狼と少女の物語   作:くらいさおら

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第40話

 「アービィ~、お願いがあるんだけど~」

 不必要に甘ったるい声で、半分酔っ払ったメディが呼びかける。

 

「何?」

 こんな声で呼びかけられたのは、初めてだ。

 アービィは不思議そうな顔をしている。

 

「あれ、もう一回やって~。お・ね・が・い」

 

「ダメよ、メディ。誰かに見られたら、どうするつもり?」

 ルティが窘める。

 

「大丈夫よ~。宿のロビーでやるわけじゃないし~。いいじゃない、可愛いんだし~。この部屋の中だけ、ね?」

 食い下がるメディ。

 

「しょうがないなぁ……あんまり嬉しくないんだけど。可愛いって言われてもなぁ……」

 ぶつぶつ言いながら、アービィは半獣化する。

 

 ティアと水の神殿に初めて行こうとした際、酔っ払ったまま朝起きたときに気付かずやっていた、犬耳と尻尾のみの状態だ。

 メディにしてみれば「可愛い」は正義であり最大級の賛辞なのだが、男としてそれはどうよ、と思わざるを得ないアービィだった。

 

 獣化後、耳の後ろを弄くられ尻尾が左右に揺れると、メディの興奮が頂点に達した。

 

「すご~い!! ちゃんと連動してる~!!」

 アービィとしては無意識の動作なのだが、なにやら感動されていた。

 

 さすがに女性陣の真ん中で下着まで下ろすわけにはいかず、尻尾は背中に背負うような状態だ。

 ティアはその尻尾を握り締め、優美な毛皮の肌触りを楽しんでいる。

 ルティに救いを求める視線を送るが、返ってきたものは怒りを湛えつつ頬をひきつらせ、三人を睨みつける視線だった。だから言ったじゃない。

 

 

 獣化して、三人を乗せて山道を踏破し、馬車を追い越すというアービィの計画は、あえなく頓挫した。

 鐙もない状態で、乗馬の経験がない三人が長時間高速で駆ける狼に、乗り続けることは不可能だった。

 

 結局馬車よりはマシといった程度の速度、つまり早足で歩き、暫時休憩を挿みつつ野営で時間も稼いで、漸く先行する二台目を追い抜くことができた。

 その間、人狼の気配で魔獣を近寄らせないため、アービィは獣化したままでいたのだが、久々の長時間獣化は彼の無意識に抑えつけられていた本能を解放し、リフレッシュさせる効果があったようだ。

 

 やけに活き活きとした表情のアービィと、慣れない乗狼に疲れた果てた表情の三人との間に話し合いが持たれ、追い抜いた馬車を駅で待ち、翌朝から乗車することになった。

 幸いにもチケットが取れたことで、そのまま宿に泊まったとき改めて獣化して見せたところ、メディがいたくお気に召してしまったということだった。

 

 

「もう、いっそ、完全獣化しちゃいなさいよ」

 ルティが唆す。

 

「なんで~?」

 半分諦め気味のアービィが、やる気なさそうに返事した。

 

「獣化コントロールの訓練よ」

 冗談じゃない、あたしが触れる余地がないなんて言えるわけないでしょ。

 

「う~ん、理論が破綻しちゃってる気がするけど~?」

 ま、いいか、と呟き、三人に部屋から出るように頼む。

 

「え~、別にいいわよ、前もそうだったじゃない」

 メディが反論する。

 

 確かにメディの眼前で獣化した。

 もちろん、衣服は引きちぎれている。

 

 今回もそれではあまりにも勿体無いので、一回全部脱ぐつもりでいた。

 

「だって、服脱ぐし」

 

「いいじゃない、気にしないわよ」

 

「見慣れてるし、ねぇ、ティア」

 娼婦だったメディも、男の『精』を糧としていたティアも、男の裸に抵抗など微塵もない。

 

「あたしが気にするのっ!!」

 ルティがメディとティアの首根っこを引っ掴み、部屋から引きずり出て行く。

 独り取り残されたアービィは、服を脱いで丁寧に畳むと全身獣化させた。

 

