翌朝は、霧のような雨が降る、気だるい雰囲気の朝だった。
今日一日の活動は制限され、鬱憤が溜まりそうかといえば、そうでもない。
温かい雨が静かに降り注ぐ、休養を取れと言わんばかりに。
食堂でティアは、笑顔こそないがすっきりとした表情のアービィと、どこか疲れたような、でも安心したような表情のルティと向き合っていた。
気まずくはない沈黙の中で朝食を終えると、ルティは、ちょっと眠いから、と言って部屋に戻った。
ティアはアービィを部屋に誘い、食後のお茶をゆっくり飲みながら、向き合ってアービィの言葉を待つ。
さすがに人狼に関るであろう話は、他人の目のある食堂でするわけには行かない。
やがて、アービィは、昨日ティアたちとはぐれてから朝までにあったことを、静かに語りだした。
「何て言うか……朝っぱらからお酒が欲しくなるような話題ね」
ティアが溜息を吐き出しながら感想を述べる。
話すことは全て話し尽くしたとばかりに、アービィは黙っている。
「ね、アービィ……あたしもね、ちょっと違うけど、似たようなことあったの。殺されかけるようなことは、なかったけどね。百年くらい前に、人化していた頃のことなんだけど。ちょっとした気の迷いだったのかなぁ、エサとして捕まえたはずなのに、ね。しばらく、一緒に住んでたのよ」
この男の『精』なら、ずっと欲しい。いつまでもいて欲しい。
普通なら搾り尽くして、一日で使い捨てるはずなのに。
それがどうしたことか、もう何日も同じ宿にいる。
いつの間にか、ティアは男に惚れていた。
身勝手に、自らの欲望を吐き出しているだけの男ではなかった。
精一杯慈しんでくれているのが、ティアに伝わっていた。
行き擦りの男女であるはずなのに。
男は商用の旅の途中だった。
ティアは、男についていくことに決めた。
男が住む村で、一緒に暮らし始めたティアは、ラミアであることを隠し、男の『精』を搾り尽くさないように気を使って生活していた。
当然、他の男の『精』を欲することもなく、二人で穏やかに暮らしていたはずだった。
ある日、男が所要で出かけていた際、神父がたまたま訪ねてきた。
断る理由もないティアは、気軽に神父を家の中に招き、茶菓でもてなした。
聖職者が淫らな真似をするはずもないという安心感が、ティアの警戒心を薄くさせていた。
間違いなく、この神父は聖職者であり、自らを厳しく律することのできる人物だった。
そう、男女の間違いを起こすような心配は、全くなかった。
しかし、彼は悪魔祓いを志し、そのための努力も怠らないひとでもあった。
男といる間は、決して着けることのなかったラミアのティアラ。
たまには磨いておくかと思って、テーブルに置きっ放しになっていたのだった。
急にそわそわし始めた神父が、その場を取り繕うように、用事を思い出した、と言って家を出たとき、ティアは全てが崩れ去ったことを理解した。
入れ違いに戻ってきた男の前で、ティアはラミアのティアラを髪に飾り、獣化した。
腰を抜かした男が後ずさり、壁に立てかけてあった護身用の剣に手を伸ばす。
ようやく立ち上がった男は、剣を振りかざしたが、その剣はティアを掠めただけで床に突き刺さった。
男は、逃げよう、とだけ言い、ティアの手を握った。
嬉しかった。
もう、ここで命尽き果てても悔やまないと、ティアは思った。
しかし、思い直す。
自分は、ここで姿を消して行方を晦ませることはできる。
その後、人里を離れ、一人で暮らすことも可能だ。
この男にそれを求めていいのだろうか。
自分ひとりのために、この男の輝くかもしれない未来や、出会うはずのひととの縁を全て断ち切る権利は、あるのだろうか。
もともと寿命が違うのだ。
この男と永遠に別れなければならない日が来ることは、解っていたではないか。
それが、今、来ただけのことだ。
「お願い。あなたは、ここにいて。化け物は、あなたを殺そうとして、そのまま逃げたって言っておいてね」
ティアは、毅然とした態度で男に言った。
男の返答を待たず、尻尾を男の首に巻きつけ、息を止めないようにして頚動脈を一気に絞めあげる。
瞬時に意識を手放した男をそのままに、ティアは姿を消した。
翌日、姿を変え、二人で暮らした家をティアは見に行った。
未練と言っていいだろう。やはり、男のことが心配だったのだ。
もし、男が悪魔憑きとして迫害されるようなことがあれば、どうしようと思っていた。
ティアに男を助ける術はない。
助けてしまえば、悪魔憑きどころか、悪魔そのものにされてしまうだろう。
しかし、ティアは見に来ないではいられなかった。
そして、ティアが見たものは、周囲をマ教の札を下げた注連縄で囲い、劫火に包まれる家を項垂れて見つめる男の姿だった。
幸い、神父が男に励ます言葉を言い、村人たちも男に寄り添っていた。
それから数ヶ月の間、ティアは姿を変えたり、消したりしながら男の様子を見守った。
男が迫害されるようなことは無いと確信したティアは、未練を抱きつつも安堵して村を去った。
ここまで話したティアは、なぜかエールを飲んでいた。
ちょっと呂律が怪しくなり始めている。
「だ~か~らぁ~。あたしは後悔してないって言ったら嘘になるからさぁ~。アービィには後悔して欲しくないのよぉ~。あなたはぁ~、あたしと違ってぇ~、ルティを守れるだけの『力』があるからぁ~。自分の~、気持ちにさぁ~、素直にぃ~、ね」
最後の「ね」だけは力強く言い切り、今日はこの天気だし、あたしも寝るね、とティアはベッドに潜り込んでしまう。
アービィは自分の部屋に戻る途中、ふとルティの部屋の前で立ち止まった。
ドアを叩こうとして、鍵が掛かっていないことに気付く。
そっと部屋に入ると、ルティはベッドで気持ちよさそうに眠っていた。
やはり、徹夜でアービィを膝枕していたため、寝不足なのだろう。
「自分の気持ちに素直に、か……」
ティアの言葉を口の中で繰り返し、アービィは寝ているルティに顔を寄せる。
今なら、このまま唇を重ねても、気付かないかな。
そう思ったとき、ルティが寝返りを打つ。
アービィの心臓が、破裂しそうな勢いで拍動を始めた。
自分の感情に戸惑うアービィは、うっかり獣化してしまった。
狼の体重がベッドに伝わり、ルティの頭が大きく沈む。
急に落下するような感覚に、ルティが目を覚ました。
ルティは目を開けるが、焦点が合わず、何度か目を擦る。
しばらくして、ようやく世界が形を成し、ルティは目の前に何があるか把握した。
ルティがそこに見たものは、照れくさそうに自分を見下ろす巨大な狼の顔だった。
隣の部屋から聞こえてきた怒声と破壊音に、慌ててティアが部屋に飛び込んでくる。
ティアの眼前に広がっていた光景は、鼻面を押さえ、ピスピス鼻を鳴らす巨大な狼と、手を腰に当て、轟然と立ちはだかる少女の姿だった。
さっさとしちゃいなさいよ、と怒鳴る少女の声を、ティアは聞かなかったとことにする。
足元には、枕元にあるはずの銀の燭台が、無残に変形して転がっていた。
翌日、討伐の仕事に出て行く三人組のうち、少年の鼻梁には一筋の傷があった。
そして、レイたちの護衛としてこの町を出る前日まで、平穏な日が続いていた。