狼と少女の物語   作:くらいさおら

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第38話

 北の大陸を目指す一行はグラザナイを馬車で発ち、七日目の夕方にウジェチ・スグタ要塞の後方支援基地リジェストの町に到着した。

 ウジェチ・スグタ要塞の兵士にとってリジェストの町は、ほとんど変化のない平坦な毎日からの、解放と享楽の空間だった。

 娼館が立ち並び、酒屋が軒を連ね、南の品を集めた商店が品揃えを競っている。

 

 もちろん南方から運んでくる商品に生鮮食料があるわけでなく、ラシアス国民にとって異国情緒をかき立てる民芸品がほとんどだった。

 それが今では派遣軍の、とりわけインダミトの兵にとっては、ふるさとへの郷愁を募らせる厄介なひと品であったり、ホームシックを癒す貴重な特効薬であったりもした。

 

 アービィとルティにとっても、フォーミット近くで作られた民芸品は、両親を思い出させ、しばし慕情をかき立てられることになっていた。

 ティアにしてみても、しばらくインダミトに居着いていたからか、懐かしさ混じりの視線で商店の軒先を眺めている。

 

 しかし、それの和やかな時間は、到着時の身体の強張りを解す際の、僅かな間だけのことだった。

 四人は到着した足で、地峡にある間道を踏破するための装備を揃えようと、ギルドの販売部で販売員にどれがいいか相談に行く。

 

「へっ? 今から、北の大地へ?あんたら、気は確かかね?」

 ギルドの販売部で販売員は、信じられないものを見るような視線を向けて素っ頓狂な声を上げた。

 

 さすがに日も落ち、かなり冷え込んできている。

 既に季節は晩秋と言っていい時期だ。

 いくらなんでも夜間に、山岳地帯の間道を踏破しようと言う莫迦はいない。

 

「いえ、今日は宿に泊まって、明日から装備とか携行品とか集めようと思ってるんです」

 まさか誤解されるとは思ってもいなかったアービィは、慌てたように弁解した。

 

「いや、夜に行くとは思っちゃいないさ。もう間道は雪に埋まって通れないってことだがね」

 

「えぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!?」

 一斉に驚きの声を上げる四人。

 

「そんなことも知らないところを見ると、あんたらインダミト辺りの人かい? いや、そんなことって馬鹿にしたわけじゃない。あんたらが住んでいた辺りじゃ、雪なんて降るかどうかだろ? この辺りは、人の背丈より深く積もるんだよ。南の人は知らなくて当たり前だけどな」

 態々大陸中を旅して回るなど、余程手広く商売をしている者か、優秀な冒険者くらいの者だ。

 ほとんどの一般人は生まれた地域から出ることは少ないし、商人や冒険者であっても一国から出るほどの者は、それほど多くない。

 

「それにしても、あんた北の民だろ? ああ、あんた、こっちで生まれたのかい?」

 メディが知らないとは思えず、勝手に販売員は納得してしまった。

 

「じゃあ、しょうがないな。いきなり飛び出して死なれちゃ、寝覚めが悪いから」

 そう言って、販売員は説明を始めた。

 

 南の大陸も、やはり北に行けば行くほど気候は厳しくなる。

 地峡を挟んだ両側はまだ比較的温暖だが、両大陸が接する地峡の一部には、両大陸の行き来を遮断するかのような高山地帯が横たわり、夏でも寒冷なうえ冬は長い間雪に閉ざされてしまう。

 

 安全な通行に適した低地をウジェチ・スグタ要塞が塞ぎ、北の民の南下を防いでいた。

 血管のように高山地帯を走る間道は、既にこの時期猛威を振るう雪に埋められ、ウジェチ・スグタ要塞を経由する以外両大陸を往来できる道はないと言って良い。

 

