狼と少女の物語   作:くらいさおら

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第42話

 「てぇことは、あなたさんはこないだの戦で、捕らえられた捕虜を取り返しに行きなさる、と仰るわけですな?」

 村人の問いにバードンは首を横に振った。

 

「いえ、私一人で何百人、いや何千人いるかも解らない、捕虜全てを取り返せるとは思っておりません。ただ、何れの者もマ教の教えを信ずる者。私が共にあることで心安らかになるのであれば、そう思い参ったわけでございます」

 バードンはウジェチ・スグタ要塞を出た後、地峡に続く高地にそれぞれが一日の行程内に点在する、南の住人と交流を持つ集落を渡り歩いていた。

 平野に住む部族に追いやられ、高地に点在する狭い居住可能な空間に、へばりつくように集落は点在している。

 

 南の通貨が両替せず使用できる最北端で、比較的南に対して好意的な感情を抱く部族が暮らしている。

 狩猟が主要産業で、それ以外にはほとんど何もないのは、高地の土地が農耕に向かないからだ。

 

 主食となる穀物は、ラシアスを通した南大陸や平地の部族の中でも友好的な部族との交易に頼っていた。

 高地の部族同士の関係には多少の好悪はあるものの概ね良好であることは、生活条件が似通っていることに加え、諍いをしている余裕がないということもあった。

 

 

「それで、捕虜たちはどの部族が押さえているか、ご存知のことがありましたら教えていただけますか?」

 バードンの普段の物腰は柔らかく、言葉遣いも丁寧だ。

 

 人狼に関わることになるといきなり豹変するが、スキルウェテリーに叩き込まれた礼儀作法と、生来の性格に拠るところが大きい。

 布教活動で異教徒の中に溶け込むためには、反感を買うことが少なくて得なスキルだった。

 

「そうですなぁ。……平野の部族であることは、間違いないんですがね……」

 村人は首を捻り考える。

 付き合いのある部族からは、そのような話を聞いていない。

 

「では、最近交易か活発になっているということはございませんか?」

 どれほどの人数が生き残っているかは分からないが、集落に済む人数が増えれば交易量が増すはずだ。

 

「そういえば、直接こことは付き合いはないんですがね、パーカホの村から木炭を買ったって話を聞いたことがありますね」

 村人は思い当たる節があるようだ。

 

「それは、どこにあるんですか?」

 これだ、と直感が告げる。

 

 高地一帯では、薪をあまり使えない。

 野生動物の住処となる森林を伐採しすぎては、自分の首を絞めるようなものだ。

 

 そのうえ、平野部に鉄砲水でも起こそうものなら、ただでさえ好意的に思われていないのだから、あっさりと攻め滅ぼされてしまう。

 かといって、平野部の森林から薪を運ぶには、労力時間とも掛かりすぎてしまう。

 

 このため、高地一帯では、乾燥した泥炭が一般的な燃料だった。

 高地を降りきった平野部の縁には、広大な湿地帯が広がっており、ここには無尽蔵とも言える泥炭が眠っている。

 

 狩猟と平行して、春から秋に掛けて泥炭堀が行われ、冬までに乾燥させた物を運んで使っている。

 大量の煤煙が出るため室内が煤けることや、煙逃しに屋根に穴が必要なことと、火力が低いことが欠点だった。

 

 低品質であっても木炭の方が火力が強いため、南大陸から持ち込む品に昔から数えられていたが、冬季には供給が止まってしまうため、贅沢品と考えられている。

 それが冬でも辛うじて交易が可能な北大陸で、入手できるようになることは大歓迎であった。

 

「平野に出てから北西に十日ばかりのあたりですよ。さすがに今から行くのは無理じゃないでしょうかねぇ。途中には私たちや、平野の部族が持ってる避難小屋くらいしかないんですよ」

 北に渡りひと月ほどで捕虜が囚われている集落の当たりはついたが、どうやらここで打ち止めのようだ。

 超人的な殺人技を持つバードンといえど、雪には勝てない。

 

 案内人もなしに、目印すら雪に埋もれた時期に未知の土地を踏破しようなど、ただの自殺だ。

 高地の人々は、雪原を踏破する技術を持ってはいるが、他人にかまっていられるほど甘い自然環境ではない。

 

