「仇?」
鬼鮫は顔を傾げる。霧の小さい水滴が少々煩わしいと感じていると、
「ええ、そうよ! 私は今泉影狼! 友達がアンタのせいで怯えながら過ごしているのよ!」
影狼と名乗った少女は全身に生えたフサフサの毛と尻尾を逆立て、握り締めていた両手をわずかに開いて今にも飛びかかりそうな姿勢をとっている。
「誰かと間違えてはいませんか?」
「しらばっくれないで! あんたがこの湖に変な魚を放ったんでしょ!」
鬼鮫はこの湖でいくつかの忍術を使ったことを思い出す。
鬼鮫は幻想郷でも忍術が使えるかどうか試した時に鮫を口寄せしていた。鮫が目の前の犬耳少女が言う変な魚かどうかは分からないが『口寄せの術』を使ったのは後にも先にもその時だけだ。
「そういえば、鬼鮫の旦那は前に『口寄せの術』を使ったって言ってたな、だけどあれはもう––」
消えたはず、とデイダラが言う前に影狼が食ってかかる。
「そのせいでわかさぎ姫が怖がって湖の中に入らなくなったんだから!」
「それ、死んでねーじゃねーか。うん」
「そうはいかないの! わかさぎ姫は人魚よ! 地上に居続けることがどれだけの苦痛かあんた達に分かるの!」
私も分からないけど、と小声でつぶやく影狼。興奮して天を突くように立っていた犬耳と尻尾もシュンと萎れる。
「なるほど、そういうことでしたか。たしかに私はこの湖に鮫を口寄せしましたが、もう湖に鮫はいませんよ」
「嘘よ!」
「いいえ、本当です。鮫は淡水では生きられないのでたとえ湖にいても数分ともちません」
鬼鮫の言っていることは事実だが、影狼は全く信用せず今にも噛み付きそうな姿勢をとっている。
鬼鮫は肩を落として仕方ない、といった顔をして、
「第一、どうやって私だと決め付けているのか、そちらの方が疑問に思います」
「狼の鼻を舐めないで! わかさぎ姫が湖から飛び出したあの時に私は近くにいたの!」
「そして、その時に匂いを覚えてここに来た、と」
影狼がコクリと頷く。その仕草はまるで質問に正直に頷いてしまう子どものようだった。
「ならば、何故今の今まで追ってこなかった。貴様のその鼻があればすぐにでも鬼鮫を追いかけることが出来ただろうに」
鬼鮫と角都はそこが疑問だった。濃い霧に囲まれた湖周辺から的確に位置を把握したのだから、奇襲でも何でも出来たのではないか、と。
一方、影狼は角都の睨みに全身の体毛が逆立ち奥の木の陰に隠れた。
「もしかして他に鬼鮫の術を見てたんじゃーねーか? こいつは見た目はあれだがつえーからなァ」
「確かにな、鬼鮫の旦那は本気を出せば小さい町や田舎を水の底に沈められるからな、うん」
“暁”のメンバーはそれぞれが一人で国または国の代表である“影”を倒すことができる実力を持っている。鬼鮫は“暁”の中でも桁外れのスタミナと制圧力を誇る。
ただの一妖怪にしか過ぎない影狼が“暁”の中でもかなりの実力者の鬼鮫に到底敵うはずがなかった。
「今は雑魚に構っている暇はない」
「まぁ、そうですね。念の為に紅魔館からもう少し距離を取りますか」
「もう、あんな奴らと殺りあうのはゴメンだぜ。うん」
「けっ、あーあともう少しでジャシン様に贄を捧げることができたのによー」
「フン、奴等からの実力からして貴様では無理だ」
影狼をそっちのけに会話する元“暁”の四人。
闘いが日常の彼等にとって、敵はほぼ忍。影狼の立ち振る舞いから彼女が雑魚だと判断した彼等には、もはや影狼のことは眼中になかった。
『ねぇ、ちょっと、あの』
「だいたい奴等の能力がどんなものかさえ分かっていないのに何故ああも突っ込むことができる。貴様は猪か何かか?」
「んだとォーーッ!? 角都ゥーーッ!! てんめェーーッ!」
飛段が背負っている大鎌に手を掛けて怒りのままに角都に斬りかかろうとするが闘牛士のようにヒラリとかわされ、逆に硬い拳骨を叩き込まれた。土遁で強化はされていなかったが、“暁”の中でも力が強い角都の一撃は飛段を昏倒させるには充分だった。