――いいよ~――

 念話での許可を伝えると、三人が入ってくる。

 ルティは、入るなりアービィに仰向けになることを命じると、その腹に顔を埋めた。

 

 メディはワインの瓶を数本抜き始めた。

 ティアは、おそらくは食堂から借りてきたと思われる、直径が30cmはあろうかという大きなボウルを抱えている。

 ティアがボウルを床に置き、メディがワインをそれに注いでいる。

 

――なにしてんの?――

 聞かなくてもわかりそうな念話が、ティアに向けられる。

 

「その口じゃグラスから飲むの無理でしょ? 手も使えないしねぇ」

 アービィの念話にティアが答えた。

 

――なんか、すごくおちょくられてるような気がするんだけど?――

 獣化を解けば普通に飲めるのだ。なのに、なんで?

 

「今夜は、このままでいなさいよ~。毛皮に埋もれて寝る~」

 

――もう好きにして……――

 ルティに言われて完全に諦めたアービィは、どうとでもなれと、ワインを舌で掬い始めた。

 

「じゃ、あたしも~」

 ティアが荷物の中から、ラミアのティアラを引っ張り出してきた。

 服を脱いでティアラを髪に飾り、獣化する。

 

――ちょっ、ティア、なんて格好でっ!!――

 狼が顔を背けた。

 

「いいじゃない、普通の格好よ……。……って、寒っ!!」

 慌てて上半身に服を着るティア。

 窓の外は雪がちらついている。

 いくら暖炉がある室内とはいえ、ラミアの身体には予想以上に寒さが凍みたようだ。

 

「蛇の部分は寒いわね~」

 そう言いながら、狼の尻尾と自らの尻尾を絡ませてきた。

 明らかに酔っぱらっており、ルティをからかっている。

 

「寒いんなら、元に戻ればいいじゃないのよっ」

 ルティは尻尾を解き始めた。

 

「元にって、これが元よ~」

 ティアは負けずに尻尾を絡ませている。

 

 

 メディはこの光景を不思議な気持ちで眺めている。

 この少女は魔獣に対してまるで偏見を持っていない。

 

 人狼だけでなく、ラミアとも当たり前のように接している。

 自分にだって、そうだ。

 

 呪術によって姿を変えられているので、メディは自分を人間と自覚している。

 生まれながらにこの姿ではないため、魔獣とは定義し難いので、自虐を含め化け物と自称していた。

 

 しかし、端から見れば魔獣も化け物も大差ないだろう。

 この少女は、意志の疎通ができ、心が通じるものがあれば、人と魔獣が共存できることを証明している。

 

 意志や理性を持たない魔獣との共存は簡単とはいえないが、野生動物と同じように折り合いは付けられるはずだ。

 食欲の対象としてや悪意を持って近付いてくる魔獣には、それなりに対処する必要はあるが、本来この二種はそういった性質の魔獣であるはずだった。

 

 アービィやティアだけを見て、人狼もラミアも安全な魔獣だと判断できるわけではないが、全てが危険と言い切って良いというわけでもない。

 人間であれば全て安全かと言えば、当然違うだろう。

 

 悪意や害意、殺意を持って近付く者は少なくない。

 極一部の異常者を除き、食欲の対象ではないというだけで、これで魔獣とどう違うのか。

 他を陥れ、他人が苦しむ様を見て喜ぶような人間など、魔獣にすら劣るのではないか。

 

 結局は育った環境や、それぞれが持つ個性が重要であり、人種や種族が性質を決する最終要素ではないという事だ。

 楽しげにじゃれ合う三つの種族を見ながら、メディはそう考えていた。

 

 

――この飲み方って、すごく回るって言うか、効くね~――

 既に念話すら危なくなったアービィは、ボウルのワインを舐め尽くしていた。

 

 間違いなく、この飲み方というよりは、飲んだ量だろう。

 6リットルは入るであろうボウルに、なみなみと二杯飲んでいる。

 

 人間の身体であれば、とてもこの量を飲むことはできないが、なにせ3m近い巨狼である。

 どういう仕組みなのかはアービィにも理解できていないが、狼の状態だと酒にしろ食物にしろキャパシティが増大する。

 