 現状で取れる最善の手としては、高地の人々が交易に行く際に情報を集めてきてもらうくらいしかない。

 集落の周辺で雪との付き合い方を学び、状況が許せばパーカホまで行ってみようとバードンは考えていた。

 

 

 バードンが目を付けた木炭は、間違いなくランケオラータが関係しているものだった。

 平野部の部族も、燃料に泥炭と薪を使っており、良質な木炭は高地部族を通して極稀に南大陸産の物を手にするだけだった。

 

 集落の周辺には針葉樹を中心とした森林が広がっており、白炭や黒炭に適した広葉樹の数は少ない。

 当然多くの薪は針葉樹が原料であり、消炭は熾き火になることはあるが、燃料としては適したものではなかった。

 

 数が少ない広葉樹は燃料としては見向きもされず、数十年以上が経過し萌芽がしにくくなるものが多くなっている。

 ランケオラータは、広葉樹を適宜伐採して燃料として炭焼きを行うと共に、森の更新を促進するようにさせた。

 

 残念なことに、熟練の技術を要する炭焼き窯を作ることができる者がいなかったため、炭焼きは最も簡便な伏せ焼きで行った。

 それでも針葉樹から得られる炭や泥炭よりは、遥かに良質な燃料としての炭を作ることができた。

 

 同時に針葉樹からできる炭の断熱効果に着目し、家屋の床や壁に埋め込み燃料の消費を下げる工夫もしていた。

 また、南大陸で飲まれている大麦を原料とした蒸留酒の製造過程にある麦芽の乾燥に、泥炭を使ってみようというアイディアも生まれた。

 

 北の大陸で飲まれている蒸留酒に応用してみたところ、芳香が付くことが確認でき、もし南大陸との交易ができるならば主力商品となる可能性も出てきた。

 交易という点から見れば、北の大地は巨大な市場となる可能性を秘めている。

 

 北の大地の暮らしを良くしていくことができれば、北の民の南下への渇望を和らげつつ、緩やかな両者の交流が可能になるのではないか。

 南大陸で行き詰まりを感じている者にとっては、北の大陸は新天地となる可能性もある。

 農林業に限らず、いくつかの分野において北の民にとっての技術革新を伝えたランケオラータは、次第に捕虜というよりは重要な人物としてパーカホで遇されるようになっていた。

 

 

「それでは、準備はいいかね?」

 伯爵がアービィたちに声を掛けた。

 馬の扱いもクリプトから叩き込まれ、なんとか思い通りに動いてもらえるようになってきたので、実地訓練を兼ねて伯爵と共にエーンベアに行き、バイアブランカ王に謁見することになった。

 

 当初はボルビデュス領からベルテロイに戻り、そのままストラーの王都ストラストブールを目指すつもりだったが、伯爵に王の顔を立ててやってくれと拝み倒され、エーンベアに一度行くことになっていた。

 その後、エーンベアから再度ボルビデュス領に戻り、ベルテロイを経由してストラーへ向かう。

 

「はい、伯爵。じゃあ、頼むよ、ノタータス」

 アービィが馬に一声掛け、馬車はゆっくりと動き出した。

 伯爵が乗る馬車の後ろを、ノタータスが曳く馬車で追いかける。

 

 素直な性格だが、かなりヘタレでもあるノタータスを連れて行くことに、レイやセラスは反対していた。

 だが、危険を察知する能力は伯爵家の馬随一のものがあったため、伯爵とファティインディは賛成していた。

 ひとつ危惧するならば、魔獣と出会い頭になったときに、その場で失神するか暴走するかが分らないくらいだろう。

 

 いざとなればアービィがいるので旅程に不安はないのだが、ノタータスが足手纏いにならなければいいとレイは心配している。

 ノタータスと相性が良かったセラスは、単純に友達を連れて行かれることが嫌なようだった。

 

 以前はラガロシフォン経由のため十四日間に及ぶ行程だったが、ボルビデュスから直接王都への道は七日程度で到着できる。

 もちろん、途中宿を取る回数を減らし、野営で時間稼ぎすれば五日で行くことも可能だった。

 

