教都ベルテロイにあるマ教神殿のスキルウェテリー枢機卿の私室に、バードンは唐突に呼び出されていた。
「インダミトの愚か者が北の大陸に突出して、壊滅した話は聞いておるかね?」
何事かと訝しむバードンに、スキルウェテリー卿が訊ねた。
当然知っているだろう? という態度だ。
「はい。既に承知しております。あの莫迦共は救いがないですな」
バードンは、心底呆れたように答える。
「インダミトのレヴァイストル伯が、ランケオラータ子爵を救出するために冒険者を雇ったのだよ。」
スキルウェテリーは、情報を小出しにした。
続けてランケオラータが、レヴァイストル伯爵の次女の婚約者であることを説明した。
「子爵を救出すれば、レヴァイストルに恩を売れる。そこでだ、お前に行ってもらいたい。いや、人狼狩りが忙しいというのは解るがな。お前以上の人物は、残念ながらいないのだよ」
断ることは許さない、と視線に含ませて言う。
インダミト王国の子爵を救出すれば、それだけでも彼の国はスキルウェテリーに頭が上がらなくなる。
さらに国王の信頼も厚いレヴァイストルを手の内に引き込めれば、インダミトの立場を完全に自派に引きずりこめる。
それはインダミトが支援している、全宗教との融和派であるカーナミン卿の力を削ぐことにもなる。
「断らせる気がないのに、よく仰る。分かりました。行きましょう」
バードンは、半分あきらめの表情で答えた。
聖騎士団から捨てられそうになった当時12歳のバードンを拾って、ここまで育ててくれたのはスキルウェテリーだ。
荒れ放題だったバードンに常識から世事、人前に出て恥ずかしくない礼儀などの全てを叩き込んでくれた。
スキルウェテリーも人生の約1/4はバードンと大差なかったため、他人事ではないという心情があった。
彼はストラーの没落貴族の子として生まれたが、物心がつく前に孤児院前に捨てられていた。
孤児院を出なければならない年齢に達した彼は、街で知り合った破落戸にいいように騙され、その使い走りのようなことをするようになっていった。
たいした実入りもなく、それこそ使い捨てのような生活が続き、明日喰うパンの心配が頭から離れない毎日だった。
綱渡りのような毎日は悪事との馴れ合いで、ある日寄付金が集まっているだろうと目星をつけていた教会に盗みに入る。
たまたま来訪していた聖騎士団にあっけなく捕まったが、それが彼にとっての幸運だった。
もし、普通に町人や官憲に捕まっていたならば、彼は牢屋に送られ、そこで栄養失調で死ぬか、さらに世間に対して憎しみを抱くようになっていただろう。
捕縛され、問い詰められ、その日の食費と数日分の余裕が欲しかったと話した彼を、聖騎士団は盗みに入った教会に彼を預け、矯正することにしたのだ。
当初は食事があるというだけで教会に居ついた彼だったが、何もせずに食事だけ恵んでもらうことは彼のプライドを傷つけた。
しばらくすると彼は、神父たちの仕事を手伝うようになっていた。
やはり使い走りのようなことばかりだったが、それでも人に必要とされるということは、彼にささやかな充実感をもたらす。
元の仲間たちがちょっかいを掛けてくることがあったが、聖騎士団が彼らを捕縛したことでその心配もなくなる。
聖騎士団にしてみれば、目をつけていた破落戸共を片付けただけに過ぎないが、図らずもスキルウェテリーにそのような者たちの末路を見せ付けることになった。
神父たちはマ教の教えに従い、博愛と自己犠牲の精神を彼に叩き込み、彼もそれに良く応えた。
彼は、長じるにつれ、自分もそうやって人を助けたいと思うようになる。
神父として働くことができるようになってから、彼はマ教の教えはあまねく世界に広がるべきという考えを持つようになった。
自分のような境遇の者が、まがりなりにも人様の役に立てるような人間に成長できたのは、マ教のお陰だと信じている。
また、そのような教えを持つ宗教は、マ教だけだと彼には感じられた。
特に北の民同士の殺し合いを聞くにつけ、彼らに対する感情は憐れみにも似たものになる。