 アービィもルティも、最も気候が温暖な地域の生まれで、ほとんどその地域を出たことがない。

 ティアは寒いところが苦手なため、南大陸の南半分を主な行動範囲にしていた。

 そのせいで、北方の夏や秋が短い季節感というものを、話では聞いているが実感できていなかった。

 

 メディも北の大陸では比較的温暖な地域の生まれで、間道を通って南に売り飛ばされたのは夏だった。

 その後の十三年の月日が、とりわけ屋敷に匿われ外出することがなかった十年間が、故郷の四季の記憶を薄れさせ、感覚を狂わせていた。

 誰もが、まだ地峡を越えることは容易と考え、また大量の捕虜を使役するだけの収穫を見込める地域の本格的な冬は、もう少し先のことだと思っていた。

 

「間道が通れないことは分りましたが、ウジェチ・スグタ要塞を通ることはできないのですか?」

 ティアが縋るような目つきになっている。

 

「昔は、こっちから行くのはよかったんだがね。北の民の勢いが強くなってからは、神父様くらいだ。通してるのはね」

 割と楽天的にここまできたが、販売員の話を聞くにつけ、絶望的観測しかできなくなってきてしまった。

 

 まず、現時点でウジェチ・スグタ要塞を経由する以外の道がないこと。

 ウジェチ・スグタ要塞は通行の遮断が目的である以上、容易には通過の許可が下りないこと。

 アーガスの独走は思った以上に深刻な被害をもたらしたため、インダミトに対する風当たりが強くなり、ウジェチ・スグタ要塞内ではインダミトの人々は白い目で見られつつあること。

 そしてなにより、総指揮官ディティプリス子爵が全ての責任をアーガスとランケオラータに押し付け、救出作戦に消極的なため、アービィたちの通行許可を出す可能性は、限りなくゼロに近いこと。

 

 深く考えずとも、あっと言う間にこれだけ、北の大地への道を阻む事由が挙げられる。

 奇跡的に通行許可が下りるか、今現在通行可能な間道があったとしても、行ったが最後雪解けの頃までの数ヶ月は北の大地に足止めされてしまう。

 

 ランケオラータ以外にもいると思われる捕虜を抱えての逃避行が、どのような結果に終わるかは、誰の目にも明らかだった。

 焦りと見通しの甘さ、無知、そして己が無力さを思い知らされていた。

 

 

「なんで、そんなにぐちぐち言うのよっ!!」

 ティアがルティに文句をつけ始めた。

 安宿でアービィの部屋に四人が集まり、今後のことを話し合っていたとき、強固に北行きの主張を繰り返すティアを窘めたためだ。

 

「別にぐちぐち言ってるわけじゃないでしょ!? ここから先に行けない以上、一度レヴァイストル伯爵に連絡を取って、根本的なところから相談た方がいいって言ってるだけじゃない!!」

 言い方を変えて同じことを言っているため、かなり言い回しがくどくなっていた。

 自分の言うことを解ってもらえないと感じ始めていたルティは、ティアに対してくどい言い方になっていたうえ、アービィやメディに同意求めるときには愚痴っぽさまで加わっていた。

 

「要は何もせず帰るってことでしょ!? そんなことできると思ってんの!?帰れるわけないじゃない。高々、ちょっと雪が深いってだけのことじゃない!!」

 

「無理だよ、ティア。吹雪いたら、前も見えないって言うじゃないか。そんな中に飛び出したって、どうしようもないよ」

 アービィが何とか宥めようとする。

 

 アービィが人狼の力を解放すれば、雪など物の数ではない。

 狼は、元々豪雪地帯を踏破する力を持っている。

 

 しかし、人間やラミアが吹雪の中を彷徨うことは、自殺行為以外の何物でもない。

 ラミアは妖術を得た代わりとでもいうかのように、高温や低温への適応力を失っている。

 そこがまた、ティアの癇に障っていた。

 