 普通であれば七日の行程でいくのだが、今は時が時なのでできる限り短縮することにしている。

 それに、投宿すると宿が馬を預かるため、ノタータスと一緒に過ごす時間が増える野営のほうが、却って都合が良かった。

 

 ボルビデュスを出てから三日目の野営時、ノタータスの様子がおかしくなった。

 耳がせわしなく動き回り、目もどことなく泳いでいるかのようだ。

 ノタータスの耳が動き始めた直後に、アービィも不穏な気配に気付いた。

 

「ノタータスの方が早かったね」

 アービィの一言にティアが驚愕する。

 この馬は、人狼より気配を早く感じ取った。

 

 伯爵を囲むように陣を組むが、その伯爵自体が剣を振るいたがっているので始末に悪い。

 全員が剣や弓を構え、闇と対峙する。

 

 やがて、闇を割って姿を現したものは、八本脚のトカゲのようなゲイズハウンドだった。

 全長は獣化したアービィよりも大きい4mほどで、麻痺の効果を持つ毒が含まれている唾液を持つ凶獣だ。

 

 通常は八本脚で歩き回るが、戦闘時には後ろ三対の脚で身体を支え、最前肢の一対は敵を抱え込むことが可能だ。

 素早い動きと、水牛の首すら叩き折ることができる尾の一撃は、麻痺の能力と併せ脅威となる。

 

 極北の地にしかいないといわれていたが、この10年で徐々に分布を南下させている。

 しかし、分布に連続性が見られないため、何者かが南大陸に送り込んでいると見る向きもあった。

 

 クリプトのいるうえにノタータスがパニックを起こしかねないため獣化するわけにもいかず、剣と呪文で立ち向かわねばならない。

 もっとも、無闇に獣化していてはいつまでたっても呪文の習熟度も上がらないため、よほどのことがない限り獣化する意志はなかったが。

 

 アービィとルティが前衛に出て剣を構えるが、いつの間にか伯爵も愛剣を構え横に立っている。

 後衛でティアが弓を構え、メディは回復呪文をいつでも発現できるように詠唱を始めた。

 

 クリプトは、万が一のために馬たちに寄り添い、鋼線を引き出している。

 凶獣とアービィたちの間に張り詰める緊張が極限に達したとき、ゲイズハウンドが跳躍した。

 

 後肢と尾に溜めた力を一気に解放し、手近にいたルティに襲い掛かる。

 一瞬遅れて放ったティアの矢は闇を貫いただけで終わるが、二の矢はゲイズハウンドの着地位置を狙って放たれる。

 

 ルティは軽くステップバックで襲撃をかわし、ゲイズハウンドが態勢を整える前に一歩踏み込んで前肢に剣を叩き込む。 

 ほぼ同時にアービィと伯爵の剣がそれぞれ前肢と首を捉えるが、堅い皮膚に阻まれ深手を与えるには至らない。

 

 ティアの放った二の矢は狙い違わずゲイズハウンドの目を抉り、凶獣の叫びが闇を切り裂いた。

 当てずっぽうに振り回される尾がアービィを直撃するが、剣を盾にこれを防いだ。

 

 盾にした剣がゲイズハウンドの尾に食い込むが、切断するには至らず軽いダメージを与えるに留まる。

 しかし、強力な武器を封じる役には立ったようだ。

 ルティがこの隙に懐に潜り込み、起こした上体に剣を突き立てるが、浅く入るだけで突き通すことはできなかった。

 

 攻撃の直後にできる隙を突かれ、ゲイズハウンドの牙がルティを掠めた。

 反射的に飛び退るが、直後に身体に痺れが走り、動くこともままならなくなる。

 

 慌てたティアが『解痺』の呪文を唱えてルティの麻痺を解き、同時にメディが『回復』を掛けた。

 瞬時に麻痺が解けたルティは、地面を転がってゲイズハウンドの追撃を寸でのところで回避できた。

 

 片目を潰され距離感がつかめない凶獣に伯爵が走り寄り、その背に剣を叩き込むが、やはり鎧のような皮膚を割ることができない。

 アービィが距離を詰め、伯爵に向かって大きく開けられたゲイズハウンドの口の中に、直接『大炎』を発動させた。

 

