狼と少女の物語   作:くらいさおら

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第54話

 「俺も行こう。アービィ殿、嫌は言わせんぞ」

 ルムが歓喜に満ちた表情で言う。

 いくら政治や商業の中に身を置こうとしても、やはり根は戦士だ。

 諍いなどではなく、流血の予感があれば自らの血がそれに近付こうとしてしまう。

 

「そうは、いかん。ルムは俺と王都に行ってもらう」

 ランケオラータが苦笑混じりに止めた。

 

 それぞれがすべきことは違う。

 今ルムはビースマックに行っている暇など、ない。

 地峡から続く山岳地帯の民のため、自らが属する平野部の民のため、山脈が隔てる中央部の民のため、その両者の間で揺れる山脈の民のため、最北の蛮族のため、全ての北の民のため。ルムは王都エーンベアに行くことが最優先だ。バイアブランカ王と戦うために。

 もちろん、その戦いは剣を、槍を、弓を用いて相手を傷付けるための戦いではなく、己が舌が全てを決する戦いだ。

 

「いや、しかしだな……」

 尚も言い募ろうとするルム。

 

「だめだ」

 切り捨てるランケオラータ。

 

「あたしたちのことならご心配なく。ルム様には、今すべきことがありますわ」

 追い打ちを掛けるようにティアが言う。

 苦笑混じりのランケオラータの視線を受けてのことだ。

 その言葉を受けて、ルムは不承不承だが別行動を受け入れる。

 

「ティア様がそう仰られるなら……」

 つい、うっかり女神扱いの言葉遣いが出てしまい、ルムとティアは慌ててしまい、事情を知る周囲の苦笑いを誘っていた。

 

「では、ルム様は我々が責任を持って王都までご案内致します。アービィ殿、ビースマックでのこと、よろしくお願いする」

 パシュースは今夜中に馬車と腕の立つ御者を用意し、明日の払暁を期してベルテロイを発てるようにしておくことを約束して官舎へと帰って行った。

 

 町々に潜む間諜が、替えの馬や急ぎ旅故宿を取っていられない分の食料や水といった生活必需品を用意している。

 そして、どこでそれを受け取れるか、路銀の補給といった細々としたことは既に決めてあり、それは御者として同行する配下の者が承知している。

 翌朝、いかにも残念そうなルムや、心配そうな表情の伯爵一家に見送られて、アービィたちはシュットガルドへと出立した。

 ここからは作戦行動として扱われるため、黒幕が判らないようにパシュースには会いに行かない。ほとんどのことは御者が把握しているため、わざわざ会って指示を仰ぐ必要もないからだ。

 もちろん、フィランサスもアービィたちのことは承知している。

 アービィたちを陰から支援できるようにと密偵を町々を行き来する商人に化けさせて、偶然進行方向が一致した商用の旅人として付かず離れずの位置に付けていた。

 

 

「あの~。さっきから付いてくる人に、野営地に来るように伝えられます? それか、もうちょっと殺気を抑えてもらうようにでもいいんですけど……」

 アービィはフィランサスが付けた密偵の殺気に気付いていた。

 

 ベルテロイを発ってビースマックに入るなり、濃厚な気配が伝わってきた。

 御者は当然把握していたが、誰が何時から付くかまでは知らされていない。密偵同士顔は知らないが、その纏う気配は承知している。

 馴染みのある気配を察知すると同時に、申し訳なさそうなアービィがそう言ってきたのだった。

 

 御者は平然を装っているが、内心はかなり驚愕していた。

 今付いているビースマックの密偵は、気配や殺気の殺し方からしてそれなりの手練れと思われる。一介の冒険者で、その僅かな気配に気付ける者がいるなど信じられなかった。最初は警戒しすぎた自分の殺気が漏れたかと思ったほどだったが、アービィは明らかに違う方向を見ながら密偵の姿形を伝えてきた。おそらく気負いすぎなのだろう。間もなく自国でクーデターが起きようというのだ。

 いくら手練れの密偵とはいえ、興奮を抑えられないのかもしれない。

 とは言ったものの、どうやって他国の密偵とコンタクトを取るか。呼びつけるわけにもいくまい。

 御者は考えあぐねた挙句夜を待つことにして、アービィにそのとき呼んでしまえと言った。

 

 夜、ビースマック街道を少し外れた、小さな川の畔に野営地を張る。

 街道沿いにはちょうど良い野営地が見つからなかったからだが、ここでなら件の密偵を呼びつけても目立たないだろうと御者が考えたからだ。手早く火を熾し、干し肉を炙り、レーションを温める。全員が腹を満たし、緩やかなときが流れ始めたとき、アービィが闇に向かい手招きした。

 闇の中から、いかにもそこら辺にいそうな風体の男が現れる。かなり不機嫌そうな表情だ。

 

「あの、申し訳ないんですが、もうちょっと殺気を抑えられませんか? もう、周囲にバレバレですよ」

 アービィがその男に言った。

 