北の大地で信仰されている多神教に人々を救う力はないと感じた彼は、それらの宗教は邪教でありマ教こそ全大陸を救う唯一のものだと信じるに至った。
人を救う力のない邪教は、排斥されるべきである。
北の大地にもマ教の光が届くようになれば、北の民も幸せになれると彼は信じている。
北の民を教化しようと考えるデナリー卿と考え方は近いといえるが、デナリー卿は異教徒に対して破折屈伏の姿勢を以って臨んでいる。
教団内で彼は当初デナリー卿に付き従っていたが、次第に彼はそれを手ぬるいと感じるようになっていった。
彼は、司教たちの中で考えを同じくする者を募り、枢機卿に選ばれた後はデナリー卿と袂を分かち、自らの信念に基づいて行動するようになった。
教皇の座を欲するのも、権力を欲するのではなく、布教を推し進めるための力が欲しいが故だった。
バードンが今を生きていられるのは、ひとえにスキルウェテリーのお蔭であった。
いくら純粋な力がスキルウェテリーを超えたとはいえ、バードンは彼に逆らうことはできない。
もし、あのまま騎士団を放り出されていたなら、人狼と大差ない人生になっていたはずだった。
もちろん、スキルウェテリーがバードンを拾ったのは、彼のためだけではない。
スキルウェテリーの所轄する悪魔祓い組織に、適していると判断されたことが大きな理由だ。
普通であれば、聖騎士団をはみ出してしまえば、教会と縁が切れてそれまでだ。
しかし、スキルウェテリーは彼の人狼への憎しみに目を付けた。
荒事を担当させるため、ちょうどいい人物だったのだ。
バードンは、インダミト内での人狼狩りを一時棚上げし、フロローからグラザナイを経由してウジェチ・スグタ要塞に向かい、さらに北の大陸へ渡ることにする。
教団内で原理派は何かと風当たりが強いため、一応の名目はウジェチ・スグタ要塞の慰問ということになった。
「それでは、卿、行って参ります。必ずやご期待に応えましょう」
内心の面倒くささは隠しつつ、バードンはベルテロイを後にした。
ティアは、内心焦りを感じている。
リムノの一件の後は疲れ切った心身を休める必要があったが、今アルギールからグラザナイに向かう馬車の速度は、彼女にとってもどかしくて仕方がない。
ランケオラータ子爵が北の民の手に落ちた原因はアーガスの独走なのだが、その遠因を作ったのは自分自身だとティアは思っている。
レヴァイストル伯爵は、当初アーガスを手元で再教育するつもりでいた。
それをエーンベアに出すように進言したのは、他でもないティアだった。
もし、あの時、自分がそのようなことを言わなければ、アーガスはラシアス派遣軍に身を投じることはなく、ランケオラータが北の民の手に落ちることもなかったはずだ。
レヴァイストル伯の手元にいれば、伯爵は諸侯軍派遣の際にアーガスを将として送り出すとは思えない。
ティアは、そのことについて恨み言一つ言わなかった伯爵に、合わせる顔がなかった。
アービィもルティも、そのことについて、一言も言わない。
ラガロシフォンでそのことを知らされたときは、身体から魂が抜けたかと思ったほどだ。
ティアは、ランケオラータは自分の力を全て使って救い出すと、心に決めていた。
ボルビデュス領を出てから、ティアの精神状態が不安定になっている。
不機嫌というわけではないが、塞ぎこんでいることが多く、そうかと思えば必要以上に明るく振る舞ったりもしている。
ティア自身、危険な状態だとなんとなく理解できているが、無理にでも明るくしていないと不安に心が押し潰されそうになる。
そしてその後には、さらに重い不安感が襲い、また塞ぎこんでしまうという悪循環に陥っている。
ティアの精神状態の波は、罪悪感や責任感から来ているのは解る。
アービィとルティは、それがティアの心を潰してしまわないかが心配だった。
「もうすぐ、グラナザイか。これでメディは治癒師になる条件がそろうね」
アービィがメディに話しかける。
メディは、火の神殿で精霊と契約すれば、あとは修練を積むだけだ。
北の民の呪文はそれほど持っていないので精神系の治癒は難しいが、怪我や状態異常であればほとんどの症状に対応できるようになるだろう。
