狼と少女の物語   作:くらいさおら

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第50話

 ヌミフ一行は、パーカホの村を出てから雪原を彷徨っている。

 中央部の民が山岳地帯に拠点を築いていることはわかっているが、その場所を特定するまでにはなっていなかった。

 

 山岳地帯に取り付き、避難小屋を利用しつつ中央部の民の拠点を探そうとしていた。

 避難小屋のいくつかは破壊され、彼等が手近なところから略奪を行っていたことを物語っていた。

 

 急な吹雪等で、避難小屋まで戻れなくなったときには斜面に雪洞を掘り、その中で一晩を過ごすこともあった。

 下手に天幕を張っても、風で引き千切られたり、降り積もる雪に潰されたりとかえって危険が大きい。

 

 雪洞に潜ってしまえば、その場所そのものが雪崩を起こさない限り、崩れる心配がほとんどない。

 湿度は高くなってしまうが、防音効果も高く、水の確保も周囲の雪を溶かすだけだ。

 

 氷点下の世界での排便は、凍傷にかかる原因にもなってしまうし、素肌に冷え切った風を受ければ体温が急激に下がってしまう。

 どう頑張っても下半身を露出せずにはいられない排便は、死と隣り合わせの行為でもあったが、雪洞の中であれば風を遮断できるためその危険もない。

 そのうえ、排便後は雪で埋めてしまえば排泄物は凍りつき、臭いが出ることもなかった。

 

 雪洞の中で豪勢に火を焚いてしまうと、熱が天井を溶かして抜けてしまったり、生き埋めになる危険性はあるが、そこは加減を覚えれば済むだけの話だ。

 男だけのパーティならば、数人が入ることのできる雪洞を作れば、孤独に耐えるという苦痛もない。

 さすがに男女が一つの雪洞に入ることは、用便の問題もあり憚られたので、ヌミフは一人用の雪洞を掘っていた。

 

 全く外界からの音を遮断された雪洞の中で、ヌミフは考え続ける。

 どうすれば中央部の民と大同団結できるのか。つい先日までは、血で血を洗うような抗争を繰り広げていた間柄だ。そう簡単に信頼関係を築けるとは思えなかった。

 しかし、魔獣の群れが襲い来ることを考えると、過去の恩讐に囚われるべきではないということも分っている。

 

 身体を差し出すか。その覚悟はあるが、いざそう考えると震えるほどの恐怖を感じる。

 既に男の経験はあったが、好きでもない男に身体を開くことへの恐怖と嫌悪感は、やはり容易に払拭できるものではなかった。

 ましてやパーカホに恋人が待っている状態では尚更だった。

 

 だが、平野部の民の指導者層に属する者の妹という立場は、それを覚悟させるに充分すぎるほどのものだった。

 ほとんど強迫観念といってもいいかもしれないが、ヌミフは中央部の民の前で全裸に剥かれ、陵辱される自分の姿が目に浮かんでしまっている。

 

 兄も、恋人も、その覚悟があってヌミフを送り出したものと思われた。

 恋人には止めて欲しかったとも思うが、それはできない相談であったし、止められたところでヌミフはそれを振り切って出てきただろう。

 蝋燭の光が反射する明るい雪洞の中で、ヌミフは止めどない思考の中に沈んでいた。

 

 

 ルムは立場上平静を装ってはいるが、身を焦がすような焦燥感と不安を感じている。

 妹の身の安全は、今まで最優先で守っていたが、今回はそうも行かない。

 護衛には腕の立つ者を選んではあるが、中央部の民との交渉時に争いになっては元も子もないとこくらい、彼等も解っている。

 

 できればヌミフの交渉結果を聞いてから南大陸へ旅立ちたいが、いつまでも待っているわけにも行かない。

 降雪の時期が終わり、気温の上昇に伴う雪解けによって、道が泥濘と化す前に地峡へ続く山岳地帯まで辿り着いていなければ、また初夏まで身動きが取れなくなってしまう。

 

 通常北の民が南大陸へ渡るには、ウジェチ・スグタ要塞を避けて間道を進まなければならなかったが、ランケオラータが同行していれば堂々と要塞を通過することができる。

 間道も雪解けの時期には泥濘に沈み、人の通行を妨げてしまうが、要塞を通る道は山岳地帯の中でも岩盤がむき出しになっている一体であるため、常時通行が可能だった。

 旅立ちに適した時期は、今をおいて他にはない。ルムは決断を迫られていた。

 

 やがて、彼は腹心の部下を呼び、不在の間の指揮権を移譲し、何があっても中央部の民と諍いを起こすな、と命じる。

 そして、平野部の民を纏めておくために各集落に使いを出し、指導者層に属する者たちを召集した。

 

 

 ランケオータは、捕虜たちにどう言おうかを悩んでいる。間もなくインダミトに向かって旅立つが、中には取り残されると思う者もいるだろう。

 ルムと二人だけで魔獣がうろつく中に飛び出すなど、ただの自殺行為だ。

 当然護衛として南大陸の諸侯軍の中から、気心知れたアンガルーシー領の者を連れて行くことになるが、村の警護にも残していかなければならない。

 

 北の民の女と情を交わした男たちに気遣う必要はない。彼等は既に北の大地に骨を埋めるつもりでいる。

 だが、南大陸に妻子や恋人、別れ難い親族を残している者も多い。その彼等全てを連れて行くわけにはいかない。

 携帯する食糧の問題もあった。大所帯になれば食料の確保も難しくなるからだ。

 

