甲龍歴417年
ブエナ村
ウィリアム・グレイラット八歳の時分
「えへ、えへへ……ルディったらもう……ダメだよぉ、そんなところ……えへへへへ……」
シルフィエットが時折このような妄想にふけるのを、見て見ぬふりをする情けがウィリアム・グレイラットにも存在した。
背中越しに悶えるシルフィエットの声を受けつつ、ウィリアムは本日の夕餉用の野草を黙々と摘んでいる。
ブエナ村に流れる用水路は、長閑な村の様子と比例するように、穏やかな水の流れを保っている。
その川べりにて、ウィリアムは腰を落とし、籐籠へ食用野草を採取していた。
(それにしても……)
ちらりと緑髪の少女の姿を見やる。
何やら幸せな妄想に浸っているのか、もじもじと両手を合わせ、ぴこぴこと両耳を揺らすシルフィエット。
それを見たウィリアムは、なんとも長閑な光景に毒気を抜かれるばかり。
(……)
だが、それは存外に心地良い風景でもあり。
前世での人生。
幾度となく繰り広げた峻烈な真剣勝負はもちろん、生き馬の目を抜くような殺伐とした武家社会、そして残酷なまでに強烈な階級社会を生き抜いて来たウィリアム。
兵法家として名を上げるべく、濃尾一帯にてその剣名を轟かせていたかつての自分に、果たしてこのような安らかな時はあったのだろうかと。
慈しい所だ。
この世界は。
かつての虎を知る者が見れば、紛うことなき別人となったウィリアム。
外面はもちろん、内面もまた前世とは比べ物にならぬほど穏やかなものへと変質していた。
それは、今生で出会った人々──家族が、虎に慈しみの心を与えていたのだろう。
パウロ、ゼニスら両親からの惜しみのない愛。
リーリャによる、家族として認めあった親愛の情。
幼い妹達……ノルンやアイシャからの、混じりけの無い、純粋な信頼。
兄のルーデウスは……恐らく、いや間違いなく自分と同じ前世がある、それも同じ日ノ本の人間だろう。それ故、互いに妙な距離が出来てしまったが……
(いずれは胸隠さず、素直な心を開陳したいものよの)
虎眼流術理の秘匿という観念から、兄ルーデウスとの日本語での会話は拒絶したウィリアム。
しかし、術理というのは日進月歩。
他流の技を盗む事もあれば、逆に盗まれる事もある。
むしろ、己が練り上げた虎眼流もまた、他流の良き所を学び、取り入れて“深化”してきたのだ。
この異世界の剣士達が、虎眼流を盗むのも、ある程度は止められないだろう。
(もっとも……タダではやらぬが)
虎は僅かに前世での──魔剣豪の顔を覗かせる。
奥義を盗もうとする輩には、それ相応の報いを受けてもらう。
“伊達”にして返すのは、この世界に於いても“虎眼流強し”と流門の名声を高めるに至るだろう。
それに──
(闘気という摩訶不思議なる力……可能性は底しれぬ)
野草を摘みながらそうほくそ笑む幼虎。
魔力を源泉とした異能は、この世界では普遍的に扱われる能力である。
父パウロが巨木、巨石を一刀両断せしめたあの力。
前世に於いても石灯籠を一刀にて寸断せしめる技能を持つウィリアムであったが、そのような技量を持ち得ぬパウロですらいとも簡単にそれ以上の絶技を発揮していた。
そもそも、三大流派をそれぞれ上級まで修めたパウロの才能も並々ならぬものではあるのだが、それでも闘気という異能は、前世での剣技を凌駕せしめる、この世界での“可能性”だ。
兄ルーデウスは闘気を纏えない代わりに、その膨大な魔力量を魔術という才能で発揮している。
翻って、己には魔術の才は無い。しかし、兄ルーデウスと劣らぬ程の魔力量を備えているように思える。
その闘気を十全に虎眼流に取り込み、さらなる境地へと至らん。
虎は、技を磨くという、それこそ前世の若き時分以来の“感動”を覚えいた。この未知なる世界に剣ひとつで飛翔せんと、若き野心を滾らせる。