普通の生活を送っていたのでは呪文の修練の機会は少ないので、暫くは冒険者との二足の草鞋を履くのも良い。
ビースマックは魔獣の生息数も多いので、治癒師としても冒険者としても需要はあるだろう。
さらにあの国は職人気質の塊であることも手伝って、北の民への差別や偏見が比較的少ない地方でもある。
北の民の奴隷は多いが、基本的に使用人としての需要であり、娼婦の需要はあっても性的な奴隷は少ないといわれている。
「アービィ、火の神殿行ったら、すぐ北へ行くんでしょ?」
メディは、アービィにそう聞き返した。
「うん、冬になる前にけりを着けないと、半年近くは動けなくなっちゃうからね。それに、北の民も捕虜を生かしておく余裕はないと思うし。冬に備えて収穫を上げるためでしょ、きっと捕虜を取ったのは」
アービィは自分の推測を交えて答える。
「もう解ってると思うけどさ、私も行くよ。北に」
唐突にメディが宣言する。
アービィたちも、なんとなくそのつもりでいたのだが、ここまで来てメディはビースマックに返したほうがいいのではないかと思い始めていた。
命の保証がない。
生きて帰れる保証がないのだ。
もちろん、三人とも死に行く気はさらさらないが、北の大陸に足を踏み入れるのは初めてだった。
どんなことがあるか、全く予想がつかない。
「うん、気持ちは嬉しいんだけど……」
そう言ってから、アービィは不安要素を説明した。
「ねぇ、北の民の女を一人でラシアスに放り出す気? そこからビースマックまで一人で帰れって言うの?」
このために用意していた答えを、メディは即、返した。
ラシアスは、常に北の民の圧迫を受けているせいなのだろう、北の民に対する偏見や差別は他の国に比べ物にならないくらい根強い。
北の民の女性が、誰かの所有物であることを証明できない状態で歩き回るなど、自殺行為に等しい。
攫われて奴隷商人や娼館に売り飛ばされるなどまだいい方で、強姦や殺人の被害者になることも珍しくない。
ラミアのティアラで魔力を取り戻して帰ることは、論外だ。
髪が蛇に変化するだけでなく、その蛇はそれぞれ自立して動く。
隠し通せるわけもなく、再度討伐の対象になり、そのうえ北の民への偏見や差別をさらに深めるだけだ。
そう考えると、北の大陸に一緒に行き、ランケオラータ救出後ビースマックに送るしかない。
最初からその答えであったにも拘らず、再確認するまでに時間を要してしまったのは、やはり北の大陸の内情が全くわからないからだった。
「十三年ぶりの里帰りよ。いいじゃない、行っても」
メディは、三人の気を紛らわすように行った。
嘘だ。
里はもう無い。
他部族に襲撃され、一族郎党皆殺しになり、たまたま娼婦として売れそうなメディだけが生き残ったのだ。
生まれ育った場所は、荒廃しきって原野に戻ったか、他部族が占拠しているかのどちらかだろう。
近くまで行くことがあっても、悲しい記憶しか残っていない場所に、立ち寄るつもりはメディにはない。
忘れてしまったことにして通り過ぎるつもりでいる。
「そうだね、やっぱりメディにも、一緒に行ってもらいましょうよ」
ティアが言った。
ティアは、内心でメディに手を合わせている。
まったく予備知識が無い北の大陸に行くに当たって、メディの持つ知識は何よりの武器だ。
当初、救出方法など見当もつかなかったが、メディから蛇や狼などを神として崇めている部族があると教えられ、自分が獣化すれば解決の糸口になると教えられていた。
それ以外にも風習や、地理など、まだまだ教えてもらわなければいけないことは、山ほどある。
特に禁忌。
知らずにそれを犯した場合、協力的な部族だったとしても一瞬で敵に回しかねない。
知らなかったで済まされることではないから、禁忌なのだ。
商習慣も南と違うのであれば、要注意だろう。
そもそも、今持っている貨幣が使えるのかどうかも怪しい。
もし通貨が違っているなら、地峡近くで南と交易をしている部族を探し出し、ここで両替しておかなければ食料を買うことすらできなくなる。
それ以前に南の住人にモノを売ることがあるのかすら、判ったものではない。
メディがいれば、その辺りの懸案はある程度解決できるだろう。