「またいつものことですか。毎度毎度飽きませんかね? それ」
「フン、こいつは馬鹿だからいつまでも学習しない。それだけだ」
『ねぇ、わだしの話、聞いでよ』
「それに今ジャシン様に捧げなきゃいけねーのは、あの館にいたあのガキだ! アイツを贄として捧げればジャシン様は過去最高にお喜びになるに違ェーねーんだ!」
昏倒から復活し、今もなお曇っている灰色の空に両手を広げる飛段。その顔は恍惚とした表情と溢れ出る唾液でくしゃくしゃになっている。そこにどんな快楽を見出しているのかは彼自身にしか分からない。
他の三人はそんな飛段の姿をなるべく視界の中に入れないようにした。
「うぐッ、ヒック、ウワァーーーン!! 私を無視しないでーーーッ!!」
ついに影狼は目尻に溜めた涙をポロポロとこぼしながら、四つ足で森の中へと消えた。
「鬼鮫の旦那、これ傍から見ると浮気の現場を見た女が逃げていくみたいだ」
「それはやめて欲しいですね」
「フン、金にならんことはどうでもいい」
「あぁー角都。てめーは黙ってろよ。口を開いたらいつもそれじゃねーか。やっとあのクソリーダーから解放されたってのにまたてめーのバイトに付き合わされるのは嫌だぜ。オレはこっちでジャシン教を布教するんだ。それにそろそろジャシン様に生贄を捧げねーとな」
飛段は目を閉じて両腕を上げて天に身体を預けるかのような姿勢になる。
「そうはいかない。向こうの世界でも敵は多かったが、この幻想郷は向こうよりも油断ができない。休息を取れる場所は確保しておいた方がいい」
「あぁー? 何だ、それはオレがやられるって言ってんのか?」
「お前はもうここに来て三回は死んでいる。
それに幻想郷に住む奴等は必ずしも真正面から闘ってくるとは限らない。いくらお前でも攻撃にハマってしまえば終わりだ」
角都は馬鹿にしたような視線を飛段に向ける。
「ん、んだとゥ!? てめーもういっぺん言ってみやがれ!」
「お前は簡単に死ぬ、と言ったんだ」
角都の吸って吐くように言った言葉に飛段は背中の大鎌に手を伸ばした。額には何本もの血管が浮き出ていて、ピクピクと脈を打っている。
鬼鮫とデイダラは二人を別段止めようとする気配がなかった。“暁”にとってこの二人のやり取りは日常に過ぎなかったからだ。
飛段と角都はその後、十数分の口喧嘩をして終いには十本近い木をなぎ倒す程の大喧嘩にまで発展し鬼鮫とデイダラはいつものことだ、と思いながら河童達のアジトへと向かった。
◇◆◇
「あーあー、何か手掛かりでもあるんじゃねーかと思ってたあの館は結局何もなし。やってらんねーぜ」
湖からしばらく歩いて河童のアジトの前に来た四人。だが、その目と背中には疲れとわずかな失望が感じ取れた。
飛段の愚痴がだんだんと大きくなり、角都が殴って止めようと思ったその時、アジトの中から騒がしかい声が聞こえてきた。すぐに異変に気が付いた四人は無自覚に目を細める。角都が用心深く近付くと騒ぐ声はより鮮明になってきた。
「おいおい、あの館の次はこっちかよ!」
「飛段、黙っていろ」
「全く、少しくらいは休ませて欲しいですね」
「それは同意見だな、うん」
臨戦態勢になった角都は身体中からひじきのような黒い触手を出して音もなくアジトの前に走った。
鬼鮫、デイダラ、飛段も角都の後に続いてアジトの入り口近くの岩盤に背中を当てて中の様子を伺う。鬼鮫が耳をすますと聞こえてきたのはにとりの声だった。
『違ーう! 盗んだのは私じゃなーい!』
聞こえてきた内容から異常事態が起きたことを察した四人がにとりの声のする部屋へ走って飛び込むと、そこにはサソリに襟首を掴まれて持ち上げられたにとりの姿だった。サソリに表情がないが、その無言の顔からは怒りの情がありありと伝わってきた。それを見て鬼鮫は、
「一難去ってまた一難、ですか」
鬼鮫の面倒臭そうな呟きは空へと消えた。