「私と手合わせ願えませんか!」
早苗の宣言に鬼鮫はあっけにとられる。
干柿鬼鮫は前の世界では指折りの実力者だ。その辺りの人間に負けることはありえない。さらに、早苗と鬼鮫では体格差がありすぎて、押せば倒れてしまいそうな彼女が勝ちそうなビジョンが浮かばない。国をも相手にできる彼にどこまで戦えるのか、いやそもそも勝負にすらならないのではないか。
二人の間に不安な空気が漂うが、早苗はそんなことなど知らないとばかりに、
「大丈夫ですよ、私はこう見えても幻想郷の中でも実力があると自負していますから」
「いや、信用できねーよ。うん」
冷ややかな視線を向けるデイダラ。それとは反対に、鬼鮫は一歩前に出た。その顔はどこか嬉しそうな表情だった。
「いいですよ、やりましょう」
「いいのか? 鬼鮫の旦那」
「ええ、私は構いません。それに、私もそろそろ暴れたくなりましたから。それに、すぐ終わらせますよ」
「旦那がいいって言うなら、オイラは止めないが」
「では! 早速やりましょう!」
流石に境内ではあれなので、と早苗は神社裏にある湖へと案内した。早苗自身は頭から抜け落ちているが、空中戦をそれなりにこなしてきた彼女は人間が空を飛べないという普通を忘れてしまっていて、幻想郷に慣れてしまった彼女はそこまで思い至らなかった。
鬼鮫はこれが彼女たちにとっての当たり前だと思うと、チャクラを足の裏に集めて湖へ一歩踏み出した。
早苗が声をかける間もなく、鬼鮫は底まで透けている湖の水面を歩いていく。風で時折湖が揺れて、それに合わせるように鬼鮫もわずかに縦に揺れる。
「うわわぁ! どうやって水の上を歩いているんですか!? もしかして、水遁の術ですか!?」
「それは、これからお見せしますよ」
早苗は持っていた箒を放り出して、手製のお祓い棒をどこからともなく取り出した。
そして、風に吹かれる紙のようにフワリと浮かび、側から見れば水面ギリギリで動きを止めた。水面に浮かぶ鬼鮫を意識しているのは一目瞭然だ。
「あなたも飛べるんですね」
「ええ、飛べますよ。貴方も飛ぼうと思えば飛べると思いますよ? 私は飛べると思って飛んでいますから」
早苗の言葉に鬼鮫は思わず失笑する。
「……いえ、それは無理でしょうね。私には人が空を飛ぶ想像ができませんので」
人がなぜ空を飛んでいるのか、原理はどうでもいいとして、理由は分かった。だがどうしても鬼鮫には空を飛べるイメージが浮かばないのだ。大人になりすぎてしまった鬼鮫はいつまでも子どもであり続ける早苗を羨ましく思った。
「では! 鬼鮫さん、全力でいきますよ! 開海『モーゼの奇跡』」
早苗がお祓い棒を突き出したと同時に、湖は激しい水飛沫を上げながら水と油のように二つに裂けた。
「何ッ!?」
初手で湖を割るとは思わなかった鬼鮫。いきなり足場を失い、己の身体が重力に引かれ始めた時には、咄嗟に印を結んでいた。
「『水遁・爆水衝波』!!」
印の最後に祈るような結びをした鬼鮫は口を大きく開けて、そこから大量のチャクラを変換した水を吐き出した。
水はまるで接着材のように二つに裂けた湖を水で繋ぎ合わせた。鬼鮫は自ら出した水の上に着水すると、水上にいる早苗を見上げる。
「すごいですね、水を吐き出すなんて。そこまで大量に吐き出す人は初めて見ました」
「私もこの術をこんな使い方をしたのは初めてです」
「そうですか、これには鬼鮫さんも驚いたみたいですね」
「いきなり足場がなくなるというのは、そうそうあることではありませんよ」
「では、お喋りはこれくらいにして、もっと楽しみましょう!」
「ええ、そうです、ね!」
鬼鮫は膝を曲げて勢いよく飛び上がる。そして、水の壁に足の裏を着けると、走りながら印を結んで早苗との距離を詰める。早苗も鬼鮫が何かを狙っていることは理解している。
早苗は先程の鬼鮫の技から、これから繰り出されるのは中・遠距離攻撃だと予測した。まだ距離がある内に叩こうと考える。