「やってみなきゃ判らないでしょ!! やる前からできないって考えちゃうわけ!? なんか、良い方法があるかもしれないでしょ!?」

 納得しようとしないティア。

 ルティやアービィの言うことに対して納得できないのではなく、自分の理性に納得できない。

 

 ティアも、一度戻った方がいいことは理解している。

 リジェストで雪解けを待っているとしても、ここも雪に閉ざされてしまう以上、情報収集すら儘ならなくなってしまうのだ。

 

 それでもレヴァイストルやレイに対する罪悪感と、これ以上動きようのないことから来る焦燥感が、ボルビデュス領への帰還を認めがたいものにしていた。

 探せば道はあるはず。諦めなければ道は拓けるはず。

 

 精神力で物理法則を変えることは不可能だが、呪文のあるこの世界ではそれがある程度は可能だと信じられていた。

 確かに、周囲に積もった雪を炎の呪文で溶かしたり、風の呪文で吹き飛ばすことはできる。

 

 しかし、呪文の使用回数に限界があり、回復には一晩の睡眠が必要である以上、溶かしたり吹き飛ばし続けることは不可能で、回復中に雪に埋もれてしまう方が早い。

 天候まで操れる呪文は存在せず、神話上の神や悪魔でもなければ降雪を止めるなど不可能だ。

 

「二人とも諦めようって言ってるわけじゃないじゃない? 一度仕切り直ししようって言ってるだけでしょ? ティア、お願いだから落ち着いて、冷静に考えて、ね?」

 言い合いになったティアとアービィの間に、メディが割って入る。

 

「メディまで……二人の味方? いいわ。……三人で帰ればいいでしょ!!あたしは残って、北へ行く方法を見つけるの!!」

 そのまま自室に戻り、ベッドに潜り込んでしまう。

 

 さすがにティアも独りで行って、どうこうできるとまでは思っていない。

 思っていないだけに、自分の感情と理性の整合性が取れなくなっている。

 

 ティアの精神状態は、また不安定になってきていた。

 以前は塞ぎ込むか、必要以上に明るく振る舞うかだったのだが、今回は攻撃性が見られている。

 感情の起伏が激しく、付き合わされる方まで疲弊していた。

 

 ルティは宥める術を持たないどころか、同じ理由で苛立っているせいで、ティアと衝突する場面が見られるようになっていた。

 グラナザイでは予感のあったアービィとの甘い時間も、この状況では二人ともそのような気にならない。

 

 ティアが孤立し、メディが気を利かせてティアの様子を見に行き、アービィとルティ二人きりの状況になっても、二人とも混迷の表情を消すことができない。

 時間は無情に過ぎ、リジェストの町を雪が閉ざし始めていた。

 

 少なくとも次の春が来る百日程先まで、北の大地に行く術は失われている。

 メディは自分が役に立たないことに苛立ち、アービィも自分の感情を持て余していた。

 

 

 バードンは、アービィたちに遅れること十日程でリジェストを通過し、ウジェチ・スグタ要塞に到着した。

 慰問の名目があるため、ウジェチ・スグタ要塞では歓迎され、密かに苦手を自認する説法を押し付けられる毎日を過ごしていた。

 

 北の教化はマ教として不自然ではないため、北の中でも比較的温暖で雪はあっても行動可能な地域での布教活動を理由にしていれば、ウジェチ・スグタ要塞の通行は許可された。

 バードンは、説法などから逃げ出したいこともあり、布教および北の実状を知るためと称して通行許可証をもぎ取り、意気揚々とウジェチ・スグタ要塞を後にした。

 

 指呼の距離に怨敵がいたことを、バードンは気付かずに北の大陸に渡っていった。

 もし、リジェストにバードンが滞在することになっていたら、苛立っているアービィとの衝突があったら、血の雨が降っていたかもしれなかった。

 バードンがアービィたちに気付かなかったことは、それはきっと、お互いに幸運なことだったのだろう。

 

 

