全て、奪われた
寛永六年(1629年)九月二十四日
この日、駿府城南広場にて
通常の武芸上覧試合では木剣を用い、直接身体に打突する事は許されない。
御前試合に選ばれる程の一能の士を損失する事は、全くの無益だからである。
しかし、
駿府藩主“駿河大納言”徳川忠長は
兄、徳川家光に将軍職を奪われた自身の境遇を。
祖父、徳川家康が最も愛したこの駿府城を。
当代将軍家光を傾けんが為、連判を問い、それを拒否した諸大名を。
天下への野望の為に集められたはずの剣士達の渺渺たる有様を。
出場剣士十一組二十二名。
城内南広場に敷きつめられた白砂の庭で、様々な運命、恩讐、因縁にて集った剣士達が
この魔王の激情を鎮める為その命を散らしたのだ。
凄惨な真剣試合の結末は、手島竹一郎氏家伝『駿河大納言秘記』にて伺える。
敗北による死者八名
相打ちによる死者六名
射殺二名
生還六名、内二名重傷
魔王の生贄となった剣士達の戦いで白砂は血の海と化し、死臭があたりに漂い、見物した侍ですら嘔吐する者もあった。
しかし忠長は終わりまで平然とその試合を見届けた。
あまりにも無惨な結末を迎えたこの饗宴は、後に公儀により厳しい詮議がかかり、その追求は忠長に招かれた大名家の重鎮らにも及んだ。
藩主自ら陪観した肥後熊本藩主、加藤忠広などは領国を没収されている。
そして駿河駿府藩も改易となり、駿河大納言家は取り潰し。
忠長は将軍家光の命により自刃を申し付けられ、その驕暴な生涯に幕を閉じる事となる。
真剣試合に全てを賭して戦った者達の悲哀。
勝利し、生き残った者が得た物は何だったのだろうか。
そして、その生き残りも後に因果な運命に翻弄されるとは。
御前試合の出場剣士達に穏やかな終わりなど無かったのだ。
“武士道とは
残酷な御前試合が残したのは、強烈な階級社会の元で生まれた狂気と悲劇のみであった。
隻腕の剣士藤木源之助は父であり師である岩本虎眼の仇敵、伊良子清玄との真剣試合に臨んだ。
御前試合第一試合で組まれたその一番へ向かう源之助と虎眼の一人娘、岩本三重。
伊良子に勝利した後、三重と“重なり合う”という神聖な約束を交わした若き男女の姿は、龍門に挑む鯉の如く美しく、尊いものだった。
白砂の庭で再び宿敵を見つめる源之助。
桜吹雪の中でやっと……やっと三重と心をつなぎ合わせた源之助が、乙女の胸の内に潜みし魔を断ち、永久の契りを交わすべく運命の妖刀を引き抜く。
“虎殺し七丁念仏”
岩本虎眼が主君である安藤直次から拝領したこの刀は、田宮流の祖、田宮対馬守長勝が辻切りにて斬り試しをしている。
斬ったはずの乞食坊主が血の一滴も垂らさず、念仏を唱えながら七丁(約700m)も歩いた後、血を噴き出した事から“七丁念仏”と名付けられた。
拝領の際、虎眼はこの刀を名刀業物では無く所持した者に災いを振りまく妖刀と断じている。
そしてそれを証明するかのように岩本家は廃れた。
それまで“七丁念仏”と言われていたこの妖剣は、虎眼の死からは“虎殺し”の名前が付け加えられた。
相対する清玄も自身の愛刀“備前長船光忠
「一」を得て天は清く──
「一」を得て地は安く──
「一」を得て神は霊となり──
「一」を得て王は万民の規範となる──
「一」とは即ち天下人の剣──
己の野心をも映すこの青白い刃の芳香を吸い込み、盲目の怪物は“必勝”の型を取る。
伊良子清玄の奥義“無明逆流れ”
みしり、と、清玄の全身から異常な程の力みが発せられる。
自身の裂けた足の指で剣先を万力が如く締め付け、体を限界まで捻りながら柄を握り、渾身の力を込める。
この異様な構えから発射される逆流れの剣速は、術理の元となった虎眼流奥義“流れ星”をも上回った。
“無明逆流れ”とは、かつて己の双眸を裂いた岩本虎眼ら虎眼流一門に復讐をする為、清玄の怨念が編み出した魔性の技であるのだ。
虎眼流の剣士達は次々とこの逆流れという魔剣の餌食になる。
牛股権左衛門、近藤涼之助、宗像進八郎、山崎九郎右衛門……そして岩本虎眼。