ティアが変化しても、瞳の色はともかく髪の色まで変えられないのだ。
レヴァイストル伯爵への借りを返すために、ティアはメディを利用させてもらうつもりでいた。
心底申し訳ない気持ちで一杯だが、この救出作戦を成功させるには、メディの力は絶対に必要だと、ティアは考えている。
アルギールから、ほぼ10日の行程でグラザナイに到着した一行は、宿を押さえてからすぐに二手に別れた。
ルティとティアは、ウジェチ・スグタ要塞行きの馬車の手配に走る。
その間に、アービィがメディの護衛に付き、火の神殿で精霊と契約を済ませに行った。
幸いなことに、翌朝の便にまだ席の余裕があったので、四人分のチケットを購入できた。
あとは宿で待っていればいいだけなので、ルティとティアは並んで街を歩いていた。
「以前ここへ来たときには、要塞まで見物しに行くつもりだったのよね。それが今度は、さらに北、か。怖くない? ルティ?」
暗い目をしたティアが聞いた。
「そうね、怖くないって言ったら嘘よね。……でも、ちょっとだけ期待もあるわ」
ティアの暗い目が気になったルティは、暫く考えて言葉を選ぶ。
今まで、三人は南の大陸から出たことがない。
ここまでの旅は、同じような価値観や、人生観を共有できる人々の間を渡ってきているが、これからはそれが分からない土地へ行くことになる。
「メディとリムノが、初めて会話らしい会話をした北の民なのよ。自分の周囲には、あんまりいなかったから。フォーミットには、奴隷を持ってる人は少なかったし、娼館もなかったからね。その辺は不安材料かな。ティアも北へ行くのは初めてなんでしょう?」
ルティが聞き返した。
北の大陸についての情報が、南大陸では少なすぎる。
北の民に関する情報は、ほとんどがメディのような娼婦の寝物語や、僅かな交易による一部の人からの伝え聞きでしかない。
わざわざ危険を冒してまで、北を冒険する物好きは少なかった。
所謂冒険者たちは、生計のために少しでも良い報酬を求めて旅をしているわけで、北へ渡っても仕事がないのであれば、行く価値がない土地だからだ。
南から北へ行く人間は、使命感に燃えたマ教の神父か、南大陸に居られなくなった重犯罪者、あとは奴隷狩りくらいのものだろう。
いずれも北の民にとっては、迷惑極まりない者たちばかりだ。
これでは北の民が、南大陸の住人に敵意を持つのも仕方ないと考えられていた。
「あたしのせいなのよね、今回のことは。メディやあなたたちを巻き込んじゃって、本当に……ごめんなさい」
ルティの問いに小さく頷き、暫く無言で歩いていたティアが、宿の玄関で突然歩みを止め、ルティに頭を下げた。
普通に歩いていたルティは、ティアを外に残す形になってしまい、慌てて振り返った。
「何言ってるの? どうしちゃったのよ? ティアが悪いわけじゃないじゃない。気にすることじゃないわよ」
ティアの顔を覗き込むと、涙が流れている。
話は部屋で聞くわ、と言って、無理矢理ティアの手を引き、部屋に入る。
「あたしよ……あたしなのよっ! あたしが……伯爵に……いわなければ……アーガスは死ななかったろうし、ランケオラータが捕虜になることもなかったっ! ……なにより……何千人もの人たちが……殺されたり……捕虜になったり……」
部屋に入るなり、抑えていたティアの感情が爆発した。
「あたしはラミアよ……人に害成す魔獣よ。……あなたたちのお陰で、人と暮らせるのかと思ったの。……でも……でも……あたしの言ったことで……何千人も……」
ルティは何も言わずティアを抱きしめ、髪を撫でている。
「あたしは、人といちゃいけないんだよね。……判ってたんだ。でも、少しくらい夢を見させてもらっても、いいかと思ってた……でも……その夢から覚めたら……やっぱり……」
声が震え、その後は言葉にならなかった。
独り、一匹、一頭、一体という言葉が、頭の中をぐるぐる回っている。
「あなたは独りじゃないわ、ティア。絶対、独りじゃない。あたしたちがいるよ。あたしたちが死んだ後だって、あたしたちの子供たちが、そのまた子供たちが、一緒にいるよ」
ルティは言い切った。
