狼と少女の物語   作:くらいさおら

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第49話

 パーカホの集落にある捕虜収容施設は、重苦しい空気に押し潰されそうだった。

 ひとり、またひとりと、仲間たちが死者の列へと並んでいく。

 

 秋が終わり、雪が積もり始めた頃は、誰もが楽観していた。一度は干戈を交えた敵ではあったが、いつの間にか厳しい自然を生き抜くために共闘する戦友になったと思っていた。

 農地や燃料の改良、飲料水の確保といった実績は、決して捕虜を虐げる理由にはなっていない。

 

 パーカホの人々も、捕虜を虐待したわけではなかった。

 単純に食料が足りない。

 

 それは判っていたはずだ。なにせ、一気に二千もの人口が増えている。

 当然一集落で収容できるはずもなかったので、いくつもの集落が秋の収穫期の労働力として分け合っていた。

 

 当初は冬までに勝手に死ぬ消耗品の扱いだった。

 捕虜になった直後には、戦いで受けた傷や食料が不足気味であることから治癒呪文ですら追いつかず、約三分の一に当たる六百五十人が死の河を渡っていた。

 だが、ランケオラータと部下の何気ない会話から、農地改良の機会を得ることになり、それ以降は北の大地に恵みをもたらす者という扱いに変わりつつあった。

 

 

 人海戦術も駆使し、例年より多くの食料や燃料を集積することにも成功し、餓死者や凍死者を出すことなく冬篭もりができるのではないかと、どこの集落でも楽観的な空気が支配していた。

 北の大陸の中央部を抑える部族連合の襲来も、戦慣れした捕虜たちが最前線にでて撃退したため、人的被害が僅少で済ませられたことも影響していた。

 

 一度敗れたとはいえ、ランケオラータが一歩退くことにより、能力ある指揮官に率いられた職業軍人による防衛戦は、中央部から略奪を目論み押し寄せてきた民を、いとも簡単に撃退してしまった。

 集落の多くの人々は、数の力、職業軍人の力、優れた武器防具の力だと考えていたが、中には中央部の民の戦振りに疑問を抱いた者も、少数ではあったが存在した。

 

 毎年繰り返される略奪のための侵攻が、今年はいつになく死に物狂いだったことと、その割には攻勢に粘りがなく、まるで死に急ぐかのように突っ込んで来る者が多かったことに、ルムを始めとした幾人かの指導的立場にある者が気付いていた。

 さらに北から押し寄せる蛮族の脅威が、中央部の民を死に物狂いに、且つ捨て鉢にさせているのではないかという疑問だった。

 

 例年であれば襲撃が終息する時期になっても、中央部の民の略奪は終わらなかった。

 緩衝地帯となっている互いの平野同士を分ける山岳地帯は、また別の部族集団の居住地となっており、ここを冬季に抜くことは不可能だったが、中央部の民は協定に拠るものか征服したかは不明だが、拠点を築いているようだった。

 この中央部の民からの圧力も、捕虜たちを生かしておく理由になった。

 

 ランケオラータを始めとする捕虜たちは、自分たちの命を守るため、凍土に分け入り樹木を切り倒し防御柵を集落の周囲に張り巡らせた。猟の経験を有する者は、群で移動する大型の草食獣を狩りに行く。

 防御柵は中央部の民の襲撃を防ぎ、戦況は膠着状態に陥り、その頃から北の大地はよりいっそう深い雪に埋められた。

 

 雪は中央部の民に襲撃を諦めさせるに充分な理由になる。如何に雪に慣れた民といえども、背丈より深く積もった雪では戦のしようがない。

 山岳地帯に篭ったと見られる中央部の民が息を潜めたことに、平野部の民はようやく一息入れることができたが、ここに誤算があった。

 

 冬篭りのための食料は、戦がなければそれなりに食いつなげただろう。

 だが、腹が減っては戦はできぬとばかりに襲撃の前後は大盤振る舞いになってしまい、予想以上に食料を消費してしまっていた。

 