 喉の奥に焼け爛れるような苦痛を感じた凶獣が、反射的に最後肢で立ち上がる。

 下腹が無防備にさらけ出されたときに、か細い記憶を手繰ったメディから、そこの皮膚は柔らかいことを知らされた前衛三人が突進した。

 

 ほぼ同時に三本の剣が凶獣の下腹に突き立てられ、それぞれが思い思いの方向に引き払われる。

 アービィは喉に向かい、ルティは左真横へ、伯爵が下に剣を払うと、凶獣の腹から内臓が零れ落ち、僅かな間をおいて凶獣が後ろに倒れこんだ。

 

 アービィが引き裂けた腹に『大炎』を叩き込むと、断末魔に暴れるゲイズハウンドの尾が伯爵に振るわれた。

 咄嗟に飛び出したクリプトの鋼線が尾に絡みつき、切断するには至らないが勢いを殺すことには成功する。

 

 喉元の鱗の隙間を突いてルティが剣を突き立てると、僅かに痙攣したゲイズハウンドはようやく動きを止めた。

 ふと見ると、ノタータスが立ったまま、失神していた。

 

 足元に広がる水溜りが、彼の恐怖を何よりも雄弁に物語っている。

 やれやれ、という表情のクリプトが絞った布で身体を拭いてやると、彼はようやく息を吹き返し、短く嘶いた。

 

 

 ゲイズハウンドの襲撃から二日後の朝、一行はエーンベアに到着し、バイアブランカ王との謁見に臨んだ。

 王都に詰める貴族たちの好奇の視線の中、謁見の間に進んだ一行は、王の前で片膝を付き頭を垂れた。

 

「よくぞ、参られた。噂は、聞き及んでおるぞ。楽にされよ、勇者殿。ボルビデュス伯共々、此度の働き誠にご苦労であった」

 アービィたちは、王の言葉に頭を上げる。

 バイアブランカは、穏やかな視線でアービィの涼やかな表情を眺めている。

 

「勿体無きお言葉、痛み入ってございます。先般上奏いたしました、特許や商標はこの者の知恵にござりますれば」

 伯爵は王に対し、再度深く頭を垂れた。

 

「うむ、良いことを教えてもらったと思っている。今後も、そなたの知恵を借りたいところだが……」

 そう言ってバイアブランカはアービィを見た。

 アービィが何かを言おうとするが、バイアブランカはそれを遮って言葉を続ける。

 

「そなたには、成すべきことがあるのであろう? それをこの国に留めようとは考えておらぬ故、安心するが良い。ただ、な。たまにはこの国に立ち寄って、そなたの知恵を貸して欲しい。それくらいはよかろう? 我が国は、そなたにいろいろとしてやれることは多いと思うが、いかがかな?」

 そう言ってバイアブランカは、わざと人の悪そうな表情を作り、笑みを浮かべた。

 

「陛下、お心遣い、ありがとうございます。そのように仰っていただけるのでしたら、できる限りお役に立ちたいと思います。ただ、いつも、というわけには参りませんが、そこはご容赦いただきたいと存じます」

 アービィはラシアスでの一件以来、権力者というものに不信感を抱いている。

 もし、ここで臣従の誘いがあれば、決然と断るつもりでいた。

 

 しかし、その一件は当然バイアブランカも承知しており、無理矢理縛り付けようとする愚を悟っていた。

 であれば、支援と引き換えに知恵だけもらえれば、それで今のところ収支は釣り合うと考えていた。

 

 最近、ビースマック製の品を騙った粗悪品が出回っており、この取り締まりに有効な手段を教えてもらったのだ。

 これだけでも充分支援するに値する。

 

 国内産業の保護に走るあまり、他国の権益を侵してばかりであるならば、国の威信に関る。

 ビースマックが粗悪品の件で事構える気になれば、商業国のインダミトはたちまち経済が麻痺してしまう。

 

 現在ベルテロイ駐在のパシュースを通し各国に根回しを行っているが、商品名の裏付けに例えば王の印などが必要になるとなれば少しはマシになるだろう。

 もちろん印の偽造や、そのための賄賂といった抜け道はあるので、方法を詰める必要はある。

 