この優しい蛇を、ラミアを放ってしまうなんて、できるはずがない。
ルティの中で、ティアはアービィとは違った大切な場所を占めていた。
自分の命が繋がっていく限り、共に長い時間を共有したい、大切な「人」になっていた。
「いても……いいの? あたしは一緒に……いて……いい……の?」
不安そうなティアに、無言で肯くルティ。
ティアは、嬉しさと同時に衝撃を受けていた。
この少女は、魔獣との間に子を成すことに、躊躇いを全く感じていない。
ただ、愛する相手が魔獣で、自分が人であるだけだ、と当たり前のことを、当たり前に受け入れている。
その当たり前のことが、苦しくてたまらないのに。
ティアが、苦しさを感じている部分は、そこだった。
討伐する側とされる側。
深い溝があるはずだった。
それをこの少女は、軽々と超えていた。
いや、される側に行ったのではない。
溝を埋め、その中間にされる側を引き寄せ、救っていた。
溝だった部分には、討伐する側もされる側もなくなっている。
「ね、ティア。いて欲しいの」
その夜遅く、宿の一室でアービィとルティは、向き合っていた。
メディは、精霊との契約が済んで安心したのか、早々と自室に戻りベッドに潜り込んでいる。
「ティアはようやく落ち着いたみたい。今は安心した顔で寝てるわ」
ルティはそう言いながら、椅子に腰掛けた。
「よかった~。心配したよ、ティアが泣きはらした顔なんだもん。何があったかと思ったよ」
向かい側でグラスを傾けながら、アービィが答えた。
精霊との契約を済ませたメディとアービィが、ルティたちの待つ宿に戻ったときには、ティアは漸く落ち着きを取り戻していた。
ティアは、泣きはらした目を心配したアービィに、気を利かせたのだろう、そのあと酒場で珍しく羽目を外した。
飲み過ぎで二日酔いになることは多々あったが、ティアが酔い潰れたのは初めてだった。
ルティは、ぐてんぐてんになって動けなくなったティアをアービィに抱えさせて部屋まで送り届け、アービィを叩き出してからティアを着替えさせて寝かしつけて来たところだった。
「ティアの不安ってさぁ、アービィは解るんだよね?」
「うん。だいたいね」
言えない。
自分も全く同じ不安を抱えているなどとは、絶対に自分からは言えない。
以前ラシアスに初めて来たとき、自分の「痣」、召喚の刻印について、訊ねてきた人が二人死んだ。
そのうえ、巻き添えで片方の家族二人、計四人が死んでいた。
もちろんアービィが知らないだけで、四人ともラシアスの密偵だ。
国家間の暗闘の中で、武運拙く途半ばで倒れただけに過ぎない。
彼らには、その覚悟があり、アービィのことも、自らを直接殺した相手すらも恨むつもりはなかったはずだ。
しかし、アービィにとってみれば、自分に関わったがために死んだ、いや間接的に殺してしまったのではないかと、苦しんでいる。
おそらく、ティアもその先が怖いのだろう。
今目の前にいる大切な人まで、死に追いやることが怖いのだ。
それをルティに言うことは、アービィもティアもできなかった。
「同じような不安……ある?」
ルティか椅子から立ち上がる
「うん……」
傍に来たルティに、アービィは曖昧に肯く。
「怖いんでしょ? 独りになることが。大丈夫。あたしは、いつもここにいるよ」
顔を覗き込まれた、と思った瞬間、ルティの唇がアービィの唇に重ねられた。
「ほら、大丈夫じゃない」
顔を真っ赤にしながら、おやすみ、と言ってルティは部屋を出た。
翌朝、いつまで経っても出てこないアービィを起こしに行ったルティが見たものは、幸せそうな顔で鼻を鳴らしながら、床で丸くなって眠る狼だった。
昨夜に引き続き、顔を朱に染めたルティが、それでも幸せそうなアービィの耳を引っ張りながら、宿の食堂に降りてくる。
その光景を見ながら、じんわりとした幸福感を覚えながら、ティアはあり得ない想像をしていた。
この少女は、幸せをもたらす女神の化身ではないかと。
ひょっとしたら、南の住人と北の民との架け橋くらい、簡単に作ってしまうのかもしれない。
絶望的な観測しかできなくなってしまっていたティアの心が、少しだけ解れてきた。