 北の大陸は、南から極北に向かって標高が低くなっている

 地峡に続く高地には、農耕に適した土地は少なく狩猟が主な産業となっており、主食となる穀物を含む農産物は、南大陸を含む周囲との交易に頼っている。

 

 高地を下りると広大な平野が広がるが、土地はやせており、南大陸のように大量の人間を養うことは不可能だった。

 その中でも比較的肥沃な土地は、有力な部族が占めており、数や武具の装備で劣る弱小な部族は、高地に押しやられている。

 

 

 平野を占拠している部族にしても、大陸中央域から温暖な土地を求めて押し寄せる、さらに多くの部族連合を押し返すことで精一杯であった。

 同じように中央域の部族連合も、極北の地から押し出してくる蛮族との戦いに明け暮れている。

 

 いずれも己の生存を賭け必死の攻防を続けているが、雪に閉ざされる冬を生き残ることが優先され、大まかな勢力圏は固定されていた。

 ある程度勢力圏を広げても、相手を押し切る前に冬が訪れ自然休戦になり、春に反抗の準備を整えた相手に押し戻されるということを繰り返している。

 

 結局相手の土地を奪っても、維持に係る人員が不足しているうえ、冬を越すための食料を含む戦略物資の供給が追い付かず、冬の間に奪った土地に取り付いた人員の生活を維持できないからだ。

 奪われた方も劣性を自覚した時点で土地の確保を放棄し、人員と戦略物資の維持に努め翌春の反抗に備えているため、奪回も容易だった。

 年中行事のような土地の奪い合いは、それでもより北に位置する部族の南下への渇望が、少しずつではあるが、全体の境界線を押し下げていた。

 

 南大陸の為政者は、地峡とウジェチ・スグタ要塞を以って、北の民の南下を食い止めるという戦略を持つものが多い。

 それでも中には、北の有力部族と結んで蛮族の南下を食い止め、ラシアスの負担を軽減し、ひいては各国の少なくない北対策費用を減らそうという戦略を持つ者もいる。

 バイアブランカ王家を筆頭とするこの勢力は、マ教内にあって南北融和派のカーナミン枢機卿を支援し、各方面に勢力を伸ばしていた。

 

 今回のアーガスの独走は、インダミトの立場をかなり危うくするものだったが、ランケオラータが北の捕虜になったことは、却って僥倖だったかもしれない。

 今回、戦術の教科書に載せたいような見事な戦を行ったのは、勢力圏から考えて平野の部族連合だとバイアブランカはにらんでいる。

 

 ランケオラータが無理な反抗をせず生存を第一に考え、北の有力部族の中でそれなりの立場の者と対話の機会を作れるなら、南北協調のきっかけになる可能性もなくはない。

 相手が中央域の強大な部族であれば、最大の問題となっている蛮族に直接対峙しているので言うことなしではあった。 しかし、敵地を経由して支援をするよりは、少しずつ侵食していくほうが楽だろうと、バイアブランカは思うことにした。

 

 財務に関わる仕事に就いていた彼は、国家予算における北対策費の占める割合の高さは充分承知している。

 政務の中枢に近い位置にいたため、財務卿である父を通じて内外軍務の各卿や、その部下たちとそれぞれの仕事について親しく話をする機会を得ていた。

 

 軍務の才には乏しくとも文官として政務の才に溢れ、将来を嘱望された彼は、その才を研く努力を怠っていない。

 さらに彼はバイアブランカ王に目を掛けられており、王の対北戦略もある程度理解していた。

 

 それもあってバイアブランカは、実際のところ、積極的な救出作戦の指示を出していない。

 もちろん、派遣軍内でのインダミトの立場を考慮している部分もあった。

 