 もう一つ誤算があった。

 人が死ななかった。

 

 通常であれば戦以外でも弱者が死んでいた。

 乳幼児、老人、病人、怪我人といった、最も食料や人の手助けを必要とするものから死んでいた。

 

 ルムを始めとした指導者層も、生き残った人々がどれほどの食料を消費するかを見誤っていた。

 それまで諦めと共に見送っていた人々が生き残ると分れば、見送るはずだった側にも見送られるはずだった側にも生への執着が湧いてくる。

 

 そこへ妊婦の増加も追い討ちをかける。数ヶ月に亘る捕虜生活の枷が緩むに従い、現地の女と情を通じ合わせる捕虜が続出していた。

 従軍できるほどの壮健な若者が、数ヶ月の間女なしでいられるはずがなかった。ましてや娼館が当たり前にある世界だ。独身の男で金があれば、娼館に行くことに抵抗を感じるものはそう多くない。

 生への執着は、性への執着であり食への執着だった。

 

 だが、ついにそれも破綻する秋が来ている。

 例年の季節の移り変わりと今年のそれが変わらないのであれば、どう勘定し直しても雪が緩む頃まで食料を保てる集落はない。

 

 今更捕虜を殺すわけにも行かない。既に拘束は解いているし、中央部の民を撃退する際に武器も取らせてしまっている。

 おそらく、捕虜虐待が始まれば、いや、その気配を見せれば、生き残るために両者の間に凄惨な殺し合いが起きるだろう。

 何より、平野部の民を富ませてくれる方法を教えてくれた捕虜たちを、今更殺すということは情からも忍びないという意識もある。

 どうにかして一人でも多く生き残る方法を考え出さなければならなかったが、食糧不足から体力を失った者が冥界へと旅立つことを止めることができなくなってきた。

 

 ルムはランケオラータを訪ね、食料を集めに行くための人手を出してくれるように頼んだ。

 もちろん、ランケオラータに嫌はない。自分たちが死ぬか生きるかの瀬戸際だ。

 

 狩りの経験のある者、雪の中で生きる術を知る者が名乗りを挙げ、集落の民と共に人の背丈より深い雪の中に踏み出していく。

 珍しく晴れ渡った厳冬期のことだった。

 

 

 アービィたちはストラーを出国したあと、ベルテロイに滞在している。

 ボルビデュス領まで戻ると往復で六日の浪費になるため、ストラストブールを発つ際にレヴァイスル伯爵宛に行程を早馬で知らせていた。

 

 以前泊まった宿で伯爵とクリプト、馬丁と落ち合う。

 ここまで旅を共にしたノタータスと別れることは寂しかったが、北の大地で生き残れるかどうか分らない以上、おいていくしかなかった。

 確かに歩くより馬車のほうが移動速度は速いが、小回りが効かないこと、目立つことなどを考えると、必要なら現地で調達したほうが良いという判断もあった。

 馬車という交通機関が存在すればだが。

 

 アービィたちは伯爵にノタータスを返し、北の大地へと旅立ち、伯爵は領地への岐路に着く。

 伯爵は、その前にベルテロイ駐在武官パシュース第二王子に面会を求めた。アービィたちが北へ立ったことを報告するためだ。

 

 その時点で、既にパシュースはアルテルナンテ経由で、ストラーにおけるアービィたちの行動は把握済みだった。

 クーデターグループは、今すぐ動く気配はない。まだ準備不足ということもあるのだろうが、アルテルナンテの意を受けた宰相デュ・デバリ公が監視を強め、動き辛くさせている。

 

 そのうち焦れて何かしらの動きを見せるだろうが、そのときに一気に潰してしまえば良い。

 おそらくビースマックで手引きする貴族も動くだろうから、こちらも一網打尽にできるようフィランサスが動いている。

 