しかし、早苗は鬼鮫が次はどんな術を出すのか。それに見初められていた。なにしろ、相手は忍者だ。本やテレビの中でしか見たことがない存在に、早苗は興奮を抑えられないでいた。
「『水遁・水鮫弾の術』」
鬼鮫の手が水の壁に触れると、なんの変哲もない水が意思を持ったかのように動いて形作りすぐにものの見事な鮫の水像ができた。
早苗を一飲みにできそうなその鮫は狙いをつけて足下から早苗を飲み込もうとする。
あれに噛みつかれてはたまらないと早苗は時間稼ぎの光弾を何発も打ち出す。光弾は鮫には当たるが、鮫は少しだけ動きを止めるだけで何事もないように早苗に突っ込んで来る。
時間稼ぎはすんでいた。水の鮫のスピードを見切った早苗は、次に自分が出す術の方が噛みつかれるよりも早いと判断して、祝詞を詠唱する。
「蛇符『神代大蛇』」
早苗によって召喚された水の鮫よりもさらに巨大な蛇が、突如空中から現れた。
水の鮫は蛇に怯まずにそのまま早苗を一飲みにしようとする。が、大蛇は頭の半分ほどもある大きな口を開けて、逆に鮫を一飲みにした。
鬼鮫の自慢の術が赤子のように扱われたが、鬼鮫は水面に上がることができた。
早苗の術が自分の想像をいっていたが、鬼鮫はこの状況を楽しんでいた。常識が通じない相手にどう立ち回るかのギリギリの戦いは強者と戦いたい彼の願いを叶えるには充分だった。
だが、鬼鮫はここに来た本来の目的を思い出すと、手早く済ませる為に次の行動に移す。早苗が呼び出した蛇も消えていた。
「数分と持ちませんが、仕方ないですねェ」
鬼鮫は自らの指を噛み切って印を結ぶ。
「ええェ!? 何をしているんですか!?」
驚く早苗を無視して、印を結び終わった鬼鮫は噛み切った方の手を水面に押し付ける。
すると、鬼鮫の水面下で勢いよく出現する水泡とともに数匹の本物の鮫が湖に解き放たれる。
「うわぁ! 鮫ですか!? あれ? でも鮫って、淡水魚でしたっけ?」
幻想郷に存在しない鮫に気を取られている内に鬼鮫は素早く移動する。
あっという間に早苗の背後に回り込むと鬼鮫は目にも留まらぬ印を結ぶ。
「『水遁・水牢の術』」
「えっ? あっ!」
術が発動すると早苗の周りの水が球体の形に変わり、彼女を包み込んだ。
「ゴボボッ!」
「勝負あり、ですね」
早苗を閉じ込める水の檻は物理法則を無視して空中にとどまっている。その中で早苗は口を開けてしまい、彼女の酸素を急速に奪っていく。
召喚の詠唱も行えず、スペルカードも発動できず、絶体絶命だ。それでも、早苗はその状況になっても諦めず、水の牢獄の中で必死に祈った。
(奇跡『神の風』)
(……まだ諦めていないのですね。どうしてそこまで)
自力での脱出は不可能の檻の中で未だに諦めていない姿に鬼鮫は敬意を払う。鬼鮫はこれまでの戦いで強大な力を前に挫折する忍を何人も見てきた。
努力や才能では埋め切ることができない壁の高さを感じたことは実力者の鬼鮫にさえあったのだ。倒せないのに、立ち向かうだけ無駄なのに、どうして拳を向けることができるのか。
これは手合わせであり、いわば腕試しなのだ。一言だけでも「参った」と言えばそこで終わりなのに、なぜその一言を言わないのか、折れない心に鬼鮫は理解できないでいた時にそれは起きた。
それははたして、早苗が起こしたものなのか、神が彼女を助けようとしたものかは分からなかった。湖に吹いた一陣の奇跡の風は、早苗を包み込んでいた水の牢獄を引き剥がして湖に人の高さを超える波風を起こした。
「何ッ!? こんなことが!」
牢獄から解放された早苗は鬼鮫から距離を取ると、空気に感謝しながらそれを存分に身体の中に取り入れた。
「ゲホッ、ゲホッ! ハァッ、ハァッ! ……あー、苦しかった」
呼吸で態勢が崩れている内に鬼鮫は追撃する。
「……これも駄目ですか。ならば、『水遁・水中潜航』」