 床に横になったアービィの背中に、尻尾を死守したティアが重なっている。

 いつの間にか、ルティはアービィの首の毛に埋もれるように、背中を預けて寝息を立てていた。

 

 動くに動けないアービィとティアに毛布を掛け、ルティに別の毛布を被せる。

 私もいいよね、と呟いてから、アービィの前肢と胸に背をもたれかけ、毛布を被った。

 

 

 その後の行程では、寝惚けたアービィやティアが獣化したまま外に出るような騒動もなく、馬車は無事夕刻にフロローへと到着した。

 ギルドにはレヴァイストル伯爵から手紙が届いており、ベルテロイの宿にクリプトとレイが待っていることが記されていた。

 

 今からフロローを発っても、ベルテロイに到着するのは深夜を過ぎる。

 一泊してから、昼前にベルテロイに着くように朝早くフロローを発つことにした。

 

 翌日の昼前、ベルテロイに到着した四人は、伯爵からの手紙に書かれていた高級な宿の前に立っていた。

 カウンターで来意を告げ、クリプトとレイの部屋を訊ねて、在室を確認してもらう。

 

 その間はロビーで待たせてもらうのだが、どうも場違いな気がして居心地が良くない。

 とはいっても、貴族の賓客であることが伝えられているからか、従業員の対応は至極丁寧なもので、それ自体に不快感を誘うものは一切なかった。

 

 北の民であるメディに対しても、慣れない場所に戸惑う姿に微笑ましいという視線を送るだけで、決して馬鹿にしたような素振りを見せることなく、完璧な作法で対応していた。

 さらに、このような場所を利用する客たちも、あからさまな差別の視線を送るような無作法者はおらず、それが却ってメディに気を使わせることになっていた。

 もっとも、この場違いな冒険者たちを邪険に扱って、インドミタ王国伯爵の不興を買うような馬鹿な真似をしたくないという意識が強かったことは、誰も否定しないだろう。

 

 やがて、慇懃にならない程度に丁寧な物腰の初老の従業員が四人の下に来て、クリプトもレイも不在であることと、待合のための部屋を用意したことを告げにきた。

 恐縮する四人を半ば無理矢理待合室に放り込み、決して優雅さをなくさないが、客が苛立たしさも感じない程度に手早く茶菓の支度を整えた。

 

 それではこれにて、ごゆるりとお寛ぎください。

 もし、ご希望がございましたら、そちらのベルをお使いいただければ、わたくしか担当の者が参ります。

 そう告げて従業員は、部屋を出る。

 

 次の瞬間、滝壺に巻き込まれた溺者が水面に顔を出した瞬間のような、大きな溜息が部屋を支配した。

 ある者はソファに腰を落し、ある者は足首まで沈むのではないかと思うほどの絨毯にへたり込む。

 

 伯爵の旅に同行した経験のある三人ですら、ここまでの格式の宿は初めてだ。

 やはり、自分たちには酒場が併設されているような安宿が性に合う、と改めて感じていた。

 

 到着する日が確定していなかったため、今日待ち合わせをしていたわけではないので、レイたちが戻ってくる時間も分らない。

 まさか、この状態で酒盛りを始めるわけにもいかず、無聊を囲っているとドアを叩く者がいる。

 

 ルティが返事をすると、先程の初老の従業員がドアを開け、レイの帰着を告げた。

 待ちきれないという表情で、後ろからレイが顔を覗かせる。

 

 ここではしゃぐわけには行かないのだろう、あくまで淑やかに挨拶をするとソファに腰を下ろした。

 ひと月ほど前は家族の不幸や、婚約者が北の民に捕らえられるなどの衝撃のせいか、顔に生気が全く感じられなかったが、さすがに立ち直りをみせている。

 

 アービィたちがボルビデュスに滞在してから約半年の時が過ぎ、その間にラガロシフォンを任されるようになっている。

 領地経営の全てを任されているわけではないにしろ、かなりの責任を負っているようだ。

 

 以前はあどけなさや可愛らしさが目立つ顔立ちだったが、今では引き締まった責任感に溢れた表情に変わっている。

 もちろん、顔の造りまでが変わるわけはないのだが、漂わせる雰囲気が一気に大人びていた。

 責任や立場が人を作るというが、ここまでとはアービィたちも思っていなかった。

 