 もう暫くの間、それぞれの国でクーデターグループを締め付けつつ、泳がせておきたかった。

 四国家での南大陸共同統治に、ストラーのプライドは邪魔すぎる。

 クーデターを潰すついでにプライドも潰し、各国に蔓延る覇権欲に塗れた連中もついでに排除する。

 

 バイアブランカ王は、共同統治への地均しができたら、第一王子ヴィクラント・カレル・インプラカブル・バイアブランカを摂政にして共同統治機構へ出向するつもりだ。

 第二王子パシュースは、そのままヴィクラントの懐刀になってもらう。

 国政を若い世代に任せ、自分は南大陸共同統治機構の主導権を握る。

 

 それぞれの国が誰をその機構に出してくるかは分らないが、ビースマックとストラーはクーデターの後始末に忙しく、現王が出てくることはあり得ない。

 国内の安定化にそれぞれの王のカリスマは必要だからだ。もっとも常識的に考えてクーデターを起こされかけた王が、共同統治の場に出てこられるほど恥知らずではないだろう。

 当然若い世代が出てくるはずだ。

 

 ラシアスに関しては、ニムファが統治者の第一席を狙って出てくることは明白だが、ニムファ程度では老獪なバイアブランカに手玉に取られるだけだ。

 ニムファ以外に彼の国には、政治ができる王族がいない。

 まさか代表に公爵クラスが出てこられるはずもないし、もし出てきたとしてもコリンボーサ宰相は統治者の器には程遠い。

 

 いずれにせよ、共同統治機構が動き出す時点で、バイアブランカに対抗できる者が出てくる可能性は限りなく低く、彼が第一席を占めることは間違いない。

 南大陸を安定させた賢王という栄誉を得た後は、その威光を背景に北の大地をインダミトの市場として巨大な利益を独占つもりだった。

 

 既にパシュースは他の三国家の駐在武官と、共同統治機構に付いての話し合いを持っている。

 フィランサスも、アルテルナンテも、乗り気だ。特にヘテランテラは、ニムファの野望が南大陸を戦乱の渦に巻き込む危険性をはらんでいることに気付いているためか、誰よりも積極的な賛意を示していた。

 ヘテランテラは、ニムファを共同統治機構代表に祭り上げ、国内の建て直しを行う気でいる。

 第一王子エウステラリットは、人が良いだけのお坊ちゃんでしかなく、ニムファの暴走を止められていない。

 エウステラリット自身にも覇権欲も権力欲もなく、ヘテランテラが王になることに反対ではなかった。

 

 パシュースはレヴァイストルの来訪を聞き、そろそろ彼を完全に自派に取り込む気になっている。

 レヴァイストルほどの聡明な貴族には、共同統治機構の重要な役職を受け持ってもらう必要がある。

 今からそのことについて、考えを纏めておいてもらわなければならない。だが、どこまで彼に話したものか、パシュースは頭を悩ませていた。

 

 

 パーカホの集落では、大々的に葬儀が営まれている。

 まさか、であった。

 

 巨大な角を持つ大型草食獣は、群れを作り季節的な移動を繰り返している。冬になると少しでも過ごしやすい南の地域に下りてくるため、平野部の民にとっては厳冬期を生き抜くための重要な食料だった。

 食肉としての他、毛皮が防寒着に利用される。毎年生え変わる角は装飾品としての価値も高かった。橇を引く使役や荷役にも利用されている。

 一部の集落では家畜化に成功し、乳を採取したり橇を曳く使役や、荷役としても利用されている。

 他の集落が持っている家畜化した個体を狩るわけにはいかないため、大規模な季節的な移動を行う群れが狩の対象だ。

 

 集落を出てから二日目に、今までにない大規模な群れに行き会うことができた。

 いつもに比べ、こちらの人では多いため、獲物も多く持ち帰ることができる。

 この草食獣はおっとりとして性格のため、差し迫った命の危険を感じるまで逃げることもなく、抵抗することもほとんどなかった。

 