 だが、いつまでも悩んでいる場合ではない。聞くところによると、雪解けが始まると、また北の大地は人の通行を妨げる泥濘の中に沈んでしまうらしい。

 そのような環境を知らない彼にとっては、雪解けは春を告げる喜ばしい現象であり、川に流れ込む小さなせせらぎの音は心地よいものという認識だった。

 知らないということは罪だと彼は思い知らされている。もし、雪解けを待って侵攻していたら、捕虜になるどころではない。敵と相見えることなく自滅していたかもしれなかった。

 今後、さらに北へ侵攻しなければならないなら、北の民が持つ経験は何ものにも代え難い貴重なものになるだろう。

 

 ランケオラータは副官を呼び、何があっても捕虜たちを纏め、浮き足立たせないこと、村人と協力して魔獣を撃退することの二点を最優先として命じる。

 そして、必ず戻ること、そのときには捕虜としてではなく、正規派遣軍としての立場を確立してくることを約束した。

 

 

 バードンとハイスティは、示し合わせたかのように一日ずつのずれで同じ避難小屋を利用していた。

 もし、ハイスティが一日でも同じ場所に長く逗留すれば、両者は顔を合わせていただろう。

 両者に付く案内人は、期せずして同じ集落を目指している。

 山岳地帯の民であれば十日程で到着できる距離だが、雪になれない二人を伴っていてはさらに数日余分に見込む必要があった。

 

 携帯する食料が多すぎては荷物がかさばるため、途中これも示し合せたかのように一日ずつを使って大型の草食獣を狩っていた。

 幸い、春の出産期に向けて動きの鈍い雌を狩りやすい時期であり狩り自体は容易で、一日掛かってしまったのは、獲物が見つからなかっただけであった。

 

 避難小屋で解体した草食獣を燻製にして、勿体無いとは思いつつも持ちきれない分は処分する。

 作りたての燻製をアルコール度数の高い酒とともに飲み込み、体内から暖めていないと燃料の少ない避難小屋の中では凍えてしまいそうだった。

 ハイスティは神父を装っていたが、マ教に酒に関する禁忌がないことに心から感謝している。もし、神父が酒を飲んではいけないということであったなら、彼は神父役をかなぐり捨ててしまうところだった。

 それはバードンにもいえることで、それほど酒好きというわけでもなく、また暗殺者として酔うほど飲まないという自制心の塊のような彼であっても、寒さに対抗するには酒の力を借りなければならなかった。

 

 

 セトナイと共にリジェストを発ったアービィたちは、巨大な馬の引く橇に乗せてもらっていた。

 アービィたちが見慣れていた馬とは違う品種で、ノタータスよりかなり大きく体重は1t近くありそうだ。

 毛足も全体的に長く、寒冷な気候に順応した結果と思われる。

 

 一日で間道を抜け、地峡に続く山岳地帯の北の民の集落に到着した。

 比較的南大陸に対して好意的な集落では、この春最初の来訪者たちを手厚くもてなしてくれた。

 セトナイはそのまま商売の話を始めていたので、アービィたちは村の指導者層を紹介してもらいランケオラータの消息に付いて訪ねる。

 

 そこでは神父二人が同様に捕虜の消息を調べていたことや、ひと冬を集落で過ごし、八日ほど前に平野部へ向けて旅立っていったことを知らされる。

 アービィたちは、その神父たちの後を追うことを即断しセトナイに相談するが、彼は平野部まで下りることはないという。

 商売の当てのない危険地域に、態々踏み込む物好きはいないというのがセトナイの言い分だった。

 

 もちろん、アービィたちはセトナイにそこまで頼むつもりはない。

 間道の案内と北の民への渉りをつけてもらえれば充分だった。

 ここでセトナイと別れ、村人を案内人として雇うことにするが、メディがいることで交渉はすんなりと纏まった。

 メディがアービィたちとの出会いを多少脚色し、娼館から救い出してくれた恩人と紹介したことが効いているようだった。

 

 アービィたちは一晩その村で過ごし、翌朝早くセトナイに別れを告げ、村人の案内で平野部を目指して旅立つ。

 ティアは未知の大地へ踏み出すに当たり、セトナイと別れた後はラミアのティアラを身に着けている。

 北の大地にラミアは存在しないと村人から聞き、ティアラを見られたところで迫害を受ける可能性は低いと判断していた。

 

 もちろん、寒さに弱いラミアの姿になることはできるだけ避けたいが、ティアラを身に着けていれば呪術を使うことができる。

 未知の魔獣と戦う羽目になったときや、北の民と争いになってしまったとき、精霊呪文よりラミアの呪術が効果的であるという判断もあったからだ。

 

「じゃあ、行こうか」

 まるで隣の家に遊びに行くような気軽そうな物言いでアービィが出発を告げる。

 緊張がないわけではないが、ティアの気負いを少しでも減らそうという心遣いだ。

 

 メディの話では、北の大地では蛇や狼を神として崇めている集落があるということだ。

 アービィは、有効であると判断できたら、獣化を躊躇うつもりはなかった。

 

「いよいよね」

 ティアには、三人の気遣いが痛いほど伝わってくるのが解る。

 気負わないように、そう言い聞かせていたが、それが却って気負いを呼び込んでいることにティアは気付いていた。

 今では逆にそれを楽しめと自分に言い聞かせている。

 村人たちの好意で犬橇を貸してもらい、ワラゴという名の案内人を含め五つの橇が犬に曳かれて村を出た。

 