 

「久し振りね、お元気でした? 今回のことは、本当にごめんなさい。莫迦兄貴の後始末なんか押し付けちゃったうえ、リジェストまで無駄足踏ませちゃって」

 レイから話し始め、それにルティが応える。

 

「いいのよ、レイ。あたしたちも見通しが甘かったわ。お役に立てなくて、こちらこそごめんなさい」

 クリプトとレイとだけであれば、砕けた話し方を求められているので、作法に気を使わない話し方になる。

 

「あれから、私はラガロシフォンに戻っていたんだけど、いろいろ調べてみたけど、なんか裏がありそうなの」

 

「どういうこと?」

 ティアが聞く。

 

「なんかね、インダミトはランケオラータ様の救出に、それほど積極的じゃないのよ。しばらく放置しておけって感じなの。うちの馬鹿兄貴がやらかしたことが大きすぎて影に隠れてはいるんだけど、ランケオラータ様も戦が下手というか、できない方だから、かなりの被害を出しちゃったのよね。で、罰としてじゃないんだろうけど、春までは動くなって。バイアブランカ陛下と宰相のウルバケウス様からは、心配要らないってお手紙を頂いちゃったんだけどね……」

 レイは納得できないという表情だ。

 

 財務卿の子息が、北の民に捕らえられたままでいいはずがない。

 それを気候の問題があるにせよ、放置しておけとは国の何らかの意志が働いているようだ。

 

 救出の方法なら、いくらでもあるはずだ。

 ウジェチ・スグタ要塞も、神父の通過は認めている。

 

 マ教のカーナミン枢機卿を支援しているのは公然の秘密なのだから、それに働きかけアービィたちを神父に化けさせるくらいのことは容易いだろう。

 伯爵クラスでは枢機卿にそこまでの依頼はできないが、王からの依頼となれば嫌とはいえまい。

 

 伯爵は王の信頼が厚い。

 捕らえられているのは財務卿子息だ。

 

 なのに、なぜ、王は動いていないのか。

 伯爵も王に依頼はしているはずだが、それに対して何の動きも見せていない。

 ハイグロフィラ財務卿も動いた形跡がない。

 

 外務卿は、ラシアスとの間で、アーガスの後始末に忙しい。

 もちろん、北の民に対しての外交チャンネルなどないのだから、公式に外務卿が動ける場面はないのであろう。

 

 軍務卿は、諸侯軍に対する補償や、新たな義勇軍の編成で忙しい。

 内務卿も、国内の引き締めで手一杯のようだ。

 

 義勇軍で戦死者の遺族や、捕虜になった者の家族への補償、負傷し護送されてきた者の治療や生活の保障等、それこそやることは馬に食わせるほどある。

 アーガスの独走が招いた結果である以上、ボルビデュス領を干乾しにしてでもボルビデュス家が補償するべきなのだろう。

 だが、重要な地域を統べる名門を潰すわけにはいかないという、国家の意思がそうさせていた。

 

 幸いにというべきか、己が栄達のみに目が向いていたアーガスの先走りにより、ボルビデュス家から離縁が認められていた。

 このため、国の責任のみで被害者への補償が行われることに反対する者は、表立ってはいなかった。

 財務卿としては、いくらかでもボルビデュス家から引き出したいという思惑はあったはずだ。

 だが、息子が娶る相手の実家を潰すような真似は、さすがにしたくないという複雑な立場でもあった。

 

 もちろん、バードンがスキルウェテリー枢機卿の命でランケオラータ救出に動いていることや、インダミトの密偵がそれを牽制し、ランケオラータと北の民の間にコネクションを作らせようとしていること、いざという場合には協力してランケオラータを脱出させるために動いていることは、ボルビデュス家には知らされていない。

 さすがに財務卿には知らされているが、彼がそれを公式の場に限らずどこであろうと発言することはない。

 

「食事の席では難しいこといいっこなしで、楽しんでね。こんなことだけで済むと思わないけど、ひと月分のお詫びはさせてもらうわ」

 そう言って、レイは一度席を立つ。

 部屋は用意してあるから案内させるわね、と言って部屋を出て行った。

 