鬼鮫の身体が水中に引きずり込まれるように消えた。いや、消えたように見えただけで、鬼鮫自身は湖の中を早苗が自由に空を飛ぶように自由自在に動いている。
水面ギリギリにとどまっている早苗の足首を掴むと、力一杯に引きずり込んだ。湖の下では何匹もの鮫がエサが落ちるのを今か今かと待っていた。
(うわぁ、人間がやることですかコレ)
急に水中に引きずりこまれたので息が苦しいが、鮫が噛み付いてくる前に懐からスペルカードを取り出すと、すぐさま発動させる。
「秘術『グレイソーマタージ』」
早苗を中心に星型の光る弾幕が展開して、合図とともに四方八方に飛び散る。その様子を鬼鮫はただ黙って見ているしかなかった。
色とりどりの光弾は泳ぎ回る鮫に次々に当たり、その威力に耐えきれなくなった鮫から煙と共に消えていく。
「……一体、どうやったらあなたを倒せますかねェ」
早苗が息継ぎのために水面に上がると、鬼鮫も音もなく水面上に上がって足をつける。
「面白いですね! 鬼鮫さん!」
(水牢鮫踊りの術でも使えれば、いや、先程と結果は変わりませんね)
「こちらとしましては、ここまでやってほとんど無傷の人は初めてですよ。笑えません」
鬼鮫は会話をしながらも、ごく自然の動作で印を素早く結んでいく。
「『水遁・水鮫連弾の術』」
水面から鮫の形をした水弾が何発も発射される。岩をも砕くその鮫は次々に弧を描くように飛んで早苗に襲いかかる。
高速飛行で避けていく早苗。しかし、縦ではなく湖に対して並行に移動したので完全に避けられず、トビウオのように飛んでくる鋭利な牙が空飛ぶ少女の衣服をわずかに切り裂いた。
「蛙符『手管の蝦蟇』」
一撃でも当たると決着がつくと判断した早苗は手のひらに小さな蝦蟇を顕現させる。神の力が宿った蝦蟇はゲコッ、と鳴くと眩く光り爆発した。
爆発の規模とは裏腹に音はせず、代わりに中に詰まっていたエネルギーが早苗を中心に広がる。目に見えるエネルギーは水の鮫を破壊して元の水に戻していく。
それを見ていた鬼鮫は印を結びながら、
「……どれだけの手札があるのやら、『水遁・千食鮫』」
手のひらが水面に触れると、触れた水だけでなく鬼鮫の周りの水が全て鮫に変わっていった。数えるのがバカらしくなるその鮫たちは本当に生きた鮫のように暴れまわりながら、距離を詰めていく。
早苗は迫り来る鮫を足元に少しだけ高度を上げて、スペルカードを取り出す。あまり周りを巻き込みたくなかったが、仕方ないと早苗は心の中で思い、それを詠唱する。
「奇跡『客星の明るすぎる夜』」
早苗の頭上に後光のように白く光る大きな光の玉が出現した。それを見た鬼鮫は鮫を操り、水の高さを上げて鮫の津波を早苗にぶつけようとする。
光の玉から何十もの光のレーザーが向かってくる鮫に浴びせられた。レーザーが当たる度に鮫は消えていくが、数が多く少しでも弾幕を緩めると、水の牙が早苗に襲いかかる状況だ。一番近い鮫を優先しながら、かつ追い込まれないように一定の距離を保ち続けた。
時間にして一分にも満たないわずかな時間だったが、早苗はほぼ全ての鮫を消し去っていた。だが当然というべきか、鬼鮫は影も形もなく消えていた。
「あれ? あの人はどこに?」
姿が消えた鬼鮫を必死に探すが、水中にでも隠れたのか水面上にはどこにも見当たらない。潜って探すのは相手の土俵に無防備に上がるのと同じだ。水面に広がる波紋一つさえ見逃さないように全神経を集中させた。
その時、早苗の後方からバシャン、と水音がした。反射的に振り向いて光弾をそこに浴びせると、水でできた鮫が元に戻る様が見えた。
そこへ音も無く近付いた鬼鮫が早苗の首に手刀を当てる。
「ギャン!?」
手刀の威力がイマイチだったのか、早苗が丈夫だったのかは誰にも分からなかった。早苗は首の後ろを押さえて、鬼鮫に向き直る。
身体に限界がきているのか、節々を抑えて息も上がっている。それでもその目は、目の前の相手を見据えていた。
(なぜ倒れないのです?)