 

 ルムとランケオラータは、五人の兵士を護衛に旅立つことにした。

 人選に多少の混乱はあったが、敢えて北の民の女と情を交わした男たちの中から護衛を選んでいた。

 また戻ってこなければならないため、里心が付いてしまわないようにという配慮だった。

 ルムは集落の守り神である大蛇に、ランケオラータはもちろん唯一神マ・タヨーシに道中の安全を祈願し、村を出た。

 それぞれの祈りの仕種を村人と捕虜たちは珍しいものを見る目つきで眺め、彼等を見送った。

 

 北の民の信仰は、それぞれの集落や部族で崇める対象が異なることが多い。そしてそれが部族間の対立を生むことはない。

 マ教ですら信仰の対象にしている中央部の部族があるほどだ。

 もっとも、その部族はマ・タヨーシを信仰しているだけで、南大陸の住人のように唯一神として他を否定することはない。

 

 実在の動植物を守り神としている部族が、それを狩猟や駆除の対象にすることはない。

 だが、他の部族が狩ったり駆除したり、目の敵にすることがあっても、それを止める気は微塵もない。

 生きていく上で必要だからその行為に及ぶのであり、そこに干渉すれば殲滅戦になることを彼らは知っている。

 敵と認定した相手を殲滅できるならそれでも良いが、自らに被害が出るよことは許容できない。

 

 いくら厳しい自然の中で死と隣り合わせの生活であっても、無駄な死を受け入れる気は誰も持ち合わせてはいない。

 生活圏の奪い合いならともかく、信仰の自由で殺し合うなど愚の骨頂だと北の民は信じている。

 それ故に南から来るマ教の伝道師は、一部では暖かく迎え入れられるが布教には誰も耳を貸す者はなく、また一部では独善的な考え方で毛嫌いされていた。

 

 

 ときおり雪がちらつく中、七人のパーティは先を急ぐ。隣村を過ぎれば、あとは山岳地帯まで集落はなく、避難小屋があるばかりだ。

 ルムは、多少の不便さに目を瞑り、避難小屋は使わず雪洞を掘ることで野営するつもりだった。

 確かに避難小屋は便利そうに思えるが、隙間風を完全に防ぐことはできず、場所によっては燃料が使い尽くされている可能性もある。

 暖を取るには雪洞の方が確実で、寒さに慣れていないランケオラータにはその方が安全と思えたからだ。

 

 ランケオラータは南大陸への途上、何故北の民が南大陸に受け入れられないのかを考えていた。

 異教徒。まずはそれだ。南大陸においては、マ教徒にあらねば人にあらずという風潮は確かにあるが、信仰心の篤い薄い当然あり、中には信仰心をほとんど持たない者だって普通にいた。

 南大陸出身者同士で信仰心の厚い薄いで差別があるということは聞いたことがない。

 南大陸出身の者の中にも異教徒はいた。

 当然差別や蔑視の対象であり、神父にとっては改宗強化の対象だ。

 出自は関係なく、信仰の対象が差別や蔑視の原因のはずなのに、北の民でマ教を信仰している者がいても、差別や蔑視の対象になっていた。

 

 南のマ教信者の態度に対し、北の民の他宗教を信仰する者には、マ教を排斥しようという態度は見られない。

 ランケオラータは極普通の南大陸の貴族であり、敬虔なマ教の信者ではある。

 マ教を信じていない者に救いを、という気持ちがあり、そのためにはマ教を信仰するべきだと思っている。

 だが、インダミトが支持するマ教のカーナミン卿は、他宗教との融和を謳っている。

 何故か。現実主義者のカーナミン卿は、宗教戦争になることを恐れていたのだった。

 

 殲滅戦しか選択肢の無い戦争。

 どちらかが死に絶えるまで続けられる戦争。

 聖戦の名の元にはどのような行為でも正当化されてしまう戦争。

 人を救うはずの宗教が人を死に至らしめる戦争。

 宗教の最大の矛盾点だ。

 カーナミン卿は、その愚に気付いてしまった。

 

 であれば、良き隣人として共存するしかない。

 他の宗教の存在を認める代わりに、マ教存在を認めてもらう。

 ただそれだけで良いとカーナミン卿は考えた。

 

 ところがだ。

 他の宗教、つまり北の信仰は、もともとマ教を排斥しようなどとは考えていなかった。

 排斥どころか自らの宗教への改宗を求めてもいない。最初から共存が前提の立場だった。マ教の独り相撲だったのだ。

 自身の宗教観が崩れ行くのをランケオラータは感じていた。

 

 では、他に何がある。

 南大陸で北の民は、娼婦や奴隷の立場に甘んじている。

 だが、それは南大陸がそれしか用意しなかったからだ。

 確かに性的に奔放な者が多いが、それは文化の違いだろう。

 北の大地では誰に対しても、無差別に身体を開いているわけではない。

 娼婦だから、誰に対しても身体を開いているだけであって、それも金銭という契約あってのことだ。

 

 南大陸で生活している北の民の娼婦が、私生活において誰にでも身体を開いているわけではないことからも、それは理解できる。

 特定の恋人や配偶者以外に、濫りに身体を与えてはいない。

 淫らな民という蔑視は、謂れなきことだ。

 