 クリプトは、所要で今夜は戻らないらしい。

 明日、出立に合わせ馬車で宿に戻ってくるように、出先に知らせを走らせてあるそうだ。

 

 

 それぞれは部屋に案内されたが、あまりにも豪奢な造りで落ち着かない。

 いつの間にかアービィの部屋に全員が集まり、所在無げにお茶を啜っていた。

 

「ねぇ、宿って換えてもらえないかな?」

 メディがボソッと言った。

 

「僕も、なんかこう、お尻がこそばゆいと言うか……ねぇ?」

 アービィが同意する。

 

「これじゃあ、気軽にお酒も飲めないもんねぇ」

 ずれた同意をするルティ。

 

「我儘言わないの。たまにはいいんじゃない? 勉強よ、勉強。どこに出しても恥ずかしくないっていう言葉があるでしょ。いまのままじゃ、どこに出しても恥ずかしい、よ。伯爵の顔に泥塗るような真似はしないでね」

 ティアは、我儘を言ってレイに迷惑を掛けたくない一心で宥めに回る。

 

 

 暫くして食事に呼ばれ、食堂に下りる。

 食事中は、ランケオラータの件にはなるべく触れず、ラガロシフォン領の経営の話になった。

 

 アービィが作り方を教えてきたアイスクリームについては、まだ砂糖やバニラビーンズの単価を下げることができず高価な嗜好品のままだが、それでもいくつかの店が立ち始めたらしい。

 最初はボルビデュス家が100%出資の店を出し、そこで職人の教育を行って、それぞれが独立する方法を取ったそうだ。

 

 その後、独立した職人が弟子を取り、ラガロシフォン領内だけでなくボルビデュス領内にも出店し、当初の取り決め通り、ラガロシフォン領内だけがバニラを使用し、ボルビデュス領では果実を使うことになっている。

 もちろんラガロシフォン領内でも果実は使われており、少しずつではあるが国内に知られるようになってきた。

 

 アービィは、夢の中の記憶を手繰って、特許や登録商標について、簡単に説明しておく。

 アイスクリーム自体の製法は簡単なので、放っておけば各地に模倣商品が溢れかえり、ラガロシフォンの優位性は瞬時になくなってしまうからだ。

 

 王に上奏し、王の許可証がなければ作れない、名乗れない程度の規制とラガロシフォンへのパテント料、そして簡単な罰則だけでも充分なので、早めに手を打っておく必要があった。

 もちろん、アイスクリームを独占するだけが目的なのではなく、他の地域の商人や職人がそれぞれの地域の特色ある産業を守れるようにとの算段もあった。

 

 他にも宿や食堂が中華もどきの料理を領民の口に合うように改良したり、客層に合わせて単価を調整できるように材料を工夫したりと、いい方向に動いているようだ。

 領主が変わるだけで、領内の雰囲気がここまで変わるのかと驚く人が多いが、アーガスがあまりにもいい加減な領地経営をし過ぎたためのことだろう。

 

 当面レイがラガロシフォンを預かっているが、ランケオラータが無事帰還できたら数年後には嫁入りであり、その後はセラスが任されることになっている。

 当のセラスは、まだことの重大性を理解していないが、領地経営の勉強は早く始めておいて損はない。

 

 来年あたりに伯爵が懇意にしている貴族領に、短期の留学のような形で何ヶ所か回ることになっているが、当人は親元を離れ遊びに行けるものだと思い込んでいるらしい。

 ティアの説教が効いたのか、以前ほどの我儘は振りまいていないので、行った先で多大な迷惑を掛けることもないと判断されたのだろう。

 

「どこでそういう勉強したの、アービィは?」

 不思議そうにレイが聞いた。

 

 この時代には経営学や経済学の学校どころか、小中学校といった義務教育すらない。

 精々、家庭教師を雇う程度だが、それとて教員資格のようなものがあるわけではない。

 

 当然、一介の冒険者であるアービィが、そのような教育を受けてきたとは考えられず、レイの疑問は当然であった。

 かといって、夢で見ましたとも現代日本から来ましたとも言えず、各地を旅するうちに知ったことや考えたことです、と誤魔化すしかなかった。

 