(……今はその時ではないがな)
とはいえ、それはもう少し後の事。
いずれブエナ村を出る腹積りではあるが、少なくとも兄ルーデウスの帰還を待ってからでも遅くはない。
(手のかかる妹達だが……長兄の顔を知らぬままなのは不憫……)
ウィリアムの脳裏に、幼い妹達の姿が過る。
妹達が赤子の時分には、散々世話を焼いていた長兄ルーデウス。
しかし、彼女達が物心が付く前に、ルーデウスはロアの街へ奉公する事となった。
流石に帰還するまで一切の連絡、里帰りをパウロが禁じたのは、ウィリアムも思う所があったが、家長の決定に異を唱えるつもりは無い。
パウロへはロアのボレアス家から定期的に連絡が入っているようだが、ウィリアムはパウロの意思を尊重し、実兄の現状を聞き出すような事はしなかった。パウロの様子を見る限り、ルーデウスに特に大事は起こっていないようだとも。
それに、シルフィエットの自立を促すというのも分からんでもない。近頃はルーデウスとの再会に備え、リーリャに礼儀作法諸々を習い、逞しく己を磨いているシルフィエットを見れば、ルーデウスと引き離した効果は如実に現れていた。少女の成長、
もっとも、父パウロのもうひとつの真意が、ルーデウスを遠ざけ娘達の愛情を独占するというしょうもない事なのも気付いてはいたが。そして、それは己のせいで目論見が潰えているのは、ウィリアムは気付かぬ振りをしていた。
ともあれ、兄も妹達も不憫ではあるが、しばしの我慢。もう二年もすれば、兄のボアレス家奉公の年季が明ける。
だからこそ兄が帰還した際、己が間に入り、妹達には存分に長兄に甘えさせるのだ。
過剰に懐かれているのに疲れているわけでは決して無い。
(……ボレアス家が余計な事をせねば良いが)
ふと、ウィリアムは兄の奉公先、ボレアス・グレイラット家の存在が、ルーデウスとシルフィエットの“恋路”の障害になるのではと懸念を抱く。
伝え聞く所、ロアのボレアス家は分家筋であり、男子が生まれた場合は本家へ差し出さねばならないとか。
分家の男子を本家で養育するのは、武家社会においても珍しい事ではない。しかし、一族郎党の結束を強めるという建前の向こう側に、分家の離反を防ぐ“人質”としての意味もあるのだろうとも、ウィリアムは看破していた。
分家、臣下が当主の家、または従属先の家へ男子を人質として差し出す例は、それこそ戦国の世では枚挙にいとまがない。
有名な所では、大坂の陣にて“日の本一の兵”とまで讃えられた真田幸村の存在がある。
幸村の父、真田昌幸は、生涯で七度も主君を変えた“表裏比興の者”と言われる程、戦国の世をその鬼謀にて渡り歩いていた。その“手段”として、幸村は各大名家へ人質として差し出され、人生の大半を他家の元で過ごす事となる。
幸村が信州上田に帰還し、第二次上田合戦に参戦出来たのも、人質先である豊臣家の混乱──太閤秀吉の死去というどさくさに紛れ、半ば強引に帰還できたからこそ。
通常、人質として差し出された男子が、無事に生家へ帰ってくるという事は、人質としての価値や意味が無くなった時でしかなく。
恐らくではあるが、ロアのボレアス家の元に、フィリップの子が戻ってくる可能性は限りなく低いだろう。
故に、ルーデウスの存在は、ロアのボレアス家にとって都合が良いと言えた。
ロアのボレアス家当主フィリップが
跡継ぎを奪われたフィリップが、本家筋への下剋上を企み、その旗頭としてルーデウスを担ぐという荒業を目論んでいたら。
フィリップには娘が一人いるという。その娘とルーデウスを婚姻させ、既成事実を作られては──所詮騎士階級でしかないパウロが異議を唱えても、もはやどうにもならぬのだろう。