 レヴァイストル伯が冒険者にランケオラータの救出を依頼したことも、スキルウェテリー卿が悪魔払いを救出に向かわせたことも、密偵を介して承知している。

 スキルウェテリーの考えることなど既にお見通しのバイアブランカは、悪魔払いが余計なことをしなければいいと考えていた。

 悪魔祓いにランケオラータの扱いをさり気なく気付かせ、彼にもそう悟らせるため、密偵を神父に化けさせて悪魔祓いの監視に付けるかとも、バイアブランカは考えている。

 

 冒険者たちはウジェチ・スグタ要塞の通行許可を取ることなど不可能だから、春までは動きようがなく、救出を諦めていないというポーズのためならば、それで充分だった。

 あとは、ランケオラータがなぜ彼を北に放置しているかを理解することに期待し、その役割を果たした彼を無事帰還させるために 冒険者たちを密偵に支援させる程度しかすることはない。

 一度『痣』を持つ少年の顔も見ておきたいものだと、バイアブランカは考えている。

 

 それにしても、と彼は思う。

 インダミトも無関係とは言えないビースマックの焦臭い噂は、ベルテロイ駐在の息子から知らされている。

 もちろん南大陸四国家のバランスが崩れるという由々しき事態なのだが、彼の国の王家傍流の公爵家には、レヴァイストル伯の長女が嫁いでいる。

 

 『痣』を持つ少年は、レヴァイストル伯と関係が深い。

 彼の存在が報告されてから、戦乱の兆しが絶えることがない。

 バイアブランカ王は、改めて『痣』を持つ少年に、興味を抱いていた。

 

 

 既に窓の外は暗い雪模様になっている。

 数日間、四人はアービィの部屋に集まっては、事後の対策を話し合っていた。

 

 毎回、帰還しようという話の流れになると、ティアが癇癪を起こして打ち切りになる、の繰り返しだ。

 そろそろ方針を決めないと、雪解けまでこの街に閉じ込められることになってしまう。

 

 そうなれば情報の収集はおろか、生活費にも事欠くようになる。

 いくらレヴァイストルが資金援助してくれるとはいえ、ここまで資金を運ぶ術がなくなってしまうのだ。

 

 討伐や、街の雑事と行った仕事がなくはないのだが、四人が普通に暮らしていけるほどの仕事はない。

 何よりも、食料が不足がちになる厳冬期に、住人と要塞の将兵以外の人間が街にいることは望ましくないと思われている。

 

「そろそろ街を出ないといけないと思うんだ。これ以上雪が深くなっちゃうと、どこへもいけなくなっちゃうよ。要塞と往復くらいしか、できなくなるみたいだね」

 アービィが、今日中に決断してくれという意味でティアを見た。

 

「どうしても、帰るのね? 帰らなきゃいけないのね?」

 諦めきれないという表情のティア。

 

 彼女は、レヴァイストルに、人に認められたことが嬉しかった。

 魔獣としてではなく、性の対象としての女としてでもなく、能力を持ったひとりの「人」として認められたことが、嬉しかった。

 

 なぜ、ここまで意固地になるのか、アーガスの件での罪悪感がそうさせていたと自分では思っていた。

 だが、ここで無為に帰っては、せっかく認めてもらえたことがふいになってしまうのでは、ということが怖かったことに、ようやく気付いた。

 

 宿からも、どうするのか早く決めてほしいと言われていた。

 長逗留するのであれば、冬を越せるだけの食料を調達しておかなければならない。

 

 宿としては、毎年収入のない時期に思わぬ収入源が転がり込むことになるのだが、食料は湧いてくるわけではないので、四人のひと冬分の食料を確保しなければならない。

 そのためには、雪の影響の少ない街に仕入れてこなければならず、あと10日もすれば雪で馬車すら走れなくなるため、今日明日がその期限と言われていた。

 

 ティアにも、今が限界だということは理解できた。

 自分の限界だということも。

 

「解った……。……ごめんなさい。あたし……」

 ティアが泣き崩れる。

 

 三人には解っていた。

 魔獣が人に認められるなど、今まで聞いたことがない。

 