 精霊呪文ではなく呪術を使う。これも文化の違いだろう。

 彼等から見れば、治癒呪文や状態以上回復呪文はともかく、攻撃補助の白魔法も攻撃に純化した黒魔法も好戦的と映っているに違いない。

 理解できないものを懼れることは仕方がないとしても、だから差別や蔑視の対象にしていいという論法は成り立たないはずだ。

 事実、北の大地に精霊神殿がないだけで、北の民であっても精霊呪文を使うことは可能だった。

 

 商習慣。それは互いに交流がなければ、共通の商習慣が発達するわけがない。

 南の常識を押し付けているだけだ。

 北の大地にも、交流のある部族同士での商取引は存在している。

 共通の貨幣を持たないため、交流がない部族同士が物品の遣り取りを行う場合は、物々交換か南の貨幣が用いられる。

 必要がないからで、文明が劣っているわけではないだろう。

 必要があるところには、共通の貨幣か貴金属による、ごくごく当たり前の商取引が存在していた。

 

 南の土地を狙っている。

 いや、移住を望んでいるだけだ。

 いったい何時、彼等が大軍を以って南大陸に攻め入ろうとしたというのか。

 北の民を通さじとする要塞を抜くために、武装した集団が襲い来ることはあった。

 だが、いまだかつて、収奪のために南大陸へ入ろうとした北の民がいただろうか。

 武装の理由は自衛だ。要塞からの攻撃を避けるための武装でしかない。

 

 彼等は暖かい土地を求めているのではなく、暖かい土地に住むことを求めていた。

 もちろん、北の民にも野盗を生業とする者はおり、それが南大陸に進入することはあったが、北の大地においてもお尋ね者となっている。

 南大陸に仇成すために進入しているわけではなかった。

 

 結局のところ、南大陸の占有権を主張するためと、金髪碧眼に抜けるように白い肌という南大陸出身者に見られない身体的特徴、北の民は全体に南大陸の人々より大柄であり、それに対する劣等感がそうさせているだけだった。

 人格によるものではない。南大陸で北の民を配偶者に選ぶ者は、少数ながらいた。

 人格に問題ある民族というのであれば、配偶者として迎えることは考えられないだろう。

 捕虜として数ヶ月を同じ生活圏で過ごした経験の中でも、戦場においては殺し合いもしたが、村での生活で虐待されたということはなかった。

 現在も共存していると考えていいだろう。

 

 より北からの侵略。

 生存圏の奪い合いではなく、殲滅戦を仕掛けてきた最北の蛮族。

 この脅威は北の民だけの問題ではなくなっていた。

 中には北の民同士相討ち滅びてしまえと言う者がいるかもしれないが、その後は魔獣の群れが南大陸に雪崩れ込んでくる。

 北の民を以って魔獣への防波堤としろと言う者がいるかもしれないが、魔獣に追われ死に物狂いの北の民が南大陸に雪崩れ込んでくる。

 既に南大陸の問題になっている。であれば、手を結べる北の民とは手を結ぶべきだ。

 

 

 ふと、焦げ臭い空気が流れた。ような気がした。

 戦闘直前の空気にも似た、害意を含んだ空気のような気がした。

 そのような空気に敏感な兵士たちが、ルムとランケオラータを囲み防御のための陣を組んだ。

 ルムの指示で林の外れにある避難小屋まで周囲を警戒しつつ進んでいると、徐々に焦げ臭さが強くなっている。

 

 避難小屋まであと数十mまで近付いたとき、雪原を一直線に襲い来る魔獣の影が遠望された。

 人間ではとても逃げ切れそうもない速度で迫る魔獣は、ランケオラータたちの姿を何時から認めていたのだろうか、迷うことなく襲い掛かってくる。

 

 キマイラが二体。

 単独生活をする魔獣のはずなのに、信じられないほどの連携でランケオラータたちを追い詰めてきた。

 一体が方向を変え、彼等と避難小屋の間に割って入り、もう一体が背後から迫ってくる。

 

 兵士の一人が『猛炎』で牽制し、ランケオラータが『倍速』を唱える。

 全体掛けのためか、目に見えて走る速度が上がるわけではなかったが、追いすがるキマイラが詰める距離の減少が少しだけ減った。

 彼等の前に立ちはだかるキマイラは『猛炎』をものともせず、彼等に襲い掛かった。

 雪原に逃げても脚を取られるだけだ。

 眼前のキマイラを排除し、避難小屋に飛び込むしかこの状況を打開することはできない。

 もっとも、その後の打つ手もないことは確かだが。

 

 兵士の一人が、飛び掛ってきたキマイラのライオンの頭に剣を叩きつける。

 他の兵士は二手に分かれ、前後のキマイラに『猛炎』、『大炎』、『凍刃』を放った。

 瞬間、剣に怯んだキマイラが飛び退った隙に、避難小屋の扉に取り付くことができた。

 

 慌てているせいか、扉の立て付けが悪いせいか、なかなか開いてくれない。

 ランケオラータが必死に扉を開けようとしている間、背後から石を砕くような音が響いてきた。

 剣を叩きつけられたキマイラが、その相手をライオンの顎に捕らえ、頭蓋骨を噛み砕いた音だった。

 