「いつから気付いていたんだ?」

 男は信じられないという表情に変わり、アービィに聞いた。

 誰にも気付かれない自信はあった。よほど腕の立つ同業者にでも気付かれない自信があった。

 アービィに付いた密偵が気付いたのは、予め聞かされていたからということもあるし、暫く後をつけてから腕を見るつもりで少々殺気を向けてみたのだった。

 

「ビースマックに入って、すぐ付きましたよね。そのときから」

 当たり前のような口調でアービィが答える。

 

「参ったよ。気を付けよう」

 そう言って男は去っていく。

 

 男が去って暫くしてから、日中よりは遥かに弱い気配を感じるだけになった。

 

「あの辺りで見張ってるんですかね?」

 アービィが御者に方向を指すと、その指した先から驚いたような気配が伝わる。

 御者は気付いていなかった。そこら辺で目を光らせているだろうくらいにしか思っていなかったのだった。

 

 

 通常であれば、少し戻った辺りにある町で宿を取るのだが、急ぎ旅のため町を無視して進めるだけ進んでいる。

 エンドラーズのように火の呪文に継続を掛けられるのであれば夜の行進も可能だったが、残念ながらアービィは継続を掛けることはできなかった。

 馬に付いては、途中の町々に交代用の馬を用意してあるので、潰さないようにだけ気をつければよかった。

 

 残照がある間は進み、完全に陽が沈んだところで野営し、黎明の明るさが感じられたらすぐに出立する。

 軍の全力行軍、つまり早駆けを続け野営で時間を稼ぐ行軍よりも速いペースで進んでいる。馬の足なので当然といえば当然なのだが、それでも普通の馬車の旅の倍近い速度だ。

 通常の徒歩の旅で四十日以上は掛かるであろう行程を、十五日以下で踏破しようというのだから、それでもまだ速度を上げたいと感じてしまう。

 

 ビースマックは峻険な山岳地帯が多く、人が居住できる場所は少ない。

 山間の隘路を縫うように走るビースマック街道は、東西に長いが南北に伸びる支線は少ない。アービィたちの剣を鍛えたグロッソが住むマグシュタットまでの支線のように、数日分の行程を持つものは珍しい方だった。東西に長いといっても国土の東半分近くは、人の居住には向かない山岳地帯だ。

 その山岳地帯から産出される良質な鉄鉱石と、量は少ないがこの世界で燃える石と呼ばれる石炭、大量の森林資源がこの国の基礎生産力を支えていた。

 ほとんど人跡未踏といってもよい山岳地帯にも、細い街道が網目のように走り、小規模な集落と鉱山や炭鉱、木材や燃料に適した樹木を育む森林を繋ぎ、工業原料の搬出道となっている。

 

 この山岳地帯のお陰でビースマックは南大陸の工場としての地位を築き上げたが、平野は狭く人の居住に向いた土地は極端に少なかった。

 このため貴族が広大な屋敷を建ててしまっては、庶民が住む場所が足りなくなり、領地の生産力が落ちてしまう。こういった背景から貴族と庶民の距離は住居という観点からも極めて近く、それは人としての距離も縮めていた。

 古代ローマで見られたパトローネスとクリエンティスの関係に近いといっても良かった。

 

 パトローネスに当たる領主たる貴族は、そこに住むクリエンティスに当たる騎士階級以下の領民の様々な相談事を解決する。

 そして、その見返りに領民たちは貴族の危機が訪れるようなことがあれば、一丸となって難局に当たる。

 このような伝統が息づくビースマックにおいて、インダミトの一部やストラー、ラシアスの貴族的態度は、庶民からの収奪でしかなく、そのような振る舞いをする貴族はあっといまに騎士以下の領民の流出を招いてしまっていた。

 それゆえ、貴族たちは、ある意味庶民の顔色を窺いながら領地経営をしなければならず、決して特権階級に胡坐をかいているわけにはいかなかった。

 もちろん、ある程度の特権を持つ貴族に面と向かって歯向かう庶民などおらず、領地からの逃亡は無理難題を押し付けられた領民の取る最後の手段だ。つまらない理由で一度領地を逃れてしまえば、他の領地の貴族たちに即回状が回り、どのクリエンティスに入り込むことも不可能だった。

 つまり、国を捨てるしかなく、領地からの逃亡はそうそうあることではなかった。

 

 もっとも、あまりにも酷い仕打ちに耐えかねた領民の逃亡が、全て門前払いにされるわけではなかった。

 どこの領地でどのようなことが行われているかは、物流のルートにのって国内にすぐ広がってしまう。他の領主が眉を顰めるような理不尽な領主の行いで逃亡する庶民を助ける領主も多く、元の領主が取り戻そうとしてもカネなりモノで補償するなりして救うことも多かった。そのようにして助けられた庶民は、新たな領主に忠誠を誓うことがほとんどで、こうして新しいパトローネスとクリエンティスの関係ができあがっていく。

 ほとんどの貴族は領地において善政を敷くしかなく、これが貴族と庶民の距離を縮め、国土に恵まれないこの国を他国から一目置かれる存在に育て上げていた。

 