「それにしても、あなたたちって、すごい人たちなのかもしれないわね。税のことだってそうだし、料理も。それに今回の、なんだっけ、特許? 登録商標? 誰も考え付かないわよ。模倣品にやられちゃうだけじゃなく、粗悪品に騙された人が増えたら信頼まで失っちゃうもんね。それから似たような名前も登録しておかないと、名前の使用権を高く売りつけられそう」

 頭の回転が速い人であれば、そこまではすぐ気付く。

 レイに知識を伝え、以後国政に関る目端の聞く大人が改良を加えていけば、それなりに整った法制が敷けるのではないかとアービィは考えている。

 

 この時代、特許や登録商標の考え方があるわけがなく、職人入魂の作であっても瞬く間に模倣粗悪品が溢れかえっていた。

 改良を加え、単価を下げることは悪いことではないが、商品の評判だけを使った偽物が横行し、本家が潰されてしまった例は枚挙に暇がない。

 

「将来の財務卿正室としては、まだまだ勉強不足ね。ねぇ、北の民ってどれくらい、人の数がいるんだろうね?」

 レイはメディに問いかける。

 

「どうでしょうか……。南大陸よりは少ないとは思うんですが、半分って程ではないとは思います」

 まだそれほど慣れ親しんでいないメディは、口の聞き方が庶民が貴族に対するものになっている。

 

「メディ、さんでしたっけ? もっと砕けちゃっていいのよ。さすがにお父様の前では私も気を使うけど、私とだったら気遣いは無用にして欲しいの。教えてもらう立場だしね」

 以前ルティたちに言ったことと同じようにメディに促す。

 

「じゃあ、できるだけ。それなりに数はいるけど、増えられないのよ。まず、食料が足りない。食料を増やそうにも、農業の技術が遅れてる。道具も部族間の戦ばかりで、武器に材料が使い尽くされちゃう、っていろいろね」

 メディは開き直ることにした。

 メディは未だに焼畑をやっている北の農法は、南に比べ格段に遅れていると思っている。

 これを指導改善できる人材を北の大地に呼び込むことができれば、飛躍的に農業は発達できるだろうと、レイと話すうちに考えていた。

 

「ってことは、モノを買ってくれる人が、まだたくさんいるってことね? これを取り込めたら、インダミトの経済って、すごいことにならないかな? どうやってラシアスを抜くかが問題ね。う~ん、一国で考えるんじゃなくて、大陸同士で考えたほうがいいか」

 随分と規模の大きなことを、レイは考えている。

 

「そうね、南に下りてくるのが私たち北の民の悲願だけど、それは暖かい土地に行きたいって希望だけじゃないしね。北の大地が便利になって住みやすくなれば、態々そこから動きたくないって考えちゃうかもね。理想的過ぎだけど」

 メディは、産業を興せない北の民の体質を思っている。

 今この瞬間を生きることに必死であり、先々への投資という発想がない。

 

 娼婦として南大陸の住人と接しているうちに、メディはそれを思い知らされていた。

 もし、今、南大陸が北の民を受け入れたとしても、商売の常識や、損して得を取るという商売の駆け引きなどができる者が少ない以上、ただの厄介者で終わってしまうだろう。

 

 それであれば、南大陸から商人や職人を呼び込み、北の大陸に南に負けないような産業を根付かせ、互いに交易することで共存する方法を考えたほうが前向きだ。

 南大陸と対等の関係を築けるようになってから、人の行き来があっても良い。

 

 もちろん北の民の文化を、南大陸の文化で塗り潰してしまおうということではない。

 互いに尊重しあい、良き隣人として共に文化を発展させることができないとは言い切れない。

 

 今すぐには無理だとしても、何世代も後の時代、あの三つの種族がじゃれ合っていたように、南大陸と北の民が共に手を取ることができる時代が来るかもしれない。

 メディはそんな夢を見始めていた。この聡明な貴族の娘であれば、それが可能な気がしてきた。

 

 ティアは自分の寿命が尽きる前に、それを見てみたいと思っていた。


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