 もう一体のキマイラが、声を上げることもできず崩れ落ちた兵士の身体に喰らい付き、頑強だった肉体を貪り始めた。

 頭蓋を噛み砕いたキメラが顎を閉じ切ると、兵士の頭だった塊は身体から千切り取られ、そのまま飲み込まれていく。

 死期線の痙攣をすることすら許されず、キマイラの胃の中に収められた兵士は、だが貴重な時間を稼ぎ出すことに成功した。

 奪い合うように兵士の身体を貪るキマイラは、ランケオラータたちが避難小屋に転がり込む間、彼等を省みる余裕をなくしていた。

 

 避難小屋は雪の圧力に負けないように、かなり頑丈に作られている。

 扉も窓も小さく、キマイラが潜り込めるような大きさではない。

 扉は分厚い一枚板で、そう簡単に齧り開けられるものでもない。

 小屋の中に転がり込んだ彼等は、手近にある物全てを扉の前に積み上げ、バリケードを構築する。

 

 窓から蛇の尾を潜り込ませるキマイラに対し、兵士が剣を『大炎』を叩きつける。

 衝撃や熱に蛇は引っ込むが、暫くするとまた入り込んでくる。呪文に限りがあるため、全員が剣を取り蛇に対して立ち向かう。

 

 暫くすれば諦めて立ち去っていくと期待するが、キマイラは諦める気配を見せることなく小屋の周囲を回り始めた。

 とりあえず小屋の中にいれば殺されることはないが、キマイラがいる限り出ることは適わず、食料に限りもあることからこのままではジリ貧だった。

 

 食い殺された兵士の肉体に味を占めたか、キマイラは執念深く小屋への侵入を試みる。

 徐々に扉が緩み始め、前後に揺らされてきてしまっていた。

 もし扉が破られるようなことがあれば、即突入されることはないにしろ、周囲の建材を噛み砕かれてしまえばそれまでだ。

 バリケードなど人力で動かせるものでしかなく、キマイラの怪力の前では埃を払う程度のものでしかないだろう。

 

 全員の表情に絶望の色が浮かび始めたとき、扉の外から魔獣の咆哮が響き渡った。

 小屋の中に気を取られていたキマイラの蛇の尾を、ハイスティが切り落としていた。

 

 

 ハイスティは、キマイラ二体が執拗に小屋の周囲を周回し、中を窺っていることから人が襲われていると判断した。

 ランケオラータ救出のためには協力してくれる平野部の民が必要だった。

 人助けというより打算からの行動だったが、結果的に吉と出たようだ。

 

 同行していた案内人は、キマイラの姿を確認した時点で返している。

 万が一にも襲われるようなことがあっては困るし、最悪の事態に備えて村に助けを呼びに行ってもらった。 

 ハイスティの戦闘力であれば、キマイラ一体であれば倒すことは可能だ。

 一体を残してしまっても戦力が上がった状態で篭城していれば、撃退できる可能性もあるかもしれないし、その間に助けが来るかもしれない。

 

 二対が連携を取るなど考えてもいなかったハイスティは、キマイラの攻撃を防ぐのに手一杯になっていた。

 だが、戦場が扉から離れた隙を突いて、ルムが窓から飛び出しキマイラに飛び掛った。

 不意を突かれたキマイラは山羊の首を切り裂かれ、急に動きが鈍った。

 手負いのキマイラにハイスティが斬りかかり、ライオンの首にも手傷を負わせることに成功した。

 

 二人は言葉を交わすことなくキマイラに斬りかかるが、戦いを知っている者同士打ち合わせなど必要もなかった。

 一体からの攻撃をかわし、手負いのキマイラを攻撃する。

 一太刀、二太刀と決定打ではないが毛皮を斬り裂く度、徐々に手負いのキマイラの動きが鈍り始め、ついには逃走する。

 意気揚がるルムが勇躍もう一体に斬りかかるが、そこまで無傷のキマイラに跳ね飛ばされてしまった。

 

 大地に叩きつけられ、受身を取り損ねたルムの肺から空気が絞り出され、息が詰まる。

 覆い被さるように圧し掛かるキマイラをハイスティが斬り付け注意を逸らす隙に、ルムは地を転がってその場を離れた。

 片膝を付き、剣を杖に息を整えるルムの横にハイスティが立ち、キマイラの攻撃に備えた。

 

 小屋を背後に背負う現在位置を確認し、ハイスティは小屋に向かって窓を開けるように怒鳴った。

 ランケオラータが反応し、窓を開けたことを告げたとき、ハイスティの表情が凍りつく。

 

 ハイスティの意図を察していたルムは、ランケオラータが開けた窓に飛び込み、次いで飛び込んでくるはずのハイスティの妨げにならない位置に退避した。

 が、何時まで待ってもハイスティが飛び込んでくる気配がない。

 訝しんだルムが窓から外を見ようとしたとき、矢のような勢いでハイスティが転がり込んでくる。

 

 ハイスティはランケオラータの声を聴いた瞬間、状況が理解できず一瞬の隙を作ってしまった。

 ルムに続いて窓に飛び込むために身を翻したが、その隙のため僅かに跳ぶタイミングが遅れていた。

 

 そこへキマイラの前肢の一撃が襲い掛かり、背中を大きく傷付けられてしまった。

 服が切り裂かれ、大流血しているハイスティに、ランケオラータが『治癒』を掛ける。

 全治までは『快癒』か『治癒』後数回掛ける必要があったが、ここまでの戦闘で呪文はこれが最後の一手だった。

 