 だが、こうした距離の近さを快く思わない貴族も少数ながらいた。

 その中のさらに一部がストラー貴族との姻戚関係を結ぶに至って、庶民への態度に代表される表面的な貴族的振る舞いに憧れを持つようになってしまった。

 それが今回のストラーの一部貴族と結託してのクーデター計画の主因になっている。

 彼らの目から見たビースマックの貴族たちは、庶民の顔色を窺い、その動向に一喜一憂する情けない者たちという認識だった。

 そして、彼らの理想とする貴族像とは、庶民の上に君臨し、富を一手に集め、豪奢な生活を送るというものだった。

 

 脆弱な老害たちを一挙に葬り去り、若い貴族がビースマックを再生させる。

 このクーデターは王家への謀叛では断じてなく、君側の奸臣を一掃するための快挙である。

 彼らはそう信じ込んでいた。

 

 

 ブルグンデロット王は焦燥感に苛まれていた。

 ベルテロイに駐在させている三男フィランサスから、クーデターの計画を知らされてから約百二十日、一季節に相当する四ヶ月近い時間が流れている。

 その間、積極的に内定は進めたが、参画している者の捕縛は控えるように強く上奏されている。

 

 フィランサスからの情報では、王家に直接弓引くものではないと知らされていた。

 自らの命の危険はないものの、殺害の対象となる者は国の柱石たる宰相を始めとした主要閣僚に、政務参議官と聞く。由々しき事態と言わざるを得ない。

 これらの人々を殺害してしまって、どうやって国を立ちいかすというのか。その先の戦略が全く見えない。

 

 クーデターを容認などするわけがないが、先々に納得できる戦略があるのであれば、まだ理解はできる。

 だが、それがないのであればクーデターですらなく、暴動でしかない。

 そのような者共に政権を預けるほど、ブルグンデロットはそこまでは無能ではない。

 

 ブルグンデロット王は、自らを有能だと思うほど自惚れてはいない。

 政務、外交、内政、財務といった全てに、閣僚たちの方が豊かな才を示していると自覚している。彼は自分の仕事は閣僚たちがその才を遺憾なく発揮できる環境を整えることと、最終的な責任を全て被ることだと弁え、一切余計な口出しはせずにいた。閣僚たちもその信に応え、十全にその才を発揮していた。

 参謀を必要としない指揮官の典型と言われる、インダミト国王バイアブランカの対極に位置する人物であり、それが両者ともが賢王と謳われる所以であった。

 

 その賢王が焦燥感に苛まれている理由は、自らの無力さに起因するものではなく、表立って閣僚たちに護衛を付けられないからだ。

 フィランサスは宰相ディアートゥス公爵にある程度事を起こさせるよう命じている。先手を打ちすぎては首魁が闇に潜り、以後の再起の芽を残してしまうからだ。王もある程度の犠牲はやむを得ないと考えているが、もちろんそれが少ないに越したことはない。

 誰一人として替えが利くような人物ではないからだ。

 

 できることなら彼らの屋敷を十重二十重に警護の兵で取り囲み、逆臣の兵を迎え討ってやりたい。

 だが、そのようなことをしてしまえば、首魁のみならずクーデターグループ全てを闇に逃すことになる。

 今できることは、屋敷の使用人に王家直属の影の者を紛れ込ませ、警護の戦力を底上げするくらいのものだ。

 

 クーデターグループがガーゴイルを持ち出してくることは判っている。

 しかし、閣僚たちの屋敷周辺から石像の類を全て撤去させることも、計画を察知したことを悟らせてしまうため実行に移せない。近衛第一師団はいつでも王都全域を掌握できるように、展開の準備は整えてあり、非番の者も自宅待機を命じてある。

 もちろんクーデターなど察知していないという風を装うため、通常の王城警護と訓練に勤しんでいるように見せかけている。

 

 打てる手は全て打ち、あとは迎え撃つだけだと泰然としているべきなのだが、どうしても立ち後れてしまうことへの不安は打ち消すことができない。

 自分の安全は間違いないが故に、閣僚や参議官の一人でも殺されたり傷つけられたらと思うと、居ても立ってもいられない。

 しかし、フィランサスと宰相ディアートゥス公爵に全てを任すと決めた以上、ブルグンデロットにできることはなく、結末がどうなろうとそれを受け入れる覚悟を固めるより他はなかった。

 フィランサスからは、閣僚たちや参議官の夫人のうち他国出身者を一時的にベルテロイに避難させるため、腕の立つ冒険者を派遣したので便宜を図るようにと手紙が来ていた。

 王はディアートゥス公爵に諮り、クーデター決行の前夜にディアートゥス公爵邸で晩餐会を催し、その闇に紛れて王都を脱出させることにした。

 殺害対象にされている政務参議官ブレヘリー公爵家の次男ハラ・ジャードニー・ブレフェリーがクーデターグループに名を連ねているため、防諜の観点から異例の当事者間での口頭による招待と応諾が行われた。

 