(不憫だが……)
もしそのような事になれば……不憫だが、シルフィエットにはルーデウスの事を忘れてもらうしかない。
残酷ではあるが、それが貴族社会というものなのだ。
少数のサディストが多数のマゾヒストを支配するという階級社会の現実は、世界が変われど不変の事実であった。
「『シルフィ! 君はなんて魅力的な女性なんだ! 結婚しよう!』なんて言われてりして……えへ……えへ……」
どうやら妄想も佳境に入ったようだと、ウィリアムは見て見ぬふりを続ける。
しかし、この少女も随分と兄を気に入ったものだ。
自由恋愛とは程遠い世界で生きていた虎にとって、それはとても眩しく……慈しいものに見えた。
(せめて、何事もなく兄上が帰還し……再会するまでは、見守りたいもの)
実際はシルフィエットがウィリアムの保護観察めいた立場にいるのだが、ウィリアムにとってそれは瑣末事である。
兄の将来の嫁御としてシルフィエットを認識しているウィリアム。兄不在の間、シルフィエットの健やかな成長を見届けるのは、弟としての責務なのだ。
だからこそ、兄は無事に帰還せしめて欲しい。
この慈しいブエナ村に棲まう者達は、幸福な人生を歩んでもらいたい。
「くふ……」
思わず、自虐めいた笑いが溢れる。
刃向かう敵を十万億土へと送り続けて来たかつての自分。
その自分が、今更他者の幸福を祈るとは。
(いや……)
文字通り、自分は生まれ変わったのだ。
この異界にて虎眼流の意地を突き立てる。
しかし、あのような凶刃漢の如き振る舞いは、なにもしなくても良いのでは。
そして、前世の一人娘、三重。
跡目として迎えた、藤木源之助。
苛烈なやり方でしか接する事の出来なかった前世での家族。
あのような無残な関係は、もう二度とは──
「ウィルくん、私も摘むのてつだ──」
しばらく野草を摘んでいると、シルフィエットの声が聞こえた。
もう夕餉の分は十分採取しているので、それには及ばないと返事をしようとした。
その時。
光の津波が、地平の彼方よりウィリアムへ向け迫って来た。
「シル──」
守護らねば。
瞬時でそう判断した幼虎。
しかし、ウィリアムが動く暇も与えず、光の津波は無慈悲にその身を奔流に飲み込む。
「──ッッッ!!」
どこかへ引きずり込まれるような激しい流れ。ウィリアムの未成熟な肉体は、それに抗える事は出来ず。
耐えるという行為すら許されない、その理不尽な光の奔流は、幼虎の意識を一瞬で刈り取っていた。
「ッ!?」
一瞬だろうか。それとも、もっと長い時間、意識を落としていたのだろうか。
ウィリアムは落とした意識を覚醒せしめる。
もし、ウィリアムが置かれた状況が、もう少し
つまるところ、幼虎が覚醒せしめた原因は──
「ギッシャアアアアアアッッ!!」
「っ!?」
鋭利な爪による刺突。
眉間に放たれたそれを、ウィリアムは咄嗟に身体を転回させ躱した。
(何奴──ッ!)
地を蹴り、即座に襲撃者と距離を取るウィリアム。
辺りは暗闇に包まれており、己を襲う襲撃者の正体は不明。
しかし、ウィリアムの瞳孔は瞬時に猫科動物の如く肥大化し、網膜の視神経を十全に刺激。闇に包まれた周囲を可視化せしめる。
「なに……?」
そして、ウィリアムはやや呆けたような声を上げた。
眼の前に広がる、異様な光景。
先程までの長閑な光景とは真逆の、悍ましき異形共の巣窟。
じめりとした地面、鋭角にささくれ立つ岩肌。光源はほとんど無く、不快な洞窟と言える、殺伐とした光景。
そして、今まさに獲物を喰わんと欲する、異形──否、魔物。
しゅうしゅうと威嚇音を発する首の長い蜥蜴。しかし、その体長はただの蜥蜴に非ず。
ウィリアムの数倍──凡そ
「シャアアアアアアッッ!!」
「くぅッ!?」
首が伸び来たる!