 避難小屋は冬の間に燃料を使い尽くされ暖を取る方法がなくなっていた。

 切り裂かれた服は、既に防寒の用を成さない。

 ランケオラータが自分の防寒着を与えようとするが、ハイスティは頑なにそれを断っている。

 ランケオラータにもしものことがあっては、自分の努力が無になってしまう。

 それでは仕事を完遂することができない。

 申し訳ないが、防寒着は兵士たちから借りるしかないようだった。

 

 傷は塞がっているので、あとは痛みが引くのを待つだけだ。

 そうすれば、あのキマイラを撃退できる。

 ハイスティは過信はしないが、互いの実力を冷静に測ることはできた。

 ルムもいるならば、それも容易かろう。

 それまでどうやって凌ぐか、今はそれに集中するべきだろう。

 

「ランケオラータ様とお見受けいたします。私はバイアブランカ王より、あなた様救出の命を受けたハイスティと申す者。ご無事だった様で何よりにございます。こちらの方は?」

 ハイスティはランケオラータに向き直り、初めて口を開きルムを見ながら聞く。

 共に戦った短い間にルムに怪しさを感じることはなかった。

 ハイスティは、ルムを信頼に値する人物と見ている。

 

「私を……? 陛下は……私をお忘れではなかったのですか。ありがたいことです。よくぞ、ここまで来てくれました」

 初対面のうえ、命を助けられた相手だ。

 おそらくは貴族階級ではないが、礼を尽くさねば恥と考えたランケオラータは、ルムに対する口調ではなく、宮中での口調でルムのことや、これまでのこと、魔獣を組織的に運用する最北の蛮族のこと、そしてそれに抗すべく南大陸の正規軍を派遣したいことをハイスティに話した。

 

「では、こちらの方をインダミトまでお連れして、ランケオラータ様はまた北の大地へお戻りになると仰るのですか?」

 驚愕。良くも悪くも南大陸の常識に囚われているハイスティの感情は、それしかなかった。

 だが、ランケオラータが洗脳された様子もないし、ここまでの辛苦から狂気に染まっている様子もない。

 

 その双眸は知的な光を湛え、力強い意志の光が溢れていた。

 どうやら、ランケオラータは本気のようだ。

そして言っていることに間違いはないだろう。

 全力を以ってインダミとまでお連れする。ハイスティはそう決めた。

 自分で決めたのだ。

 それを違えるわけにはいかない。

 例え魔獣に頭蓋を砕かれても死なないことに、ハイスティは決めていた。

 

 

 問題は、目の前のキマイラだが、魔獣が組織的に動いているということも問題だった。

 加勢が来ないとも限らない、とハイスティが考えたとき、それは起こってしまった。

 

 窓の外から別の魔獣の咆哮が聞こえてきた。明らかに二体の魔獣が小屋の外にいる。

 キマイラではなさそうだが、熊や狼といった野生動物でも、それを元にした魔獣でもないことは確実だった。

 窓から外を窺うと、キマイラから少しはなれたところでマンティコアがこちらに向かって身を低く、窓に突進する構えを見せている。

 

 マンティコア。

 南大陸でも希に見られ、古くは戦乱の時代より遡り、大帝国勃興期には既に知られていた。

 ライオンのような身体は赤い毛皮に覆われ、コウモリのような皮膜の翼を持ち、飛行はできないが滑空を可能にしている。

 24本の毒針が生えたサソリのような節のある長い尾を持ち、その毒は伝説上の巨人を瞬時に絶命させるほどの威力と言われていた。

 この他少数ではあるが尾の形状にはいくつかの変異があり、太い針を一本持つ個体や、無数に生え替わる針を飛ばしてくる個体が確認されていた。

 常に苦痛に歪んだような人面には、耳まで裂けた口に鋭い牙が三列に並んでいる。

 際限ない食欲の持ち主で、その食欲は一国の軍隊を食い尽くすほどだと伝承には語られていた。

 

 自然発生した魔獣という説と、邪悪な魔導師が作り上げたキマイラ同様の合成魔獣という説があったが、今までに倒されたマンティコアに生殖器が見られないことから、合成魔獣と結論づけられていた。

 その製法は古代に失われたと信じられているが、近年のキマイラやマンティコアの増加は、古代魔道が細々と伝えられてきたのか、復活させた魔導師の存在を示唆するものだ。

 

 マンティコアも図体はでかく、窓や扉を通ることはできないが、やっと一体に減らしたものがまた増えてしまったことは由々しき事態だった。

 通常、この二種の魔獣が出会ったら互いの血を見ずにはいられないはずなのに、争うことなく小屋の中を窺っている。

 協力をするということはないにしろ、互いの足を引っ張り合うこともなさそうだった。

 

「ご安心ください、ランケオラータ様。わたくしが必ずや、インダミとまでお連れいたします」

 ハイスティの言葉は、ランケオラータにではなく、自分に言い聞かせるための言葉だった。

 

 

 ハイスティがキマイラに飛び掛っていく直前に、そこまで案内に付いていた山岳地帯の民は、救援を呼ぶために道を急いでいた。

 ことは急を要するため、心臓が破れそうになってもその足を止めることはない。

 平野部の民に恩などないが、交流のある村の者であれば見殺しにすることは忍びない。

 