 ディアートゥス公爵は使用人に目立たぬように晩餐会の準備を進めるように命じ、招待を受けた者たちには当事者以外には、たとえ家族といえど予定を話すことを禁じた。

 誰の家族にクーデターグループが紛れているか、全てを洗い出せたわけではないからだ。閣僚や参議官たちは、平静を装い政務に励みつつも、家族まで疑わなければならない事態に呻吟した。妻に子女を連れて避難してもらいたいとも思うし、ブレヘリー公爵家の例もあることからどこから情報が漏れるか判らないため、無邪気な子供にすら疑心暗鬼にならざるを得なかった。子供が積極的に情報をリークなどするはずがないとは思うが、ベルテロイに行くなどと言えば、珍しい玩具や知的好奇心を満たしてくれる書籍が手に入ると、はしゃぎ回ってそこら中に言って歩くのが目に見えている。

 かと言って真実を告げれば、精神的に未熟な子供たちが挙動不振に陥るだけならまだしも、重圧に押し潰されかねない。

 

 殺戮の現場に妻子を残すことを良しとしない一部の政務参議官は、国外に脱出させるのではなく領地へ逃すことを検討していた。

 だが、いかにも急いで逃がすことは、クーデターグループに悟られる危険性が高く、どのような口実を付けるかで頭を悩ませていた。既に目端の聡い者が、領地に残っている父の急病を理由に領地へ妻子を送り出しており、この手は使えなくなっている。

 同時期に何ヶ所でも急病が発生するなど、流行り病か酷暑の夏でもない限り余りにも不自然だからだ。

 

 

 クーデター決行まであ五日と迫った夜、王都シュットガルドにある公爵家の大邸宅で、三人の男たちが額を寄せて話し込んでいた。

 バグルス・レイオカ・アディポサリ公爵は先代王の庶子で、現王ラーゴグランテ・ウェンディロフ・リシア・ブルグンデロットの異母兄だ。先王の正室には長く嫡子が生まれず、側室が産んだバグルスが長らく第一皇太子の地位にあった。しかし、バグルスが13歳の時、待望の嫡子が正室に生まれ、ラーゴグランテがそのまま王位を掻っ攫っていってしまったのだった。

 その後、新興公爵家として王家直轄領から生活するには充分すぎるほどの領地と王の政務特別補佐官の地位を与えられ、国内ではそこそこの経済力を持つ貴族となっている。

 

 今、ラーゴグランテにもしものことがあった場合、バグルスの王位継承権は第四位であるため、王家の男子を皆殺しにでもしない限り王位は転がり込むことはない。

 フィランサスを暗殺することは、ベルテロイに混乱を引き起こすことになり、マ教から目を付けられることによる不利益のほうが大きい。

 即疑われることはないにせよ、他国にフィランサスを暗殺する理由が全くないこと、同時に王や他の皇太子を殺してしまっていては、誰がやったか大々的に発表するようなものだ。

 

 そのような国とまともに付き合うような他の三国家ではなく、ビースマックを孤立させるだけの結果になる。

 食料の生産力に劣るビースマックが、一国では立ち行かなくなるのは目に見えており、そのような形で国を乗っ取っても少しも利益がない。そう考えたバルグスは、クーデターグループにカネを出すと同時に、成功の暁には宰相か財務卿の座を要求していた。

 宰相として国に君臨して王から実権を奪い取るか、財務卿として蓄財に励んで豪奢な生活を取るか、彼はいまから夢に溺れている。

 

 バルグスの召集に応じて深夜に公爵邸を訪ねていたのは、クーデターグループの首謀者であるネオラン・ローグス・キリンドリクス男爵と、政務参議官ブレヘリー公爵家の次男ハラ・ジャードニー・ブレフェリーだった。

 もう一人の中心人物であるタニエ・ペルヴィカ・プルケール男爵は、偶然自邸を訪ねてきた内務卿アークアタ・アトロペル・ソナータ公爵の嫡男イリデッセントに足止めを喰らっており、今夜の謀議には参集することはできそうもなかった。

 

 キリンドリクス男爵は成功の暁には宰相の座を、プルケール男爵は軍務卿の座を欲している。

 ハラは責任などというものは一切無用で豪奢な生活を送れたらそれでよかった。

 そのためには閣僚などという面倒ごとには巻き込まれずに、領地の増大と非常勤の政務参議官の座、そして給金の大幅な加増を求めている。

 

「計画が漏れているなどということはないだろうな。今更後へは退けんのだぞ」

 アディポサリ公爵が小心者の表情を歪め、二人問う。

 

「ご安心を、公爵様。誰にも気取られてはおりませぬ。あの無能者共が、我等が計画に気付くとは、とても思えませぬ」

 ハラが自信満々に答える。

 

「然様にございます。万が一、気付いたとしても、我等が崇高な計画を邪魔立てできるとは、とても。それどころか、雪崩を打って我等に付き従う者が出ましょうぞ」

 どこから出てきた自信なのか全く解らないが、キリンドリクス男爵も追随する。

 

「まあ、よい。近衛第一師団の取り込みはどの程度進んでおるかの?」

 公爵は王都を掌握できる軍事力を持つ、近衛第一師団を恐れていた。

 近衛第一師団をクーデターに参加させるか、最悪でもこの動きを封じることができれば、成功の可能性は飛躍的に上がる。

 