諦めない早苗を睨む鬼鮫にグラリと倦怠感が襲いかかる。膨大なチャクラが底をついてきたのだ。鬼鮫は思わず片膝を水面についた。
(……私も限界でしたか)
鬼鮫は残るチャクラの量とそれで繰り出せる術を考えてから、早苗の今までの戦いぶりを見て、彼女との空想劇を思い描いた。
これと言える術が残っていないでもないが、どうしても早苗を水面につける図が浮かばない。それに、まだまだ隠し球を持っていそうな相手にこれ以上の戦いは無用と判断した。
「……参りました」
突然の降参に拍子抜けしたのか、早苗はお祓い棒を両手で軽く握って、
「ええっと、今参ったって言いました?」
「はい、参りました。これ以上は限界なので」
「う、嘘じゃありませんよね?」
「はい」
「いやったァーーーッ!!」
両膝を曲げて飛び上がる早苗。顔に浮かぶ満面の笑みは、高い壁に阻まれていか困難を超えた達成感と安堵の表情が伝わってきた。
息が落ち着いてきた頃に、デイダラがこちらに歩いてきた。
「鬼鮫の旦那、残念だったな」
「そうでもありませんよ、参考になったこともありますし。それに、お互いに本気ではなかったので」
それはデイダラにも何となく分かっていた。前に出会った妖精は草木を軽く薙ぎ倒す光弾を容赦なく放ってきた。目の前で子どものように跳ねて喜んでいる少女も、鬼鮫との戦いからそれぐらいは容易いことだろう。
周りの被害を抑えるためにわざと弱く撃っていたと見るべきだ。
「本気になってしまったら、それはもう手合わせではないですからねェ」
「旦那もまだチャクラは残ってると思うが、それで終わりそうには見えなかったからな。うん」
そうですね、と答えた鬼鮫はいまだにはしゃぐ早苗の元に近寄る。
「早苗さん、一つ聞いてもよろしいでしょうか?」
「は、はい! 何でしょう!」
ビシッと姿勢を正す早苗。はしゃぐ姿を見られて恥ずかしかったのか、若干顔も赤い。
「あなたはこの幻想郷の中でも実力があるとおっしゃっていましたが、あなた以上の強さの人はいるのですか?」
早苗は一度微妙な顔をして、すぐに取り繕った。
「あー、まぁ、いないと言えば嘘になりますね。博麗神社の霊夢さんとかほとんど負けなしですから」
「あんた以上のがいるのか。全く、嫌になるぜ。うん」
「同意見です」
さて、と言ってデイダラは膝を叩いた。日もまだ比較的高い位置にある。
「イタチの野郎がここにいねーならオイラたちはもうここに用はねーな。早いとこ、博麗神社ってところに行くか」
「そうですか、最近妖怪の山が何か怪しいので気をつけて下山してくださいね」
「そういえばデイダラさん、アナタの粘土があればロープウェイに乗らなくてもよかったんじゃないですか?」
「……鬼鮫の旦那、そう言われればそうだが」
それは一度はデイダラも考えたことだったが、
「空から来てここに着けるかどうか分からないし、何より
デイダラが思い出すのは空まで追いかけてきた風見幽香だ。彼女だけでなく幻想郷の住人のほとんどが空を飛べると知ったデイダラには彼女たちに対するアドバンテージは無いにも等しい。
鬼鮫は今まさに空を飛んだ早苗を見て納得した。好戦的な住人とぶつかれば、戦闘を避けるのは難しいだろう。
思考の海に潜っている鬼鮫にデイダラが近寄り小声で話しかける。
「旦那、アレを出すとしたらこの山を下りてからでいいか?」
「そうですね、これ以上何かを見せると彼女がうるさそうですから」
「えっ? 何か言いました?」
「いいえ、何でもありません」
それでは失礼します、と鬼鮫は一言残して境内に歩いていく。
「おや、もう帰るのかい? もう少しだけここにいればいいじゃないか」
突如、声をかけられた二人は辺りを警戒して見渡すが、二人の他には早苗しかいない。探しても誰もいないことにデイダラは声を荒らげた。
「どこにいるんだ!? うん!!」
「探したって無駄だよ、今あんたたちには見えないようにしているからね」
声の正体を知っている早苗はハァッ、と大きなため息をついて、
「諏訪子様、お客様を驚かしてはいけませんよ。ウチはただでさえ参拝客が少ないんですから」
「早苗、ちょっと試しただけさ。それに早苗と戦っていない方もデキるよ。なかなかの実力を持ってる」
目を防がせる程の強い風がビューッ、と吹いて二人が伏せていた視線を戻すと、空中に青と白の壺装束を着て、二つの目玉を付けた市女笠を被った少女が浮いていた。
その存在に気がつかなかったこともそうだが、目の前の少女から漂ってくる並々ならぬものが二人に棘のように突き刺さる。
「やはり、あなたたちは油断ができませんね。姿を現わすまで気配すら悟らせないとは」
鬼鮫の小さい賞賛に諏訪子は「神様だからね」と笑って返した。
「諏訪子様、神奈子様は今どちらに?」
「神奈子か? 神奈子なら天狗の会議に出るとか言っていたけど、もうすぐ帰って来るんじゃない?」
諏訪子がカエルの歌を歌っていると、訝しげな顔をしたデイダラが、
「なぁ、あんたすごい偉そうにしているが何者なんだ?」
諏訪子は自分の首にまで届きそうな長い舌をチロチロと出すとデイダラをからかうような表情になり、
「私かい? そういえば名前を言ってなかったね。私は洩矢諏訪子。この神社に祀られている神様さ。ところで早苗、ご飯はできてるんだって?」