そう認識すると同時に、ウィリアムは脚部に闘気を込め、魔物の攻撃から逃れんと後方へと跳躍する。
「ぐぅッ!?」
不完全な見切り。幼い虎は魔物の攻撃を躱しきれず、腹部に鋭利な切創を負う。
行住坐臥、常に戦場の心得を持つ剣術者であったウィリアム。
しかし、若草と清流に彩られたブエナ村での生活は、虎の戦闘本能を些か鈍らせるに十分な程、ぬるま湯の如き暖かい綿であり。それに包まれていた直後、このような修羅場に遭遇しては、虎が持つ本来のポテンシャルを発揮出来ぬとしても致し方ないであろう。
「ッ!!」
故に、この場に於いてウィリアムが取るべき策はただ一つ。
脱兎の如く逃げ出すのみである。
「──ッッ!!」
呼吸すらも忘れ、全力で疾走するウィリアム。
足場の悪い洞窟内。時折四足になって走る必要があった。その様はまさしく猫──否、小さき虎の如き有様。
成体の虎の最大戦速は時速約60km。生存本能を全開にしたウィリアムも、それと同等の速度が出せ、魔物はどんどん引き離されていった。
同時に、走りながら必死になって身を隠す場所を探す。
「ッ!?」
そして、岩盤の亀裂を発見せしめると、即座にそこへ飛び込む。
ウィリアムは己の小さい体躯を、岩盤の亀裂へと押し込む。
その後、静かに息を整えると、まるで即身仏の如く“気”の一切を消した。
「シュー……」
岩盤の近くを先程の魔物が通るのを、肌で感じ取るウィリアム。
威嚇音を鳴らすそれは、しばらくの間見失った“獲物”を探すべく、周囲を徘徊する。
「シュウ……」
だが、やがて諦めたのか、魔物は不機嫌そうな音を漏らし、その場から去っていった。
「……」
ウィリアムはその後半刻程、気配断ちを継続する。
周囲の安全を完全に確認するまで、幼虎は全身全霊をかけて警戒を続けた。
(……こは何事ぞ)
変わらず岩盤の隙間に身を潜めながら、ウィリアムは突として発生したこの異常事態について思考を巡らす。
あの穏やかなブエナ村から、瞬時にして異形蠢く洞窟内に“転移”をする。そして、蠢く魔物のレベルは、ブエナ村近郊で出現する魔物とは比べ物にならぬ程。
もし魔物のレベルがブエナ村近郊レベルであったのなら、初撃を容易く躱し、即座に反撃の虎拳を叩き込み、その脳髄をひしゃげさせていただろうに。
しかし、対峙したあの蜥蜴の如き魔物は、その程度で絶命するようなものとはとても思えなかった。
(何かしらの超常現象が働き、ブエナ村ではないどこかに転移せしめたというのか……)
己の置かれた状況についてそう思考するウィリアム。
魔術や闘気という異能が蔓延るこの異世界。何が起こっても不思議ではない。
だが、それにつけても、これはあまりにも……
(……シルフィエット殿)
ふと、先程まで共にいたルーデウスの幼馴染、シルフィエットの姿が浮かぶ。
もし、シルフィエットもこの場所に転移していたのなら。
(不憫)
転移直後にあのような魔物にかち合わせたら、シルフィエットの即死は疑いようもない。
守るべき対象の生存が絶望視されるこの状況。
しかし、今の己と同じように、運良く身を隠せる場所を見つけられたのかもしれない。
「……」
そのような可能性を見出したウィリアムは、そろりと亀裂から身を出す。
相変わらず暗い洞窟内であったが、野生動物の如き警戒心をもって周囲を索敵。ひとまずの安全を確認する。
(父上……母上……)
忍び足にて洞窟内を進むウィリアム。
シルフィエットの他に、脳裏に父母の姿が浮かぶも、これは安息を求めての逃避に非ず。
(リーリャ……ノルン……アイシャ……!)