 いくら山岳地帯を歩き回り、一般的な人より頑強な足腰と体力を持つとはいっても、数時間走り続けることは不可能だ。

 気は急くが身体が付いていかず、道端に蹲り休憩を取る。

 そして息を整えるだけで体力の回復を待たずに走り出すが、既に限界を超えているのか一般人の早足程度の速度しか出せなくなっていた。

 

 道の彼方に人影を見たとき、彼は安堵のあまり座り込みそうになるが、最後の力を振り絞ってこちらに向かって歩く人影に走り寄る。

 初冬の頃集落を渡り歩いていた神父の姿に見覚えのあった彼は、神父に避難小屋の窮状を話し、縋るような目で同業者の救援を頼み込んだ。

 

 神父は皆まで聞かずに了承し、そこまでの案内人を危険回避と救援要請のため村へ返し、彼の走ってきた道を早足で去っていく。

 神父の後姿を見送った村人たちは、山岳地帯の集落へと救援を求めるため急ぎ足で歩き出した。

 

 

 バードンは、急ぐあまり数時間の距離を走ることで体力を損失する愚を冒さず、急ぎ足で言われた避難小屋を目指した。

 ただ歩くよりは体力の消耗はあるが、息が荒くはなるが上がるようなことはなく、数分の休憩で整えることができた。

 案内人と別れて三時間後、キマイラとマンティコアが小屋を窺っている場面に遭遇する。

 

 バードンは腰に佩いた双剣のうち、通常戦闘用に持参した鉄を鍛えた剣を抜き放ち、気配を殺して魔獣たちに近寄る。

 純銀製の剣は、対人狼に特化したものであり、副次的に吸血鬼に対しても絶大な威力を発揮し、ほとんどの魔獣の身体を斬り裂ける。

 だが、致命的に硬度に劣っているために純銀を弱点とする以外の魔獣は傷つけることができても、刀身が使い物にならなくなるくらいに歪んでしまうからだ。

 避難小屋の中に気を取られているキマイラとマンティコアのうち、危険度の高いマンティコアから仕留めることにする。

 

 扉や窓に牙を立て、爪を叩きつけることに集中している二体の魔獣の背後10mまで近付いたとき、バードンは失策を悟った。

 気配を殺していたため、前方の魔獣に気取られることはなかったが、自らの意識もそちらに向いていたからか、周囲に潜む別の魔獣の気配を拾い損ねていた。

 目の前を通っては、気配を消そうが何をしようが無駄だ。

 背後に濃密な殺気の塊を察知したバードンは、前方の二体に突入する。

 

 

 突如背後から湧く二つの巨大な殺気にキマイラとマンティコアが振り向いたとき、バードンは10mの距離を数呼吸で詰めていた。

 マンティコアの人面が驚愕の形に変化した直後、バードンの剣が振り下ろされる。

 体を捻ってかわしたマンティコアの翼に切っ先が食い込み、薄い皮膜を斬り裂いて魔獣から滑空能力を奪い去る。

 返す刀で赤い毛皮を斬ろうとするが、これは体毛を削り取っただけで有効打にはならなかった。

 

 バードンに対する報復は、迅速に成されようとしている。

 翼を斬られたマンティコアの人面が、驚愕から憤怒の形に変わりバードンを睨みつけ、毒針の生えた尾を振り回している。

 キマイラが離れた位置からひと跳びで接近し、三頭がそれぞれに攻撃してきた。

 バードンは、蛇の頭の噛み付きをかわし、山羊の頭の突きを避ける。

 地面を転がりキマイラとマンティコアの踏み付けを避ける。

 もちろんやられっ放しではなく、キマイラの三頭を、マンティコアの前肢に斬りつけていた。

 

 だが、バードンが放つ攻撃は、二対一の形成を逆転させるための一撃には程遠い。

 精々キマイラやマンティコアの連続攻撃を躊躇わせる程度しかなく、ついさっき背後に感じたもう一体の殺気が迫りつつある今、決定的な一撃を喰らうまでそう時間は掛からないと思われた。

 

 一度小屋に退避し冷静さを取り戻したルムは、現在目の前にいる魔獣以外にもバードンが察知した巨大な殺気と、それよりははるかに小物の気配を多数察知していた。

 ただ、その小物の中に混じる殺気ではない邪悪な気配が気に掛かる。

 悪意、害意、殺意といった邪気を綯い交ぜにしたような、ルムたちにとって最悪の事態を期待するかのような気配だ。

 その邪悪な気配といくつもの殺気は小屋を十重二十重に取り囲み、キマイラとマンティコアの攻撃の成否を見守っているかのようだった。

 このままでは屋外で戦う男が危ないと、咄嗟に判断したルムとハイスティは窓から飛び出し、バードンと魔獣の間に割って入る。

 

 巨大な殺気の正体はすぐに判明した。

 一つ目の巨鬼。サイクロプスが林の中から現れる。

 知能は低く、作戦と呼べるような高度な連携は不可能だが、その怪力だけでも脅威だ。

 普通の人間の全てを倍にしたような体躯からは想像もできない俊敏さを誇り、一つ目とは思えない正確な距離感を有している。

 オーガの持つ人への嫌悪感をさらに強めたような敵対的な性格は、人の姿を見たが最後、殺し尽くさずにはいられない。

 生木を引き抜いただけのような棍棒を武器として振り回すその姿は、悪鬼、悪魔の化身、殺戮の権化として北の民に恐れられている。

 