「はい、近衛第一師団は殿下が掌握しております故、全軍を寝返らせることは無理かと存じますが、一部はこちらに」

 キリンドリクス男爵が答える。

 

「あと、気になることは勇者とやらだが。北の大地から戻った後の足取りは、インダミトにでも行っておるのか?」

 これも重要だと言わんばかりに、公爵はハラに視線を向ける。

 

「はっ。勇者の足取りはベルテロイから途絶えておりますが、おそらくはインダミトに向かったものと思われます」

 ハラは推測でモノを言っている。

 間者をベルテロイに送り込んではいたが、フィランサスに簡単に狩り出され、動きを封じられていた。

 少しでも謀略戦の心得があるならば、間者からの報告がなくなった時点で消されたことを疑い、新たな間者を送り込むのが常道だが、残念なことに彼にそのような心得はない。

 

「そうか。監視の目を緩めるでないぞ。勇者などがこの国に入り込んで、王が助けでも求めてみろ。クーデターなど簡単に潰されかねん」

 公爵は、勇者を手駒に加えようなどとは思っていなかった。

 小心の成せる技ではあったが、自らより力を持つ者を引き込んで、のちのち立場をひっくり返されるなど真っ平だったからだ。

 ラシアスでの一件は、当然公爵の耳にも入っている。国家が抱き込もうとして無理だった者を、一介の公爵家が扱いきれるものではないことは、考えるまでもなく判っていた。

 おそらく、不必要な正義感を持つ勇者は、王家から救援の依頼があれば、それを受けるだろう。

 万が一にもビースマックに入るようなことがあれば、即消すように密偵には命じてある。

 

「もちろんでございます。街道沿いにはガーゴイルの他、優秀な密偵を配しております故、もし入り込んできてもすぐに捉えることも難しくはありますまい」

 ハラが答えた。

 

 ハラにしてもキリンドリクス男爵も、今ここにはいないプルケール男爵にしても、アディポサリ公爵のことは全く買っていなかった。

 スポンサーとして利用しているだけで、クーデターの最中にドサクサで消えていただく予定だ。小心者で猜疑心の塊のようなこの人物は、事が成った後禍根となって残るだろう。下手をすれば計画を実行した自分たちを、消しに掛かってくるかもしれない。そのようなことになる前に、舞台からはご退場願うことに彼らは決めていた。ハラは、ストラーのヴィングストニー男爵から供与されたガーゴイルの全てを、アディポサリ公爵に見せていない。

 いくつかの型があるガーゴイルのひとつだけは隠してあり、これは既に公爵家の周辺に巧妙に隠してあった。

 

「すべて抜かりはないようだな。では、後は実行に移すのみ。これから計画が動き出す直前まで、会わぬほうが良いだろう。連絡はそれぞれの密偵を使うこととしよう。では、今夜は計画の成功の前祝だ」

 公爵は二人を食堂に誘い、庶民が一生働いてもグラス一杯分すら飲めそうもない、高級な蒸留酒の封を切った。

 

 

 ギーセンハイムに到着したアービィたちは、メディと別れ宿を取った。

 積もる話もあるだろうし、三人水入らずで過ごさせてあげたかったからだ。

 

「寂しいわね。いいことなんだけど、やっぱり」

 ルティが鼻を鳴らしながら言う。

 

「そうよねぇ、今の今まで、ここにいるのが当たり前だったもんねぇ。また、三人に戻るのかぁ……」

 目を真っ赤にしたティアが相槌を打つ。

 毎日が楽しいだけではなかった。

 苦しい日々もいつも隣にいたのだ。もちろん諍いもあったし、口を聞くことすらない日もあった。

 それでも半年以上の時間を共に過ごした仲間と別れるのは、心安らかなことではない。

 

「なんか、嫌そうじゃない、ティア。その言い方」

 ルティが聞き咎め、わざと意地悪く突っ込みを入れた。

 

「二人に当てられ続けるのが、ね」

 ティアもわざと意地悪く言い返す。

 

「口が悪いわね、後天性年齢過多」

 ルティが言い返す。

 

「口が減らない子ね、先天性胸部未発達症」

 ティアも言い返す。

 エーンベアの武器屋で交わした、逢って間もない頃の会話を思い出し、二人は噴き出した。

 

「なんか、懐かしい言い回しね。これからも、よろしく。お二人さん」

 ティアが涙混じりに二人に言う。

 どうも最近涙腺が緩くなったわ。人との付き合いが長くなったからかしらね。

 

 

 アービィは、言葉が出てこない。

 これで二度と会えないわけでもないし、明日にはまた会えるのに、その後にある別れは避けようもないことが解っている以上、寂しさを隠すことはできなかった。ビースマックに来れば、いつでも会える、そうは思っていてもやはり寂しかった。

 かなり以前から解っていたことなのに、いざその時が来てみたら寂しくてしょうがないのだ。黙ってグラスを呷るだけだった。

 そこへ二人の会話が聞こえ、つい吊られて噴き出してしまった。

 