慈しい家族達もまた、このような“地獄”に叩き込まれてしまったのではないか。
生き延びている可能性は限りなく低い。S級冒険者として慣らした両親でさえ、この鉄火場を無事に切り抜けられるとは思えない。
そして、己がそこへ駆けつけたとしても、状況は大して良化するとも思えない。
しかし。
(待っておれ……!)
探さずにはいられぬのだ。
己の“人生”に慈しみを与えてくれた、ブエナ村の人々は。
こうして、ウィリアムは唯一人、洞窟内を彷徨う事となる。
そこは、天大陸迷宮“地獄”。
六面世界人の世界にある、やんぬるかなの地である。
「……」
転移してから二日が経過した。
跋扈する魔物をやり過ごしながら、家族を求め彷徨うウィリアム。
「フー……」
ウィリアムは周囲に魔物の姿が無いのを見留めると、大きく深呼吸をした後、そのまま眼を瞑り脱力する。
「……ッ」
しばしの後、覚醒。
僅か四十秒程の眠りではあったが、幼虎の肉体は熟睡した後のように全身がスキッ! としていた。
訓練された剣術者は、僅かな休息でも身体の回復を可能としている。
しかし言い換えれば、この地獄ではこのような休息しか取れないのだ。
迂闊に長時間睡眠を取ってしまえば、徘徊する魔物に生命を奪われるのは必然といえた。
「クッ……」
そろりと歩みを進めるウィリアムだったが、猛烈な渇きを覚え、喉奥をかすれさせる。
謎の転移から既に二日。
この間、ウィリアムは一切の食事、水分補給を行っていない。
もちろん、行えないともいえた。
出会う魔物の体液を啜ろうにも、己より強大な存在をいかに捕食すれば良いのだ。
この地獄の中、ウィリアムは己が食物連鎖の底辺に位置しているのを、この三日間で自覚していた。
「……ッ」
忍び足にて進むウィリアムは、くらりと立ち眩みを覚え、壁面に寄り掛かる。
人間の肉体を構成する水分量は凡そ60%。内、3%から5%程が失われれば、喉の渇きはもちろん、身体に様々な不調が現れる。
そして、8%から10%が失われれば、身体同様、痙攣などの深刻な症状が現れ、やがて死亡に至る。
いわゆる脱水症状と呼ばれるこの重篤な状態は、一切の水分補給を行っていなければ、凡そ三日で人体を死に至らしめた。
ウィリアムは魔物との戦闘を避ける為、神経を過敏に尖らせ、また休息もほとんど取らず行動を続けている。
迷宮内は不快な湿度、温度に包まれており、何もしなくても身体は水分を失っていく。
いかに闘気で身体を頑強に保っていても、補給がなければいずれ野垂れ死にするのは確実といえた。
(ああ……)
己はここで死ぬのか。
とうとう座り込んでしまったウィリアムは、そう諦観の念を抱いていた。
(……否)
しかし、幼虎の執念にも似た凄まじい激情が、身体の内々より湧き上がった。
このような場所で、魔物に喰い殺されるような無残な死に方。剣術者として、そして
ならば、精一杯抗って、そして華々しく死のう。
己を喰い殺そうとする魔物を、せめて一体は道連れにしてくれん。
このような極限状態に陥った人間は、得てして“利己的”な思考に陥りがちである。
もはやブエナ村の人々の事は、ウィリアムにとってどうでも良く。
ただ、己の“死に様”に、その全精力を傾けようとしていた。
「ギチ……ギチ……」
「……?」
ふと眼を向けると、いつのまにか巨大な芋虫が、ウィリアムへむけ醜悪な顔貌を向けていた。
カチカチと顎を慣らし、粘液を分泌させながら、腹脚を蠢かせウィリアムへ近付く。巨大な蛾の幼虫にも似たそれは、怖気の走る程の不快感をウィリアムへ与えていた。
魔物の接近を許してしまった。