 魔導師の実験の成果であるとか、力を求め悪魔に魂を売った者の成れの果てであるとか、その生い立ちには諸説あるが、正確なところは判っていない。

 単独生活を送り、食欲と性欲に塗れた本能だけが、その行動を起こす衝動であった。

 

 如何に人間離れした戦闘力を持つ三人といえど、凶悪な魔獣三体が相手では分が悪い。

 窓の中から回復薬で呪文の使用回数を強引に回復させた兵士が『猛炎』、最初で最後の一撃を放ち、魔獣が怯んだ隙に三人は避難小屋へと退避した。

 ありったけのがらくたを窓と扉の前に積み上げ、バリケードを強化するが、それが何時まで持ちこたえられるかはあまり期待ができない。

 ハイスティやバードン、ルム一人ずつであれば、この程度の魔獣の囲いは掻い潜って逃げることは可能だが、戦いにまるで慣れていないランケオラータを連れて逃げ切ることは絶望的だった。

 

 周囲は陽が暮れ、急速に闇が支配しつつある。

 如何に魔獣とはいえ、疲れを感じないはずはない。闇が支配する時間帯は、多少なりとも小屋への破壊活動は抑えられるかもしれない。

 それを期待しつつ、各自は携帯食料で腹ごしらえし、ハイスティとバードンが呼んだ助けが来るまでの長い戦いに備えた。

 

 

 ほぼ同時刻、ランケオラータたちが魔獣の攻撃を受けている避難小屋から一日の行程まで、アービィたちは追いついていた。

 寒さに強い犬たちが引く橇の行程は順調で、初日は転倒してばかりだった四人も橇の扱いに慣れた三日目頃からは、目に見えて進む速度が上がっている。

 日没前に避難小屋の一つに辿り着き、僅かに残る燃料に火を灯してレーションを胃に収める。

 翌日も黎明を期しての出発のため、早めに寝ることにして犬の毛皮に包まったところにハイスティとバードンの案内人が転がり込んできた。

 

 事態を把握したアービィが、犬橇二台をここまで走り続けてきた案内人たちに預け、残り三台に荷物を括りつける。

 ワラゴに問題の避難小屋までの道を確認すると、迷うことない一本道という答えが返ってきた。

 

「判りました。僕たちはすぐに行きます。あなたも、救援を呼びに行ってもらえませんか」

 アービィは、獣化して一気に駆け抜けるつもりだ。

 やはり、メディのこともあり、ワラゴに獣化を見せることは憚られたので、救援を口実にここで別行動にしたかった。

 

「冗談じゃない。昼間ならともかく、夜道では慣れない者は迷いかねん。俺も行こう。聞くところによると、あんたたちの仲間だけじゃなく俺たちの同胞もいるそうじゃないか。土地の取り合いの殺し合いならともかく、魔獣と戦ってるんなら助けに行くぞ」

 ワラゴは、村でも名うての猟師であり戦士でもあった。

 その彼の見たところ四人で戦力になりそうなのはアービィだけだ。

 女がどれほどの荒事に耐えられるか、ワラゴは期待していない。

 乗りかかった船を降りるほど落ちぶれちゃいないさ、と言って、救援を呼びに戻ることを頑として認めなかった。

 しばらく押し問答が続くが、時間の浪費でしかない。アービィは決心し、まずは二人の案内人を犬橇で送り出す。

 

「とにかく、僕たちで行きます。一刻も早く救援を」

 アービィが念話で犬たちに帰村を命じ、闇の中に送り出す。

 犬たちはアービイの正体に気付き一瞬恐怖に身を竦ませたが、アービィに害意がないことを悟り案内人たちを乗せて闇の中へ消えていった。

 

「いいですか、ちょっと向こうを見ててもらえます?」

 当然、みんなでね、と付け加え、服を脱いだアービィが獣化する。

 

――こちらを見ていいですよ――

 不意に頭に中に入ってきた念話に訝しみながら振り向いたワラゴは、不安げな表情で自分を見つめる巨狼の姿に腰を抜かした。

 

 ワラゴは立ち上がることも、言葉を発することもできない。だが、彼には巨狼に害意がないことも判っている。

 巨狼を見た瞬間は死んだと思ったが、今はようやく落ち着きを取り戻し、巨狼を見上げている。

 

「なるほどね、これなら大丈夫だ。みっともないところを見せちまったが、忘れてくれるとありがたい。じゃあ、行こうか」

 まだ声が震えているが、それは恐怖からだけではなく、畏怖の感情が多分に含まれている。

 

――忘れます。できれば僕のことは他所で言わないでいてくれるとありがたいのですが――

 アービィから同意と依頼の念話が届いた。

 

「じゃあ、商談成立でいいかな。ところで、悪魔が何で人の味方してるんだい?」

 ワラゴから素朴な疑問が返された。

 

――それは追々話します。じゃあ、行きましょうか――

 悪魔という単語に落ち込みつつ、アービィは答え、扉の前に立つ。

 数瞬の後、立ち尽くす巨狼からの念話が全員の頭に届いた。

 

――ごめん、もう一度、あっち向いてて。扉が小さくて……出れない……――

 馬っ鹿じゃないの、というルティの罵声と共に、全員が振り返り巨狼に背を向ける。

 扉の開閉音が聞こえ、その後、獣化を解いた全裸に突き刺さる外気の冷たさに、アービィの悲鳴が闇を引き裂いた。


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