「ありがとう、二人とも。しんみりしてる時じゃないよね」

 アービィは二人の気遣いに感謝した。もっとも、ルティもティアも気遣いなどしていなかったのだが。

 

「でさぁ、さっきからそこで見てる人。表へ出てもらえるかな」

 アービィが珍しく喧嘩を売るような行動に出た。

 

 ルティとティアの顔色が変わった。

 まだアービィの目は正気を保っているが、アービィから喧嘩を仕掛けるなど今までなかったからだ。突然のこと過ぎて原因が解らない。敵意や害意は伝わってきていなかった。それどころか店は満員の客で溢れかえり、特定の人物がこちらを見ていることに気付いてもいなかった。

 二人が止める間もなく、一人の男の顔面を鷲掴みにしてアービィは店を出た。

 

 

「さて、吐いてもらいましょうか」

 アービィは言葉こそ荒げていないが、男の頭蓋が砕けそうになっている。

 

「どうして黙ってるんですか? ギーセンハイムに入ってから、ずっとつけてきてますよね?」

 男の身体から力が抜けつつある。

 答えろと言われても、これでは無理だ。

 

 アービィは、この男から発せられるねちっこい殺気に苛立っていた。

 ギーセンハイムの門を潜って以来、ひと時も離れることがなかった。

 おそらくはクーデター派の間諜なのだろうが、それなりの手練れなのだろう、ルティはおろかティアすら気付いていなかった。

 

 ルティもティアも手元にいる以上危害を加えさせるようなことはないが、メディが心配だった。

 いっそ化け物の状態になっているのであれば、危害を加えようとしたものを石にしてしまえばいいので安心だが、今は人間の姿のままだ。どうやらアービィの動きを封じるために、三人のうち誰かを人質に取ろうとしているようだった。

 ルティとティアに手を出す隙がない以上、メディを狙ってくるのは明らかだ。

 あの夫婦の家に護衛ができるような兵がいるはずもなく、かなり危険な状態といえた。

 

 突然、アービィに体当たりをかました人影があった。弾みで掴み閉めていた男の顔から手が離れる。

 人影は二つあり、ルティとティアだった。

 

「なにやってんのよっ!! 殺しちゃうでしょっ!!」

 ルティが制止し、ティアが男に『治癒』を掛ける。

 受けたダメージが深すぎたのか、アービィの指が食い込んでいた傷は治ったが、意識までは戻っていない。

 

「理由は後。とにかく乗って」

 周囲に人影がないことを確認し、アービィは獣化した。

 

 ――ティア、ティアラ付けといて。あと、『催眠』って、効果は単体? 面?――

 『催眠』の効果の確認は、対人の呪文ではあるが、指向性があるのか、仕掛けた範囲一帯の人全てに効果があるのかを確認したかった。

 

「分ったわ。アービィがそこまで慌ててるなんて、メディね? 『催眠』は単体よ」

 ティアがラミアのティアラを髪に飾りながら答え、アービィの背に乗った。

 

「後で正座ね。メディが無事だったら勘弁してあげるけど」

 ルティも状況を推測できたのか、アービィの背に乗る。

 

 一気に建物の屋根まで駆け上がり、通りにいる人々に姿を見られないようにして、メディが帰っている夫婦の家まで駆け抜ける。

 途中、急ぐ余り二人が振り落とされそうになり短い悲鳴を上げてしまったが、気付く者がいたとしても狼の姿を認める前にアービィは駆け去っていた。

 

 夫婦の家は明かりが落ち、一見平和な眠りに包まれているように見えた。

 だが、アービィには闇の中で息を潜める悪意の塊が見えていた。

 

 メディは生まれて初めて、家族の団欒というものを知った。

 アービィたちとの旅では、仲間というものの温かさを知ることができたが、さすがに団欒とまでは無理だ。

 北の大地に住んでいた頃に家族はいたが、生きることで精一杯の生活は、団欒と言うにはほど遠いものだった。

 それでも父が獲物を抱えて帰って来られた日に、家族で火を囲んでいるときに感じる安心感と安らぎは、何にも代え難い大切なひとときだった。

 

 それがこれからは毎日ある。

 明日食べるものの心配をする必要もなく、義父が危険に毎日曝され無事帰ってくるか心配する必要もない。家ではいつでも義母が笑みを湛えて家事に勤しみ、メディを慈しんでくれる。

 さっきまでの夕餉には、楽しげな笑い声が絶えることはなかった。

 

 夫婦はアービィたちを夕餉に招待したがったが、固辞されてしまっていた。

 しかし、それは三人水入らずで過ごせるようにとの気遣いということは理解できたので、感謝の意を伝えるに留まっていた。

 明日こそは、「家族」の恩人にきちんと礼をしたいと思っていた。

 

 偶然というか、偶々というか、ラミアのティアラという魔装具を持っていたことで、メディを人の姿に戻してくれた。

 それだけに留まらず、北の民への偏見が強いラシアスにある火の神殿まで連れて行き、治癒師として生きていく術まで与えてくれた。

 そして、途方に暮れていた自分たちまで救ってくれた若者たちに、どうすれば恩を返すことができるか、夫婦は思いも付かなかった。

 