しかし、ウィリアムは不敵な嗤いを一つ。
「くふふ……」
どうやら“地獄”の道連れは決まったようだ。
そう思ったウィリアム。
思った後は、己に残された唯一の武器──五体の武器を用い、果敢に芋虫へ吶喊した。
「捨ッ!!」
「ギッ!!??」
なけなしの闘気を込めた虎拳。
芋虫の顔面を強く打つ。
捕食可能な獲物の急な反撃に、芋虫は一瞬驚愕めいた鳴き声を上げた。
「ギチチッ!!」
「がぁ!?」
が、芋虫の顔面は、厚い装甲が施されたかのように硬く。頭部をへこます事は出来ても、致命に至るダメージは与えられなかった。
芋虫は円筒形の体躯をしならせ、ウィリアムへ体当たりをかます。
「ぐぁ……ッ!」
腹部へ強烈な打撃を受けたウィリアムは、血反吐を撒き散らせながら地を這う。
決死の覚悟で放った一撃が、全く通用しない現実。
消耗した肉体に過大なダメージが加えられ、さらに抗う術さえ封じられた現状。
「おのれ……おのれ……ッ!」
もはや恨みが籠もった双眸を芋虫へ向けるしかないウィリアム。
武士らしく死ぬ事も叶わぬのか。
芋虫はあくまで己の生存本能に従って、ウィリアムを捕食対象としてしか捉えていない。
その残酷なまでの現実に、ウィリアムは無念と増悪の念を、その幼い肉体から発し続けていた。
「ギチ……ギチ……」
再度、ゆるりとウィリアムへ近付く芋虫。
予想外の反撃を受けても尚、空腹を満たさんと幼虎の肉体へ顎を突き立てようとした。
死──
ウィリアムの柔らかい腹腔に、芋虫の牙が刺さる。
ずぶりと、数センチ。幼虎の肉体に黒い顎が埋没する。
もう少しで臓器へと達するその醜悪な捕食を、ウィリアムは憎悪が籠もった眼差して見つめていた。
「ギチィッ!?」
憎悪の視線を向けていたウィリアム。
しかし、芋虫は突如その肉体を震えさせ、苦悶の叫び声のような鳴き声を一つ上げた。
「なっ……!?」
信じられぬものを見た。
芋虫の体躯に、突として突き刺さる一本の剣。
黄土色の体液を撒き散らしながらのたうち回る芋虫を、ウィリアムはしばし呆然として見つめる。
「──ッ!」
しかし、数瞬してから、ウィリアムは最後の力を振り絞る。
芋虫に突き刺さる剣を掴み、それを引き抜く。
その掴みは、猫科動物の如く。
そして、掴んだ剣柄は、ウィリアムの手に予想以上に馴染んていた。
「ギチ──ッ!!」
三度、芋虫がウィリアムへ向け顎を向けた時。
芋虫は己の頭部が斬り落とされるのを知覚する。
「ギ……」
そのまま絶命し果てる芋虫。
斬り落とされた胴部から、どろりとした体液がとめどなく溢れていた。
「ぐ……ぅぅ……!」
剣を杖のようにして身体を支えるウィリアム。
鞘無き抜身の刀身は、芋虫の体液を吸い、艶めかしい程濡れていた。
「……」
ウィリアムは何故、突然剣が現出し、己の窮地を救ったのか。
その思考を巡らす前に、生物としての本能に従い、絶命した芋虫の胴体へ近付く。
「じゅる……」
黄土色の体液をひとつ啜るウィリアム。
直ぐに貪りたい衝動に囚われるも、嚥下せずそのまま口中に留める。
「……じゅるッ」
舌に刺激等が無い事を確かめ、“可食”であると判断したウィリアム。やがて芋虫の体液を勢い良く啜り始めた。
じゅる、じゅる、ぼり、ぼり。
二日ぶりの水分、栄養補給は、ウィリアムの肉体に活力を与えていた。
「……」
人心地がついたウィリアムは、ようやく己が手にした剣を、まじまじと見やる。
そして、その剣──刀の正体に気付いた。
「七丁念仏……」
前世、安藤直次より預かった宝刀──否、妖刀。
それが何故、ここにあるのか。
不可思議な現象に、幼虎は戸惑いの念を露わにする。
