【IS】 転生したので普通に働こうかと思う   作:伝説の類人猿

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次回はISがメインのお話になる予定です。
また、話の中に出てくる情報が間違っていたら教えてもらえるとありがたいです。


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「あれ、珍しいですね。山田さんがここにいるのは」

 

今日は港の倉庫街の掃除をしていたのだが、珍しいことに山田さんがいた。

山田さんは基本的に一年一組につきっきりだからめったにこういうところには来ないのだ。

俺はこれでもIS学園の色々な場所を掃除しているのだが山田さんは職員室以外で見ることはほとんどない。

 

まぁそれに一組には世にも珍しい男性適合者がいっぱいいるしな。

多分国からなんかいろいろと言われていて目を離せないんじゃないかな、と俺は勝手に予想している。

 

「あ、清掃員さんじゃないですか。お仕事ご苦労様です」

 

「いえいえ、これが本業ですから。・・・ところでこんなところで何をしているんですか?」

 

今は夏真っ盛りなので倉庫街はものすごく暑い。正直言ってこんなところに長居はしたくないな。

まだ掃除を始めて三十分もたっていないのに俺はもう汗びっしょりだ。

 

「実は今日研修会があるんですよ」

 

「研修会?」

 

「ええ。IS学園はその名前の通りISに関する技術や知識を学ぶための場所ですが必ずしもそこに通う生徒がみんなISに関係する職に就くわけではありません。やっぱりキャリアウーマンになる生徒もいればお医者さんになる生徒もいるわけなんです」

 

「まぁ確かにそうですね」

 

必ずしも蛙の子が蛙になるわけではないっていうことだな。

 

「そこでIS学園は様々な企業に頼んで年に数回ここで研修会を開いてもらっているんです。実際に普段の仕事の一部を体験させてもらったり講義をしてもらっているんです」

 

本当は私たちの方からお邪魔しないといけないんですけどね、と言いながら山田さんは苦笑する。

まぁ色々と問題があるんだろうなぁ。

俺はあんまり感じることはないが一応ここってISという超兵器が数十台もあるところだし生徒の警備の問題なんかもあるんだろうな。

 

「今日は日産さんの方たちが来てくれることになっているんです。あ、船が来ましたね。なんでも今日は座学だけでなく実技の方もしてくれるみたいです。内容は確か・・・エコカーに関するお話だったはずです」

 

山田さんの向いている方向を見ると一隻の船が港に入港してきた。

 

「あ、積み荷を降ろし始めましたね。それじゃぁ私はこれで。これから社員さんたちに色々と説明をしなければならないので」

 

「あ、はい。お仕事がんばってくださいね」

 

はい!と元気よく返事をしながら山田さんは船の方へと向かっていった。

 

しっかし企業自ら教えに来るのかぁ・・・。

やっぱり整備課の生徒たちを取り込みたいんだろうなぁ。

なんか技術力高そうだし。

 

よほど力を入れているのだろう船からは社員だけでなく車まで降ろされてきた。

と、その中の一台に気になるものを見つけた。

 

「あれは・・・」

 

白と肌色のちょう度中間のような色をした軽自動車ほどの大きさの車が船から降ろされていた。

 

「・・・”たま”か」

 

その自動車は終戦直後に生産された電気自動車である「たま電気自動車」であった。

 

*****

 

一九四五年八月十五日昭和二十年の昼、約三年ほど続いた太平洋戦争(大東亜戦争ともいう)は終わりを迎えた。

 

それは同時に連合国軍と枢軸国軍の戦いの終わりも意味しており、また同時に新時代への移り変わりも意味していた。

 

終戦後日本にアメリカを主軸とする連合国軍が上陸。

GHQの監視下の徹底的な日本の軍事力の解体が進められた。

武器、兵器に関する工場などはすべて連合国によって接収、事実上そこで働く人々は解雇となった。

当然のことながらそれには航空機産業も含まれる。

 

立川飛行機もそれに含まれていた。

立川飛行機は終戦まで活躍していた飛行機会社である。

赤とんぼで知られる九五式一型練習機や隼などを手掛けた会社だった。

 

工場を接収され働き口を失った立川飛行機の社員たちは各自で新しい働き口を探すしかなかった。

 

そんな中、外山保試作工場長や田中次郎技師らが中心となって設立した会社が「東京電気自動車」だったのだ。

 