 ところが、今回に限って草食獣のおっとりとした性格が、発揮されることはなかった。

 勢子が群れを追い込むまでもなく、一直線に射手の待つエリアに突進してくる。

 それは暴走というより、雪崩といったほうが良い勢いだった。

 

 射手に対する殺意ではなく、何かに怯え、逃れるための暴走のようだった。300kg近い巨体の突進を、生身の人間が止められるはずもなく、数人の射手が草食獣の蹄に掛かり吹き飛ばされる。

 弾き飛ばされ骨を折るくらいなら幸運な方だった。運の悪い者は、蹄で蹴られ倒れた上を後続の草食獣が駆け抜けた。

 草食獣の群れが駆け抜けた後には、これのどこが人間だったのかと思えないような肉片が散らばっているだけだった。

 それぞれの無事を確認するまで、肉片からではいったい何人の仲間が犠牲になったのかすら分らないほど、凄惨な光景だった。

 

 それでも草食獣の進路から外れていた射手が射た矢により、10頭の草食獣を仕留めることができたが、今はそれを喜べるような状態ではなくなっていた。

 仲間たちのところに戻ってきた射手の、草食獣を仕留めた喜びの笑顔が凍りつき、生き残った全員が立ち尽くす。

 

 そこへ、破局が訪れた。

 普段なら冬篭りの真っ最中で、雪原に出てくることなどあるはずのない巨大な熊が、生き残った者たちに襲い掛かってきた。

 それも一頭や二頭という数ではなく、少なく見積もっても十頭を超えている。

 信じられないことに、その目は狂気に染まり、黒いはずの瞳がオレンジ色に変色していた。

 それは明らかに正常な野生動物ではなく、魔獣の目だった。

 

 熊は打ち倒された草食獣の死体に喰らい付き、砕かれた元は人間だった肉片を貪り始める。

 数頭の熊は、仲間を襲った惨禍に茫然自失と立ち尽くす北の民や捕虜たちに襲い掛かり、引き倒し、身体を噛み砕いた。

 

 態勢を立て直せた何人かの魔獣討伐の経験を持つ捕虜が、『猛炎』や『風刃』、『凍刃』で熊を薙ぎ倒し、『防壁』と『加速』で生き残った全員の逃走を助ける。

 北の民の幻術『催眠』が功を奏し、生き残った熊全てが眠りこけたところに、呪文や剣の雨が降り注ぐ。

 

 期せずして大量の食料を得ることができたが誰もが喜ぶ気にはなれず、帰路は運べるだけの肉を抱えて、魔獣の襲撃に怯えながら一目散に集落を目指した。

 幸い、この時期の北の大地は、自然そのものが天然の冷凍庫になっているため、運びきれない獲物は雪に埋め、あとから取りに行くこともできる。

 とにかく今は、生きて集落に戻ること、そして魔獣の襲来を告げることが先決だった。

 

 出発時より明らかに少ない人数しか戻ってこなかったことに訝しむ集落の人々は、食料調達チーム惨劇に言葉を失った。

 悲嘆が集落を包み、夫や父、息子を失った女たちの慟哭が鈍色の空を引き裂いた。

 

 しめやかに執り行われる葬儀の間、ルムとランケオラータは熊が魔獣になったということに付いて話し合っている。

 遥か北の大地の奥、極北の地に北の民には使えない妖術を使う蛮族がいると言われていた。

 今回、中央部の民がいつになく襲撃を繰り返していたのは、この蛮族の南下によるものかもしれなかった。

 

 もし、蛮族が魔獣を作り出すことができるのであれば、これは由々しき事態だ。

 人同士の戦であれば、居住地や食料の取り合いだけで、決定的な殲滅戦が行われることはない。

 なぜならば、ある程度生産させてから奪い取った方が、自分たちの労働量が減り効率がいいからだ。

 