手練である虎眼流高弟達、そして岩本虎眼すら一撃で葬り去った逆流れに、唯一源之助だけが“生還”している。
寛永二年(1625年)
三重が藩庁に届け出た父虎眼の“仇討ち願い”により、源之助は清玄と立ち合った。
その際、逆流れに対抗すべく繰り出したのは虎眼流新奥義“
兄弟子牛股権左衛門と逆流れ対策で編み出した簾牙は、片手に構えた小刀にて下段から来る高速の逆流れを受け止め、もう片方に手にする大刀にて相手を打ち倒す対逆流れ必勝の技である。
しかし、伊良子の逆流れは
左腕からの多量の出血により倒れる源之助に代わり助太刀に入った権左衛門をも逆流れにて葬り、三重の仇討ちは阻止された。
相対するもの全てを一太刀で葬り去っている逆流れ。
まさしく、必勝の剣技である。
四年が経った今、源之助は再びこの魔性の剣と対峙する。
白砂の庭にて対峙する二匹の龍。
片腕を失う事で、その若い命を燃やす虎龍。
両目を失う事で、その野心を燃やす盲龍。
二匹の龍が再び噛み合ったその戦いは、終わってみればあっけない結末であった。
源之助は振り上げた七丁念仏を試合を見守るいく……かつての虎眼の愛妾で、現在は清玄の“おんな”である
源之助の魂が込められた七丁念仏の投擲は、盲龍の間合いを
間髪を容れず、脇差を抜いて伊良子の懐に飛び込み、かつて伊良子に打破された自身の得意技“鍔迫り”にてその胴を“
端から見ればこの試合は隻腕の剣士が刀の重量を支えきれず、刀を宙空に投げ出し……盲目の剣士はやはりあらぬ間合いで刀を振るったように見えた。
しかし、実際には壮絶な秘剣の応酬があった事は確かであった。
眩しすぎた──
源之助は、清玄に対しある種の友情を抱いていた。
かつては虎眼流後継者争いに敗れ、嫉妬心を抱いた事もあった。
一方で、決して武家社会という“身分の檻”に屈することなく自らの道を突き進み、登りつめていった清玄を誇りにさえ思えた。
憎しみを超え、屈折した友情は清玄も感じていた。
清玄は、過去に虎眼流高弟達が自身の知る“身分だけの侍”とは違うと気づき、仲間意識を抱いた事がある。
しかし、源之助のある一言により自身の生い立ちをまざまざと実感し、屈辱を味わう。
それから特に源之助には強い恨みを持っていた。
だが、源之助の実力は誰よりも高く評価しており、忠長や駿府藩重臣の前で源之助を侮辱された時は毅然と言い返しもした。
清玄の何者にも操られぬ自我は、あまりにも眩しすぎた──
眩しすぎたがゆえ、源之助は斬らねばならなかった。
清玄と出会った誰もがその輝きに心を奪われ、羨望が悪意に変わって清玄の双眸を斬り裂いたのではあるまいか。
源之助は斃れ伏す清玄を見つめ、そう想っていた。
投げつけられた七丁念仏を自身の喉に当て、
その表情は、自身のむざんな宿業から解放されたのか、穏やかなものであった。
三重は──源之助が勝利した姿を見て、自身の深部に潜みし“魔”が跡形もなく消滅していくのを感じ……両の眼から涙を流していた。
全てが終わった事で、乙女は本来の清らかな心を取り戻していたのだ。
「藤木源之助!」
試合を観戦していた忠長に何事かを囁かれた家老、三枝伊豆守が源之助へ声を掛ける。
「よくぞ清玄を成敗致した! 当道者の分際で神聖なる駿府の城へと踏み入れたる無礼! 近々御殿自らお手打ちになさる所存であった!」
そして、源之助は伊豆守が次に発した言葉に我が耳を疑った。
「獄門(晒し首)に処すゆえ……直ちに清玄の首を切り落とせ!!!」
源之助は伊豆守の言葉が理解できなかった。
清玄は……伊良子清玄は、源之助の“誇り”だ。
決して他者が踏みにじる事は許されない、源之助の“誇り”そのものだ。
なのに、何故、清玄がそのような恥辱を受けねばならぬのか。
ドクン、ドクン、と、源之助の鼓動が高鳴る。
伊豆守の言葉受けても、源之助は動くことが出来なかった。
「藤木源之助! 合戦の場で敵の
伊豆守が言葉を続ける。
「
(
その後も伊豆守が何事かを叫んではいたが、源之助の耳には入って来なかった。
ただ、士という言葉だけが、源之助の体内で反芻されていた。