「……」
しかし、何故という疑問は直ぐに霧散した。
そもそも、このような転移──いや、己がこの世界に転生した理由すらも分からぬのだ。
何が起こっても、ウィリアムにとって現実として受け入れるしかない。
ともあれ、戦える術を手に入れたのだ。もうしばらく“生きて良い”という許可を得たのだ。
ウィリアムはそう想うと、再び魔物に見つからぬ箇所を探し、芋虫との闘いで消耗した肉体の回復に努めた。
ウィリアムと七丁念仏の“再会”は、このような淡白なものであり。
極限環境下であっては、感動的な情感は望むべくもないのだ。
転移して二週間が過ぎた。
七丁念仏を携え、徘徊する魔物……狩りやすい獲物を見定め、斬り伏せ喰らう。
妖刀を手にした状況でも、ウィリアムより強い魔物はそれこそ星の数程生息しており、食物連鎖の底辺から少しばかり逃れられただけにすぎない。
故に、油断無く、“捕食者”から逃れ、“被捕食者”を狩る。
そして、この頃には、ウィリアムは家族達の生存を……再会を諦めていた。
生きている人間──否、人間の死骸すら見つからぬ現状。
出会う生き物は、皆凶悪な魔物ばかり。
この地獄で、己はただ一人なのだと。
転移して一ヶ月が過ぎた。
激しい生存行動により、ウィリアムが纏っていた衣服は、それこそボロ布といっても差し支えないほど消耗していた。
腰部のみを隠し、垢まみれの裸体をさらけ出しながら迷宮内を彷徨うウィリアム。
一向にこの地獄の出口が見つからぬのは、闇雲に彷徨っているせいもあるが、出現する魔物が強力ゆえに、意図した道筋を進めないという現状もあった。
妖刀を携えし幼虎は、本日も闇の中を彷徨い続けていた。
転移して半年が過ぎた。
狩れる魔物がいない日々が続き、魔物が残した糞尿から栄養水分を補給するウィリアムの現状は、もはや幼虎に正常な思考を保つのを難しくしており。
そして、母ゼニス譲りの美しい金髪は、壮絶な日々──過剰なストレスからか色素が抜け落ち、老人のような白髪に変わり果てていた。
「……」
色の無い瞳で、地に残された魔物の糞便を啜るウィリアム。
転移してからまともな休息は取れていない。短眠を繰り返し、移動し、魔物と戦闘を続ける。
この地獄は、一体いつになったら終わるのだろうか。
「くふ」
いや、元から己は、とっくに地獄に落ちていたのではないだろうか。
伊良子清玄との秘剣の応酬により、己は死んだ。
そして、この世界に転生したのではなく──地獄に落ちていたのではないかと。
「くふ、くふふ……」
ブエナ村での生活は、地獄に堕ちる前の束の間の安らぎ。
六道輪廻の途上、仏の気まぐれが起こした、幻想ともいえる出来事であったのでは。
僅かに残った思考にて、そのような結論に至ったウィリアム。
ここは修羅道、いや畜生道か。
三悪道の入り口に過ぎぬのなら、この地獄に終わりはまだ無い。
「くふふふふふ……」
狂気に包まれたウィリアムは、糞便を咀嚼しながら不気味な嗤いを浮かべ続けていた。
やんぬるかなの地に於いて、ウィリアムは人としての思考──そして、慈しみの心を失っていた。
その日、ウィリアムは久方ぶりに熟睡をした。
ここ数日、全く魔物に出会わなかった事、そして地獄の中で“死”を恐れる馬鹿馬鹿しさに気付いたのもあり、七丁念仏を抱えながら、迷宮の片隅にてその身を猫のように丸めていた。
擦り切れたウィリアムの肉体は、危険な迷宮内であるにもかかわらず、その身を深い眠りへと誘っていた。
やあ、初めましてかな。こんにちは、ウィリアム君
熟睡したウィリアムの夢に、神を名乗る詐欺師が現出した。