、ディアートゥス公爵との打ち合わせ終了後、逃走のルートや障害となるものを確認するため、街中を散策に託けて歩き回っていた。

 三人は無言で、だが、念話で話し合っている。もちろん、ルティから送ることはできないが、アービィもティアもルティが意識を向けてくれば考えることを思念で拾うことはできた。

 城下町を回り、だいたいの街の造りを把握してから、公爵邸から城門までの最短ルートを検討しながら貴族の居城区まで戻ってきていた。貴族の居住区は、爵位の高い者から王城に近い場所に屋敷を配されている。最外郭は男爵や子爵の区画だ。この辺りに住む者たちは、ほとんど全ての者がより王城に近い場所への転居を望んでいる。

 例外は子爵クラスで次期公爵家の跡取りくらいの者だろう。

 

 ふと、アービィが貴族の居住区に入ってすぐに動きを止めた。

 ティアもルティも、何も感じることはできない。

 

――どうしたの?――

 ルティが思念を送る。

 

――うん、ちょっと。この道は最短だけど、迂回したほうがいい――

 アービィが返す。

 

 アービィは感じ取っていた。

 フォーミットで、北の大地で感じた、邪悪な気配に似た波動を。


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