 既に春になり、火を入れることのなくなった暖炉の前で、夫婦はメディの冒険譚に耳を傾けていた。

 彼らにとって改めて宣言するまでもなく、メディは娘だった。その娘が人に助けられて火の神殿まで行ってきたというだけではなく、北の大地にも渡りインダミトの貴族を救出して凱旋してきたうえ、北の大地と南大陸の手を繋ぐことまで成し遂げようとしてきたことに、夫婦は誇らしさで一杯だった。同時にもう二度と危険なことには近付いて欲しくないとも思う。身勝手と言われようと、娘を二度も失いたくなかった。

 メディもその気持ちは痛いほど解る。メディにしてみても、両親を二度も失いたくはない。

 

 アービィたちと別れることは身を切られるような痛みを感じるが、それ以上にこの夫婦、いや、両親を悲しませたくはなかった。

 笑いながら、ときに心配げな表情でアービィたちとの冒険譚に耳を傾けてくれる二人を見て、寂しさを安心感が包み込んでくれるのをメディは感じていた。

 

 

 突然居間の扉が開け放たれ、手に剣を携えた五人の男たちが乱入してきた。

 メディは反射的に椅子を蹴って立ち上がり、手近にあった酒の入ったグラスを一番近い男の顔面に叩きつける。

 怯んだ男から剣をもぎ取り一閃するが、すんでのところで避けられてしまった。

 

 直後に身構えたメディが見たものは、夫婦を背後から固め、その喉元に短刀を向ける男たちの投降を促す視線だった。

 悔しさに表情を歪めたメディが剣を床に叩きつけたとき、背後の窓から衝撃音が響き、続いて夫婦の様子に異変が起きた。

 

 後ろ手に固められ、喉元に刃を向けられた状態で眠れるはずなどないにも拘わらず、二人は深い眠りに、それも恐怖で失神した様子もなく穏やかな表情に変わり落ちていった。

 精霊魔法に強制睡眠の呪文はない。

 夫婦の様子と状況を理解したメディの口元に浮かんだ凄絶な笑みに、男たちが訝しむ。

 

 次の瞬間、リーダー格の男は強烈な睡魔に襲われた。

 仕事の最中に、それも極度の緊張感と、これから目の前の少女を陵辱できるという邪な興奮の中で、眠気など感じるはずはない。

 だが、その疑問に答えを出せる前に、男の意識は安らかな眠りの中へと溶け込んで消えた。

 

 他の闖入者たちが、もがきながら崩れ落ちたリーダーに動揺していたとき、窓を潜り抜けたアービィが夫婦を抱えた男二人の間に飛び込み、二人の喉を両の手でそれぞれ締め上げ瞬時に意識を奪う。

 続いて部屋に滑り込んだルティとティアが夫婦を確保し、残った男たちから距離を取った。

 そのときには、既にアービィが残り二人の男たちに拳を叩き込み、床に打ち倒していた。

 

 

「アービィ、頭大丈夫~?」

 ルティが笑いを堪えつつ聞いた。

 

「何、その微妙にムカっとくる心配の仕方……」

 言葉とは裏腹にアービィも苦笑いを浮かべ、額をさすっている。

 

「大丈夫でしょ、頑丈なんだし。じゃ、ここは任せたわ。」

 呆れ顔のティアはそう言って、後始末のために御者を呼びに出ていった。

 

「助かったわ、みんな。ありがとう。でも………アービィ、頭大丈夫?」

 気を失った男たちを縛り上げ、蹴りを入れながらメディは礼と共にアービィに聞く。

 

「メディまで……」

 アービィはいじけていた。

 

 

 酒場から夫婦の家まで一気に駆け抜けたアービィの目には、窓越しに室内の様子が遠望された。

 ティアに夫婦に『催眠』を掛けてもらい、狼の姿を見られることを防いでから突入するなどという悠長なことは言っていられない。

 僅かに間にそう判断し、直前で二人を飛び降りさせ、アービィ単身でそのまま窓から突入しようとした。

 

 だが、窓は巨狼が通り抜けるには余りにも小さすぎた。

 焦りから目測を完全に誤っていたアービィは、盛大な衝撃音と共に家の外壁に激突した。

 結果的に衝撃音に度肝を抜かれた男たちの統制と動きに乱れが生じ、ティアが『催眠』を詠唱する余裕を作り出していた。

 その間に獣化を解き、慌てて着替えてから室内に飛び込み、男たちの無力化に成功したのだった。

 

 

 両親に手を出した男たちには殺してしまいたいほどの怒りがあるが、今は堪えるべきだ。

 なぜ、このような行動に出たのか、尋問してからだ。

 さすがに殺すことは躊躇われるので、ティアが戻ったらティアラを借りるくらいにしておこうかしら、とメディは考えている。

 

 アービィがリーダー格の男を叩き起こし、椅子に座らせた。

 尋問しようとしたが、『催眠』の効力が持続しているのか、まだ目を覚ます気配がない。

 アービィが絞め落とし、打ち倒した男たちも同様に伸びており、こちらは物理的なダメージが大きい分時折痙攣までしていて、尋問など無理そうだった。

 