 罪悪感、焦燥感、責任感、ただでさえ、負い目に感じていたところに、自分の存在価値まで否定されかねない事態に、ティアは冷静な判断力を失っていた。

 追い詰められ、現実から逃げようとしていたが、もう後に戻るしかないという現実を突きつけられ、ようやく冷静さを取り戻しつつある。

 

 三人は、まさかここでティアが折れてくるとは思っておらず、最後のバトルを覚悟していただけに呆気に取られていた。

 いいの? と言わんばかりの顔で、ルティが見詰めている。

 メディは、振り上げた拳の行き場をなくしたような顔で、困ったような笑いを浮かべていた。

 アービィも、やはり真意を確かめたいという顔になっている。

 

「でも、また戻ってくる。諦めたわけじゃないの。分ってくれるよね?」

 ようやく落ち着いたティアが顔を上げた。

 

 最後の問いは、三人への問いとレヴァイストルやレイに向けていた。

 そして捕虜や死者となってしまった数千人の人々にも。

 

「うん、諦めてない。絶対、またここに戻ってくるのよ」

 ルティも悔しかった。

 行けば何とかなると思って、たいして調べもせず、行き当たりばったりだった自分が悔しかった。

 

 もし、ここで退いてはランケオラータが殺されないまでも、衰弱死してしまうかもしれない。

 それでも、そこへ行く道が閉ざされているのであれば、今は彼の強運を信じるしかない。

 

 アービィはどこかほっとしたような顔で、馬車のチケットの手配に出て行った。

 メディは悔しそうな表情で、酒の用意を始めていた。

 

 アービィが戻ってきたとき、部屋の中は酒の匂いが充満し、既に出来上がったルティが床に崩れ落ちようとしていた。

 メディとティアは、アービィの姿を認めると獲物を見つけた肉食獣のような目になっている。

 とりあえず、逆らっては危険と判断したアービィは、諦観を漂わせつつ空のグラスを手に取った。

 

 

 ランケオラータは、愕然としていた。

 捕虜になったまでは、仕方がないと思う。

 

 自信に軍事の才がないことは、誰よりも当人が知り抜いていた。

 それでも北の蛮族に遅れをとるとまでは考えていなかったが、素人が軍人に戦で勝てるとは思い上がりも甚だしいと思い知らされた。

 

 彼が愕然としたのは自分の思い上がりではなく、北の大地の現状だった。

 捕虜の食事がまともではないのは分っていたが、ここまでとは思わなかった。

 

 割るためにはハンマーが必要かと思うような、堅いパン。

 味など期待するほうがどうかしていると思えるような、透明なスープ。

 そこに浮いている、南大陸では雑草に分類されているような、草。

 それが、一日に二回。朝晩に出るだけだ。

 

 当初、彼は捕虜故の待遇だと思っていたが、強制労働の際に将兵の食事を準備させられたときに見たものは、精々がところ草の量が捕虜より多い程度の内容だった。

 つまり、消費カロリーが日常生活より多い軍事行動の際にも、南の下層階級より粗末な物しか支給できないということで、そのまま北の民の貧しさを物語っていた。

 

 当然、このような食事では、戦場で傷つき体力を失った捕虜の命は、蝋燭の火より簡単に消えていった。

 戦闘に突入する前に捕虜になった、まだ比較的体力が残っている者も、日に日に衰弱していくのが分る。

 

 部下からは食事や待遇に関する不満を告げられていたが、勝者より待遇の良い捕虜がいるはずないと、彼は諦めるよう部下を説得するしかなかった。

 そんな彼を見て、部下の中にはランケオラータは北の民に尻尾を振っていると、陰口を叩く者もいた。

 

 彼は部下の陰口は仕方ないと考えている。

 自分に対して不満が向いているうちは、北の民に対してあからさまに逆らうことはしない。

 