ブリヂストンや日立の協力を得て一九四七年四月、紆余曲折を経て記念すべき第一号となる「たま」号を発表する。

車種は乗用車型とトラック型のツータイプがあった。

 

「たま」が作られた背景には当時の日本のエネルギー事情があった。

終戦直後の日本には民間に供給できるほどの石油がなく、ガソリン自動車の代わりに木炭自動車がのろのろと道路を闊歩していたのである。

 

が、しかし石油はなかったがかわりに山間部のダムから発電されている電気はかなりの量があった。

戦後の日本ではガスや石油がなかったため代わりに電気を使った調理器具などが広く普及することになる。

ある意味これが後の電化製品の発展につながったのかもしれない。

ともかくこのことに目を付けた東京電気自動車は「たま」の開発を進めたのである。

 

当時は「たま」以外の電気自動車も存在していたが「たま」は他の電気自動車に比べ抜きんでていた。

 

最高速度は三十五キロ、航続距離は六十五キロ。

当時としては非常に優秀な記録だった。

 

そしていよいよ「たま」電気自動車が発売されることになった。

価格は四十五万ほどとなかなかに高額ではあったがガソリンを使わず、性能も良いことからかなりの数が売れたのである。

こうして電気自動車が主流になるかと思われたのだが、一九五〇年「朝鮮戦争」の始まりと共に軍需資材の高騰が始まりバッテリーを作るのに必要な鉛の価格が約一〇倍近くにまで上がり利益を出すことが難しくなっていった。

 

また、アメリカからの石油が解禁されるとともにガソリン自動車が息を吹き返し始めますます電気自動車は競争力をなくしていくのである。

そうして徐々に電気自動車はその姿を消したのだった。

 

東京電気自動車は、たま電気自動車へと社名を変更。

さらにプリンス自動車工業へと社名を変えその後も様々な自動車を作り上げていったのだがコストを無視した開発重視の姿勢により長く経営難になり一九六六年、日産と合併しその歴史を終えたのだった。

 

*****

 

「あんなにかわいい車にそんな歴史があったんですね・・・」

 

「俺のお爺ちゃんがよく「たま」の話を聞かせてくれたんです」

 

もっとも前世のお爺ちゃんだが。

なんでも曾爺ちゃんとの思い出の車だったらしい。

モノクロの写真を見せながら熱心に俺に「たま」の話をしてくれた。

 

「それで準備の方は終わりそうなんですか?」

 

場所は港の倉庫街。

山田さんが社員の人たちに説明をしに行ってからもうすぐ一時間は経とうとしている。

なんでも生徒たちに見せるために持ってきた自動車が夏の暑さに負けてエンジントラブルを起こしたらしい。

 

「もうすぐだって言っていたんですけどね・・・もうちょっとかかりそうですね」

 

山田さんは苦笑しながら積み荷の運ばれた倉庫の方を見る。

まだ工具の音がしているのを考えると直っていないらしい。

 

「まぁ研修が始まる時間まであと一時間はありますしまだ余裕はありますけどね」

 

「早めに来てもらってよかったですね」

 

あと一時間もあるのなら多分何とかなるんじゃないかな。

それに最悪直らなかったらその車は出さないで研修を行えばいいんだし。

ちなみに山田さんは特に手伝えることがなかったのでおとなしく俺と雑談をしているのである。

もちろん日陰で。

だって日なたは熱いし。

 

「それにしても終戦直後にはもう電気自動車があったんですね」

 

感慨深げに山田さんは呟く。

 

「”たま”は今の日本の電気自動車の基礎を築いたと言っても過言ではないでしょうね」

 

きっとそれらの技術はどこかで確実に受け継がれているのだろう。

ひょっとしたら身近なものにその技術は使われているのかもしれない。

 

「あ、直ったみたいです!」

 

「故障したのはアレだったのかぁ。どうりで修理に時間がかかるわけだ」

 

倉庫から社員さんたちの歓声と共に静かに出てきた車は今しがたまで話していた自動車、たま電気自動車であった。

 

夏の強い日差しを受けながら音もなくスムーズに走るその姿は俺の心に強く残るのだった。




さてはて次の投稿はいつのなってしまうのやら・・・。
なるべく早く投稿しますね・・・。
あ、そう言えばISの生みの親がいまだに出てきていない・・・。

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