 

「ティア、ティアラを貸してくれないかな?」

 しばらくして御者を連れて戻ってきたティアに、御者には聞かれないようにメディが言う。

 

「だめよ、あなたが考えていることは判る。でも、それをしたらご両親が悲しむわ。止めておいて」

 ティアは貸す気などさらさらない。

 

 いくら化け物になっているとはいえ、メディはもともと人間だ。

 もう戻れないとは言っても、人間だ。そんな真似はさせるわけにはいかなかった。

 今は怒りが勝っているが、いずれ平静を取り戻した際に良心の呵責に苛まれてしまうかも知れないし、なにより両親が悲しんでしまう。

 結果的に男たちを始末することになるとしても、それはその道の専門家に任せるべきだった。

 

 インダミトの間諜である御者にしてみれば、ビースマックの間諜の情報を得るいい機会だ。

 ただ殺してしまってはもったいなさ過ぎる。それはアービィたちをつけてきた、フィランサス直属の密偵にしても同じことだ。敵対勢力の情報が労せず手に入る。普段であれば敵同士のはずの二人の間では、既に話は付いていた。御者としては男たちをインダミトに連行したかったが、今はクーデターの情報を得る方が優先される。今夜一杯は預からせてもらうが、夜明け前にはフィランサスの密偵に、男たちを引き渡す約束になっていた。

 大きな貸しを作れたということで、今回は手打ちにすることになったのだった。

 

 『誘惑』を掛けて聞き出し、後で記憶を消してしまえば、この一件はなかったことになり、後は泳がせておけるし簡単だった。

 だが、さすがに御者の前でラミアの妖術を使うわけにはいかないので、尋問は御者に任せることにした。

 しかし相手もプロである以上、そう簡単には口を割らないと思われる。

 

 口を割らないのではないかという点と、このまま消してしまえばクーデター発覚を悟られるのではという点を御者に聞いたところ、インダミトでは捕虜にした間諜の尋問には特殊な薬を用い、自殺を防ぐと共に抵抗を封じることができるとのことだった。

 マ教が邪教に認定しているある宗教では、巫女が降霊術を行う際にトランス状態になるために、植物から採取した向神経系薬を使う。

 インダミトの諜報機関では、これを精製してマイナートランキライザーに相当する抗不安薬を作り出し、自白剤として用いていた。

 重要機密であり、非人道的なことなので、詳細を説明することはしなかったが、拷問しなくても尋問でき、記憶も消せるとだけ説明し、御者は男たちを馬車に押し込み、何処かへと消えていった。

 

 

 ふと見るとメディが浮かない顔になっていた。

 

「どうしたの?」

 心配げな表情で、ルティが聞いた。

 

「うん、私がいると……両親が危ない目に遭う……やっぱり、消えちゃった方が…いいのかなって……」

 肉体的なダメージはなかったが、精神的に打ちのめされたメディが呟くように言った。

 

「そんなことは、ない。安心しなさい、メディ」

 いつの間に目を覚ましていたのか、ルティと同時に夫婦が言った。

 三人の言葉は、全く同時に異語同音に重なった。

 

「ルティ……お父さん……? お母さん……?」

 メディは絶句していた。

 

 あのような生命の危機に陥った後だ。

 メディといることへの恐怖が上回ってもおかしくない状況だった。ところが、両親は迷うことなくメディに安心するようにといった。一瞬の逡巡でもあれば、メディは消えることで安心できた。だが、両親の迷いひとつない言葉は、メディの打ちのめされた心を優しく包み込んでいた。

 涙が滂沱と溢れ、言葉が出てこない。

 母に抱きついたメディを二人は優しく抱きしめ、髪を、蛇ではなくメディ本来の金髪を、その感触を愛しむように撫で続けていた。

 

「もう、心配ばっかり掛ける子なんだから。お父さん、お母さんにいっぱい甘えなさいよ。今までの分、取り戻しちゃいな」

 ちょっとだけ鼻声になったティアが、メディに声を掛ける。

 

「うん、ありがとう、ティア、みんな。もう私は迷わないわ。ありがとう」

 ベルテロイに入るときに感じた爽やかな寂しさの中、晴れやかな表情のメディが答えた。

 

 その言葉を受け取るアービィたち三人も、同じ思いだった。

 夫婦とメディを残し、翌日の平和な再訪を約して三人は屋敷を出た。

 

 

 宿に戻った三人は、言葉を交わすこともないまま、それぞれの部屋に入った。

 暫くしてアービィの部屋の扉を叩く者がいた。

 

 無言で扉を開けたアービィは、まだ涙が止まらないルティの姿を闇の中に認めた。

 部屋に招き入れ、扉を閉める。

 

「いよいよ、お別れね」

 涙を堪えきれないルティが呟く。

 

 ねぇ、ちょっとだけ、いい? と言って突然ルティがアービィに縋りつく。

 二つの影は、そのままひとつになり、闇の中へ溶け込んでいった。


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