 だが、魔獣を使役しての侵略となれば、話は違ってくる。

 理性など持たない魔獣は、進行方向にいるもの全てを殺し尽くさずにはいない。

 

 食料調達チームには、南の住人がかなりの数入っていたため、レベル4の呪文を使える者こそおらず犠牲者を蘇生させることは適わなかったが、攻撃と防御に優れた呪文のお陰でなんとか帰還することができた。

 だが、熊などではなくキマイラやマンティコアのような合成魔獣や、コカトリスやバジリスクといった特殊攻撃能力を持つ魔獣が大挙押し寄せてきたら、これを防ぐ術はない。

 

 北の民同士争っている場合ではない。一致協力してこれに対する必要があるとランケオラータは説き、ルムも同意見だ。

 偶然北の民が防波堤となっているが、南大陸としても他人事ではなくなってくる。ウジェチ・スグタ要塞は、対人の防壁であり、魔獣の大群に対抗できるとは限らない。

 

 南大陸への防壁として北の民を支援しなければ、魔獣の群れが南大陸を直撃する。いや、支援だけではなく、共に血を流すべきだ。

 周囲の集落と連携を取ることも重要だが、南大陸との連携が必要になったとランケオラータは考えている。

 

 北の民同士が争っている場合ではないとランケオラータはルムに説いたが、それはそのまま自分にも帰ってくる言葉だった。

 北の民と南の住人が、争っている場合ではない。

 人同士が争っている場合ではなくなったと、ランケオラータは理解していた。

 

 春まで待てるか。

 雪が緩み、南に帰ることができる時がきたら、ルムを伴いインダミトに帰る。

 どれほどの人が信じてくれるか分らない。北の民に篭絡され、南の資源を引き出すための謀略や、南への侵攻の手先だと勘繰られるかも知れない。

 下手をすればランケオラータ自身が殺される危険性もある。

 

 だが、ランケオラータは、その危険から逃げることは、貴族としての矜持を捨てることだと思っている。

 自分ひとりが助かっても、そのために多くの人々を危険に晒すのであれば、それは貴族としての義務の放棄だ。

 

「なあ、ルム。俺は立場を理解しているつもりだ。だが、それを承知で敢えて聞く」

 ランケオラータは、ルムをインダミトに連れて行くと決心した。

 

 自分は捕虜であり、勝者であるルムたちにもの申せる立場にはないことは理解していた。

 しかし、ランケオラータの物言いは、既に戦友に対するそれになっている。

 

「何だ、ランキー? 急に改まったりして」

 ルムにしてみても、既にランケオラータは愛称で呼びかける対象だった。

 

 多少は立場の優位を感じてはいるものの、彼の知識や教養、軍事以外に見せる人心掌握や統率の技術、適材を適所に配することを可能にする人を見る目は、尊敬の対象であり、最良の教材だった。

 いつしかルムは、ランケオラータが北の大地を終の住処に選ぶことを望んでいた。

 

「今回の魔獣なんだが。どうも作られてるというか、操られているというか。もう、北の民だけの問題じゃないと思う。南大陸と共同で最北の蛮族に当たらないとダメなんじゃないか? 俺をインダミトに帰してくれ。そのとき、一緒に来て欲しい」

 ランケオラータは正規軍を派遣すべきだと説く。

 

「俺が行っても大丈夫か? いや、俺の身が大丈夫かという意味じゃなくて、俺が行くことで纏まる話も壊れるんじゃないか? その心配がなければ、俺は行こう」

 ルムの答えは明快だった。

 

 彼自身、対人の戦や数体の魔獣であれば滅多なことでは後へは退かないが、魔獣の大軍を率いた蛮族には抗することは無理だと感じている。

 ただし、軍の派遣は北の民の神経を逆撫でするだろう。そのための地均し、根回しが不可欠だ。

 いきなり南の正規軍が進撃したら、自分たちを討ちに来たと思われるのが落ちだろう。

 