 万が一、北の民に対して不満が爆発し、暴動でも起こそうものなら、今の状態では瞬時に皆殺しにされてしまうだろう。

 周囲の冷たい目に耐えながら、彼は黙々と強制労働に従事していた。

 

 その強制労働の内容も、彼に衝撃を与えていた。

 未開地の開墾だと思っていたものが、常用の農地だというのだ。

 

 まだ北の大地では焼き畑農業が主流で、大地は数回の焼畑でいとも簡単に地力を失っている。

 通常、放置された畑は十数年で地力を回復するが、使い続けられて消耗しきるか、そのまま放置されていることが多いため、農地に適した土地は減少する一方だと思われていた。

 

 彼らが従事させられた強制労働のほとんどは、南の基準では荒れ放題の畑からの収穫作業だった。

 引き抜くように指示された草を雑草だと思い粗末に扱って殴られた兵は、いきなり殴られたことによる理不尽さより、それが収穫物だという事実に呆然としていた。

 

 もちろん、彼らにとって野菜と認められるものが栽培されているまともな畑も少数ながら存在するが、収穫物を捕虜に盗まれないために、そちらの収穫に駆り出されることはなかった。

 穀類はそれなりに収穫量があるようだが、パンを焼く燃料のため無節操に森林を伐採した結果、春に鉄砲水が多発した経験から林業には消極的になっており、豊富な森林資源を抱えているにも拘らず、現在では却って林業が衰退している。

 

 この他に石炭の採掘に従事させられたこともあった。

 どうやら埋蔵量はかなりのものがあるが、道具が粗末であり、従事者の絶対数が不足しているため、生産量が上がらない。

 

 鉱物資源も良質な鉄があるにも関わらず、同様の理由から小規模な産業でしかない。

 その鉄は、部族間の戦のための武器防具に、優先して加工されている。

 そのため、農、工具に回される量は僅かな割合であり、それが生産量を低下させるという悪循環に陥っていた。

 

 小規模な部族内で全てが賄いきれるはずもなく、近隣の部族が連合体を作り、農林業、工業を分担しているが、部族間の力関係で弱小部族は各産業の過酷な過程を押し付けられていた。

 南大陸の常識では考えられないほど、遅れた社会基盤だった。

 

 比較的肥沃な大地を持つ南地方でこれならば、さらに北の地域はより過酷な環境なのだろう。

 ランケオラータには、北の民が南の土地に移りたがる理由が、十日も経たずに理解できてしまった。

 

 

 捕虜になって十数日目に、収穫が済んだ畑を見ながらランケオラータと部下が何気なく交わした会話が監督官の耳に留まり、彼等の運命は激変した。

 本当に何気なく、だった。

 

 収穫物の貧弱さに施肥に関することや、畑の効率の悪さから牛馬を使った開墾について、部下と改善策を話した、というより愚痴を言っただけだった。

 監督官は標準的な北の民であり、良くも悪くも北の大地の常識に囚われていた。

 ランケオラータを兵舎に連れ去った監督官は、処刑されると諦観した彼に、農業に関する改善策について、根掘り葉掘り聞き始めた。

 

 ランケオラータは、ハイグロフィラ領より独立したアンガルーシー領を経営している。

 当然財務だけではなく、農林業や工業の現場に立つことはないにせよ、生産量を上げるための施策を講じたり、指導を行ってきていた。

 

 彼は監督官に北大陸に応用できそうな施策や技術を提案し、彼の領地から義勇兵にきた者を使い、現状で可能な範囲を実践させた。

 もしかしたら、彼には北の民への優越感や、憐れみがあったのかも知れないが、監督官にしてみれば、今まで苦労してきたことにいとも簡単に解決策を示す若者の知識や経験は、失いがたいものに思えた。

 

 翌朝、捕虜たちが起こされると同じ時間に、監督官を乗せた早馬が一騎、平野を占める部族の長が住む集落目指し走り去った。


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