『藤木源之助は生まれついての士で御座る。士は貝殻の如きもの──士の家に生まれたる者の成すべき事は──』
『お家を守る。これに尽き申す』
かつて清玄に言い放ったこの一言。
清玄に屈辱を与えたその言霊は、源之助の心の奥底へと埋伏していた。
そして再び源之助の心に現れ、“身分の檻”へと捕らえていた。
緩々と、納めた脇差しを再び抜く。
そして、清玄の首に刀を当てた。
源之助は片腕で鉈を圧し当て薪を切る程の剛力を持っていたが、この時は赤子の如く僅かな力しか発揮出来なかった。
蒼白となって震え、鋸のように刀を押し当てる事しか出来なかった。
自分の細胞が、大事な感情が次々と死滅していくのを感じた。
バキュッっと、生々しい音が白砂の庭に響き渡った。
胴体と離れた清玄の首を、源之助は忠長らの前に掲げた。
その表情は、幽鬼の如く生気を感じさせない。
“身分の檻”が、源之助の心を壊していた。
「計らえ」
忠長はただ一言、そう呟く。
それを受け、伊豆守は再び源之助に言葉をかけた。
「藤木源之助! 此度の働きにより、御殿より有り難き
伊豆守が手にした扇子を源之助に指しながら言葉を続ける。
「格別の計らいを持ってその方を駿府家中に召し抱えて遣わす! この大恩をゆめ忘れる事無く、本日只今より御殿に命を奉るべし!」
源之助は、平伏しつつ、嘔吐した。
全て奪われた──
源之助に残ったものは、約束だけだ。
乙女との、神聖な約束が──
幽鬼の様なおぼつかない足取りで、三重が控える虎口の間へと向かう。
「三重様……」
三重は源之助の貝殻が再び“権威”という魔に染まったのを見て──
懐剣を自身の喉に突き立て、果てていた。
武士道は、士とは。
かくも如くこのような悲劇しか生まないのであろうか。
散らさずともよい、若い命を捧げてまで、士とはお家の為に尽くさねばならぬのであろうか。
お家を守る為ならば、己の何もかもを捧げなくてはならないのだろうか。
源之助は倒れ伏す三重の亡骸を、その一つしかない腕で抱いた。
ふと、顔を上げると、源之助は薄っすらと……虎眼の姿を幻視した。
虎眼は哀しみに満ちた眼差しで源之助を見つめていた。
「虎眼先生……」
源之助は、しばらくそこから動く事は出来なかった。
乙女と、師匠の想いを感じ、動く事が出来なかった。
駿府藩士、
美菩薩は“虎殺し七丁念仏”の剣先を抱え、自分の喉を切っていた。
静十郎はその不憫な姿を憐れんで静かに手を合わす。
「なんとも……憐れな結末になったものじゃ」
反対側の虎口では、藤木源之助の許嫁である岩本三重までも自刃して果てていたという。
仇を討った。
だが将来の妻をも失った若い士の胸中は、察するにあまりある。
しかし、この悲劇は文字通りまだ序の口に過ぎない。
この後控える十組の剣士達も、忠長の為にその命を散らす事になっているのだ。
静十郎は沈鬱な気持ちを払うように、菩薩の亡骸を見やる。
七丁念仏にて深々と切り裂かれた菩薩の喉を見て、静十郎は増々気分を沈ませた。
「せめて、綺麗なまま弔ってやらねばなるまい」
静十郎は菩薩の亡骸をそれ以上傷つけないよう、丁寧な手つきで七丁念仏を手につかむ。
しかし……
「な、なんと!?」
柄を掴んだと思ったら、
「な、なんとしたことじゃ! かように面妖な事が起りえるのか!?」
やがて、七丁念仏は静十郎の目の前から消え去った。
ありえない事象を前に静十郎は蒼白となり、恐怖から一歩も動けずにいた。
もし静十郎がその場で顔を空へと向けていたら、空中に
しかし、目の前の現実を受け止めきれない静十郎にはその赤い珠を見ることはかなわず。
また、忠長以外の駿府城にいる誰もが御前試合による凄惨な結末に気分を沈ませ、顔を上げようとはしなかった。
故に空中の赤い珠には誰一人気付く事は無かった。
そして、七丁念仏が消えた後、追いかけるかのように赤い珠も静かに消え去った。
妖刀“虎殺し七丁念仏”
まるで、
その妖しき刃に更なる血を吸わせる為
妖刀は、異世界へと時空を越えて飛ぶ。
かつての主人の元へ引き寄せられるかのように──