 もちろん、一気に最北の蛮族を討つことは困難で、当面は駐留軍を置いて蛮族の南下を食い止める。

 それには中央部の民との協同が必要だ。

 

 平野部の民と中央部の民は、お互いに相争っている。同意を得ることは困難に思えるが、それをしなければ北の大地が混乱するだけになってしまう。

 幸い、中央部の民が程近い山岳地帯に侵攻している。

 それなりの立場の者がそこへ行き、根回しするチャンスといえた。

 

「中央部の民と渉りを誰が付けるかだが……ルムには俺と一緒にインダミトに行って欲しいからな」

 中央部の民と交渉するには、それなりの立場の者が行かなければ話にもならない。

 本来であれば、平野の部族を束ねるルムが行くべきだが、ルムにはインダミトに来てもらわなければならない。

 

 他の集落にしてみても指導者がいなくなっては困る。

 下手をすれば殺されるかもしれないし、人質として中央部の民の集落に拘束されるかもしれないからだ。

 

「妹に、ヌミフに行ってもらう」

 ルムはことも無げに答えた。

 

「いいのか? どうなるかわからんぞ?」

 心配顔のランケオラータが聞き返す。

 

「考えてもみろ。代わりの効く者が行って、あちらが納得するとでも思うか? 殺されたら困る者が行かなきゃ、こちらの本気は伝わらないだろう」

 ルムにしても心配は心配だ。

 人として殺されなくても、女として殺されるかもしれない。

 だが、その覚悟がなければ、中央部の民と話をすることすらできないだろう。

 

 ルムはヌミフを呼び、中央部の民と話をつけてくるように命じる。

 兄妹としてではなく、部族を率いる者としての命令だ。当然その命令に逆らえる者はいない。

 もちろん、ヌミフも部族を束ねる者の妹として、その程度の覚悟はある。

 

 雪が緩む頃には、最北の蛮族の攻勢も始まるだろう。

 できる限り早く北の民同士の諍いを止め、協力体制を築かなければならない。

 ランケオラータをインダミトに返すには、彼に雪と上手に付き合う術がない以上、春を待つ必要があるが、ヌミフが山岳地帯へ行くのは早い方が良い。

 

 数人の供を連れただけのヌミフがパーカホの村を発ったのは、それから三日後のことだった。

 表面上は平静を保っているルムが、誰より妹の身を案じていることを、ランケオラータは知っている。

 それだけに南大陸の協力をなんとしても取り付ける。彼は固く心に誓っていた。

 

 

 バードンは雪に行く手を阻まれて、焦燥の中で日々を過ごしていた。

 結局、炭に関する情報を得た村で足止め喰ってしまい、ひと冬をそこで過ごす羽目になっている。

 

 数十日を過ごすうち、村に馴染み溶け込むことには成功したが、ランケオラータに関する情報はほとんど入ってこない。

 たまに交流のある平野の集落に行く者もあったが、例年より集落の人が多いということしか聞けなかった。

 おそらく、その増えた人というのが捕虜を指しているのだろうが、どの集落にいるのかが絞れない。

 自分の目で確かめたかったが、ラシアス育ちとはいえ南大陸の気候に慣れきったバードンに、厳冬期の雪原を踏破することはできなかった。

 

 ようやく降雪が止み、吹雪に叩かれることも、視界が利かなくなって遭難する危険も減った今が、平野に下りるチャンスだった。

 バードンは村人に案内人を頼み、まずは交流のある平野の集落を目指し、それから以前聞いたパーカホに行くことにした。

 アービィたちがリジェストに到着する二日前のことだった。

 

 偶然ではあったが、ハイスティはバードンが滞在していた村のすぐ隣村で足止めされていた。

 やはり炭に関する情報からランケオラータの関与までは推測できていたが、交流のない集落に囚われているということしか分らない。

 