「うむ、それで充分。大儀であった。下がってよいぞ」

 そう言ってバイアブランカは、玉座を立った。

 アービィは、呆気に取られていた。

 まさか、こんな簡単にことが済むとは思っていなかったからだ。

 

 伯爵から大丈夫だとは言われていたが、ひと悶着あると覚悟していただけに、王のあっさりとした行いに肩透かしを喰わされた感じだった。

 もっとも、この程度で済ますなら、呼び出すこともないんじゃない、と思ってしまっていたが。

 

「では、領に戻るとしようか」

 レヴァイストルは、王が自重したことに安堵の溜息を漏らしつつ、アービィたちに声を掛けた。

 伯爵自身、王がどう出るか読めていない部分もあったのだ。

 

 再度5日の行程でボルビデュス領に戻った夜、アービィは料理人たちの許可を貰って厨房を使っていた。

 作業台を前に、彼は夢の記憶を手繰っていた。

 

 先日作った餡子はすっかり定番となり、毎日作られているようだ。

 夜警の私兵たちの夜食用に、大き目のボウルに一杯作り置きがあった。

 

 料理人に断って、餡子を半分ほど使わせてもらうことにする。

 サツマイモに似た芋を細かく刻んで煮る間に、餡を水で延ばし練る。

 

 寒天があれば言うことなしだが、海から離れたこの地方では手に入らないので、代用のゼラチンをぬるま湯でふやかした。

 二等分したゼラチンと練り伸ばした餡を合わせ、よく混ぜてから四角いバットに入れておく。

 

 煮えた芋を滑らかになるまで潰し、弱火に掛けて水で延ばし砂糖と少量の塩で甘みを調整する。

 砂糖が溶けたところで火から下ろし、残りのゼラチンを混ぜ合わせ、こちらもバットに入れた。

 『凍結』で作り出した氷を入れた大き目の箱に両方のバットを箱に入れ、周りを毛布で包んで冷蔵庫代わりにして冷やしておいた。

 

 翌朝、朝食の後にアービィは、ルティを厨房に連れて行った。

 

「これさ、初めて作ってみたんだけど。確か、今日ってルティの誕生日だよね。本当だったら、デコレーションしたケーキなんかがいいんだろうけどさ、それは本職には勝てないから」

 冷やしておいた羊羹を切り、ルティに差し出した。

 

 フォーミットの村を出てからいつの間にか一年が過ぎ、二人は19歳になっていた。

 アービィは生まれた日が分らないので、便宜上ルティと同じ日にしている。

 

「……覚えていて、くれたんだ……?」

 ようやく、それだけ言葉にしたルティ。

 あまりにも慌しい日々の中で、自分ですら忘れていた。

 

「嬉しいよ、アービィ。ありがとう……あれ、なんか目から汗が……なんでだろう、ね」

 素直に嬉しかった。

 豪華にケーキを飾ったわけでもなければ、輝く宝石をプレゼントされたわけでもない。

 

 この世界では初めて見る菓子だが、決して派手な見かけではない。

 だが、それはアービィが一所懸命、王都から帰って休みもせず作ってくれたものだ。

 ルティには、この上もなく大切なものに思えていた。

 

「あと一日ずれてたら、野営地だもんね~。よかったよ、それだったら何もできなかったも――」

 脳天気にアービィが言ったが、ルティはその言葉が終わらないうちにアービィの胸に飛び込んでいた。

 

「えっ? あ? いや、ごめん、ケーキの方が良かった?」

 突然のルティの行動に、失敗したかと勘違いするアービィ。

 

「……違うよ……嬉しかったの……アービィが一所懸命作ってくれたんでしょ? どんなものでも、それが一番嬉しいんだよ」

 女の子にそこまで言わせるな、ぼけ狼。と、これはアービィに聞こえないように呟く。

 厨房を覗き込むティア、メディ、レイ、セラス、伯爵、ファティインディや使用人たち全員が、『ぼけ狼』を除く同じことを呟いていた。

 

「お父様、あのお菓子はいつ食べられるんですの?」

 

「そうだ、そこで一気に口づけをっ」

 茶々を入れようとしたセラスと伯爵がファティインディに締め上げられる光景は、落ち着きを取り戻したルティが、まずは一人で堪能した羊羹を全員に持っていくまで続いていた。


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