 バードンの消息も分らず、先を越されているのではという焦燥が彼の出立を早め、バードンに先立つこと一日ではあるが、平野に向かって旅立っていた。

 交流のある平野の集落までは、北の民であれば十日で踏破できる道のりではあるが、雪に慣れていないハイスティではさらに数日を要すると案内人は考えている。

 

 降雪の日数こそ減ってはいるが、まだ完全に雪の時期が終わったわけではない。

 平野に降りる道は数本あり、徐々に合流して最後は一本道になる。その途中途中には、夜を過ごすことができる避難小屋が点在している。

 吹雪に巻き込まれた際にすぐ退避できるように、作りは簡素だが数だけは揃えてあった。

 

 初日は無理をせず、半日程度の避難小屋に入ることにしたが、それでもハイスティの足ではそれが限界のようだった。

 小屋の中で寝袋に包まったハイスティは、つくづく大変な仕事を請け負ってしまったと思い知らされていた。

 

 

 ベルテロイを発って二十二日目の夕刻、アービィたちはリジェストの町に到着した。

 まだ周辺は雪に閉ざされてはいるが、馬車が行き来できるほどに回復している。

 

「戻ってきたわね」

 ティアは感慨深そうに呟く。

 今度こそ。今度こそは北へ渡る。

 

「ティア、あんまり気負っちゃダメよ。肩の力抜いて、気楽に、ね」

 メディが心配げに声を掛けた。

 傍から見ていて痛々しいほどティアは気負い込んでいる。

 

「そうよ、あたしたちが行けば大丈夫。ってくらいに考えてないと」

 ルティが気負いに固まり切ったティアの心を解すように言った。

 

 酒場に繰り出し、北の大地への案内人がいないか、主人に聞いたところ一人の商人を紹介された。

 セトナイと名乗る中年の男は、中肉中背のがっしりした体格で、抜け目なさそうな表情からベテランの商人であることをうかがわせている。

 

 五日後に地峡を抜けた山岳地帯の集落を回るということで、それに同行させてもらうことになった。

 案内する代わり、野盗や魔獣からの護衛をアービィたちがするということになり、案内料は護衛料で相殺することにした。

 

 準備のため寒冷地仕様の寝具や防寒着などについて教えてもらい、犬の毛皮が最も防寒効果が高いという、意外な情報を得る。

 熊は冬眠してしまうので雪原を活動するための毛皮を持つ必要がなく、それほど防寒着としては優れていないらしい。また一旦濡れてしまうと、乾くのに時間が掛かりすぎることも、防寒着としての用を成さない理由だった。

 三人の視線に、アービィは急に不安に襲われていた。

 

「じゃ、いざとなったらよろしくね、アービィ」

 

「じゃ、じゃなぁ~いっ!!」

 ルティの発言を即座に却下し、アービィはエールを呷る。

 

 翌日からセトナイに教えてもらった情報に従い、寝具や防寒着を買い込み、数日分のレーション、回復薬、触媒を買い足す。

 夜はセトナイと酒場で落ち合い、雪の中での過ごし方や凍傷になったときの処置、予防法などを教わり、翌日必要な物を買い足すということを繰り返し、出発の日までを過ごしていた。

 

 その間に町のギルドにエンドラーズから手紙が届く。

 孤児院の構想に全面的に賛同し、既にデュ・デバリ公との協議に入っているらしい。

 心配事が一つ片付き、アービィは礼状をエンドラーズに送った。

 

 

 出発の朝、陽が昇ると雪原は目を開けていられないほどの眩しさだった。

 もう暫くすると雪が溶け始め、道は泥濘と化してしまう。その前に間道を抜けなければ、再度北への道は閉ざされる。

 そうなると初夏まではウジェチ・スグタ要塞を経由するしかなくなる、ギリギリのタイミングだった。

 

 ティアはこの幸運が続くことを、祈らずにはいられなかった。


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